2019年2月28日木曜日

 金さんはトランプを甘く見ていたようだね。多分トランプの方は核放棄に応じれば、朝鮮戦争の終結、在韓米軍の撤収から市場開放、高度成長へのロケットスタートまである程度のシナリオを描いていただろうに、残念だ。
 日本は戦争に負けたとき平和憲法を受け入れ、防衛を全部アメリカに投げて、経済だけに専念してあの高度成長を成し遂げた。今の北朝鮮に必要なのもそれだと思う。
 日本は黒船が来た時も速やかに開国を決断したし、敗戦の時も速やかに連合国の要求を受け入れた。それが今の日本の繁栄を作ってきた。過去に囚われない切り替えの早さが日本の美徳だ。お隣さんにはそれが欠けているように思える。
 日本人は過去を忘れたのではない。過去を別の文脈に取り成すのが上手いだけだ。だからほとんど一夜にして急転換しているように見えても、過去を捨ててないからそれほどの混乱はない。
 こうした国民性は過去に連歌や俳諧によって鍛えられたからかもしれない。
 それでは「此梅に」の巻の続き。挙句まで。

 九十五句目。

   天狗だふしや人のたふれや
 ねのよはき杉の大木大問屋      桃青

 天狗倒しのように倒れたのは大問屋だった。巨大な杉の大木も根が弱ければ倒れるように、大問屋も借金経営で自転車操業を繰り返してたのか。
 芭蕉はシュールネタも好きだがこういう経済ネタもこの頃から好きだったようだ。経済ネタは晩年の軽みの風にも受け継がれている。
 九十六句目。

   ねのよはき杉の大木大問屋
 跡をひかへて糸荷より来る      信章

 ここでは大問屋はまだ倒産してなく、次々と糸荷廻船で輸入の生糸が運ばれてくる。
 「糸荷廻船」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「近世,大坂または堺の船で,外国から長崎に輸入された糸荷(生糸)などを上方に運ぶことを幕府から許された特権的な船。」

とある。
 九十七句目。

   跡をひかへて糸荷より来る
 秤にて日本の知恵やかけぬらん    桃青

 「日本の知恵で秤にてかけぬらん」の倒置。「秤にかける」は損と徳とを天秤にかけるいう意味がある。次々に輸入生糸が入ってくるのは、それが儲かるからだ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「日本の知恵をはかれとの宣旨」という謡曲『白楽天』の一節を引用している。延宝の頃はまだ都市での共通語が十分確立されてなかったのか、雅語ではない言葉を使用する時には謡曲の言葉を引いてくることが多い。
 九十八句目。

   秤にて日本の知恵やかけぬらん
 霰の玉をつらぬかれけり       信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「蟻通明神の故事による。」とある。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「大阪府泉佐野市長滝にある神社。旧郷社。正称は蟻通神社。祭神は大名持命(おおなもちのみこと)。唐の国から日本人の才を試そうと、幾重にも曲がった玉に緒を通すようにとの難題が出された時、老人の指図に従い、蟻に糸を結びつけて通し、解決した。以後、それまであった棄老(きろう)の習慣をやめ、この老人を神としてまつったと「枕草子」にある。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、「『霰の玉』に算盤をふまえる」とあるように、ここでは七曲の玉ではなく、算盤で日本人の知恵を測る。
 九十九句目。

   霰の玉をつらぬかれけり
 花にわりご麓の里は十団子      桃青

 「わりご」は「破子」と書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「破籠とも書く。食物を入れて携行する容器。ヒノキの白木の薄板を折り,円形,四角,扇形などにつくり,中に仕切をつけ蓋をする。平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した。」

とある。
 「花より団子」というくらいで、花見に弁当は付き物。
 「麓の里」は東海道の丸子宿から宇津の谷に入るところの集落で、「十団子(とおだご)」は中世から売られていた名物の団子。ウィキペディアには「江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものと知れる。」とある。

 十団子も小粒になりぬ秋の風     許六

の句は、これよりかなり後の元禄五年になる。
 挙句。

   花にわりご麓の里は十団子
 日坂こゆれば峰のさわらび      信章

 日坂宿は東海道を下るときは小夜の中山の出口になる。十団子で有名な宇津の谷から岡部、藤枝、島田を経て、大井川を渡り、金谷、菊川ときて小夜の中山になる。
 「さわらび」といえば、

 石走る垂水のうえのさわらびの
     萌え出づる春になりにけるかも
                 志貴皇子

の歌がある。
 ただ、ここでは日坂宿の名物の蕨餅のことか。
 ウィキペディアの「わらびもち」の所には、

 「東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。」

とある。

2019年2月27日水曜日

 米朝首脳会談が始まった。マスコミの予測は悲観的で、あたかも米中最終戦争に導こうとしているみたいだが、言霊ということもあるし、どこまでも楽観主義者でいたい。
 願わくば、朝鮮戦争の終結宣言が為され、米朝平和不可侵条約や在韓米軍の撤収から市場の開放、そして北朝鮮が高度成長へ向けてロケットスタートと、とんとん拍子に行ってほしいな。これってネトウヨの妄想かな?でもみんながそう思えば‥‥。
 とにかく、あの国がなくならないなら、目一杯良い国になってもらうほかない。
 それでは世間話はこれくらいにして「此梅に」の巻の続き。

 八十九句目。

   わけ入部屋は小野の細みち
 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん    桃青

 美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。よくある話だ。
 九十句目。

   忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん
 あぶらにあげしねづなきの声     信章

 「鼠鳴き(ねずなき)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「ねずみの鳴き声をまねて口を鳴らすこと。人を呼んだり子供をあやしたり、遊女が客を呼び入れたりするときにする。「ねずみなき」とも。」

とある。
 遊女でなく狐だったとなれば、鼠鳴きの声も油で揚げてあったか。
 九十一句目。

   あぶらにあげしねづなきの声
 唐人も夕の月にうかれ出て      桃青

 「唐人」は中国人だけでなく外国人一般をさす言葉として用いられ、西洋人も含まれていた。
 油で揚げた「てんぷら」は江戸時代に急速に普及していったが、西洋(南蛮)が起源ということも意識されていた。
 「唐人」なら月見でてんぷらを食うかもしれない、というあくまで空想と思われる。
 九十二句目。

   唐人も夕の月にうかれ出て
 古文真宝気のつまる秋        信章

 『古文真宝』はウィキペディアに「漢代から宋代までの古詩や文辞を収めた書物。宋末か元初の時期に成立したとされる。」とある。
 同じくウィキペディアによれば、

 「日本には室町時代のはじめごろに伝来した。五山文学で著名な学僧たちの間に広まり、木版で刊行された(五山版)。
 江戸時代には数多くの刊本が出されて広く読まれ、注釈書も多く著された。井原西鶴や松尾芭蕉も『古文真宝』に言及しており、簡便な教養書として広く読まれていたことが窺える。」

とある。ただ、芭蕉がどこで『古文真宝』に言及していたか思いだせるものがなく、勉強不足で申し訳ない。
 ここでの唐人は中国人で、月見の座に中国の人がいて難しい漢詩を持ち出されても、日本の一般庶民としては気が詰まる。
 さて、「此梅に」の巻もそろそろ終わりで名残の裏に入る。
 九十三句目。

   古文真宝気のつまる秋
 酒の露たはけ起て白雲飛ぶ      桃青

 「秋風起兮白雲飛」は漢の武帝の「秋風辞」。これをパロディにして、酒に酔ってバカやって気の詰まる秋の白雲も吹っ飛んだとする。
 九十四句目。

   酒の露たはけ起て白雲飛ぶ
 天狗だふしや人のたふれや      信章

 「天狗倒し」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「深山で、突然すさまじい原因不明の大音響が起こり、行ってみるとなんの形跡もないこと。また、原因不明で、突然すさまじい音がして倒れそうもない大きな建物が倒壊すること。」

とある。
 天狗の魔法だろうか。いや、実は酔っ払いが暴れただけだった。去年の渋谷のハロウィンでも軽トラックが倒された。

2019年2月26日火曜日

 今まで読んだ俳諧の巻はまだそれほど多くないが、一応貞門時代の「野は雪に」の巻から、最後の「白菊の」の巻まで見てきた。
 ただ、その中でもこの「此梅に」の巻は異質な感じがする。
 まず、物だけで付けていくせいか、言葉の調子はいいけど、意味がわかりにくい句が多い。
 おそらく大矢数とまではいかないものの、蕉門のどの俳諧にもないほど早いペースで詠まれたからだと思う。
 『江戸両吟集』のこの巻と「梅の風」の二つの巻はおそらく同じ日に立て続けに詠まれたのではないかと思う。それとひょっとしたら天満宮でのライブだったのかもしれない。
 芭蕉(当時の桃青)は宗因流に心酔し、宗因のように詠みたいという思いがそれだけ強かったのだろう。
 ただ、速吟だけにかえって発想の違いがはっきり出てしまう。芭蕉もじっくりと吟ずれば、人間の深い情を詠むこともできたのだろうけど、咄嗟に出てくるのはむしろシュールなまでの奇抜な言葉の連想だった。
 この実験的な速吟を終えて、芭蕉は宗因と自分との才能の違いに気付いたのかもしれない。これ以降『俳諧次韻』まで、談林の主流が人情句に走りがちだったのに対し、乾いたシュールギャグをより先鋭的に展開してゆくことになる。
 宗因のようにと思って巻いた二百句だったが、詠み終えてみると宗因はどこへいっちゃったのか。この間亡くなった橋本治氏の言葉を借りるなら、芭蕉も「水分に乏しかった」のかもしれない。

 八十三句目。

   落させられし宮のうち疵
 階の九つ目より八目より       桃青

 前句の「宮」を宮様として「落させられし‥うち疵」を階段から突き落とされたとした。何があったのかわからないが、深く考えないで、ただ転げた姿を笑えばいいのだろう。
 八十四句目。

   階の九つ目より八目より
 湯立の釜に置合あり         信章

 「湯立(ゆだて)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「熱湯によって神意を占ったり,清めをしたりする神事。〈ゆたち〉とも。神社などの庭で大釜に湯をわかし,巫女(みこ)や禰宜(ねぎ)がササの葉で湯をまきちらし,自身や参詣者の頭上にふりかける。この場合,巫女や禰宜が神がかりになり,託宣をすることもある。湯立神事に伴う神楽(かぐら)を湯立神楽という。」

とある。
 「置合(おきあはせ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 適当にとりあわせること。また、その対象。配合。とりあわせ。
※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)六「置物には業平のかかれし御成敗式目、中将姫の庭訓往来など也。置合せには、馬の角、牛の玉、いし亀の毛にて結(ゆひ)たる筆」
 ② 客などと同席して相手をしたり食事を相伴したりすること。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。
 湯立の釜の取り合わせといったら神楽だろうか。拝殿の階段の九つ目か八つ目のところから神楽を舞う人が現れるということか、よくわからない。
 八十五句目。

   湯立の釜に置合あり
 既に神にじりあがらせ給ひけり    桃青

 湯立ての釜を茶の湯を沸かす釜として、神様をにじり口から中に招き入れた。
 八十六句目。

   既に神にじりあがらせ給ひけり
 白髭殿は御年よられて        信章

 「白髭殿」は白髭神社の際神、比良神(白鬚明神)か。名前からして白髭の老人を思わせる。白髭神社は後に猿田彦命を際神とするようになり、今日に至っている。
 八十七句目。

   白髭殿は御年よられて
 つくづくと向にたてる鏡山      桃青

 白髭神社は琵琶湖西岸の近江高島にある。鏡山はそこから琵琶湖を隔てた南側の近江八幡の方にある。古今集に、

 鏡山いざ立ち寄りて見てゆかん
     年経ぬる身は老いやしぬると
                 大伴黒主

の歌があり、それを踏まえて、老いた白髭明神も鏡山を見ているとする。
 八十八句目。

   つくづくと向にたてる鏡山
 わけ入部屋は小野の細みち      信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、中世の御伽草子『小町草子』の一節、

 「折ふし小野の細道かき分て草のとぼそをうちならし、いにしへの小野小町はこれにわたらせ給ふかと」

を引用している。

2019年2月25日月曜日

 昨日は河津まで河津桜を見に行った。満開の桜に露店が並び、縁日のような賑わいだった。やはり花には脳内快楽物質を分泌させる何かがあるのだろう。そこにいるだけでハイになれる。
 そういえば、偉大なる日本人ドナルド・キーンさんがお亡くなりになった。
 まあ、結局日本で生まれ育った人がいくらこの日本の古典が素晴らしいと言ってもね、「それは日本だけの孤立した論理で世界には通用しない」と言われちゃうからね。だから西洋で生まれ育った人に論評してもらう必要があるんだよ。彼が日本の古典研究の「第一人者」だと言うのはそういうことだ。
 西洋人が評価して初めて日本人も日本の古典を評価できるようになる。明治以降、今に至っても日本はそういう国だ。だから連歌や俳諧も早く誰か西洋人が評価してくれないかな。
 キーンさんの後継者はやっぱロバキャンさんかな?よろしく頼んま。
 それでは「此梅に」の巻の続き。日本だけの孤立した論理でお送りします。

 七十七句目。

   浪に芦垣つかまつつたり
 時は花入江の雁の中帰り       信章

 花の定座なのでまず「時は花」とし、「浪に芦垣」なので「入江」を付ける。そこに景物として雁を登場させるが、単に「帰る雁」ではベタなので「帰る」に掛けて「宙返り」とする。
 実際に雁が宙返りをするのかどうかはよくわからない。
 七十八句目。

   時は花入江の雁の中帰り
 やはら一流松に藤まき        信章

 雁が宙返りしたかと思ったら、宙返りしていたのは自分だった。
 「やはら」といえば柔らの道だが、今の柔道は明治の頃に嘉納治五郎によって確立されたもので、それ以前は「やわら」と呼ばれることが多かったようだ。
 ウィキペディアの「柔術」のところには、

 「戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力業ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「当時流行の居合抜柔術の名人藤巻嘉信をふまえる。」とある。ネットで藤巻嘉信を調べると居合抜きの大道芸人だったようだ。藤巻嘉真という別の大道芸人もいたようだから、「藤巻」を名乗る大道芸人は当時たくさんいたのか。そうなると、この場合の柔術も武道としての柔術というよりは大道芸だったのかもしれない。派手な宙返りをする柔術の芸もあったのだろう。
 和歌では藤は松に絡むものとされている。

 夏にこそ咲きかかりけれ藤の花
     松にとのみも思ひけるかな
               源重之(拾遺和歌集)

 名残表。
 七十九句目。

   やはら一流松に藤まき
 いでさらば魔法に春をとめて見よ   桃青

 「魔」は「魔羅」、サンスクリット語のMāraから来たという。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、「 江戸時代、多く、天狗をさしていう。」とあるから、前句の柔らの達人を天狗としたか。
 藤は春の終わりから初夏にかけての花で、天狗に本当に魔法が使えるなら春を止めて見よとする。
 八十句目。

   いでさらば魔法に春をとめて見よ
 七リンひびく入相のかね       信章

 七輪は七厘とも書く。珪藻土でできた小型軽量のコンロ。正徳二年(一七一二年)の『和漢三才図会』には、「薬を煎り、酒を暖め、炭の価僅か一分に至らず、因って七輪と称す。」とあるという。
 七輪は魔法薬を作るのにも使われたか。遅日といえども春の日はやがて暮れてゆき、入相の鐘が鳴る。沈む日を止めることは果してできるのか。
 八十一句目。

   七リンひびく入相のかね
 薬鍋三井の古寺汲あげて       桃青

 滋賀の三井寺の鐘には、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したという伝説がある。(三井寺のホームページより)
 前句の入相の鐘は琵琶湖より汲み上げた鐘で、その金を薬鍋の中に入れて七輪にかければ七輪から鐘の音が響く。シュールネタ。
 八十二句目。

   薬鍋三井の古寺汲あげて
 落させられし宮のうち疵       信章

 三井寺のホームページによれば、

 「その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。」

とある。
 前句をそのまんまの意味で古寺を汲み上げてとし、その古寺を落としたとする。

2019年2月23日土曜日

 トランスジェンダーの性別のことが世間ではいろいろ問題になっているようだが、これは持論だが、女として生まれて男になる場合は性転換手術も必要とせず自己申告で自由に認めてもいいが、男として生まれたものが女になる場合は最低限でも男性としての機能を失っていることを前提とすべきだと思う。これは差別ではなく男女の非対称性によるものだ。
 女はまず妊娠し出産することが可能だという点で男と決定的に異なる。女性がレイプされれば妊娠や出産の負担が生じ、医療水準の低かった時代では出産はしばしば死に結びついた。
 また長い進化の中で男はばら撒く性、女は選ぶ性へと特化している。もちろん個人差はあるが、一般的に男は手当たり次第にいろんな女に手を出したがり、女は言い寄る男達を厳しく選別する傾向にある。そのため、レイプという性的選択権の剥奪は女性には致命的だが男性はそれほどダメージを受けない。いわゆる逆レイプで男が蒙る不利益は、もっぱら浮気を疑われることだ。
 トランスジェンダーでもこの非対称性が問題なのは、人間は環境によって変わることがあるからだ。ノンケの男でも軍隊や刑務所のような男ばかりの所にいると一時的にホモになることがあるように、心は女とは言っても女性刑務所のような女ばかりの所にいれば女に手を出さないとも限らない。そのとき男性としての機能が残っていたらどうなるかということだ。
 女性の側に立っても、ち○ぼをぶらぶらさせた自称女性が女風呂に入ってきたら、やはり恐怖を感じるだろう。
 まあ、それはともかくとして「此梅に」の巻の続き。
 七十一句目。

   松ふく風や風呂屋ものなる
 君ここにもみの二布の下紅葉     信章

 「二布(ふたの)」はコトバンクの「世界大百科事典内の二布の言及」に、

 「江戸時代の女性が混浴時に用いた膝上の長さの木綿製の湯巻は,横布二幅使いのため二布(ふたの)とも呼ばれ,女房言葉で湯文字(ゆもじ)ともいった。庶民の間では肌着と湯巻の厳密な区別はなかったと考えられる。」

とある。特に若い女性は赤い二布を身につけていた。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「風にちらつくもみの二布を下紅葉といった。」とある。後の、

 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし   去来

の句を思わせる。
 松と下紅葉の付け合いは、『拾遺和歌集』に、

 下紅葉するをば知らで松の木の
     上の緑を頼みけるかな
               よみ人しらず

の歌によるものか。
 七十二句目。

   君ここにもみの二布の下紅葉
 契りし秋は産妻なりけり       桃青

 「産妻(うぶめ)」は「産女」とも書く。ウィキペディアには、

 「産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する。
 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある。」

とある。「もみの二布」はこの場合は血染めの腰巻か。
 七十三句目。

   契りし秋は産妻なりけり
 月すごく草履のはなを中絶て     信章

 「すごし」は冷ややかな、恐ろしげなという意味。本来はネガティブな言葉だが、それを逆に良い意味に転換する例は、古代の「いみじ」、現代の「やばい」などしばしばある。
 「月の神秘 暦の秘密」というサイトに、

 「昔、亡くなった人を埋葬する時、墓地の土を踏んだ草履には死霊がつくと考えられ、その場で草履を脱ぎ捨てる習慣がありました。その時、死霊が草履を履いて追ってくるのを恐れ、履けないように鼻緒を切って捨てたのです。」

とあり、他のブログでも似たような話があったので、昔からそういう習慣があったのかもしれない。
 本来なら目出度いはずの名月も、母子共に亡くなり、それを埋葬した後の月であれば寒々として恐ろしげだ。今にも土の中から産女が出てきて追いかけてきそうだ。
 七十四句目。

   月すごく草履のはなを中絶て
 河内の国へかよふ飛石        桃青

 「河内の国へかよふ」は『伊勢物語』第二十三段の「河内の国、高安の郡に、いきかよふ所出できにけり」を連想させる。
 「筒井つの」の歌で誓った幼馴染の相手がいるのに、あえて河内の国まで通う男は、ドラクエ5的にはビアンカからフローラに乗り換えようかという所か。
 この句は一見そんな物語とあまり関係なさそうに、飛び石を飛んだ拍子に鼻緒が切れたとする。鼻緒が切れるのが縁起悪いのは、先に述べた墓地から帰るときに鼻緒を切るのと関係があるのだろう。鼻緒が切れて、結局河内の国の女はあきらめるという所につながる。この男はビアンカ派だったようだ。
 七十五句目。

   河内の国へかよふ飛石
 四畳半くづやの里も浦ちかく     信章

 「葛屋(くずや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 茅葺や藁葺の屋根。草葺の屋根。また、その家。茅屋や藁屋。くずやぶき。
 ※為尹千首(1415)春「絶てすむ心よいかにかやが軒かかる葛屋のよはの春さめ」

とある。
 「飛石」は茶室の入口にも用いられる。「四畳半くづや」は藁葺き屋根の質素な茶室を思わせる。「浦ちかく」というのは堺のことか。大坂夏の陣で焼けた堺は復興の途中だった。
 七十六句目。

   四畳半くづやの里も浦ちかく
 浪に芦垣つかまつつたり       桃青

 海辺の四畳半茅葺屋根の粗末な家に住む隠遁者を哀れんでか、波除に芦の垣根をしてあげた。

2019年2月22日金曜日

 いつのまにかあちこちで河津桜が満開になっている。仕事で通り過ぎるだけでなく、じっくり見に行きたいな。
 それでは「此梅に」の巻の続き。

 三裏に入る。
 六十五句目。

   多くは傷寒萩の上風
 一葉づつ柳の髪やはげぬらん     信章

 コトバンクの「脱毛症」のところの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、症候性脱毛症として、

 「腸チフスや肺炎などの熱性伝染病、結核、らい、梅毒などの慢性感染症、エリテマトーデス、皮膚筋炎、強皮症、糖尿病、内分泌疾患などの全身病、放射線照射、局所の外傷、熱傷、真菌や細菌感染症、腫瘍(しゅよう)などのほか、抗腫瘍薬などの薬物による脱毛も含まれる。」

とある。「傷寒」で禿げることもある。
 六十六句目。

   一葉づつ柳の髪やはげぬらん
 これも虚空にはいしげじげじ     桃青

 前句を脱毛の比喩ではなく柳の散る情景として、きっと空にゲジゲジがいるのだろうと展開する。昔は「ゲジゲジに舐められると禿げる」という俗説があった。
 六十七句目。

   これも虚空にはいしげじげじ
 判官の身はうき雲のさだめなき    信章

 昔はゲジゲジのことを「梶原」と言ったという。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 ① 梶原景時の故事から、意地悪な人、いやみな人をいう。
 ※雑俳・柳多留‐二(1767)「梶原と火鉢の灰へ書て見せ」
 ② 「げじ(蚰蜒)」の異名。
 ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「長崎よりものぼるまたう人 耳のあか取梶はらではやるらし〈重安〉」
 ※雑俳・削かけ(1713)「そりゃそりゃそりゃ・びしゃもんさまかかぢはらか」
 [補注](二)①は梶原景時が義経を讒言した故事によるが、(二)②には諸説があり、①と同様の理由とも、梶原氏の矢筈紋の見立によるともいう。また、「和漢三才図会‐五四」によれば梶原景時が、讒言を将軍の耳に入れ害をなしたため、人々がゲジゲジにたとえてきらったのでこう呼ぶようになったともいい、「譬喩尽‐二」の「梶原を蚰(げじげじ)といふことは名乗なり景時々々(ゲジゲジ)」などからともいわれる。

とある。「下知下知」から来たという説もある。
 判官(源義経)の身が定めなきというのは、「梶原景時の讒言」によるもので、ウィキペディアには、

 「『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」(大意)と述べており、義経と景時に対立があったことは確かである。
 この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。」

とある。
 六十八句目。

   判官の身はうき雲のさだめなき
 時雨ふり置むかし浄瑠璃       桃青

 浄瑠璃は去年の九月五日の俳話で、『俳諧問答』で許六が「浄瑠璃の情より俳諧を作り」といっていたところで、

 「浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。」

と書いたが、この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。
 それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。
 六十九句目。

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

とある。
 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。
 こういう時代遅れのものと一緒に浄瑠璃を並べたが、許六も案外こういう古臭い浄瑠璃のイメージをそのまま引きずっていて、義太夫や近松を知らなかったのかもしれない。
 七十句目。

   おもくれたらうさいかたばち山端に
 松ふく風や風呂屋ものなる      桃青

 今年の一月十日の俳話で『俳諧問答』に引用された、

 物の時宜も所によりてかハりけり
   難波のあしを伊勢風呂でえた   常矩

の句のところで、「江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。」と書いたが、この「風呂屋もの(風呂屋者)」は湯女の別名だった。江戸にも多少はいたのか、それとも上方から伝え聞いたものか定かでない。
 古びた弄斎・片撥などの小唄に遊女ではなく湯女を出すのが今風か。
 このあたりの展開の仕方は、秋の暮れ→荻の上風→一葉→虚空→浮雲→時雨→山端→松ふく風といった古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに飢饉→傷寒→はげ→ゲジゲジ→判官→浄瑠璃→弄斎・片撥→湯女と当世流行のネタを展開している。
 単純な展開の仕方なので、短時間にたくさんの句を詠むには適したやり方だったのだろう。多分矢数俳諧でもこうした付け方が多用されたのではなかったかと思う。
 この方法で今風の連句を作るなら、こんな感じか。

 内戦に瓦礫ばかりの秋の暮れ
   飢餓の子供に萩の上風
 一葉づつ柳の舟の海を越え
   虚空たなびくリベラルの旗
 あの国はブレクジットの浮雲に
   時雨てゆくはエレキの調べ
 泥臭い演歌シャンソン山の端に
   松吹く風はキャバクラ嬢か

2019年2月21日木曜日

 ようやく今朝、スーパー有明ムーンを見た。
 昨日の五十三句目の所だが、コウモリの耳は洞窟の暗がりでそんなに目立つものではないから、コウモリの飛ぶ姿が三角形に見えるとしたほうがいいのかもしれない。
 それでは「此梅に」の巻の続き。

 五十七句目。

   台所より下女のよびごゑ
 通路の二階はすこし遠けれど     信章

 「通路」は「かよひぢ」で「つうろ」ではない。台所の下女が二階にいる男を呼ぶ。まあ、たいした通い路ではないが、面倒といえば面倒だ。
 下男・下女はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代、一定の年限を決めて主家に住み込み奉公する者のこと。この時代の奉公形式ではもっとも一般的であり、当初この奉公人を下人(げにん)とよんだが、江戸時代後期になると、この呼び名は廃れ、下男・下女とよばれた。徳川幕府は、人身の永代売買は禁止したが、年季を限定しての人身売買形式は問題としなかった。奉公先に対しては保証人をたてて、年決め契約で雇われるのが普通である。男は薪(まき)割り、走り使いなどの雑用に従事し、女は飯炊き、水仕事などの下働きをした。」

とある。中世の下人とは違う。下人はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「平安時代中期から明治頃まで用いられた隷属民の呼び名。平安,鎌倉時代は荘園の武士や名主 (みょうしゅ) に属して家事,耕作,軍事に使役され,相続,売買の対象とされた。室町時代から次第に一戸を構え,自立的経営を行い,隷属から脱却するものも現れてきた。江戸時代は譜代の奉公人のみならず年季奉公人のことをも下人と呼んだが,やがて下男,下女の名称がこれに代るようになった。」

とある。
 中世の下人であれ江戸時代の下男・下女であれ、主人はその恋愛に関心はなく、ある意味でほったらかしだった。子供が出来れば、それはその家の財産になるというだけのことだった。かえって武家の若い男女より自由だったかもしれない。
 五十八句目。

   通路の二階はすこし遠けれど
 かしこは揚屋高砂の松        桃青

 「揚屋」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「遊郭で太夫など比較的上級の遊女を置屋 (遊女をかかえ,養っている家) から招いて遊興させる店のこと。置屋と揚屋が区別されるようになったのは江戸時代初頭。江戸では宝暦年間 (18世紀なかば) にすたれた。」

とある。
 高級な遊女ともなると会えるようになるまでのハードルも高い。二階に上がらせてもらえる日は少しどころか果てしなく遠かったりする。ただ、上がることができれば高砂の松も待っているかも。
 高砂の松は普通は夫婦和合の象徴だが、遊郭なら夫婦ではないが和合はある。絵を描く時には二本の松は男女の絡みをイメージして描くものとされている。
 五十九句目。

   かしこは揚屋高砂の松
 とりなりを長柄の橋もつくる也    信章

 「長柄の橋もつくる」は古今集の、

  難波なる長柄の橋もつくるなり
     今はわが身を何にたとへむ
                伊勢

から来ている。難波の長柄の橋も永らえるように作るというが、今の自分に永らえるような喩えは何もない。
 「とりなり」は動作態度のことだがルックスの意味もある。美女は長柄の橋も作り、揚屋は目出度く末永く高砂の松になる。
 六十句目。

   とりなりを長柄の橋もつくる也
 能因法師若衆のとき         桃青

 やはり出ました。芭蕉さんの衆道ネタ。
 藤原清輔の『袋草紙』に、能因法師のエピソードとして、 藤原節信(ふじわらのときのぶ)に能因が長柄の橋を作ったときに出た鉋屑を見せるとたいそう喜ばれ、能因に井手の蛙の干物を見せてくれたという。
 能因がこの鉋屑を手に入れたのはまだ元服前で若衆だった頃ではなかったかと空想を廻らし、あたかも能因法師に修道時代があったかのように言う。まあ、俳諧は上手に嘘をつくことだと言うが。
 実際の能因法師は橘永愷(たちばなのながやす)で、ウィキペディアによれば「初め文章生に補されて肥後進士と号したが、長和2年(1013年)、出家した。」とある。二十五歳にしてようやく出家したので若衆の時代はなかった。
 六十一句目。

   能因法師若衆のとき
 照つけて色の黒さや侘つらん     信章

 能因法師といえば、十三世紀に成立した『古今著聞集』に、

 「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、 『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、『みちのくにのかたへ修行のついでによみたり』とぞ披露し侍りける。」(引用はウィキペディアから)

とある。この頃の本説付けはほとんどそのまんまで、後のように少し変えるというわけではなかった。
 六十二句目。

   照つけて色の黒さや侘つらん
 わたもちのみいら眼前の月      桃青

 「わた」は腸(はらわた)のこと。干からびきっていない臓器の健在なミイラは見た目はゾンビに近いかもしれない。
 ただ、日本の物の怪や妖怪は心を持っているもので、月を見ては我が身の色の黒さに悩む。
 六十三句目。

   わたもちのみいら眼前の月
 飢饉年よはりはてぬる秋の暮     信章

 「わたもちのみいら」はここでは比喩で、飢饉でやせ細った人のことに転じる。
 六十四句目。

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮
 多くは傷寒萩の上風         桃青

 「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」

とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、

 「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」

とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりもした。