今日は旧暦十月十二日。芭蕉の命日。暖かな小春日和で、きっとあの日もこんなだったのだろう。
もっとも新暦に換算すると元禄七年の十月十二日は西暦一六九四年十一月二十八日だから、新暦で言えば昨日が命日ということになる。
そのときの様子は支考の『前後日記』にこう記されている。
「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)
其角の『芭蕉翁終焉記』には、「十二日の申の刻ばかりに、死顔うるはしく垂れるを期として」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)とあり、午の刻(十二時頃)に目覚めた芭蕉は申の刻(三時頃)に亡くなったことになる。
たくさんの門人たちがいて、鳥餅をぬった竹で蠅を取ったりして、それを見て笑って最後の時を迎えることができた。ある意味で最高の最期だったかもしれない。
どんな時でも最後まで笑うことを忘れない、それが俳諧の力なのだろう。
2017年11月29日水曜日
2017年11月28日火曜日
生きとし生ける者はすべて自分の遺伝子のコピーを作り出し、生存と繁殖に成功した者を残してきた。そこから生きとし生ける者にとって避けられないものとなった。
人間とて何ら例外ではない。たった一つの地球の有限な台地。地球の面積は増えることも減ることもない。その中でたくさんの生物が暮し、それぞれ子孫を増やそうとする。自分の居場所を確保する、ただそれだけのために他の者の居場所を奪わなくてはならない。
人間もまた生れ落ちるや否や、一人分の新しい居場所を作らなくてはならない。そのため、泣き叫び手足を振り回す。周りには愛情をもって育ててくれる人もいれば、それに嫉妬する人、あからさまに邪魔者扱いする人などさまざまだ。
そんな中で幼い頃から生きるということは戦いだ。母も戦い子もまた戦う。親は生きるために働く場所を確保し、競争相手から身を守る。子もまた子供同士のいじめと戦う。戦いは一生止むことなく続く。
芭蕉もまた、子供の頃は近所の悪ガキ達と争い、物心つくころには奉公に出て、職場のライバルたちと戦ってきた。身分の差は歴然としていて、雲の上の優雅な人たち、すぐ上にいる嫌なことがあると当り散らしてくる下級武士もいただろうし、料理人として一人前になったころには、擦り寄ってくる出入りの商人もいただろう。
いつの世も人生楽しいこともあれば苦しいこともある。そんな中で芭蕉を変えたのは藤堂藩の跡取り息子に俳諧の席に誘われたことだった。
そこでは身分の差はない。大名の息子も出入りの商人もみな「俳諧」という一つの言葉のゲームを通じて一つになり、笑い合う。人生の様々な苦しみや悲しみも、そこでは笑いに変えてくれる。
その席で、芭蕉は自分の才能に気づいた。自分の付けた句に皆が笑ってくれる。「上手い」と褒めてくれる。それは脳内の快楽物質(脳内麻薬)を分泌するのに十分で、やがてその快楽の奴隷となって行く。
それは別に異常なことではない。人間が一つの趣味にのめりこんでゆくときは、いつでもそんなもんだ。そしてしばしばそれは人間の一生を決める。学芸会で拍手喝采を浴びたばっかりに、役者の道にのめりこみ、貧乏暮らしをしている人はたくさんいるし、山に登った時の快感が忘れられずに、やがて世界中の山に登り、最後は山で死ぬものも多い。
芭蕉が俳諧の道に入ったのも、そういう意味では運命だったのだろう。
料理人時代にはちょっとした不注意で袖を焦がしてしまったことがあったかもしれない。さあ、口うるさい同僚から何を言われるやら。そんな悩みも俳諧なら、
才ばりの傍輩中に憎まれて
焼焦したる小妻もみ消ス 芭蕉
と、笑いのネタにすぎない。
やがて恩人の蝉吟も死に、藤堂藩の自分の居場所は少しづつ狭まっていった。だが、芭蕉には俳諧の才能があった。貞門の選集『続山の井』に二十三歳の若さで三十一句入集の快挙を果たしていた。そして終に二十九の時に故郷の伊賀を出て江戸で俳諧師を目指すことになる。
江戸は当時でも世界有数の大都会で、様々な刺激に満ち溢れていた。ただ生活するとなると決して楽なものではない。
最初は日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入の家の帳簿付けだった。芭蕉は実務面でも十分な才能を発揮した。やがて、小石川の神田上水の浚渫作業賀行われたときは、人足集めて作業を代行する、一種の人材派遣の仕事を思いついた。そして、その頃江戸で一世を風靡していたのは談林の俳諧だった。
延宝三年に西山宗因が江戸に来た時は、芭蕉もその一座に加わった。俳諧のほうでも着実に実力が認められていたからだ。
そして、延宝五年には俳諧師匠として立机した。終に念願かなって俳諧師となる事ができたのだった。そして、延宝九年に出版した『俳諧次韻』で、芭蕉は自らの新風を世間に知らしめることとなった。
ただ、その頃芭蕉は既に体調を崩していた。頑張りすぎたのか、それとも元から体が弱かったか。延宝八年には三十六歳の若さで深川に隠居する身となった。弟子の杉風から提供された庵の庭には芭蕉の木を植え、自ら芭蕉庵桃青を名乗った。これが芭蕉が「芭蕉」になった瞬間だった。
静かな隠棲生活も天和ニ年十二月二十八日の八百屋お七の大火によって打ち砕かれ、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れた。芭蕉はその後しばらく甲斐の国で過ごし、そして再び江戸に芭蕉案を再興して、あの古池の句の着想を得、そして藩籍の関係で伊賀に帰らなくてはならない事情があったときに、それを野ざらし紀行の吟行の旅に変え、旅の俳諧師となり、俳諧を全国に広めて行くことになった。
その後たくさん旅をした。花の吉野山にも行った。姨捨山の月も見た。鹿島神宮にも詣でた。そして元禄二年にはみちのくを旅し、松島、象潟も見てきた。
旅先では数々の興行をこなし、たくさんの門人ができた。中には去っていった門人もいたが、芭蕉の周りには常に才能ある人たちが集まってきていた。
ただ、元から持病のあった芭蕉の体は、知らぬ間に少しづつ蝕まれていた。それでも、最後まで旅を続け、俳諧興行を重ね、俳諧を世に広め、世界に笑いを届けるのが生きがいだった。俳諧は人生のどんな苦しいことも笑いに変えることができる。俳諧の席では身分もなく、みんな一緒に笑い合える空間ができる。願わくば世界がそのようであったなら。
木の下に汁も膾も桜哉 芭蕉
影清も花見の座には七兵衛 同
そこではすべてのものが花となる。悪七兵衛景清だって、ここにくればただの七兵衛だ。俳諧はいつでも花の座だ。
その命ももう長くない。
昨夜は支考が早く寝ろとひどく怒られてた。去来もあんなに怒ることないのに。まあ、支考は若くて才能があるから嫉妬する気持ちはわからないでもない。思えば俺も若い頃は随分怒られたな。頑張れ支考。その悔しさを俳諧に叩きつけてやれ。そして一人前の師匠になれよ。
俳諧師の世界も結局は生存競争だ。それはわかる。之道は人がいいから、酒堂のような大口叩く、はったりで生きているようなやつとはそりが合わないのはわかる。でも負けるなよ。
うん。だいぶ眠ったようだ。もう昼も過ぎているかな。人生のパノラマを見る小春の日、待てよ、この時代には「パノラマ」なんて言葉はなかったはずだ。この句は没。枕元には支考がいる。其角はまだ寝ているのかな。‥‥。
人間とて何ら例外ではない。たった一つの地球の有限な台地。地球の面積は増えることも減ることもない。その中でたくさんの生物が暮し、それぞれ子孫を増やそうとする。自分の居場所を確保する、ただそれだけのために他の者の居場所を奪わなくてはならない。
人間もまた生れ落ちるや否や、一人分の新しい居場所を作らなくてはならない。そのため、泣き叫び手足を振り回す。周りには愛情をもって育ててくれる人もいれば、それに嫉妬する人、あからさまに邪魔者扱いする人などさまざまだ。
そんな中で幼い頃から生きるということは戦いだ。母も戦い子もまた戦う。親は生きるために働く場所を確保し、競争相手から身を守る。子もまた子供同士のいじめと戦う。戦いは一生止むことなく続く。
芭蕉もまた、子供の頃は近所の悪ガキ達と争い、物心つくころには奉公に出て、職場のライバルたちと戦ってきた。身分の差は歴然としていて、雲の上の優雅な人たち、すぐ上にいる嫌なことがあると当り散らしてくる下級武士もいただろうし、料理人として一人前になったころには、擦り寄ってくる出入りの商人もいただろう。
いつの世も人生楽しいこともあれば苦しいこともある。そんな中で芭蕉を変えたのは藤堂藩の跡取り息子に俳諧の席に誘われたことだった。
そこでは身分の差はない。大名の息子も出入りの商人もみな「俳諧」という一つの言葉のゲームを通じて一つになり、笑い合う。人生の様々な苦しみや悲しみも、そこでは笑いに変えてくれる。
その席で、芭蕉は自分の才能に気づいた。自分の付けた句に皆が笑ってくれる。「上手い」と褒めてくれる。それは脳内の快楽物質(脳内麻薬)を分泌するのに十分で、やがてその快楽の奴隷となって行く。
それは別に異常なことではない。人間が一つの趣味にのめりこんでゆくときは、いつでもそんなもんだ。そしてしばしばそれは人間の一生を決める。学芸会で拍手喝采を浴びたばっかりに、役者の道にのめりこみ、貧乏暮らしをしている人はたくさんいるし、山に登った時の快感が忘れられずに、やがて世界中の山に登り、最後は山で死ぬものも多い。
芭蕉が俳諧の道に入ったのも、そういう意味では運命だったのだろう。
料理人時代にはちょっとした不注意で袖を焦がしてしまったことがあったかもしれない。さあ、口うるさい同僚から何を言われるやら。そんな悩みも俳諧なら、
才ばりの傍輩中に憎まれて
焼焦したる小妻もみ消ス 芭蕉
と、笑いのネタにすぎない。
やがて恩人の蝉吟も死に、藤堂藩の自分の居場所は少しづつ狭まっていった。だが、芭蕉には俳諧の才能があった。貞門の選集『続山の井』に二十三歳の若さで三十一句入集の快挙を果たしていた。そして終に二十九の時に故郷の伊賀を出て江戸で俳諧師を目指すことになる。
江戸は当時でも世界有数の大都会で、様々な刺激に満ち溢れていた。ただ生活するとなると決して楽なものではない。
最初は日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入の家の帳簿付けだった。芭蕉は実務面でも十分な才能を発揮した。やがて、小石川の神田上水の浚渫作業賀行われたときは、人足集めて作業を代行する、一種の人材派遣の仕事を思いついた。そして、その頃江戸で一世を風靡していたのは談林の俳諧だった。
延宝三年に西山宗因が江戸に来た時は、芭蕉もその一座に加わった。俳諧のほうでも着実に実力が認められていたからだ。
そして、延宝五年には俳諧師匠として立机した。終に念願かなって俳諧師となる事ができたのだった。そして、延宝九年に出版した『俳諧次韻』で、芭蕉は自らの新風を世間に知らしめることとなった。
ただ、その頃芭蕉は既に体調を崩していた。頑張りすぎたのか、それとも元から体が弱かったか。延宝八年には三十六歳の若さで深川に隠居する身となった。弟子の杉風から提供された庵の庭には芭蕉の木を植え、自ら芭蕉庵桃青を名乗った。これが芭蕉が「芭蕉」になった瞬間だった。
静かな隠棲生活も天和ニ年十二月二十八日の八百屋お七の大火によって打ち砕かれ、芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れた。芭蕉はその後しばらく甲斐の国で過ごし、そして再び江戸に芭蕉案を再興して、あの古池の句の着想を得、そして藩籍の関係で伊賀に帰らなくてはならない事情があったときに、それを野ざらし紀行の吟行の旅に変え、旅の俳諧師となり、俳諧を全国に広めて行くことになった。
その後たくさん旅をした。花の吉野山にも行った。姨捨山の月も見た。鹿島神宮にも詣でた。そして元禄二年にはみちのくを旅し、松島、象潟も見てきた。
旅先では数々の興行をこなし、たくさんの門人ができた。中には去っていった門人もいたが、芭蕉の周りには常に才能ある人たちが集まってきていた。
ただ、元から持病のあった芭蕉の体は、知らぬ間に少しづつ蝕まれていた。それでも、最後まで旅を続け、俳諧興行を重ね、俳諧を世に広め、世界に笑いを届けるのが生きがいだった。俳諧は人生のどんな苦しいことも笑いに変えることができる。俳諧の席では身分もなく、みんな一緒に笑い合える空間ができる。願わくば世界がそのようであったなら。
木の下に汁も膾も桜哉 芭蕉
影清も花見の座には七兵衛 同
そこではすべてのものが花となる。悪七兵衛景清だって、ここにくればただの七兵衛だ。俳諧はいつでも花の座だ。
その命ももう長くない。
昨夜は支考が早く寝ろとひどく怒られてた。去来もあんなに怒ることないのに。まあ、支考は若くて才能があるから嫉妬する気持ちはわからないでもない。思えば俺も若い頃は随分怒られたな。頑張れ支考。その悔しさを俳諧に叩きつけてやれ。そして一人前の師匠になれよ。
俳諧師の世界も結局は生存競争だ。それはわかる。之道は人がいいから、酒堂のような大口叩く、はったりで生きているようなやつとはそりが合わないのはわかる。でも負けるなよ。
うん。だいぶ眠ったようだ。もう昼も過ぎているかな。人生のパノラマを見る小春の日、待てよ、この時代には「パノラマ」なんて言葉はなかったはずだ。この句は没。枕元には支考がいる。其角はまだ寝ているのかな。‥‥。
2017年11月27日月曜日
昨日は箱根湯本に行った。紅葉は前に東海道の旅で11月23日に行った時よりも浅かった。今年は紅葉が遅いような気がする。これも温暖化のせいか。石畳の猫に再会した。
さて、今日は旧暦十月十日で、『花屋日記』の方は一日先に進んで十月十一日の所を読んでみる。
まず、支考の『前後日記』の記述は短い。
「此暮相に晋子幸に来りて、今夜の伽にくははりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この薬かの薬とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。ただねがはくは老子が薬にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)
この日も昨日同様意識ははっきりしていたと思われる。そして一番のサプライズは其角の到着だった。其角の句、そしてその後夜更けにみんなで詠んだ句は割愛してあって、夜も明ける頃のことを記している。支考が何らかの理由で芭蕉を取り囲む他の門人たちの所から追い出された可能性はある。ただ、実際の所何があったかはわからない。偽書の『花屋日記』はそこの所を空想で書いているが、多分当たってないだろう。
支考は他の門人たちと違い、若いということもあって、呑舟・舎羅と同様に介護役を引き受けていた可能性はある。明け方に起きていて薬の話をしているなら、この日は早番で夜遅くまで他の門人たちが句を詠んだりしていたとき、明日早いんだから寝ろとか言われて隣の部屋で休んでいた可能性はある。それが、
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
だったのかもしれない。
これに対し、其角の『芭蕉翁終焉記』は到着してから夜のことは詳しく書かれているが、一気に次の日の午後まで飛んでいる。まあ、酒飲みの其角のことだから何となく想像がつく。
其角の『芭蕉翁終焉記』には、芭蕉の所に来るまでのいきさつが書かれている。
「予は、岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に着て、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかがひより、いはんかたなき懐(オモヒ)をのべ、力なき声の詞をかはしたり。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66)
このときたまたま和泉の国の淡輪(たんのわ)に行き、弟子の岩翁・亀翁の親子とともに船で吹飯(ふけい)の浦を見て堺に戻ってきたところで、十一日の夕方に大阪に着いて芭蕉が病気だと聞いて急いで駆けつけたという。夕方に大阪に着いて暮相には芭蕉の所に来たのだから、そんなに距離はなかったのだろう。
近頃は疎遠になっていたとはいえ、延宝の頃からの長い付き合いだった其角にしてみれば、これはまさに住吉の神の引き合わせた奇跡だったに違いない。
折からの時雨に其角は一句、
吹井より鶴を招かん時雨かな 其角
出典は新古今集の、
天つ風吹飯(ふけゐ)の浦にいる鶴(たづ)の
などか雲居に帰らざるべき
藤原清正
ふけゐの浦から吉祥の鶴でも飛んできそうな時雨か。実際に飛んできたのは其角だったが。
鶴を出すあたりは、賀会祈祷の句の、
木枯らしの空見なをすや鶴の声 去来
と被っている。
そのあと
「露しるしなき薬をあたたむるに、伽のものども寝やらで、灰書に、
うづくまる薬の下の寒さ哉 丈草
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ 正秀
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
皆子也みのむし寒く鳴尽す 乙州」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66~67)
の句をそれぞれ詠む。『去来抄』には、
うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草
先師難波病床に人々に夜伽の句をすすめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずト也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19)
とある。
うづくまる薬(やかん)の下の寒さ哉 丈草
の句は確かにその場にあるものを素直に詠んでいながら、「寒さ」に病床の不安な心情が現れている。事実であると同時に比喩でもあるという表裏ある表現は俳諧では好まれる。
この句は近代の、
水枕ガバリと寒い海がある 三鬼
と比較することもできよう。三鬼の句の場合、「寒い海」が比喩なのにもかかわらず「ある」と断定している所が西洋の象徴詩やシュールレアリズムの影響をうかがわせる。江戸時代の俳諧なら、
水枕ガバリと海の寒さ哉
とするところだろう。これだと「海の」だけが比喩になり「かな」と結ぶことで断定せずに、「水枕は海のようなガバリとした寒さだろうか」となる。
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
これは『去来抄』で、「興を催し景をさぐる」と言っているように、「冬籠り」という無難な季題から興を起こし、「病中の余りをすする」という景を導き出している。「あまり」というところに謙虚さが感じられるが、型通りの挨拶句で落ち着いている。
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
これは病気の情景から離れて、門人たちが雑魚寝をしている情景を詠んでいる。
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
さっき書いたように、「支考、明日早番だからもう寝ろ」といわれてしぶしぶ隣の部屋に行く寒い気持ちを表現している?
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ 正秀
夜伽の句がお題だから、素直にこのままずっと夜伽したいという気持ちを述べ、「冬籠り」の季題を放り込む。
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
これも看病生活の一場面か。飯の当番を籤で決めていたか。
延宝六年の芭蕉の句に、
忘れ草菜飯に摘まん年の暮 桃青
の句があるから、菜飯は冬にも詠んだか。
皆子也みのむし寒く鳴尽す 乙州
蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴くと言われていた。『風俗文選』の素堂の「蓑虫ノ説」に「ちちよちちよとなくは、孝に専なるものか」とある。みんな芭蕉さんのことを父のように慕ってます、ということか。
『去来抄』に「今日より我が死期(死後)の句也。一字の相談を加ふべからず」と、要するにもう自分はいないものと思い、意見や添削を一切受けられないと思って詠め、ということで弟子たちの到達点を見極めたかったのだろう。丈草はその期待にこたえたが、あとの句はどう思ったかよくわからない。ただ、それほど悪くはなかったのだろう。これで一つまた思い残すことがなくなったか。
こうしてやがて夜が明けるころ、芭蕉は支考に、延命治療の薬はいらない、老子の薬(無為自然ということか)にしてくれ、と頼み、眠りに着く。
さて、今日は旧暦十月十日で、『花屋日記』の方は一日先に進んで十月十一日の所を読んでみる。
まず、支考の『前後日記』の記述は短い。
「此暮相に晋子幸に来りて、今夜の伽にくははりけるも、いとちぎり深き事なるべし。その夜も明るほどに、木節をさとして申されけるは、吾生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水荷雲棲の身の、この薬かの薬とて、あさましうあがきはつべきにもあらず。ただねがはくは老子が薬にて、最期までの唇をぬらし候半とふかくたのみをきて、此後は左右の人をしりぞけて、不淨を浴し香を燒て後、安臥してものいはず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)
この日も昨日同様意識ははっきりしていたと思われる。そして一番のサプライズは其角の到着だった。其角の句、そしてその後夜更けにみんなで詠んだ句は割愛してあって、夜も明ける頃のことを記している。支考が何らかの理由で芭蕉を取り囲む他の門人たちの所から追い出された可能性はある。ただ、実際の所何があったかはわからない。偽書の『花屋日記』はそこの所を空想で書いているが、多分当たってないだろう。
支考は他の門人たちと違い、若いということもあって、呑舟・舎羅と同様に介護役を引き受けていた可能性はある。明け方に起きていて薬の話をしているなら、この日は早番で夜遅くまで他の門人たちが句を詠んだりしていたとき、明日早いんだから寝ろとか言われて隣の部屋で休んでいた可能性はある。それが、
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
だったのかもしれない。
これに対し、其角の『芭蕉翁終焉記』は到着してから夜のことは詳しく書かれているが、一気に次の日の午後まで飛んでいる。まあ、酒飲みの其角のことだから何となく想像がつく。
其角の『芭蕉翁終焉記』には、芭蕉の所に来るまでのいきさつが書かれている。
「予は、岩翁・亀翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に着て、何心なくおきなの行衛覚束なしとばかりに尋ねければ、かくやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかがひより、いはんかたなき懐(オモヒ)をのべ、力なき声の詞をかはしたり。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66)
このときたまたま和泉の国の淡輪(たんのわ)に行き、弟子の岩翁・亀翁の親子とともに船で吹飯(ふけい)の浦を見て堺に戻ってきたところで、十一日の夕方に大阪に着いて芭蕉が病気だと聞いて急いで駆けつけたという。夕方に大阪に着いて暮相には芭蕉の所に来たのだから、そんなに距離はなかったのだろう。
近頃は疎遠になっていたとはいえ、延宝の頃からの長い付き合いだった其角にしてみれば、これはまさに住吉の神の引き合わせた奇跡だったに違いない。
折からの時雨に其角は一句、
吹井より鶴を招かん時雨かな 其角
出典は新古今集の、
天つ風吹飯(ふけゐ)の浦にいる鶴(たづ)の
などか雲居に帰らざるべき
藤原清正
ふけゐの浦から吉祥の鶴でも飛んできそうな時雨か。実際に飛んできたのは其角だったが。
鶴を出すあたりは、賀会祈祷の句の、
木枯らしの空見なをすや鶴の声 去来
と被っている。
そのあと
「露しるしなき薬をあたたむるに、伽のものども寝やらで、灰書に、
うづくまる薬の下の寒さ哉 丈草
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ 正秀
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
皆子也みのむし寒く鳴尽す 乙州」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.66~67)
の句をそれぞれ詠む。『去来抄』には、
うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草
先師難波病床に人々に夜伽の句をすすめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずト也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,19)
とある。
うづくまる薬(やかん)の下の寒さ哉 丈草
の句は確かにその場にあるものを素直に詠んでいながら、「寒さ」に病床の不安な心情が現れている。事実であると同時に比喩でもあるという表裏ある表現は俳諧では好まれる。
この句は近代の、
水枕ガバリと寒い海がある 三鬼
と比較することもできよう。三鬼の句の場合、「寒い海」が比喩なのにもかかわらず「ある」と断定している所が西洋の象徴詩やシュールレアリズムの影響をうかがわせる。江戸時代の俳諧なら、
水枕ガバリと海の寒さ哉
とするところだろう。これだと「海の」だけが比喩になり「かな」と結ぶことで断定せずに、「水枕は海のようなガバリとした寒さだろうか」となる。
病中のあまりすするや冬ごもり 去来
これは『去来抄』で、「興を催し景をさぐる」と言っているように、「冬籠り」という無難な季題から興を起こし、「病中の余りをすする」という景を導き出している。「あまり」というところに謙虚さが感じられるが、型通りの挨拶句で落ち着いている。
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
これは病気の情景から離れて、門人たちが雑魚寝をしている情景を詠んでいる。
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
さっき書いたように、「支考、明日早番だからもう寝ろ」といわれてしぶしぶ隣の部屋に行く寒い気持ちを表現している?
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ 正秀
夜伽の句がお題だから、素直にこのままずっと夜伽したいという気持ちを述べ、「冬籠り」の季題を放り込む。
鬮(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
これも看病生活の一場面か。飯の当番を籤で決めていたか。
延宝六年の芭蕉の句に、
忘れ草菜飯に摘まん年の暮 桃青
の句があるから、菜飯は冬にも詠んだか。
皆子也みのむし寒く鳴尽す 乙州
蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴くと言われていた。『風俗文選』の素堂の「蓑虫ノ説」に「ちちよちちよとなくは、孝に専なるものか」とある。みんな芭蕉さんのことを父のように慕ってます、ということか。
『去来抄』に「今日より我が死期(死後)の句也。一字の相談を加ふべからず」と、要するにもう自分はいないものと思い、意見や添削を一切受けられないと思って詠め、ということで弟子たちの到達点を見極めたかったのだろう。丈草はその期待にこたえたが、あとの句はどう思ったかよくわからない。ただ、それほど悪くはなかったのだろう。これで一つまた思い残すことがなくなったか。
こうしてやがて夜が明けるころ、芭蕉は支考に、延命治療の薬はいらない、老子の薬(無為自然ということか)にしてくれ、と頼み、眠りに着く。
2017年11月26日日曜日
十月十日。結果的に最後の句となった「清瀧や」の句を詠んだ次の日にはこうある。
「此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去来をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたためしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名残におくらる。その後は正秀あづかりて、木曽塚の旧草にかへる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.87)
「身ほとをりて、つねにあらず」つまり異常な発熱があったというが、これは腫瘍熱であろう。腫瘍熱の場合40度を超える熱でも朦朧とした状態にならず、意識がはっきりしているという。
実際この高熱の中で芭蕉は去来と話をしたり支考に遺書三通を書かせたりしている。そのうち一通は自分で書いたというから、これまでになく元気な状態だともいえる。
この時も門人たちと話す話題はやはりは俳諧だった。
「夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍〔る〕らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし。唇を打うるほし打うるほしやや談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)
「此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。」というのは、芭蕉がまだ二十歳そこそこの頃、伊賀藤堂藩家の料理人をしてた頃、藤堂家の跡取り息子だった藤堂主計良忠(俳号、蝉吟)に誘われて俳諧の道に入って以来今に至る三十年、俳諧は様々に変化していったことをいう。
貞門から談林、天和の破調を経て蕉風確立期がありその後の軽みへと至る流れが一方にあって、大阪では伊丹流長発句の流行から、従来の談林に蕉風の要素も取り入れながら独自の大阪談林を形成してゆく流れがあった。この二つの流れは今日の関東と関西の笑いの違いの元となっているのではないかと思う。「松茸ゆうたら熱燗やな」は大阪談林で、「送られてきた松茸ってよくわからない葉っぱがくっついてたりするよね」だと蕉門の笑いだ。
私見だが、蕪村の俳諧は蕉門よりもその土地柄からか、大阪談林を受け継ぐものだったのではないかと思う。
「しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず」というのは書への例えだろう。楷書は真書ともいう。貞門の真書、談林の草書、そして自ら確立した蕉風を行書に喩えていると見て良いだろう。
「その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし」というのは、その三つの体がどれも完成には至ってないという意味か。この後の俳諧はそれぞれが完成に向かうということか。これを枕元で聞いた惟然が草書の俳諧に至るのは、この五年くらい後のことだ。
「此暮より身ほとをりて、つねにあらず。人く殊の外におどろく。夜に入て去来をめして良談ず。その後支考をめして遺書三通をしたためしむ。外に一通はみづからかきて、伊賀の兄の名残におくらる。その後は正秀あづかりて、木曽塚の旧草にかへる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.87)
「身ほとをりて、つねにあらず」つまり異常な発熱があったというが、これは腫瘍熱であろう。腫瘍熱の場合40度を超える熱でも朦朧とした状態にならず、意識がはっきりしているという。
実際この高熱の中で芭蕉は去来と話をしたり支考に遺書三通を書かせたりしている。そのうち一通は自分で書いたというから、これまでになく元気な状態だともいえる。
この時も門人たちと話す話題はやはりは俳諧だった。
「夜ふけ人いねて後、誰かれの人々枕の左右に侍りて、此後の風雅はいかになり行侍〔る〕らんとたづねけるに、されば此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず。その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし。唇を打うるほし打うるほしやや談じ申されければ、やすからぬ道の神なりと思はれて、袖をねらす人殊におほし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.88)
「此道の吾に出て後、三十余年にして百変百化す。」というのは、芭蕉がまだ二十歳そこそこの頃、伊賀藤堂藩家の料理人をしてた頃、藤堂家の跡取り息子だった藤堂主計良忠(俳号、蝉吟)に誘われて俳諧の道に入って以来今に至る三十年、俳諧は様々に変化していったことをいう。
貞門から談林、天和の破調を経て蕉風確立期がありその後の軽みへと至る流れが一方にあって、大阪では伊丹流長発句の流行から、従来の談林に蕉風の要素も取り入れながら独自の大阪談林を形成してゆく流れがあった。この二つの流れは今日の関東と関西の笑いの違いの元となっているのではないかと思う。「松茸ゆうたら熱燗やな」は大阪談林で、「送られてきた松茸ってよくわからない葉っぱがくっついてたりするよね」だと蕉門の笑いだ。
私見だが、蕪村の俳諧は蕉門よりもその土地柄からか、大阪談林を受け継ぐものだったのではないかと思う。
「しかれどもそのさかひ、真・草・行の三をはなれず」というのは書への例えだろう。楷書は真書ともいう。貞門の真書、談林の草書、そして自ら確立した蕉風を行書に喩えていると見て良いだろう。
「その三が中に、いまだ一・二をもつくさざるよし」というのは、その三つの体がどれも完成には至ってないという意味か。この後の俳諧はそれぞれが完成に向かうということか。これを枕元で聞いた惟然が草書の俳諧に至るのは、この五年くらい後のことだ。
2017年11月25日土曜日
今日は旧暦十月八日。元禄七年なら住吉詣でと病中吟の日だ。
その住吉詣での翌日、十月九日、支考の『前後日記』にはこうある。
「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて
大井川浪に塵なし夏の月
と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて
清滝や浪にちり込青松葉 翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)
「大井川」は支考の記憶違いか。元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、
清滝や波に塵なき夏の月 芭蕉
の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。
清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。まあ、清滝川といった場合は、嵐山の桂川よりは上流の細い流れを想像すればいいのだろう。
細い清流だとすると月を映すにはやや無理がある感じがするから、大井川のほうがイメージしやすい。だから、ひょっとしたらその後上五を「大井川」にしたバージョンがあったのかもしれない。
芭蕉が末期癌だったとしたら、昏睡状態と激痛や嘔吐、下血に苦しむ状態とが交互に訪れていただろう。当時はモルヒネもなかったからさぞかし苦しかったに違いない。点滴もないから栄養も取れず、日に日に衰弱してゆくのが自分でもよくわかっただろう。そろそろ終わりだと感じていたはずだ。
今日で終わりかもしれないと思いながら、また目が覚め次の日があって、でもそんな時に頭に浮かぶのは仏道ではなくやはり俳諧だった。
昨日は最後になるかもしれないと思いながらも、句を案じるのは煩悩で成仏の妨げにしかならないし、それに辞世を詠むほどたいそうな身分でもないなんて思いながら、実質的には辞世のような「病中吟」を詠んだ。
今日になった気になったのは、多分最後の俳諧興行になるかもしれない園女亭での発句、
白菊の目に立てて見る塵もなし 芭蕉
の句が、六月に野明亭で詠んだ句に似ていて、等類だの同巣だの言われるのが不本意に思えたのだろう。
そこで、古い方の句を、
清滝や浪にちり込青松葉 芭蕉
にしてみた。妄執とは言いながらも、やはり思い残すことなくすっきりした気持ちで死を迎えたかったのだろう。
並みに月の美しさは、ある意味では古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。むしろ「白菊の」の句を救うための改作だったのだろう。
結果的にはこれが最後の句となったので、「清滝や」の句が芭蕉の辞世の句だと言う人もいるが、それは「辞世」の意味をわかっていない。ただ最後に詠んだ句を機械的に辞世と呼ぶのではない。辞世はこの世を去るにあたっての最後の「挨拶」であり、「清滝や」の句にはそれがない。
「此事は去来にもかたりをきけるが」とあるように、このことは『去来抄』にも記されている。
「清瀧や浪にちりなき夏の月
先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P.13)
「旅に病で」の句にしても「清滝や」の句にしても、芭蕉は「仏の妄執」だというが、実際に激痛に襲われて苦しんでいる時には、俳諧のことを考えることでその苦しみが紛れる部分があったのだろう。
凡庸な男ならいい女のことでも考える所だが、芭蕉さんは俳諧のことを案じるのが一番のだった、そこが凡人と違う所だろう。
その住吉詣での翌日、十月九日、支考の『前後日記』にはこうある。
「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて
大井川浪に塵なし夏の月
と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて
清滝や浪にちり込青松葉 翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)
「大井川」は支考の記憶違いか。元禄七年六月二十四日付の杉風宛書簡に、
清滝や波に塵なき夏の月 芭蕉
の句があるから、それが元もとの形だったと思われる。
清滝は京都嵯峨野の北の小倉山や愛宕念仏寺よりも北にある清滝川を指すと思われる。これに対し「大井川」は今の桂川のことで、清滝川は大井川(桂川)に流れ込んで合流する。まあ、清滝川といった場合は、嵐山の桂川よりは上流の細い流れを想像すればいいのだろう。
細い清流だとすると月を映すにはやや無理がある感じがするから、大井川のほうがイメージしやすい。だから、ひょっとしたらその後上五を「大井川」にしたバージョンがあったのかもしれない。
芭蕉が末期癌だったとしたら、昏睡状態と激痛や嘔吐、下血に苦しむ状態とが交互に訪れていただろう。当時はモルヒネもなかったからさぞかし苦しかったに違いない。点滴もないから栄養も取れず、日に日に衰弱してゆくのが自分でもよくわかっただろう。そろそろ終わりだと感じていたはずだ。
今日で終わりかもしれないと思いながら、また目が覚め次の日があって、でもそんな時に頭に浮かぶのは仏道ではなくやはり俳諧だった。
昨日は最後になるかもしれないと思いながらも、句を案じるのは煩悩で成仏の妨げにしかならないし、それに辞世を詠むほどたいそうな身分でもないなんて思いながら、実質的には辞世のような「病中吟」を詠んだ。
今日になった気になったのは、多分最後の俳諧興行になるかもしれない園女亭での発句、
白菊の目に立てて見る塵もなし 芭蕉
の句が、六月に野明亭で詠んだ句に似ていて、等類だの同巣だの言われるのが不本意に思えたのだろう。
そこで、古い方の句を、
清滝や浪にちり込青松葉 芭蕉
にしてみた。妄執とは言いながらも、やはり思い残すことなくすっきりした気持ちで死を迎えたかったのだろう。
並みに月の美しさは、ある意味では古典的な題材で新味に乏しい。だが、青松葉は新味はあるがいまひとつ花がない。むしろ「白菊の」の句を救うための改作だったのだろう。
結果的にはこれが最後の句となったので、「清滝や」の句が芭蕉の辞世の句だと言う人もいるが、それは「辞世」の意味をわかっていない。ただ最後に詠んだ句を機械的に辞世と呼ぶのではない。辞世はこの世を去るにあたっての最後の「挨拶」であり、「清滝や」の句にはそれがない。
「此事は去来にもかたりをきけるが」とあるように、このことは『去来抄』にも記されている。
「清瀧や浪にちりなき夏の月
先師難波の病床に予を召て曰、頃日園女が方にて、しら菊の目にたてて見る塵もなしと作す。過し比ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初の草稿野明がかたに有べし。取てやぶるべしと也。然れどもはや集々にもれ出侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P.13)
「旅に病で」の句にしても「清滝や」の句にしても、芭蕉は「仏の妄執」だというが、実際に激痛に襲われて苦しんでいる時には、俳諧のことを考えることでその苦しみが紛れる部分があったのだろう。
凡庸な男ならいい女のことでも考える所だが、芭蕉さんは俳諧のことを案じるのが一番のだった、そこが凡人と違う所だろう。
2017年11月24日金曜日
昨日は午後から谷中を散歩した。黄昏の街はやはりいい。ひょっとしてここは異界ではないかと思わせるようで幻想的だ。
昔、黄昏時の渋谷の街をあるいてて思いついたのだが、あの世というのがもしあるならきっと一年中黄昏時の紫色の空の紫街ではないかと。たくさんの灯りがともり、世界中の死者たちがそこを行き交い、争ってた国もここではノーサイドで酒を酌み交わしたり歌ったり踊ったり、毎日地球祭が行われている。そして思い残すことがなくなった人から順に完全な死へと移行してゆく。
それはともかくとして、昨日の続き。
さて、住吉詣でのあったその夜、芭蕉はあの句を詠むことになる。
支考の『前後日記』はこう記す。
「之道すみよしの四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに
病中吟
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 翁
その後支考をめして、「なをかけ廻る夢心」といふ句づくりあり、いづれをかと申されしに、その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)と申ば、いとむづかしき事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍〔る〕らん。今はほいなし。みづから申されけるは、はた生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすかへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.85~86)
考えてみれば、芭蕉を一人にしてみんなで出かけるというのはないだろう。となると、支考は居残り組みだったのだろうか。「之道すみよしの四所に詣して」というのは、之道一人が詣でたわけではないにせよ、何人かは居残って芭蕉の看病をしてた可能性が高い。支考の「起さるる」の句も之道らの出発の前に詠んだのなら納得できる。
木節の発句がないのも、医者が芭蕉のところを離れるわけにはいかなかったからだろう。舎羅の発句もないから、介護要因として居残り組だったのだろう。其角の『芭蕉翁終焉記』に、
「木節が薬を死迄もとたのみ申されけるも、実也。人々にかかる汚レを耻給へば、坐臥のたすけとなるもの、呑舟と舎羅也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.65)
とある。
その日の夜も更ける頃、ほとんど動くこともなく言葉もなかった芭蕉の部屋から不意に硯の音が聞こえてくれば、何かあったと思うし、もしや最後の言葉がとも思うだろう。
幸いまだ「いまは(さよなら)」ではなく、芭蕉の詠んだ句を介護役の呑舟に書き留めさせているところだった。ひょっとして辞世の句かという思いもあっただろう。その句は、
病中吟
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
だった。
支考が部屋に入ると、芭蕉は「なをかけ廻る夢心」という案もあったがどっちが良いかと聞いた。これは「此道や」の句のときと同じパターンだ。芭蕉はよく弟子たちにこういう質問をしたのだろう。
言葉というのは確かに自分がこう言いたいと思って発してはみても、聞いた人はまったく別の意味に取ることがある。だから自分の句の意味がちゃんと伝わっているかどうかこうして確認したくなるのだろう。
「その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)」というのは「かけ廻る」の五文字のことだろう。それはどういう意味なのかと思ったものの、そう難しく考えることもないと思い、この句は何の悪い所もないのでわざわざ「かけ廻る夢心」に直すことはないと答えたという。この五文字は「不思議の五文字」だという。
旅に病でなをかけ廻る夢心
これだと「枯野」の字が消えてしまい季語が入らないから、確かにどっちが良いかといわれても、そんなに迷うこともないだろう。体言止めで句としての収まりは良いが。むしろ支考が気になったのは「かけ廻る」という言葉が何処から出てきたのかということだった。
芭蕉が言うには、まず「生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど」とうことで、これは死を前にしたなら一心に仏のことを念ずべきだという意味で言っているのだろう。
芭蕉には辞世の句を詠まなくてはならないという意識はなかったものと思われる。辞世というのは身分の高い人の詠むもので、自分なんぞはという意識があったのかもしれない。
そして「よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。」と付け加える。
言わば商売柄、こんな時にまで俳諧のことが気になってしょうがないのは煩悩の妄執だというわけだ。この「朝雲暮烟の間をかけり」が「かけ廻る」という言葉の意図だったのだろう。
これに対し支考は「さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」と感想を述べる。これほどの辞世は他にあるまい。芭蕉自身はそのつもりでなくても、最高の辞世の句であることは間違いない。
偽書の『花屋日記』も「これは辞世にあらず、辞世にあらざるにもあらず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.26)と言っている。近代的にあくまで作者の意図を重視するなら辞世ではないが、読んだ人が辞世として受け止めるならそれはそれでいいと思う。
昔、黄昏時の渋谷の街をあるいてて思いついたのだが、あの世というのがもしあるならきっと一年中黄昏時の紫色の空の紫街ではないかと。たくさんの灯りがともり、世界中の死者たちがそこを行き交い、争ってた国もここではノーサイドで酒を酌み交わしたり歌ったり踊ったり、毎日地球祭が行われている。そして思い残すことがなくなった人から順に完全な死へと移行してゆく。
それはともかくとして、昨日の続き。
さて、住吉詣でのあったその夜、芭蕉はあの句を詠むことになる。
支考の『前後日記』はこう記す。
「之道すみよしの四所に詣して、此度の延年をいのる。所願の句あり。しるさず。此夜深更におよびて、介抱に侍りける呑舟をめされて、硯の音のからからと聞えければ、いかなる消息にやとおもふに
病中吟
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 翁
その後支考をめして、「なをかけ廻る夢心」といふ句づくりあり、いづれをかと申されしに、その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)と申ば、いとむづかしき事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へける也。いかなる不思議の五文字か侍〔る〕らん。今はほいなし。みづから申されけるは、はた生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど、よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。此後はただ生前の俳諧をわすれむとのみおもふはと、かへすかへすくやみ申されし也。さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.85~86)
考えてみれば、芭蕉を一人にしてみんなで出かけるというのはないだろう。となると、支考は居残り組みだったのだろうか。「之道すみよしの四所に詣して」というのは、之道一人が詣でたわけではないにせよ、何人かは居残って芭蕉の看病をしてた可能性が高い。支考の「起さるる」の句も之道らの出発の前に詠んだのなら納得できる。
木節の発句がないのも、医者が芭蕉のところを離れるわけにはいかなかったからだろう。舎羅の発句もないから、介護要因として居残り組だったのだろう。其角の『芭蕉翁終焉記』に、
「木節が薬を死迄もとたのみ申されけるも、実也。人々にかかる汚レを耻給へば、坐臥のたすけとなるもの、呑舟と舎羅也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.65)
とある。
その日の夜も更ける頃、ほとんど動くこともなく言葉もなかった芭蕉の部屋から不意に硯の音が聞こえてくれば、何かあったと思うし、もしや最後の言葉がとも思うだろう。
幸いまだ「いまは(さよなら)」ではなく、芭蕉の詠んだ句を介護役の呑舟に書き留めさせているところだった。ひょっとして辞世の句かという思いもあっただろう。その句は、
病中吟
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
だった。
支考が部屋に入ると、芭蕉は「なをかけ廻る夢心」という案もあったがどっちが良いかと聞いた。これは「此道や」の句のときと同じパターンだ。芭蕉はよく弟子たちにこういう質問をしたのだろう。
言葉というのは確かに自分がこう言いたいと思って発してはみても、聞いた人はまったく別の意味に取ることがある。だから自分の句の意味がちゃんと伝わっているかどうかこうして確認したくなるのだろう。
「その五文字は、いかに承り候半(さふらはん)」というのは「かけ廻る」の五文字のことだろう。それはどういう意味なのかと思ったものの、そう難しく考えることもないと思い、この句は何の悪い所もないのでわざわざ「かけ廻る夢心」に直すことはないと答えたという。この五文字は「不思議の五文字」だという。
旅に病でなをかけ廻る夢心
これだと「枯野」の字が消えてしまい季語が入らないから、確かにどっちが良いかといわれても、そんなに迷うこともないだろう。体言止めで句としての収まりは良いが。むしろ支考が気になったのは「かけ廻る」という言葉が何処から出てきたのかということだった。
芭蕉が言うには、まず「生死の転変を前にをきながら、ほつ句すべきわざにもあらねど」とうことで、これは死を前にしたなら一心に仏のことを念ずべきだという意味で言っているのだろう。
芭蕉には辞世の句を詠まなくてはならないという意識はなかったものと思われる。辞世というのは身分の高い人の詠むもので、自分なんぞはという意識があったのかもしれない。
そして「よのつね此道を心に籠て、年もやや半百に過たれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へるたたちは、今の身の上におぼえ侍る也。」と付け加える。
言わば商売柄、こんな時にまで俳諧のことが気になってしょうがないのは煩悩の妄執だというわけだ。この「朝雲暮烟の間をかけり」が「かけ廻る」という言葉の意図だったのだろう。
これに対し支考は「さばかりの叟の辞世はなどなかりけると、思ふ人も世にはあるべし。」と感想を述べる。これほどの辞世は他にあるまい。芭蕉自身はそのつもりでなくても、最高の辞世の句であることは間違いない。
偽書の『花屋日記』も「これは辞世にあらず、辞世にあらざるにもあらず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.26)と言っている。近代的にあくまで作者の意図を重視するなら辞世ではないが、読んだ人が辞世として受け止めるならそれはそれでいいと思う。
2017年11月23日木曜日
今日は旧暦の十月六日。雨の祝日ということで、ゆっくりと岩波文庫の『花屋日記』が読める。
元禄七年の芭蕉の容態は、九月二十九日の支考『前後日記』に、
「此夜より泄痢のいたはりありて、神無月の一日の朝にいたる。しかるを此叟(そう)は、よのつね腹の心地悪しかりければ、是もそのままにてやみなんと思ひけるに、二日・三日の比よりややつのりて、終に此愁とはなしける也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.83)
とある。「泄痢」つまり下痢は芭蕉の持病で、以前から時折こういうことはあったし、おそらく最後の旅の途中で何度もこのようなことは続いていたのだろう。だから、支考もこの時はいつものこと(よのつね)と思っていたが、容態はそのまま急速に悪化していったようだ。この日の芝柏亭での興行がキャンセルされたことは前にも書いた。
其角の『芭蕉翁終焉記』には、
「伊賀山の嵐紙帳にしめり、有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)にさはる也と覚えしかど、くるしげなれば例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば、あはやとてあつまる人々の中にも、去来京より馳くるに、膳所より正秀、大津より木節・乙州・丈草、平田の李由つき添て、支考・惟然と共に、かかる歎きをつぶやき侍る。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.64)
とある。
「紙帳」は紙で作った防寒用の蚊帳のようなもので、最初はその紙帳が伊賀の嵐に湿って黴や茸が生えて、そのせいではないかと思われていたようだ。だが、伊賀にいた頃から病状が既に悪化していたことが窺われる。
芭蕉が茸に当たって死んだという俗説は、この「有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)」を誤読したことによるものではないかと思う。園女が犯人に仕立て上げられたりして可哀相だ。
その病を押して大阪に来て、酒堂、之道の喧嘩の仲裁をし、何度か興行を行ったが、相当無理をしていたようだ。九月二十九日の夜、終に床についたまま激しい下痢が続き、喋る力もなく体温も低下し、危篤状態に陥った。去来、正秀、木節・乙州、丈草、李由が駆けつけ、元から大阪にいた支考、惟然ニ合流した。病床で詠んだ賀会祈祷の句に之道の名前はあるが酒堂の名前はない。どこへ行ったか、九月二十六日の興行の挙句に、
散花に幕の芝引吹立て
お傍日永き医者の見事さ 酒堂
と詠んだ医者の酒堂は肝心なときにお傍にいない。代わりに呼ばれてきたのは大津の医者の木節だった。
支考の『前後日記』の十月六日の所にこうある。
「きのふの暮よりなにがしが薬にいとここちよしとて、みづから起かへりて、白髮のけしきなど見せ申されしに、影もなくおとろへはて、枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて、今もまぼろしには思はれる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.84)
長いこと昏睡状態にあったようだ。ようやく意識を取り戻して顔を起して白髪頭の様子をみる事ができたが、「枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて」というように痩せ衰えていた。このやせ細った姿の記述からも、末期癌だったと見るのが妥当だろう。
木節をはじめとする他の京や膳所・大津、伊賀の門人たちが到着したのは、翌七日だったことが『前後日記』には記されている。『花屋日記』には「鬼貫来る。去来応対して還す。」とあるが、これは嘘だろう。鬼貫は之道とも仲が良かったし、本当に来てたなら追い返す理由なんてない。
十月八日には之道とともに集まった門人たちが住吉四所神社に詣でて、祈願の句を奉納した。それが先に述べた賀会祈祷の句で、其角の『芭蕉翁終焉記』に記されている。
落つきやから手水して神集め 木節
折から神無月なので、手水の水もなかったのか、なんとも無念。から手水は今風に言えばエア手水か。
木枯らしの空見なをすや鶴の声 去来
吉祥である鶴の声がしやしないかと木枯らしの空を眺める。何度見ても空しい。
足がろに竹の林やみそさざい 惟然
「鷦鷯(ショウリョウ)は深林に巣くふも一枝に過ぎず」という『荘子』の言葉によったものか。祈願からはやや離れている。
初雪にやがて手引ん佐太の宮 正秀
「佐太の宮」は出雲の国二ノ宮の佐太神社で神無月には八百万の神がここに集まる。初雪が降るころにはその神様たちも戻ってきてくれることだろう、それまで何とか持ちこたえてくれと祈る。
神のるす頼み力や松の風 之道
「松風」は、
深く入りて神路の奥を尋ぬれば
又うへもなき峰の松風
西行法師
の縁で、本地垂迹の考え方により、神道の根源には仏道があり、「松風」はそれを象徴する。神社に祈願に来たが留守なので、本地である仏だけが頼みだ、という意味。
居上ていさみつきけり鷹の貌 伽香
鷹が身を起こして睨みつけているさまだが、惟然の句と同様、その場にあったものを詠んだのだろう。鷹は吉祥ではある。
起さるる声も嬉しき湯婆哉 支考
湯婆は湯たんぽのこと。寒い朝は起きるのがつらいが、湯たんぽのぬくもりが残っていれば起される声も嬉しい。きっとこの日、祈祷に行くといくというので早く起されたのだろう。ただ、芭蕉の病気治癒の祈願にこの句はなんかそぐわない。
このあとの病床吟「しかられて」の句にも通じるものがある。つまり、支考はいつもこういう調子っぱずれな句を詠む人だというだけのことだったのかもしれない。ある意味それは天才なのだろう。付け句の方ではその才能が遺憾なく発揮されているが。
水仙や使につれて床離れ 呑舟
呑舟は芭蕉の介護で、排泄物の処理など汚い仕事を引き受けていたようだ。水仙が春の使いとなって芭蕉を床から上がれるようにしてくれれば、と祈る。
祈願の句としてはこれまででは一番真情がこもっている。
峠こす鴨のさなりや諸きほひ 丈草
「さなり」は小さな物音のこと。「さなる(そのようになる)」に掛かる。「諸きほひは峠こす鴨のさなりや」の倒置。ここで皆が祈願の発句を競って詠むことは、峠を越す鴨のさなりのような小さな音にすぎないが、そのように芭蕉の病気も峠を越えてくれればな、と祈る。掛詞と比喩が見事な句だ。芭蕉が聞いたなら、「丈草出来たり」というところか。
日にまして見ます顔也霜の菊 乙州
これも比喩で、日ごとに集まる人も増えて、芭蕉の病気が良くなることを祈ってます、ということ。
神無月ネタに走った者、素直に祈願した者、いろいろだけど、其角が「是ぞ生前の笑納め也。」と言ったように事態は悪化していった。
元禄七年の芭蕉の容態は、九月二十九日の支考『前後日記』に、
「此夜より泄痢のいたはりありて、神無月の一日の朝にいたる。しかるを此叟(そう)は、よのつね腹の心地悪しかりければ、是もそのままにてやみなんと思ひけるに、二日・三日の比よりややつのりて、終に此愁とはなしける也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.83)
とある。「泄痢」つまり下痢は芭蕉の持病で、以前から時折こういうことはあったし、おそらく最後の旅の途中で何度もこのようなことは続いていたのだろう。だから、支考もこの時はいつものこと(よのつね)と思っていたが、容態はそのまま急速に悪化していったようだ。この日の芝柏亭での興行がキャンセルされたことは前にも書いた。
其角の『芭蕉翁終焉記』には、
「伊賀山の嵐紙帳にしめり、有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)にさはる也と覚えしかど、くるしげなれば例の薬といふより水あたりして、長月晦の夜より床にたふれ、泄痢度しげくて、物いふ力もなく、手足氷りぬれば、あはやとてあつまる人々の中にも、去来京より馳くるに、膳所より正秀、大津より木節・乙州・丈草、平田の李由つき添て、支考・惟然と共に、かかる歎きをつぶやき侍る。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.64)
とある。
「紙帳」は紙で作った防寒用の蚊帳のようなもので、最初はその紙帳が伊賀の嵐に湿って黴や茸が生えて、そのせいではないかと思われていたようだ。だが、伊賀にいた頃から病状が既に悪化していたことが窺われる。
芭蕉が茸に当たって死んだという俗説は、この「有ふれし菌(くさひら)の塊積(つかえ)」を誤読したことによるものではないかと思う。園女が犯人に仕立て上げられたりして可哀相だ。
その病を押して大阪に来て、酒堂、之道の喧嘩の仲裁をし、何度か興行を行ったが、相当無理をしていたようだ。九月二十九日の夜、終に床についたまま激しい下痢が続き、喋る力もなく体温も低下し、危篤状態に陥った。去来、正秀、木節・乙州、丈草、李由が駆けつけ、元から大阪にいた支考、惟然ニ合流した。病床で詠んだ賀会祈祷の句に之道の名前はあるが酒堂の名前はない。どこへ行ったか、九月二十六日の興行の挙句に、
散花に幕の芝引吹立て
お傍日永き医者の見事さ 酒堂
と詠んだ医者の酒堂は肝心なときにお傍にいない。代わりに呼ばれてきたのは大津の医者の木節だった。
支考の『前後日記』の十月六日の所にこうある。
「きのふの暮よりなにがしが薬にいとここちよしとて、みづから起かへりて、白髮のけしきなど見せ申されしに、影もなくおとろへはて、枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて、今もまぼろしには思はれる。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.84)
長いこと昏睡状態にあったようだ。ようやく意識を取り戻して顔を起して白髪頭の様子をみる事ができたが、「枯木の寒岩にそへるやうにおぼえて」というように痩せ衰えていた。このやせ細った姿の記述からも、末期癌だったと見るのが妥当だろう。
木節をはじめとする他の京や膳所・大津、伊賀の門人たちが到着したのは、翌七日だったことが『前後日記』には記されている。『花屋日記』には「鬼貫来る。去来応対して還す。」とあるが、これは嘘だろう。鬼貫は之道とも仲が良かったし、本当に来てたなら追い返す理由なんてない。
十月八日には之道とともに集まった門人たちが住吉四所神社に詣でて、祈願の句を奉納した。それが先に述べた賀会祈祷の句で、其角の『芭蕉翁終焉記』に記されている。
落つきやから手水して神集め 木節
折から神無月なので、手水の水もなかったのか、なんとも無念。から手水は今風に言えばエア手水か。
木枯らしの空見なをすや鶴の声 去来
吉祥である鶴の声がしやしないかと木枯らしの空を眺める。何度見ても空しい。
足がろに竹の林やみそさざい 惟然
「鷦鷯(ショウリョウ)は深林に巣くふも一枝に過ぎず」という『荘子』の言葉によったものか。祈願からはやや離れている。
初雪にやがて手引ん佐太の宮 正秀
「佐太の宮」は出雲の国二ノ宮の佐太神社で神無月には八百万の神がここに集まる。初雪が降るころにはその神様たちも戻ってきてくれることだろう、それまで何とか持ちこたえてくれと祈る。
神のるす頼み力や松の風 之道
「松風」は、
深く入りて神路の奥を尋ぬれば
又うへもなき峰の松風
西行法師
の縁で、本地垂迹の考え方により、神道の根源には仏道があり、「松風」はそれを象徴する。神社に祈願に来たが留守なので、本地である仏だけが頼みだ、という意味。
居上ていさみつきけり鷹の貌 伽香
鷹が身を起こして睨みつけているさまだが、惟然の句と同様、その場にあったものを詠んだのだろう。鷹は吉祥ではある。
起さるる声も嬉しき湯婆哉 支考
湯婆は湯たんぽのこと。寒い朝は起きるのがつらいが、湯たんぽのぬくもりが残っていれば起される声も嬉しい。きっとこの日、祈祷に行くといくというので早く起されたのだろう。ただ、芭蕉の病気治癒の祈願にこの句はなんかそぐわない。
このあとの病床吟「しかられて」の句にも通じるものがある。つまり、支考はいつもこういう調子っぱずれな句を詠む人だというだけのことだったのかもしれない。ある意味それは天才なのだろう。付け句の方ではその才能が遺憾なく発揮されているが。
水仙や使につれて床離れ 呑舟
呑舟は芭蕉の介護で、排泄物の処理など汚い仕事を引き受けていたようだ。水仙が春の使いとなって芭蕉を床から上がれるようにしてくれれば、と祈る。
祈願の句としてはこれまででは一番真情がこもっている。
峠こす鴨のさなりや諸きほひ 丈草
「さなり」は小さな物音のこと。「さなる(そのようになる)」に掛かる。「諸きほひは峠こす鴨のさなりや」の倒置。ここで皆が祈願の発句を競って詠むことは、峠を越す鴨のさなりのような小さな音にすぎないが、そのように芭蕉の病気も峠を越えてくれればな、と祈る。掛詞と比喩が見事な句だ。芭蕉が聞いたなら、「丈草出来たり」というところか。
日にまして見ます顔也霜の菊 乙州
これも比喩で、日ごとに集まる人も増えて、芭蕉の病気が良くなることを祈ってます、ということ。
神無月ネタに走った者、素直に祈願した者、いろいろだけど、其角が「是ぞ生前の笑納め也。」と言ったように事態は悪化していった。
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