朝鮮通信使に関する資料と上野三碑が世界記憶遺産に登録が認められた、というニュースがあった。
朝鮮通信使は芭蕉の時代だと天和二年の秋に来ている。ただし、俳諧のネタにはならなかったようだ。この頃の芭蕉は深川に隠棲し、発句も興行も限られている。春には古池の句の着想を得、新たな俳諧を模索していた時期で、冬には「詩あきんど」の巻を巻くが、直後八百屋お七の大火に見舞われ命からがら隅田川に逃れ、第一次芭蕉庵を失った芭蕉は、その後しばらくは甲斐で過ごすことになる。
貞享元年の『冬の日』「狂句こがらし」の巻の五句目、
かしらの露をふるふあかむま
朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜国
は何か関係あるのかもしれないが、よくわからない。
朝鮮通信使は日本の朱子学の発展に大きく貢献したから、それが朱子学神道の大家吉川惟足の門下生である岩波庄右衛門(曾良)を通じて、芭蕉の不易流行説にも影響を与えたと言えなくもない。そういうわけで、不易流行の起源は韓国にあるニダと、芭蕉を韓国に広めてほしいものだ。芭蕉の句には「恨(ハン)」の心に通じるものもあると思う。
上野三碑は正直初めてその名前を聞いた。ほとんどの日本人はそうなのではないかと思う。群馬の方では学校で郷土史として習うのかもしれないが、全国的にはまったくの無名だ。
そういうわけで急遽ググってみて、ようやく高崎市に山上碑(六八一年)、多胡碑(七一一年)、金井沢碑(七二六年)の三つの碑の古い碑があるというのがわかった。
芭蕉が「壺の碑」として感動の涙を流した多賀城碑が七六二年だから、それよりも古い。
で、何を記した碑なのかというと、ニュースでは書いてない。ネット上に熊倉浩靖さんの「古典としての上野三碑」という論文のPDFに、詳しい解説があった。
2017年10月31日火曜日
2017年10月30日月曜日
今日は台風一過のいい天気だったが、なぜか富士山は黒い姿に戻っていた。地上では木枯らしが吹いているというのに。
さて、「猿蓑に」の巻、二の裏に入り、一気に挙句の果てまで。
三十一句目
寝汗のとまる今朝がたの夢
鳥籠をづらりとおこす松の風 惟然
松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもある。
深くいりて神路のおくをたづぬれば
また上もなき峯の松風
西行法師
の歌もある。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚める。
それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っている。
惟然は俳号としては「いぜん」と読むが僧侶としては「いねん」と読む。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句だ。
三十二句目
鳥籠をづらりとおこす松の風
大工づかひの奥に聞ゆる 芭蕉
かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事だ。
三十三句目
大工づかひの奥に聞ゆる
米搗もけふはよしとて帰る也 支考
「米搗」は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩く。昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていた。都市ではお米屋さんが来て搗いてくれたりもしたのだろう。
大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通り響きで搗く。
三十四句目
米搗もけふはよしとて帰る也
から身で市の中を押あふ 芭蕉
ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためだろう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいるが、惟然はどちらも詠んでいない。
句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけのやり句で、花呼び出しと言えよう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのか。
三十五句目
から身で市の中を押あふ
此あたり弥生は花のけもなくて 惟然
ちょっ、待てよ、そりゃないだろうって、花を出さないの?
まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれない。
陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのだろう。花は咲かなくても市場は人で賑わっている。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれない。利休の水盤の一枚の花びらのような句だ。
挙句
此あたり弥生は花のけもなくて
鴨の油のまだぬけぬ春 支考
春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結ぶ。
鴨は冬にたっぷり脂肪をつけ、春になると減らしてゆく。
この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいだが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないか。
最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのであろう。
ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂だった。「大せつな日が二日有暮の鐘」の咎めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったようだ。
これから大阪へ酒堂と之道の喧嘩の仲裁に行くのだが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わる。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいか。
さて、「猿蓑に」の巻、二の裏に入り、一気に挙句の果てまで。
三十一句目
寝汗のとまる今朝がたの夢
鳥籠をづらりとおこす松の風 惟然
松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもある。
深くいりて神路のおくをたづぬれば
また上もなき峯の松風
西行法師
の歌もある。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚める。
それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っている。
惟然は俳号としては「いぜん」と読むが僧侶としては「いねん」と読む。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句だ。
三十二句目
鳥籠をづらりとおこす松の風
大工づかひの奥に聞ゆる 芭蕉
かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事だ。
三十三句目
大工づかひの奥に聞ゆる
米搗もけふはよしとて帰る也 支考
「米搗」は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩く。昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていた。都市ではお米屋さんが来て搗いてくれたりもしたのだろう。
大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通り響きで搗く。
三十四句目
米搗もけふはよしとて帰る也
から身で市の中を押あふ 芭蕉
ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためだろう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいるが、惟然はどちらも詠んでいない。
句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけのやり句で、花呼び出しと言えよう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのか。
三十五句目
から身で市の中を押あふ
此あたり弥生は花のけもなくて 惟然
ちょっ、待てよ、そりゃないだろうって、花を出さないの?
まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれない。
陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのだろう。花は咲かなくても市場は人で賑わっている。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれない。利休の水盤の一枚の花びらのような句だ。
挙句
此あたり弥生は花のけもなくて
鴨の油のまだぬけぬ春 支考
春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結ぶ。
鴨は冬にたっぷり脂肪をつけ、春になると減らしてゆく。
この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいだが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないか。
最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのであろう。
ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂だった。「大せつな日が二日有暮の鐘」の咎めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったようだ。
これから大阪へ酒堂と之道の喧嘩の仲裁に行くのだが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わる。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいか。
2017年10月29日日曜日
今日は旧暦九月十日。今週ももうすぐ台風が来る。今日も一日雨だった。
それでは「猿蓑に」の巻の続きを。
ニ十三句目
喧嘩のさたもむざとせられぬ
大せつな日が二日有暮の鐘 芭蕉
これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。
ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日、その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。
今日なら喧嘩は戦争に置き換えてもいいかもしれない。みんな親に大切に育てられた子供たちだ。無駄に殺しあうことなかれ。ただ、いろいろな家庭があって虐待された子供たちもいたりするから世の中難しい。ちなみに江戸時代は幼児虐待は死刑だった。
ニ十四句目
大せつな日が二日有暮の鐘
雪かき分し中のどろ道 支考
さて、しんみりした後の展開は難しいが、ここは気分を変えたいところだ。
とりあえず「暮れの鐘」は年末の除夜の鐘のことにして、参道の雪かきをしたが、多くの人が残った雪を踏みしめて通るため、かえって泥道になって歩きにくくなるという「あるある」で展開する。
二十五句目
雪かき分し中のどろ道
来る程の乗掛はみな出家衆 惟然
「乗掛」は乗り掛け馬で、ネットで調べた所、児玉幸多『宿場と街道』の引用で、
「(二)乗掛(乗懸)というのは、人が乗って荷物をつけたものをいう。馬の背の両側に明荷(つづら)を二個つけ、その上に蒲団をしいて乗る。明荷は今では相撲が場所入りの時にまわしや化粧まわしを入れて持ち運ぶために使われている。その荷を乗懸下とか乗尻という。乗掛荷人共というのは、人と荷物がある場合ということである。乗尻の荷物は、慶長七年の規定では十八貫目ということになっていたが、後には二十貫目までとなり、ほかに蒲団・中敷・跡付・小付などで、三、四貫目までは許された。それと人の目方を合わせれば四十貫ぐらいになるわけで、その賃銭は本馬と同じであった。」
とあった。
北国の大きなお寺の法要だろうか。大荷物を抱えたお坊さんたちが馬で次々とやってくる。そのせいで雪かきした道は泥道になる。
二十六句目
来る程の乗掛はみな出家衆
奥の世並は近年の作 芭蕉
陸奥の作柄は近年にない豊作だという。寺領の豊作でお寺関係はさぞかし潤ったことだろう。
二十七句目
奥の世並は近年の作
酒よりも肴のやすき月見して 支考
前句が秋に転じたところで、ここで遠慮せずにすかさず月を出すのがいい。
前句を商人などの噂話とし、それとは関係なく月見の情景を付ける。
何かと見栄を張りがちな武家の月見と違い、商人は質素な肴で酒を楽しむ。「やすき」は廉価と気軽の両方の意味を掛けている。
二十八句目
酒よりも肴のやすき月見して
赤鶏頭を庭の正面 惟然
芭蕉が福井の洞哉の所を尋ねた時の『奥の細道』に、、
「市中でひそかに引入て、あやしの小家に夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。」
とある。路地裏の小さな家の庭など、どこにでもある花だったのだろう。「肴のやすき」の貧相なイメージから、貧相つながりで付けたのだろう。
薄だったら農家の風情で、菊だったら武家の立派な庭、商人には鶏頭が似合うというところか。
なお、鶏頭は食用にもされていたか、
味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花 嵐雪
の句もある。嵐雪のような風流人が知らなかったのだから、この時代には既に廃れていたのだろう。
二十九句目
赤鶏頭を庭の正面
定まらぬ娘のこころ取しづめ 芭蕉
この巻にはなかなか恋の句が出ず、このまま終わるのも寂しいというのか、やや強引に恋に持ってゆく。
ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。
三十句目
定まらぬ娘のこころ取しづめ
寝汗のとまる今朝がたの夢 支考
前句の興奮を夢魔のせいとする。あるいは嫉妬に狂った生霊を飛ばす人でもいるのか。
鈴呂屋書庫の方もよろしく。http://suzuroyasyoko.jimdo.com/
それでは「猿蓑に」の巻の続きを。
ニ十三句目
喧嘩のさたもむざとせられぬ
大せつな日が二日有暮の鐘 芭蕉
これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。
ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日、その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。
今日なら喧嘩は戦争に置き換えてもいいかもしれない。みんな親に大切に育てられた子供たちだ。無駄に殺しあうことなかれ。ただ、いろいろな家庭があって虐待された子供たちもいたりするから世の中難しい。ちなみに江戸時代は幼児虐待は死刑だった。
ニ十四句目
大せつな日が二日有暮の鐘
雪かき分し中のどろ道 支考
さて、しんみりした後の展開は難しいが、ここは気分を変えたいところだ。
とりあえず「暮れの鐘」は年末の除夜の鐘のことにして、参道の雪かきをしたが、多くの人が残った雪を踏みしめて通るため、かえって泥道になって歩きにくくなるという「あるある」で展開する。
二十五句目
雪かき分し中のどろ道
来る程の乗掛はみな出家衆 惟然
「乗掛」は乗り掛け馬で、ネットで調べた所、児玉幸多『宿場と街道』の引用で、
「(二)乗掛(乗懸)というのは、人が乗って荷物をつけたものをいう。馬の背の両側に明荷(つづら)を二個つけ、その上に蒲団をしいて乗る。明荷は今では相撲が場所入りの時にまわしや化粧まわしを入れて持ち運ぶために使われている。その荷を乗懸下とか乗尻という。乗掛荷人共というのは、人と荷物がある場合ということである。乗尻の荷物は、慶長七年の規定では十八貫目ということになっていたが、後には二十貫目までとなり、ほかに蒲団・中敷・跡付・小付などで、三、四貫目までは許された。それと人の目方を合わせれば四十貫ぐらいになるわけで、その賃銭は本馬と同じであった。」
とあった。
北国の大きなお寺の法要だろうか。大荷物を抱えたお坊さんたちが馬で次々とやってくる。そのせいで雪かきした道は泥道になる。
二十六句目
来る程の乗掛はみな出家衆
奥の世並は近年の作 芭蕉
陸奥の作柄は近年にない豊作だという。寺領の豊作でお寺関係はさぞかし潤ったことだろう。
二十七句目
奥の世並は近年の作
酒よりも肴のやすき月見して 支考
前句が秋に転じたところで、ここで遠慮せずにすかさず月を出すのがいい。
前句を商人などの噂話とし、それとは関係なく月見の情景を付ける。
何かと見栄を張りがちな武家の月見と違い、商人は質素な肴で酒を楽しむ。「やすき」は廉価と気軽の両方の意味を掛けている。
二十八句目
酒よりも肴のやすき月見して
赤鶏頭を庭の正面 惟然
芭蕉が福井の洞哉の所を尋ねた時の『奥の細道』に、、
「市中でひそかに引入て、あやしの小家に夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。」
とある。路地裏の小さな家の庭など、どこにでもある花だったのだろう。「肴のやすき」の貧相なイメージから、貧相つながりで付けたのだろう。
薄だったら農家の風情で、菊だったら武家の立派な庭、商人には鶏頭が似合うというところか。
なお、鶏頭は食用にもされていたか、
味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花 嵐雪
の句もある。嵐雪のような風流人が知らなかったのだから、この時代には既に廃れていたのだろう。
二十九句目
赤鶏頭を庭の正面
定まらぬ娘のこころ取しづめ 芭蕉
この巻にはなかなか恋の句が出ず、このまま終わるのも寂しいというのか、やや強引に恋に持ってゆく。
ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。
三十句目
定まらぬ娘のこころ取しづめ
寝汗のとまる今朝がたの夢 支考
前句の興奮を夢魔のせいとする。あるいは嫉妬に狂った生霊を飛ばす人でもいるのか。
鈴呂屋書庫の方もよろしく。http://suzuroyasyoko.jimdo.com/
2017年10月27日金曜日
今日もいい天気だった。明日からはまた台風が来るのかな。
それでは「猿蓑に」の巻、二表に入る。
十九句目
荷持ひとりにいとど永き日
こち風の又西に成北になり 惟然
東風(こち)が吹いたかと思えば西風になったり北風になったり、春の天気は変りやすい。雨になったりすると困るし、荷持ちもそのつどいろいろ気を使うことがあるのだろう。
二十句目
こち風の又西に成北になり
わが手に脈を大事がらるる 芭蕉
昔ニッポン放送のラジオで人間寒暖計と呼ばれている人がいて、持病で天気予報をするコーナーがあったが、天候の定まらない時に持病持ちというのは結構ありがたがられたりするのかもしれない。
二十一句目
わが手に脈を大事がらるる
後呼(のちよび)の内儀は今度屋敷から 支考
前句の「脈」を人脈のことと取り成す。「後呼(のちよび)の内儀」は後妻のこと。コネでもなければなかなか後妻を立派な武家屋敷からなんてことにはならない。大事がられるはずだ。
ニ十二句目
後呼の内儀は今度屋敷から
喧嘩のさたもむざとせられぬ 惟然
立派な屋敷から来た妻だし、ばついちという負い目もあって、こいつあおちおち喧嘩もできん。超軽みの頃なら、そんな付け句になったかもしれない。
それでは「猿蓑に」の巻、二表に入る。
十九句目
荷持ひとりにいとど永き日
こち風の又西に成北になり 惟然
東風(こち)が吹いたかと思えば西風になったり北風になったり、春の天気は変りやすい。雨になったりすると困るし、荷持ちもそのつどいろいろ気を使うことがあるのだろう。
二十句目
こち風の又西に成北になり
わが手に脈を大事がらるる 芭蕉
昔ニッポン放送のラジオで人間寒暖計と呼ばれている人がいて、持病で天気予報をするコーナーがあったが、天候の定まらない時に持病持ちというのは結構ありがたがられたりするのかもしれない。
二十一句目
わが手に脈を大事がらるる
後呼(のちよび)の内儀は今度屋敷から 支考
前句の「脈」を人脈のことと取り成す。「後呼(のちよび)の内儀」は後妻のこと。コネでもなければなかなか後妻を立派な武家屋敷からなんてことにはならない。大事がられるはずだ。
ニ十二句目
後呼の内儀は今度屋敷から
喧嘩のさたもむざとせられぬ 惟然
立派な屋敷から来た妻だし、ばついちという負い目もあって、こいつあおちおち喧嘩もできん。超軽みの頃なら、そんな付け句になったかもしれない。
2017年10月26日木曜日
今日は久しぶりに富士山が良く見えた。山頂から北の斜面が白くなって、富士山らしくなった。
それでは「猿蓑に」の巻の続き。
十三句目
一重羽織が失てたづぬる
きさんじな青葉の比の椴楓(もみかえで) 惟然
これはなかなかわかりにくいが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだろう。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なことか。
きさんじな一重羽織が青葉の頃の樅楓を失せてたづぬる、の倒置になる。
十四句目
きさんじな青葉の比の椴楓
山に門ある有明の月 芭蕉
『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるという。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したか。芭蕉さんのことだから『男色大鑑』を読んでいたかもしれないが、まあ、芭蕉さんのそれはあくまで噂ですから。
山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいだろう。
十五句目
山に門ある有明の月
初あらし畑の人のかけまわり 支考
「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強いやつだと思えばいいのだろうか。風の音に驚かされるのもこの風だろう。
山に門あるから山村の風景とし、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けている。特にひねりのない素直な展開だ。「畑の人の」は「畑を人が」ということ。
十六句目
初あらし畑の人のかけまわり
水際光る濱の小鰯 惟然
畑を海辺の風景とし、人がせわしく駆け回っていると思ったら浜にはイワシの大群が来て海が光って見える。こりゃ大騒ぎするはずだ。鰯も秋の季語。
十七句目
水際光る濱の小鰯
見て通る紀三井は花の咲かかり 芭蕉
紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れている。
行く春にわかの浦にて追付たり 芭蕉
の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、
見あぐれば桜しまふて紀三井寺 芭蕉
の句もある。
実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。
十八句目
見て通る紀三井は花の咲かかり
荷持ひとりにいとど永き日 支考
紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じているのだろう。荷物持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられる。
それでは「猿蓑に」の巻の続き。
十三句目
一重羽織が失てたづぬる
きさんじな青葉の比の椴楓(もみかえで) 惟然
これはなかなかわかりにくいが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだろう。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なことか。
きさんじな一重羽織が青葉の頃の樅楓を失せてたづぬる、の倒置になる。
十四句目
きさんじな青葉の比の椴楓
山に門ある有明の月 芭蕉
『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるという。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したか。芭蕉さんのことだから『男色大鑑』を読んでいたかもしれないが、まあ、芭蕉さんのそれはあくまで噂ですから。
山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいだろう。
十五句目
山に門ある有明の月
初あらし畑の人のかけまわり 支考
「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強いやつだと思えばいいのだろうか。風の音に驚かされるのもこの風だろう。
山に門あるから山村の風景とし、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けている。特にひねりのない素直な展開だ。「畑の人の」は「畑を人が」ということ。
十六句目
初あらし畑の人のかけまわり
水際光る濱の小鰯 惟然
畑を海辺の風景とし、人がせわしく駆け回っていると思ったら浜にはイワシの大群が来て海が光って見える。こりゃ大騒ぎするはずだ。鰯も秋の季語。
十七句目
水際光る濱の小鰯
見て通る紀三井は花の咲かかり 芭蕉
紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れている。
行く春にわかの浦にて追付たり 芭蕉
の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、
見あぐれば桜しまふて紀三井寺 芭蕉
の句もある。
実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。
十八句目
見て通る紀三井は花の咲かかり
荷持ひとりにいとど永き日 支考
紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じているのだろう。荷物持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられる。
2017年10月25日水曜日
今日も一日雨だった。なんかいろいろ事件のあった平成二十九年も、「雨」の一文字で片付けられてしまいそうだな。
遠藤賢司さんは中学高校の頃よく聞いたな。1stアルバムのniyagoはなかなか入手困難だったが、銚子電鉄に乗りに行った時、銚子のレコード屋でたまたま見つけて買ったのを覚えている。「夜汽車のブルース」は良かったね。2ndアルバムの「満足できるかな」は今で言えばちょっとブルータルの入ったデスメタルだな。あのころはハードフォークと言ってたけど。「KENJI」は名盤だった。だけど、「気をつけろよベイビー」は今となってはマスコミの影響力もなくなっちゃったからな。いるのは下痢気味の気弱な、官僚と財界にめっぽう弱いヒットラー?だけだ。「宇宙防衛軍」辺りまでは聞いてたかな。
まあ、エンケンについて語りだすときりがないのでこの辺で「猿蓑に」の巻にいくことにしよう。
九句目
昼寝の癖をなをしかねけり
聟(むこ)が来てにつともせずに物語 支考
場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことか。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴える。
前句を物語の内容とした付け。
聟が来てにつともせずに物語「昼寝の癖をなをしかねけり」
といったところか。
十句目
聟が来てにつともせずに物語
中國よりの状の吉左右(きっそう) 惟然
ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われる。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、
「文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。」
とある。
これでいくと、「中国」という言葉は南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につともせずに物語」からこの婿を、みだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのであろう。
あるいは戦国時代の設定で、中国戦線から吉報がもたらされたということか。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているという。
十一句目
中國よりの状の吉左右
朔日の日はどこへやら振舞れ 芭蕉
朔日(ついたち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりした。
ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になる。いろいろご馳走になったりしたのだろう。
中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになる。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているという。
十二句目
朔日の日はどこへやら振舞れ
一重羽織が失てたづぬる 支考
「柳小折」の巻の七句目に、
小鰯かれて砂に照り付
上を着てそこらを誘ふ墓参 酒堂
とあり、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようだ。
朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話だ。
さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかも。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『こと葉の露』の「いさみたつ」の巻に、
伏見の橋も今日の名残ぞ
懐へ畳て入ル夏羽織 馬莧
という句があるという。
遠藤賢司さんは中学高校の頃よく聞いたな。1stアルバムのniyagoはなかなか入手困難だったが、銚子電鉄に乗りに行った時、銚子のレコード屋でたまたま見つけて買ったのを覚えている。「夜汽車のブルース」は良かったね。2ndアルバムの「満足できるかな」は今で言えばちょっとブルータルの入ったデスメタルだな。あのころはハードフォークと言ってたけど。「KENJI」は名盤だった。だけど、「気をつけろよベイビー」は今となってはマスコミの影響力もなくなっちゃったからな。いるのは下痢気味の気弱な、官僚と財界にめっぽう弱いヒットラー?だけだ。「宇宙防衛軍」辺りまでは聞いてたかな。
まあ、エンケンについて語りだすときりがないのでこの辺で「猿蓑に」の巻にいくことにしよう。
九句目
昼寝の癖をなをしかねけり
聟(むこ)が来てにつともせずに物語 支考
場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことか。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴える。
前句を物語の内容とした付け。
聟が来てにつともせずに物語「昼寝の癖をなをしかねけり」
といったところか。
十句目
聟が来てにつともせずに物語
中國よりの状の吉左右(きっそう) 惟然
ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われる。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、
「文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。」
とある。
これでいくと、「中国」という言葉は南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につともせずに物語」からこの婿を、みだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのであろう。
あるいは戦国時代の設定で、中国戦線から吉報がもたらされたということか。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているという。
十一句目
中國よりの状の吉左右
朔日の日はどこへやら振舞れ 芭蕉
朔日(ついたち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりした。
ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になる。いろいろご馳走になったりしたのだろう。
中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになる。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているという。
十二句目
朔日の日はどこへやら振舞れ
一重羽織が失てたづぬる 支考
「柳小折」の巻の七句目に、
小鰯かれて砂に照り付
上を着てそこらを誘ふ墓参 酒堂
とあり、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようだ。
朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話だ。
さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかも。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『こと葉の露』の「いさみたつ」の巻に、
伏見の橋も今日の名残ぞ
懐へ畳て入ル夏羽織 馬莧
という句があるという。
2017年10月24日火曜日
「猿蓑に」の巻の続き。
五句目
篠竹まじる柴をいただく
鶏があがるとやがて暮の月 芭蕉
昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。
鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、
狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く
を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。
六句目
鶏があがるとやがて暮の月
通りのなさに見世たつる秋 支考
舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾の「秋」はいわゆる放り込みで、とってつけたような季語だが、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。
初裏
七句目
通りのなさに見世たつる秋
盆じまひ一荷で直(ね)ぎる鮨の魚 惟然
盆仕舞いはお盆の前の決算のことで、年末の決算に対する中間決算のようなものか。
馴れ寿司を仕込むために魚屋に声かけて、天秤棒に背負っている魚を全部買うから負けてくれと交渉する。人通りのないところで他に売れそうもないので魚屋もしぶしぶ承諾し、今日は店じまいとなる。
鮨は夏の季語だが、お盆(旧盆)の頃でもまだ暑いので十分醗酵させることが出来る。
八句目
盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚
昼寝の癖をなをしかねけり 芭蕉
この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、
「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」
と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。
だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。
ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。
前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。
五句目
篠竹まじる柴をいただく
鶏があがるとやがて暮の月 芭蕉
昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。
鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、
狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く
を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。
六句目
鶏があがるとやがて暮の月
通りのなさに見世たつる秋 支考
舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾の「秋」はいわゆる放り込みで、とってつけたような季語だが、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。
初裏
七句目
通りのなさに見世たつる秋
盆じまひ一荷で直(ね)ぎる鮨の魚 惟然
盆仕舞いはお盆の前の決算のことで、年末の決算に対する中間決算のようなものか。
馴れ寿司を仕込むために魚屋に声かけて、天秤棒に背負っている魚を全部買うから負けてくれと交渉する。人通りのないところで他に売れそうもないので魚屋もしぶしぶ承諾し、今日は店じまいとなる。
鮨は夏の季語だが、お盆(旧盆)の頃でもまだ暑いので十分醗酵させることが出来る。
八句目
盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚
昼寝の癖をなをしかねけり 芭蕉
この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、
「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」
と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。
だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。
ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。
前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。
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