2017年2月28日火曜日

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

 この句は誰もが知っているが、それはたいてい教科書に載ってたり、試験の時に覚えさせられたからで、この句のどこがいいのかわからないという人も多いことだろう。無理もない。三百年以上も前の「あるある」なんてそう簡単にわかってたまるものか。
 この句は一般的に、蛙の音に静寂を感じ、同時にそれが心の平静、いわば禅の境地を表すかのように言われている。それは、『奥の細道』の、これもまた有名な、

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声  芭蕉

の句にも言えることで、そこから芭蕉には常に、心頭滅却した禅僧のイメージがついて回る。
おそらくは芭蕉の弟子の一人、各務支考の解釈に行き当たるのであろう。しかし、近代にあっては、それ以上に正岡子規の影響力を否定できない。
 子規の解釈は、単にこの句が静寂を表すという解釈を受け継ぐだけではなく、それがそのまま作者の句作に対する態度の静寂であり、作為や技巧(掛詞、援護、比喩、暗示、象徴、観念、洒落、滑稽、等)も排したということと、心に一転の曇りもないということを結びつけるというものだった。それはまさしく近代俳句の理想であり、今日でも俳句や短歌に作為や技巧があると、「疵」があると言われる状況にある。
 しかし、それは正岡子規が書いた時期も違う三つの解釈をごちゃ混ぜにしてできたような通念だった。
 正岡子規は明治二十二年の『古池の吟』の中でこう言っている。

 「『古池や蛙飛び込む水の音』とは誰も知りたる蕉翁の句なるが、その意味を知る者は少し。余は六、七年前にある人の話を聞きしに、こはふかみの三文字を折句にせしものなり‥(略)‥余、この説を信じてなかなかわからぬものとして考へたることなかりき、しかるにこの春スペンサーの文体論を読みし時、minor imageを以て全体を現はす、即ち一部をあげて全体を現はし、あるはさみしくといはずして自らさみしきやうに見せるのが尤詩文の妙処なりといふに至て覚えず机をうって『古池や』の句の味を知りたるを喜べり。悟りて後に考へて見れば、格別むづかしき意味でもなく、ただ池の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたるまでなり。」

 スペンサーと言う、当時としては最新の知識でこの句が解けたという子規の喜びは、大変よく伝わってくる。当時、子規はまだ二十三歳。最初の喀血があり、「子規」という業を思いついたのもこの年だった。
 この頃子規はまだ、俳句革新なんてことは考えてなかった。ただ、スペンサーと言う、当時としては最新の知識でこの句が解けたと喜び勇んだだけだったと思っていい。若者にはありがちなことだ。
 ただ、この最初の子規の解釈はその後も様々な形で踏襲されてゆく。

 「春深いころのひっそりとした昼ま、時おり、ボチャッと水面に音を立てて蛙が飛び込むと、一瞬静寂が破られ、すぐまたもとの静寂に帰る。」(『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、一九六七、桜楓社)

というのもその一例だ。
 「ふかみ」の三文字を折句にしたという説は『誹風柳多留』という川柳点に見られるもので、

 蛙飛ぶ池はふかみの折句なり

のことを言うのだろう。俳論といえるようなものではないし、俗説の類と見ていい。当時の俳諧師匠たちが言ってたのではなく、たまたま聞きかじった説をいかにも有力な説であるかのように言ってみただけのことだろう。
 ただ、ひょっとしたらこの折句は意識されていたかもしれない。偶然であるにしても、芭蕉自身気づいてひそかにほくそ笑んでたかもしれない。
というのも、古池の句の発表された貞享三年(一六八六)の前後には、かなりの頻度で複雑な言葉遊びが試みられているからだ。
 たとえば貞享元年(一六八四)の『野ざらし紀行』の中の句、

   二月堂に籠りて
 水とりや氷の僧の沓の音

はどうだろうか。この句は「こもり」と「こおり」を掛けているのみならず、「水」「氷」「沓」という水のつく字を三つ並べている。

 秋風や藪も畠も不破の関

これも、「やぶる」も「はだける」も「破れず」という遊びを含んでいる。
 古池の句と同じ歳に発表された、

 明月や池をめぐりてよもすがら

の句も、一見無造作そうだが、よく見ると、

 めいけつや池をめくりてよもすから

の頭「めいけつ」のあとに「池」「め」という文字が並び、「めいけつ」が逆さまになっている。あたかも池に逆さまに映った月が揺らいでいるかのようだ。
 さらに、元禄二年(一六八九)、『奥の細道』の旅の句でも、決して言葉遊びが少ないとは言えない。

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 象潟や雨に西施がねぶの花
 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

の掛詞は言うまでもなく、

 行春や鳥啼魚の目は泪

の「目」と「泪」、

 夏山に足駄を拝む首途哉

の「足」と「首」、

 あつみ山や吹浦かけて夕涼

の「あつみ=暑」を「吹く」と「涼」となる、といった言葉遊びが目立つ。

 山寺や石にしみつく蝉の声

も「立石寺」の吟だし、同じ遊びは石山寺の、

 石山の石より白し秋の風

で行なわれている。「白」は五行説で秋を表す色であり、石の白さが縁となって「秋」を導き出している。
 こうした高い頻度で登場する言葉遊びは、決して貞門時代の悪弊などという言葉で済むものではない。俳諧は本来言葉遊びだし、芭蕉もひと通りの言葉遊びの可能性は試していただろう。
 復本一郎の『俳句を楽しむ』(一九九〇、雄山閣出版)に書かれている計算によると、『奥の細道』の五十句中十二句にこうした言葉遊びが見られるというが、目立たない微妙なものまで含めると、明らかにそれ以上になる。こうした句を得意とする芭蕉であれば、「ふかみ」を折句にするくらいのことはやったかもしれない。ただ、折句はあくまで隠し味のようなもので、別に「深み」ということを言いたかったわけではあるまい。句の本質ではなく、句の飾りの部分であろう。
 古池の句は実は「ふかみ」の折句だけではない。五七五の頭二文字を取ってゆけば「降る」「川」「水」と、水にまつわる語が三つ並んでいる。これは縁語と言っていいだろう。
 近代俳句だと原稿料の問題もあるのか、一句だけで発表することは稀で、十句連作だとか句集だとかいう形で発表されるのが普通だ。俳句誌の巻頭を飾るべく、毎月十句の連作をノルマにしている近代俳人と違って、かつての俳諧師の発句は一度の興行に一句詠めばよかった。それはあくまで興行の際の発句であり、特に蕉門の場合、撰集や紀行文に載せる発句はかなり厳密に吟味され、時間をかけて推敲され、完成されていった。
 芭蕉は決して無造作な句など詠んではいない。芭蕉の句は隅々まで計算され尽くしたものであり、だからこそ時代を超えるだけの力を持っている。それが一見無造作に見えるのは、技巧が完成されているからだ。それはちょうど『荘子』の「包丁解牛」のようなもので、技巧が身についてなければ、その試行錯誤のあとが仕上がりの際の表に現われてしまうが、真に技術を極めた包丁人の手にかかると、あたかもはじめから切られるべくして切れたかのように、包丁の跡が残らない。たとえば、

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句は、あたかも一瞬にして「はっ」と浮かんできたかのように見え、どこにどういう技法が使われたか解くのは困難だ。しかし、

 山寺や石にしみつく蝉の声

であれば、われわれは容易にその思考の跡をたどることができる。山寺の名は立石寺、その立石寺の石に、はかなく短い夏の命を鳴く蝉の声が数百年にわたって染み付いている。
 蝉は『徒然草』第七段に「夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」とあり、中世の歌人は好んで蝉のはかなさをテーマとしてきたし、芭蕉も元禄三年(一六九〇)に、

 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

と詠んでいて、はかない命を象徴させている。多分に人類が終ることなく繰り返す数々の悲劇が、立石寺にそびえ立つ岩に染み付いているように感じられたのであろう。
 それをまず、「立石寺」と「石」の縁を「岩」に変えることによって目立たなくし、「しみつく」という直接的な言い回しも避け、、数々の悲劇を刻みながらも一見何ごともなさそうに見える岩の姿の幽玄さを表すべく、「閑かさや」の五文字が選ばれ、完成に至った。多分にこの時、王籍の、

 蝉噪(さわ)いで林逾(いよいよ)静かに
 鳥鳴いて山更に幽なり

の詩句を意識したのであろう。そして、この静かさを見出す前の段階に、

 さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ
 淋しさの岩にしみ込せみの声

という句がある。完成句を表面的に見れば、蝉の声に静けさというminor imageの方が目につくが、決してそれだけではない。
 古池の句で用いられた技巧が、単なるminor imageだという解釈も、若き子規には新鮮で感動できたかもしれないが、果たして芭蕉の時代の高度に洗練され、頂点にまで達していた複雑の技法からすれば、あまりに稚拙なものだった。
 古池の句もまたその場でふっと浮かんできてできた句ではない。
 復本一郎は『芭蕉古池伝説』(一九八八、大修館書店)の中で、古池の句の成立過程を考察している。それによると、この句の最も確実な初出は、貞享三年(一六八六)の三月下旬に公刊された西吟編の『庵桜』の、

 古池や蛙飛んだる水の音       桃青

であり、一ヵ月後の閏三月の『蛙合』に、

 古池や蛙飛び込む水の音

という形で現われることになる。ここから貞享三年春に古池の句が成立したという説が一般に定着している。
 しかし、『蛙合』が大勢の弟子達の蛙の句を持ち寄った句合せで、中には京都の去来の句も入っている。果たしてこの年の春に詠んだ句が一ヶ月も経たずに『蛙合』という形に編集され、出版されたかどうかという疑問が残ることになる。
 復本一郎は、やや疑問は残るものの、鈴木勝忠が貞享元年(一六八四)二月中旬と推定した書簡を掲げている。

 「先達而(せんだって)の山吹の句、上五文字、此度、句案(あんじ)かへ候間、別に認遣(したためつかは)し候。初のは反古に被成可被下(なされくださるべき)候。此度、其角行脚致し候。是又宜(よろしく)御世話頼(たのみ)入候。
 知足様                  芭蕉」

 この手紙を信用するなら、古池の句の完成は貞享元年春で、それならゆっくり『蛙合』を企画することもできたであろう。そして、この手紙では同時に、

 山吹や蛙飛び込む水の音

というっ原案があったことも裏づけられることになる。
 そこで出てくるのが、支考の『俳諧十論』にある、

 「天和の初ならん、武江の深川に隠遁して、古池や蛙飛び込む水の音、といへる幽玄の一句に自己の眼をひらきて、これより俳諧の一道はひろまりけるとぞ。」

や『葛の松原』にある、

 「弥生も名残をしき此にやありけむ。蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、蛙飛こむ水の音、といへる七五は得玉へりけり。晋子(榎本其角)が傍に侍りて、山吹といふ五文字を冠らしめむかと、およずけ侍るに、唯、古池とはさだまりぬ。」

だ。
 後者にはその後いろいろ尾鰭がついて、それこそ其角が「山吹や」と言ったら芭蕉に一喝されただとか、「古池や」と芭蕉に言われ、俳諧の極意を悟り泪を流しただとかいう話が流布したが、この芭蕉と其角の過ごしたその日のうちに「古池」と定まったとはどこにも書いていない。もし知足宛書簡が本物だとすれば、天和二年(一六八二)に芭蕉は「蛙飛び込む水の音」の下七五を得、一度は其角の助言を入れ「山吹や」としたものの、貞享元年春に「古池や」に改めた、という推定が可能になる。

2017年2月26日日曜日

 連歌は句を付けるさいに、適度の難易度を調整してゲーム化する過程で、様々なルールが定められてゆき、それは「式目」にまとめられていった。俳諧に明確な式目はないが、おおむね連歌の式目に準じてきた。
 ただ、俳諧を面白くするためにはただルールを杓子定規に守ればいいというものではなく、ルールをきわどい所でかいくぐってみたり、多少の違反は流したり、それだけでなく歌仙という短い形式にあわせて去り嫌いのルールが簡略化され、連歌の五句去りが俳諧では三句去りになったりした。
 また、俗語の使用についても、最初の貞門の俳諧では一句に一語と制限されていたが、蕉門においては無制限になった。これによって俗語ではない雅語の部分に関して一々頌歌を引いてきて正しい雅語かどうかを検証する手間がなくなり、雅語を知らない人でも気軽に参加できるようになった。
 季語というのも、本来は連歌をゲーム化してゆく過程で、句材を様々に分類する中で生まれたもので、連歌では季節の言葉だけでなく、山類、水辺、居所、衣装、植物(うえもの)、獣類、鳥類、虫類など、細かく分類され、それぞれに去り嫌いのルールが定められていった。これは簡略化されながらも俳諧でも受け継がれていった。
 ただ、こういった季題の分類の中で季語が特殊な位置を占めたのは、それが発句に必要なものとされ、いわば連歌や俳諧の興行の開始の際の挨拶に用いられたからで、季語の心は基本的には季候の挨拶の心だというのはそういう事情による。
 挨拶として日常的に求められる以上、季語は単なる自然現象を言い表す言葉ではなく、春に万物を生じ秋に止むという生死の循環の比喩を含み、花が咲くのを喜び月に涙を流し、様々な古典作品に表れた季語の心を受け継いで日常的なコードとして用いるようになった。
 「春だねえ」という言葉は喜びを含み、「秋も深まったなあ」といえば寂しさを含む。「桜が咲いたね」と言えば春もまさに今がたけなわ、「月が綺麗だね」といえば秋の澄んだ空のように澄んだ心を表す。
 自然を比喩として用い、日常の会話に取り込んでコード化してゆくということは、もちろんいつの時代にもどこの民族でもやっていることだろう。ただ、その内容はその土地の生活や風土によって微妙に異なってくる。
 「槿」は日本では「一日にして栄を為す」のはかなさとはかない命への満足をメタファーとするが、韓国人はむしろ根絶やしにしようにもできないそのしぶとい生命力のメタファーとして国花としている。こうなると、韓国人の槿の心は日本人には理解しがたい韓国人独自のコードとなる。
 日本人の季節の心が西洋人にわからないとすれば、それは日本人の長い生活から練り上げられたコードだからで、もちろん西洋人が西洋の四季に対して持っている感情は日本人には計り知れないものもたくさんあるだろう。こういうのは「お互い様」という感覚を持たなくてはいけない。相手の国のことを深く理解すればこうした違いというのはそのうちわかってくるものだが、一朝一夕というわけにはいかない。外国人が日本の四季の心を理解しないからといってもあせってはいけない。こういうのは時間を要することだ。
 今の脳科学ではどうなのかしらないが、昔は例えば虫の音など日本人は左脳で聞き、西洋人は右脳で聞くなんてことがまことしやかに言われていた。日本人が虫の音を左脳(言語脳)で聞くとすれば、それは虫の音を単なる自然現象として聞くのではなく一つのメタファーとして捉えているからといえよう。日本人でも外国に行って初めて聞くような虫の音や鳥の声に接したら、そこには何のメタファーもなく、単なる自然の音として聞くことになるだろう。
 時代が変われば同じ日本人でも失われたメタファーはある。

 古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉

のような当時の多くの人に響いた言葉も、芭蕉の死後かなり早い時期に既に意味不明になり、神秘化されてゆくことになった。そして明治になって正岡子規が、これはマイナーイメージで水の音に静寂を聞きつける句だということで、大体近代的な解釈は固まっていった。
 逆に夕焼けや満天の星空などは江戸時代の人はほとんど関心を持ってなかった。単なる自然現象として扱われ、深い心を込めたメタファーとなることはなかった。
 日本人が四季の移ろいに感じていた心は、実は時代によってもかなり大きく変わってきている。だからこそ、昔の俳諧を読むことは難しく、わかったときの感動も捨てがたいものとなる。
 季節一つとってもこうなのだから、いろいろな文化の異なる民族が共存するというのは簡単なことではないし、いろいろな軋轢が生じるのは当然なのだということは認識しなければならない。こうした問題の解決のヒントは、メタファーを読み解く楽しみだと思う。わからないから排除するのではなく、わからないから知りたいと思うことが、解決への唯一の道だと思う。
 当「鈴呂屋俳話」は過去の日本人のメタファーの解読を通じて、世界中の人々が固有のメタファーを持ち、それを理解することに喜びを感じるようにするための第一歩だとしたい。

2017年2月25日土曜日

 芭蕉が四季をどう捉えていたかは、『笈の小文』の冒頭の部分に記されている。

 「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 ここでいう「四時」は「四季」と同じと見ていい。春夏秋冬あるなかで、特に春の「花」と秋の「月」とを挙げているのは、俳諧では月花の定座があり、他の季題とは違う特別な扱いをされているからだ。
 春夏秋冬、季節の移ろいを友として生きる時、「花」は単に春に咲く桜の花のことではない。花は物理的生物学的な「花」を意味するのではなく、同時に比喩としての花であり、比喩としての花はいわば「心の花」だ。
 時は移ろい咲く花もすぐに散ってしまうが、心の花は散らない。それは物質としての花ではなくあくまで比喩としての花だからだ。
 花の定座にも、実際には桜の花ではなく比喩としての「花」でも正花として扱われる言葉がいくつかある。「花火」「花嫁」「花相撲」「花燈籠」「作花」「花鰹」「華やか」なども正花になる。現代なら「花の女子大生」や「花のOL」でも正花だろうか。
 連歌でも「にせものの花」と呼ばれ、水無瀬三吟では「法(のり)の花」という言葉が出てくる。「心の花」もにせものの花になる。
 花月、花鳥風月、そのほか様々な季題にしても、必ずしも自然現象や人事を意味するだけでなく、比喩としての季節が大事であり、むしろ比喩の方がその季節の本質とされている。
 季節の心というのは、基本的には易経の「春に万物を生じ、秋に止む」という、四季を生命の循環に例えたもので、春に生まれ夏に盛りを迎え、秋に年老い、冬に死ぬ、ということが基本になる。
 こうした比喩は温帯地域に暮らしている人からすれば、多くの一年生の植物が春に芽を出し夏に育ち秋に衰え、冬に枯れ果てて行くのを常に目の当たりに見ているし、落葉樹もまた春に芽を出し秋に落葉し、冬に枯れ木となるのを見ている。これを人間の一生に喩えるという発想も、何ら珍しいものではないし、どこの国が起源なんてこともなく、温帯地域の人なら誰でも思いつくことだと言ってもいい。少年から大人への階段を登る頃を「青春」とよび、働き盛りの時代を夏に喩え、老いてゆく姿に天下の秋を重ね合わせるというのは、ほとんど自然発生的に誰もが思いつくことで、それゆえに特定の文化伝統を超えた「不易」として認識される。
 恋を四季に喩えるのも同様だ。春に出会い夏に燃え盛り秋に別れ冬に一人淋しくというのも、誰が発明したというわけでもない。温帯地域に住む人間としては自然な発想だ。
 その中で移ろい行く季節の中で最も生き生きとして価値のある美しいものを「花」と呼ぶのも自然な発想だ。「恋人を最初に花に喩えた人は天才だ」と言った人がいたが、恋人を花に喩えるのに天才の出現を待つ必要などない。そんなことは誰でも思いつくことだ。
 昔の人は四季の持つこうした比喩としての情、本意本情を日本人だけがわかる特別なものなどと思うことはなかった。それはまさに「不易」の情で、時代や民族を超えた普遍的なものだと確信していた。その情は文明人であれば誰しも共有できるもので、そうでないなら「鳥獣に類ス」だった。

 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり  芭蕉

の句にしても、槿の花は人間からすれば「一日にして自ら栄となす」という比喩を読み取ることが出来るが、馬にはそのような比喩などわかるすべもなく、ただ食料として食べてしまう。
 さて、日本人が日本の季節の美しさを賛美する時、それがしばしば外人にはわかるまいというナショナリズムに結びつくのは、「鳥獣に類ス」の前にある「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし」の部分だろう。心花にあらざれば「鳥獣」で、像花にあらざれば「夷狄」とするその差は一体何だろうか。一見してわかるのは「心」と「像」、字が違うということだ。
 「像」というのは形を表す「象」に人偏がついているように、人間から見た「かたち」つまり「似姿」のことを言う。これは「表現」と言ってもいいだろう。心の中に花があるかどうかは直接は見えない。それを形に表現した時、花の有無は判断できる。つまり生活の中で盛んに季節の比喩を用い、花や月の心を表現しているかどうかが「夷狄」かどうかの分かれ目になる。季節の様々な事象を比喩として表現し、生活の中に溶け込ませているというのが、昔から日本人にとっての「花」だった。そう考えて間違いないだろう。
 四季の移ろいは温帯地域ならどこにでもある。だが、それを比喩として生活に溶け込ませているのは明らかに文化だ。青春があって老いてく姿に秋を感じ、春に出会って秋に別れる恋がある。そこまでなら温帯地域ならどこの国の人でも思いつくことだろう。それは恋人を花に喩えるようなものだ。ただ、日本人はそれを連歌俳諧を通じて季語の体系を生み出し、日々の話題にする文化を作り上げた。それは誇ってもいいだろう。
 勿論こうした文化は韓国にも中国にもある。彼らもまた美しい四季のある国に生まれたことを誇る権利がある。西洋にもこれに類するものがあるのなら、やはりそれは誇っていいだろう。これらは文化であり、必ずしも同一ではない。しかし同じ人間である以上、それほど大きくかけ離れてはいないだろう。ただ、比喩であり文化である以上、互いに理解し難い部分があってもおかしくはない。
 人間の心は長い進化の歴史の中で獲得された遺伝的なもので、それゆえ「不易」である。これに対しそれをどのように表現するかは文化の問題で、それは時代や地域によって異なる「流行」である。それを理解することが、偏狭なナショナリズムに陥ることもなく、かといって自らの文化伝統に自虐的になることなく、他の文化との相対性を理解しながらその価値を自覚してゆく道なのではないかと思う。それがまさに芭蕉の「不易流行」の心だと思う。

2017年2月24日金曜日

 発句に季語を入れるのは、本来は興行を開始する際の季候の挨拶を兼ねていたからで、「今日はいいお天気で」だとか「今日は寒いですね」だとか、「菊薫る候になりまして」だとかいうのと同じ感覚だった。この「鈴呂屋俳話」でも、そういう入り方をしている日が多いのはお気づきのことと思う。
 会話の導入部で季節の話題に触れるのは、多分日本だけではないだろう。四季のはっきりしない国でも、その日の暑さのこととか、雨がいつ降るのかだとか話題にするのは、別に珍しいことではないかと思う。
 あるあるネタにしても、どこの国でも冗談を言って笑いあったりするときには自然と言っていることだと思う。
 ただ、われわれがその文化を誇りに思うのは、どこの国でもありながら何気なく見過ごされていることを高く評価していることだと思う。
 日本の四季のうつろいが特別美しいのではない。どこの国でも季節はあって美しい自然や面白い行事や風物などがあったりする。あえていうなら、それを誇りとしていることが誇りなんだと思う。
 多分アメリカンジョークにしても、どこの国の人も冗談は言うと思う。それを誇りにしていることがアメリカ人のアメリカ人らしさなのだと思う。
 韓国人は東方正義の国として礼節の高さを誇りにしているが、礼節はどこの国にもある。それを誇りにすることが誇りなんだと思う。
 人間なんてのは所詮同じ遺伝子を持つもので、いつの時代でもどこの国でもそんなに本質的に変わるものではない。ただ、何に重点を置くかという点では、その文化の個性が表れると思う。日本ではみんなが仲良く打ち解けるために、季節を話題にし、日常のありがちなことを笑いにする、その文化に誇りを持っている。それは悪いことではないと思う。
 人の心の不易は時間だけでなく空間をも越える。もろこしにも印度にも風流はある。そして日本にも日本の風流がある。それで何も問題はないと思う。アメリカにもヨーロッパにも中国にも韓国にも四季はある。日本には日本の四季がある。ただ、日本人はそれをことさら重視して誇りとしているだけのことで、それが平和の文化である限り非難されるようなことではない。核兵器の数を誇るよりはよっぽどましだろう。
 問題は日本人自身が自虐的になり、日本の四季を誇らなくなっていることの方だろう。除夜の鐘が騒音だとか、花見で一杯やっているのが国の恥だとか、アメリカ生まれの芸人がちょっと日本の四季のことでコメントしたら「そ~お~で~すよ~~」なんてすぐ尻馬に乗りたがる奴。どうにかならんか。
 日本の文化と言ってもその多くは中国起源ではないかと言われれば、それには反論しない。でもそんなことを言ったら、欧米の文化ってみんなギリシャやイスラエルが起源じゃないか。

2017年2月22日水曜日

 今日は新暦では2月22日、にゃんにゃんにゃんで猫の日。とはいえ、「猫好きは来る年来る年猫の年」って川柳があるように、猫好きには毎日が猫の日なのではないかと思う。
 しまったなと思ったのは、猫の恋のことを一昨日書いてしまったことだ。今日に取って置けばよかった。そういうわけで、今日は猫の恋の句の拾遺。
 まず、

 北窓に後めたしや猫の恋     万山 「西國曲」

 昔は冬の間は北窓を塞いでいた。「北窓塞ぐ」は冬の季語になっている。春になると北窓を開ける。その頃ちょうど猫の恋が始まり、そこから猫が出入りする。「うしろめたし」はかつてはやましいことがある時だけではなく、単に気がかりなことがあるという意味でも用いられた。

 美尾谷が錣(しころ)になくや猫の恋 卷耳 「北國曲」

 これは源平屋島合戦の時、悪七兵衛景清(平景清)と源氏方の美尾谷十郎国俊と格闘になり、国俊の兜の錣(しころ)をひきちぎったという逸話から来ている。雄猫同士の喧嘩する姿からの連想か。

 痩る程恋する猫や夜の雨     貴和 「北國曲」

 これは「麦めしにやつるゝ恋か猫の妻 芭蕉」と似ている。果たして本当に恋猫が食欲をなくすのかどうかはよくわからない。擬人化している感じがする。支考は「うき恋にたえてや猫の盗喰」と詠んでいる。

 猫の恋通ふや犬の鼻の先     重行 「陸奥鵆」

 これも「またうどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉」と似ている。

 朧月猫とちぎるや夜の殿     越闌 「正風彦根躰」

 これも「猫の恋やむとき閨の朧月 芭蕉」に似ている。猫の恋もこの辺でネタ切れか。
 猫の恋ではないが、春の猫の句。

 春雨や寝返りもせぬ膝の猫    桃醉 「陸奥鵆」
 若菜摘姿なりけり猫背中     秏登 「皮籠摺」
 あれちらせ上野の梅に猫のこゑ  厚風 「二葉集」
 行春や猫に胡蝶のそで別     正興 「西國曲」
 出代やあとに名残の猫の声    丶嶺 「西國曲」
 うそ眠る猫のつらはる椿かな   一桃 「杜撰集」
 柳されて嵐に猫ヲ釣ル夜哉    木因
 猫の尾の何うれしいぞ春の夢   賢明
 猫逃げて梅ゆすりけり朧月    言水
 ねこの子のくんずほぐれつ胡蝶哉 其角

 というわけで、春の猫はとりあえずこんなところで。

2017年2月21日火曜日

 朝、家を出るときに見る月もすっかりやせ細り、逆三日月のような姿になってくると、そろそろ旧暦の正月(一月)も終わりかと思う。
 正月の句について書くなら、もう後がないといったところか。如月になる前に、

 今朝国土笑はせ初ぬ俳諧師    高政

 菅野谷高政は宗因の高弟で京都談林の中心人物だった。
 この句からは、江戸時代の俳諧師のイメージが今日の俳人のイメージと随分と異なることが感じ取れる。
 彼らは文人として知識人の一翼として世間からの尊敬を集めてはいたものの、そこには真面目で神経質な芸術家というイメージはない。
 子弟の間ではぴりぴりとした関係はあっただろう。仲間同士で真剣な議論をすることもあっただろう。でも世間の前では笑いを振りまく存在だった。
 それは今日の「芸人」の世界に近いといってもいいのではないかと思う。テレビでおちゃらけて笑いを振りまいてはいても、その裏では厳しい修行があり、上下関係があり、真剣な議論がある。お笑いの道も決して誰でもできるような生易しいものではない。ただ、それを表に出さないのがプロというものだ。
 今日でもお笑い芸人の世界からいっぱしの文化人になった者がいる。ビートたけしなどそのいい例だ。今や世界に誇る北野監督だ。
 多分、たくさんの弟子達を抱えた芭蕉翁の姿は、たけし軍団に近いものがあったのだろう。今だったら芭蕉は「翁」ではなく「殿」と呼ばれていたかもしれない。
 そのほかにもピース又吉のように芥川賞を取る芸人もいる。
 俳諧師になるものの素性は様々だが、江戸時代の俳諧文化の礎を築いた松永貞徳は藤原惺窩に儒学を学んだ儒者だった。それだけでなく古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人だった。「松永」の姓も戦国武将の松永弾正の甥ということで、由緒正しい血筋を表わしている。
 その貞徳の句はというと、

 霞さへまだらにたつやとらの年
 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな
 花よりも団子やありて帰る雁
 冬ごもり虫けらまでもあなかしこ

といったもので、真面目な学者が馬鹿をやると、それだけで面白い。馬鹿をやっているようでも、「雲は蛇」の句は、中国では月の模様を兎ではなく蛙に例えていることを知っていないとわからないし、そういうところでチラッと教養を覗かせたりする。
 もちろん、今日のお笑い芸人も結構そうそうたる名門大学の出身者が多い。ネタもかなり高度な知識を必要とするものがあったりする。それを思うと、貞徳は今日の芸人の祖だったと言ってもいいのだろう。
 才能があるからといって偉ぶってはいけない。才能がある人間がその才能でもって人を笑わせ、溢れる知性をみんなを幸せにするために使う。決して戦争のために使ったりはしない。それが日本の文化人のあるべき姿であり、その伝統は今でも生きている、と信じたい。
 正岡子規は「芭蕉雑談」のなかで「貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)」という言い方をしているが、芭蕉が見出したのはシュールネタや古典のパロディー、文体のパロディーなどいろいろ試みているうちに最終的に今日で言う「あるあるネタ」に至ったのではないかと思う。
 「あるあるネタ」は実際にあることを句に詠むわけだから、写生だと言われれば写生にも見える。ただ、近代の写生がもっぱら作者個人の体験の伝達であるのに対し、あるあるネタは誰もが思っている共通の体験を言い当てることで笑いをもたらす。この笑いが蕉門にとって重要だった。
 あるあるネタは今でも芸人ネタの主流を占めていて、シモネタにさえ気をつければそれほど下品に流れないから、日常の会話でも上手く用いれば洗練された会話術になる。
 よく日本人は冗談がいえないと言うが、大仰なアメリカンジョークみたいなものは日本人には馴染まない。あるあるネタが理解できれば日本人の高度なお笑い文化が理解できるはずだ。

2017年2月20日月曜日

 ちょっと前までは春が来たなと思う頃になると、家の前にどこからともなく猫がやってきて、猫同士がかちあったりすると、「おわあああああーー」「うわうおおおおおーー」と喧嘩をおっぱじめたりするものだった。ここんとこ、この声を聞いてない気がする。
 猫のもたらす毎年恒例のこの行事を、昔に人は「猫の恋」と呼んだ。あれは発情の声というよりは、雌のもとに通ってくる雄猫たちの喧嘩の声だ。
 猫の恋を詠んだ句はたくさんある。
 まず猫が通ってくる。

 猫の妻竃(へつい)の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
 京町のねこ通いけり揚屋町       其角 「焦尾琴」

 そして声を上げる。

 猫の恋初手から鳴きて哀れなり     野坡 「炭俵」
 あたまからないて見せけり猫の恋    枳邑 「二葉集」
 我影や月になを啼猫の恋        探丸 「続猿蓑」
 おもひかねその里たける野猫哉     巳百 「続猿蓑」
 いろいろの声を出しけりたはれ猫    穂音 「一幅半」
 田作りの口で鳴きけり猫の恋      許六

 浮かれる。

 石磨の音にうかれつ猫の恋       孤松 「幾人主水」
 まとふどな犬ふみつけて猫の恋     芭蕉 「茶のさうし」
 猫の恋のぼりつめてか屋根の音     信昌 「一幅半」

 恋に迷う。

 ふみ分て雪にまよふや猫の恋      千代女
 行衛なき恋に疲や船の猫        擧桃 「花の雲」
 うき恋にたえてや猫の盗喰       支考 「続猿蓑」
 麦めしにやつるゝ恋か猫の妻     芭蕉 「猿蓑」

 喧嘩する。

 うき友にかまれて猫の空ながめ     去来 「猿蓑」
 にくまれてたはれありくや尾切猫    芦本 「皮籠摺」

 懐旧。

 懐旧や雨夜ふけ行猫の恋        千那 「鎌倉街道」
 ははき木の我が影法師や猫の恋     斗曲 「北國曲」

 邪魔される。

 手をあげてうたれぬ猫の夫かな     智月 「卯辰集」
 のら猫の恋ははかなし石つぶて     等年 「西國曲」
 雨だれの水さされてや猫の恋      化光 「北國曲」

 終わり。

 猫の恋やむとき閨の朧月        芭蕉 「をのが光」
 うらやまし思ひ切る時猫の恋     越人 「猿蓑」
 盗して見かぎられけり猫の妻     乙由 「皮籠摺」
 羽二重の膝に飽きてや猫の恋    支考 「東華集」
 傾城の生れかはりか猫の妻      木導 「韻塞」

 今や地球的規模で猫のエンクロージャーが進行している。いわゆる野良猫は駆除され、飼い猫は家の中で飼われて外に出ないようにされている。
 日本やアメリカは野良猫の収容施設があり、引き取り手がなければ殺処分される。ドイツではそうした公的施設がないため、その場で射殺されているという。ドイツで民間のティアハイムが盛んなのは公的サービスの欠落によるもので、野良猫はボランティアに保護されるか殺されるかのどちらかだ。
 もう三十年以上も前だろうか。鹿児島の大隅半島を夜にドライブした時、漁村の集落に入ると夥しい数の猫が道路脇に出てきていて、目が点々と光っていた。最近夜の西伊豆を走ることがあったが、そのときは一匹の猫にも出会わなかった。
 東海道や古代東海道など街道ウォーキングで一日二十キロ三十キロ歩いたりしても、二、三匹猫に出会えればいいほうで、一匹も見ない日もある。
 かつて当たり前のようにいた路地裏の猫は、今やすっかり見ることも稀になった。
 猫の島というのがネットで話題になって、そういうところには世界中から観光客が来る。逆に言えばそういう島はもはや世界でも稀で、それこそ最後の楽園なのかもしれない。
 これに対し、猫を共有財産(コモンズ)と位置づけて、地域で猫を共同飼育する地域猫の活動も起きているが、猫嫌いの住人との間に軋轢があることは否定できない。
 このままでは「猫の恋」も忘れられた季語として消えてゆくことになるだろう。
 「殺処分ゼロ」なんて言葉だけが踊っているが、現実には殺処分されるような猫そのものが年々いなくなっているということが見過ごされている。
 昔は、

 猫の恋やむとき閨の朧月      芭蕉

 これからは、

 猫の恋やむとき猫のない世界