今年もあと今日と明日のみとなって、一年の仕事も終わり、思えばあっという間の一年だった。
行き行きて脇道もなし年の坂 不角 『伊達衣』
本当に時間というのは止まってはくれない。年の坂は下り坂なんだろうな。ただ死に向かって転がり落ちてゆくだけなのか。
くれて行年漕戻せ渡し守 近正 『皮籠摺(かはごずれ)』
色々悔いを残して、もう一度時間を戻してくれる渡し守がいたらいいのにって、気持ちはよくわかる。
晦日やはや来年に気がうつる 路通 『桃舐集(ものねぶりしふ)』
まあ、くよくよしてもしょうがない。また来年って、まだ一日あるか。
2016年12月30日金曜日
2016年12月26日月曜日
今年ももうすぐ終わりということで、何とか「むめがかに」の巻も終わった。
三十四句目
千どり啼一夜一夜に寒うなり
未進の高(たか)のはてぬ算用 芭蕉
(千どり啼一夜一夜に寒うなり未進の高のはてぬ算用)
千鳥の鳴く冬の寒い時期は、農村では収穫も終わり、村長は年末までに納める年貢の計算に追われる季節でもある。不作が続いたのか年貢を払いきれず、未進となった金額が膨れ上がって、外も寒いが懐も寒くなる。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)には「寒うなるといふに、貧き人の未進と附たり。」とある。「寒い」にダブルミーニングを読み取ってのことだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)にも「貢税の事なり。○はてぬの語、前句を結べり」とある。前句の一夜一夜期限が迫っていることに対し「未進の高のはてぬ」と結んだというわけだ。千鳥に「鷹」を掛けて縁語にしていたとすれば更に芸が細かい。
芭蕉さんは伊賀藤堂藩に仕えていたときも料理人として調理場のお金の管理などもやっていたのだろう。江戸に出てきてからは日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやったというから、お金のことにはかなり詳しい。この歌仙の四句目の、
家普請を春のてすきにとり付て
上(かみ)のたよりにあがる米の値 芭蕉
もそうだし、
灰うちたたくうるめ一枚
此筋は銀も見しらず不自由さよ 芭蕉
今のまに雪の厚さを指てみる
年貢すんだとほめられにけり 芭蕉
名月のもやう互ひにかくしあひ
一阝(いちぶ)でもなき梨子の切物 芭蕉
吸物で座敷の客を立せたる
肥後の相場を又聞てこい 芭蕉
など、経済ネタも得意としていた。
無季。
三十五句目
未進の高のはてぬ算用
隣へも知らせず嫁をつれて来て 野坡
(隣へも知らせず嫁をつれて来て未進の高のはてぬ算用)
忙しいということもあるし、未進の年貢が膨れ上がっていて祝言を挙げる余裕もないということで、隣近所にも知らせずにこっそりと嫁を呼び寄せたということか。
通常は花の定座になるところだが、花を二十九句目に引き上げたため、ここに「花嫁」を匂わす「嫁」を出したとも言われている。「花嫁」「花火」等、桜の花ではなくても正花と扱われる言葉がいくつかあった。
中世連歌の式目「応安新式」では、「花」は一座三句物で、それとは別に一句「似せ物の花」という、いわば比喩としての花を出すことができた。『文和千句第一百韻』には、
門(かど)は柳の奥の古寺
これをこそ開くとおもへ法(のり)の花 良基
の句がある。
曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の雑の部にも正花となる言葉の一覧があり、植物でないものとしては、花火、花相撲、花燈籠、作花、花塗、花かいらぎ、茶の花香、花形、花子の狂言、燈火の花、花がつをといった言葉が見られる。
「けうばかり」の巻(「けふばかり人も年よれ初時雨」を発句とする歌仙)では、十三句目に、芭蕉が「宵闇はあらぶる神の宮遷し」という月の字のない秋の夜分の句を出したために、月の定座に月を出せなくなり、十五句目の「八月は旅面白き小服綿 酒堂」を月の句の代用とした例がある。こういうちょっと苦し紛れな展開も、「機知」ということで連句の面白さの一つでもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「せつろしき時節を憚れるや。○花の座なれバ、花嫁の響をもていへりといふ説あり。さもあれ一座の説といふべし。」とある。「せつろしき」は忙しいということ。京都では今でも「せつろしい」という言葉を使うらしい。
無季。「嫁」は恋。人倫。通常、名残の裏には恋を出さないのが常だが、一巻に恋句が少なく、花の定座をくり上げたために名残の裏に花がないため、一巻に花を持たせる意味であえて恋を付けたのであろう。
挙句
隣へも知らせず嫁をつれて来て
屏風の陰にみゆるくハし盆 芭蕉
(隣へも知らせず嫁をつれて来て屏風の陰にみゆるくハし盆)
「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に、「爰(ここ)にては貧き人にもあらず。唯ひつそりと嫁を迎へしを、近辺の人が来て、菓子盆の見ゆる故、嫁でも迎へたかと思ふなるべし。」とある。『俳諧古集之弁』系の註には「富貴の変あり。」とある。
無季の挙句は、花の定座が確立された江戸時代には珍しいが、定座のなかった中世にはそう珍しいことではない。宗祇・肖柏・宗長の三人による中世連歌の最高峰ともいえる『水無瀬三吟』は
いやしきも身ををさむるは有つべし
人ひとをおしなべ道ぞただしき 宗長
というふうに無季で終わっているし、『湯山三吟』は、
露のまをうき古郷とおもふなよ
一むらさめに月ぞいさよふ 肖柏
と、秋で終っている。
かえって、花の定座が確立されたことで、挙句は判で押したように春の句になってしまい、変化に乏しい。この巻で花の句を引き上げたのも、そうした月並を打破しようという一つの試みだったのかもしれない。ただ、それでも目出度い言葉で収めるところは近世的。中世の連歌はもう少しメッセージ的な終わり方をした。
無季。
三十四句目
千どり啼一夜一夜に寒うなり
未進の高(たか)のはてぬ算用 芭蕉
(千どり啼一夜一夜に寒うなり未進の高のはてぬ算用)
千鳥の鳴く冬の寒い時期は、農村では収穫も終わり、村長は年末までに納める年貢の計算に追われる季節でもある。不作が続いたのか年貢を払いきれず、未進となった金額が膨れ上がって、外も寒いが懐も寒くなる。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)には「寒うなるといふに、貧き人の未進と附たり。」とある。「寒い」にダブルミーニングを読み取ってのことだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)にも「貢税の事なり。○はてぬの語、前句を結べり」とある。前句の一夜一夜期限が迫っていることに対し「未進の高のはてぬ」と結んだというわけだ。千鳥に「鷹」を掛けて縁語にしていたとすれば更に芸が細かい。
芭蕉さんは伊賀藤堂藩に仕えていたときも料理人として調理場のお金の管理などもやっていたのだろう。江戸に出てきてからは日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやったというから、お金のことにはかなり詳しい。この歌仙の四句目の、
家普請を春のてすきにとり付て
上(かみ)のたよりにあがる米の値 芭蕉
もそうだし、
灰うちたたくうるめ一枚
此筋は銀も見しらず不自由さよ 芭蕉
今のまに雪の厚さを指てみる
年貢すんだとほめられにけり 芭蕉
名月のもやう互ひにかくしあひ
一阝(いちぶ)でもなき梨子の切物 芭蕉
吸物で座敷の客を立せたる
肥後の相場を又聞てこい 芭蕉
など、経済ネタも得意としていた。
無季。
三十五句目
未進の高のはてぬ算用
隣へも知らせず嫁をつれて来て 野坡
(隣へも知らせず嫁をつれて来て未進の高のはてぬ算用)
忙しいということもあるし、未進の年貢が膨れ上がっていて祝言を挙げる余裕もないということで、隣近所にも知らせずにこっそりと嫁を呼び寄せたということか。
通常は花の定座になるところだが、花を二十九句目に引き上げたため、ここに「花嫁」を匂わす「嫁」を出したとも言われている。「花嫁」「花火」等、桜の花ではなくても正花と扱われる言葉がいくつかあった。
中世連歌の式目「応安新式」では、「花」は一座三句物で、それとは別に一句「似せ物の花」という、いわば比喩としての花を出すことができた。『文和千句第一百韻』には、
門(かど)は柳の奥の古寺
これをこそ開くとおもへ法(のり)の花 良基
の句がある。
曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の雑の部にも正花となる言葉の一覧があり、植物でないものとしては、花火、花相撲、花燈籠、作花、花塗、花かいらぎ、茶の花香、花形、花子の狂言、燈火の花、花がつをといった言葉が見られる。
「けうばかり」の巻(「けふばかり人も年よれ初時雨」を発句とする歌仙)では、十三句目に、芭蕉が「宵闇はあらぶる神の宮遷し」という月の字のない秋の夜分の句を出したために、月の定座に月を出せなくなり、十五句目の「八月は旅面白き小服綿 酒堂」を月の句の代用とした例がある。こういうちょっと苦し紛れな展開も、「機知」ということで連句の面白さの一つでもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「せつろしき時節を憚れるや。○花の座なれバ、花嫁の響をもていへりといふ説あり。さもあれ一座の説といふべし。」とある。「せつろしき」は忙しいということ。京都では今でも「せつろしい」という言葉を使うらしい。
無季。「嫁」は恋。人倫。通常、名残の裏には恋を出さないのが常だが、一巻に恋句が少なく、花の定座をくり上げたために名残の裏に花がないため、一巻に花を持たせる意味であえて恋を付けたのであろう。
挙句
隣へも知らせず嫁をつれて来て
屏風の陰にみゆるくハし盆 芭蕉
(隣へも知らせず嫁をつれて来て屏風の陰にみゆるくハし盆)
「屏風」があるということで、前句を貧しい家ではなく、裕福な家に取り成す。挙句(あげく)ということで、どういう事情でとか重い話題は避け、ただ、菓子盆が隠して置いてあるのを見て嫁が来たのが知れるというだけの句で、あくまで軽く流しているが、花嫁に菓子盆とあくまで目出度く終わる。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に、「爰(ここ)にては貧き人にもあらず。唯ひつそりと嫁を迎へしを、近辺の人が来て、菓子盆の見ゆる故、嫁でも迎へたかと思ふなるべし。」とある。『俳諧古集之弁』系の註には「富貴の変あり。」とある。
無季の挙句は、花の定座が確立された江戸時代には珍しいが、定座のなかった中世にはそう珍しいことではない。宗祇・肖柏・宗長の三人による中世連歌の最高峰ともいえる『水無瀬三吟』は
いやしきも身ををさむるは有つべし
人ひとをおしなべ道ぞただしき 宗長
というふうに無季で終わっているし、『湯山三吟』は、
露のまをうき古郷とおもふなよ
一むらさめに月ぞいさよふ 肖柏
と、秋で終っている。
かえって、花の定座が確立されたことで、挙句は判で押したように春の句になってしまい、変化に乏しい。この巻で花の句を引き上げたのも、そうした月並を打破しようという一つの試みだったのかもしれない。ただ、それでも目出度い言葉で収めるところは近世的。中世の連歌はもう少しメッセージ的な終わり方をした。
無季。
2016年12月25日日曜日
一日遅れだけどとりあえず、はぴほり。
世界の多種多様な文化を、互いに抑制することなく共存できる寛容な世界が理想だけど。まだそれには遠い。シリア難民のヨーロッパへの大量流入は去年のことだったが、それによって行過ぎたグローバル化に待ったが掛かったのが今年だった。
グローバル化は一歩間違うとお互いの文化に不快感ばかり表明しあって、無色透明の没個性な世界にしてしまう危険をはらんでいる。他の文化との接触を新たな刺激として積極的に受け止め、自らの文化を高めることでお互いを高め合う方向に向かわなくてはいけない。互いに抑制しあうなら別々に暮らした方がいい。
日本も昔から中国や半島やオランダなどから刺激を受けて発展してきた。そして日本の文化もまた世界を刺激している。これからも日本文化が発展を続け、真のグローバル化に貢献できることを祈りながら‥‥、今日も「うめがかに」の巻の続き。二裏に入る。
三十一句目
なハ手を下りて青麦の出来
どの家も東の方に窓をあけ 野坡
(どの家も東の方に窓をあけなハ手を下りて青麦の出来)
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に、「加茂堤のほとりなる乞食村のもやうにも似たり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者・年次不詳)にも同様の記述がある。
日本の家屋は通常南向きに作るから、東向きの家というのはかなり特殊なもので、あるいは被差別民の村にそのようなものが見られたのかもしれない。古代日本では太陽を崇拝していたため、東の方角は神聖な意味を持っていたから、その名残をとどめていたのかもしれない。
西洋でも「朝日の当る家」というのは娼館のことをいうが、一般的には、空調設備のなかった時代には、東向きの家は朝から直接日が当るため、夏場は特に気温が上昇しやすく、非衛生的で嫌われる傾向にあったのだろう。
江戸時代には白米の文化が広がり、都市の人間はいわゆる「銀シャリ」を食うようになったが、田舎では麦や粟・稗など、雑穀を混ぜて食うのが普通だった。前句の「青麦」から、米よりも雑穀を多く食う貧しい村を連想したのだろう。
無季。「家」は居所。
三十二句目
どの家も東の方に窓をあけ
魚に食あくはまの雑水 芭蕉
(どの家も東の方に窓をあけ魚に食あくはまの雑水)
家を東向きに建てるというのは、もう一つの可能性として、西側に海があり、潮風の害を防ぐために家を東向きにしたということが考えられる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句を漁村と見ることハやすく、附句のほそミを得ることハ難し。」とあり、『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には、「西風をいとふ海辺なるべし。」とある。
曲斎著の『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)によれば、「食ひあく」というのは、飽きるまで食うという意味で、「船中にて活間(いけす)の魚死(あが)り売場なき時ハ、切懸干しにして置、常の雑炊用とす。又直にならぬ雑魚多き時ハ、肉醤に作て雑炊にも用る也。」とある。漁村では生簀で死んで売り物にならなくなった魚を干物にして、雑炊の具とし、雑魚で作る肉醤(しょっつるやナンプラーのようなものか)で味付けし、明け方の漁の前に腹いっぱい食うのだという。
「ほそミ」というのは『去来抄』によれば、
「去来曰く、句のしほりは憐れなる句にあらず。細みは便りなき句に非ず。そのしほりは句の姿に有り。細みは句意に有り。是又證句をあげて弁ず。
鳥どもも寐入って居るか余吾の海 路通
先師曰く、此句細み有りと評し給ひし也。」
とあるように、句の意味の中にある。
鳥が寝ているところを見ているわけではないのに、それを気遣う心の中に細みがあるように、この付け句にも貧しい漁村の人たちの心を思いやる細みが感じられるということか。
無季。「魚」と「はま」は水辺。
三十三句目
魚に食あくはまの雑水
千どり啼一夜一夜に寒うなり 野坡
(千どり啼一夜一夜に寒うなり魚に食あくはまの雑水)
漁村の食生活を詠んだ前句に冬の季節を付けて軽く流したという感じだ。
『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には「海辺の雑炊に付て、一夜一夜に寒うなりといへり。」とある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「客中の趣ありと見て、衣の薄き意をふくミいへるや。郷愁かぎりなし。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「流浪ノ人ト為テ、夜ノ物ノ薄キナドモ寒ウノ語ニ聞ヘタリ。とあり、漁村を渡り歩く旅人の俤を読み取っている。
季題は「千どり」で冬。鳥類。水辺。「一夜一夜に」は夜分。
世界の多種多様な文化を、互いに抑制することなく共存できる寛容な世界が理想だけど。まだそれには遠い。シリア難民のヨーロッパへの大量流入は去年のことだったが、それによって行過ぎたグローバル化に待ったが掛かったのが今年だった。
グローバル化は一歩間違うとお互いの文化に不快感ばかり表明しあって、無色透明の没個性な世界にしてしまう危険をはらんでいる。他の文化との接触を新たな刺激として積極的に受け止め、自らの文化を高めることでお互いを高め合う方向に向かわなくてはいけない。互いに抑制しあうなら別々に暮らした方がいい。
日本も昔から中国や半島やオランダなどから刺激を受けて発展してきた。そして日本の文化もまた世界を刺激している。これからも日本文化が発展を続け、真のグローバル化に貢献できることを祈りながら‥‥、今日も「うめがかに」の巻の続き。二裏に入る。
三十一句目
なハ手を下りて青麦の出来
どの家も東の方に窓をあけ 野坡
(どの家も東の方に窓をあけなハ手を下りて青麦の出来)
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に、「加茂堤のほとりなる乞食村のもやうにも似たり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者・年次不詳)にも同様の記述がある。
日本の家屋は通常南向きに作るから、東向きの家というのはかなり特殊なもので、あるいは被差別民の村にそのようなものが見られたのかもしれない。古代日本では太陽を崇拝していたため、東の方角は神聖な意味を持っていたから、その名残をとどめていたのかもしれない。
西洋でも「朝日の当る家」というのは娼館のことをいうが、一般的には、空調設備のなかった時代には、東向きの家は朝から直接日が当るため、夏場は特に気温が上昇しやすく、非衛生的で嫌われる傾向にあったのだろう。
江戸時代には白米の文化が広がり、都市の人間はいわゆる「銀シャリ」を食うようになったが、田舎では麦や粟・稗など、雑穀を混ぜて食うのが普通だった。前句の「青麦」から、米よりも雑穀を多く食う貧しい村を連想したのだろう。
無季。「家」は居所。
三十二句目
どの家も東の方に窓をあけ
魚に食あくはまの雑水 芭蕉
(どの家も東の方に窓をあけ魚に食あくはまの雑水)
家を東向きに建てるというのは、もう一つの可能性として、西側に海があり、潮風の害を防ぐために家を東向きにしたということが考えられる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句を漁村と見ることハやすく、附句のほそミを得ることハ難し。」とあり、『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には、「西風をいとふ海辺なるべし。」とある。
曲斎著の『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)によれば、「食ひあく」というのは、飽きるまで食うという意味で、「船中にて活間(いけす)の魚死(あが)り売場なき時ハ、切懸干しにして置、常の雑炊用とす。又直にならぬ雑魚多き時ハ、肉醤に作て雑炊にも用る也。」とある。漁村では生簀で死んで売り物にならなくなった魚を干物にして、雑炊の具とし、雑魚で作る肉醤(しょっつるやナンプラーのようなものか)で味付けし、明け方の漁の前に腹いっぱい食うのだという。
「ほそミ」というのは『去来抄』によれば、
「去来曰く、句のしほりは憐れなる句にあらず。細みは便りなき句に非ず。そのしほりは句の姿に有り。細みは句意に有り。是又證句をあげて弁ず。
鳥どもも寐入って居るか余吾の海 路通
先師曰く、此句細み有りと評し給ひし也。」
とあるように、句の意味の中にある。
鳥が寝ているところを見ているわけではないのに、それを気遣う心の中に細みがあるように、この付け句にも貧しい漁村の人たちの心を思いやる細みが感じられるということか。
無季。「魚」と「はま」は水辺。
三十三句目
魚に食あくはまの雑水
千どり啼一夜一夜に寒うなり 野坡
(千どり啼一夜一夜に寒うなり魚に食あくはまの雑水)
漁村の食生活を詠んだ前句に冬の季節を付けて軽く流したという感じだ。
『月居註炭俵集』(著者・年次不詳)には「海辺の雑炊に付て、一夜一夜に寒うなりといへり。」とある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「客中の趣ありと見て、衣の薄き意をふくミいへるや。郷愁かぎりなし。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「流浪ノ人ト為テ、夜ノ物ノ薄キナドモ寒ウノ語ニ聞ヘタリ。とあり、漁村を渡り歩く旅人の俤を読み取っている。
季題は「千どり」で冬。鳥類。水辺。「一夜一夜に」は夜分。
2016年12月23日金曜日
「むめがかに」の巻の続き。
二十八句目
はつ午に女房のおやこ振舞て
又このはるも済ぬ牢人 野坡
(はつ午に女房のおやこ振舞て又このはるも済ぬ牢人)
芭蕉の時代には大名の取り潰しや改易が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。笠張りなどの内職で細々と食いつないで日ごろから女房子供に迷惑をかけているそんな負い目からか、初午の日に女房の親や兄弟などに振舞って願を掛けにいくのも、多分毎年のことなのだろう。そして毎年願を掛けていても今年もまた仕官が決まらずに、というところか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「賑ふ頃ハゑならぬ者も入こミなん。ねだる塩梅など来客に余情あり。○又の字去年をふくめり。」とある。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「親子振舞てと云より転じ来て、主家没落したる人の意地を立て二君につかへず、昔を忘れぬこゝろより稲荷祭りにかこつけて、旧友又はゆかりの人などを招き、一盃すゝめたる志のめでたさを余情よせいに見みせたり。」とある。
そんな意固地になって浪人を貫かれたら、女房もその親もたまったもんではない。これは違うだろう。武家道徳の賛美は俳諧の心ではない。俳諧はあくまで本音でなくてはならない。
ウィキペディアによれば、「牢人」は「主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者」のことで、それが改易などによって牢人が急増したため、浮浪者などを意味する「浪人」といっしょこたになって、「江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった」という。
『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)には「牢人ト書損じたり。」とあるが、書き損じではない。ただ、幕末ともなると「牢人」にこの字を当てることはほとんどなかったのだろう。
季題は「春」で春。「牢人」は人倫。
二十九句目
又このはるも済ぬ牢人
法印の湯治を送る花ざかり 芭蕉
(法印の湯治を送る花ざかり又このはるも済ぬ牢人)
江戸時代の修験道は、本山派と当山派、それに天台宗に所属するものに分かれ、本山派は各地の主要な修験者に年行事職を与えた。ここでいう法印はその年行事職クラスの修験者で、浪人などを食客しょっかくとして住まわせたりしていたのだろう。勘当された放蕩息子を親が連れ戻そうとしたところ、法印の粋な計らいで、温泉で湯治に行く留守番の役を言いつけて逃れるといったところか。
「またこの春も済まぬ」を浪人が自分の身を嘆いて言う言葉から、法印の湯治への旅立ちを見送りながら、放蕩息子がまた今年も戻ってこないのかという親の嘆きに換骨した、人情味あふれる句。
春の三句目なので、花の定座が六句もくり上げられているが、両吟ではそれほど定座の位置にこだわる必要はない。ここで花のない春三句連ねて、三十五句目に五句去りでもう一度春にするというのも、形式に振り回された感じて収まりが悪い。
季題は「花ざかり」で春。植物。木類。「法印」は釈教。
三十句目
法印の湯治を送る花ざかり
なハ手を下りて青麦の出来 野坡
(法印の湯治を送る花ざかりなハ手を下りて青麦の出来)
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「湯治を送ると云より転じて、法印の除地を作り居る百姓どもの見送りに出たるが、誰の苗代かれの菜種などいひて、とりどり評議したるさまに思ひよせたり。前句香の花なれば、揚句の心にて作りたるが故に軽し。」とある。
寺社の所領は、幕府や藩からの租税を免除され、「徐地(よけち)」と呼ばれた。「なハ手て」はあぜ道のこと。法印の旅立ちを見送りながら、領内の百姓が集まって、農産物の噂をしている様子を付つけたもので、花の後だけに軽くさらっと付けている。
季題は「青麦」で春。植物。草類。
二十八句目
はつ午に女房のおやこ振舞て
又このはるも済ぬ牢人 野坡
(はつ午に女房のおやこ振舞て又このはるも済ぬ牢人)
芭蕉の時代には大名の取り潰しや改易が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。笠張りなどの内職で細々と食いつないで日ごろから女房子供に迷惑をかけているそんな負い目からか、初午の日に女房の親や兄弟などに振舞って願を掛けにいくのも、多分毎年のことなのだろう。そして毎年願を掛けていても今年もまた仕官が決まらずに、というところか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「賑ふ頃ハゑならぬ者も入こミなん。ねだる塩梅など来客に余情あり。○又の字去年をふくめり。」とある。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「親子振舞てと云より転じ来て、主家没落したる人の意地を立て二君につかへず、昔を忘れぬこゝろより稲荷祭りにかこつけて、旧友又はゆかりの人などを招き、一盃すゝめたる志のめでたさを余情よせいに見みせたり。」とある。
そんな意固地になって浪人を貫かれたら、女房もその親もたまったもんではない。これは違うだろう。武家道徳の賛美は俳諧の心ではない。俳諧はあくまで本音でなくてはならない。
ウィキペディアによれば、「牢人」は「主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者」のことで、それが改易などによって牢人が急増したため、浮浪者などを意味する「浪人」といっしょこたになって、「江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった」という。
『七部婆心録』(曲斎著、万延元年奥)には「牢人ト書損じたり。」とあるが、書き損じではない。ただ、幕末ともなると「牢人」にこの字を当てることはほとんどなかったのだろう。
季題は「春」で春。「牢人」は人倫。
二十九句目
又このはるも済ぬ牢人
法印の湯治を送る花ざかり 芭蕉
(法印の湯治を送る花ざかり又このはるも済ぬ牢人)
江戸時代の修験道は、本山派と当山派、それに天台宗に所属するものに分かれ、本山派は各地の主要な修験者に年行事職を与えた。ここでいう法印はその年行事職クラスの修験者で、浪人などを食客しょっかくとして住まわせたりしていたのだろう。勘当された放蕩息子を親が連れ戻そうとしたところ、法印の粋な計らいで、温泉で湯治に行く留守番の役を言いつけて逃れるといったところか。
「またこの春も済まぬ」を浪人が自分の身を嘆いて言う言葉から、法印の湯治への旅立ちを見送りながら、放蕩息子がまた今年も戻ってこないのかという親の嘆きに換骨した、人情味あふれる句。
春の三句目なので、花の定座が六句もくり上げられているが、両吟ではそれほど定座の位置にこだわる必要はない。ここで花のない春三句連ねて、三十五句目に五句去りでもう一度春にするというのも、形式に振り回された感じて収まりが悪い。
季題は「花ざかり」で春。植物。木類。「法印」は釈教。
三十句目
法印の湯治を送る花ざかり
なハ手を下りて青麦の出来 野坡
(法印の湯治を送る花ざかりなハ手を下りて青麦の出来)
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「湯治を送ると云より転じて、法印の除地を作り居る百姓どもの見送りに出たるが、誰の苗代かれの菜種などいひて、とりどり評議したるさまに思ひよせたり。前句香の花なれば、揚句の心にて作りたるが故に軽し。」とある。
寺社の所領は、幕府や藩からの租税を免除され、「徐地(よけち)」と呼ばれた。「なハ手て」はあぜ道のこと。法印の旅立ちを見送りながら、領内の百姓が集まって、農産物の噂をしている様子を付つけたもので、花の後だけに軽くさらっと付けている。
季題は「青麦」で春。植物。草類。
2016年12月22日木曜日
今夜は寒冷前線の通過で雨風ともに強く嵐のようだ。明日は寒くなるのかな。
昨日の話だが、「ん」のつく食べ物はまだまだある。カツ丼、天丼、牛丼などの丼物を忘れていた。あと、カレー粉もクミン、コリアンダー、ウコン、シナモンなど「ん」の付くものが含まれているからカレーでもいいし、ナンやタンドリーチキンを添えれば言うことない。チキンと付くものも何でもいいし、タイ料理にはナンプラーも欠かせない。パクチーもコリアンダーの葉だから有り。
要するに大体何を食っても「ん」の付くものは含まれている。
芭蕉の次代の人は冬至だけでなく、二十四節季自体にほとんど関心がなかったのではないかと思う。立春以外はそれほど意識されなかったのではないか。俳諧の「春」も旧暦の一月二月三月で立春立夏とは無関係だし、彼岸の句が少ないのもそのためだろう。
芭蕉の時代はまだ明の滅亡のショックが尾を引いていた頃で、文人の中国崇拝が頂点に達するのは清の最盛期となる乾隆帝の時代(1735~1796)ではないかと思う。二十四節季もそれに伴い次第に庶民の間に降りてきたが、二十四節季が本格的に喧伝されるようになったのは案外明治の太陽暦採用以降なのかもしれない。
さて、「むめがかに」の巻の続き。
二十五句目
桐の木高く月さゆる也
門しめてだまつてねたる面白さ 芭蕉
(門しめてだまつてねたる面白さ桐の木高く月さゆる也)
冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのである。
前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「桐の木高く月冴ると云より転じ来て、晋人などの気韻をうつし取て、世を我儘に玩びたる隠者のおもむき也。無隣氏の民か、葛天氏の民かと云し淵明の俤も見みえて、余情あふるゝばかり也。だまつて寝たるとあしらひて、ちつとも寝ぬさまをおもしろさの詞にて見みせたり。翁曰、炭俵の一巻は、門しめての一句に腹をすゑたりと或書に見みえたり。」とある。
この「或書」とは土芳の『三冊子』のことであり、そのなかの「赤冊子」に、
「この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思おもふ所に非ずとなり。」
とある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「窓影愛すべき夕べならん。隠逸の人ひとなどミゆ。高くといひ冴るといえるを、心の高明なるにとりて趣向せられけん。妙境妙境。○臼と十夜の二句を昼と見みさだめ、与奪して、夜分をつらね給へるなるべし。」とある。
打越の「十夜」が夜分なら夜分三句続いて式目に反することになるが、。「十夜念仏」が昼夜に渡って行なわれるもので、夜に限定されるものでないというところから、十夜の鐘に臼を貸すという二句を昼のこととして、あえて「寝たる」という夜分の言葉を付けている。
無季。「門」は居所。「ねたる」は夜分。打越の「十夜」は昼夜に渡って行われる十夜念仏のことなので、夜分にはならない。
二十六句目
門しめてだまつてねたる面白さ
ひらふた金で表がへする 野坡
(門しめてだまつてねたる面白さひらふた金で表がへする)
芭蕉の高雅な趣向の句の後に同じように高雅なもので張り合おうというのは却って野暮というもの。ここは卑俗に落として笑いに転じるのが正解。
大金を拾ったりすると、あぶく銭ということで、何かと周りからたかられたりして、酒でも振舞って奢ったりしなくてはならなくなる。それが嫌で、金を拾ったことは人に黙っていて、さっさと自分の部屋の畳替えに使ったら、ばれないように早々に門を閉めて、狸寝入りを決め込む。けち臭いけど、気持ちはわかる。前句の「だまって」に「拾う」が付く。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「いやしき面白ミに転ず。拾ふにだまるの語にらミあり。」とある。
こうしたあえて卑俗に落とした例としては、芭蕉の最後の興行となった「白菊の」の三十二句目に、
野がらすのそれにも袖のぬらされて
老の力に娘ほしがる 一有
の句がある。前句は、
杖一本を道の腋ざし
野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉
で、前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した句で、このときの芭蕉の姿にも重なる。
好句が生れた時には、それに張り合うようなことをせず、あえて卑俗な句で謙虚さを示すのも、礼儀のうち。俳諧はあくまで談笑であり、全体にあまり深刻になりすぎないようにするバランス感覚も重要だ。
無季。
二十七句目
ひらふた金で表がへする
はつ午に女房のおやこ振舞て 芭蕉
(はつ午に女房のおやこ振舞てひらふた金で表がへする)
初午(はつうま)は旧暦二月の最初の午(うま)の日のことで、京都伏見稲荷を初めとする稲荷神社で初午大祭が催される。
ここでは前句の「ひらうた」を文字通り道で拾ったのではなく、初午の日に女房の親子にご馳走を振舞ったところ、そのご利益か臨時の収入があり、その「拾ったような」金で畳の表替えをする、という意味になる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「与奪なり。」とだけある。与奪は前句の情を一度殺して新たな生命を吹き込むとでも言えばいいのか。換骨奪胎に近い。
『七部集纂考』(夏目成美著、年次不詳)には、「おやこハすべて親属の事をいふ。中国の俗語也。」とあるが、一般になじみのない中国の俚言をいかにも教養あるふうに持ち出すのはこの頃の芭蕉の軽みの風とは思えない。
季題は「はつ午」で春。初午詣での意味なので神祇。「女房」「おやこ」は人倫。
昨日の話だが、「ん」のつく食べ物はまだまだある。カツ丼、天丼、牛丼などの丼物を忘れていた。あと、カレー粉もクミン、コリアンダー、ウコン、シナモンなど「ん」の付くものが含まれているからカレーでもいいし、ナンやタンドリーチキンを添えれば言うことない。チキンと付くものも何でもいいし、タイ料理にはナンプラーも欠かせない。パクチーもコリアンダーの葉だから有り。
要するに大体何を食っても「ん」の付くものは含まれている。
芭蕉の次代の人は冬至だけでなく、二十四節季自体にほとんど関心がなかったのではないかと思う。立春以外はそれほど意識されなかったのではないか。俳諧の「春」も旧暦の一月二月三月で立春立夏とは無関係だし、彼岸の句が少ないのもそのためだろう。
芭蕉の時代はまだ明の滅亡のショックが尾を引いていた頃で、文人の中国崇拝が頂点に達するのは清の最盛期となる乾隆帝の時代(1735~1796)ではないかと思う。二十四節季もそれに伴い次第に庶民の間に降りてきたが、二十四節季が本格的に喧伝されるようになったのは案外明治の太陽暦採用以降なのかもしれない。
さて、「むめがかに」の巻の続き。
二十五句目
桐の木高く月さゆる也
門しめてだまつてねたる面白さ 芭蕉
(門しめてだまつてねたる面白さ桐の木高く月さゆる也)
冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのである。
前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「桐の木高く月冴ると云より転じ来て、晋人などの気韻をうつし取て、世を我儘に玩びたる隠者のおもむき也。無隣氏の民か、葛天氏の民かと云し淵明の俤も見みえて、余情あふるゝばかり也。だまつて寝たるとあしらひて、ちつとも寝ぬさまをおもしろさの詞にて見みせたり。翁曰、炭俵の一巻は、門しめての一句に腹をすゑたりと或書に見みえたり。」とある。
この「或書」とは土芳の『三冊子』のことであり、そのなかの「赤冊子」に、
「この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思おもふ所に非ずとなり。」
とある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「窓影愛すべき夕べならん。隠逸の人ひとなどミゆ。高くといひ冴るといえるを、心の高明なるにとりて趣向せられけん。妙境妙境。○臼と十夜の二句を昼と見みさだめ、与奪して、夜分をつらね給へるなるべし。」とある。
打越の「十夜」が夜分なら夜分三句続いて式目に反することになるが、。「十夜念仏」が昼夜に渡って行なわれるもので、夜に限定されるものでないというところから、十夜の鐘に臼を貸すという二句を昼のこととして、あえて「寝たる」という夜分の言葉を付けている。
無季。「門」は居所。「ねたる」は夜分。打越の「十夜」は昼夜に渡って行われる十夜念仏のことなので、夜分にはならない。
二十六句目
門しめてだまつてねたる面白さ
ひらふた金で表がへする 野坡
(門しめてだまつてねたる面白さひらふた金で表がへする)
芭蕉の高雅な趣向の句の後に同じように高雅なもので張り合おうというのは却って野暮というもの。ここは卑俗に落として笑いに転じるのが正解。
大金を拾ったりすると、あぶく銭ということで、何かと周りからたかられたりして、酒でも振舞って奢ったりしなくてはならなくなる。それが嫌で、金を拾ったことは人に黙っていて、さっさと自分の部屋の畳替えに使ったら、ばれないように早々に門を閉めて、狸寝入りを決め込む。けち臭いけど、気持ちはわかる。前句の「だまって」に「拾う」が付く。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「いやしき面白ミに転ず。拾ふにだまるの語にらミあり。」とある。
こうしたあえて卑俗に落とした例としては、芭蕉の最後の興行となった「白菊の」の三十二句目に、
野がらすのそれにも袖のぬらされて
老の力に娘ほしがる 一有
の句がある。前句は、
杖一本を道の腋ざし
野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉
で、前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した句で、このときの芭蕉の姿にも重なる。
好句が生れた時には、それに張り合うようなことをせず、あえて卑俗な句で謙虚さを示すのも、礼儀のうち。俳諧はあくまで談笑であり、全体にあまり深刻になりすぎないようにするバランス感覚も重要だ。
無季。
二十七句目
ひらふた金で表がへする
はつ午に女房のおやこ振舞て 芭蕉
(はつ午に女房のおやこ振舞てひらふた金で表がへする)
初午(はつうま)は旧暦二月の最初の午(うま)の日のことで、京都伏見稲荷を初めとする稲荷神社で初午大祭が催される。
ここでは前句の「ひらうた」を文字通り道で拾ったのではなく、初午の日に女房の親子にご馳走を振舞ったところ、そのご利益か臨時の収入があり、その「拾ったような」金で畳の表替えをする、という意味になる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「与奪なり。」とだけある。与奪は前句の情を一度殺して新たな生命を吹き込むとでも言えばいいのか。換骨奪胎に近い。
『七部集纂考』(夏目成美著、年次不詳)には、「おやこハすべて親属の事をいふ。中国の俗語也。」とあるが、一般になじみのない中国の俚言をいかにも教養あるふうに持ち出すのはこの頃の芭蕉の軽みの風とは思えない。
季題は「はつ午」で春。初午詣での意味なので神祇。「女房」「おやこ」は人倫。
2016年12月21日水曜日
冬至というとカボチャと柚子湯だが、これがいつからなのか、芭蕉の時代には登場しないから、そんなに古くもないのだろう。カボチャは新大陸の原産で日本に渡ったのは戦国時代だから、一般に広まったのはもっと遅かっただろう。
ネットで調べたら、
ずっしりと南瓜落ちて暮淋し 素堂
の句が出てきた。『番橙集(ざぼんしゅう)』(除風編、宝永元年九月刊)にあるらしい。この編者の除風は南瓜庵を名乗っていたともいう。
南瓜は秋の季題らしい。ただ、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「南瓜」も「かぼちゃ」も載ってない。
柚子湯も遡れるのはおそらく江戸末期までだろう。「柚」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の秋のところに見られるが、「柚子湯」という季語はない。
今年に入って「ん」のつくものを食べると運が付くというのをテレビやラジオで聞くようになった。朝の番組ではうどんをプッシュしていたが、さてはうどん業界の陰謀?だとしたら失敗だろう。「ん」の付くものは多すぎるからだ。
まず、おでん、トン汁、けんちん汁などがこの季節に合っているし、ラーメン、つけ麺など「麺」のつくもの、ご飯、チャーハン、天津飯などの「飯」のつくもの、参鶏湯、コムタンなど「湯」がつくもの、洋食ならもちろんパンがあるし、ハンバーガーもある。
ネットで見ると「ん」のつくもの七種と言って、なんきん・れんこん・にんじん・ぎんなん・きんかん・かんてん・うんどん(うどん)というのが載っているが、これもそんなに古い謂れのあるものではないだろう。
冬至の太陽の復活の祭りは、いまやすっかりクリスマスに取って代わられたと言っていい。クリスマスの起源ももとは北欧の土着信仰の冬至祭りで、それをキリストの生誕に強引に結びつけて、クリスチャンからの異教弾圧をのがれて今に至っているもので、キリストは本当は12月25日に生まれたわけではない。
クリスマスは本来冬至祭りでペイガンの祭りだから、ムスリムもそんなに気にしなくてもいいのではないかと思う。それとも、多神教の祭りならもっと許せないとかなるのだろうか。イエス・キリストはイスラム教でも預言者の一人として認められているが、多神教はもっとまずいか。
それはさておき 「むめがかに」の巻、続き。
二十二句目
江戸の左右むかひの亭主登られて
こちにもいれどから臼をかす 野坡
(江戸の左右むかひの亭主登られてこちにもいれどから臼をかす)
前句はやはり、「向いの亭主の江戸より登られて、江戸の左右聞くに」と読む。江戸の話を聞きに近所の人が集まり、忙しくなるので、唐臼を貸してあげるという、隣近所の人情味ある句だ。「こちにもいれど」はの「いる」は要るという意味で、「こちらでも臼は必要だけど、先に使ってくれ」という意味。
唐臼は餅などを搗く「搗き臼」ではなく、籾を摺るための磨り臼で、ペッパーミルを大きくしたようなもの。両側に二本の棒が突き出していて、それを二人がかりで回す。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「世情を尽せり。二句一章なり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「二句一章ニシテ、有ソウナコトヲ附タリ。向ヒト言ニ、コチニト言ニテ一章ナリ。」とある。
「二句一章」というのは「二句一体」と同様、付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。ただ、この場合は、「向かいの亭主」に「こちにも」という「向付け」にもなっている。
『秘註俳諧七部集』では、八句目の、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
の句にも、「二句一章」の言葉がある。
無季。
二十三句目
こちにもいれどから臼をかす
方々に十夜の内のかねの音 芭蕉
(方々に十夜の内のかねの音こちにもいれどから臼をかす)
「十夜」というのは十夜念仏(じゅうやねんぶつ)のこと。京都の真如堂(真正極楽寺)をはじめ、浄土宗の寺で十日間に渡って行なわれる念仏会(ねんぶつえ)で、旧暦十月五日から十五日の朝にかけて行なわれた。明治以降、旧暦の行事は禁止されたため、今日では新暦の11月六日から十五日に行なわれている。念仏の時に鳴らされる鐘の音は、初冬の風物でもあった。
十夜念仏の頃には、ちょうど稲の収穫も終わり、籾摺の作業に入る。そんなときは、近所の家同士で臼の貸し借りもあったのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「臼のいそがハしき用をいへり。前底の体なることを見得すべし。」とある。臼を貸すという用に十夜の鐘という体を付ける。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、
「こちにも入る碓(うす)といふより転じ来て、初冬稲をこきあげて米にする時節と思ひよせたり。十月と作りてはひらめになる故、一つぬきて十夜とあしらひたる也。」とある。
ただ十月の時候を付けるだけではひらめ(平目:平板というような意味)になるので、十夜念仏の風景にして、一つの独立した体としている。
「壬生の念仏」から四句しか隔てていないので、「念仏」という言葉は同字五句去りなので出せない。そこで「十夜」というだけで十夜念仏のこととしている。
談林俳諧では、こうした制にかかわる言葉を抜いて式目をかいくぐる手法が多用されたため、「抜け風」と呼ばれたが、本来こうした式目の抜け方は中世連歌の時代からあったもので、『水無瀬三吟』の六十九句目の、
うす花薄ちらまくもをし
鶉なくかた山くれて寒き日に 宗祇
の句に、「風とはいはずして風あり此風にてすすきちり給はん」という古註がある。
季題は「十夜」で冬。「十夜」はここでは単なる十日の夜ではなく、十夜念仏のことなので冬になる。念仏なので釈教になる。釈教は三句去りで「壬生の念仏」四句隔てているので問題はない。「鐘」もこの場合は時の金ではないので釈教。「十夜念仏」は昼夜続けて行われるので「夜」の字があっても夜分ではない。
二十四句目
方々に十夜の内のかねの音
桐の木高く月さゆる也 野坡
(方々に十夜の内のかねの音桐の木高く月さゆる也)
夜分ではないにせよ「夜」の文字が出たのですかさず月を出す。季節は冬なので「さゆる」という冬の季語を用いることで冬の月、寒月のこととする。
葉を落とした桐の木に寒月がかかる様は冷えさびていて、鐘の音はマイナーイメージで却って静寂を感じさせる。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「鐘を聞居る寂莫の風情、桐の木をあしらへる所妙也。味ふべし。」とある。
季題は「月さゆる」で冬。夜分。天象。月の定座は普通は二十九句目だが、定座は式目ではなく、単なる会式の作法であるため、それほどこだわる必要はない。「桐の木」は植物。
ネットで調べたら、
ずっしりと南瓜落ちて暮淋し 素堂
の句が出てきた。『番橙集(ざぼんしゅう)』(除風編、宝永元年九月刊)にあるらしい。この編者の除風は南瓜庵を名乗っていたともいう。
南瓜は秋の季題らしい。ただ、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「南瓜」も「かぼちゃ」も載ってない。
柚子湯も遡れるのはおそらく江戸末期までだろう。「柚」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の秋のところに見られるが、「柚子湯」という季語はない。
今年に入って「ん」のつくものを食べると運が付くというのをテレビやラジオで聞くようになった。朝の番組ではうどんをプッシュしていたが、さてはうどん業界の陰謀?だとしたら失敗だろう。「ん」の付くものは多すぎるからだ。
まず、おでん、トン汁、けんちん汁などがこの季節に合っているし、ラーメン、つけ麺など「麺」のつくもの、ご飯、チャーハン、天津飯などの「飯」のつくもの、参鶏湯、コムタンなど「湯」がつくもの、洋食ならもちろんパンがあるし、ハンバーガーもある。
ネットで見ると「ん」のつくもの七種と言って、なんきん・れんこん・にんじん・ぎんなん・きんかん・かんてん・うんどん(うどん)というのが載っているが、これもそんなに古い謂れのあるものではないだろう。
冬至の太陽の復活の祭りは、いまやすっかりクリスマスに取って代わられたと言っていい。クリスマスの起源ももとは北欧の土着信仰の冬至祭りで、それをキリストの生誕に強引に結びつけて、クリスチャンからの異教弾圧をのがれて今に至っているもので、キリストは本当は12月25日に生まれたわけではない。
クリスマスは本来冬至祭りでペイガンの祭りだから、ムスリムもそんなに気にしなくてもいいのではないかと思う。それとも、多神教の祭りならもっと許せないとかなるのだろうか。イエス・キリストはイスラム教でも預言者の一人として認められているが、多神教はもっとまずいか。
それはさておき 「むめがかに」の巻、続き。
二十二句目
江戸の左右むかひの亭主登られて
こちにもいれどから臼をかす 野坡
(江戸の左右むかひの亭主登られてこちにもいれどから臼をかす)
前句はやはり、「向いの亭主の江戸より登られて、江戸の左右聞くに」と読む。江戸の話を聞きに近所の人が集まり、忙しくなるので、唐臼を貸してあげるという、隣近所の人情味ある句だ。「こちにもいれど」はの「いる」は要るという意味で、「こちらでも臼は必要だけど、先に使ってくれ」という意味。
唐臼は餅などを搗く「搗き臼」ではなく、籾を摺るための磨り臼で、ペッパーミルを大きくしたようなもの。両側に二本の棒が突き出していて、それを二人がかりで回す。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「世情を尽せり。二句一章なり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「二句一章ニシテ、有ソウナコトヲ附タリ。向ヒト言ニ、コチニト言ニテ一章ナリ。」とある。
「二句一章」というのは「二句一体」と同様、付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。ただ、この場合は、「向かいの亭主」に「こちにも」という「向付け」にもなっている。
『秘註俳諧七部集』では、八句目の、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
の句にも、「二句一章」の言葉がある。
無季。
二十三句目
こちにもいれどから臼をかす
方々に十夜の内のかねの音 芭蕉
(方々に十夜の内のかねの音こちにもいれどから臼をかす)
「十夜」というのは十夜念仏(じゅうやねんぶつ)のこと。京都の真如堂(真正極楽寺)をはじめ、浄土宗の寺で十日間に渡って行なわれる念仏会(ねんぶつえ)で、旧暦十月五日から十五日の朝にかけて行なわれた。明治以降、旧暦の行事は禁止されたため、今日では新暦の11月六日から十五日に行なわれている。念仏の時に鳴らされる鐘の音は、初冬の風物でもあった。
十夜念仏の頃には、ちょうど稲の収穫も終わり、籾摺の作業に入る。そんなときは、近所の家同士で臼の貸し借りもあったのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「臼のいそがハしき用をいへり。前底の体なることを見得すべし。」とある。臼を貸すという用に十夜の鐘という体を付ける。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、
「こちにも入る碓(うす)といふより転じ来て、初冬稲をこきあげて米にする時節と思ひよせたり。十月と作りてはひらめになる故、一つぬきて十夜とあしらひたる也。」とある。
ただ十月の時候を付けるだけではひらめ(平目:平板というような意味)になるので、十夜念仏の風景にして、一つの独立した体としている。
「壬生の念仏」から四句しか隔てていないので、「念仏」という言葉は同字五句去りなので出せない。そこで「十夜」というだけで十夜念仏のこととしている。
談林俳諧では、こうした制にかかわる言葉を抜いて式目をかいくぐる手法が多用されたため、「抜け風」と呼ばれたが、本来こうした式目の抜け方は中世連歌の時代からあったもので、『水無瀬三吟』の六十九句目の、
うす花薄ちらまくもをし
鶉なくかた山くれて寒き日に 宗祇
の句に、「風とはいはずして風あり此風にてすすきちり給はん」という古註がある。
季題は「十夜」で冬。「十夜」はここでは単なる十日の夜ではなく、十夜念仏のことなので冬になる。念仏なので釈教になる。釈教は三句去りで「壬生の念仏」四句隔てているので問題はない。「鐘」もこの場合は時の金ではないので釈教。「十夜念仏」は昼夜続けて行われるので「夜」の字があっても夜分ではない。
二十四句目
方々に十夜の内のかねの音
桐の木高く月さゆる也 野坡
(方々に十夜の内のかねの音桐の木高く月さゆる也)
夜分ではないにせよ「夜」の文字が出たのですかさず月を出す。季節は冬なので「さゆる」という冬の季語を用いることで冬の月、寒月のこととする。
葉を落とした桐の木に寒月がかかる様は冷えさびていて、鐘の音はマイナーイメージで却って静寂を感じさせる。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「鐘を聞居る寂莫の風情、桐の木をあしらへる所妙也。味ふべし。」とある。
季題は「月さゆる」で冬。夜分。天象。月の定座は普通は二十九句目だが、定座は式目ではなく、単なる会式の作法であるため、それほどこだわる必要はない。「桐の木」は植物。
2016年12月20日火曜日
さて、「むめがかに」の巻は二表に入る。
十九句目
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
(東風々に糞のいきれを吹まはし門で押るる壬生の念仏)
ここでまた壬生念仏の様子を付けると輪廻になって展開しないので、背景を付けて流したと言っていいだろう。
「門で押るる壬生の念仏」の句は、一句が独立しすぎて、他の意味に取り成すことが難かしく、展開しにくい。時期も舞台も登場人物も限定されていて、発展性がない。こういうときには、芭蕉といえども逃げ句になるのはやむをえない。
ここでふたたび壬生念仏を見る群集の景色に戻ってしまっては、輪廻になる。壬生寺が畑の中にあるところから、まわりの畑の景色に転じるというのが、一つの付け筋となる。打越に「町衆」という人倫の言葉があるから、人物を登場させることはできない。ただ、春風に畠の肥臭い匂いを付けるだけにとどめる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「壬生寺ハ畠中なり。○此附二句がらミに似たれど、全く前句の用といハん。」とある。
二句がらみというのは壬生念仏のつらりと酔うた町衆の情景に声の匂いを加えて三句連続のイメージではないかというものだが、そうではなく壬生念仏の群衆の押し寄せる様を体として、それに付随するものとして肥えの匂いを付けただけで、打越の酔った聴衆とは離れているというものだという。三句にまたがっていけないのは本来連歌俳諧の基本なのだが、江戸後期ともなるとかなりそれが忘れられている。だから、これを「二句がらみ」という人も結構いたのだろう。
前句の用というのは、たとえば川に橋を付けるようなもので、一つの趣向をこらした情景に対し、それに従属するような言葉を添えることを言う。壬生念仏に酔った町衆は体に体を付けているが、壬生念仏に春風は体に用を付けるということになる。
『去来抄』「先師評」に糞尿の句は嫌う必要はないが、「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」と、むやみに多用することを戒めている。ここでは、ただ春風だけでは発展性がないので、一つの趣向を立て、句の俳味を出すためにも、意味のある「糞(こえ)」の使い方だと言ってもいいだろう。
季題は「東風々(こちかぜ)」で春。
二十句目
東風々に糞のいきれを吹まはし
ただ居るままに肱(かひな)わづらふ 野坡
(東風々に糞のいきれを吹まはしただ居るままに肱わづらふ)
春風が肥えの匂いを吹きまわす頃はまだ農閑期で、農家の人はやることのないまま体がなまって肘などを痛めたりする。これはわかりやすい展開だ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「田家の正月などミゆ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「糞のいきれといふより転じ来て、百姓の此時節農隙(のうげき)ありて、ぶらぶら遊び居る体と思ひよせたり。日に日にはたらき馴れし身をあまり隙に居る故に、却て肱などいたしといふさま折々見聞処也なり。」とある。
「折々見聞処」つまりあるあるネタ。
無季。
二十一句目
ただ居るままに肱わづらふ
江戸の左右(さう)むかひの亭主登られて 芭蕉
(江戸の左右むかひの亭主登られてただ居るままに肱わづらふ)
「左右(さう)」というのは古語辞典によれば「かたわら」「あれこれ」「結果」といった意味があり、なかなか多義な言葉だったようだ。単にみぎひだりを言うのではなさそうだ。
この句は「向いの亭主登られて江戸の左右(聞く)」の倒置で、左右はあれこれという意味になる。「ただ居るままに肱わづらふに、むかひの亭主登られて江戸の左右を聞く」というのが二句通した意味。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に「前句の人、立病ミのぶらぶらして、向ひの亭主に江戸の左右抔(など)を聞也。」とある。
前句は農閑期の百姓のことだったが、ここでは京に住む店の奉公人に取り成されている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「店奉公の楽過たる趣をおかしくいへる按排に、前句を換骨し給へり。妙々。」とある。
無季。「亭主」は人倫。十八句目の「町衆」から三句隔てている。
十九句目
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
(東風々に糞のいきれを吹まはし門で押るる壬生の念仏)
ここでまた壬生念仏の様子を付けると輪廻になって展開しないので、背景を付けて流したと言っていいだろう。
「門で押るる壬生の念仏」の句は、一句が独立しすぎて、他の意味に取り成すことが難かしく、展開しにくい。時期も舞台も登場人物も限定されていて、発展性がない。こういうときには、芭蕉といえども逃げ句になるのはやむをえない。
ここでふたたび壬生念仏を見る群集の景色に戻ってしまっては、輪廻になる。壬生寺が畑の中にあるところから、まわりの畑の景色に転じるというのが、一つの付け筋となる。打越に「町衆」という人倫の言葉があるから、人物を登場させることはできない。ただ、春風に畠の肥臭い匂いを付けるだけにとどめる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「壬生寺ハ畠中なり。○此附二句がらミに似たれど、全く前句の用といハん。」とある。
二句がらみというのは壬生念仏のつらりと酔うた町衆の情景に声の匂いを加えて三句連続のイメージではないかというものだが、そうではなく壬生念仏の群衆の押し寄せる様を体として、それに付随するものとして肥えの匂いを付けただけで、打越の酔った聴衆とは離れているというものだという。三句にまたがっていけないのは本来連歌俳諧の基本なのだが、江戸後期ともなるとかなりそれが忘れられている。だから、これを「二句がらみ」という人も結構いたのだろう。
前句の用というのは、たとえば川に橋を付けるようなもので、一つの趣向をこらした情景に対し、それに従属するような言葉を添えることを言う。壬生念仏に酔った町衆は体に体を付けているが、壬生念仏に春風は体に用を付けるということになる。
『去来抄』「先師評」に糞尿の句は嫌う必要はないが、「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」と、むやみに多用することを戒めている。ここでは、ただ春風だけでは発展性がないので、一つの趣向を立て、句の俳味を出すためにも、意味のある「糞(こえ)」の使い方だと言ってもいいだろう。
季題は「東風々(こちかぜ)」で春。
二十句目
東風々に糞のいきれを吹まはし
ただ居るままに肱(かひな)わづらふ 野坡
(東風々に糞のいきれを吹まはしただ居るままに肱わづらふ)
春風が肥えの匂いを吹きまわす頃はまだ農閑期で、農家の人はやることのないまま体がなまって肘などを痛めたりする。これはわかりやすい展開だ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「田家の正月などミゆ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「糞のいきれといふより転じ来て、百姓の此時節農隙(のうげき)ありて、ぶらぶら遊び居る体と思ひよせたり。日に日にはたらき馴れし身をあまり隙に居る故に、却て肱などいたしといふさま折々見聞処也なり。」とある。
「折々見聞処」つまりあるあるネタ。
無季。
二十一句目
ただ居るままに肱わづらふ
江戸の左右(さう)むかひの亭主登られて 芭蕉
(江戸の左右むかひの亭主登られてただ居るままに肱わづらふ)
「左右(さう)」というのは古語辞典によれば「かたわら」「あれこれ」「結果」といった意味があり、なかなか多義な言葉だったようだ。単にみぎひだりを言うのではなさそうだ。
この句は「向いの亭主登られて江戸の左右(聞く)」の倒置で、左右はあれこれという意味になる。「ただ居るままに肱わづらふに、むかひの亭主登られて江戸の左右を聞く」というのが二句通した意味。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に「前句の人、立病ミのぶらぶらして、向ひの亭主に江戸の左右抔(など)を聞也。」とある。
前句は農閑期の百姓のことだったが、ここでは京に住む店の奉公人に取り成されている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「店奉公の楽過たる趣をおかしくいへる按排に、前句を換骨し給へり。妙々。」とある。
無季。「亭主」は人倫。十八句目の「町衆」から三句隔てている。
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