2023年5月25日木曜日


  昨日は掛川の加茂荘花鳥園へ行った。
 新東名の森掛川インターを降りてすぐだった。
 花菖蒲は見頃で、温室では様々な種類の紫陽花や大輪ベゴニアが咲いていた。
 花菖蒲も紫陽花もベゴニアも販売していた。ピラミッド型に並べて展示されているものも買えるようになっている。
 庄屋屋敷は古民家で、アニメの氷菓にも用いられた聖地でもある。作中でえるちゃんが握ったおにぎりにちなんだおにぎり弁当はまだ売っていた。京アニのあの事件を思い出すと悲しい。
 屋敷の庭には池があって、これが濁った水のある意味いい感じの古池だった。蛙が飛び込みそうだが、池に波紋を立ててたのは錦鯉だった。
 帰りは一般道で帰った。途中で島田の薔薇園にも寄った。

 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道の続き。

四月一日

今日は旧暦3月30日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちから4日目で、元禄2年だと4月1日。

今朝も明るくなってから鹿沼を出発した。小雨が降ったり止んだりの天気で、道はややぬかるんでる。

あなたふと木の下闇も日の光 芭蕉

昼頃に日光に着いた。雨も止んでいた。川を渡ると川上の神橋が見えた。
山は若葉が鬱蒼と繁っていて、時折日が射す。この光が下々の木の根元の隅々まで照らしてくれればいいんだが。
すぐに東照宮に行くのかと思ったら、曾良が出発前に浅草江北山宝聚院清水寺の書状を預かっていて、養源院に届けなくてはいけないというので、まずそっちへ行った。
手紙を渡して終わりかと思ったら、大猷院の別当寺の別当が会ってくれるというので、使いの者の帰りを待った。遅い‥。

別当の使いの者が帰るのを待ってたが、あいにく別客が来ていて一時(いっとき)ほど待つことになった。結局東照宮を回るのはかなり遅くなってからになった。
曾良が宗教関係者に顔が広く、別当にもコネがあるのはよくわかったが、別当への挨拶はいいからゆっくり東照宮を見たかったな。
このあと鉢石へ戻って五右衛門という人の宿に行った。今日はここで一泊。

四月二日

今日は旧暦4月1日で、元禄2年は4月2日。

今朝はいつもよりゆっくりしてから出発した。裏見の滝と憾満が淵を見に行く予定だ。
中禅寺の湖も見たかったが、馬返しから二里の険しい山道と聞いて曾良に止められた。

裏見の滝は一里ほど川沿いに登ってった所で、日光四十八滝の第一の滝だという。
岩から落ちる滝は高さ十丈で、吉野の龍門の滝の倍はあった。
滝の裏側を通れるようになっていて、滝を裏から見ることができるので裏見の滝だという。

憾満が淵は鉢石の方に戻る途中で川を渡って反対側から川を見るようになっている。
慈雲寺があり、対岸に六尺余りの不動明王の石像があった。
鉢石に戻ったのは昼頃だった。

鉢石の五左衛門宿に戻ると、五左衛門が大田原への近道を教えてくれるという。
今市から大渡、船入、玉入を経て大田原へ行く日光北街道のことは知ってたが、大渡まで大谷川の古い流れを利用したルートがあるということだった。

鉢石から日光街道を少し川下へ行くと、左へ入る道があって、河原へ出るとそこから物資を運ぶ高瀬舟が出ていた。
五左衛門の手配でこれに乗り込むと瀬尾の先で左に細い流れがあり、船はそっちに入って行くと、川室という所を通って大きな川に出た。ここをまた下って行くと大渡に着いた。

仮の橋が渡してあったが、これは水の少ない時だけで普段はないという。
本来なら三里を越える道のりだが、半時ほどで着いた。
このまま一気に矢板までは行けると思ったが、船入を過ぎた所で夕立になって、前もよく見えないような土砂降りになった。
道も泥だらけで結局玉入まで行くのがやっとだった。

行き来する商人などを泊める安い宿はあったが、同じように雷雨で足止めされた人たちで溢れていて、宿の方も詰め込むだけ詰め込もうとしていた。
こんな所で雑魚寝したら、間違いなく蚤や虱をもらいそうだ。
曾良が名主に頼み込んで、そこに泊まらせてもらった。

四月三日

今日は旧暦4月2日で、元禄に年は4月3日。

今日も明るくなってから玉入を出た。天気は良いが、道はまだぬかるんでる。
ここから矢板、太田原を経て黒羽まで行くと十四里余りになると曾良が言ってた。
幸い名主の人が馬を貸してくれるという。

この先の倉掛峠の道は分かれ道が多く、知らないと迷うが、馬の行くままに任せて適当な所で乗り捨てれば馬は勝手に帰ってくれる、と言われた。
有り難く、ご厚意に甘えるとしよう。

かさねとは八重撫子の名成るべし 曾良

曾良「玉入から少し行った倉掛峠の道は丘陵地帯で、険しくはないがどこも似たような地形で目印になる物もない。
幾つもの小さな沢が入り組んでて、そのたびに分れ道がある。確かに一つ間違えるととんでもない方にいきそうだ。

ここは馬に任せるとしよう。それとなぜかついてきたガキが二人。
でも、姉さんの方は結構可愛い。
このくらいの子にありがちな強い真っ直ぐな眼差しで、ずけずけした物言い。
そりゃ旅立つ時に剃ったばかりだから頭が青いよ。青ハゲはないよな。翁はヒゲ爺さんとか言ってるし。

別にそんないやらしい目で見たりはしてないよ。ただ可愛いなと思っただけだ。
名前を聞いたら『かさね』って三文字の珍しい名前で八重咲の花みたいだな。
最近はやりの南蛮渡来の八重撫子みたいだなって言ったら翁が、『それいける。発句にしちゃいなよ』だって。」

倉掛峠を越えると高内宿で、そこで馬を降りたが、幸いここから先は街道の馬に乗ることができた。
この先、川はあっても水は少なく、行けども行けども背の高い笹が茂って見通しの効かない単調な道だった。これが那須野か。
太田原に近づくと麦畑が多くなった。

秣おふ人を枝折の夏野哉 芭蕉

大田原は城下町で奥州街道と交差する。そこから先は川もあり田畑が広がってた。
黒羽に到着してまず黒羽城へ行くと、すぐに余瀬という所の芦野民部の屋敷に案内された。
既に日も暮れ、早速ということで興行に入った。
この句はこんな畏まった所で恐れ入るので、日頃馬草を背負ってるような牧童にでも案内していただきたいという謙遜の挨拶だった。
民部の脇は、

青き覆盆子をこぼす椎の葉 翠桃

では、椎の葉に青いイチゴをお持ちしましょう。

曾良「イチゴをこぼすというのは慌ててたということにできますな。急な雨で市場の商品を急いで片付けてたんでしょうな。」

  青き覆盆子をこぼす椎の葉
村雨に市のかりやを吹とりて 曾良

芭蕉「村雨だからすぐに止むんで、おこで定座を繰り上げて、雨の後の月を出しておこうか。市だから町中。」

  村雨に市のかりやを吹とりて
町中を行川音の月 芭蕉

民部「では、小鷹狩りの帰りに城下に戻ってきた時の夕涼みというのはいかがかな。んっ、季重なりかな?箸鷹の小鷹狩で秋とわかるから残暑の夕涼みでok?良かった。」

  町中を行川音の月
箸鷹を手に居ながら夕涼 翠桃

曾良「夕涼みだと着ていくのは帷子ですな。その帷子も秋に合わせて秋草の柄にってことにしましょう。」

  箸鷹を手に居ながら夕涼
秋草ゑがく帷子は誰ぞ 曾良

この日はここで終わった。

2023年5月23日火曜日

  広島サミットも終わり、混乱もほとんどなくて、アメリカ大統領が来れただけでなく、中東からゼレンスキー大統領まで来て、さながらヤルタ会談かポツダム会談か。
 多分ウクライナがなかなか攻勢に出ずに武器を集めた状態で留まっているのは、もはやロシアの自壊待ちで、戦わずして勝つことを考え出してるんじゃないかな。
 超音速ミサイルキンジャールがパトリオットで対応可能なのが分ったのは大きい。これなら核攻撃をされても防げる可能性が出て来た。これは北朝鮮にとっても衝撃だろう。核の脅しが迎撃技術で無効化されるなら、多額の予算をかけた核開発も無駄になる。核なき世界へ一歩前進となる。
 広島で世界の首脳が慰霊碑に花を捧げ核廃絶に大きく動き出したのも、核を無効化できるという希望が湧いたことも大きく左右したのではないか。
 自由ロシア軍も密かに活動を始めている。ウクライナと戦って犬死するくらいなら、プーちんに抵抗して死ぬ方がまだ良いと思うようになってきたのか。
 ロシアが負けた場合、焦点となるのはロシアを非核化できるかどうかだろう。かつてウクライナを非核化したことが今回一つの弱点になったが、非核化した国を国際社会が救うことができたことは日本にとっても大きな希望になる。
 ロシアが非核化し、自由主義社会の一員になり、NATOに加盟することになれば、中国と北朝鮮の包囲網は完成する。インドも今更中国には付かないだろう。中国が開放路線に復帰する可能性も高くなる。
 そこまで考えるなら、世界は核なき世界に大きく前進することになる。一年前にロシアがウクライナを侵略した時は絶望的な気にもなったが、災い転じて福となすことができそうだ。自由主義の勝利が核なき世界への大きな前進となる。
 そして、広島サミットがその大きな歴史的転換点として、後世に名を残すことになるかもしれない。
 今は焼け野原になったバハムトも十年後には今の広島のような町になっているかもしれない。とにかく希望を持とう。

 それと、去年からTwitterを始めて分かったのは、マスゴミの贋炎上記事が多いということだ。
 そりゃ夜明け前の一番ツイート数の少なくなる時間帯に一瞬でもトレンド入りすれば、「トレンド入り」という報道は間違ってはいないことになる。
 「炎上」という表現はもっと曖昧で、一体何軒の書き込みがあれば炎上なのか定義がないから、一件でも非難するコメントがあれば炎上したと言えてしまう。
 マスクさんのおかげでボットが使用できなくなったのか、今やツイッターデモのトレンド入りも明け方の限られた時間に限られている。

 それではTwitterで呟いたなりきり奥の細道でも。

三月二十七日

今日は旧暦3月27日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちの日。

草の戸も住かはるよや雛の家 芭蕉

元禄2年3月27日、みちのくへ旅立つ日が来た。
実はそれ以前に住んでた庵は新しい居住者に引き渡していて、近くにある鯉屋の旦那の採荼庵に止まっていた。
最初は20日に旅立つはずだった。

路通が一緒に行く予定でずっと江戸にいたんだが、急に曾良に変わった。
磐城平藩の方に意向があったようだ。スポンサーになる以上、予算管理のしっかりできる同行者が求めるのは仕方ない。確かに路通は経済感覚ゼロだからな。
曾良はみちのくの有力者にコネがあるようだし、神社の調査もあるようだ。

一度は26日に旅立つことが決まったが、昨日は門人たちが集まって来て、名残を惜しんでるうちにいつのまにか飲み会になってて、勝手に盛り上がってしまった。
おかげで今朝早く船で千住まで行って、春日部までの強行軍になってしまった。

芭蕉庵の方は娘を連れた人が住んで、最近流行のきらびやかに染めた新しい大きな紙製の立ち雛に、先代の立ち雛を何対も並べて飾ってた。
世の中変わったもんだ。
昨日酔いに任せて百韻巻こうなんて言って、表八句で終わってしまった懐紙は採荼庵に置いて行く。まあ、出来も悪いし反故だろうな。

鮎の子の白魚送る別かな 芭蕉

巳の刻にようやく千住に着いた。
ここで見送りに来た門人たちともお別れで、ここからは曾良と二人旅になる。
海に住むたくさんの白魚たちが、川を上って行く二匹の鮎を見送ってるかのようだ。

夜になって無事に春日部に着いた。船にも馬にも乗ったが九里は長かった。
そうそう、芭蕉庵の引き渡しは2月の終わりだったね。だから雛人形が飾られるのを見たわけだし。


三月二十八日

今日は旧暦3月28日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちの次の日。

朝明るくなってから春日部宿を馬で出発する。夜のうちに雨が降って一時止んでたが、出発する頃また降り出した。
小さな川を渡ったが、かつて下総に流れてた太日川の名残だという。これも東照宮様の御威光とか。

昼から雨も止んで、栗橋の関を通過した。
栗橋と利根川の対岸の中田宿との間の房川の渡しが関所になっていたが、勝手に通れって感じだった。
関所も関守によりけりで、いい加減な所もあれば厳しい所もある。

今日は間々田宿に泊まる。明日は室の八島だ。街道から外れるが、馬はあるのかな。


三月二十九日

今日は旧暦3月29日で、芭蕉さんの奥の細道旅立ちの次の次の日。
令和5年の3月は大の月なので明日は30日だが、元禄2年の3月は小の月なので、春は今日で終わる。

今日も朝明るくなってから間々田を出る。いい天気だ。小山宿まで日光街道で、そこから左へ折れて室の八島に向かう。

小山宿から先はやはり歩きだった。
小山宿を通る時、右側に本陣が見えて、あれが有名な小山の屋敷なのかと、曾良と二人で話してた。
木沢追分という壬生街道の分岐点があって、そこから飯塚宿は近かった。

ここから街道を外れる、河原を歩いた。
惣社河岸で川を渡り、少し行くと室の八島だった。

糸遊に結つきたる煙哉 芭蕉

室の八島には昼頃着いた。
北条氏直によって焼き払われたという大神神社は天和の頃に再建され、真新しい社殿が建っていたが、実方朝臣が、

いかでかは思ひありともしらすべき
   室の八島の煙ならでは

と詠んだような煙はどこにもなく、陽炎だけがゆらゆらとしてた。
神道家の曾良は大喜びでコノシロの蘊蓄などいろいろ語ってた。正直うざいけど、紀行文にする時のネタにはなるからメモしておこう。


室の八島から壬生宿まではすぐだった。ここで壬生街道に戻った。
壬生を出て少し行くと金売吉次の塚が畑の真ん中にあった。

入かゝる日も程々に春の暮 芭蕉

折しも3月29日の小晦日で、春も今日で終わり。
室の八島に行った時には晴れてたが、だんだん雲が出てきて、今では夕日も見えなくなって、薄暗くなってゆくだけの春の終わりはちょっと寂しい。
もうすぐ鹿沼宿。

鐘つかぬ里は何をか春の暮 芭蕉
入逢の鐘もきこえず春の暮 同

今日は鹿沼に泊まる。
この辺りは入相の、鐘の音も聞こえてこない。
明日は日光に行くんで、曾良が宿の人に道を聞いてメモを取っていた。

2023年5月18日木曜日

  それでは「武さし野を」の巻の続き、挙句まで。

二十五句目

   もるに書ヲ葺閑窓の夜
 犬わなにかかるは酔の翁にて   其角

 前句を雨漏りではなく窓の灯りが漏れるに取り成し、書を葺くを単に窓の辺りに積み上げられた本の床にしたのであろう。そうなると主は隠士でそこで何かネタをということになる。
 隠士は酒のみで酔っ払って犬のわなにかかる。
 犬罠は野犬対策だろうか。生類憐みの令より前の時代だから、犬を捕まえて食う人もいたとは思うが、大抵は冬の薬食いに限られていた。
 生類憐みの令の効果の薄れた後の時代も、犬の薬食いは行われていた。
 芭蕉の時代の俳諧では薬食いは大抵鹿で、生類憐みの令の時代に限って言えば、ほとんど犬は食わなかったのだろう。
 韓国人は夏の暑気払いに犬を食い、日本人は冬の薬食いで犬を食ってた。

二十六句目

   犬わなにかかるは酔の翁にて
 壻等に恥よ名を反す恋      翠紅

 名を反(そら)すというのは名を汚すと同様に考えていいのか。
 前句の犬わなを夜這いに行って犬をけしかけられたか何かと取り成したのだろう。
 婿養子はしっかりしてるが、先代の親父は恥ずかしい。

二十七句目

   壻等に恥よ名を反す恋
 早稲は実か入晩稲は身稲つはり  一晶

 身には「はらむ」とルビがある。入晩稲は特にルビはないが、字数からして「おくて」で良いのだろう。「わせはみか、おくてははらむ、いなつわり。」
 他の男との子を孕んだかもしれず、聟やその家族に恥じる。婚姻時期に対して子供が早すぎるということを早稲に喩えたか。早稲の頃にできた子か、晩稲の時期につわりになる。

二十八句目

   早稲は実か入晩稲は身稲つはり
 袖そよ寒しスバル満ン時     才丸

 「すばるまんどき」という言葉がある。明け方に昴が南中したときに蕎麦を蒔くと良いということらしい。初秋の頃になる。

二十九句目

   袖そよ寒しスバル満ン時
 水飲に起て竈下に月をふむ    翠紅

 竈の下に水が汲んであって、それをひっくり返したということか。

三十句目

   水飲に起て竈下に月をふむ
 聞しる声の踊うき立       一晶

 月を踏んだと思ったら、隣に寝ていた人の禿げ頭だった。

二裏

三十一句目

   聞しる声の踊うき立
 早桶の行に哀はとどめずて    其角

 早桶はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「早桶」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 粗末な棺桶。手早く作って間に合わせるところからいう。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)奉納弍百韻「富士の嶽いただく雪をそりこぼし〈信章〉 人穴ふかきはや桶の底〈芭蕉〉」

とある。
 親しい人が急死したのだろう。見知った人が悲しみに堪えられずに狂乱状態になっているのは哀れだ。

三十二句目

   早桶の行に哀はとどめずて
 我身をてかけ草のいつ迄     翠紅

 てかけ草はよくわからない。「てかけ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「手掛・手懸」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「てがけ」とも)
  ① 手をかけておくところ。椅子(いす)などの手をかけるところ。
  ② 器具などの、持つのに便利なようにとりつけたあなや金物。
  ③ みずから手を下して扱うこと。自分で事に当たること。
  ※毎月抄(1219)「難題などを手がけもせずしては、叶ふべからず」
  ④ (手にかけて愛する者の意から。「妾」とも書く) めかけ。そばめ。側室。妾(しょう)。てかけもの。てかけおんな。てかけあしかけ。
 ※玉塵抄(1563)二一「武士が死る時にその手かけの女を人によめらせたぞ」
  ※仮名草子・恨の介(1609‐17頃)上「さて秀次の〈略〉、御てかけの上臈を車に乗せ奉り」
  ⑤ 正月に三方などに米を盛り、干柿、かち栗、蜜柑(みかん)、昆布その他を飾ったもの。年始の回礼者に出し、回礼者はそのうちの一つをつまんで食べる。あるいは食べた心持で三方にちょっと手をかける。食いつみ。おてかけ。てがかり。蓬莱(ほうらい)飾り。〔随筆・貞丈雑記(1784頃)〕
  [語誌](④について) 律令時代には「妾」が二親等の親族として認められており、「和名抄」では「乎無奈女(ヲムナメ)」と訓読されている。中世には「おもひもの」の語が妾を指したらしいが、室町以降「てかけ」が一般の語となり、「そばめ」、「めかけ」などの語が使われるようになった。」

とある「てがける」は、

 「〘他カ下一〙 てが・く 〘他カ下二〙
  ① みずから手を下して扱う。自分からそのことにあたる。仕事・趣味・役目などの内容としてそのことに関わる。体験する。
  ※愚管抄(1220)七「法性寺殿はこながらあまりに器量の、手がくべくもなければにや、わが御身にはあながちの事もなし」
  ※怪談牡丹燈籠(1884)〈三遊亭円朝〉一八「かふ云ふ病人を二度ほど先生の代脈で手掛けた事があるが」
  ② 世話をする。面倒をみる。養成する。特に、女性と関係を持ち、世話をすることにもいう。
  ※史記抄(1477)一三「父の手がけられた者を妻にするぞ」

 女房が亡くなって、子供を自分で世話して、それはいつまでも続くということか。

三十三句目

   我身をてかけ草のいつ迄
 花は世に伊達せぬ山の浅黄陰   才丸

 花はここでは春季に扱われてないので、比喩のしての花で、太平の世になってということか。世間花のように浮かれている中を山の緑のように飾りっけなく、自分の職務を全うする。

三十四句目

   花は世に伊達せぬ山の浅黄陰
 心に寸ンの剣なき盧       其角

 剣や「つるぎ」、盧は「いほ」とルビがある。
 天下泰平になったので、もはや戦おうという気持ちも寸分もなくなって、庵に隠棲する武士とする。

三十五句目

   心に寸ンの剣なき盧
 灯前の夜話酒を好ニス      一晶

 前句の隠士は灯火を灯して酒を飲んで夜通し人と語り合うのを楽しみとする。

挙句

   灯前の夜話酒を好ニス
 あらしに帰る四の罔兩

 罔兩はこの興行の執筆と思われるが、句の中に自分の名前を詠み込んで、まだ真夜中にならないうちの四つの刻に嵐が来たからと帰ってしまった、と付ける。
 罔兩は一般名詞としてコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「罔両」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 陰影のふちに生じる薄い影。ぼんやりした影。
  ※俳諧・幻住菴記(1690頃)「日既に山の端にかかれば、夜座静に月を待ては影を伴ひ、燈を取ては罔両に是非をこらす」 〔荘子‐斉物論〕
  ② ⇒もうりょう(魍魎)」

とあるように魑魅魍魎の意味もある。してみると、発句のマレビトは実は魑魅魍魎だったという落ちか。

真挙句?

 年の輪の半をくぐる名越哉    翠紅

 この巻は挙句の後にこの発句が並べられている。
 六月晦日の夏越の祓のことで茅の輪くぐりをする。これを半ばくぐったところで魑魅魍魎は去って行った、ということで一巻は目出度く終わることになる。

2023年5月17日水曜日

  ワクチンに副作用があることも、マイナカードのコンピュータシステムに入力ミスやエラーがあることも、誰もが知ってる当たり前なことなんで、それを考慮しても社会全体に有益だからやってること。
 反ワクや反マイナの人達って、自分たちだけがそれを知ってるとでも思ってるのかな。
 交通事故で毎年たくさんの人が亡くなっても車の使用をやめないとと同じでしょ。
 陰謀説にすぐ引っかかる人というのは、自分だけが真実を知ってて、大衆は無知蒙昧だと思っている人なんだと思う。常に自分は何も知らないのかもしれないと思っている謙虚な人は引っかからない。

 性自認の問題だが、「性別は精神の自由のみで決まらず、肉体の構造のみで決まらず。欲情の結果がすべて。」ってのはどうだろうか。
 まあ、性別を性自認で決めた所で、それとはまったく別に子宮を持つ者はペニスを持つ者から守られなければならない。
 また、スポーツの男女の別は体格、体力などの差を考慮したもので、肉体的な差異に根拠があるのだから、心が男であろうと女であろうと肉体がどちらなのかで決定されなくてはならない。
 西洋の人権派もみんながみんな馬鹿ではないと思うし、こういう問題に当然気付いていると思う。
 日本は西洋の良い所は取り入れても、悪い所まで取り入れる必要はない。日本は先進国として西洋と対等だという誇りを持つべきだ。

 それでは「武さし野を」の巻の続き。

十三句目

   治郎にくだす盞の論
 金谷ノ泪ヲかたびらにそそぐ   一晶

 金谷は字数からすると「かねたに」だろうか。かねたにの-なみだをかたび-らにそそぐ、こういう切り方は近代俳句でも真似されているが。
 何となくそういう武将がいそうだなという感じで「かねたに」にしたのだろう。息子との涙の別れか。楠木正成の桜井の別れのような。

十四句目

   金谷ノ泪ヲかたびらにそそぐ
 荒しや姑蘇の風呂臺に入     其角

 姑蘇(こそ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「姑蘇」の意味・読み・例文・類語」に、

 「中国、江蘇省蘇州市近郊にある呉県の古名。西南に姑蘇山があり、その山頂には姑蘇台がある。〔張継‐楓橋夜泊詩〕」

 姑蘇台は、

 「中国、春秋時代の呉王夫差が姑蘇山(江蘇省呉県の西南)上に築いた台の名。夫差は越を破って得た美人西施など、千人の美女を住まわせて栄華をきわめたという。姑胥台(こしょだい)。蘇台。
  ※和漢朗詠(1018頃)下「強呉滅びて荊蕀あり 姑蘇台の露瀼々たり〈源順〉」 〔史記‐呉也家〕」

とあり、和漢朗詠集にもあるから有名だったのだろう。ただ、風呂臺はおそらく白楽天『長恨歌』の西安華清池の、春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂のイメージと組み合わせたものか。
 その温泉台も荒れ果てて涙を流すというのは、前句の金谷殿を玄宗皇帝に見立てたと思われる。

十五句目

   荒しや姑蘇の風呂臺に入
 乱往昔古首つるべより上る    才丸

 往昔には「そのかみ」とルビがある。荒れ果てた風呂台の跡はその昔乱があって、その時の首が釣瓶に乗って上げられた、ということであろう。昔の首だったら、完全に髑髏になっているのだろう。

十六句目

   乱往昔古首つるべより上る
 主人の瑞を告し初鶏       翠紅

 乱を起こした邪君は既に排除され、我が大君が天下泰平をもたらす瑞兆の鶏の声がする。

十七句目

   主人の瑞を告し初鶏
 花の比都へ連歌買にやる     其角

 吉兆があったので花の都で連歌会を催す。中世ならありそうなことだ。「買いにやる」というのは、地下の連歌師たちを多額の報酬をやって集めてくるということか。善阿、周阿。救済のような。
 まあ、其角も自ら「詩あきんど」と言っているし。

十八句目

   花の比都へ連歌買にやる
 桜まだみぬ島原につよし     一晶

 花の都と言えば島原の遊郭。連歌師を呼ぶはずが、桜にはまだ早いと言って、結局遊郭で使いこんでしまうという落ちか。
 「つよし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「強」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘形口〙 つよ・し 〘形ク〙
  ① 丈夫で力がある。また、勢いがある。
  ※書紀(720)神武即位前(熱田本訓)「勁(ツヨキ)卒(いくさ)を駈馳せて」
  ② 勇気・意志力・忍耐力などが十分にある。また、気丈夫である。
  ※続日本紀‐神護景雲三年(767)一〇月一日・宣命「先の人は謀(はかりごと)をぢなし、我は能(よ)く都与久(ツヨク)謀りて、必ず得てむ」
  ③ あることが得意である。あることによく通じている。また、あることに耐える力がある。「将棋が強い」「法律に強い人」「熱に強い材質」
  ※東京の三十年(1917)〈田山花袋〉ある写真「国木田も飲むからな。それに、天渓君だって強い」
  ④ ゆるみがない。堅い。堅固だ。
  ※東大寺諷誦文平安初期点(830頃)「唯し菩提樹下のみ堅(ツヨク)全(また)くして振ひ裂けず」
  ⑤ はげしい。きびしい。するどい。
  ※源氏(1001‐14頃)末摘花「人のいふ事はつようもいなびぬ御心にて」
  ⑥ 程度が著しい。はなはだしい。きわだっている。
  ※源氏(1001‐14頃)玉鬘「詠みつきたる筋こそ、つようは変らざるべけれ」

といろいろな意味があるが、ここでは③の意味で、島原を熟知してるということでいいかと思う。

二表

十九句目

   桜まだみぬ島原につよし
 地女の袂みじかき染の帯     翠紅

 地女はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「地女」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙
  ① その土地の女。
  ② 商売女に対してしろうとの女をいう。
  ※俳諧・虚栗(1683)上「桜まだみぬ嶋原につよし〈一晶〉 地女の袂みじかき染の帯〈翠紅〉」
  ※浮世草子・好色二代男(1684)八「今迄太夫見つくせども、〈略〉若地女(ヂをんな)に美人もありや、諸国を尋出し、色町をやめんと」

とある。
 今でもプロの風俗嬢は私生活では地味な格好をしてるもんで、素人の方が大胆だったりする。この場合の強しは際立つの方か。

二十句目

   地女の袂みじかき染の帯
 小六に祈る郎よかれと      才丸

 小六はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「小六」の意味・読み・例文・類語」に、

 「[一] 小六節(ころくぶし)にうたわれた馬方の小六のこと。慶長(一五九六‐一六一五)頃の人。江戸赤坂に住み、西国生まれの美男で小唄の名手という。
  ※糸竹初心集(1664)下「ころく生れは西のをくに、ころくそをだちやほほほんほほほん」
  [二] 「ころくぶし(小六節)」の略。
  ※俳諧・ひさご(1690)「うつり香の羽織を首にひきまきて〈珍碩〉 小六うたひし市のかへるさ〈同〉」

とある。
 郎は「とのこ」とルビがある。馬方の小六のような美少年が生まれることを祈るということか。

二十一句目

   小六に祈る郎よかれと
 御手洗や両国橋の生れぬ世    一晶

 両国橋はウィキペディアには、

 「両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)[1]と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。」

とある。いずれにしても小六の時代よりは大分後になる。前句の祈りを両国橋誕生前の話とする。

二十二句目

   御手洗や両国橋の生れぬ世
 垂樹渡江松九本あり       其角

 「垂樹江を渡る松」と読む。
 両国橋ができる前には川を渡るくらいの横に太い枝を垂れた松が九本あった、と昔話めいてるが真偽不明。

二十三句目

   垂樹渡江松九本あり
 蒹焦て番屋は雷に霹らん     才丸

 蒹は「よし」とルビがある。芦のこと。
 九本あった松の木は雷が落ちて、辺りの芦も燃えて河原にあった番屋は倒れた松の下敷きになった。

二十四句目

   蒹焦て番屋は雷に霹らん
 もるに書ヲ葺閑窓の夜      罔兩

 雨漏りした箇所を本で塞いで何事もなかったかのようにふるまう隠士がいた、ということだろう。杜甫の茅屋為秋風所破歌の、

 床頭屋漏無干處
 雨脚如麻未断絶

の心であろう。
 この少し前に、

 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   芭蕉

の句があり、前年の天和二年刊千春編『武蔵曲』に収録されている。

2023年5月16日火曜日

 
 今日は名古木(ながぬき)の棚だを見に行った。
 規模は小さいが荒れてたのを保存しようというのは良いことだ。
 場所も富士山や箱根山の見渡せるところで、もう少し上に上ると秦野市街も見える。
 今は田んぼも水を張った所で田植前だが、この時期は水面に空が映し出される。これが月夜だったら、月明りの空が田に映って田毎の月になるのだろう。

 それと今日は旧暦三月二十七日で芭蕉が奥の細道に旅立った日。今年は二月閏で元禄二年は一月閏があって春が四か月あり、元禄二年の旧暦三月二十七日も新暦五月十六日だった。
 つまり、今日は新暦旧暦両方とも芭蕉の旅立ちの日になった。

 それでは『虚栗』から、もう一つ歌仙を見てゆくことにしよう。今回は「武さし野を」の巻。

初表

発句
   一むら薄まれ人をまねいて
 武さし野を我屋也けり涼み笛   翠紅

 まれ人は発句を詠んだこの翠紅と思われる。この人についてはよくわからないが、『虚栗』には、

 春ン柴ニ負ㇾ葩ヲ木深き宿を山路哉 翠紅
 白魚は朧にて海雲を晴ルル笧哉  翠紅

などの句が入集している。
 武蔵野を我が屋だと思って涼んでいきます、という挨拶になる。涼み笛は何か特別な笛があるのか、単に納涼会で笛を吹くというだけなのかよくわからない。
 一晶もまた、コトバンクの「世界大百科事典 第2版 「一晶」の意味・わかりやすい解説」に、

 「1643‐1707(寛永20‐宝永4)
  江戸前期の俳人。姓は芳賀,名は治貞。通称は順益。別号は崑山翁,冥霊堂。似船・常矩(つねのり)の傘下から京都俳壇に登場し,秋風・信徳に兄事した。《四衆懸隔》(1680),《蔓付贅(つるいぼ)》(1681),《如何(いかが)》等を刊行し,1万3500句の矢数俳諧で名をあげ,談林俳諧の点者として認められた。1683年(天和3)に歳旦帳を刊行し,その春江戸に移住して蕉門と親交を持ち,天和蕉風の一翼を担った。」

とある。『虚栗』が天和三年六月刊なので、春に江戸に来て夏にこの一巻に参加して、すぐに刊行されたことになるが、これ以前にも春の「花にうき世」の巻に参加している。
 才丸は延宝五年から江戸にいて、芭蕉や其角との親交も深い。其角は江戸っ子で父の東順は近江出身。
 罔兩は「菖把に」の巻の最後の二十五句目だけ付けてたので執筆だったと思われる。この巻では三句参加している。


   武さし野を我屋也けり涼み笛
 切麦さらすさらさらの里     才丸

 切麦は麦をこねて細く切ったもので、夏に冷やして食べるのなら冷麦の原型であろう。冷水にさらしてさらさらにして食べる。

第三

   切麦さらすさらさらの里
 皂莢に草鞋ヲいたく径アリて   一晶

 皂莢は「サイカシ」とルビがある。今日でいうサイカチのことであろう。コトバンクの「デジタル大辞泉 「皂莢」の意味・読み・例文・類語」に、

 「マメ科の落葉高木。山野や河原に自生。幹や枝に小枝の変形したとげがある。葉は長楕円形の小葉からなる羽状複葉。夏に淡黄緑色の小花を穂状につけ、ややねじれた豆果を結ぶ。栽培され、豆果を石鹸の代用に、若葉を食用に、とげ・さやは漢方薬にする。名は古名の西海子(さいかいし)からという。《季 実=秋 花=夏》「夕風や―の実を吹き鳴らす/露月」

とある。
 前句の切麦の里を旅の途中の涼みとして、旅体に転じる。足にできる豆と掛けているのであろう。

四句目

   皂莢に草鞋ヲいたく径アリて
 つばめをつかむ雨の汚レ子    其角

 雨の中で泥だらけになった子供が巣から落ちた燕を掴むということか。前句を旅人から子供に転じる。

五句目

   つばめをつかむ雨の汚レ子
 月出て日の牛遅き夕歩み     罔兩

 前句の汚れ子を牧童として、雨が上がり月の出た夕ぐれを牛とともにゆっくり帰って行く。

六句目

   月出て日の牛遅き夕歩み
 えぼしを餝る御所やうの松    翠紅

 前句の牛から王朝時代の牛車に乗った貴族に転じ、御所の松の周りに立派な烏帽子を被って集まる。
 烏帽子は人前では脱がないものだから、烏帽子を松に飾ったのではなく、松の木を烏帽子をした人たちが飾るということであろう。

初裏

七句目

   えぼしを餝る御所やうの松
 鏡刻時の斧取り申ける      才丸

 これも難解でよくわからない。斧取りは「よきとり」か。
 宮廷で神事に使う銅鏡の模様を刻む時に、銅を溶かすための薪にする松を斧で伐採する人達が松の木の元に集まるという情景だろうか。

八句目

   鏡刻時の斧取り申ける
 八十万箕の霊とあらぶる     一晶

 八十万は八百万(やおよろず)に一桁足りないが、八百万の神にも満たない八十万(やそよろず)の霊(たま)ということか。
 箕の霊(たま)は御霊(みたま)と掛けて、前句を非業の死を遂げた御霊の荒ぶるのを鎮める儀式としたか。

九句目

   八十万箕の霊とあらぶる
 生姜薬をかざしにさせる市女笠  其角

 生姜は薬として体を温めるのに用いられる。それを用いて市女笠の巫女が八十万の霊を鎮める。

十句目

   生姜薬をかざしにさせる市女笠
 関守浮ス三五夜の曲       才丸

 関を越える時には頭に挿頭(かざし)を付けて晴着にする。後に芭蕉が『奥の細道』の旅で白河の関を越える時に曾良が、

 卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良

の句を詠んでいる。
 生姜薬のかざしで関を越えようとする市女笠の旅の女だが、何かと出女に厳しい関所のことで、関守を懐柔するために三五夜の曲を奏でる、謡い踊る。
 三五夜は十五夜のことだが、四句隔てて月があるためここで名月は出せないので「三五夜」にしてかいくぐることになる。関所抜けでもあり式目の抜けでもある。

十一句目

   関守浮ス三五夜の曲
 雁の来ルいで楊弓を競ふらん   翠紅

 秋だから雁の渡ってくる季節でもある。十五夜の宴の余興として関守をもてなすために楊弓でもって雁を獲る競争をしよう、ということになる。
 楊弓はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊弓」の意味・わかりやすい解説」に、

 「長さ2尺8寸(約85センチメートル)ほどの遊戯用の小弓。楊弓の呼称は、古くは楊柳(やなぎ)でつくっていたからであり、またスズメを射ったこともあるため、雀弓(すずめゆみ)(雀小弓)ともよばれた。唐の玄宗が楊貴妃とともに楊弓を楽しんだという故事からも、日本には中国から渡来したものと思われる。約9寸(27センチメートル)の矢を、直径3寸(約9センチメートル)ほどの的(まと)に向けて、7間半(約13.5メートル)離れて座ったまま射る。平安時代に小児や女房の遊び道具として盛んになり、室町時代には公家(くげ)の遊戯として、また七夕(たなばた)の行事として行われた。江戸時代になると、広く民間に伝わり競技会も開かれた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころから寺社の境内や盛り場に楊弓場(ようきゅうば)が出現した。楊弓場は主として京坂での呼び名で、江戸では矢場(やば)といった。金紙ばりの1寸的、銀紙ばりの2寸的などを使い、賭的(かけまと)の一種であったが、賭博(とばく)としては発達しなかった。矢場はむしろ矢取女という名の私娼(ししょう)の表看板として意味が深い。」

とある。本格的な狩猟でなく、あくまでゲームとして楽しむ。

十二句目

   雁の来ルいで楊弓を競ふらん
 治郎にくだす盞の論       罔兩

 遊戯としての楊弓場は元禄の頃には一般的になるが、天和の頃はまだであろう。
 ここでは武家の子どもの遊戯で、小さい子供に弓を教えながら酒の飲み方も教える。

2023年5月15日月曜日

  西洋、特にアメリカの人権思想というのは昔ながらの霊肉二元論で、精神のみの権利を語り、肉体を完全に無視する傾向がある。多分それがピューリタニズムと密接に結びついてるのだろう。
 レイプはこうした人権思想からすると、あくまで精神に対する犯罪であり、子宮に対する犯罪ではない。そのため女性に対するレイプと男性に対するレイプを同等に考える。
 また、LGBTに対する意識も、あたかも肉体の性が存在しないかのように、精神だけの性を絶対視する。
 男女は肉体的に異なり、子宮を持つことと体の小さいことは大きなハンディになるがこのことは精神中心のジェンダー論では完全に無視されている。あくまで精神の平等のみで肉体の差異を考慮しないなら、結果的に男性の体を持つ者の絶対的優位が確定する。
 西洋の人権論者はこの欠点を自覚する必要がある。
 LGBTの差別には反対だが、肉体軽視の精神主義のジェンダー論は断じて受け入れるべきではない。

 イーロン・マスクさんは「お金は情報システムの一種だ」と言ったとか。
 お金を交換価値と言い換えた方が良いかもしれない。金は古典経済学では商品の一つと考えられていた。金銭的な価値は交換価値を反映するものではなく、一つの商品として相場の上下するもので、金銀銭などの変動相場の時代は確かに一つの商品だった。
 これに対して古典経済学は底辺にいる労働者の最低限の生活必需物資を基本として、交換価値の基準とした。この考え方ではいかに生産性が高まろうとも、その生産物の総体の価値は増えることはなく、生産過剰になる分、物の価値は暴落することになる。これがリカードの悲観論やマルクスの革命論の根底となった。
 この考え方では人は永遠に飢餓と隣り合わせの底辺労働者の生活水準に縛り付けられることになる。
 西洋哲学の霊肉二元論の考え方では、欲望は肉体に発するもので有限のものとなってしまう。つまり食べ物は満腹したら終りで、性欲は子孫の生活が保障されればそれで終わり、睡眠欲は何の価値も生み出さない。この有限の欲望が労働者の最低限の生活という形で、交換価値はそれ以上増えないということになる。
 そして芸術品やレアアイテムなどの希少価値は交換価値の例外として扱われる。
 だが、資本主義はその後生活を一変させるような大きな社会変化をもたらし、いわゆる底辺労働者を一層していった。古典経済学が予測できなかったのは、消費体系全体が変わるということで、人は永遠に底辺労働者の生活をするわけではないということだった。
 交換価値は現在の生活の継続によって決定されるのではない。交換価値は未来によって決定される。未来に今と違った生活を思い描くなら、交換価値はその生活の豊かさに応じて膨れ上がることになる。
 資本主義の剰余利益はただライバルよりも優位に立つためのコストダウンにのみ向かうのではなく、新たな生活スタイルの創造による新たな需要、市場の開拓にも向けられた。これによって労働者の生活そのものが生理的欲求によって限界づけられた定数ではなく、その望む新しい生活の方から決定される変数へと変わった。
 交換価値は現在の生活によって決定されるのではない。交換価値は未来から決定される。
 お金は従来は金銀などの物質に基礎を持っていたが、かなり前からそうした本意制度から遊離している。お金の価値もまた未来から決定されるようになった。我々は未来の膨れ上がるべき生活を基本に交換価値を見出し、その未来から借金して、それを元手に労働をしている状態にある。
 各国の通貨はその未来量と言ってもいいかもしれない。その国が豊かな未来を思い描ける状態で、それに向かって労働できる状態であれば、その通貨は相対的に高値を付ける。日本がこれだけの借金を抱えていても破綻しないのは、未来があるからだ。
 この未来量の評価は何ら物質的な基盤を持っていない。それは世界中の投資家のそれぞれの不確かな感覚によって決定されている。そして金融市場はその無数の投資家の思惑に基づく需要供給の関係にすぎない。
 それは極言すれば「通貨は市場に表現された需要供給関係の情報データにすぎない」ということになる。故に「お金は情報システムの一種だ」。

 それでは「菖把に」の巻の続き。

十三句目

   むかしを江戸にかへす道心
 藤柄の鉦木をとても重からぬ   挙白

 鉦木は「しもく」とルビがある。鉦を叩く撞木(しゅもく)のことであろう。
 藤柄は「ふぢつか」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「藤柄」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 (「ふじづか」とも) 藤蔓を巻いてある刀の柄。きわめて質素で、いかついもの。
  ※俳諧・虚栗(1683)上「むかしを江戸にかへす道心〈松濤〉 藤柄の鉦木(しもく)をとても重からぬ〈挙白〉」

とある。
 前句を出家した武士として、刀のツカを撞木に加工して持ち歩いてるということか。
 「とても」はかつては否定の言葉を伴うことが多く、否定の強調になる。「さりとても」から派生したか。
 刀は重かったが、撞木になったからには藤の蔓が巻いてあってごついけど、だからと言って重いわけではない。
 刀の重さは重量だけでなく、人を生殺を預かる精神的な重圧もある。

十四句目

   藤柄の鉦木をとても重からぬ
 破蕉老たる化ものの寺      其角

 破蕉は秋風に破れた芭蕉の葉で、荒れ果てた感じがする。深川の芭蕉庵にも植えられていて、その薄物の破れやすさは庵主の好みだが、ここでは特に関係はあるまい。
 前句の「藤柄の鉦木」を軽々とという所から、大きな化物が棲み着いているとする。

十五句目

   破蕉老たる化ものの寺
 蟹ひとり月ヲ穿ツの淋しげに   松濤

 「月夜の蟹」という諺があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「月夜の蟹」の意味・読み・例文・類語」に、

 「(月夜には、蟹(かに)や貝類は月光を恐れて餌をあさらないので、やせて身(肉)がつかないといわれているところから) やせていて肉の少ない蟹。転じて、身がない、内容がないの意のしゃれ。また、知能程度の低い人のたとえ。つきよがに。
  ※雑俳・水加減(1817)「案に相違・月夜の蟹な蔵構」

とある。
 月を恐れて穴を掘って隠れるように蟹のように寺に籠る化け物。あるいは言水編延宝九年(一六八一年)刊『東日記』所収の、

 夜ル竊ニ虫は月下の栗を穿ツ   芭蕉

の影響があったかもしれない。隠士の比喩と見ていい。

十六句目

   蟹ひとり月ヲ穿ツの淋しげに
 詩人の餌の鱸魚ヲ憎シト     挙白

 中国の詩人は鱸魚を好むということか。名高い松江鱸魚はスズキではなくヤマノカミのことだという。
 蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)という言葉もあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「蓴羹鱸膾」の意味・読み・例文・類語」には、

 「〘名〙 (「晉書‐文苑伝・張翰」の「翰因レ見二秋風起一、乃思二呉中菰菜蓴羹鱸魚膾一、曰、人生貴レ得レ適レ志、何能覊二宦数千里一以要二名爵一乎、遂命レ駕而帰」による語で、張翰(ちょうかん)が故郷の蓴菜(じゅんさい)の羹(あつもの)と鱸(すずき)の膾(なます)の味を思い出し、辞職して帰郷したという故事から) ふるさとの味。故郷を思う気持のおさえがたさをたとえていう。蓴鱸。
  ※露団々(1889)〈幸田露伴〉九「蓴羹鱸膾(ジュンカウロクヮイ)炉辺に半日を酒徒と楽しむに如んや」

とある。張翰(ちょうかん)は呉の人で、長江下流域の松江鱸魚が好物だったと思われる。
 松江鱸魚ばかりがもてはやされると蟹は恥じて穴に隠れる。上海ガニがもてはやされるようになったのは意外に最近のことなのか。

十七句目

   詩人の餌の鱸魚ヲ憎シト
 花ヲ啼美女盞を江に投て     其角

 「花ヲ啼美女」は楊貴妃で白楽天『長恨歌』の「玉容寂寞涙闌干 梨花一枝春帯雨」のことか。
 ここは仙境に離れ離れになった楊貴妃の悲劇とは無関係に、詩人が鱸魚で酒飲むばかりでかまってくれないから、盃を投げ捨てたということか。

十八句目

   花ヲ啼美女盞を江に投て
 なびくか否か柳もどかし     松濤

 前句を吉原の太夫か何かにしたのだろう。江は隅田川になり、靡くとも靡かないともはっきりしない男にイラついている。

二表

十九句目

   なびくか否か柳もどかし
 世は蝶と遁心思ひ定めける    挙白

 柳に喩えられる靡くかどうか思いの定まらないのを女の方として、男なんてどうせ蝶のように浮気に花を渡り歩くだけだと、出家を思うが決意のつかない状態とする。

二十句目

   世は蝶と遁心思ひ定めける
 骨牌ヲ飛鳥川に流しつ      其角

 骨牌(かるた)というと延宝の頃は、

   古川のべにぶたを見ましや
 先爰にパウの二けんの杉高し   似春

   正哉勝々双六にかつ
 おもへらくかるたは釈迦の道なりと 桃青

と詠まれたうんすんカルタだった。
 ここでは蝶が出るから、あるいは花札かと思いたくもなるがまだ天和の頃で時期的に離れてないので、ここでの蝶は単に浮ついたものという意味でいいのだろう。
 飛鳥川は明日のことは分らない、無常迅速の意味で用いられる。

 世中は何か常なる飛鳥川
     昨日は淵ぞ今日は瀬になる
             よみ人しらず(古今集)
 飛鳥川淵にもあらぬ我が宿も
     瀬に変はりゆく物にぞ有りける
             伊勢(古今集)

などの歌に詠まれている。
 骨牌賭博をやめて出家する。

二十一句目

   骨牌ヲ飛鳥川に流しつ
 三線ヲ十市の里に聞明ス夜ヤ   松濤

 十市は奈良県橿原の歌枕で、

 十市には夕立すらしひさかたの
     天の香具山雲かくれゆく
             源俊頼(新古今集)

などの歌に詠まれている。和歌では「とほち」と読むがここでは「といち」とルビがある。骨牌の数字に掛けているのか。
 三線は三味線のことで、あたかも古代の十市に遊郭があったかのようだ。

二十二句目

   三線ヲ十市の里に聞明ス夜ヤ
 あらしな裂そ夫尋ね笠      挙白

 十市という古風な地名に「な‥そ」という古風な言い回しで応じて、恋に転じる。十市は夕立、嵐に縁がある。

二十三句目

   あらしな裂そ夫尋ね笠
 祖母はせく樵は流石哀あり    其角

 きこりというのは薪こり、妻木こりから来た言葉か。

 我が宿は妻木こりゆく山がつの
     しばしは通ふあとばかりして
              式子内親王(風雅集)

のように、和歌では用いられる。
 「せく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「塞・堰」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 水の流れをせきとめる。
  ※播磨風土記(715頃)揖保「指櫛を以て其の流るる水を塞(せき)て」
  ※古今(905‐914)哀傷・八三六「瀬をせけば淵となりてもよどみけりわかれをとむるしがらみぞ無き〈壬生忠岑〉」
  ② 涙の出るのをおしとどめる。涙をこらえる。
  ※源氏(1001‐14頃)玉鬘「御方ははやうせ給にきと言ふままに二三人ながらむせかへりいとむつかしくせきかねたり」
  ※苔の衣(1271頃)四「こぼれそめぬる涙はえとめもあへず、せきがたげなり」
  ③ 物事の進行や人などの行動を妨げる。
  ※播磨風土記(715頃)神前「勢賀(せか)と云ふ所以は、品太天皇此の川内に狩したまひき。猪・鹿を多く此処(ここ)に約(せき)出だして殺しき。故、勢賀(せか)と曰ふ」
  ※大川端(1911‐12)〈小山内薫〉三〇「俺のやうな者を客にしたって、どうせ碌な事はないとか何とか思ったんだ。あいつが俺を堰(せ)いたんだ」
  ④ 男女の仲を妨げる。互いに思い合う男女の仲を故意にさえぎりへだてる。
  ※評判記・寝物語(1656)一八「其上、あまりせけば。せきてのぶげんより、せかれてふけんなれば。此けいせい、みかへ申物也」
  ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)上「紙屋治兵衛ゆへぢゃとせくほどにせくほどに、文の便も叶(かな)はぬやうに成やした」
  ※浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉二「他でも無い、此頃叔母がお勢と文三との間を関(セク)やうな容子が徐々(そろそろ)見え出した一事で」

とある。ここでは④の意味か。
 山奥は嵐にも恋仲を妨げられるし、祖母にも妨げられる。山奥に住む樵は哀れだ。

二十四句目

   祖母はせく樵は流石哀あり
 徳利ヲ殺す是雪の咎       松濤

 徳利を殺すというのは単に割るということでいいのか。あるいは押し殺す、つまり酒を止めさせるということか。
 雪見酒は飲みたいが、酒を買いに行こうとすると雪だからと祖母に止められ、徳利を仕舞われてしまった、というところか。

二十五句目

   徳利ヲ殺す是雪の咎
 春ヲ盗ム梅は破戒の其一ツ    罔兩

 雪の中で梅が咲くとやはり一杯飲みたくはなる。
 ここでは樵から僧へと転じ、雪の梅は戒律を犯す元だと、徳利への欲求を押し殺す。
 二十四句で満尾せずに終わった興行に、執筆の罔兩が春の句を添えて挙句としたか。

2023年5月14日日曜日

 またしばらく休んでしまったが、鈴呂屋書庫に「呟き版 芭蕉発句集」をアップしたのでよろしく。
 言葉は音声や文字などの単なる記号から何かを作り出したりすることはできないんで、ただその記号が人の記憶を引き出した時のみ意味を持つ。つまり、共通体験がない所では言葉は何も伝えることができない。
 同時代、同じ文化圏で生きているは簡単に伝わる言葉でも、これまでの生涯で体験してきたことと大きく異なる時代や文化の言葉は伝わらなくて当たり前なんだ。それは読解力の問題なんかじゃない。むしろ読解力の欠如なんていうのは世代ギャップの別名、あるいは文化的ギャップの別名と言ってもいい。
 芭蕉の句の多くはおそらく享保の頃にはかなり分かりにくくなってたと思う。支考が『梟日記』の旅の時に座頭から浄瑠璃姫ではなく按摩を連想したように、芭蕉の若い頃にはまだ琵琶や三味線で浄瑠璃姫を語る座頭が記憶にあったが、それが元禄の終わり頃には失われていたのだろう。
 貞享の頃には多くの人の共通体験だった古池も、元禄の頃には少なくなっていったのかもしれない。
 芭蕉の句を詠むには、その背景にある生活体験の共有が不可欠なんだが、残念ながら我々はそれを共有できないし、ただ文献などから考証し推測するしかない。
 ただ一ついい方法があるとしたら、芭蕉の時代を物語として体験することではないかと思う。「呟き版 芭蕉発句集」は考証というかたちではなく、短い物語の形にする一つの試みでもある。

 それでは久しぶりに俳諧を読んでいこうと思う。
 今回は『虚栗』から、挙白、其角、松濤による三吟二十五句、「菖把に」の巻。

初表

発句
   重伍
 菖把に競-曲中を乗ルならん    挙白

 難しい発句で、把に「スガリ」とルビがあるだけで読み方もよくわからない。
 「乗ル」とあるから競馬(くらべうま)のことか。端午の節句に行われる。そうなると、曲中は城の曲輪(くるわ)の中ということか。
 「菖すがり」もよくわからない。菖蒲の葉を束ねて馬の偽物を作るということか。
 「らん」で終わっているので、菖蒲を束ねて馬を作り、それに乗って曲輪の中を競って乗るのだろうか、と疑いで終わる。実際にはそんなことはない、あくまで冗談だということになる。
 題の「重伍」は五を重ねるということで五月五日の端午の節句のこと。


   菖把に競-曲中を乗ルならん
 粽をしばる鬼の尸        其角

 発句が冗談なので、端午の節句を題材にした冗談で付ける。粽は笹で包むが、芦の葉で包んだ時代もあった。いずれにしても包んでそれを縛り、その縛られた姿が捕らえられた鬼のようで、鬼の代りとして食べるというのであろう。

第三

   粽をしばる鬼の尸
 龍ヲよぶ白雨乞ヒの跡荒て    松濤

 前句の粽を鬼の代りの生贄として、龍神様に捧げて雨ごいにする。
 季節は夏なので白雨乞いになるが、雨は降ったのはいいが、雷が落ちて大変なことになる。

四句目

   龍ヲよぶ白雨乞ヒの跡荒て
 御歩みかろき雲の山橋      挙白

 「御歩み」はルビがあって「みあゆみ」と読む。敬語を付けているので前句の龍神様の歩みであろう。山と山の間に雲の橋を架けて軽々と進んでゆく。

五句目

   御歩みかろき雲の山橋
 錦干ス木の間の月のすて冑    其角

 冑は「よろひ」とルビがある。
 前句を合戦後の天子様の歩みとして、その多分血で汚れた錦の衣を洗って干して木の間に掛けて乾かし、鎧はいらなくなったので捨てて行く。

六句目

   錦干ス木の間の月のすて冑
 蔦の茵に猿疵ヲ吸        松濤

 茵(しとね)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「茵・褥」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 すわったり寝たりする時、下に敷く敷物。使途により方形または長方形で、多くは布帛製真綿包みとし、ときに藺(い)の莚(むしろ)や毛織物の類を入れ、周囲を額(がく)と称して中央とは別の華麗な布帛をめぐらすのを常とした。
  ※西大寺流記資財帳‐宝亀一一年(780)一二月二五日「褥二床」
  ※源氏(1001‐14頃)初音「唐のきのことごとしきはしさしたるしとねに、をかしげなる琴うちおき」

とある。
 猿だから蔦をねぐらにして、傷をなめ合う。前句を猿の軍(いくさ)とする。

初裏

七句目

   蔦の茵に猿疵ヲ吸
 露をへて鵃舊都に歎きけり    挙白

 鵃は「みさご」とルビがある。英語でオスプレイと呼ばれる鳥で、ホバリングからの急降下で獲物を捕らえるが、雎鳩(しょきゅう)という場合は、コトバンクの「普及版 字通 「雎鳩」の読み・字形・画数・意味」に、

 「みさご。〔詩、周南、関雎〕關關たる雎鳩は 河の洲(す)に在り 窈窕(えうてう)たる淑女は 君子の好逑(かうきう)」

とある。
 遥か異国に嫁がされる上臈とその御供の者をミサゴご猿に喩えたのだろう。

八句目

   露をへて鵃舊都に歎きけり
 漁笛はあれど瑟しらぬ蜑     其角

 上臈の田舎の旅ということで、宮廷同様の遊び(音楽)を求めるが、漁師の吹く笛の音はあっても、海女は二十五絃の瑟を弾けない。
 漁笛はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「漁笛」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘名〙 漁夫の吹く笛。
  ※黙雲詩藁(1500頃)掀篷梅図「漁笛声々昏月後、暗香吹度打レ頭レ風」 〔杜牧‐登九峯楼詩〕」

とある。

九句目

   漁笛はあれど瑟しらぬ蜑
 忘れ松娘がうはさ云出て     松濤

 「忘れ松」は男に忘れ去られてもなお待つ娘という意味だろうか。そこに浮いた噂が流れるが、それは言い寄っても頑なに昔の男を待ち続ける女に腹いせで流したのものか。
 前句を笛吹けど踊らずの意味に取り成す。

十句目

   忘れ松娘がうはさ云出て
 馴ぬふくさを敷て旅寐し     挙白

 袱紗(ふくさ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「袱紗・服紗・帛紗」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 糊(のり)を引いてない絹。やわらかい絹。略儀の衣服などに用いた。また、単に、絹。ふくさぎぬ。
  ※枕(10C終)二八二「狩衣は、香染の薄き。白き。ふくさ。赤色。松の葉色」
  ② 絹や縮緬(ちりめん)などで作り、紋様を染めつけたり縫いつけたりし、裏地に無地の絹布を用いた正方形の絹の布。贈物を覆い、または、その上に掛けて用いる。掛袱紗。袱紗物。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「太夫なぐさみに金を拾はせて、御目に懸ると服紗(フクサ)をあけて一歩山をうつして有しを」
  ③ 茶道で、茶器をぬぐったり、茶碗を受けたり、茶入・香合などを拝見したりする際、下に敷いたりする正方形の絹の布。茶袱紗、使い袱紗、出袱紗、小袱紗などがある。袱紗物。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)上「紫のふくさに茶わんのせ」
  ④ 本式でないものをいう語。
  ※洒落本・粋町甲閨(1779か)「『どうだ仙台浄瑠璃は』『ありゃアふくさサ』」

とある。
 ここでは噂を立てられた娘が家に居れなくなって旅に出て、①の意味の袱紗を敷いて旅寝するということか。

十一句目

   馴ぬふくさを敷て旅寐し
 情ある不破の関屋の小哥哉    其角

 旅寝ということで、不破の関屋に泊めてもらう。不破の関はこの時代にはないが、関所に泊めてもらうことはよくある事だったのだろう。
 前句を関所への付け届けの袱紗として、関を抜ける遊女の出女としたか。

十二句目

   情ある不破の関屋の小哥哉
 むかしを江戸にかへす道心    松濤

 前句の小唄を発心して尼になった遊女の小唄とする。京で出家して江戸に戻る。