2022年12月1日木曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

 昨日は沼津から由比が九里強と書いたが、三島から由比までの間違い。
 九月十日、由比から朝未明に薩埵峠を越えて、夕方に宇津の山を越えればその日は岡部宿泊であろう。約十里。
 九月十一日、ここから島田宿までが四里。大井川の川止めがなければ翌日は小夜の中山を越えて掛川まで行ける。

  「小夜中山
 草鞋に椎はさまりて後れけり  尺草
 赤松はことにつれなし山の色  キ翁
 道役にもみぢはくなり小夜の山 晋子」

 椎は椎の実であろう。草鞋の藁の間に挟まると痛そうだ。
 名前は赤松だというのに松は紅葉しない。周りは皆紅葉しているのに赤松はつれない奴だ。キ翁(亀翁)というと老人を想像するが、元禄三年の『俳諧勧進牒』には「十四歳亀翁」とある。元禄七年だと十七歳になる。岩翁の息子。
 道役は道路の管理人で、紅葉を掃いて街道をきれいに保つ。

  「十二日かけ河より秋葉山へ入
    森より三くら 犬居 秋葉
 袖すりや息杖てきる松の蔦   松翁
 あさけしき鹿追ふ小屋に煙かな キ翁
 蛛の巣に呉柿かかる山路かな  尺草
 合羽着て四かにすかるや秋葉道 晋子

   四十八瀬といふは名のみ也わたらはかそへてといふに八十余瀬なり。
 瀬の数やあの谷此谷のつゆ時雨 尺草
 せきれいや垢離場へ下る岩伝  横几

   秋葉禅定下山の時
 木々の露いとへ御影の上包み  キ翁
 かし鳥に杖を投たるふもとかな 晋子」

 掛川から東海道を離れて秋葉山に向かう。
 森は新東名の森掛川インターの方に森町がある。そこから北へ三倉川に沿ってゆくと今の森町三倉がある。県道58号線袋井春野線が昔の秋葉街道を踏襲するものであろう。
 山を越えて気田川の方に出ると春野町に今も犬居城跡がある。この辺りが犬居だったのだろう。秋葉山の下社がある。秋葉山上社はその北側の山の中にある。

 袖すりや息杖できる松の蔦   松翁

 息杖(いきづゑ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「息杖」の解説」に、

 「〘名〙 物をかつぐ者が持つ杖。かごかきなどが一息入れたり、荷物を支えるときなどに使用する。
  ※武家事記(1673)下「旗に用の器。請筒あり、手縄あり、息杖あり」

とある。
 芭蕉の旅は馬に乗ることが多かったが、其角さん御一行は駕籠に乗ることが多かったのだろう。其角はともかくとして、あとのメンバーはあまり旅に慣れてなかったのかもしれない。
 駕籠かきは袖に触れるじゃまっけな蔦を息杖で切りながら進んでゆく。
 松翁は初登場だが、『俳諧勧進牒』に、

 水仙の葉に勢あるこほりかな  松翁

の句がある。名前からすると岩翁、キ翁の一族という感じだが。

 あさけしき鹿追ふ小屋に煙かな キ翁

 秋葉山での朝の景色だろう。山の中なので鹿は多そうだ。

 蛛の巣に呉柿かかる山路かな  尺草

 呉柿はよくわからない。蛛は蜘蛛。

 合羽着て鹿にすかるや秋葉道  晋子

 この場合の合羽は防寒着だろう。山の中で寒くて合羽を着て、鹿の後をついて行くような秋葉街道だった。
 四十八瀬は三倉川の別名で、数えてみたら八十以上の瀬があったという。川を渡った回数のようだ。

 瀬の数やあの谷此谷のつゆ時雨 尺草

 これは時雨にふられたというのではなく、瀬を渡るたびに濡れるという意味。

 せきれいや垢離場へ下る岩伝  横几

 垢離場は垢離をする場所で、垢離はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「垢離」の解説」に、

 「〘名〙 (「垢離」はあて字で「川降(かわお)り」の変化したものともいう) 神仏に祈願する時、冷水を浴びてからだのけがれを除き、身心を清浄にすること。真言宗や修験道(しゅげんどう)からおこった。水ごり。
  ※山家集(12C後)下「あらたなる熊野詣でのしるしをば氷のこりに得べき成けり」

とある。そこにセキレイが降りてきて岩を伝ってゆく。
 秋葉禅定下山の時は、上社参拝を終えて下社へ降りる時の句であろう。

 木々の露いとへ御影の上包み  キ翁

 木々は御神体を包む包み紙のようなものだから、露で濡れるな、ということか。

 かし鳥に杖を投たるふもとかな 晋子

 かし鳥はカケスのこと。しわがれた声で鳴いたり、いろいろな音の真似をしたりするという。杖を投げるというとどんな声で鳴いたのだろうか。意味もなく考えさせるのも其角の句なのかもしれない。

2022年11月30日水曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「原回頭
 朝霧や空飛ッ夢を富士颪    晋子
 富士は常雪半面や秋の色    キ翁

   富士川渡航
 不盡や笠赤蜻蛉のわたる空   横几

   清見
 あかつきの鹽やき遠し荻の色  岩翁
 ほと鴫の渡るも淋しきよみかた 尺草

   しつはた
 紙子屋に冬はと問し山路哉   尺草

   うつの山
 袖にたく香爐や消ん蔦の道   キ翁
 小手袖の襦袢うつなりつたの道 横几
 御所柿をしらで過けりうつの山 尺草
 うらがれや馬も餅くふうつの山 晋子」

 ずっと発句が並ぶ。

   原回頭
 朝霧や空飛ッ夢を富士颪    晋子

 題の「回頭」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「回頭」の解説」に、

 「① 頭をめぐらすこと。ふりむくこと。
  ※正法眼蔵(1231‐53)仏性「長老見処麽と道取すとも、自己なるべしと回頭すべからず」
  ② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。
  ※官報‐明治三七年(1904)六月二七日「我艦隊は一斎に右八点に回頭し」

とある。
 沼津では富士山は愛鷹山に隠れてよく見えないが、原の辺りに来るとよく見えるようになる。その辺りで富士山の方を向いてということか。
 三島から原までは三里くらいで、暗いうちに三島を出たなら、朝霧が晴れる頃だ。
 朝霧の中ではどのみち手前の愛鷹山も見えないが、心の中では空を飛んで富士の姿を思い浮かべる。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の、

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉

の句を思い出させる。

 富士は常雪半面や秋の色    キ翁

 富士山はだいたい上半分だけが雪になっている。夏は雪がないので、半分雪が積もり富士山らしくなり、麓の方が赤く染まると秋の色になる。

   富士川渡航
 不盡や笠赤蜻蛉のわたる空   横几

 赤蜻蛉は「あかとんばう」であろう。富士川の河原には赤蜻蛉が飛び回っていたのだろう。
 富士山に笠雲がかかる時は風が強い。晋子(其角)の句にも富士颪とあるから、下界も風が強かったのだろう。

   清見
 あかつきの鹽やき遠し荻の色  岩翁

 沼津から由比までは九里強で、多分そこで一泊して暁に薩埵峠を越えたのだろう。この時代の清見潟で実際に塩焼きをしてたかどうかは分らないが、家々から煙が昇る時間に峠を越えたのではないかと思う。

 ほと鴫の渡るも淋しきよみかた 尺草

 ほと鴫はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ぼと鴫」の解説」に、

 「① 鳥「やましぎ(山鴫)」の異名。
  ※俳諧・毛吹草(1638)二「八月〈略〉鴫つき網 〈略〉 ぼとしぎ」
  ② =かやくぐり(茅潜)」

とある。ウィキペディアには、

 「日本では北海道で夏鳥、本州中部以北(中部・東北地方)と伊豆諸島で留鳥、西日本では冬鳥である。」

とあるが、江戸時代の寒冷期には東日本でも冬鳥だったか。秋も終わりになって清見潟に渡ってきている。

   しつはた
 紙子屋に冬はと問し山路哉   尺草

 「しつはた」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「倭文機」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「しつはた」) 倭文を織る織機。また、それで織った織物。しず。
  ※書紀(720)武烈即位前・歌謡「大君の 御帯の之都波(シツハタ) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに」

とある。ここでは紙子のことか。
 紙子は風を遮るので冬の防寒具として優れている。山路は宇津の山の山路で、丸子宿あたりか。

   うつの山
 袖にたく香爐や消ん蔦の道   キ翁

このあと、宇津の山が四句続く。
 宇津の山越えは蔦の細道とも呼ばれていた。『伊勢物語』九段に、

 「わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心ほそく、すずろなるめを見ることと思ふに」

とあることから来ている。
 ここまで来ればさすがの在原業平の香を焚き込んだ袖の香も消えてしまったことだろう。

 小手袖の襦袢うつなりつたの道 横几

 小手袖はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「籠手袖・小手袖」の解説」に、

 「① 当世具足の袖の一種。籠手の、肘(ひじ)から上の部分に取りつけた袖。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 武具の籠手袋のように袖口を細く先すぼみに仕立てた袖。
  ※談義本・遊婦多数寄(1771)三「猿若勘三が小手袖の衣にてかるわざがあたった評判」

とある。ここでは②の方か。袖口の細い襦袢を砧で打つのを宇津の地名に掛けたのだろう。

 御所柿をしらで過けりうつの山 尺草

 御所柿は奈良の御所で作られた完全甘柿。木練柿ともいい、枝になった状態で既に甘柿になっている。この時期は宇津の辺りでも作られるようになったか。知ってたら食べたのに。

 うらがれや馬も餅くふうつの山 晋子

 うらがれはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末枯」の解説」に、

 「〘自ラ下一〙 うらが・る 〘自ラ下二〙 (「うら」は「すえ」の意)
  ① 草木の先の方が色づいて枯れる。《季・秋》
  ※歌仙本人麿集(11C前か)下「我せこを我が恋をれば我宿の草さへ思ひうら枯に鳧(けり)」
  ※太平記(14C後)二「岡辺の真葛裏枯(ウラカレ)て、物かなしき夕暮に」
  ② 声がかれる。かすれる。
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)六「こはつきも舌ばやにうらがれ、かくもいやしく成物かな」
  ※夜行巡査(1895)〈泉鏡花〉二「泣出す声も疲労のために裏涸(ウラカ)れたり」
  ③ うらぶれる。うらぶれてわびしいさまである。」

とある。ここでは季語で、①の意味になる。
 草が枯れて馬も食う草がないから茶店の餅を食っている、ということで、本当か?話を作ってないか?と首をひねらせるあたりが其角の持ち味といえよう。

2022年11月29日火曜日

 「夜も明ば」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 其角の『句兄弟』は元禄七年の自序があるが、その中には九月六日に江戸を発って、十月十一日に大阪の芭蕉の所に辿り着くまでの行程が記されている「隨縁紀行」が収録されている。これを読んでみようと思う。テキストはグーグルブックスの「其角全集」、老鼠堂永機、阿心菴雪人校訂『其角全集』東京博文館蔵版(明治三十一年刊、博文堂)を用いる。

  「甲戌仲秋
 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 三春の花一夜の月風光うつりゆけども友かはらず。ことしは石山寺に詣て湖水を見ん、いや嵯峨の法輪にとまりて広沢をなどと、とりどり心定めかね遠き思ひをつくして出たつ日をいそぎけるに、思の外の風雨に旅行をさえられて今さらに身をやるかたなく人々一夜の逍遥をうらやみ侍るなり。
 九月六日とかくして江戸をたつ俳連だれかれ送り申され綰柳の吟もあり。

 首途をみよ千秋の秋のかぜ   岩翁
 幾人の送りていさむ初紅葉   亀翁

  六郷のわたりにて
 草枕稲干縄のしづくかな    横几

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

 秋の空尾上の松をはなれたりといふ吟ここにもかなふべし。

   三嶋にて旅行の重陽を
 門酒や馬屋の脇の菊を折    晋子
 朝影や駕籠で礼するきくの酒  岩翁
 きく酒や畠の中の小家まで   尺草
 間鍋に所のきくや旅屋形    亀翁」

 九月六日に江戸を出て九月九日に三島に泊まるというのは、九月六日に江戸から戸塚まで、九月七日に戸塚から小田原まで、九月八日に三島までという、一日十里平均の標準的な日程で三島へ行き、一泊してから翌日九月九日の重陽を迎えたということだろう。この日芭蕉は奈良にいた。

   甲戌仲秋
 木母寺に歌の会ありけふの月  晋子

 木母寺(もくぼじ)はウィキペディアに、

 「東京都墨田区にある天台宗の寺院。」

で、

 「この寺の寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、この地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子であったが、梅若丸5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入ったが、兵乱に遭い逃げる途中、人買いに騙されて、この地まで連れてこられたのであった。」

とあり、

 「1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。江戸に下向する勅使たちが度々訪れている。」

とある。東向島の白髭神社より北の方の隅田川沿いになる。
 名月の夜にはここで和歌の会があったのだろう。いつも同じメンバーで春は花見して秋は月見する。
 それは楽しいことだけど何か物足らず、今年こそは近江石山寺へ詣でて湖水の名月を見たいなだとか、嵯峨の広沢の池の月も捨てがたいとか思いつつ、天候に恵まれず、結局出発が九月になってしまった。
 綰柳(わんりゅう)は柳の枝を輪にした飾りで、張喬の「寄維揚故人」の詩に、

 離別河邊綰柳條 千山萬水玉人遙

の句があるという。離別の吟ということになる。

 首途をみよ千秋の秋のかぜ   岩翁

 「首途」はは「かどで」と読むと字足らずなので「たびだち」だろうか。千秋(せんしう)は長い月日の意味があり、今吹いているこの秋風は、長年吹き続けて昔と変わらぬ秋の風で、そこの古人の旅を偲ぶという意味であろう。
 岩翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷巌翁」の解説」に、

 「?-1722 江戸時代前期-中期の俳人。
  江戸の人。幕府の桶(おけ)御用をつとめる。松尾芭蕉(ばしょう)初期の門人のひとりで,のち榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。狩野昌運について,画もよくした。享保(きょうほう)7年6月8日死去。通称は長左衛門。号は岩翁ともかく。編著に「若葉合」。」

とある。

 菊植て我と水くむ明日かな   岩翁(続虚栗)
 隈篠の廣葉うるはし餅粽    岩翁(猿蓑)

などの句がある。

 幾人の送りていさむ初紅葉   亀翁

 これは見送りが沢山来たというよりも、大勢での旅立ちを見送るかのようにようやく色づき始めた紅葉も勇んでいるようだ、という意味だろう。
 亀翁はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「多賀谷亀翁」の解説」に、

 「?-? 江戸時代前期-中期の俳人。
  多賀谷巌翁の子。父の影響ではやくから俳諧(はいかい)をはじめ,榎本其角(えのもと-きかく)にまなぶ。元禄(げんろく)3年(1690)「一夏百句」をよみ,八十村(やそむら)路通編「俳諧勧進牒(かんじんちょう)」におさめられた。通称は万右衛門。」

とある。

 むめの花しばし置けり卓の上  キ翁
 はる風に脱もさだめぬ羽織哉  同

などの句が『俳諧勧進牒』にある。
 この二人は同行者で、このほかにも横几、尺草、松翁の句が道中の句に記されている所を見ると、最低でも六人のグループで旅をしていたことになる。芭蕉の旅とはやはりちがう。

   六郷のわたりにて
 草枕稲干縄のしづくかな    横几

 六郷橋は貞享五年に流されて、この時は渡し舟になっていた。
 草枕はここに泊まったということではなく、単に旅という意味で用いたのであろう。
 六郷の辺りの田んぼは稲刈りが終わっていて、稲を干す繩が張られている。「しづく」は旅の悲しみという古典の羇旅歌の本意で添えたものであろう。
 横几は、

 星出て明日の花見のきほひ哉  横几
 追ひ落す鮎のよどみや石の音  同

などの句が『雑談集』にある。

   箱根峠にて
 杉の上に馬ぞみえ来る村櫨   晋子

 山は紅葉しているが、街道の関所の辺りの平地は杉並木なので、杉並木を出て山を登って行く馬が紅葉の中を行くのが見える。
 櫨は「はぜ」あるいは和歌では「はじ」と読むが、村櫨で五文字だとどう読むのかよくわからない。ここでは「むらもみぢ」か。紅葉するので、

 山ふかみ窓のつれづれとふものは
     色づきそむるはじの立ち枝
             西行法師
 鶉なく交野にたてるはじ紅葉
     ちりぬばかりに秋風ぞふく
             藤原親隆

といった歌がある。
 「秋の空尾上の松をはなれたり」というのは

 秋の空尾上の杉にはなれたり  其角(炭俵)

の句のことで、まさに箱根峠の秋の空は街道の杉を離れたり、ということになる。
 三島に着くと翌日は重陽で、

   三嶋にて旅行の重陽を
 門酒や馬屋の脇の菊を折    晋子


という句を詠むことになる。宿屋には馬屋があって乗掛馬がいたのだろう。そこの脇の菊を折って、旅の重陽とする。
 重陽は菊の花を折って菊酒にするので、

 心あてに折らばや折らむ初霜の
     おきまどはせる白菊の花
             凡河内躬恒

の歌があるように、菊の花は折ることを本意とする。

 朝影や駕籠で礼するきくの酒  岩翁

 朝三島宿を発つとき、駕籠の前で重陽の挨拶をして菊酒を飲み交わす。

 きく酒や畠の中の小家まで   尺草

 菊酒を籠の中に持ち込んで、宿場を離れて畑の中に出るまでゆっくりと飲む。
 尺草は、

 雨に折れて穂麦にせばき径哉  尺草

の句が『俳諧勧進牒』にある。

 間鍋に所のきくや旅屋形    亀翁

 間鍋(かんなべ)はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「酒の燗をするための鍋。多くは銅製で、つると注ぎ口がある。」

とある。燗鍋という字だとわかりやすい。
 旅の途中の重陽はその場所の菊を使った菊酒を燗にして飲む。

2022年11月28日月曜日

 中南米の強豪にびしっと守られてしまうと手も足も出ないという感じだったね。完全に蛇に睨まれた蛙状態で、すっかり委縮してコスタリカに楽に守らせてしまった。
 ドイツとスペインが引き分けで混戦になった。とにかくあとはスペインに勝つしかない。
 中国がどうなっているかは情報が少ないのでよくわからないが、独裁国家に対しては中国人だって戦っているんだと思うと、我々が降伏してどうするんだという所だ。

 それでは「情と日本人」の続き。最終回。

 「情はエゴイズムで濁ってはいけない。生き生きしていなければいけない。また、宣長が歌に詠んだように、諸情緒が絢爛と華やかでなければいけない。教育はこれを目標とすべきです。」(p28)

 エゴイズムという抽象的で西洋的な概念はもう少し見直す必要があるだろう。基本的に情は利己的なもので、「情けは人の為ならず」というのは自分のためになるからだ。だから、形而上学で理屈をいじくってエゴイズムがどうのこうのと論じるべきではない。本居宣長が現代に生きてたら西洋意と言うところだろう。
 また、情が絢爛と華やいだところで、基本的に限られた生産量で人口が増えれば人は過酷な生存競争にさらされる。そして情というのはその生存競争に勝って進化してきたものだ。
 根本的な所で生産性の向上と人口抑制というものがないなら、豊かな感情の花も過酷な生存競争の夏草に埋もれてゆくことになる。
 自然な情は自然の争いを生む。理性は思想の争いを生む。意志は意志同士ぶつかりあってやはり争いを生む。争いの根底にあるものを解決しなければ、いくら豊かな情を解放しても、哀れと悲しみの涙を解放するだけだ。

 「今の日本は情が濁ってひからびてしまっている。これを早く変えなければ大変なことになってしまう。そう思うのです。充分に膚で分ってほしいですね。なんか私がいっている間だけ、なんとなくそういう気がするが、済んでしまったら忘れてしまうんでしょう。そういうものなんです。」(p28)

 むしろいつの時代でもどこの国でも人間の情は変わらないんだと、それを信じるべきだと思う。ただ、思想の支配がそれを抑圧しているだけで、この「情と日本人」がドグマとして一つの思想や教条として受け継がれるなら、結局それがまた健全な情を抑圧することになりかねない。
 自然な情で物を言っているのに「お前の情は濁ってる」だとか言うことになる危険がある。一つの哲学として情が思想の支配下に置かれると、正しい情と間違った情が教条となって、それによってヘイトと暴力がまかり通ることになる。それだけは防がなくてはいけない。それは岡潔さんの意図に反することなのは言うまでもない。
 大事なのは岡潔さんが残した言葉を理論として受け止めるのではなく、あくまでその情を引き継ぐことだ。言葉は違ってもいい。言ってることが違って、感情を思想的な抑圧から解放することが大事だ。
 「肌でわかってはほしい」というのはそういうことで、「頭で分って」なんて言ってはいない。

 「人類というのは音楽が割合よく分るんですが、情が流れているとそれを感じるんでしょう。流れが止むとそれを覚えていないんでしょうね。見極めないから存在まで行かないのでしょうね。見極めるには自分で情を働かさなければ。人の動かすのをただ情的に感知するに留めておくから、その人の情の動きがなくなると一切がなくなってしまう。」(p28)

 この見極めは情で見極めるのであって、論理や思想で見極めるなら情は抑圧され失われる。情から理性を湧き興すのであって、情と理性を対立させるのではない。だから「見極めるには自分で情を働かさなければ」とある。
 理論を学んでそれで情をコントロールするというのが西洋式の考え方だが、そうではなく情に基づいて理論を絶えず湧き興し、情に基づいて修正し、情に基づいて再構築を繰り返す。
 簡単なことで、どんな理論も最初の仮説は情から沸き起こる。そしてうまく行かなければ絶えずそれを修正する。絶えず修正や再構築を繰り返すうちに理論は真理の近似値を取るようになる。
 ところが人は得てして一つの理論を作ってしまうとそれに縛られる。修正したくてもそれをすると「ぶれた」などと言われる。それを恐れて理論をかたくなに守り、情をそれに合わせようとして情を抑圧し、ゆがめてゆく。
 一つ理論を立てても矛盾を恐れてはいけない。「人生というのは矛盾したものだ」と多くの人が言うとおりだ。そもそも無矛盾の論理体系なんてものは不可能だ。
 他人の指摘に従って情を硬直した理論に封じ込めてゆけば、情の動きがなくなり「非情」になってゆく。大事なのは自分の情だ。

 「自分の情を動かす。自分で見極めなければいけない。それをやってほしい。これが知性の教育なんです。知が大事だっていうなら、学校はこれをやらなければいけないのです。自分で情を動かして、情の目で見極めるということを充分やらなけらばいけないのです。どんなにやらしても、やらし過ぎるということはない。」(p28~29)

 教育においては教条を叩きこむのではなく、自発的な思考を促すのが基本になる。「自分で見極める」ことが大事で、他人が勝手に見極めていいものではない。
 批判は問題点の指摘にとどめるべきもので、徹底的に論破すべきものではない。そもそもどんな大哲学者の思想だって結局はその人個人の感想にすぎないのだから、凡人が自分の感想を述べることは当たり前のことだ。
 思想というのはその人の情に基づいて、その人個人の試行錯誤の上に組み立てられた一つの感想の体系にすぎない。「それはあなたの感想でしょ」というなら、「その『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」ということになり、その「『あなたの感想でしょ』はあなたの感想でしょ」もあなたの感想でしょということになって、きりがない。
 思想はみんなその人の感想にすぎないんだから、そこに思想信条の自由というものが有る。特定の思想が正しくて、あとのは間違ってるというのなら、思想信条の自由は存在しない。独裁あるのみだ。
 教育は特定の思想を吹き込むのではなく、一人一人の感想の体系を育てることだ。自分自身の情に基づいて、自分自身の感想を育てて行く。それが必要だ。

 「何しろ難しい問題です。松とか竹とかが分るのは知だといって放ってあるでしょう。これが世界の人の目です。はなはだここは見えにくい。よく見てみると情が分るからです。松の趣というものが情で分るから、それで松とか竹とかが教えられるんですね。」(p29)

 知の成立はまず情によって引き起こされ、その感想を投げかけ、その繰り返しによって朧げな概念が形成される。この概念は情を伴うもので、情と不可分な知識として成立する。
 知識の成立過程を見ずに知識が最初からあるものと考えてしまうのは、まさに「初めに言葉ありき」の発想だ。言葉によって知識が成立するのではない。個々の非言語的に形成された経験の蓄積に、他人の言った言葉がぴたっと当てはまったとき、初めて知識は言葉になる。
 西洋の文化はこの言葉にもたらされる過程を見ずに「初めに言葉ありき」から始める。そして「言葉が自分」で、肉体の衣を着ていると考える。そこで松や竹でも何かしら松一般、竹一般の普遍的な概念が先験的に存在するかのように考える。
 どうしてそれができたか説明がつかないから、プラトンは想起説(アナムネーシス)などといって前世を持ち出してそれを説明している。なら前世でどうやってそれを獲得したかというと、それも説明できないから前前前世と延々と遡ってゆくしかない。ニーチェはこれを永劫回帰と呼んだ。
 クリスチャンはこれを「言葉は神なりき」の一言で解決する。

 「情が働かなかったら教えようがない。盲に自然を教えようとするようなもの。知の地図の上に描くのが意志であり、情あるが故に言葉も有り得る。そして形式も有り得る。それが知。根本は情だということを充分自覚してもらわなければいけない。」(p29)

 めくらの比喩は正確ではない。知覚にどのような障害があろうとも、それは自然の認識の妨げにはならない。なぜなら知覚は情報処理の道具にすぎないからだ。道具の不備で自然に関するある種の情報が欠落するだけで、その部分は他の情報で補うことで自然を認識している。そのため盲に自然を教えるのは何ら難しいことではない。
 そもそも健常者だってこの宇宙の情報のほんのわずかしか感じることができないんだから、五十歩百歩というものだ。我々は量子を見ることはできないし、多次元時空を感じることもできない。もしそれを感じることができる生命体がいたなら、我々はみんなめくらということになる。
 意思は知の地図の上に描かれ、その地の地図を作るのは情の働きだ。「形式」というのは形式論理学的な意味での論理形式のことだろうか。平たく言えば「理屈」だが、言葉も理屈も情の上に成立する。
 めくらの比喩はむしろ今日ではAIに自然を教える難しさと考えた方がいいかもしれない。AIは情を持たず、あらかじめプログラムされた論理に基づいて論理を「自発的に」学習する。それは自発的に学習せよと命令されているのであって、その自発性に情はないし自由もない。
 AIは言葉も形式もあるが情はない。人間の情を解析してそれに似たものは作れるかもしれないが、情は存在しない。ジョン・サールの中国語の部屋の比喩のようなものだ。

 「人本然の情に従うのが道徳である、といった人が一人もいないというくらい人類は馬鹿なんです。それで世界がうまく治まる訳がない。だけど一人もいませんよ。
 儒教なんか見てますと、仁が基だといっているのに、その仁が情だとはいっていないんだから、余程わからないのですね。仏教の修行を見てご覧なさい。意志で修行しようとする。それで多くは難行。苦行です。大抵そうです。」(p29~30)

 これは前にも述べたように偏見であって、「盲に自然を教えようとするようなもの」と同様に偏見と言わねばならない。
 情から知への過程は試行錯誤であって、だから情は間違ったこともたくさん言う。ただ硬直した教条(ドグマ)と違って、修正が利く。絶えず修正することで知の精度を上げてゆくことができる。だから、岡潔さんがこういったからと言って、それを教条にしてはならない。

 「情が本体であるということを知って、まっ先に教育を変えなければいけない。学校教育もですが、家庭教育を変えなければいけない。赤ん坊の時は情の中に住んでいますが、生まれて三ヶ月は『優しさと喜びの世界』に住んでいる。情の世界は一口にいって『優しさと喜びの世界』ですが、これがずっと続けば良い。青年ぐらいまで続けば良い。」(p30)

 もちろん「優しさと喜びの世界」は理想であって現実ではない。現実の赤ちゃんも様々な周囲の状況から、過酷な状況に置かれることも少なくない。ましてそれが青年くらいまで続いたらどんな温室育ちか。
 わざわざ優しさと喜びを奪うようなことはしてはいけない。これは当然のことだ。ただ、そうでないのが普通だという前提で今の教育は考えなくてはならない。むしろ人は赤ちゃんの頃からヘイトにさらされる、ということも考えなくてはいけない。
 当然ながら、既に大人たちの生活がある所に赤ちゃんは突然投げ込まれるのだ。そして、それまでの大人たちの生活の一部を奪いながら自分の世界を獲得してゆく。それは生存の取引だ。
 「優しさと喜びの世界」は無条件に与えられているのではない。それは大人との間の取引によって獲得される。大人が先にいて、そこを様々な大人の情で埋め尽くしている場所に、赤ちゃんは遅れてやって来る。そこで赤ちゃんは自分の情で塗り替える。それを助けるのが家庭教育だ。
 母親だって人間だ、赤ちゃんの泣き声には悩まされるし、育児放棄したいという情に何度もかられながら赤ちゃんを育てて行く。父親だってそうだ。自分の仕事をしなければ赤ちゃんを食わせてゆけなくなる。そこで親も兄弟も親戚もその周囲の人も、絶えず悩みながら赤ちゃんを育てて行く。それは裸のままの情のぶつけ合いだ。それが生存の取引だ。

 「みんながそうなる為には、一人一人が先ずわかってもらいたい。わかる為には自分の情の目で見ることですが、いちいち見て成程とわかったら、まだわかってない人にいう。そのやり方なら初めは極く少しの人ですが、直ぐ広がる。そうしてもらいたいと思う。」(p30)

 「成程とわかったら」というのは各自がそれぞれの情の目でわかることであって、知識としてわかることではない。だから岡潔さんと見解が違ってたとしてもそれはかまわない。情の所で共感できるものがあるかどうかそれだけが大事だ。言っていることは違っててもいい。
 細かい違いにこだわらないなら広がりやすくなる。一々小さな違いに目くじら立てて批判し合ってたのではいつまでたっても広がらない。
 岡潔さんの文章だけでなく、今のこの私の文章もそのように受け取ってほしい。

 「世界を救う道は日本人ほどやり易くはないだろうけど、結局は情が人であると教えることです。ヒューマニティーが道徳に一番近い。それだのにカントは『実践理性批判』、理性というようなものが道徳に近いという。見当違いです。」(p30~31)

 カントの『実践理性批判』の無力については西洋人も戦後の実存主義の中で散々指摘してきたことだ。二十世紀の虐殺は「汝為すべし」の理性の声で感情を押し殺して行われた。その反省があったからだ。
 ただ、西洋文明はなかなかロゴス中心主義から抜け出せない。今の人権思想も、人権が大切だということは間違ってないが、それを情ではなくロゴスによってやろうとしている所で問題だらけになり、世界中に多くの反人権派を生む元となっている。
 ヒューマニティーは残念ながら人間を「ロゴスを持つもの」と規定する思想から逃れてないので、日本人が考える「情」とは程遠い。ただ、日本人が通常用いている「ヒューマニティー」だとか「ヒューマニズム」だとかいう言葉は、日本独自の意味が付け加わっているため、それが情であるかのように感じられるだけだろう。
 むしろ情に近いものはエモーションの方ではないかと思う。エモいは正義だ。
 また、情だけでは世界を救えないことも学ぶべきだろう。情は世界の様々な問題を考えるきっかけとなりエンジンにはなるが、ゴールは与えていない。
 情に基づいて、情を離れないようにしながらも、とにかく考え抜かなくてはならない。そして何が問題なのかを理解しなくてはならない。そして、何よりも大事なのは憎しみに負けてはいけない。誰かを憎み、誰かを抹殺することで解決できるほど世界の闇は浅いものではない。でもよく考えれば結局単純な事実に行き着くはずだ。
 つまり、地球は有限で無限の生命は不可能という単純な事実だ。そこから必然的に生存競争が生まれる。生きるために必死になる。情の多くはまず自分が生きるためにその多くを割くことになる。
 でも、自分が先ず生きなくてはならないにせよ、沢山のこの世界で生存競争に敗れて死んでゆく人や悲嘆にくれる人の情の声が聞こえるなら、何十億もの人がその情に促されて思考を進めるなら、必ず悪い方向にはゆかない。
 その情の声を抑圧する冷淡な指導者の声に従ってはいけない。
 ごく一部の特定の可哀想な人の物語を作って、情を利用しようとする連中について行ってはいけない。

 「赤ん坊は理性など働かしはしません。心の世界に住んでいる。むしろ、あんなものを働かさないから、こころの世界に住んでいる。真情の命じるままですね。それが道徳であり、それが幸福なんです。」(p31)

 赤ん坊も生まれた時から必死に生きよう泣き叫んでいる。その声をいつまでも心の中に持ち続け、過酷なこの世界で生存の取引を繰り返し、自分の居場所を確保する。まずそれが前提条件になる。
 そして、そのあとなお多くの情の声が聞こえるなら、それは必ず世界を良い方向に導く。
 道徳は自己犠牲ではないし、自分の家族の犠牲の上に成り立つものでもない。宗教や主義主張は犠牲を命じるかもしれないが、聞く必要はない。
 自分を犠牲にすることは、必ずその家族や友人をも犠牲にすることになる。なぜならあなたが犠牲になることを悲しむからだ。そんなところに幸福はない。
 生活を切り詰めて家族の進学の夢も犠牲にして、いくら世界平和のための良かれと思って寄付をしても、そんなことでは周囲の人がみんな不幸になるだけだ。その不幸の連鎖の行き着くところはテロリズムだ。
 そんなのは党の活動のために生活資金をつぎ込んでいる人だって同罪だ。やはり行き着くところはテロリズムだ。
 自分の情を大切にするということは、自分の情を犠牲にしないということだ。そうでなければ世界は救えないのはもちろんのこと、自分自身すらも救えない。
 自分の情に忠実に考え、行動してゆけば、それが道徳となり、そして自ずと幸福もついてくる。自分が幸せになれない道徳が人を幸せにできるはずがない。

2022年11月27日日曜日

 台湾で親中派が勝利を収めた場合、最悪の場合台湾人が北京の支配を完全に受け入れるというのも、今後想定しなくてはならない。
 台湾の無血併合で、まず台湾からの亡命者が日本に殺到する。これも大きな問題だが、それは序の口にすぎない。
 そして、次に中国は沖縄が固有の領土だということを主張してくるだろう。その時沖縄も島が戦場になることを良しとせずに、中国への無血併合を望むなら、日本も残念ながら沖縄を中国に割譲せざるをえなくなるだろう。
 そして日本と中国との間に緩衝地帯はなくなる。中国が日本を併合しようとするなら、日本の国土が戦場になる。まあ、ウクライナと同じ状況になるわけだ。
 しかもウクライナよりもっと悪いことに、北にロシアがいる。そして北朝鮮が動かないという保証もない。韓国もまた北が侵攻してきた場合、抵抗せずに統一朝鮮が誕生する可能性すらある。
 そしてさらにもっと最悪の事態を想定するなら、アメリカが共和党政権になった時にモンロー主義に一気に傾き、アジアに干渉しないという事態も有り得るし、その時はウクライナの武器支援を停止する可能性すらある。こうなったらロシアも中国もやりたい放題だ。
 その最悪の前提の中で日本人はどう戦うかを考えなくてはならない。
 岡潔の言葉が胸に突き刺さる。

 「日本民族の滅亡だけは何としてでも喰い止めたいと思う」

 一足先に首都を離れたのは正解だったかな。

 それでは「情と日本人」の続き。

 「情がどうして生き生きとしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群に大別することができる。
 その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。
 それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
 いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。」(p.26~27)

 素粒子は今では「量子」という言葉を使った方が良いだろう。
 これはよくわからないが重ね合わせ状態になった量子が時空を構成していて、それが収縮した時に我々に観測される安定した量子になるということだろうか。
 これだと、我々が認識している物理的事象は、無数の観測されてない不安定な量子の中に浮んでいるようなイメージになる。
 これを感情の海に浮かぶ理性の比喩として用いているのだろうか。まあ、案外意識というのはこうした安定しない観測されない量子の場によって生み出されているのかもしれないが。まあ、ここには今は深入りしないでおこう。

 「やはり情緒が情緒として決っているのは、いわばその位置だけであって、内容は絶えず変っているのである。人の本体は情である。その情は水の如くただ溜ったものではなく、湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変わっているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。」(p27)

 人間の自分自身の脳回路であれ、人間は意識してそれを設計したり組み替えたりできない。それは意識の力を越えた所で形成されている。それを意識は捉えることができない。
 その回路は非常に微細でいて複雑で、人はそれをまだ認識できない。その意味ではそれは水のような捉えどころのないもので、それでありながら、この脳が自分の衝動を突き動かし、それが理性を働かせる原動力にもなっている。
 改めて人間というのは自分自身すら知り得ないものでありながら、その知り得ないものとして生きていると言わねばならない。それはひょっとしたら何らかの量子の場によって生じているのかもしれない。
 これは古い形而上学の動物機械論のような、機械的な必然性によって脳が支配されているわけではない。いわゆる古典物理学の因果律によって支配されているのではなく、量子の不確定な要素によって支配されている。そこで我々は自分自身を見出す。

 「自分がそうであるように、他(ひと)も皆そうである。人類がそうであるように、生物も皆そうである。大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。」(p27)

 これは仏教の梵我一如の影響だろうか。特に神秘体験をした人が陥りやすい罠でもある。
 神秘体験はただ既存の認識に囚われない自由を与えるもので、宇宙そのものの認識を与えることはない。
 正確にはある特定の量子の場が意識や感情を生み出すことはあっても、それ以上のものではない。それはほんの少しだけ時間を止めたり、時間を逆行させたりできるかもしれないが、時間空間のない世界があるわけではない。

 「ともかく、生きるということは生き生きとすることです。それがどういうことであるか見たければ幼児を見れば良い。情は濁ってはいけない。また情緒は豊かでなければいけない。」(p27)

 幼児は脳回路の発達に様々な可能性を持ってはいるが、我々はそれを導くことはできない。それは幼児の脳そのものの自発性によるもので、それは本人にすら制御できるものではなく、まして他人である親や先生が干渉したところで、それを止めることはできない。
 ただ、過酷な干渉は心に傷を残すだけとなる。

 「教育はそれを第一の目標とすべきです。でなければ知はよく働かない。意志も有得ない。意志というのは知が描いた地図の上に、この道を歩こうと決めるようなものだから。地図がぼんやりしていれば意志もぼんやりしてしまう。だから情、知、意の順にうまく行かないのです。その基は情です。」(p27)

 つまりその人の持つ本来の情をできる限り自由に伸ばすことができれば、その上に知が形成され、理性が働き、意志が生まれて来る。

2022年11月26日土曜日

 それでは情と日本人」の続き。

 「道徳がうまく行かないのは、情を重んじないからです。情のみがこれが道徳か、これが不道徳かを見分けることができる。これは教えなくても分ってる。だから道徳というものが有り得るんです。」(p.24)

 道徳は情による。ただ注意しなくてはいけないのは、不道徳もまた情から発するもので、特に嫌悪や憎悪の情は、情報操作によって容易に植え付けることができる。正しい道徳感情を働かせるにはこうした情報操作に対する耐性を付ける必要がある。
 誰かものすごく可哀想な人の物語を聞かせて、そこで誰が悪い、誰を殺せなどと誘導する。こうしたものを安易に信じないようにすることも大事だ。
 情は道徳のエンジンだが、安全に走るには理性のハンドルが必要なのも確かだ。情だけでは善行を成すことはできない。それゆえに『論語』にも、「學びて思はざれば則ち罔(くら)し。 思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し」とある。思うのは情の作用で道徳のエンジンに当る。それに対してしかるべき運転操作を学ばなければ必ず道徳の車は人を撥ねることになる。
 学ぶというのはその人の自発的な自然に任せれば、本然の情に基づいて必要なものを学んで行く。これに対し外から吹きこまれた誘導された知識は必ず危険なことになる。道徳教育は職人の技と一緒で、学ぶんではなく盗むものと言って良いだろう。
 今の教育が危ないのは、情報ばかりを詰め込んでその情報がきちんとその人本来に結びついてないことで、自分の身につかない情報で行動する習慣をつけたなら、簡単に情報操作に乗せられて間違ったことをしでかす。まあ、権力者にしても革命家にしても、最初からこうした洗脳が狙いなのだろうけど。

 「ところで、日本人は情の人ですが、今だって意識してはいませんが、情の人の如く行為しているんだけれども、その自覚がないから知や意の働かしようがない。だからそれから後、さっぱり進展がない。だから情の人であるというのが正しいのである、それが大事である、という自覚をしてもらうことが非常に大事なんです。」(p.24~25)

 日本の教育では情に基づいて知識を吸収するのではなく、情を否定されたところに外から知識を吹き込まれる。だから知識は暗記科目になって地に足がついていない。かえって学校の成績の悪かった人の方が、社会に出て有能だったりする。
 そのため情と知識が分裂していることが多い。言ってることとやってることが違うというか、理想だけは立派だが、やってることはひどく卑しかったりする。
 立派な理想を掲げているのに、それをどうやって実現するかを考えずに、政府のあら探しやスキャンダル追及ばかりしている国会議員などもそうだ。
 「日本人は二階には世界のあらゆる哲学書が並んでいるが、一階ではそれと全く関係なく生活している」と言ってた日本に来た哲学者もいたが、一階で問題になっていることを二階に上がって解決しようとしない。二階に上がると一階(現場)で起きている問題が途端に見えなくなる。「事件は会議室で起きている」という映画の通りだ。
 情の大切さを自覚するというのは、知性を捨てることではない。知性に情という動力を与えることだ。それが「自覚」だ。

 「その為には一人一人が自分がそうなって隣の人に話し、成程そうだとうなずかして行くのが早いんだけど、そのきっかけが仲々つかめないらしい。で、同じことを繰り返し繰り返しいう外ないだろうと思う。同じ一つのことについてだから、同じ話になってしまうんですが、それを繰り返すのはその効果がないからです。一人になった時、やっぱりそう思っているということもなければ、新たな人にその話をするということもしないから、ひとつも進展がないんですね。」(p.25)

 この一階の情と二階の知識の分離状態の中で議論すると、知識は知識だけで空回りして、情についてはそれを正確に語る学問の言葉がない。
 岡潔さんはそこからどうしても先へ進めなくなってしまったのだろう。
 ここから先に進む方法があるとすれば、伝統文化、それも言葉になったものについて、自分の日常の延長でとらえ直すしかないのではないかと思う。
 儒学や仏典では昔の人の情が伝わらない。だから和歌、連歌、俳諧、あるいは物語などの昔の人の情を学べるものを、西洋の文学理論を排して直に学ぶ必要がある。これは本居宣長がやったことでもある。あの時代は「漢意」を排することだったが、今は西洋意を排して、できる限り今の日常の感覚の延長線上で昔の文学を再現する。それしかないと思うし、結果的にそれはこの私がやってきたことだった。
 今の情をもってして古人の情に直に共感できたなら、その情は日本人の根底にある不易の情といえる。
 ところが日本の国文学は長いこと西洋文学をまず学び、西洋文学の知識を古典に当てはめようとしてきた。これでは国文学はその上っ面を撫でるだけで、その情を理解することができない。
 西洋文学の目で見るのではなく、一日本人の目で古典文学を捉え直した時、我々は初めてそれを語る言葉を見つけることができる。
 俳諧は笑いの文学である。だからその笑いは今日の芸人たちの笑いに受け継がれている。あるあるネタ、自虐ネタ、パロディネタ、シュールネタ、それはすべて芭蕉がやってきたことだった。芭蕉だけではない。今のラノベの笑いを理解するなら『源氏物語』にもそれを発見することができる。
 だが、国文学者はえてして芸人やラノベを軽蔑しがちだ。西洋のコメディや純文学が高尚だと信じていて、日本のものは低俗だと思っている。だから、低俗な感性で古典を読むことを嫌うし、ヘイトすら覚えるようだ。筆者も何度頭ごなしに怒られたことか。
 まあ、岡潔さんが生きていたら、きっとこんなのは駄目だと言って怒られそうだが。
 ただ、いつまでも堂々巡りで同じことを言い続けるのではなく、一歩でも前へ進もうという気持ちがあるなら試してほしい。情について今の大衆の情と昔の大衆の情を同時に学べる方法を見逃す手はないと思う。

 「一通りその自覚が行き渡ってからでなくては、教育一つも変えられはしません。今のままの情を粗末にする教育では、赤軍派の学生のようなものがみすみす出るということが分っていても、変えられない。どう変えればいいかは簡単だけど、大勢の同意がいるんですね。それには一人一人に自覚してもれうより仕方がない。で、根気よく繰り返し繰り返しいっている訳なんです。」(p.25)

 まあ、今でも出所してきた赤軍派の生き残りをマスコミが賛美して、元首相を暗殺したテロリストを英雄として祭り上げているのを見ると、これからもこういう連中が出続けることになるし、それを待望する風潮すらある。
 だからこそ、繰り返すだけではだめだと言いたい。西洋意から日本人の情を開放するには、我々のそのままの情を古典の道に繋がなくてはならない。

 「一つは情がエゴイズムで非常に濁っている。もう一つは、生気が充分生き生きしていないんです。情というものだけど、生きるということは情が生き生きすることだと思う。」(p.26)

 なら、今の日本人がどういうものに生き生きしているか、それを見なくてはいけない。
 大学のキャンパスにいて授業に出て来る学生を見る限りでは、みんな死んだような眼をしているかもしれない。でも今の日本人もいろんなことに熱狂しているし、生き生きとする瞬間もたくさんある。そこに飛び込まなくてはならない。
 そしてまず自分が生き生きとしなくてはいけない。

2022年11月25日金曜日

 それでは「情と日本人」の続き。

 現代人が情がなくなっているというのは、おそらく事実ではない。人間の脳に発するものがそう簡単に変わることはない。変わったのはその脳の周辺環境の方だ。
 人々がまだ小さな集落に住んでいることには、毎日目にする人は皆顔見知りで、プライベートな細かいことまで熟知していた。だから、その中で困ったことがあった人がいれば、全員で対処することができた。それこそ一人も漏らさずにケアできた。
 たまに旅人が通ると、それは「まれびと」とも呼ばれ、歓待すると同時に事細かいことまで穿鑿して無害かどうか確認したことだろう。
 稀人だけに滅多にそんな人も来ないから、何年何十年たって再開してもちゃんと覚えてる。そして困ったことがあったら助けてあげる。そんな時代があった。
 江戸時代になり大都市が形成されるようになると、毎日すれ違う人の名前を全員覚えることすら不可能になり、怪しげな人がいつもうろうろしているような状態になる。そうなると、人情の及ぶ範囲は大分限られてくる。
 芭蕉が富士川の捨子に、

 「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

と突き放したようなことを書いているのも、当時捨子は珍しいことでなく、都市や街道筋など人の多い所ではもはや対処しきれなかったからだと思われる。
 残念ながら日本に孤児院ができたのは明治のことだ。広い日本に捨子が十人二十人とか、数えられる程度しかいなかったなら、誰かが面倒を見ることができたかもしれない。数が多ければお寺だって抱えきれない。お寺はそうでなくても家督を継げない二男三男以下の吹き溜まりになっていて、いくらお布施を集めても収容人員に限界がある。
 近代化前の社会では常に人口増加圧にさらされている。その人口調節を江戸時代までは「捨子」という手段で調節していたことは想像に難くない。
 小さな村落共同体であっても、飢饉がくれば飢餓に陥り、口減らしが行われたような時代に、街道の捨子を、それも一人二人でない数を養うことはできなかった。それが芭蕉の「唯これ天にして」だった。
 悲しいけど放置するしかない。ただ、その悲しみをいつまでも心に留め、決してあきらめたり思考停止したりすることがなければ、いつか解決できる時代が来るかもしれない。それが「情」の果たす本来の役割だ。
 すべての問題を解決するには人間はあまりにも無力だ。公害だってそうだ。一人いくら悲しんでもそれだけで解決はできない。ただ問題を心にとどめておく、それが精いっぱいなんだ。
 まして今日の情報過多の時代には、世界中の不幸な人の情報が分刻みで入って来る。それに一々対処できるほど人間の脳のキャパシティはない。
 この無力さも傍から見れば、「こんなに困っている人がいるのに何無視してんだ」みたいな非難はいくらでもできる。世界中のニュースを搔き集めてくれば困った人など何十億人もいる。その中の一人を取り上げて「何でこれを放っておくんだ。人間は情を失ったとか思えない」とが言っても、もはや言い掛かり以外の何でもない。
 ただ、こういうプロパガンダがマスメディアの言説の上で溢れかえっている。それをいちいち大問題だと真に受けていれば、確かに「今の人は感情を失った」という神話が出来上がる。
 パラリンピックのときなどもマスコミは二三の選手が障害からいかにして立ち直って選手となったかなんてお涙頂戴のドラマを作っていたが、はっきり言ってパラリンピックに出るような人は全員同じようなドラマを持っていると言って良い。
 マスコミや左翼はプロパガンダのためにごく一部の人に同情を集中させようとする。それは一つのサンプルで留まるなら罪はないが、これに同情しないと途端に感情がないだとかヘイトスピーチを始める。
 人間は怒ると我を忘れるものだ。だから、人間の自然な感情を十全に引き出そうと思ったら、絶対にヘイトを煽ってはいけない。どこそこに可哀想な人がいる。ただ、誰しもそれぞれ事情があってその人ばかりにかまってられないのに、「人間の情がないのか」とひたすら罵倒する。こういうヘイトが社会にあふれかえれば人間関係はぎすぎすして、解決できるものも解決できなくなる。
 感情は大事だがヘイトは感情を殺す感情だとわきまえるべきであろう。まあ、「わきまえない女」というのも流行ってるようだが。
 この糞ったれな社会に少しでも人情を取り戻させようというのなら、「情がない」なんて言ってヘイトをまき散らすより、むしろ押し隠された情を察してやることの方が大事だ。

 「情操教育という言葉ですが、情操教育が大事だっていったら、絵をかかせたり、音楽ひかしたり。そんな馬鹿な。人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当外れをやっている。」(p.21)

 まあ、絵を描いたり音楽をやったりするのが自然な感情の表現であるなら、これは間違ったことではない。
 間違っているのは「かかせる」「ひかしたり」の方だ。感情表現は自発的なものであって、強要されるものではない。
 だいたいこういう教育というのは、決して自由に絵を描かせたり音楽を鳴らせたりしない。漫画を描いたら怒られる、ロックやヒップホップも怒られる。ジャズまでがぎりぎりOK。
 七十年代だと小学校の図工では輪郭線を描いただけで「それはマンガだ」なんて言われたものだ。スフマートをやらないと正しい絵とは見なされなかった。音楽だって、ロックは不良の音楽だし、音楽の時間は普通の流行歌でさえ駄目だった。
 結局情操教育も政治が絡むと、自分たちに都合のいいように怒りを爆発させようという意図が働くものだ。
 そんなことをするくらいなら放置する方がよっぽどいい。「かまわぬ」の精神だ。

 「ともかく情を軽んじたんでしょう。だから本居宣長
   しきしまの大和心を人問はば
        朝日に匂ふ山桜花
情緒というものが大事であると思っているんでしょう。はっきりそうと分っていませんが、何となくそれが分ったんでしょうね。それで『漢意清く捨てられるべし』といったり、『しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』といったりしたんでしょう。」(p.21)

 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉がある。桜は剪定してはいけない。大和心も同じで、いかに自然のままに放置するかが大事だ。放置しつつ、それを捻じ曲げようと屁理屈こねる奴を矯正する。それが正しい情操教育だ。江戸時代の人が言った「かまわぬ」の精神が大事だ。

 「情が自分だから、情を大事にせよとずばりといえなかったんだが、あそこでもっと自分を振り返ってみる暇があったら、それの分る日本人も出て来たかも知れない。あそこでは、ぐずぐずしていたら滅ぼされてしまうというそういう状態にあったから、大急ぎで明治維新をやった。それから外国と戦う為に兵器を準備した。」(p.24)

 黒船がやって来た時にアメリカが日本に押し付けた要求は概ねタイ王国と同等のもので、いきなり日本を植民地にしようというものではなく、かなり友好的なものだった。事実、タイはその後も独立を維持した。インドや中国に対する対応とはかなり違っていた。
 ただ、長州藩士の吉田松陰は、この時の西洋列強の脅威を利用して、西洋の真似をして世界征服に乗り出す野望を抱いていた。事実吉田松陰はアジアはもとよりオーストラリアまで掠め取れと『幽囚録』で言っている。

 「今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。」

 「濠斯多辣利の地は神州の南に在り、其の地海を隔てて甚しくは遠からず、其天度正に中帯に在り。宜なり、草木暢茂し人民繁殷し、人の争ひ取る所となるも。而して英夷開墾して拠るも僅かに其の十の一なり。吾れ常に怪しむ、苟も吾れ先ず之を得ば、当に大利あるべしと。」

 明治の軍国主義はこうした思想に煽られたもので、明治に入って正岡子規も明治十八年の『筆まかせ』で、

   「文明の極度
 世界文明の極度といへば世界万国相合して同一国となり、人間万種相和して同一種となるの時にあるべし 併シなほ一層の極点に達すれば国の何たる人種の何たるを知らざるに至るべし。」

と言っている。「一つの世界」というのは一見きれいごとのようだが実質は世界征服だ。正岡氏句は明治三十年正月の『明治二十九年の俳句界』では、

 「日本が世界列國の間に押し出して日本帝國たる者を世界に認められんとするには日清戦争は是非とも必要なりしなり。日清戦争は初めより此目的を以て起りたる者に非れども少くも此大勢は日清戦争の端を開かしむる上に於て暗々裡に之を助けたるや凝ひ無し。」

と言っている。明治以降の日本の軍国主義は、単なる防衛の範囲を越えた「一つの世界」のための戦いだった。
 そして、昭和二十年、敗戦の時、和辻哲郎は日本の世界統一の敗北として捉えた上で、逆に日本は自らの文明を捨てて西洋文明に統一されることを説いた。

 「しかるに、日本の伝統を捨てるといふ努力は、日本人のみのなし得る特殊な体験である。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.588)

 「要はヨーロッパ文化の摂取によっておのれを新しくすること、新しい国民的性格の創造、新しい文化の創造に邁進することである。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.589)

 これが戦後思想の根底になる。戦後思想はこれに左翼の革命思想が加わって、アメリカ以外による(ロシア、中国、イスラム国でもアメリカ以外なら何でもよく)世界統一を目指すものとなり、それが終始一貫した執拗な反日哲学として今日に至っている。
 先日のワールドカップドイツ戦の日本の勝利も、さぞかしこうした人たちには不快だったに違いない。
 こうした戦後思想が学会を席巻している状態では、「自分は情だ」なんて言って理性信仰の西洋哲学に逆らい、本居宣長を評価する機運が生まれなかったのは当然だ。

 「兵器を準備しようと思ったら、西洋の学問より仕方がない。それで西洋の学問を取り入れた。そのうちにすっかり西洋の学問に溺れてしまった。戦後はそれが極端にまで来ている。」(p.24)

 単に国を守るための軍事力なら、ここまで徹底的に自国の文化を破壊する必要はなかった。世界征服の準備だからこそ、徹底させる必要があった。
 そして、戦後は他国併合を望み、日本の文化をちょっとでも擁護すると軍国主義者だと言われ、そんなことをしたらまた何百万もの人が死ぬなどと言って人殺し呼ばわりされるようになった。

 「こんな風な訳で、日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったかということを、ゆっくり考え自覚する暇がなかった。それで一人も、日本人は情の人であると、それが人として正しいのである、といった人はいないのです。が、それが非常に大事です。」(p.24)

 実際、応神天皇以前の日本というと文献資料が希薄でその内実を探ることは困難だ。
 ただ、日本の弥生時代から応神以前までは江南系の文化の影響を強く受けていたことは想像できる。高床式の倉庫があり、村の入口には鳥の飾りがあり(これは鳥居の起源と思われる)、鵜飼や養蚕をし、歌垣で結婚相手を選ぶといった風習は、長江文明に起源があると思われる。この地域は桜の文化でもある。
 そして、その長江文明の哲学は楚人であった老子にその片鱗が見られる。無為自然を尊び作為や論理を嫌う。形式ばった道徳や戒律を嫌う。
 応神以前にこうした無為自然の崇拝、真理を言葉にすることを嫌う「神ながら言挙げせぬ国」は、元来長江文明から来たもので、そのため応神以降の日本の国体の形成も儒教よりも道教が重視された。何よりも「天皇」という称号が道教の神天皇大帝から来ているのを見てもわかる。
 いまだに、我々はその自覚を欠いている。
 明治の国家神道でさえ、ついに明確な教義や戒律が作られることはなかった。これは「神ながら言挙げせぬ国」が守られたと言ってもいい。神道には教義も戒律もない。ただ自然を敬い、自然の偉大さを前にしてそれを恐れ身を慎む。これに尽きる。この基本は応神以前のものだと思う。中国やインドの文化にはない要素だ。