2022年3月14日月曜日

 アベノミクスは失われた十年を脱して景気を押し上げ、株価を回復させたという意味では成功したが、インフレ目標は達成できず、財政赤字を解消できなかったという意味では失敗に終わった。
 低金利政策がなぜインフレを引き起こさなかったかと言えば、日本の終身雇用制と主婦制が雇用の確保を優先させ、賃金の上昇につながらなかったためだ。
 終身雇用制の元での失業は多くの意味で社会的身分を失うほどの深刻なものになり、再雇用されても以前の給与よりも格段に落ちるのが普通だ。それに加えて専業・兼業主婦のいる家庭で失業は即座に収入を失う。共働き家庭ならどちらか一方が支えることができるが、主婦制のもとでの失業は救いようがない。
 どんなに景気が悪化しても、日本の経済はまず西洋的に見れば完全雇用のレベルを維持しようとする。リーマンショックの時ですら、日本の失業率は4パーセントに留まった。
 そのため失業者を出さない代償に、給与を実質的に下げることになる。それを補うために労働者は残業を増やし、長時間労働で収入を確保しようとする。これは同時に、やってるふり残業を生み出して生産性を低下させる。
 収入が増えない、労働時間が長くなり消費に回す時間すらない。それが需要の低迷を生み、物価を下げることになる。
 通貨供給を増やして企業の資金繰りが良く成れば、普通はそれを新たな投資に回し、経済を拡大させる方向に向かう。ただ、日本は不景気と言え、完全雇用に近い状態は揺らいでなかった。
 経済を拡大させても、新たに雇用できる失業者はどこにもいない。女性の社会進出も進まない。となると、外国人労働者を様々な名目で大量に入れることとなった。日本人の労働時間は短縮されなかったし、低賃金の外国人労働者に合わせるかのように、給与もまた上がらなかった。
 鳴り物入りの金融緩和は外国人労働者を増やしただけで、日本人には還元されなかった。株価の上昇も、主婦ががっちり財布を握っていて投資資金のない日本のビジネスマンを潤すことはなかった。外国人投資家を潤しただけだった。
 日本の金融緩和が潤したのは、外国人労働者と外国人投資家だった。
 やがてコロナの時代が来て、外国人労働者は入ってこなくなった。その分経済活動も抑制され、その穴埋めする必要はなかった。
 コロナ時代が終わろうとすること、世界は急速なインフレに見舞われたが、日本にインフレは起こっていない。輸入品価格の高騰は、人件費の抑制による価格の維持の方に大きな圧力がかかり、デフレは継続している。デフレと物価高が同居するという世にも稀な状態になっている。
 これはいわゆるスタグフレーションとも違う。国内生産物の物価は下落を続けていて、輸入品価格だけが上がっている。わかりやすく言えば、パンは高騰し、米が暴落する状態、「パンが食べられないなら、ご飯を食べたらぁ」という状態だ。
 つまり上がるものと下がるものとが釣り合って、数字の上で物価高が起きてないので、インフレと不景気(スタグネーション)が共存しているのではない。
 アベノミクスが始まった時には、日本経済復活の最後のチャンスだという人も多かった。その最後のチャンスが行き詰まったのだから、誰もそれに代わる代案を持っていない。
 これから代案を考える際に、特に考慮しなくてはならないのは、終身雇用制と主婦制に関して、それを維持する前提なのか壊す前提なのかだ。それによって全く対処の仕方は違って来る。
 壊せばほぼ西洋の経済学理論が適用できる。維持するなら日本独自の理論が必要になる。経済の議論の前に、まずそこを決定する必要があるのではないか。
 ついでに左翼の主張する「富の再分配」を行うとどうなるかもシミュレーションしておこう。
 まず消費税をゼロにして、その不足分を高所得者層の増税とキャピタルゲインの増税で補うとして、あとは赤字国債の増額で国民に金をばら撒くとする。
 確かにばら撒いた分の収入は増加するが、それを思い切った消費に回せる状況にはない。大方貯蓄を増やすことになるだろう。
 主婦制のもとでは旦那の小遣いは増えない。また長時間労働体質がそのままなら使う暇がない。
 こういう状況では個人投資も増えない。個人投資は独身者の特権になる。独身時代に投資に親しんでいる者は結婚したがらないかもしれない。ただ、キャピタルゲイン増税が、そうした投資意欲を大きく抑制することになる。
 個人投資が増えず、貯蓄率だけが膨れ上がる。それは従来と変わらない。流れに棹さすことはあっても現状を変えることはない。
 基本的に富の再分配は今の経済を根本的に変えることはない。需要は低迷し続け、物は売れずにデフレが続き、給与も上がらない。企業も投資を渋り、内部留保を増やし続ける。
 なら「最低賃金の引上げ」はどうだろうか。日本は韓国と違い、最低賃金引上げでも雇用を維持しようとするだろう。そうすると人件費の高騰をどこで調整するかということになる。
 一番手っ取り早いのはサービス残業、サービス出勤だ。「給料は法律だからしょうがない、アップさせる。だがこれからは残業手当カットだ。喜べ、明日からみんな管理職だ。」ってことになる。これも消費を抑制することになり、デフレ脱却にはつながらない。
 ようするに、元を変えないなら、何をやっても結果は同じということだ。

 それではまた『阿羅野』の発句の方を。まあ、発句は研究し尽くされてる分野だから、それほど新しいものはないけどね。

   仲春

 麦の葉に菜のはなかかる嵐哉   不悔

 春になってようやく葉ののびて来た麦の間に、こぼれ種の菜の花が咲く。嵐が吹くと弱々しい菜の花が麦の葉にもたれかかる。
 春は風の強い日が多い。「春一番」という言葉は近代の最近になって広まった言葉で、この頃はなかったが、今なら春一番の句と見てもいいのではないかと思う。

 菜の花や杉菜の土手のあいあいに 長虹

 こぼれた種は土手などでも花を咲かせる。杉菜と言えば土筆だが、土筆が初春になっているので、杉菜が仲春になる。

 なの花の座敷にうつる日影哉   傘下

 春の長い日もようやく傾いてくれも近づくと、菜の花の影が座敷に映し出される。遅日の長閑さを感じさせる。

 菜の花の畦うち残すながめ哉   清洞

 畑を耕し始めるが、畦の菜の花だけは列になって残っている。

 うごくとも見えで畑うつ麓かな  去来

 春で日も長く、畑を耕す農夫もゆっくりとした動きで、まるで静止しているかのようだ。これも遅日の情といえよう。

 万歳を仕舞ふてうてる春田哉   昌碧

 三河万歳など、正月の角付け芸を行う万歳師の多くは百姓で、農閑期の副業だったのだろう。一月の万歳の季節が終わって二月になれば、田んぼの準備に戻る。

 つばきまで折そへらるるさくらかな 越人

 和歌で椿というと玉椿(白玉椿)のことで、花よりも葉の変わらぬ色を詠むことが多かった。戦国時代に茶道が確立されると、茶花として珍重されるようになった。
 椿の花が一般に見直されるようになると、桜に椿の花を添えることもあったのだろう。散り際の良い桜に、ぼとっと落ちる椿の取り合わせは、どちらかというと俳諧ネタだったのだろう。

 広庭に一本植しさくら哉     笑艸

 広い庭に桜がたくさん植えてあると華やかだが、一本だけというのは淋しい。

 ときどきは蓑干さくら咲にけり  除風

 旅に出ることの多い人だろう。放っておいても桜は咲き、たまたま帰ってきた時に桜が咲いていると嬉しい。

 手のとどくほどはおらるる桜哉  一橋

 桜の木は大きく、下の方を折ったくらいではなくならない。まあ、折らない方が良いけど。

 うしろより見られぬ岨の桜哉   冬松

 がけっぷちに咲く山桜は後ろから見ることができない。まあ、横から見るのが一番風情があるかな。崖の上に立てば上から見れるが、後ろからは見えない。

 すごすごと山やくれけむ遅ざくら 一髪

 「すごすご」というのは元気のないさまで、他の桜の散ってしまったあとに咲く遅咲きの桜は、取り残されたような、どこか老の哀れを感じさせる。

 はる風にちからくらぶる雲雀哉  野水

 春の強い風にも負けずに高い空で囀るあげ雲雀は揚げ雲雀は力強い。

 あふのきに寝てみむ野辺の雲雀哉 除風

 「あふのき」は仰向けのこと。揚げ雲雀は寝っ転がってみるのが一番いい。

2022年3月13日日曜日

 地球は一つ。地球は狭い。ロシアの核ミサイルは全地球を射程に入れているから逃げる所なんてない。昔フォーリーブスも言ってたね。地球は一つって。
 ウクライナを盾にして平和を享受している我々は、いつまでもこの平和が続くと思わない方が良い。その時に備えてしっかり肝を据えて、覚悟を決めなくてはならない。勝てなくても最後まであがいて見せよう。
 パラリンピックが終わると、またどういう動きがあるか分かったものではない。まだまだ未来は白紙だ。

 それでは「いざ折て」の巻の続き。挙句まで。

 名残表、七十九句目。

   一座の執筆鳥のさへづり
 遠近の春風まねく勢揃      志計

 前句の執筆はかなりの有力者というか金持ちなんだろうな。一声かければ連衆が集まって来る。

 あしのうて登りかねたる筑波山
     和歌の道には達者なれども
              桜井基佐

 連歌師への報酬、旅費、宿の手配、会場の確保、それに当座の料理や賞品の用意など、とかく連歌は金がかかる。明智光秀の連歌会のために妻が髪の毛を売ったという話もある。
 八十句目。

   遠近の春風まねく勢揃
 山もかすみてたつ番がはり    在色

 「番がはり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「番代・番替」の解説」に、

 「〘名〙 勤務を交代すること。当番をかわること。また、交代で行なわれること。かわりばん。
  ※御伽草子・熊野の本地(室町時代物語集所収)(室町末)「よるひるばんがはりにつかへ申」

とある。早朝の山本の霞の見えてくる頃、当番の人が次々と現れ勢ぞろいする。
 八十一句目。

   山もかすみてたつ番がはり
 大伽藍雲に隔たる朝朗      一朝

 番替りというと大きなお寺というイメージがあったのだろう。朝朗は「あさぼらけ」。
 八十二句目。

   大伽藍雲に隔たる朝朗
 つとめの鐘に仏法僧なく     一鉄

 仏法僧は鳥の名前で、声の仏法僧と姿の仏法僧がいる。声の仏法僧はコノハヅクで、姿の仏法僧の方が今の分類でブッポウソウになっている。大きな瑠璃色の鳥で仏法僧の名にふさわしい外見だが、声の方は今一だという。鳥界のミリ・ヴァニリだが、当時はまだこのことを知らなかった。
 大伽藍の朝にお目出度い仏法僧の声が響く。
 八十三句目。

   つとめの鐘に仏法僧なく
 煩悩の夢はやぶれし古衾     正友

 大いなる野望を持ちながらもかなえられずに没落し、出家した人だろう。古い旧家も荒れ果てて、仏法僧の声を聞く。
 八十四句目。

   煩悩の夢はやぶれし古衾
 小部屋の別れおしむ妻蔵     雪柴

 妻蔵は「つばくら」か。mとbの交替は「けむり=けぶり」「なむる=なぶる」など頻繁に見られる。
 「若い燕」は近代の奥村博史が平塚らいてうに送った手紙に由来すると言われているので、この頃はまだその用法はなかったと思われる。
 ここでは単にツバメが南へ帰って行くように、妻との別れを惜しむという意味だろう。
 八十五句目。

   小部屋の別れおしむ妻蔵
 玉ぶちの笠につらぬく泪しれ   卜尺

 「玉ぶちの笠」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「玉縁笠」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、万治年間(一六五八‐六一)の頃から流行した女のかぶる編み笠。一文字笠のふちを美しい紐・布などでふちどったもの。一説に、白い皮革でふちどったとも。玉縁。
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)三「玉縁笠(タマブチカサ)に浅黄紐の仕出し」

とある。
 玉に「つらぬく」と言えば、

 白露に風の吹きしく秋の野は
     つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
              文屋朝康(後撰集)

の歌が百人一首でも知られている。
 前句の妻の玉縁笠姿に、貫き留めていた玉が散るように涙が溢れているのを知れ。
 八十六句目。

   玉ぶちの笠につらぬく泪しれ
 かたじけなさの恋につらるる   松臼

 「かたじけなさ」と言えば、

 なにごとのおはしますかは知らねども
     かたじけなさに涙こぼるる
              西行法師

の歌が思い浮かぶ。
 女の涙に騙されて恋心を募らすのはよくあること。
 八十七句目。

   かたじけなさの恋につらるる
 かはらじと君が詞のやき鼠    在色

 「やき鼠」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「焼鼠」の解説」に、

 「〘名〙 鼠をあぶって焼いたもの。狐の好物といわれ、罠(わな)の餌(え)に用いた。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「かたじけなさの恋につらるる〈松臼〉 かはらじと君が詞のやき鼠〈在色〉」

とある。
 女の側に立って、あなたの言葉は焼鼠みたいですわ、となる。ということは女は狐?
 余談だが、最近那須の殺生石が割れたため、妖狐玉藻の封印が解けたと噂されている。
 八十八句目。

   かはらじと君が詞のやき鼠
 鶉ごろものしきせ何ぞも     松意

 鶉衣はボロボロの着物でそれの仕着せって、前句はそこまで没落した主君なのか。
 八十九句目。

   鶉ごろものしきせ何ぞも
 見世守り床の山風夜寒にて    一鉄

 「見世守り」は今で言えば店長。部下に夜風は身に染みるだろうと、ぼろ服ではあるが支給する。
 第一百韻「されば爰に」の巻の六十九句目にも、

   戸棚をゆらりと飛猫の声
 恋せしは右衛門といひし見世守リ 志計

の句がある。
 床の山は近江の彦根付近の歌枕で、

 妻恋ふる鹿ぞなくなるひとり寝の
     床の山風身にやしむらむ
              三宮大進(金葉集)

の歌がある。
 九十句目。

   見世守り床の山風夜寒にて
 秤のさらにあふみ路の月     志計

 見世守りから重さを量る天秤の皿に「さらに逢ふ」を掛けて、「逢ふ」に「床の山」のある「近江(あふみ)」を掛けて「あふみ路の月」と結ぶ。
 夜寒の中で、金銀の重さを量る近江商人とした。
 近江商人はウィキペディアに、

 「江戸時代に入ると近江出身の商人は徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地で場所請負人となる者もあった。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川のように社会の近代化に適応して存続・発展した企業も少なくない。今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引く会社は多い。」

とある。
 九十一句目。

   秤のさらにあふみ路の月
 合薬や松原さして匂ふらん    雪柴

 合薬(がふやく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「合薬」の解説」に、

 「① 数種の薬剤を調合した薬。あわせぐすり。
  ※聖徳太子伝暦(917頃か)上「天皇賜二薬千余種一。太子合薬而施二諸病人一」
  ② 火薬。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「合薬や松原さして匂ふらん〈雪柴〉 真砂長じて石火矢の音〈一朝〉」

とある。
 天秤で量るので、この場合は①の意味か。
 近江というと木曽義仲最期の地として知られる粟津の松原がある。この縁から近江には義仲寺があり、後に芭蕉が無名庵を結び、最期にはここに埋葬される。
 この粟津の松原にから「腹さして(腹痛を起こして)」を導き出す。
 匂ふというのは薬ではなく、あっちの方だろう。漏れたから「合薬をーっ」というところか。
 九十二句目。

   合薬や松原さして匂ふらん
 真砂長じて石火矢の音      一朝

 「石火矢」はウィキペディアに、

 「石火矢(いしびや)とは、室町時代末期に伝来した火砲の一種。元来弩の一種を指した語であったが、同様に火薬を用い、石を弾丸とする「stein buchse」の訳語としてこの名が使われた。フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)、ハラカン(破羅漢)、国崩ともいう。 但し、江戸時代では棒火矢(ぼうびや)と呼ばれる矢状の飛翔物を大筒で発射する術が登場するにおよび、それと区別する意味で、単に球状の金属弾を打つ砲を石火矢ということが多いため、江戸時代の記録に「石火矢」とあってもフランキを指すとは限らない。」

とある。
 大坂の陣でも用いられたので、前句の松原を住の江の松として、真砂に石火矢の音とする。
 「真砂長じて」は『古今集』真名序の「砂長ジテ巌ト為ル」による。言わずと知れた、

 わが君は千代に八千代に細れ石の
     いはほとなりて苔のむすまで
              よみ人しらず(古今集)

の歌を指しての言葉だ。
 名残裏、九十三句目。

   真砂長じて石火矢の音
 敵味方海山一度にどつさくさ   松臼

 「どつさくさ」は今の「どさくさ」で、ここでは敵味方含めた兵の混乱状態を言う。聞き慣れぬでかい音が響けばそういうことにもなる。
 九十四句目。

   敵味方海山一度にどつさくさ
 浄瑠璃芝居須磨の浦風      正友

 一の谷合戦の場面であろう。
 野郎歌舞伎と同様、人形芝居もこの頃流行し、後の文楽の元となった。
 九十五句目。

   浄瑠璃芝居須磨の浦風
 巾着や三とせは爰にすりからし  松意

 野郎歌舞伎や浄瑠璃芝居は散財のもとでもあった。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、謡曲『松風』の、

 「行平の中納言、三年はここに須磨の浦」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.31895-31896). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 九十六句目。

   巾着や三とせは爰にすりからし
 傾城あがり新まくらする     在色

 三年間傾城に金をつぎ込んで、ついに身請けして新妻にする。まあ、男の憧れというところか。
 九十七句目。

   傾城あがり新まくらする
 伊達衣今は小夜ぎの袖はへて   志計

 遊郭にいた頃のような立派な伊達衣も今はなく、小夜着の袖だけになる。傾城からすると、ちょっと寂しいかな。
 小夜着はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小夜着」の解説」に、

 「〘名〙 小形の夜着。袖のついた綿入れのかけぶとんの小さいもの。小夜(こよる)。《季・冬》
  ※評判記・色道大鏡(1678)五「うそよごれたる小夜着(コヨギ)ひきかづきてふしぬ」

とある。
 九十八句目。

   伊達衣今は小夜ぎの袖はへて
 旅のり物に眠る老らく      卜尺

 左遷の悲哀というところか。都で伊達衣を着た日々も昔のことで、いまは旅ねの小夜着のみ。
 九十九句目。

   旅のり物に眠る老らく
 道の記やちりかいくもる四方の花 一朝

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、『伊勢物語』九十七段を引いている。

 「むかし、堀河のおほいまうちぎみと申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、

 桜花散り交ひ曇れ老いらくの
     来むといふなる道まがふがに」

を引いている。
 老いらくの道が散る花にかき曇って、道を間違えて若返ればいいのに、という歌だ。
 道の記は道中記で宗祇の『筑紫道記』のようにタイトルになることもある。
 その道の記に四方の花の散ってホワイトアウトするような記述があるが、夢でも見たのだろう、とする。
 挙句。

   道の記やちりかいくもる四方の花
 あふのく山の春雨のそら     一鉄

 「あふのく」は仰向けになることを言う。仰向けになって見ると散って来る桜の花が春雨のように見える。白い花びらも、下から見ると太陽の影で黒く見えるからだろう。

2022年3月12日土曜日

 山内図書館の前の河津桜は満開だった。
 昨日のニュースじゃキエフまで十五キロまで迫ったと言ってて、今日のニュースではニ十キロまで迫ったと言っている。東京で言うと、日光や日立の辺りに国境があって、そこから来た軍隊が浦和と流山で止まっているというところかな。これだと宇都宮の辺りにチェルノブイリがあることになる。

 それでは「いざ折て」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   垢離かく水の影をにごすな
 うごきなき岩井に立る売僧坊   在色

 売僧(まいす)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「売僧」の解説」に、

 「〘名〙 (「まい」は「売」の慣用音、「す」は「僧」の唐宋音)
  ① 仏語。禅宗で、僧形で物品の販売などをした堕落僧。転じて、一般に僧としてあるまじき行為をする僧。不徳・俗悪学僧。また、僧侶をののしってもいう。売僧坊主。まいすぼん。
  ※壒嚢鈔(1445‐46)二「あきないするをば売僧(マイス)と云」
  ② 転じて、人をだましたり、うそをついたりする者。また、人をののしってもいう。売僧坊主。まいすぼん。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ いつわり。うそ。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Maisuuo(マイスヲ) ユウ」

とある。①の最後にもあるが、「売僧坊」には「まいすぼん」とルビがある。
 岩井の前に立って動かないというのは、もしかして立小便?
 五十二句目。

   うごきなき岩井に立る売僧坊
 無辺なりけり山のむら雲     松意

 無辺(むへん)は無量無辺で果てしないこと。売僧坊はただ雲を見てただけだった。疑って悪かった。
 五十三句目。

   無辺なりけり山のむら雲
 一流の寸鑓の先や時雨るらん   一鉄

 寸鑓(すやり)は直鑓(すやり)で真っすぐな穂先のシンプルな鑓。
 前句の「無辺」を槍の一流派の無辺流として、山のむら雲を突き刺したから時雨が降ってきたとする。
 無辺流はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「無辺流」の解説」に、

 「近世槍術(そうじゅつ)の一流派。大内流ともいう。流祖は出羽(でわ)国横手(よこて)(現秋田県横手市)の人、大内無辺(生没年不詳)。無辺は壮年より槍術を好み、平鹿(ひらが)の真人山(まひとやま)(秋田県横手市)に祈念して槍術の神妙を開悟したといい、その子上右衛門、孫清右衛門とよくその業を継ぎ、清右衛門の門人椎名靭負佐(しいなゆきえのすけ)は大坂夏の陣に従軍して功名をたて、その門人小泉七左衛門吉久は大坂に住み無辺流を広めた。一方、無辺の甥(おい)山本刑部(ぎょうぶ)宗茂(むねしげ)は、越後(えちご)国(新潟県)村松(むらまつ)から江戸に出て山本無辺流を唱えたが、その孫加兵衛久茂(かへえひさしげ)は名手の聞こえ高く、1637年(寛永14)柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の別邸においてその妙技を将軍家光(いえみつ)の台覧に供したのをはじめ、しばしば台覧の栄を受け、1667年(寛文7)には男久明(ひさあきら)・久玄(ひさはる)を伴って将軍家綱(いえつな)の台覧を賜り、同年12月ついに御家人(ごけにん)に登用され、廩米(くらまい)200俵を給せられた。このほか羽州鶴岡(つるおか)の田村八右衛門秋義(あきよし)を祖とする無辺無極(むへんむきょく)流など、幾多の分流が全国に広がりをみせた。[渡邉一郎]」

とある。
 五十四句目。

   一流の寸鑓の先や時雨るらん
 分捕高名冬陣にこそ       志計

 大内流が名を上げるもとになったのは大坂夏の陣での椎名靭負佐の高名だが、その時の鑓はその前の冬の陣で時雨に紛れて拾ってきたものだった。嘘です。
 分捕高名はコトバンクの「世界大百科事典内の分捕高名の言及」に、

 「…ちなみに野伏(のぶし)などが活躍した後世の合戦では分捕勝手といって,単なる戦利品の略奪行為を意味するようになったが,元来は自己の戦功を示す証拠品として分捕した敵の首級とともに具足などを差し出す行為を意味した。それゆえに分捕は分捕高名などとも表現された。〈分捕高名と言ふ事は,其の首の一人の分を一人して取りたるを分捕高名と申すなり。…」

とある。
 五十五句目。

   分捕高名冬陣にこそ
 焼あとに残る松さへさびしくて  雪柴

 落城した大阪城の松であろう。冬の陣の分捕高名を思い出す。
 五十六句目。

   焼あとに残る松さへさびしくて
 三昧原に夕あらしふく      一朝

 「三昧原(さんまいばら)」は三昧場で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三昧場」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。葬場・火葬場もしくは墓地。三昧。〔書言字考節用集(1717)〕」

とある。火葬に用いた松の燃え残りが淋しい。
 五十七句目。

   三昧原に夕あらしふく
 千日をむすぶ庵の露ふかし    松臼

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注には「千日念仏」とある。千日念仏は大阪の法善寺で行われていたもので、、ウィキペディアに、

 「山城国宇治郡北山村に琴雲上人が開山として法善寺を建立する。寛永14年(1637年)、金比羅天王懇伝の故事により中誉専念上人が現在地に移転する。他説では、同年に現在の大阪市天王寺区上本町8丁目より現在地に移り、寛永21年(1644年)から千日念仏回向が始まったという。」

とあり、南地中筋商店街振興組合にホームページには、

 「寛永14年(1637)、刑場や墓地が広がる現在の大阪市中央区難波の地に法善寺は建立されました。ここで刑に処された人や埋葬された人々の霊を慰めるための千日念仏を唱えていたことから通称「千日寺」と呼ばれるようになり、その門前で栄える街は「千日前」と称されました。」

とある。
 五十八句目。

   千日をむすぶ庵の露ふかし
 邪見の心に月はいたらじ     正友

 千日念仏が刑死した人への弔いだから、庵をむすんだのはかつての悪行の仲間であろう。邪見を捨てれば仲間も成仏するが、悪行を繰り返すなら浮ばれない。真如の月の心に至ることはない。咎めてにはになる。
 五十九句目。

   邪見の心に月はいたらじ
 長き夜も口説其間に明はなれ   松意

 口説は「くぜつ」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「口舌・口説」の解説」に、

 「く‐ぜつ【口舌・口説】
 〘名〙
  ① =くぜち(口舌)①②〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※日葡辞書(1603‐04)「Cujetno(クゼツノ) キイタ ヒト〈訳〉おしゃべりな人。雄弁な人」
  ② 江戸時代、主として男女間の言いあいをいう。痴話げんか。くぜち。くぜ。
  ※評判記・難波物語(1655)「口説(クゼツ)などしても、銭なければ、はるべき手だてもなく」

とあり「くぜち(口舌)①②」は、

 「① ことば。また、口先だけのもの言い。多弁。弁舌。くぜつ。こうぜつ。
  ② 言い争い。いさかい。口論。苦情。くぜつ。
  ※伊勢物語(10C前)九六「ここかしこより、その人のもとへいなむずなりとて、くせちいできにけり」

とある。
 この場合は痴話げんかで、恋に転じたと見ていいだろう。
 長い夜も言い争うだけで明けてしまい、せっかくの月の夜も無駄になる。
 六十句目。

   長き夜も口説其間に明はなれ
 なみだの末は目やにとぞなる   卜尺

 一晩中言い争った涙はいつしか目やにになる。
 目やには「眼脂(がんし)」という皮膚の垢で、泣いたから出るというものでもないが。
 六十一句目。

   なみだの末は目やにとぞなる
 記念とはおもはぬ物をふくさもの 志計

 記念は「かたみ」とルビがある。
 「ふくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「袱紗・服紗・帛紗」の解説」に、

 「① 糊(のり)を引いてない絹。やわらかい絹。略儀の衣服などに用いた。また、単に、絹。ふくさぎぬ。
  ※枕(10C終)二八二「狩衣は、香染の薄き。白き。ふくさ。赤色。松の葉色」
  ② 絹や縮緬(ちりめん)などで作り、紋様を染めつけたり縫いつけたりし、裏地に無地の絹布を用いた正方形の絹の布。贈物を覆い、または、その上に掛けて用いる。掛袱紗。袱紗物。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「太夫なぐさみに金を拾はせて、御目に懸ると服紗(フクサ)をあけて一歩山をうつして有しを」
  ③ 茶道で、茶器をぬぐったり、茶碗を受けたり、茶入・香合などを拝見したりする際、下に敷いたりする正方形の絹の布。茶袱紗、使い袱紗、出袱紗、小袱紗などがある。袱紗物。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)上「紫のふくさに茶わんのせ」
  ④ 本式でないものをいう語。
  ※洒落本・粋町甲閨(1779か)「『どうだ仙台浄瑠璃は』『ありゃアふくさサ』」

とある。②の袱紗で包んだものを袱紗物という。
 一般的な贈り物に用いられるが、遊郭でも遊女への贈り物にも用いられたのだろう。その袱紗が形見になってしまい、涙を「拭く」さになる。
 六十二句目。

   記念とはおもはぬ物をふくさもの
 あらためざるは父の印判     在色

 印判は花押の代わりに用いられる印鑑で、今日の実印の起源とも言えよう。
 袱紗物が亡き父の形見だとは思わず、中を調べてもみなかったが、そこには父の印判があった。
 印判そのものというよりは、印判を押してある遺言状が出てきたということだろう。まあ、遺産の分配でもめそうだ。
 六十三句目。

   あらためざるは父の印判
 借金や長柄の橋もつくる也    一朝

 長柄の橋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「長柄の橋」の解説」に、

 「大阪市北区を流れていた長柄川に架けられていた橋。弘仁三年(八一二)現在の長柄橋付近に架橋されたといわれる。
  ※古今(905‐914)恋五・八二六「あふ事をながらの橋のながらへて恋渡るまに年ぞ経にける〈坂上是則〉」
  [語誌](1)「難波なるながらのはしもつくる也今は我身を何にたとへん〈伊勢〉」〔古今‐雑〕のように古くなっていくものへの感慨を詠んだり、「芦間より見ゆるながらの橋柱昔の跡のしるべなりけり〈藤原清正〉」〔拾遺‐雑上〕のように朽ち残った橋柱によって往時を偲んだりする歌も詠まれた。
  (2)この橋は淀川河口近くのため洪水による損壊も多く、そのため、人を生きながら柱に入れ、その霊によって柱を強化しようとする「人柱伝説」でも有名。謡曲「長柄」はこの人柱伝説を素材としたもの。」

とある。

  難波なる長柄の橋もつくるなり
     今はわが身を何にたとへむ
              伊勢(古今集)

の「つくる」が「造る」なのか「尽くる」なのか、諸説あるようだ。「ながら」は「永らえる」に掛る。
 この句の場合は、難波ということで「死一倍」ネタだろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「死一倍」の解説」に、

 「〘名〙 親が死んで遺産を相続したら、元金を倍にして返すという条件の証文を入れて借金すること。また、その借金や証文。江戸時代、借金手形による貸借は法令で禁止されていたが、主として大坂の富豪の道楽むすこなどがひそかに利用した。しいちばい。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)下「死一倍をなせ金衣鳥 耳いたき子共衆あるべく候 呉竹のよこにねる共ねさせまひ〈由平〉」

とある。
 親の遺産を当てにして借金しまくって遊んでたが、親父の遺書をきちんと把握してなかったので、長柄の橋も尽きてしまった。
 六十四句目。

   借金や長柄の橋もつくる也
 しまつらしきを何にたとへん   一鉄

 「しまつらしき」は「始末・らしき」か。始末はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「始末」の解説」に、

 「① 事の始めと終わり。始めから終わりまで。終始。本末。首尾。
  ※史記抄(1477)四「いかに簡古にせうとても事の始末がさらりときこえいでは史筆ではあるまいぞ」 〔晉書‐謝安伝〕
  ② 事の次第。事情。特に悪い結果。
  ※蔭凉軒日録‐延徳二年(1490)九月六日「崇寿院主出二堺庄支証案文一説二破葉室公一。愚先開口云。始末院主可レ被レ白云々。院主丁寧説破」
  ※滑稽本・八笑人(1820‐49)二「オヤオヤあぶらだらけだ。コリャア大へんな始末だ」
  ③ (━する) 物事に決まりをつけること。かたづけること。しめくくり。処理。
  ※多聞院日記‐永祿十二年(1478)八月二〇日「同請取算用の始末の事、以上種々てま入了」
  ※草枕(1906)〈夏目漱石〉二「凡ての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する」
  ④ (形動) (━する) 浪費しないこと。倹約すること。また、そのさま。質素。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Ximat(シマツ) アル ヒト」
  ※浮世草子・好色一代男(1682)七「藤屋の市兵衛が申事を尤と思はば、始末(シマツ)をすべし」

とある。④の意味なら、いかにも倹約しているような、つまりケチくさい、ということか。
 借金をすれば長良の橋も作れるというのに、倹約臭さは何にたとえん、ということか。
 三裏、六十五句目。

   しまつらしきを何にたとへん
 初嫁は飯がい取てわたくしなし  正友

 「飯がい」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「飯匙」の解説」に、

 「〘名〙 飯を器物に移し盛るための道具。いがい。しゃくし。しゃもじ。
  ※伊勢物語(10C前)二三「手づからいゐかひ取りて、笥子(けこ)のうつは物に盛りけるを見て」

とある。
 例文にある『伊勢物語』二十三段は有名な「筒井筒」で、高安の女が自分の手で飯匙を取って飯をよそってるのを見て、「心うがりて」通うのをやめるという場面だ。
 自分で飯をよそうことの何が悪いのか、と現代人だと首をかしげる所だが、昔はその辺の作法が何かあったのだろう。近代では女房がみんなの飯をよそうのが当たり前みたいなところがあるが。
 その習慣は江戸時代でも一緒だったのだろう。初めて迎えた嫁が自分で飯匙を取るのを見て、別に他意はないんだろうけどけち臭い、そういう感覚は平安時代から江戸時代まで変わらずにあったのだろう。
 あるいは、最初の一杯は神仏に供えるため男が盛らなくてはいけない、というのを無視したということか。
 六十六句目。

   初嫁は飯がい取てわたくしなし
 家子が中言うらみなるべし    雪柴

 家子(けこ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家子」の解説」に、

 「〘名〙 家の者。妻子、召使、弟子などの類。後世、特に「しもべ」の意に限っていう地方もある。いえのこ。
  ※竹取(9C末‐10C初)「然(しかる)に祿いまだ給はらず。是を給ひてわろきけこに給はせん」
  ※俳諧・芭蕉真蹟懐紙(酒に梅)(1685)「葛城の郡竹内に住人有けり。妻子寒からず、家子(けご)ゆたかにして、春田かへし、秋いそがはし」
  [語誌](1)「いへのこ」の漢字表記「家子」の「家」を音読みした語と説かれる。「いへのこ」が古く「万葉集」にあるのに対して、「けご」は挙例の「竹取物語」の用例が最も古い。
  (2)平安時代の貴族社会における「いへのこ」は名門の子弟などを指した。中世以降、「いへのこ」は従者の意も表わしたが、従者の中でも尊重される者に対して用いた。それに対して、「けご」は本来、妻子、弟子、召使など家に属する(主人以外の)者を一般的に指す語として用いられた。」

とある。
 中言(なかごと)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「中言」の解説」に、

 「① 両者の中に立って告げ口すること。なかごと。
  ※玉葉‐寿永二年(1183)一一月七日「義仲一人、漏二其人数一之間、殊成レ奇之上、又有二中言之者一歟」
  ② 他人のことばの途中に口をはさむこと。他人の談話中に話しかけること。ちゅうごん。
  ※滑稽本・続々膝栗毛(1831‐36)二「御中言(ごチウゲン)ではござりやすが、下十五日わたしのかたとおっしゃれば、もし小の月だと、此はう一千日の損」

とある。ここでは「なかごと」とルビがあるので①の方の意味になる。
 この場合の飯をよそうのではなく、飯匙を握ったまま、私は無実だと訴える場面になる。
 六十七句目。

   家子が中言うらみなるべし
 返事神ぞ神ぞとかく計      卜尺

 返事は「かへりごと」、神は「しん」とルビがある。
 「かへりごと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「返事・返言」の解説」に、

 「〘名〙 (古くは「かえりこと」)
  ① 使いの者が帰って報告することば。
  ※書紀(720)雄略即位前(図書寮本訓)「大臣、使を以て報(かヘリコトまうし)て曰く」
  ② もらった手紙や和歌、また、質問に対する返事。
  ※竹取(9C末‐10C初)「翁(おきな)かしこまりて御返事申すやう」
  ※源氏(1001‐14頃)夕顔「書きなれたる手して、口とくかへり事などし侍き」
  ③ 贈物の返礼。おかえし。
  ※土左(935頃)承平五年二月八日「ある人、あざらかなるものもてきたり、米(よね)してかへりことす」

とある。
 「神(しん)ぞ神ぞ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神ぞ・真ぞ」の解説」に、

 「〘副〙 (「神ぞ照覧あれ」の略で、決してこの誓いにそむくまいの意の自誓のことば) 神かけて。ほんとうに。心から。かならず。
  ※歌舞伎・いとなみ六方(1674頃)「うなぎにはあらねども、しんぞ此身は君ゆへに」

とある。
 家子の告げ口に「神にかけて誓う」とだけ返事する。
 六十八句目。

   返事神ぞ神ぞとかく計
 あはれふかまを待し俤      松臼

 「ふかま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「深間」の解説」に、

 「① 川・谷などの深いところ。深み。
  ※類従本素性集(10C前)「あふみのや深まの稲を苅つめて君か千年のありかすにせん」
  ② 男女関係で深い仲になること。また、その情交の相手。間夫(まぶ)。情人。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「返事神ぞ神ぞとかく斗〈卜尺〉 あはれふかまを待し俤〈松臼〉」
  ③ 人や物事との関係が好ましくない方に進んで、そこから抜け出しにくい情況。
  ※死の棘(1960)〈島尾敏雄〉「前よりもいっそう深まにはまりこんで救いがたくなった」

とあり、ここでは②の意味になる。「神ぞ神ぞ」と言ってはいるけど、いかにも愛人を待っているかのようだ。
 六十九句目。

   あはれふかまを待し俤
 友だちのかはらでつもる物語   在色

 友達と久しぶりに会って、お互い変わってないなと話が盛り上がって行く様が、まるで愛人に出もあったかのようだ。
 七十句目。

   友だちのかはらでつもる物語
 十万億の後世のみちすぢ     松意

 「十万億」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十万億仏土」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。この世から西方の極楽浄土に行くまでにある無数の仏土。また、極楽浄土のこと。十万億。十万億土。十万億刹の土。
  ※仮名草子・夫婦宗論物語(1644‐46頃)「又有時は、過十万億仏土(オクブツド)有世界と説(とき)、或は勝過三界道と宣給ふ」 〔阿彌陀経〕」

とある。
 年を取ると、どうしても話題が極楽浄土や後生の話となる。
 七十一句目。

   十万億の後世のみちすぢ
 数珠袋こしをさる事すべからず  一鉄

 極楽浄土や次の生まれ変わりなどの長い旅路には、数珠袋を常に腰に付けておくこと。
 七十二句目。

   数珠袋こしをさる事すべからず
 隠居の齢ひ山の端の雲      志計

 「山の端の雲」というと、

 終り思ふ心の末の悲しきは
     月見る西の山の端の雲
              慈円(玉葉集)

の歌がある。御隠居さんも終わりを思う齢いとなり、数珠袋を手放さない。
 七十三句目。

   隠居の齢ひ山の端の雲
 御病者は三室の奥の下屋敷    雪柴

 御病者は「ごぼうざ」とルビがある。病人のこと。

 神南備の三室の山に雲晴れて
     龍田河原にすめる月影
              藤原範兼(続後拾遺集)

の歌があるが、病気の御隠居は三室の奥に住む。
 七十四句目。

   御病者は三室の奥の下屋敷
 ただ好色にめづる月影      一朝

 神南備の三室の龍田川とくれば、

 千早ぶる神代もきかず龍田川
     からくれなゐに水くくるとは
              在原業平(古今集)

の歌がよく知られている。業平のように好色に月を愛でるということか。
 七十五句目。

   ただ好色にめづる月影
 虫の声かかるも同じぬめりぶし  松臼

 ぬめり節はぬめり歌のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「滑歌」の解説」に、

 「① 江戸時代、明暦・万治(一六五五‐六一)のころ、遊里を中心に流行した小歌。「ぬめり」とは、当時、のらりくらりと遊蕩する意の流行語で、遊客などに口ずさまれたもの。ぬめりぶし。ぬめりこうた。
  ※狂歌・吾吟我集(1649)序「今ぬめり哥天下にはやること、四つ時・九つの真昼になん有ける」
  ② 歌舞伎の下座音楽の一つ。主に傾城の出端に三味線、太鼓、すりがねなどを用いて歌いはやすもの。
  ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)口明「ぬめり哥にて、大橋、傾城にて出る」

とある。
 遊郭で歌う滑歌は虫の声のようなもので、好色に月影を愛でている。
 七十六句目。

   虫の声かかるも同じぬめりぶし
 釜中になきし黒豆の露      正友

 釜中は「ふちう」とルビがある。虫の声に草の露が付き物なように、ぬめり節には釜の中で煮えている黒豆が付き物ということになる。黒豆の煮汁は喉に良いという。
 七十七句目。

   釜中になきし黒豆の露
 あをによし奈良茶に花の香をとめて 松意

 奈良茶はここでは奈良茶飯のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奈良茶飯」の解説」に、

 「① 薄く入れた煎茶でたいた塩味の飯に濃く入れた茶をかけて食べるもの。また、いり大豆や小豆(あずき)・栗・くわいなどを入れてたいたものもある。もと、奈良の東大寺・興福寺などで作ったものという。ならちゃがゆ。ならちゃがい。ならちゃ。〔本朝食鑑(1697)〕
  ② 茶飯に豆腐汁・煮豆などをそえて出した一膳飯。江戸では、明暦の大火後、浅草の浅草寺門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋の祖となった。〔物類称呼(1775)〕」

とある。ここでは江戸なので②の方で、奈良茶飯に浅草の桜の香りを留めて、釜で煮た黒豆を添える。
 七十八句目。

   あをによし奈良茶に花の香をとめて
 一座の執筆鳥のさへづり      卜尺

 一座、執筆とくれば、連歌か俳諧。
 前句の「奈良茶」は普通に奈良のお茶のこととする。
 「あをによし」などという枕詞を用いたり、どこか連歌っぽい句なので、挙句の前の最後の花の句として、一座の執筆が「鳥のさへづり」と挙句を付ける。
 前句の「とめて」は書き留めるの意味と掛ける。

2022年3月11日金曜日

 今日は震災から十一年。長い時間が立つと、これは経済すべてにおいて言えるんだけど、ちょうど長距離走をやっているようなもので、最初は横一線でも時間がたてばたつほどトップとビリとの間は離れて行く。復興もまた同じ。
 同じように援助を受けたとしても、その援助をどう生かすかという問題、そしてあとは運の良し悪し、メンタルな問題などいろんな事情があって、いち早く立ち直る人もいれば、いつまでも取り残される人もいる。
 制度は少なからず一律にならざるを得ない。その後の取り残された人の救済に関しては、基本的には個別に対応するべき事だ。一律なのは立法の宿命、個別の救済は行政の問題だ。
 ロシアとウクライナの勢力図はここ何日もそう変わっていない。そろそろロシアも負ける準備を始めたかな。侵略は無理だとわかって、これは戦争ではなくテロとの戦いだという所でごまかそうとしている。
 「ウクライナはネオナチ」「病院も原発もテロリストがやった」「アメリカが生物兵器を作っていた」この種のデマは無視しよう。
 今回のロシアの侵略戦争に対して多くの国が正常な防衛反応を示し、ロシア包囲網を築きくなり、自国の防衛を見直すなりしているのはよくわかる。中国やインドが日和見を決め込むのも、まあ理解できる。韓国はロシア寄りの候補を落選させた。今一番異常なのはアメリカではないか。そして次に異常なのはフランス。
 彼らが中立に立つメリットって一体何なのか。最近はウクライナのニュースばかりで、アメリカの情報があまり入ってこないせいかもしれないが、何を企んでいるのかさっぱり読めない。やはり何も考えてないのかな。
 人は誰しもいろいろ悪いことを考える。自分が独裁者だったらだとか、世界征服だとか、チートな能力を持っていたらだとか。ポルノなんかもそうだね。ありとあらゆる犯罪を想像して楽しむ空間がそこにある。
 これは無駄なことではない。悪いことを考えるから、他人が悪いことをしようとしたときに、その手口を理解し、対処することができる。ロシアの意図も、もし自分が独裁者で世界征服を企んでいるとしたらどうするか、と思うと自ずと見えてくるものだ。
 今必死になってロシアをかばっている人たちって、多分それができない人たちなんだろう。想像力の欠如は大きな問題だ。
 プーチンは病気だなんて言う人がいるが、病気だったらどうしようというのか。まさか心神耗弱で無罪にするつもりじゃないだろうな。
 どっちかというと、バイデンさんが病気なんじゃないかと、そっちの方が心配だ。

 それでは「いざ折て」の巻の続き。

 二表、二十三句目。

   世間をよそに春の山風
 抹香の煙をぬすめ薄霞      松意

 抹香(まつかう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「抹香・末香」の解説」に、

 「① 沈香(じんこう)・栴檀(せんだん)などをついて粉末にした香。今は、樒(しきみ)の葉と皮とを乾燥し、細末にして製する。仏前で焼香のときに用いる。古くは仏塔・仏像などに散布した。
  ※往生要集(984‐985)大文二「復如意妙香。塗香抹香無量香。芬馥遍二満於世界一」 〔法華経‐提婆達多品〕
  ② =まっこうくじら(抹香鯨)〔本朝食鑑(1697)〕」

とある。第一百韻「されば爰に」の巻四十句目に「葉抹香」が出てきたが、

   あかぬ別に申万日
 移り香の袖もか様に葉抹香    在色

の句も万日回向で用いられていた香だから、大勢の参拝者のために大量に用いる抹香が葉抹香なのか。沈香・栴檀などを用いない樒で作った安価な抹香と考えていいのだろう。
 風が強いと霞もかかりにくいので、抹香の煙で春の霞としたい、ということで、「世間をよそに」はお寺か墓所など亡くなった人を供養する場所の意味になる。
 二十四句目。

   抹香の煙をぬすめ薄霞
 卒塔婆の文字に帰る雁金     卜尺

 卒塔婆の一行に書かれた文字列を雁の列に見立てる。
 二十五句目。

   卒塔婆の文字に帰る雁金
 破損舟名こそおしけれ薩摩潟   志計

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注にもあるように、『平家物語』の「卒塔婆流し」とする。

 「康頼入道、故郷の恋しきままに、せめての謀に千本の卒塔婆を作り、阿の梵字、年号月日、仮名実名、二首の歌をぞ書いたりける。

 薩摩潟沖の小島に我ありと
     親には告げよ八重の潮風
 思ひやれしばしと思ふ旅だにも
     なほ故郷は恋しきものを

 これを浦に持って出でて、『南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ』とて、沖津白波の、寄せては返るたびごとに、卒塔婆を海にぞ浮かべける。‥‥略‥‥千本の卒塔婆の中に、一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ち上げたり。」(『平家物語』巻二、卒塔婆流)

 流罪の身を「破損船」で遭難したことに変える。
 なお、薩摩潟は「薩摩方」で薩摩の南方の海一帯を指す。
 二十六句目。

   破損舟名こそおしけれ薩摩潟
 かくなり果て肩に棒の津     在色

 舟を壊したことで六尺棒で取り押さえられたか。棒に薩摩の坊津(ぼうのつ)の地名を掛ける。
 二十七句目。

   かくなり果て肩に棒の津
 玉章に腸を断なま肴       一朝

 傾城に金を使い果たして魚屋に身を落とし、天秤棒を担ぐ。
 生魚は昔は鮮度を保つのが難しい上、アニサキスによる食中毒も多く、文字通り腸(はらわた)を断つ。
 二十八句目。

   玉章に腸を断なま肴
 ああ鳶ならば君がかたにぞ    一鉄

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は『伊勢物語』十段の、

 みよしののたのむの雁もひたぶるに
     君が方にぞよると鳴くなる

の歌を引いている。
 前句が「なま肴」なので、生魚を食う鳶ならば、とする。
 二十九句目。

   ああ鳶ならば君がかたにぞ
 すて詞こはよせじとの縄ばりか  正友

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は『徒然草』十段の、

 「後徳大寺大臣の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、
 「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」
とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かの例思ひ出でられ侍りしに、
 「まことや、烏の群ゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん」
と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。」

を引いている。鳶はカラスの天敵なので、鳶を追払うとカラスが増えるという話だ。
 句の方は、鳶になって逢いに行きたいのに、遊郭を出禁になってしまい、「これは鳶除けの繩張りか」と捨て台詞を言う。
 三十句目。

   すて詞こはよせじとの縄ばりか
 おもひは色に出し葉たばこ    雪柴

 煙草は注連縄のような縄に葉の軸の部分編み込んで乾燥させる。
 干されて顔色を変えて行き、捨て台詞を吐く。
 三十一句目。

   おもひは色に出し葉たばこ
 若後家や油ひかずの髪の露    卜尺

 若後家となって、髪を油で整えることもなくなり、髪の色も葉煙草のように茶色くなってゆく。悲しい思いは傍目にもわかる。
 三十二句目。

   若後家や油ひかずの髪の露
 おりやうのしめしすむ胸の月   松臼

 「おりやう」は御寮で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御寮」の解説」に、

 「① 比丘尼(びくに)、尼、特にその長として取り締まりに当たる者。→御庵(おあん)。
  ※天正本狂言・比丘貞(室町末‐近世初)「うとくなるおりゃうをゑぼしおやにせんとゆふ」
  ② 狂言面の一つ。「比丘貞(びくさだ)」「庵の梅(いおりのうめ)」など、老尼の登場するものに用いる。
  ③ 江戸時代、売春婦の一種であった歌比丘尼、勧進比丘尼の称。特にその元締め。
  ※仮名草子・都風俗鑑(1681)四「比丘尼の住所は〈略〉功齢(こうれう)へては御寮(オレウ)と号す」

とある。
 比丘尼に諭されて、胸の曇りも取れてゆく。
 三十三句目。

   おりやうのしめしすむ胸の月
 鹿の角きのふは今日のびんざさら 在色

 「びんざさら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「編木・拍板」の解説」に、

 「① 民俗芸能の打楽器の一つ。短冊形の薄い板を数十枚連ねて上方を紐で綴じ合わせたもの。両端を握って振り合わせて音を出す。ささら。
  ※洛陽田楽記(1096)「永長元年之夏、洛陽大有二田楽之事一〈略〉高足一足、腰鼓、振鼓、銅鈸子、編木(びんざさら)、殖女養女之類、日夜無レ絶」
  ② ①を持ってする踊り。田楽踊(でんがくおどり)。びくざさら。
  ※文安田楽能記(1446)「次田楽。先中門口。びんざさら。菊阿彌。笛。玉阿彌 着二花笠一。高足駄をはく」

とある。
 弥生時代の遺跡からは鹿の角のササラが出土したというが、この時代にも鹿の角のササラがあったか。
 三十四句目。

   鹿の角きのふは今日のびんざさら
 をどりはありやありや山のおくにも 松意

 前句を鹿踊りとする。ウィキペディアに、

 「シカの頭部を模した鹿頭とそれより垂らした布により上半身を隠し、ささらを背負った踊り手が、シカの動きを表現するように上体を大きく前後に揺らし、激しく跳びはねて踊る。」

とある。
 「山のおくにも」は言わずと知れた、

 世の中よ道こそなけれ思ひ入る
     山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
              藤原俊成(千載集)

による。山の奥にも鹿踊りがある。
 三十五句目。

   をどりはありやありや山のおくにも
 今ぞ引宮木にみねの松丸太    一鉄

 諏訪大社の御柱祭の木落としであろう。今は樅の木を用いるが、かつてはカラマツや杉なども用いていたという。松を用いることもあったのかもしれない。
 三十六句目。

   今ぞ引宮木にみねの松丸太
 禰宜も算盤三一六二       志計

 神社の造営にも金がかかるので、材木の価格など、算盤をはじく。「三一六二」の数字の意味はよくわからない。
 二裏、三十七句目。

   禰宜も算盤三一六二
 注連にきるあまりを以帳にとぢ  雪柴

 禰宜のつける帳簿だから、綴じるのに注連縄の余りを使う。
 三十八句目。

   注連にきるあまりを以帳にとぢ
 かざりの竹をうぐひすの声    一朝

 「かざりの竹」は門松に用いる竹。二句去りで「松丸太」があるため竹にしたか。
 正月の注連飾りをし、賭け乞いも終わると帳簿も閉じる。
 三十九句目。

   かざりの竹をうぐひすの声
 袴腰山もかすみて門の前     松臼

 袴腰はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「袴腰」の解説」に、

 「① 袴の後ろの腰にあたる部分。男子用のは、中に長方形で上のそげた厚紙、または薄い板を入れて仕立てる。袴の腰。袴の山。
  ※俳諧・毛吹草(1638)三「山〈略〉袴腰」
  ② (①の形から) 四辺形の一種。台形。梯形。また、その形をした土手、または女の額の剃りようなど。
  ※評判記・色道大鏡(1678)三「顔(ひたい)の取りやうは、〈略〉瓦燈がた、袴(ハカマ)ごし、かたく是を制す」
  ③ 袴の腰の形をした香炉のこと。中国宋代の青磁器に多い。
  ④ 弁才船のやぐらの一部材。やぐら控(梁)と矢倉板の間にあって、矢倉根太と歩桁(あゆみ)とをささえる①の形状の材。〔新造精帳書(1863)〕」

とある。元は①の意味で、あとは台形をしたものを呼ぶのに転用したものだろう。ここでは台形の山も霞んで、ということか。
 四十句目。

   袴腰山もかすみて門の前
 八丁鉦もさへかへるそら     正友

 八丁鉦はコトバンクの「世界大百科事典内の八丁鉦の言及」に、

 「…鉦をたたいて経文を唱え,門付などをして喜捨を乞う僧形の下級宗教芸能者。近世初期には〈八丁鉦(はつちようがね)〉とか〈やつからかね〉と称して,若衆が鉦を八つ円形に並べたものを打ち分ける芸能があったが,のちには鉦八つを首に掛け,曲打ちを見せ,僧形の連れが喜捨を求めた。なお首に掛けた鉦を打つ門付芸能者としては,僧形の歌念仏,頭に水を入れた手桶を載せ即席の流れ灌頂(かんぢよう)をした行人鳥足(ぎようにんとりあし)などもいた。…」

とある。正月の角付け芸の一つだったのだろう。
 四十一句目。

   八丁鉦もさへかへるそら
 莚なら一枚敷ほど雪消て     松意

 八丁鉦の芸で敷いた莚一枚分だけが一時的に雪が見えなくなる。つまり一面真っ白の雪が積もっている、ということだが、言葉としては「雪消て」で春になる。
 四十二句目。

   莚なら一枚敷ほど雪消て
 飼付による雉子鳴也       卜尺

 雉子はここでは「きぎす」。筵の上で篭に入った雉が鳴く。
 四十三句目。

   飼付による雉子鳴也
 山城の岩田の小野の地侍     志計

 きゞすなく岩田の小野のつぼすみれ
     しめさすばかりなりにけるかな
              藤原顕季(千載集)

の縁で、「きぎす」に岩田の小野が付く。今の京都市伏見区石田の辺りになる。
 地侍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「地侍」の解説」に、

 「〘名〙 南北朝から戦国時代にかけて、荘園、郷村に勢力をもち、戦乱や一揆の際に現地の動向を指導した有力名主層出身の侍。広範な所領をもって一部を手作りし、一部を小作させた。戦国時代には諸大名の家臣となった。また、幕府や諸大名家に属する武士に対して、在野の武士、土豪をもいう。じざぶらい。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「山城の岩田の小野の地侍〈志計〉 そうがう額尾花波よる〈在色〉」

とある。食用として雉の飼育も行っていたか。
 四十四句目。

   山城の岩田の小野の地侍
 そうがう額尾花波よる      在色

 そうがう額は総髪額で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「総髪額」の解説」に、

 「〘名〙 生え際の髪を抜いて広く作った額。→十河額(そごうびたい)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「山城の岩田の小野の地侍〈志計〉 そうがう額尾花波よる〈在色〉」

とある。「精選版 日本国語大辞典「十河額」の解説」には、

 「〘名〙 江戸前期、正保・慶安(一六四四‐五二)ごろに流行した深く剃り込んだ額。形は円くなく四角でなく、撫角(なでかく)のもので、鬢髪(びんぱつ)の薄い人などが、生えぎわの毛を深く剃り込んで作った額。十河某なる人の月代(さかやき)の形を模したものとも、総髪(そうごう)びたいの意ともいう。唐犬額。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浄瑠璃・通俗傾城三国志(1708)二「大なでつけのすみびたい、男じまんにはいくはいし、そがうびたいと世にたかく」

とある。前句の小野の地侍というと、こういう髪型のイメージだったのだろう。
 薄が原が風で波打つ中に佇んでそうだ。
 四十五句目。

   そうがう額尾花波よる
 夕間暮なく虫薬虫ぐすり     一朝

 前句を薬売りとする。

 鶉鳴く真野の入江の浜風に
     尾花なみよる秋の夕暮れ
              源俊頼(金葉集)

の縁で「夕間暮」とする。
 四十六句目。

   夕間暮なく虫薬虫ぐすり
 あれ有明のののさまを見よ    一鉄

 「のの」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「のの」の解説」に、

 「〘名〙 幼児語。神・仏や日・月など、すべて尊ぶべきものをいう語。のんのん。
  ※狂歌・堀河百首題狂歌集(1671)秋「みどり子のののとゆびさし見る月や教へのままの仏成らん」
  ※浄瑠璃・小野道風青柳硯(1754)三「仏(ノノ)参ろ、と仏(ほとけ)頼むも」

とある。ここでは「月」の語をあえて隠して、前句が子供の癇の虫の薬なので、幼児言葉を用いる。
 夕暮れには虫が鳴いているが、やがて有明には虫の声も止んでゆくことを思え、と違え付けになる。
 四十七句目

   あれ有明のののさまを見よ
 山颪の風うちまねくぬり団    正友

 「ぬり団(うちは)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「塗団扇」の解説」に、

 「〘名〙 両面を漆で塗った網代団扇(あじろうちわ)。
  ※金沢文庫古文書‐正安二年(1300)七月二四日・極楽寺布施注文(五九七八)「塗打輪、三本、檀紙、十帖」

とある。
 有明に山颪は、

 ほのぼのと有明の月の月影に
      紅葉吹きおろす山颪の風
              源信明(新古今集)

の歌の縁になる。
 四十八句目。

   山颪の風うちまねくぬり団
 麓のまつりねるせうぎ持チ    雪柴

 前句の団扇を祭りの団扇とする。「せうぎ持チ」は腰掛を持ち歩く人で、草履持ち同様に小姓か。あるいは神輿を載せる台も床几というが、神輿が練り歩くと一緒に持ち歩く人がいたのか。
 四十九句目。

   麓のまつりねるせうぎ持チ
 神木の余花は袂に色をかし    卜尺

 余花は遅咲きの夏になって咲いた桜の花で、夏の季語になる。祭の頃に袂に桜が散って、その色が面白い。
 五十句目。

   神木の余花は袂に色をかし
 垢離かく水の影をにごすな    松臼

 垢離(こり)は水で身を清めることで、神道の禊に対して仏道では垢離という。
 余花の花びらで水を濁すな。

2022年3月10日木曜日

 「ロシアを嫌いにならないで」という声もあるようで、まあロシアのメタルは嫌いじゃないよ。Aq bure、Grai、これはタタールスタンだったか。ロシアというと、前に来日したPAGAN REIGNを見た。
 Wolfmareは前によく聞いていて、Herlapingという曲は「リーーんごーーの花ほころーびー」って歌いたくなる。
 あとSvartby、Troll Bends Fir、Beer Bear、Rogatiy Kolokol、CD持ってるよ。
 Beer BearのЗа незримой чертойの間奏に入っている楽器がいい音だなと思って、これがパンドゥーラとの出会いだった。Тінь СонцяのІван Лузанがゲスト参加していて、ロシア語でИван Сонцесвіт Лузанとクレジットされている。
 あとベラルーシも嫌いじゃないよ。LutavierjeのCD持ってるよ。
 ミュージシャンに罪はないと思うけど、でも侵略戦争は駄目、絶対。

 それでは引き続き『談林十百韻』から、第三百韻を読んでみようと思う。第三百韻までが春の発句になる。

 いざ折て人中見せん山桜     雪柴

 山桜というと、

 もろともにあはれと思へ
     山桜花よりほかに知る人もなし
              行尊(金葉集)

の歌は百人一首でもよく知られている。その知る人もない山桜を見せて進ぜよう、というわけだ。
 山の中にひっそりと咲く花は、貞節を重んじる儒教では蘭の花の役割だが、日本では隠遁者に、山奥にひっそり咲く山桜のイメージになる。
 江戸の市井に潜んでいる市隠たちに、俳諧の席でその姿を現してやろうではないか、という意気込みもあってのことだろう。
 脇。

   いざ折て人中見せん山桜
 懐そだちの谷のさわらび     正友

 「懐そだち」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「懐育」の解説」に、

 「〘名〙 懐に抱かれて育つこと。親の手許で大切に養育されること。
  ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「十六七になっても親の懐(フトコロ)そだちとて恋の道にうとく」

とある。
 前句の山桜に谷の早蕨を添える。山を降りる隠士が娘を連れてきたようなイメージだ。でも、早蕨は花見の酒の肴に食べられてしまうが。
 第三。

   懐そだちの谷のさわらび
 鼻紙の白雪残る方もなし     松意

 早蕨に雪解け、懐に鼻紙での展開で、親に甘やかされて育ったから、懐の金もすぐに使い果たしてしまったのだろう。懐には鼻紙すら残っていない。
 四句目。

   鼻紙の白雪残る方もなし
 楊枝の先に風わたる也      卜尺

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「『男女ともに楊枝さしと云へるもの昔はなく、はながみの間に入るまでなり』(嬉遊笑覧)。」

とある。
 鼻紙がなければ楊枝が風にさらされる。『荘子』の「唇竭則歯寒(唇がなければ葉が寒い)」の心だろう。
 五句目。

   楊枝の先に風わたる也
 朝ぼらけ氷をたたく手水鉢    松臼

 風が氷を叩くという趣向は和歌にもあり、

 池水のさえはてにける冬の夜は
     氷をたたく芦のした風
              藤原為家(為家千首)

の歌などがある。前句の楊枝を柳の枝と取り成し、その風が朝の手水鉢の氷を叩く。
 六句目。

   朝ぼらけ氷をたたく手水鉢
 なぐる一銭霜に寒ゆく      在色

 「氷をたたく」というと、

 もとめけるみ法の道の深ければ
     氷をたたく谷川の水
              藤原定家(続拾遺集)

の歌もある。

 岩間とぢし氷も今朝は解け初めて
     苔の下水道もとむらむ
              西行法師(新古今集)

の歌を踏まえたものであろう。谷川の水が氷りを割って流れ出す道を求めるように、我もまた氷を叩いて仏道を求めんという歌だ。
 寺の手水鉢の氷の解けるのに道を求める、ということにして賽銭を投げる。
 七句目。

   なぐる一銭霜に寒ゆく
 今日の月宿かる橋にあめ博奕   志計

 「あめ博奕」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に「飴宝引」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「飴宝引」の解説」に、

 「〘名〙 子供相手の飴売りが飴を賞品にして子供に引かせる福引き。《季・新年》
  ※雑俳・三尺の鞭(1753)「能ひ日和・あめ宝引も一里出る」

とある。
 ただ、ここでは正月でもない月の頃の飴博奕なので、大人向けのものもあったか。商品も大人向けのものなのだろう。本当に当たりがあるのかどうか怪しいもんだが。
 八句目。

   今日の月宿かる橋にあめ博奕
 馬士籠かき秋の雲介       一鉄

 月に雲ということで雲助を出す。雲助はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雲助」の解説」に、

 「① 江戸時代、住所不定の道中人足。宿駅で交通労働に専従する人足を確保するために、無宿の無頼漢を抱えておき、必要に応じて助郷(すけごう)役の代わりに使用したもの。くも。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「雲助のたな引空に来にけらし〈信徳〉 幽灵(ゆうれい)と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉」
  ② 下品な者や、相手をおどして暴利をむさぼる者などをののしっていう。
  ※甘い土(1953)〈高見順〉「気の弱そうなこの男が、一時は『雲助』とまで言われた流しの運転手を、よくやれたものだ」

とある。
 宿場の橋のあるあたりに仕事を終えて戻ってきた人たちだろう。例文にもあるが、延宝五年冬の「あら何共なや」の巻八十一句目に、

   かた荷はさいふめてはかぐ山
 雲助のたな引空に来にけらし   信徳

の句がある。
 こうした職業の人たちの一部に、悪い奴もいたのだろう。近代でもトラックやタクシーの運転手の蔑称として用いられている。
 初裏、九句目。

   馬士籠かき秋の雲介
 御上使や勢ひ猛にわたる鴈    一朝

 御上使はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「上使」の解説」に、

 「① 幕府、朝廷、主家など上級権力者から公命を帯びて派遣される使い。
  ※百丈清規抄(1462)一「達魯花赤は監郡ぞ。日本の上使と云やうな官人也」
  ② 江戸幕府から諸大名などに将軍の意(上意)を伝えるために派遣した使者。先方の身分などによって、老中、奏者番、高家(こうけ)、小姓、使番などが適宜任ぜられた。
  ※男重宝記(元祿六年)(1693)一「あるひは上意(じゃうゐ)、上使(シ)、上聞、上覧などと、公方家には上の字を付ていふ也」

とある。
 雲助なんておとなしいもので、人を蹴散らしてゆく御上使の方がよっぽど乱暴だ。秋の雲に雁が付くが、隊列を組んでるということで御上使を狩りに喩えるが、随分乱暴な雁もいたものだ。
 十句目。

   御上使や勢ひ猛にわたる鴈
 草木黄みすでに落城       執筆

 猛烈な勢いで通り過ぎて行く御上使は、落城を知らせるためのものだった。
 十一句目。

   草木黄みすでに落城
 獄門の眼にそそぐ露時雨     正友

 落城し、城主は獄門さらし首になる。前句の「草木黄み」に泪の「露時雨」を添える。
 十二句目。

   獄門の眼にそそぐ露時雨
 にせ金ふきし跡のうき雲     雪柴

 「贋金はどこの国、いつの時代にもあるもので、ウィキペディアには、

 「日本では古くは私鋳銭と呼ばれ、大宝律令にはこれを処罰する規定が定められているが、和同開珎発行後に最高刑が死罪まで引き上げられた。私鋳銭とは、日本の朝廷が発行した貨幣以外の貨幣を指すものとされ、平安時代末期には宋銭などの渡来銭が私鋳銭にあたるかどうかについて、貴族や明法家などの間で議論された。実際に渡来銭を私鋳銭と同じとみなして宋銭禁止令が発令されたこともある。だが、皇朝十二銭以後、日本政府が貨幣を発行することはなくなり、一方で貨幣経済の発達により社会からは一定の貨幣供給量が求められることとなり、不足する貨幣を渡来銭で補う以外に選択肢はなかった。渡来銭を流通させてもなお貨幣供給量は不足し、私鋳銭の鋳造は日本全国でごく一般的に行われた。江戸幕府による三貨体制の確立にいたって、銭貨の私鋳はすべて贋金として禁止された。」

とある。銭の鋳造はコストの点であまり割の良いものではない。むしろ通貨供給の不足を防ぐ意味もあって、中世では容認されるような所もあったのだろう。
 金は真鍮、銀は鉛や錫などで、オリジナルから鋳型を取れば、容易に作れたのではないかと思う。そのため贋金は後を絶たず、そのために獄門さらし首にして見せしめにする必要もあったのだろう。
 十三句目。

   にせ金ふきし跡のうき雲
 看板に風もうそぶく虎つかひ   卜尺

 見世物小屋だろうか。看板に「虎使い」とあっても嘘っぽい。
 捕まらずにすんだか、下っ端で釈放された贋金作りが、その後も地方を転々と浮雲のような生活をしては、怪しげな見世物小屋を出す。
 十四句目。

   看板に風もうそぶく虎つかひ
 十郎なまめき          松意

 元から下七がなかったようだ。意図的な伏字で、まあ御想像に、ということか。
 前句の虎を『曽我物語』の遊女虎御前とするが、「看板に」とあるから、野郎歌舞伎の虎御前役の女形であろう。曾我の討入よりも十郎と虎御前とのチョメチョメの場面の方が人気を博してたりして。二流の劇団だとありそうなことだ。
 十五句目。

   十郎なまめき
 挙屋入たがひにゑいやと引力   在色

 挙屋は遊郭の揚屋。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「揚屋入」の解説」に、

 「〘名〙 遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。
 ※俳諧・談林十百韻(1675)上「挙屋入たがひにゑいやと引力に〈在色〉 成ほどおもき恋のもと綱〈松臼〉」

とある。
 この頃の遊郭は双方の同意を必要としたので、「たがひにゑいやと引力」となる。
 「たがひにゑいやと引力」の言葉は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、謡曲『八島』の、

 ツレ「景清追つかけ三保の谷が、
 シテ「着たる兜の錣を摑んで、
 ツレ「後へ引けば三保の谷も、
 シテ「身を遁れんと前へ引く。
 ツレ「互ひにえいやと、
 シテ「引く力に、地鉢附の板より、引きちぎつて、左右へくわつとぞ退きにけるこれを御覧じて判官、お馬を汀にうち寄せ給へば、佐藤継信能登殿の矢先にかかつて」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15435-15452). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面を引いている。三保の谷は謡曲では四郎となっているが、『平家物語』では十郎になっているという。

野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15435-15452). Yamatouta e books. Kindle 版. 
 十六句目。

   挙屋入たがひにゑいやと引力
 成ほどおもき恋のもと綱     松臼

 もと綱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「元綱」の解説」に、

 「〘名〙 車などに綱をつけて引く時の、その綱のもとの方。また、それを引く人。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「挙屋入たがひにゑいやと引力に〈在色〉 成ほどおもき恋のもと綱〈松臼〉」

とある。「えいや」と引くというので、車を引くイメージにする。
 十七句目。

   成ほどおもき恋のもと綱
 上り舟やさすが難所の泪川    一鉄

 もと綱を船を引く綱とし、恋の舟の難所は泪川だとする。
 泪川はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「涙川」の解説」に、

 「[1] 涙が多く流れることを、川にたとえた語。川のように流れる涙。涙の川。
  ※班子女王歌合(893頃)「人知れずしたに流るるなみだがはせきとどめなむ影やみゆると」
  [2] 地名。伊勢国の歌枕。和訓栞に、一志郡の川という。
  ※後撰(951‐953頃)離別・一三二七「男の伊勢の国へまかりけるに 君がゆく方に有りてふ涙河まづは袖にぞ流るべらなる」

とある。
 十八句目。

   上り舟やさすが難所の泪川
 さかまく水に死骸たづぬる    志計

 泪川に浮かぶ舟は入水した人を探している。『源氏物語』の浮舟であろう。二人の男に板挟みになって入水するというのは古くからの物語のパターンで、『万葉集』そういう設定で歌を競わせるというのがある。また、『竹取物語』は入水はしないが月が冥府の象徴であるなら、このパターンになる。
 十九句目。

   さかまく水に死骸たづぬる
 すつぽんは波間かき分失にけり  雪柴

 「鼈人を食わんとして却って人に食わる」という言葉があるが、かつては人を食うと考えられていたのだろうか。噛みついたら放さないとはよく言われるが。
 ニ十句目。

   すつぽんは波間かき分失にけり
 からさけうとき蓼の葉の露    一朝

 「からさけうとき」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、『徒然草』三十段の「骸(から)は気うとき山の中におさめて」のもじりとある。
 元ネタだと屍(しかばね)のことで、打越に被ってしまうので、この意味にとることはできない。
 「けうとき」は気味が悪いという意味もあるので、スッポンの殻(甲羅)は柔らかくて気味が悪いという意味になり、波間をかき分け、蓼の生い茂る中に逃げていった、とする。
 ホンタデ(本蓼)やマタデ(真蓼)とも呼ばれるヤナギタデは水辺の湿地に生え、高さ50センチメートルほどになる。葉を蓼味噌にして食べる。
 すっぽんも美味なので、逃げられたのは残念だ。
 二十一句目。

   からさけうとき蓼の葉の露
 楽や月花同じ糂粏瓶       松臼

 楽は「たのしみ」とルビがある。糂粏瓶(じんだがめ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「糂粏瓶」の解説」に、

 「〘名〙 ぬかみそを入れるかめ。
  ※米沢本沙石集(1283)四「秦太瓶(シンタカメ)一つ也とも、執心とどまらん物は、棄つ可きとこそ心得て侍れ」

とある。この場合は中身は糠味噌ではなく蓼味噌だろう。
 前句は空になったら困る蓼の葉の露(蓼味噌)と取り成される。
 二十二句目。

   楽や月花同じ糂粏瓶
 世間をよそに春の山風      正友

 春の桜に月もそろう楽しみに、糠味噌の瓶一つということで、ぬか漬けだけの質素な生活をする世捨て人として、世間を余所に、とする。

2022年3月9日水曜日

 今日は鶯の声を聞いた。ミモザが咲き始めた。
 令和三年の統計では日本の専業主婦世帯は566万世帯で、共働き世帯は1,247世帯だという。
 ここから言えるのは、1,813世帯中566万世帯、つまり日本の専業主婦率は31パーセントになる。専業主婦世帯と共働き世帯の数は九十年代に逆転していて、今も専業主婦世帯は減少し続けている。
 ただ、女性の非正規雇用の割合は平成二十九年の統計で55.5パーセントで、平成二年の38.1パーセントから右肩上がりに増えている。
 統計の年度は違うが、単純に共働き世帯1,247世帯の55.5パーセントが非正規雇用だとすると、約692万世帯が妻の方が非正規雇用で、非正規でもフルタイム労働の人はいるから、単純にこれが兼業主婦世帯の数とは言えないが、これと専業主婦世帯とを合わせると、1,258万世帯で69パーセントになる。
 専業主婦の減少分の多くは、パートなど非正規雇用に移行しただけで、女性の社会進出に繋がってないと見ていい。
 日本経済の特殊性を考える時、終身雇用だけでなく、専業・兼業を含めた「主婦率」の高さも考慮する必要がある。日本の「主婦」は世界的に見ても特殊で、家計管理をほぼ全面的に任されていて、特に消費と資産運用に関しては主婦が日本経済の主役だと言ってもいい。
 例えば世帯収入を向上させよとしたとき、妻のパート収入は限界があり、特に配偶者控除の関係で130万円が上限で、それ以上働こうという意欲は薄い。そうなると、その分夫への残業増加の圧力になる。これが日本の長時間労働体質の一つの要因となっている。夫に長時間労働を要求してしまうと、家事や育児への参加はそれだけで困難になる。
 つまり、家計が悪化すればするほど夫の労働時間が増え、育休などの取りにくい状態が生まれる。妻の方も夫の育児参加か収入の維持かという選択に迫られる。介護に関しても同じことが起こる。
 主婦率の高さは日本で個人投資家が増えない原因にもなっている。投資をしようとした場合、夫にはそもそも投資資金がない。ただ月々わずかな小遣いを貰っているだけで、ほとんどは昼食代に消えている。
 投資を実際に行うのは「主婦」ということになるが、この主婦に安定志向が強く、家の財産の多くは結局銀行預金に流れている。これが日本の異常なまでの貯蓄率の高さのもとになっている。
 主婦制度は終身雇用制度と並んで日本独自の習慣で、日本経済に大きな影響を与えている。給与の上昇よりも雇用の安定を優先し、直接投資をせずに銀行預金を膨れ上がらせる。主婦は何よりも生活の安定を優先する。終身雇用撤廃に最も抵抗しているのは主婦層ではないかと思う。
 日本の女性の社会進出が進まない背景にも、この主婦制度が強固で、正規雇用でフルタイムで働く女性というのがいつになっても少数派で、会社のシステムが男中心にならざるを得なくなっている。長時間労働を要求する所帯持ちの男の声を優先させてはみても、長時間労働体質は、残業を稼ぐためのだらだら残業を生み出し、結局生産性を低下させる。
 日本独自の主婦制度がある限り、いくら西洋を真似て同じような法律を作っても、結局は実質を伴わない形だけのものになる。それでも日本のフェミニストのほとんどは西洋かぶれで、日本に実情に合った戦略を思いつくことはない。いつまでたってもフェミニストは「日本は遅れてるーーーっ!!」と絶叫するだけのうざい存在にすぎない。

 それでは「春がらし」の巻の続き、挙句まで。

 名残表、七十九句目。

   いかに老翁かすむ岩橋
 有難や社頭のとびらあけの春  雪柴

 岩橋から葛城一言主神社としたか。ウィキペディアには、

 「延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国葛上郡に「葛木坐一言主神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭に際しては幣帛に預かった旨が記載されている。
 その後の変遷は不詳。かつては神社東南に神宮寺として一言寺(いちごんじ)があったが、現在は廃寺となっている。
 明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において村社に列し、明治16年(1883年)3月に県社に昇格した。」

とある。江戸時代の様子はよくわからない。芭蕉の『笈の小文』には、

   「葛城山
 猶(なほ)みたし花に明行(あけゆく)神の顔」

と記すのみだった。ウィキペディアの「役小角」の項には、

 「役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。」

とある。
 特にこの伝説に掛けなくても、普通に神社の境内の岩橋でも良い。老翁は神主か、それとも神の顕現か。
 八十句目。

   有難や社頭のとびらあけの春
 鏡のおもてしろじろと見る   松意

 社殿の扉を開ければ、御神体の鏡がある。有難いことだ。
 八十一句目。

   鏡のおもてしろじろと見る
 口中に若衆のいきやみがくらん 志計

 衆道の若衆が鏡を見る。
 自分の息で鏡が白くなると、意気ではなく息を磨いてるようだ。
 前句の「しろじろ」を「じろじろ」という意味にも掛けたか。
 八十二句目。

   口中に若衆のいきやみがくらん
 兼保のたれおもひみだるる   松臼

 兼保(かねやす)は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注によると、有名な歯医者だったという。貞享の頃に成立した『雍州府志』に、

 「丹波康頼之孫、号兼康、治諸病、特得療歯牙之術、自玆為治口舌之医」

とあるという。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「兼康」の解説」には、

 「江戸時代、江戸本郷にあって歯磨き粉、歯痛の薬を売った店。
  [補注]「御府内備考‐三三」に「本郷三丁目〈略〉町内東側北木戸際同所四丁目両町境横町を里俗兼康横町と相唱申候」とあり、「本郷も兼康までは江戸の内」などともいわれた。」

とある。
 若衆の息を磨くというが、兼康は一体どんな若衆を思っていたのだろうか、とする。
 八十三句目。

   兼保のたれおもひみだるる
 しのび路はつらき余所目の関の住 卜尺

 兼保を普通に誰かの名前として、恋路を忍んで関を越えてゆく姿を、関守は他人事ながら辛いだろうな、とする。
 八十四句目。

   しのび路はつらき余所目の関の住
 首たけはまる中の藤川     在色

 「首たけ」は首ったけのこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「首丈」の解説」に、

 「① (「くびだけ(首丈)」の変化した語) 足もとから、首までの丈。転じて、物事の多くつもること。くびだけ。
  ※不在地主(1929)〈小林多喜二〉一「五年も六年もかかって、やうやくそれが畑か田になった頃には、然しもう首ったけの借金が百姓をギリギリにしばりつけてゐた」
  ② (形動) (首の丈まで深くはまるの意から) ある気持に強く支配されること。思いが深いこと。特に、異性にすっかり惚れこんでしまうこと。また、そのさま。くびだけ。
  ※洒落本・多佳余宇辞(1780)「帰りてへは、首ったけだが」
  ※わかれ道(1896)〈樋口一葉〉中「質屋の禿頭(はげあたま)め、お京さんに首ったけで」
  [語誌](1)近世前期から上方では「くびだけ」の形で用いられ、文字通り首までの長さを表わし、さらに「首丈沈む」「首丈嵌(は)まる」などの言い回しにも見られるように、この上なく物事が多くつもる意、あるいは、深みにはまる意から異性に惚れ込む意で用いられた。
  (2)中期以降、江戸を中心に「くびったけ」の形で用いるようになる。江戸ではまた「くびっきり」という言い方もなされた。」

とある。
 首までどっぷりつかるという意味で「はまる」というのは、今でも「ゲームにはまる」「アイドルにはまる」などのように用いられている。元は「首丈にはまる」だった。
 藤川は「関の藤川」で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「関の藤川」の解説」に、

 「岐阜県南西端、関ケ原町の旧跡不破関付近を流れる藤古川のこと。藤川。
  ※古今(905‐914)神あそびの歌・一〇八四「みののくにせきのふぢがはたえずして君につかへん万代までに〈よみ人しらず〉」

とある。前句の関を不破の関とする。「中」は「仲」と掛ける。
 八十五句目。

   首たけはまる中の藤川
 から尻の駒うちなづみけし飛で 一朝

 「から尻」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「軽尻・空尻」の解説」に、

 「① 江戸時代の宿駅制度で本馬(ほんま)、乗掛(のりかけ)に対する駄賃馬。一駄は本馬の積荷量(三六~四〇貫)の半分と定められ、駄賃も本馬の半額(ただし夜間は本馬なみ)を普通としたが、人を乗せる場合は、蒲団、中敷(なかじき)、小附(こづけ)のほかに、五貫目までの荷物をうわのせすることができた。からじりうま。かるじり。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)一「歩(かち)にてゆく人のため、からしりの馬・籠のり物」
  ② 江戸時代、荷物をつけないで、旅人だけ馬に乗り道中すること。また、その馬。その場合、手荷物五貫目までは乗せることが許されていた。からじりうま。かるじり。
  ※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「追分よりから尻(シリ)をいそがせぬれど」
  ※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)四「このからしりにのりたるは、〈略〉ぶっさきばおりをきたるお侍」
  ③ 馬に積むべき荷のないこと。また、その馬。空荷(からに)の馬。からじりうま。かるじり。
  ※雑兵物語(1683頃)下「げに小荷駄が二疋あいて、から尻になった」
  ④ 誰も乗っていないこと。からであること。
  ※洒落本・禁現大福帳(1755)五「兄分(ねんしゃ)の憐(あはれみ)にて軽尻(カラシリ)の罾駕(よつで)に取乗られ」

とある。ここでは空の馬であろう。藤川の前でどうしようか迷いつつも、意を決して川の飛びこそうとした。その結果、首まで川にどっぷりつかってしまった。
 「首たけはまる」を文字通りの意味としての恋離れになる。
 八十六句目。

   から尻の駒うちなづみけし飛で
 とある朽木をこすはや使    正友

 前句の「から尻」を①の宿駅制度の本馬とする。急ぎの使者を乗せ、道を塞ぐ朽木を飛び越して行く。
 八十七句目。

   とある朽木をこすはや使
 すり火打きせる袋にがらめかし 松意

 すり火打は火打石で、煙管の袋をガラガラさせる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「がらめかす」の解説」に、

 「〘他サ四〙 (「めかす」は接尾語。「からめかす」とも) がらがらと音をたてる。
  ※平治(1220頃か)中「六波羅まで、からめかして落ちられけるは、中に、優にぞみえたりける」
  ※日葡辞書(1603‐04)「Garamecaxi, u, aita(ガラメカス)〈訳〉上にあげた物(振鈴・鈴・将棋の駒・胡桃)を鳴らす。また、他のあらゆるやかましい音を立てさせる」
  [補注]「日葡辞書」以前の例については清濁は不明。」

とある。
 朽木を飛び越える時に煙管袋がガラガラ音を立てる。
 八十八句目。

   すり火打きせる袋にがらめかし
 こまもの店にわたる夕風    一鉄

 前句の煙管袋はこまもの屋の店にぶら下がっていて、夕風にガラガラ音を立てる。
 八十九句目。

   こまもの店にわたる夕風
 寺町の鐘に命のおもはれて   松臼

 寺町はお寺の多く集まる地域で、京の京極の寺町通りがよく知られている。お寺が多く、いくつもの鐘が物悲しくて命の儚さを思わせる。このあたりのこまもの店にも夕風が物悲しい。
 九十句目。

   寺町の鐘に命のおもはれて
 かつしきのわかれ又いつの世か 雪柴

 「かつしき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「喝食」の解説」に、

 「① (「喝」は唱えること) 禅宗で、大衆(だいしゅ)に食事を知らせ、食事について湯、飯などの名を唱えること。また、その役をつとめる僧。のちには、もっぱら有髪の小童がつとめ、稚児(ちご)といった。喝食行者(かっしきあんじゃ)。
  ※永平道元禅師清規(13C中)赴粥飯法「施食訖。行者喝食入。喝食行者先入二前門一。向二聖僧一問訊訖。到二住持人前一。〈略〉面向二聖僧一問訊訖。又手而立喝食」
  ※咄本・百物語(1659)下「五山の喝食(カッシキ)、連句に心を入て他事なし。さる人いふやうは、ちごかっしきなどは、又やはらかなる道をも御がくもんありたるよし
  ② 能面の一つ。①に似せて作ってある。額に銀杏(いちょう)の葉形の前髪をかいた半僧半俗の少年の面。「東岸居士(とうがんこじ)」「自然居士(じねんこじ)」「花月(かげつ)」などに用いる。前髪の大きさにより大喝食、中喝食、小喝食などの種類がある。
  ③ 昔、主に武家で元服までの童子が用いた髪型の一種。頭の頂の上で髪を平元結(ひらもとゆい)で結い、さげ髪にして肩のあたりで切りそろえる。
  ④ 歌舞伎の鬘(かつら)の一つ。もとどりを結んでうしろにたらした髪型。「船弁慶」の静、「熊谷陣屋」の藤の方など時代狂言で高位の女性の役に用いる。
  ※歌舞伎・茨木(1883)「花道より真柴白のかっしき鉢巻、唐織の壺折、檜木笠を斜に背負ひ、杖を突き出来り」
  ⑤ 女房詞。書状の宛名の書き方で、貴人に直接あてないで、そば人にあてる場合に使用される。
  ※御湯殿上日記‐文明一四年(1482)七月一〇日「めてたき御さか月宮の御かた、おか殿御かつしき御所、ふしみとの〈略〉一とにまいる」
  [語誌](①について) 「庭訓往来抄」では「故に今に至るまで鉢を行之時、喝食、唱へ物を為る也」と注する。また、「雪江和尚語録」によれば、後世は有髪の童児として固定していたようである。」

とある。ここでは①の意味だが、「もっぱら有髪の小童がつとめ、稚児(ちご)といった。」とあるように、お寺の稚児との別れで、恋に転じる。
 九十一句目。

   かつしきのわかれ又いつの世か
 身が袖に出舟うらまん今日の月 在色

 喝食から謡曲『自然居士』への展開か。身売りした少女を助けるべく、人買い船に乗り込んでゆく。
 少女が自ら身売りした金で買って寄進した衣を手にして自然居士は、

 「身の代衣恨めしき、身の代衣恨めしき、浮世の中をとく出でて、先考先妣諸共に、同じ台に生まれんと読み上げ給ふ自然居士墨染の袖を濡らせば、数の聴衆も色色の袖を濡らさぬ、人はなし袖を濡らさぬ人はなし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.50581-50590). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面が「身が袖に」になり、「出舟うらまん」ということで近江の大津松本へと向かう。最初の方に、

 「夕の空の雲居寺、月待つ程の慰めに」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.50541-50542). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあり、月の夜だった。
 九十二句目。

   身が袖に出舟うらまん今日の月
 悋気いさかひ浜荻の声     志計

 浜荻は伊勢の浜荻で、難波では芦という。
 難波の芦は古くから和歌に詠まれて、

 難波潟みじかき葦のふしの間も
     あはでこの世を過ぐしてよとや
             伊勢(新古今集)

の歌は百人一首でも知られているが、芦の声は特に詠まれてはいない。荻の上風は寂しげで物凄いものとして和歌の題材にはなっていあ、
 浜荻(芦)の声はそういうわけで和歌の趣向ではなく、俳諧の言葉として、ここでは悋気いさかいの騒ぎ立てる声として用いられている。
 前句を行ってしまった男への恨みとして、そうなるに至った嫉妬を廻るいさかいの声を付ける。
 名残裏、九十三句目。

   悋気いさかひ浜荻の声
 あたら夜の床をひやしてうき思ひ 正友

 「あたら夜」は明けるのが勿体ないような夜のことだが、それが嫉妬から来るいさかいで一人寝る夜になってしまった。
 九十四句目。

   あたら夜の床をひやしてうき思ひ
 此子のなやみうばがいたづら  卜尺

 乳母が男を引き入れたりして遊んだりしているが、せっかくの夜を育てている子供が邪魔をする。
 「いたづら」は多義だが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「徒・悪戯」の解説」には、

 「② 性愛に関する行為、感情などを主として否定的にいう語。
  (イ) 性に関してだらしがないこと。みだらであるさま。好色な感じ。
  ※咄本・内閣文庫本醒睡笑(1628)七「若き女房の徒(イタヅラ)さうなるあり」
  (ロ) 性的な衝動。異性に対する思い。
  ※浮世草子・好色五人女(1686)一「恥は目よりあらはれ、いたづらは言葉にしれ」
  (ハ) (━する) 男女間の、道にはずれた関係。不品行な行為。特に、夫婦でない男女がこっそりあうこと。不義。密通。姦通。
  ※浄瑠璃・山崎与次兵衛寿の門松(1718)中「もし私にいたづらあらば、先の相手を切りも殺しもなさる筈」

という意味がある。
 九十五句目。

   此子のなやみうばがいたづら
 青き物又ある時はつまみ喰   一鉄

 ある程度大きくなった子であろう。未熟者でつまみ食いなどをする。
 前句の「いたづら」を悪戯ではなく徒(いたづら)の方として、乳母がほったらかしにしているという意味にする。
 九十六句目。

   青き物又ある時はつまみ喰
 盆に何々むすび昆布あり    一朝

 むすび昆布は今でもおでんなどに入れる昆布を結んだもので、盆の上に乗せた結び昆布や青物をつまみ食いする。
 九十七句目。

   盆に何々むすび昆布あり
 岩代の野辺に宗匠座をしめて  雪柴

 前句の結び昆布を岩代の松に見立てる。岩代の松はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「岩代松・磐代松」の解説」に、

 「和歌山県南西部、みなべ町の浜の松。有間皇子にちなむ結び松のこと。歌枕。
  ※菟玖波集(1356)恋中「むすぶ文にはうは書もなし 岩代の松とばかりは音信れて〈信照〉」

とある。
 『万葉集』には、

    有間皇子、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
 磐白の浜松が枝を引き結び
     まさきくあらばまたかへり見む
 家にあれば笥に盛る飯を草まくら
     旅にしあれば椎の葉に盛る

とあるが、この出典とはあまり関係なく、昆布を結ぶ、ということからその縁として「岩代」の地名を導き出す。
 岩代の宗匠は陸奥岩城の猪苗代兼載のことか。北の方だから昆布があるだろう、ということなのだろう。
 九十八句目。

   岩代の野辺に宗匠座をしめて
 たのむうき世の夢の追善    在色

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、

   熊野へ詣で侍りしに岩代の王子に
   人々の名など書き附けさせて
   しばし侍りしに拝殿の長押に書き付け侍りし時
 岩代の神は知るらむしるべせよ
     頼む憂き世の夢のゆく末
             よみ人しらず(新古今集)

を引いている。この歌の縁で、岩代の宗匠が追善連歌興行を行ったとする。
 九十九句目。

   たのむうき世の夢の追善
 一通義理をたてたる花軍    志計

 一通は「ひととほり」。
 花軍(はないくさ)は貞徳の『俳諧御傘』に、

 「正花也、春也。是は玄宗と楊貴妃と立別、花にて打ちあひあそばれし事と云へり。」

とある。ただ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「花軍」の解説」には、

 「① はなばなしく戦うこと。はなばなしい戦い。
  ※籾井家日記(1582頃)四「明日にも当城へ敵の乱れ入りて候はば、搦手口をば請取りて花軍を致すべきと存ずる」
  ② 花の枝で打ち合う遊戯。唐の玄宗が、侍女を二組に分けて花の枝で戦わせたという故事が有名。はなずもう。はなくらべ。《季・春》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ 花を出し合ってその優劣を競うこと。《季・春》
  ※浮世草子・好色二代男(1684)三「敵無の花軍(ハナイクサ)」
  ④ 花と花との戦争。花の精と花の精との合戦。草花を擬人化したものによる想像上の戦い。謡曲「花軍」、御伽草子「草木太平記」などに描かれている合戦。
  ※叢書本謡曲・花軍(1541頃)「必ず恨みの花軍、夢中にまみえ申さん」

とあり、この場合は①であろう。
 亡き人を弔って敵を討つ、いわゆる弔い合戦を美化して「花軍」とはいうが、そんなのもただの建前だったりする。本当の軍はそんなきれいごとではない。
 挙句。

   一通義理をたてたる花軍
 その七本のすゑの鑓梅     松意

 前句の花軍を③の意味の取り成し、花の優劣を競う遊びとして一巻は目出度く終わる。
 ものが軍だけに「鑓梅」の優勝。槍梅はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「槍梅」の解説」に、

 「〘名〙 ウメの一品種。花は白く、やや淡紅色を帯びる。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)下「名所誹諧発句しなじな〈略〉やり梅のながえやつづくみこし岡」

とある。真っすぐに上に伸びた枝に咲く梅を、文様などで「槍梅」ということもある。

2022年3月8日火曜日

  侵略は駄目、絶対。ロシア軍はすぐに撤退。


 今日の写真は今年の一月十二日、町田忠生公園での撮影。蝋梅はいつものように咲いたのに、今年は梅の咲くのが遅かった。
 世界銀行の男女格差調査とか聞くと、またかという感じだが。いつもながら、何で実感とかけ離れた統計がいつも発表されるのだろうか。
 日本の女性の社会進出がなかなか進まないのは、専業主婦の居心地が良いというのも、一つにはあると思う。
 まず、妻が家計の管理をほぼ全面的に任されていて、夫が小遣いを貰っているというのは、他所の国ではほとんどないのではないかと思う。
 パート労働の兼業主婦でも、財布を妻が握るというのは大体一緒だと思う。こうした習慣は高収入の家庭で基本的に変わらない。
 実質的に妻が権利を持っていても、法的には夫名義の財産なため、妻はまったく財産を持たず、経済的地位が低いと判定されてしまうのだろう。
 また、管理職の数だとか経営者の数だとかを、女性就労者数で割らずに全女性の数で割れば、専業・兼業主婦率の高い日本では、それだけ低く評価されることになる。
 多くの国では専業主婦というと、稼いだ金を夫がすべて管理していて妻は僅かな小遣いを貰うだけだから、働かなければ自由にできる金はない。だから、働いて独立しようとする。
 日本のジェンダー解放が急務なら、まず妻が「大蔵大臣」という古い習慣を改める必要がある。夫の給料は夫が自由に使うべきだ。
 あと、日本のウクライナ支援が防弾チョッキって、ヘルメットを送ったドイツと一緒じゃないか。恥ずかしい。「人権」のない国だから、武器輸出もできない。
 自分の国を守る権利は立派な「基本的人権」だと思う。

 それでは「青がらし」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   宗祇その外うぐひすの声
 手鑑に文字をのこして帰鴈    松意

 手鑑はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手鑑」の解説」に、

 「① 代表的な古人の筆跡を集めて帖としたもの。もと古筆鑑定のために作られたが、後には愛好家が能筆家の筆跡や写経などを集めて作るようにもなった。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浮世草子・好色一代男(1682)六「了佐極(きはめ)の手鑑(テカカミ)、定家の歌切」
  ② 手本。規範。
  ※評判記・役者胎内捜(1709)坂東彦三郎「刀のすんちがいしとふしんの時、〈略〉手かがみにあふた刀は近江に有とだんだんに云」

とある。
 連歌師は能筆家でもあり、その書は高い値で取り引きされるから、宗祇とをの連衆も手鑑に文字を残しているのだろう。
 帰る雁は放り込み気味だが、雁が一列になって飛ぶ姿は文字列に喩えられる。
 五十二句目。

   手鑑に文字をのこして帰鴈
 刀わきざし朧夜の月       雪柴

 手鑑を②の意味に取り成し、刀の手鑑とする。帰る雁に朧月を添える。
 五十三句目。

   刀わきざし朧夜の月
 難波潟質屋の見せの暮過て    松臼

 刀脇差と言えば、生活に困った牢人が質草に入れるもので、商人の町大阪は特に質屋が多かったのだろう。刀を失った牢人に今日も日が暮れて行く。
 五十四句目。

   難波潟質屋の見せの暮過て
 出格子の前海わたる舟      一鉄

 出格子(でがうし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「出格子」の解説」に、

 「① 外部へ張り出して作った窓の格子。
  ※俳諧・桜川(1674)秋一「出格子のひまゆくこまちをどり哉〈季吟〉」
  ② (多く①を構えた家に住んだところから) 囲われ者、踊り子などの住居。
  ※雑俳・柳多留‐二(1767)「出格子で鰹買日は旦那が来」

とある。
 親は質屋通いで娘は遊女として売られてゆく、という話だろうか。
 五十五句目。

   出格子の前海わたる舟
 あだ波のながれの女小うなづき  在色

 あだ波は風もないのに立つ波で、転じてたいしたこともないのに大騒ぎすることを言う。

 そこひなき淵やは騒ぐ山川の
     淺き瀬にとそ徒波はたて
              素性法師(古今集)

の歌によるという。

 音に聞く高師の浦のあだ波は
     かけじや袖のぬれもこそすれ
              一宮紀伊(金葉集)

の歌も、根も葉もない噂という含みで言っている。歌合の席で、

 人しれぬ思ひありその浦風に
     波のよるこそ言はまほしけれ
              藤原俊忠(金葉集)

の返しとして詠まれたもので、「人しれぬ思ひあり」との風の噂に、を受けて「高師の浦のあだ波」と返している。
 句の方はいろいろ得体のしれない噂で賑わっている、海を渡ってきた遊女小さくうなづいて、出格子の家に連れて来られてこれからよろしく、というところか。「ながれ」が「あだ波(噂)の流れ」と「流れの女」の両方の意味を持っている。
 五十六句目。

   あだ波のながれの女小うなづき
 すすりなきには袖のぬれもの   志計

 前句を悪い噂を流された女として、「そんなの嘘なんだろ」とか言われると小さくうなずいてすすり泣く。
 五十七句目。

   すすりなきには袖のぬれもの
 敷たえのふとんの上の恋の道   正友

 布団は当時は着るものだったが、敷布団はあった。掛け布団の代わりに着る布団があった。
 敷布団を和歌の枕詞を借りて「敷たえのふとん」とし、すすり泣き、袖が濡れるのも恋の道、と結ぶ。
 五十八句目。

   敷たえのふとんの上の恋の道
 あはでうかりし文枕して     卜尺

 文枕(ふみまくら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「文枕」の解説」に、

 「① 文がらを芯に入れて作った枕。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)跋「月にはきかしても余所には漏ぬむかしの文枕とかいやり捨られし中に」
  ② 夢に見ようとして枕の下に恋文などを入れておくこと。また、そのふみ。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「あはでうかりし文枕して〈卜尺〉 むば玉の夢は在所の伝となり〈雪柴〉」
  ③ 枕元において見る草子類。」

とある。
 「あはで」は「あは」という感嘆詞に「逢はで」を掛けたもので、「あはれ」にも通じる。

 難波潟みじかき芦のふしの間も
     あはでこの世を過ぐしてよとや
              伊勢(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られている。
 文枕の夢で愛しい人を見て浮かれる、一人寝の布団の上での恋とする。
 五十九句目

   あはでうかりし文枕して
 むば玉の夢は在所の伝となり   雪柴

 夢に愛しい人が出てきて、それが巷の噂になり、でも良さそうだが、打越の「ふとんの上の恋」と被ってしまうのが難しい。

 恋ひ死ねとするわざならしむばたまの
     夜はすがらに夢に見えつつ
              よみ人しらず(古今集)

の句の情として、前句の「うかりし」を浮かりから憂かりしへ取り成したと見た方が良いのか。
 去っていった人の夢に毎晩のようにうなされて、ついに死んでしまったことが地元の伝説となった、ということなら打越と違った展開にできる。
 六十句目。

   むば玉の夢は在所の伝となり
 道心堅固ああ南無阿弥陀     一朝

 仏教説話などには夢のお告げや、夢に仏さまが現れたなど、夢にまつわるものが多い。道心堅固だとそういう夢も見て、伝説にもなる。
 六十一句目。

   道心堅固ああ南無阿弥陀
 斎米やあるかなきかの草の庵   一鉄

 斎米(ときまい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「斎米」の解説」に、

 「〘名〙 僧の食事に供する米。斎(とき)の料として僧や寺に施す米。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「斎米をひらける法の花衣 願以至功徳あけぼのの春〈三昌〉」

とある。その斎米があるかないかもわからないくらいの貧しい暮らしに耐えている。道心堅固というものだが、それで餓死すれば南無阿弥陀仏。
 六十二句目。

   斎米やあるかなきかの草の庵
 筧のしづくにごる水棚      松意

 水棚(みづだな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「水棚」の解説」に、

 「① 仏に供える水や花、また、仏具などをおく棚。閼伽棚(あかだな)。
  ※康富記‐嘉吉三年(1443)六月一日「先面々、自荷レ桶向二閼伽井許一汲レ之、連歩納二置水棚一了」
  ② 盆に、無縁仏のためにつくる祭壇。先祖をまつる精霊棚とは別に設ける。餓鬼棚。
  ③ 台所で洗った皿などをおく棚。〔羅葡日辞書(1595)〕」

とある。ここでは③の意味だろうか。
 米が僅かであっても、それを食えば台所は濁る。この世に全く濁りのない人はいない、ということか。
 六十三句目。

   筧のしづくにごる水棚
 縄たぶら峰の浮雲引はへたり   志計

 「縄たぶら」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「束ねて太くした縄。「水棚」を洗うためのもの。」

とある。「引はふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「引延」の解説」に、

 「〘他ハ下二〙 長くのばす。ひきのばす。
  ※能因本枕(10C終)六二「をのこごの十ばかりなるが、髪をかしげなるがひきはへても」

とある。
 濁った水棚を縄たぶらで洗うと、水に映った峰の浮雲の形が引き延ばしたようになる、ということか。
 六十四句目。

   縄たぶら峰の浮雲引はへたり
 山陰にして馬のすそする     松臼

 「すそする」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「裾をする」の解説」に、

 「馬の足を洗う。裾を遣う。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「山陰にして馬のすそする〈松臼〉 明日はかまくら入と聞えけり〈卜尺〉」

とある。
 山陰で馬を洗っていると、峰の浮雲も姿を変えて行く。
 三裏、六十五句目。

   山陰にして馬のすそする
 明日はかまくら入と聞えけり   卜尺

 いざ鎌倉というので鎌倉に参上することになったが、鎌倉殿に印象良くしようと、鎌倉に入る直前に汚れた馬を洗う。
 六十六句目。

   明日はかまくら入と聞えけり
 うきかぎりぞと夫すて行     在色

 鎌倉東慶寺は縁切寺と呼ばれている。辛いことにこれ以上耐えられないと、夫との縁を切りに行く。
 六十七句目。

   うきかぎりぞと夫すて行
 所帯くづし契を余所に身を売て  一朝

 縁切寺ではなく、自ら志願して遊女になる。西鶴の『本朝二十不孝』の「大節季にない袖の雨」という話は、親の暴力や経済的困窮から、娘が自ら遊郭に身を売り、そのお金を両親への孝行とする話がある。結果的にこのお金も無駄になり、遊女になった娘だけが生き残ることになる。
 このまま餓死するか親の暴力で殺されるか、となった時、究極の選択で自ら遊女になるということは、実際にあったことなのだろう。
 家庭崩壊で夫に愛想尽かし、自ら遊女になるということも、さもありなんだったのだろう。
 六十八句目。

   所帯くづし契を余所に身を売て
 大くべのはてむねの火とこそ   正友

 大くべはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「大焚」の解説」に、

 「〘名〙 薪(たきぎ)などの燃料をどんどん燃やすこと。また、その燃料。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「所帯くづし契を余所に身を売て〈一朝〉 大くべのはてむねの火とこそ〈正友〉」
  ※滑稽本・世中貧福論(1812‐22)上「振舞振舞が打つづき、無益の釜の下へ大くべすれど」

とある。
 恋の炎が薪の大焚のように燃え上がって胸を焦がし、その挙句の果てに所帯を壊し、遊女に身を落とす。
 六十九句目。

   大くべのはてむねの火とこそ
 扨も此野辺の土とは仕なしたり  松意

 前句を火葬に取り成す。
 七十句目。

   扨も此野辺の土とは仕なしたり
 城山すかれてそよぐ粟稗     一鉄

 かつてお城だったところも今は荒れ果てて、鋤で耕されて粟稗の畑になる。
 七十一句目。

   城山すかれてそよぐ粟稗
 わたり来る小鳥たがへぬ時の声  松臼

 時の声は鬨の声と同じ。場所が城山だけに、畑を占領した小鳥たちが城を落としたとばかり、「えい、えい、おー」と言ってるかのようだ。
 七十二句目。

   わたり来る小鳥たがへぬ時の声
 月落すでにおひ出しの鐘     雪柴

 「おひ出しの鐘」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「追出の鐘」の解説」に、

 「夜明けをつげる鐘。遊里などで、明け六つ(今の午前六時ごろ)の鐘をいう語。泊まり客が帰る時刻に鳴ることからいう。追い出し。起こし鐘。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※俳諧・鷹筑波(1638)二「耳かしましきをひ出しの鐘(カネ)一季をり限になればきう乞て〈正好〉」

とある。
 前句の小鳥の声も朝を告げるもので、そこに遊郭の帰る時刻を告げる鐘が鳴る。
 「月落(つきおち)」は、

   楓橋夜泊    張継
 月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠
 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声到客船

 月は落ちて鳥は啼き満点の空から霜が降りて、
 河の楓の漁火は悲しい眠りを覚ます。
 姑蘇の街の城外の寒山寺。
 夜半の鐘の声が旅人を乗せた船にまで到る。

の詩によるもので、月落ち小鳥が鳴いて、遊郭の客に帰る時間を知らせると換骨奪胎する。
 七十三句目。

   月落すでにおひ出しの鐘
 置銭や袖と袖との露なみだ    在色

 遊郭の後朝は銭を置いて立ち去る。
 七十四句目。

   置銭や袖と袖との露なみだ
 おもひをつみてゆく舟問屋    志計

 「おもひをつみて」は、

 水鳥のうき寝たえにし波の上に
     思ひをつみてもゆる夏虫
              藤原家隆(壬二集)

の歌に用例がある。「つむ」は集むということか。
 舟問屋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「船問屋」の解説」に、

 「〘名〙 全国各港にあって、廻船と荷主とのあいだに入り荷物の積込み・水揚げおよび廻船の手配などの業務を周旋する業。船宿。廻船問屋。ふなどんや。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)下「仕出しては浪にはなるる舟問屋〈卜尺〉 秤(はかり)の棹(さを)に見る鴎尻(かもめじり)〈一鐵〉」

とある。
 この場合は船宿での別れであろう。銭を積むと掛ける。
 七十五句目。

   おもひをつみてゆく舟問屋
 浦手形此もの壱人前髪あり   正友

 浦手形が浦証文(うらじょうもん)のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浦証文」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、廻船が遭難してもっとも近い浦へ着いた場合、難船前後の状況、捨て荷、残り荷、船体、諸道具の状態などにつき、その浦の役人が取り調べてつくる海難証明書。浦手形。浦切手。浦証。浦状。
  ※財政経済史料‐一・財政・輸米・漕米規則・享保二〇年(1735)六月一一日「右破船大坂船割御代官にて吟味之訳添書致し、浦証文相添可レ被二差出一候」

とある。遭難した時に舟に一人前髪のある若衆が乗っていたのが発覚する。舟問屋にもその趣味があったのだろう。
 七十六句目。

   浦手形此もの壱人前髪あり
 詮議におよぶしら波の音    卜尺

 前髪のある男が怪しいというので、詮議に及ぶ。海だから白波の音はするが、白波には盗賊の意味もある。
 兼載独吟俳諧百韻の九十三句目に、

   杖を頼てこゆる山みち
 白波の太刀をも持ず弓もなし  兼載

の句があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「② (後漢の末、西河の白波谷にこもった黄巾の賊を白波賊と呼んだという「後漢書‐霊帝紀」の故事から) 盗賊。しらなみ。
  ※本朝文粋(1060頃)四・貞信公辞摂政准三宮等表〈大江朝綱〉「隴頭秋水白波之音間聞、辺城暁雲緑林之陳不レ定」

とある。「沖つ白波」という場合には海賊の意味になる。
 七十七句目。

   詮議におよぶしら波の音
 山類の言葉をかりて花の滝   一鉄

 前句の詮議を連歌の式目に反するかどうかを判定する詮議とする。
 山類(さんるい)は「山、岡、峯、洞、尾上、麓、坂、そば、谷、山の関、梯、瀧、杣木、炭竈」などが『応安新式』で挙げられている。
 滝は山類に含まれるが『応安新式』には「水辺にも嫌之」とあるだけで水辺とはしていない。ただ俳諧では、松永貞徳の『俳諧御傘』には「惣別瀧は山類也、水辺也。」とあり、立圃編『増補はなひ草』にも、山類、水辺両方に「瀧」が記されている。
 山類と山類、水辺と水辺は連歌では可隔五句物になるが、立圃編『増補はなひ草』では可隔三句物で、俳諧ということで緩くしている。
 たとえば打越に「波の音」とあった場合に、「滝」は出せない。連歌の場合は山類だが水にも嫌うためで、俳諧の場合は瀧は山類でかつ水辺になる。ただ、「花の滝」は落花の比喩なので微妙なところだ。
 松永貞徳の『俳諧御傘』には、

 「花の瀧は落花を云。但、依句体水辺山類也。新式に両方に嫌と云々。」

とある。『応安新式』には、

 「花の浪 花の瀧 花の雲 松風雨 木葉の雨 水音雨 月雪 月の霜 桜戸 木葉衣 落葉衣(如此類は両方嫌之)」

とある。
 もちろん前句に「しら波の音」がある分には問題にならない。ただ「舟問屋」「浦手形」が水辺になるとすると、水辺四句でこの句自体もアウトだが、おそらく「依句体」が決め手で、ここではあくまで言葉としての「花の滝」だから、水辺とは言い難いということで、詮議の果てにセーフということか。
 七十八句目。

   山類の言葉をかりて花の滝
 いかに老翁かすむ岩橋     一朝

 老翁は梅翁(宗因)のことであろう。なら、ここに更に「岩橋」と付けるのはどうか、というわけだ。岩橋は水辺で打越に「波の音」があるが、これも同様の理由でセーフ。談林はそこの所を厳密にはやらない、というところだろう。