2022年3月7日月曜日



 今日の写真は二〇二一年、つまり去年の八月十日、川崎市麻生区の早野ひまわり畑で撮影。そろそろこの黄色と青の写真のネタが尽きてきた。
 不思議と麦秋はもとより、稲穂と青空のような写真も今まで取ってなかったんだなと思った。
 ウクライナの方は、短期で制圧されるというシナリオが遠くなってゆくことで、他の独裁国家も同調をためらい、日和見に入っているのではないかと思う。これだけでも第三次世界大戦が少し遠のいたかな。
 独裁を支持していた人たちも同じなんだろうな。戦争反対を言う以外は言葉少なで、静かなものだ。これもロシアの誤算だろう。
 今回アメリカとNATOが動かなかったことで、自分の国は自分で守らなくてはという意識が高まっているのは、日本も例外ではない。これも、アメリカが世界の警察をやめる以上、必然といえよう。もっと早く議論すべきだった。
 ソロポリアモリーという言葉は日本ではまだ滅多に聞くこともない言葉だが、LGBTの次はこれなのかな。
 日本には「独身主義者」という言葉はあるが、結婚という形態をとらないなら、不特定多数の性関係は別に珍しくもない。本人の同意がなく、騙して二股三股かけていたら問題だけどね。
 多分今問題になるのは、ゲイやBTの中のペニスを持つ者が昔から不特定多数のパートナーを求める傾向にあったのが、最近になって同性婚が認められるようになって、改めて複数の相手との法的権利を要求するようになったとか、そういうことだろう。
 基本的に雄はばら撒く性で雌は選ぶ性だから、雄同士だと乱婚になりやすい。
 ゲイやバイの多人数による婚姻が認められるなら、それが「平等」に名のもとに異性愛にも拡大される可能性もある。そうなると一夫多妻の復活だ。
 まあ、歴史的にも人類は近代以前には一夫多妻を行っていた地域が多く、一夫多妻の解禁は生物学的にそれほど不自然なものではない。

 それでは「青がらし」の巻の続き。

 二表、二十三句目。

   中腰かけにかすむどらの音
 山寺の乗物下馬に雪消て     雪柴

 銅鑼はお寺でも使うことがあるようだ。多分茶室と同様、食事などの連絡用であろう。ここだとお客さんの到着の連絡用に用いるということか。
 山寺に到着した御一行が駕籠や馬から降り、腰掛で門の飽くのを待つ。「雪消えて」と季節を添える。
 二十四句目。

   山寺の乗物下馬に雪消て
 禅尼の分る苔の細道       一朝

 駕籠に乗ってやってきたのを尼僧とする。
 「苔の細道」は『徒然草』十一段に、

 「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。」

とある。
 駕籠を降りた尼僧が苔の細道をたどって寺に戻る。
 二十五句目。

   禅尼の分る苔の細道
 ぬり笠に松のあらしやめぐるらん 一鉄

 「松のあらし」は、

 山ふかき松のあらしを身にしめて
     たれかねさめに月をみるらん
              藤原家隆(千載集)

など、和歌に詠まれている。『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『松山天狗』の、

 「苔の下道たどり来て、風の音さへすさまじき松山に早く着きにけり松山に早く着きにけり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89280-89281). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の一節を引いている。
 ぬり笠はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「塗笠」の解説」に、

 「〘名〙 薄い板に紙を張り、漆塗りにした笠。多く女がかぶる。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Nurigasa(ヌリガサ)」
  ※天理本狂言・千鳥(室町末‐近世初)「其上さむらひじゃによって、はかまかたぎぬ、ぬりがさで、かほをかくいておじゃる」

とある。女性用の笠。
 二十六句目。

   ぬり笠に松のあらしやめぐるらん
 手拍子ならす庭の夕暮      松意

 塗笠を舞に用いる笠として、夕暮れの庭で舞う。さながら嵐の如し。
 二十七句目。

   手拍子ならす庭の夕暮
 だうづきも月にはみだるる心あり 志計

 「だうづき」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は胴突(どうづき)のこととしている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「胴突」の解説」に、

 「① (「どつき(土突)」の変化した語という) 地盤を突き固めたり、杭(くい)を打ったりすること。また、それに用いる具。やぐらを組んで、その中に太い丸太をたて(あるいは重い石を置き)数本の綱を丸太の根本に結び、その綱で引き上げては落として突き固めるもの。また、丸太に数本の足をつけ、その足を持って突く具にもいう。
  ※ロザリオの経(一六二二年版)(1622)ビルゼン・サンタ・マリア、ロザリオに現し給ふ御奇特の事「ツチヲ ヲヲイ、dôzzuqinite(ドウヅキニテ) ツキ カタメテ」
  ② 丸太や長い棒を武具として用いたもの。
  ※幸若・烏帽子折(室町末‐近世初)「熊坂の太郎はどうづきをおっとってどうどうとあてた」
  ③ 江戸時代、年末の煤払(すすはら)いに祝儀として、主人以下一同の胴上げをしたこと。胴上げ。
  ※大和耕作絵抄(1688‐1704頃)煤払「胴築(ドウヅキ)や栄さら栄よ煤払」
  ④ 釣りの仕掛けの一つ。最下端におもりをつけ、先糸に数本の枝針をつけたもの。
  ⑤ 城壁の上などに備えておいて、攻め寄せる敵の上に落とす太い丸太。胴木。
  ※中尾落草子(16C後)「壁につけたるだうつきども、ばらりばらりと切りおとす」

とある。
 庭で杭打ちの作業を行っているが、月も登る夕暮れになるとみんな疲れてきて、杭打ちの規則正しいリズムも乱れて来る。手拍子でリズムを取る。
 「月にはみだるる」の言葉は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、

 「かほどの聖人なりしかども、月には乱るる心あり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.40065-40066). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。狂女の撞く三井寺の鐘の乱れ打ちをいう。
 二十八句目。

   だうづきも月にはみだるる心あり
 五人張よりわたる鴈また     在色

 五人張はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「五人張」の解説」に、

 「① (五人がかりで張る弓の意) 四人で弓をまげ、残るひとりがようやく弦をかけるほどの強い弓。強弓。
  ※保元(1220頃か)上「三尺五寸の太刀に、熊の皮の尻ざや入れ、五人張の弓、長さ八尺五寸にて、つく打ったるに」
  ② 家屋の棟上げのときに縁起をかついで飾る弓。
  ※雑俳・柳筥(1783‐86)一「五人ばりをぶっつがひ餠を投げる」

とある。「鴈また」は「精選版 日本国語大辞典「雁股」の解説」に、

 「① 鏃(やじり)の一種。鏃の先端を二股にし、その内側に刃をつけたもの。飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる。
  ※名語記(1275)「かりまた如何。鴈俣也。かりのとびたる称にて、さきのひろごれる故になづくる歟」
  ② ①をつけた矢。かぶら矢のなりかぶらにつけるが、ふつうの矢につけるものもある。羽は旋回して飛ばないように四立てとする。主として狩猟用。雁股箆(かりまたがら)。雁股矢。
  ※今昔(1120頃か)一九「箭を放つ、鹿の右の腹より彼方に鷹胯(かりまた)を射通しつ」
  ※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「かりまたをひっくはへ、ねらひすましてはなちければ」

とある。ここでは「雁も亦(また)」の意と掛けて用いる。
 ここでは前句の「だうづき」を「② 丸太や長い棒を武具として用いたもの。」の意味に取り成し。真っすぐの棒のように一列に並んで飛んでいた雁も、月には乱れるのか弓の形になり、銅突、五人張の縁で雁又を雁亦と掛けて結ぶ。
 二十九句目。

   五人張よりわたる鴈また
 わだつ海みさごがあぐる素波の露 卜尺

 素波はコトバンクの「普及版 字通「素波」の解説」に、

 「白波。漢・武帝〔秋風の辞〕詩 樓を泛(うか)べて汾河を濟(わた)り 中にたはりて素波を揚ぐ」

とある。
 漢武帝の『秋風辞』は、

   秋風辞 漢武帝
 秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南帰
 蘭有秀兮菊有芳 懐佳人兮不能忘
 泛楼舡兮済汾河 横中流兮揚素波
 簫鼓鳴兮発棹歌 歓楽極兮哀情多
 少壮幾時兮奈老何

 秋風が立つ、ヘイ!白雲が飛ぶ
 草木は黄葉して落ちる、ヘイ!雁も南へ帰る
 蘭は咲き誇つ、ヘイ!菊も薫る
 佳人を懐かしむ、ヘイ!忘れることもできず
 楼を乗せた船を浮かぶ、ヘイ!汾河を渡る
 中流で止める、ヘイ!素波が揚がる
 簫鼓を鳴らす、ヘイ!棹さし歌が始まる
 歓楽極まる、ヘイ!いと哀れなる
 若い盛りも幾時ある、ヘイ!一体何で年を取る

 棹さし歌の雰囲気で、漕ぎ手に客が合いの手を入れるように歌うと、なかなか酒宴も盛り上がりそうだ。
 中国の汾河山西省で北にあるから、日本とは逆に秋に雁が南へ行く。日本では北から飛来する。
 「草木黄落兮雁南帰」の句のあとに「横中流兮揚素波」の句がある。川遊びを述べた辞だが、若き日もやがて衰えると思うと哀愁も漂い、それを秋風に託す。
 ここではこの『秋風辞』を踏まえつつ、雁が弓のように列をなして渡ってくるという前句に、海ではミサゴが波を立てると対句的に付ける。向え付けになる。
 ミサゴは英語でオスプレーという。ホバリングの後、急降下して獲物を捕らえる。雁の弓が乱れるように、ミサゴは波を乱す。
 三十句目。

   わだつ海みさごがあぐる素波の露
 須佐の入舟さす棹の歌      松臼

 愛知県の南知多町豊浜にあったという須佐の入江は歌枕になっている。

 夜をさむみ須佐の入江にたつ千鳥
     空さへこほる月になくなり
              公猷法師(続拾遺集)
 うかれ立つすさの入江の夕なみは
     あとまてさわくあちの村鳥
              正徹(草魂集)

など、鳥とともに詠まれることが多い。
 前句の漢武帝の船を須佐に入船の舟歌に変える。
 三十一句目。

   須佐の入舟さす棹の歌
 汐風に袖ひるかへす伽やらふ   一朝

 「伽やらふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伽遣」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、停泊中の船に小舟でこぎ寄り、船人などを相手に売春した下級の娼婦。船上に向かって「とぎやろう、とぎやろう」と呼びかけたところからいう。舟惣嫁(ふなそうか)。舟饅頭(ふなまんじゅう)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「汐風に袖ひるがへす伽やらふ〈一朝〉 烟はそらにすい付たばこ〈正友〉」

とある。舟饅頭は元禄六年の「帷子は」の巻二十六句目にも、

   夜あそびのふけて床とる坊主共
 百里そのまま船のきぬぎぬ    芭蕉

の句がある。
 須佐の入江に舟が帰ってくると、伽遣が迎えが客引きに来る。
 三十二句目。

   汐風に袖ひるかへす伽やらふ
 烟はそらにすひ付たばこ     正友

 「すひ付たばこ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「吸付煙草」の解説」に、

 「〘名〙 (タバコはtabaco) 火を吸いつけて相手にさし出すタバコ。すいつけ。遊女など、女性が男性に対して示す情愛の表現。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「汐風に袖ひるがへす伽やらふ〈一朝〉 烟はそらにすい付たはこ〈正友〉」

とある。伽遣の遊女を買うと「すひ付たばこ」のサービスがある。
 三十三句目。

   烟はそらにすひ付たばこ
 朝ぼらけへだての雲にさらばさらば 松意

 普通に後朝だが、「へだての雲」は、

 春の夜の夢の浮橋とだえして
     峰にわかるる横雲の空
              藤原定家(新古今集)

の趣向を借りて、それを「さらばさらば」と俗語で落とす。
 三十四句目。

   朝ぼらけへだての雲にさらばさらば
 よしのの里のすゑのはたご屋   雪柴

 本歌は、

 急ぎたてここはかりねの草枕
     なほ奥深しみ吉野の里
              八条院高倉(続後撰集)

か。帰る雁の音と仮寝を掛けている。江戸時代だから「仮寝の草枕」はは旅籠屋になる。
 三十五句目。

   よしのの里のすゑのはたご屋
 水風呂の滝の流をせき入て    松臼

 湯船に水を張る、これまでの蒸し風呂とは違う今風の風呂は、お寺を中心にこの時代急速に普及していった。吉野金峯山寺の宿坊にもあったのだろう。吉野の滝の清流の水で風呂を沸かす。
 三十六句目。

   水風呂の滝の流をせき入て
 ちろりの酒に老をやしなふ    一鉄

 「ちろり」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「ちろり」の解説」に、

 「酒を燗(かん)するための容器で、酒器の一種。注(つ)ぎ口、取っ手のついた筒形で、下方がやや細くなっている。銀、銅、黄銅、錫(すず)などの金属でつくられているが、一般には錫製が多い。容量は0.18リットル(一合)内外入るものが普通である。酒をちろりに入れて、湯で燗をする。ちろりの語源は不明だが、中国に、ちろりに似た酒器があるところから、中国から渡来したと考えられている。江戸時代によく使用されたが、現在も小料理屋などで用いているところもある。[河野友美]」

とある。天和二年刊千春編『武蔵曲』の「酒の衛士」の巻発句の前書きにも、

 「尻掲(しりからげ)を下ろさず、敷物を設けず、堂の陰に群れゐて、珍露利(ちろり)を打ち敲き、以て滑歌(なめりうた)を撼(かん)するまことに餘念無きなり。」

とある。
 滝の流れを水風呂にして、ちろりの酒で一杯。はあーーー極楽極楽。
 二裏、三十七句目。

   ちろりの酒に老をやしなふ
 腰もとは隠居の夢をおどろかし  在色

 腰もとはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「腰元・腰本」の解説」に、

 「① 腰のあたり。腰つき。〔運歩色葉(1548)〕
  ※浄瑠璃・丹波与作待夜の小室節(1707頃)中「足本・こしもと・身のまはりすっきり奇麗に」
  ② 身のまわり。身辺。
  ※玉塵抄(1563)一六「唾(だ)壺はかすはきをはき入るつぼなり。こしもとにちゃうどをくぞ」
  ③ 貴人、大家の主人のそば近く仕えて身辺の雑用をする女。侍女。
  ※波形本狂言・人を馬(室町末‐近世初)「某はわかいくせして独寝がきらいじゃ。奥様申上てみめのよいお腰本かおはしたを馬になして某のいる側につないて」
  ④ 遊女屋で、主人の居間や帳場で雑用に使われる女。遊女の罰として、これに従事させることがあった。
  ※洒落本・通言総籬(1787)二「あんまり引込と腰元(コシモト)にするとおっせへすから、けふもむりにみせへでへした」
  ⑤ 刀の鞘(さや)の外側の鯉口に近い所にとりつけた半円状のもの。栗形。
  ⑥ 「こしもとがね(腰元金)」の略。
  ※長祿二年以来申次記(1509)「正月御服事〈略〉然御作りの様は御つかさや梨子地にこじりつか頭御腰本、何もしゃくどう」

とある。この場合は③であろう。夢に出てきたので、酒飲みながら、もしかしてだけど、と勝手に妄想する。まだまだ若い。
 三十八句目。

   腰もとは隠居の夢をおどろかし
 かはす手枕数珠御免あれ     志計

 隠居は既に出家の身であった。
 三十九句目。

   かはす手枕数珠御免あれ
 思ひの色赤地のにしき袈裟衣   正友

 「赤地のにしき」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『実盛』で、

 「老後の思出これに過ぎじ御免あれと望みしかば、赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18193-18198). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。この注にある通り、「おもひのいろ」は「緋の色」に掛かり、赤地の錦を導き出す。
 まあ、真っ赤な袈裟を着るなんて、派手好きのお坊さんなのだろう。
 赤袈裟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「赤袈裟」の解説」には、

 「〘名〙 赤地の布帛(ふはく)で仕立てた袈裟。奈良、平安時代、勅許を得た威儀師が着用した。
  ※枕(10C終)一五六「季の御読経の威儀師、あかげさ着て」

とあり、王朝時代にはあったようだ。
 四十句目。

   思ひの色赤地のにしき袈裟衣
 あつぱれ和尚児性ずき也     卜尺

 「和尚(をしゃう)」「児性(こしゃう)」で韻を踏んでいる。前句の赤い袈裟の人物を、お寺だから男色だとする。
 四十一句目。

   あつぱれ和尚児性ずき也
 万石を茶の具にかへて身しりぞき 雪柴

 一万石の大名の地位も捨てて茶の道に走るのは、小姓が好きだからだとする。
 西鶴の『男色大鑑』にも、武士の衆道が発覚しても、閉門で済むケースが描かれている。女性関係の不倫よりも寛大だったようだ。
 衆道好きで殿様辞めても、茶の道で食ってゆくことはできたのだろう。
 四十二句目。

   万石を茶の具にかへて身しりぞき
 遠嶋をたのしむ雪のあけぼの   一朝

 「罪なくして配所の月を見る」の心だろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「(「古事談‐一」などによると、源中納言顕基(あきもと)がいったといわれることば) 罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。
  ※平家(13C前)三「もとよりつみなくして配所の月をみむといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとどあへて事共し給はず」

とある。
 雪のあけぼのは、

 淋しきはいつもながめのものなれど
     雲間の峰の雪のあけほの
              藤原良経(新勅撰集)

など、歌に詠まれている。
 四十三句目。

   遠嶋をたのしむ雪のあけぼの
 そなれ松七言四句や吟ずらん   一鉄

 「そなれ松」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「磯馴松」の解説」に、

 「① 海の強い潮風のために枝や幹が低くなびき傾いて生えている松。いそなれまつ。そなれ。
  ※古今六帖(976‐987頃)六「風ふけば波こすいそのそなれまつ根にあらはれてなきぬべら也〈柿本人麻呂〉」
  ② 植物「はいびゃくしん(這柏槇)」の異名。」

とある。

 そなれ松こずゑくたくる雪折れに
     いはうちやまぬ波のさびしさ
              藤原定家(夫木抄)

の歌もある。
 ここでは歌ではなく七言絶句の詩に作る。「遠嶋」を流刑の意味にではなく、中国から日本にやってきた謡曲『白楽天』の白楽天とする。
 四十四句目。

   そなれ松七言四句や吟ずらん
 蔵主の名残見する古塚      松意

 蔵主(ざうす)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蔵司・蔵主」の解説」に、

 「① 禅寺で、経蔵をつかさどる僧。のちに知蔵と称せられたもので、禅院六頭首中、第三に位する職。また、一般に僧をいう。
  ※太平記(14C後)一六「小弐が最末(いとすゑ)の子に、宗応蔵主(サウス)と云僧」 〔勅修百丈清規‐下・両序〕
  ② (蔵司) 禅宗で、①の居室をいう。蔵司寮。

とある。
 どこの蔵主だったか、磯馴松の古塚に眠っている。ここで七言四句の偈を吟じていたのだろうか。
 四十五句目。

   蔵主の名残見する古塚
 すみ染の夕の月に化狐      志計

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注には狂言『釣狐』だという。ウィキペディアに、

 「猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが、最後はなんとか罠を外して逃げていく。」

とある。ここでは狐は殺されて塚になったのだろう。
 四十六句目。

   すみ染の夕の月に化狐
 深草の露ちる馬の骨       松臼

 墨染と深草の縁は、

   ほりかはのおほきおほいまうち君身まかりにける時に、
   深草の山にをさめてけるのちによみける
 ふかくさののへの桜し心あらば
     ことしばかりはすみそめにさけ
              上野岑雄(古今集)

の歌による。深草も草葉の陰の連想からか、哀傷に詠まれる。
 キツネの化けた墨染僧の哀傷だから、弔うのも馬の骨となる。
 四十七句目。

   深草の露ちる馬の骨
 秋は金たのめしすゑの秤ざほ   卜尺

 秋は五行説では金になる。春=木、夏=火、土用=土、秋=金、冬=水。金生水で秋は露を生じる。
 ここでは金が大事だとばかり、深草の馬の骨を金の重さを量る天秤の棹にする。
 コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「さお秤」の解説」には、

 「中国および日本では、古くはさおに金属を使わず、木、角(つの)、骨などを用いた。」

とある。馬の骨から秤棹の連想は自然だったのだろう。
 四十八句目。

   秋は金たのめしすゑの秤ざほ
 水冷にくむくすり鍋       在色

 水冷は「みづひややか」と読む。前句の天秤を薬の調合に用いるものとする。
 四十九句目。

   水冷にくむくすり鍋
 湯の山や花の下枝のかけ作リ   一朝

 「かけ作り」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「懸造」の解説」に、

 「傾斜地や段状の敷地,あるいは池などへ張り出して建てることを〈懸け造る〉といい,その建物形式を懸造と称する。崖造(がけづくり)ともいう。敷地の低い側では床下の柱や束が下から高く立ち,これに鎌倉時代以降では貫を何段にも通して固めている。平安時代以降,山地に寺院が造られるようになってからのもので,観音霊場に多く,三仏寺投入堂(国宝,鳥取,12世紀)や清水寺本堂(国宝,京都,1633)などがよく知られている。」

とある。湯の山と呼ばれた有馬温泉にも、こうした建物が多かったのだろう。
 前句の「くすり鍋」から温泉療養ということで、花の有馬温泉へ転じる。
 花の有馬温泉といえば、『春の日』の「なら坂や」の巻十八句目に、

   ころびたる木の根に花の鮎とらん
 諷尽せる春の湯の山       旦藁

の句もある。桜の季節の有馬温泉を舞台としたものに、今は廃曲となっている謡曲『鼓瀧』があったという。
 五十句目。

   湯の山や花の下枝のかけ作リ
 宗祇その外うぐひすの声     正友

 湯の山と言えば宗祇、肖柏、宗長による『湯山三吟(ゆのやまさんぎん)』が知られている。延徳三年(一四九ニ年)十月二十日の興行で、発句は、

 うす雪に木葉色こき山路哉    肖柏

 ここでは特にこの三吟ということではなく、大勢の連衆を集めた興行をイメージしたものであろう。宗祇以下の連衆を鶯に喩えるのは、『古今集』仮名序の、

 「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」

による。

2022年3月6日日曜日

 ウクライナに勝利を。世界に平和を。



 今日の写真は二〇一一年八月十一日撮影の、栃木県下都賀郡野木町のひまわり畑。あの日は確か三十五度くらいの暑さで、とにかく暑かった。
 有馬の梅林公園の梅は満開の見ごろになっていた。帰る途中、満開になっている河津桜を見た。沈丁花、コブシなども咲き初め、これから一斉に花が咲きそろいそうだ。
 日本にはいつものように春が来ている。今更の雪にあらずや梅の白。麦秋の空を思えよ春埃。

 それでは引き続き『談林十百韻』から、第二百韻を読んでみようと思う。
 発句は、

 青がらし目をおどろかす有様也  松臼

で、「青がらし」は曲亭馬琴編『増補俳諧歳時記栞草』に、

 「[本朝食鑑]菘(すずな)に似て柔毛あり。葉深青なるものを青芥(あをからし)と云。これ常に用るところの芥(からし)なり、云々。」

とある。カラシナのこと。種を和がらしにする他、葉も食べられる。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一、岩波書店)の注は謡曲『兼平』の、

 「汀に追つつめて磯打つ波の、まくり切り、蜘蛛手十文字に、打ち破り・かけ通つて、その後、自害の手本よとて・太刀を銜へつつ逆様に落ちて、貫ぬかれ失せにけり。兼平 が最期の仕儀目を驚かす有様かな目を驚かす有様かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18679-18687). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。第一百韻に「まくり切り」が出てきたように、有名な場面だったのだろう。
 ここでは青がらしの葉であろう。その辛さに目から涙が出て、それが目を驚かす有様になる。
 脇。

   青がらし目をおどろかす有様也
 礒うつなみのその鮒鱠      卜尺

 前句の兼平のまくり切りの「礒打つ波」で受けて、青がらしに鮒鱠を付ける。
 フナの膾に青がらしの葉を混ぜて、ピリッと辛い酒のつまみの出来上がり。
 第三。

   礒うつなみのその鮒鱠
 客帆の台所ぶねかすみ来て    一鉄

 客帆(かくはん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「客帆」の解説」に、

 「〘名〙 客船の帆。転じて、旅客を乗せる舟。客舟。
  ※本朝無題詩(1162‐64頃)二・詠画障詩〈藤原周光〉「群鶴頻鳴露濃夜、客帆緩過浪閑時」

とある。台所船はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「台所船」の解説」に、

 「〘名〙 船遊びなどの屋形船に付随して料理を作りまかなう小船。厨船(くりやぶね)とも称し、江戸や大坂の川筋での船遊びに多く使われた。また、近世大名の川御座船にも台所御座船と呼ぶ同じ目的のものがあり、これはかなり大型船であった。賄舟(まかないぶね)。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)「磯うつなみのその鮒鱠〈卜尺〉 客帆の台所ふねかすみ来て〈一鉄〉」

とある。礒打つ波に屋形船で鮒鱠を食う。
 四句目。

   客帆の台所ぶねかすみ来て
 小づかひのかねひびく夕暮    一朝

 小使船はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小使船」の解説」に、

 「〘名〙 安宅(あたけ)、関船(せきぶね)などの大型の船に従って走り使いをする小舟。」

とある。安宅も関船も元は軍船だが、「精選版 日本国語大辞典「関船」の解説」には、

 「〘名〙 室町時代、瀬戸内海の主要航路上の港湾を中心に設けられた海関所属の船から転じて、戦国時代から江戸時代にかけて使われた軍船の船型の呼称。安宅船(あたけぶね)より小型で軽快な行動力をもつ快速船で、周囲に防御装甲をもつ矢倉を設け、適宜、弓・鉄砲の狭間(はざま)をあける。安宅船とともに水軍の中心勢力を形成し、慶長一四年(一六〇九)安宅船が禁止されてからは諸藩の水軍の基幹勢力となった。一般に櫓四〇挺立内外のものを中関(なかぜき)と称し、大型のものは八〇挺立前後におよび、諸大名の御座船に使用された。徳川家光が建造した天地丸七六挺立はその代表的なもの。早船ともいい、小型のものを小関船または小早という。〔大内氏掟書‐一〇八~一一五条後書・文明一九年(1487)四月二〇日〕」

とある。この時代なら御座船の使い走りをする小使船であろう。
 前句の台所ぶねを御座船とし、そこに小使船がやって来て夕暮れの鐘を叩く。
 五句目。

   小づかひのかねひびく夕暮
 巾着の尾上に出し月の影     正友

 尾上(をのへ)は山の頂で、前句の小づかひを小遣い銭として、夕暮れの尾上に月が出ると、巾着の小遣い銭の金の音が響く。
 「かねひびく」に尾上は、

 たかさこのをのへのかねのおとすなり
     暁かけて霜やおくらん
              大江匡房(千載集)

などの和歌に詠まれている尾上の鐘の縁になる。
 六句目。

   巾着の尾上に出し月の影
 瑚珀のむかし松の下露      松意

 瑚珀は琥珀と同じ。天然樹脂の化石で、ウィキペディアに「200℃以上に加熱すると、油状の琥珀油に分解され」とあるから、松脂との類似は知られていたのだろう。琥珀が太古の松脂のようなものが化石化したものだという知識が、当時あったかどうかはわからないが、加熱した油脂と松脂の類似で、そういう推測は成り立ったであろう。
 尾上と謡曲『高砂』にも登場する尾上の松が有名で、その松を照らす琥珀のような月を見て、琥珀は元々松の下露に融けた樹脂が固まったものだとする。
 七句目。

   瑚珀のむかし松の下露
 きのふこそ稲葉と見しか塵と変じ 雪柴

 松と言えば、

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる
     まつとしきかば今かへり来む
              在原行平(古今集)

の歌で、稲葉と縁がある。
 前句の琥珀に変じた松は稲葉山の峰に生うる松だった。稲葉の松は、昨日は帰るつもりでいたが、そのまま琥珀になってしまった。
 八句目。

   きのふこそ稲葉と見しか塵と変じ
 ねこだをくみしあとの秋風    在色

 「ねこだ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ねこだ」の解説」に、

 「〘名〙 わらやなわで編んだ大形のむしろ。また、背負袋。ねこ。
  ※俳諧・玉海集(1656)四「ねこたといふ物をとり出てしかせ侍し程に」

 塵となった稲葉を筵袋に詰めて運ぶ。災害の後片付けであろう。悲しい秋風が吹く。
 初裏、九句目。

   ねこだをくみしあとの秋風
 火影立へついの外に飛蛍     志計

 火影というと、

 篝火の火影に見ればますらをは
     たももいとなくこひこくむらし
              源俊頼(夫木抄)

の歌がある。この歌は、

 篝火の火影に見ればますらをは
     たもといとなくあゆこくむらし
              源俊頼(永久百首)

の別バージョンがある。
 前句の「ねこだをくみし」を漁師の魚を詰める姿としたか。火影に蛍をあしらって、夏に転じる。
 十句目。

   火影立へついの外に飛蛍
 でんがくでんがく宇治の川舟   執筆

 宇治の瀬田川の蛍船とする。酒のつまみにと田楽を売りに来る。
 芭蕉は元禄三年の幻住庵滞在の頃、瀬田川の蛍船に乗って、

 蛍見や船頭酔うておぼつかな   芭蕉

の句を詠んでいる。蛍船は川下りの舟で、近江瀬田と宇治を結んでいたのだろう。
 十一句目。

   でんがくでんがく宇治の川舟
 日傭取ともに印をなびかせて   卜尺

 日傭取(ひようとり)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「日傭取り」の解説」に、

 「日傭、日用、日雇(ひやとい)ともいい、日決めの賃稼ぎをいう。江戸時代、主要都市に借屋住いの貧民層として存在し、17世紀後半には在郷町、農村に広がっていった。初期には都市で城郭建築・都市建設のため多数の労働力が必要であり、とくに大名は城郭普請(ふしん)に膨大な日傭を使った。かつて豊臣(とよとみ)秀吉は農民が都市へ賃仕事に出ることを禁じたが、前期にはこうした禁令は各藩でみられる。しかし都市には相当数の日傭が住んでおり、雑多な仕事に従事していた。鳶口(とびぐち)、車力(しゃりき)、米搗(つ)きなども日傭的な性格として把握された。幕府は都市貧民対策として、17世紀中葉には江戸・大坂などで日用頭(かしら)を置いたり、日用座(ざ)を設け、日用札(ふだ)を発行して、彼らを統制した。[脇田 修]」

とある。
 日傭取の田楽売りの立てた幟を、その昔宇治河合戦の時の源氏の白旗に見立てたか。
 十二句目。

   日傭取ともに印をなびかせて
 材木出す山おろしふく      松臼

 材木の出荷の時も日傭取がたくさん集められたのだろう。
 十三句目。

   材木出す山おろしふく
 こもりくの泊瀬の寺の奉加帳   一朝

 奉加帳(ほうがちゃう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奉加帳」の解説」に、

 「① 神仏に奉加する金品の目録や寄進者の氏名などを記した帳簿。
  ※高野山文書‐承安四年(1174)一二月日・高野山住僧等愁状案「仍捧二奉加帳一」
  ※御湯殿上日記‐文明一五年(1483)二月九日「ひてん院のくわんしんほうかちやうつかわさるる」
  ② 転じて、一般の寄付金名簿。
  ※大乗院寺社雑事記‐文正元年(1466)五月一日「河口庄金津道場作事奉伽帳加判了」

とある。奈良の長谷寺の増改築など、寄付を集めて材木を切り出す。
 山おろしと言えば、

 憂かりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
              源俊頼(千載集)

の歌で初瀬との縁がある。
 十四句目。

   こもりくの泊瀬の寺の奉加帳
 檜原を分し僧にて候       一鉄

 初瀬山の檜原というと、

   長月のころ初瀬に詣でける道にてよみ侍りける
 初瀬山夕越え暮れて宿問へば
     三輪の檜原に秋風ぞ吹く
              禅性法師(新古今集)

の歌がある。この歌を本歌とする。「檜原を分し僧」は禅性法師。
 十五句目。

   檜原を分し僧にて候
 淡雪の夕さびしき宿からふ    松意

 檜原に淡雪は、

 まきもくの檜原のいまだ曇らねば
     小松が原に淡雪ぞ降る
              大伴家持(新古今集)

の縁がある。
 これを本歌にした付けで、前句の旅体に「宿からふ」と結ぶ。
 十六句目。

   淡雪の夕さびしき宿からふ
 駒牽とめてたたく柴門      正友

 これも、

 駒とめて袖うちはらふ陰もなし
     佐野のわたりの雪の夕暮
              藤原定家(新古今集)

の縁になる。
 袖うちはらう陰もなしではなく、柴門があって宿が借りられる。有難い話だ。
 十七句目。

   駒牽とめてたたく柴門
 さればこそ琴かきならす遊び者  在色

 王朝時代の雰囲気で、源氏の君のような遊び者が門の向こうから箏の音が聞こえてくるのを聞き止めて、駒を止めて訪ねて行く。「
 「さればこそ琴かきならす」で一度切って「遊び者駒牽とめてたたく柴門」と読んだ方がいい。
 『源氏物語』末摘花巻の源氏の君であろう。「あやしき馬に、かりぎぬすがたのないがしろにてきければ(あやしげな馬に狩衣を無造作に羽織って出かけて)」とあり、末摘花の七弦琴の演奏を聞きに行く。
 十八句目。

   さればこそ琴かきならす遊び者
 膝をまくらに付ざし三盃     雪柴

 まあ、遊郭に行ったらやってみたいことの一つなんだろうね。
 付(つけ)ざしはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「付差」の解説」に、

 「〘名〙 自分が口を付けたものを相手に差し出すこと。吸いさしのきせるや飲みさしの杯を、そのまま相手に与えること。また、そのもの。親愛の気持を表わすものとされ、特に、遊里などで遊女が情の深さを示すしぐさとされた。つけざ。
  ※天理本狂言・花子(室町末‐近世初)「わたくしにくだされい、たべうと申た、これはつけざしがのみたさに申た」

とある。
 十九句目。

   膝をまくらに付ざし三盃
 腕を引漸こころを取直し     松臼

 腕には「かひな」とルビがある。腕引(かひなひき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「腕引」の解説」に、

 「〘名〙 衆道(しゅどう)または男女の間で、その愛情の深さや誓いの固さを示すために腕に刀を引いて血を出すこと。
  ※浄瑠璃・曾我虎が磨(1711頃)傾城十番斬「心中見たい、指切か、かひな引か、入ぼくろか、此きせるのやきがねかと、一もんじにもってかかる」

とある。
 まあ、刀なんて物騒なことだ。お互いの貞節の誓いを確認して、ようやく悋気に高ぶった気持ちも収まり、膝枕で付ざし三杯をもらう。
 遊郭も当時はお金で割り切った関係ではなく、頭に血の昇ってストーカーになった男が、遊女に無理な貞節を要求することも多かった。起請文くらいではすまず、指詰や腕引を要求されることもあった。
 衆道の方も、お寺の方はともかく、血の気の多い武士の衆道は、三角関係で斬り合いになったりすることもあったようだ。西鶴の『男色大鑑』にそういった話がいくつもある。
 二十句目。

   腕を引漸こころを取直し
 口説ののちに見る笑ひ㒵     志計

 打越の膝枕が遊女相手の和解なのに対し、前句を衆道として男っぽく口説の後の笑顔とする。
 昔の女性は笑う時は手を当てて隠したりしたから、笑顔は男という連想ではないかと思う。
 二十一句目。

   口説ののちに見る笑ひ㒵
 さく花の床入いそぐ暮の月    正友

 さく花は桜の花であると同時に「花嫁」の比喩であろう。新婚初夜で「床入(とこいり)を急ぐ。
 口説は過去の罪を告白したりしてもめたのだろう。
 二十二句目。

   さく花の床入いそぐ暮の月
 中腰かけにかすむどらの音    卜尺

 銅鑼は茶室で準備が整ったことを知らせるのに用いる。腰掛も客を待たすのに用いる。コトバンクの「世界大百科事典内の内腰掛の言及」に、

 「…中門を境に外露地と内露地とに分かれる二重露地が整うのは千利休からとも古田織部からともいわれるが,利休時代にはほぼ整っていたとみられる。露地の発展に伴い,外露地には外腰掛,下腹雪隠(したばらせつちん)が,内露地には内腰掛が設けられるようになった。客は外腰掛で連客を待ち合わせて亭主の迎付(むかえつけ)を待ち,内腰掛では中立ちをして再び席入りの合図を待つ。…」

とある。中腰掛はよくわからないが、中門より中の内腰掛のことか。
 茶道ネタの句ということになると、前句の「床入」は、咲く花を床の間に入れて飾るという意味になる。

2022年3月5日土曜日

  今日の写真は二〇一七年四月十六日に山梨県笛吹市で撮影した菜の花と桃の花。桃の産地で、また行って見たいな。



 それでは「されば爰に」の巻の続き、挙句まで。

 名残表、七十九句目。

   先谷ちかき百千鳥なく
 音羽山かすみを分て礼返し    正友

 前句の谷を逢坂山の大谷として音羽山を出す。
 「かすみを分(わけ)て」は、

 山高み霞をわけてちる花を
     雪とやよその人は見るらん
              よみ人しらず(後撰集)

を始めとして和歌に多用される言葉だが、霞を中をかき分けての意味。それを霞を分割して返礼すると転じる。霞の半分を近江に返す。
 八十句目。

   音羽山かすみを分て礼返し
 関のこなたにばさばさあふぎ   松意

 音羽山と言えば逢坂の関で、一方で巨大な団扇でバサバサ扇いで、霞を向こう側に追いやろうとしている。
 八十一句目。

   関のこなたにばさばさあふぎ
 俄ぞりかかる藁屋を命にて    一朝

 逢坂の関の蝉丸であろう。

 世の中はとてもかくても同じこと
     宮も藁屋もはてしなければ
              蝉丸(新古今集)

の歌はよく知られている。謡曲『蝉丸』では目が不自由という理由で出家させられ、逢坂の関に捨て去られるが、それを俄(にはか)出家とする。
 八十二句目。

   俄ぞりかかる藁屋を命にて
 あはれ今年の中に病功      一鉄

 病功を病気の治癒とすると「あはれ」がわからなくなる。病功は病のせいでというくらいの意味か。
 「あはれ今年の」の言い回しは、

 契りおきしさせもが露を命にて
     あはれ今年の秋もいぬめり
              藤原基俊(千載集)

の歌によるもので、「命にてーあはれ今年の」のつながりがそのまま生かされている。これは連歌では「うたてには」と呼ばれる。
 年内にもはや命も危ないというので、俄出家して死後に備える。
 八十三句目。

   あはれ今年の中に病功
 青表紙かさなる山を枕もと    卜尺

 前句の病功を病にかこつけての意味に取り成し、枕元に青表紙本を積み上げ、読書三昧に耽る。この場合の青表紙は仮名草子や浄瑠璃本であろう。
 八十四句目。

   青表紙かさなる山を枕もと
 一ッぷしかたる松の夜あらし   在色

 「一ッぷし」は一節で、浄瑠璃本の一節を語ると、嵐の風に松の一節も語る。
 八十五句目。

   一ッぷしかたる松の夜あらし
 色をふくむ二三の糸の片時雨   雪柴

 前句の「一ッぷし」を弄斎節などの一節として、三線の二の糸、三の糸がなかなか泣かせる。
 八十六句目。

   色をふくむ二三の糸の片時雨
 君が格子によるとなく鹿     正友

 格子は遊郭の張見世の格子であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「張見世」の解説」で、

 「遊女屋の入口わきの、道路に面して特設された部屋に、遊女が盛装して並ぶこと。もとは店先に立って客を引いたものが、座って誘客するために考案された方法であろう。したがって客を誘うための行為であるが、遊客が遊女を選定するのに便利なように、座る位置や衣装で遊女の等級や揚げ代がわかるようになっていた。各遊女屋では上級妓(ぎ)を除く全員が夕方から席について客を待ち、客がなければ夜12時まで並んでいた。江戸吉原では、張見世を見て歩く素見(ひやかし)客が多かった。明治中期から東京ほか地方の遊廓(ゆうかく)でも廃止され、かわりに店頭に肖像写真を掲げた。アムステルダムやハンブルクの「飾り窓の女」は、これの海外現代版である。[原島陽一]」

とある。
 「よるとなく鹿」は「夜と鳴く鹿」と「寄ると無く」とを掛ける。つまり見るだけで素通りする。
 八十七句目。

   君が格子によるとなく鹿
 文使山本さして野辺の秋     志計

 前句を王朝風にして、使いの者に歌などを詠んだ恋文を持たせて、野辺にひっそり暮らす花散里のような女に届けさせる。女の家の辺りでは夜となると鹿が鳴く。
 八十八句目。

   文使山本さして野辺の秋
 衆道のおこり嵯峨の月影     一朝

 前句の野辺を嵯峨野とする。
 嵯峨というと天和三年刊『風流嵯峨紅葉』があるが、著者は山本八左衛門で、前句の「山本」に掛かるから、延宝期に前身となる作品があった可能性がある。
 八十九句目。

   衆道のおこり嵯峨の月影
 追腹やその古塚の女郎花     松臼

 追腹(おひばら)は後を追って腹を切ること。
 寛永十七年の藩主細野主膳切害事件は衆道のトラブルによって起きた当時は有名な事件で、伊丹右京が切腹を命じられ、舟川采女がその後を追ったという。
 九十句目。

   追腹やその古塚の女郎花
 千石の家たてりとおもへば    卜尺

 主君が腹を切れば臣下も追い腹を切るのは、「士は二君に仕えず」の忠義の話として美化されがちだが、臣下も所領を失い困窮するから、現実的な面もある。「たてり」はこの場合は「絶てり」。
 九十一句目。

   千石の家たてりとおもへば
 倹約を守といつぱ手鼻にて    一鉄

 千石を賜り立派な屋敷を建てたが、見栄を張り過ぎたか、倹約を強いられる。鼻紙が勿体ないということで、手鼻をかむ。
 「いつぱ」はよくわからない。一派か一把か。
 九十二句目。

   倹約を守といつぱ手鼻にて
 水風呂よりも寧洗足       松意

 水風呂は今のような湯船のお湯に浸かるタイプの風呂で、この時代はそれまで主流の蒸し風呂と入れ替わる時期だった。
 水風呂は最初はお寺に多かったのだろう。お寺ではまず足を洗うことから。
 名残裏、九十三句目。

   水風呂よりも寧洗足
 旅衣幾日かさねて気むづかし   志計

 長旅では足も汚れる。「気むづかし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「気難」の解説」に、

 「① 気分がすぐれない。うっとうしい。また、何かをするのがわずらわしい。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「水風呂よりも寧洗足〈松意〉 旅衣幾日かさねて気むつかし〈志計〉」
  ※人情本・春色梅美婦禰(1841‐42頃)初「夫とも貴君もお気欝(キムヅカシ)くは明日でもよろしふござゐます」
  ② 自我が強く神経質で、容易に人に同調しない。
  ※人情本・英対暖語(1838)四「客人の中に、寔に気むづかしいお客があって」

とある。①の意味は「むつかし」の古い意味による。
 体がだるくて、何をするのにも億劫だから、足も洗わなくてはならないけど、それより湯船にゆっくり浸かりたい。
 九十四句目。

   旅衣幾日かさねて気むづかし
 その沢のほとりあと付枕     松臼

 「その沢のほとり」は『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』に『伊勢物語』九段とある。

 「三河の国八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもでなれば、橋を八つわたせるよりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木のかげにおり居て」

とあって、あの有名な、

 唐衣きつつ馴にしつましあれば
     はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
              在原業平

に繋がる。
 旅で疲れているのに「かきつはた」の五文字を頭にして歌を詠めなんて、無茶振りされて、八橋を後付けで歌枕にして、この地を有名にしようという魂胆だったか。
 九十五句目。

   その沢のほとりあと付枕
 切どりはにげて野中の朝朗    一朝

 朝朗は「あさぼらけ」。
 「切どり」は切取強盗のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切取強盗」の解説に、

 「〘名〙 (「きりどりごうどう」「きりどりごうとう」とも) 人を切り殺して金品を奪い取ること。また、その人。切取り。
  ※黄表紙・化物太平記(1804)上「きりどりごうどうをなして世をわたりける」

とある。
 前句の付枕を枕付(まくらづけ)のこととしたか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「枕付」の解説」に、

 「〘名〙 死者の枕頭に供えること。また、そのもの。
  ※浄瑠璃・蝉丸(1693頃)五「死人にそなへし枕づけのぐもつ」

とある。
 沢の辺で仲間が切取強盗に斬られ、それを弔う。
 九十六句目。

   切どりはにげて野中の朝朗
 代官殿へひびく松風       雪柴

 切取強盗は捕まらず、代官様も困っている。松風の音が空しい。
 九十七句目。

   代官殿へひびく松風
 つき臼を民のかまどに立ならべ  在色

 前句の「ひびく」を搗き臼の音とする。精米に用いる。
 飢饉か災害の時であろう。代官様の計らいで救援物資として玄米と搗き臼が支給され、その音は代官様の耳にも届くことだろう。
 九十八句目。

   つき臼を民のかまどに立ならべ
 難波の京に大力あり       一鉄

 大力は「だいぢから」とルビがある。力持ちのこと。
 前句から、

   貢物許されて國富めるを御覧じて
 高き屋に登りて見れば煙立つ
     民のかまどはにぎはひにけり
              仁徳天皇御歌(新古今集)

の歌の連想で、舞台を仁徳天皇の時代の難波京(難波高津宮)としたのだろう。
 あの時代に搗き臼を並べたのだから、さぞかし力持ちがいたのだろう。
 九十九句目。

   難波の京に大力あり
 連俳や何を問ても花衣      松意

 前句を難波や京に大きな力を持つ者がいる、としてこれを宗因とする。
 挙句。

   連俳や何を問ても花衣
 一座の崇敬万年の春       正友

 最後は一座感謝をこめて、万歳をことほいで一巻は目出度く終了する。

2022年3月4日金曜日

 鈴呂屋はウクライナの勝利を祈り、ウクライナの完全な独立の確保によるウクライナ・ロシア双方の平和に賛成します。



 今日の写真は二〇二〇年一月十三日に、三浦半島のソレイユの丘で撮影したもの。
 ザポリージャ原発の攻撃はたいしたものでなくて良かった。さすがにロシアも放射能で汚染された人の住めない領土なんて欲しくないだろう。それに本当に原発を爆破するつもりなら、近くの兵を撤収して遠距離から攻撃しないと、見方が巻き添えを食ってしまう。
 ただ、西側の危機意識を煽る効果はある。これを機に反戦運動が盛り上がると、それがいつのまにか「ウクライナは早く降伏しろ」の声に変わってしまう可能性もある。多分ネット工作で、あちこちで平和のためならウクライナを止めろという声を拡散してくるだろう。
 なお、ザポロジエ原発という人がいるが、それはロシア側の呼び方だ。ウクライナ語ではЗапорізька АЕС。
 ロイターが、

 「[4日 ロイター] - ロシア軍の攻撃で火災が発生したと伝えられているウクライナ原子力発電所の表記を「ザポリージャ」から「ザポロジエ」に変更します。
 2022年3月4日
 ロイター編集局」

というメッセージを出しているが、これはロシアの所有になったからという意味か。

 それでは「されば爰に」の巻の続き。

 三表、五十一句目。

   りんきいさかひ春風ぞふく
 大泪そこらあたりの雪消て    志計

 春風に雪消えてが付け合いになり、「りんきいさかひ」に「大泪」と展開する。
 まあ、思い切り泣けば気も晴れるというものだ。
 五十二句目。

   大泪そこらあたりの雪消て
 五十二類や野辺の通ひ路     一朝

 五十二類はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「五十二類」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。涅槃経(ねはんぎょう)序品における、釈迦入滅の際、集まって嘆き悲しんだという、仏弟子以下鳥、獣、虫、魚から毒蛇にいたる五十二種の生きもの。一切の衆生をさしていう語。五十二衆。
  ※保元(1220頃か)上「釈迦如来〈略〉彼の二月中の五日の入滅には、五十二類愁(うれへ)の色を顕し」

とある。
 涅槃会は旧暦二月十五日で、釈迦入滅を悲しむ頃には春も来て、動物たちも通って来る。
 五十三句目。

   五十二類や野辺の通ひ路
 とめ山は下葉しげりて分もなし  松臼

 とめ山はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「留山」の解説」に、

 「御林(おはやし)などと呼ばれた近世の領主林のうち、入山・伐採を厳格に禁止された山林のこと。近世初期の大建設時代、幕藩領主の囲い込んだ優良森林資源は、搬出可能な地域から大量に伐採され、寛文・延宝期(1661~1681)には資源桔渇状況に陥った。また、この時期は山野を対象とした耕地開発も進み、山野の水土保全機能が低下して、本田畑への災害を招くようになった。以後、享保期(1716~1736)頃までに、領主はこうした状況を解消するため、領主林については広く伐採禁止林(留山)を設定して優良森林資源を保護・育成するとともに、水土保全機能の向上に務めた。その結果、領主林からの伐採量は急減し、山元の村々では百姓の稼ぎの場が縮小した。森林資源は徐々に回復するが、伐採規制だけでは不十分であったため、領主林に百姓や地方給人(じかたきゅうにん)・陪臣(ばいしん)などが植林し、その収益を領主と植林者とが一定割合で分ける部分林(ぶわけばやし)制度の導入で、より積極的な資源育成に着手する藩が多かった。[加藤衛拡]
 『農林省山林局編『徳川時代に於ける林野制度の大要』(1954・林野共済会)』▽『所三男著『近世林業史の研究』(1980・吉川弘文館)』」

とある。
 入山禁止の山は柴刈る人も入れずに放置されていて、下葉は茂り放題で、動物たちの天下だ。
 五十四句目。

   とめ山は下葉しげりて分もなし
 爰にあら神千年の松       卜尺

 とめ山を神社の入山を禁じた森として、荒ぶる神の千年の松がある。
 五十五句目。

   爰にあら神千年の松
 要石なんぼほつてもぬけませぬ  松意

 要石は鹿島・香取両神宮にあり、地震を起こす鯰を抑えつけているという。地上に現れているのは小さな石だが、その下は地下の奥深くつながっていると言われている。
 五十六句目。

   要石なんぼほつてもぬけませぬ
 鯰の骨を足にぐつすり      雪柴

 要石はウィキペディアには、

 「江戸時代初期までは、竜蛇が日本列島を取り巻いており、その頭と尾が位置するのが鹿島神宮と香取神宮にあたり、両神宮が頭と尾をそれぞれ要石で押さえつけ、地震を鎮めている、とされた。しかし時代が下り江戸時代後期になると、民間信仰からこの竜蛇がナマズになり、やがてこれが主流になった。」

とある。延宝の頃には既に鯰になっていたようだ。
 鹿島神宮の武甕槌大神が鯰を踏みつけて退治し、要石で封印したというが。踏んだ時に足に鯰の骨が刺さったという話があったのかどうか。知らんけど。
 五十七句目。

   鯰の骨を足にぐつすり
 はきだめに瓢箪一つ候ひき    一鉄

 鯰は古くは鮎の字を当てていて、「瓢鮎図」は画題になっていた。「瓢箪で鯰を抑える」という禅の公案(禅問答)によるという。
 まあ、真理を言葉で言い表すというのは、鯰を瓢箪で捕まえようというようなものだ、ということか。
 この有難い画題を卑俗なゴミ捨て場の情景にして、食べた後の鯰の骨や、それを肴に酒を飲んだ瓢箪が転がっている。うっかり踏むと鯰の骨が足に刺さる。
 五十八句目。

   はきだめに瓢箪一つ候ひき
 肱をまげたるうら店の秋     志計

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注に、『論語』述而篇の、

 「子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。」

と雍也篇の、

 「子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也。」

を引いている。
 掃き溜めのような裏通りに住んで、肱を枕にして瓢箪の水を飲む市隠とする。
 五十九句目。

   肱をまげたるうら店の秋
 薮医者も少工夫のさぢの月    在色

 前句の裏店を薮医者の薬売りとする。
 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は『春秋左氏伝』の「三折肱知為良医」の言葉を引用している。これによる付けであろう。
 医者の使う金属製の匙を月に見立てたか。
 六十句目。

   薮医者も少工夫のさぢの月
 諸方のはじめ冷ておどろく    松臼

 薬を処方したら体温が急速に低下して驚く。
 六十一句目。

   諸方のはじめ冷ておどろく
 其形こりかたまりて今朝の露   正友

 諸方はその文字の通りの意味だと、「あちらこちら」という意味になる。朝の寒さにあちこちに露が降りている驚くということだが、それに国生みの天地の凝り固まりてのイメージを重ねる。
 凝り固まるは科学的には万有引力によるもので、露も天体もそれによって丸くなる。賀茂真淵は朝露の丸くなるのを以て地球も丸いとしたが、古来は沈殿のイメージで上下の座標の固定された平らな大地と考えられていた。
 六十二句目。

   其形こりかたまりて今朝の露
 灰かきのけて見たるあだし野   松意

 化野(あだしの)の露は、

 あだし野の露吹き乱る秋風に
     なびきもあへぬ女郎花かな
              藤原公実(金葉集)
 誰とてもとまるべきかはあだし野の
     草の葉ごとにすがる白露
              西行法師(山家集)

など、歌に詠まれている。前者は秋で、後者は哀傷になる。化野はかつては風葬の地で、江戸時代には火葬場があった。
 ここでは近世の火葬場の哀傷になる。灰になった故人に、辺りの草には露が降りる。
 六十三句目。

   灰かきのけて見たるあだし野
 穴蔵の行衛いかにと忘水     一朝

 忘水はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「忘水」の解説」に、

 「① 野中などを、絶え絶えに流れている水。人に知られないで流れている水。
  ※是則集(平安中)「霧ふかき秋のの風にわすれみつたえまがちなるころにもあるかな」
  ② 残り水。
  ※続春夏秋冬(1906‐07)〈河東碧梧桐選〉春「雀子や盥の底の忘れ水〈楽南〉」

とある。
 前句の火葬の場面に「穴蔵」は墓穴を連想させる。埋められた後は次第に忘れ去られていく。「去るものは日々に疎し」とは『文選』の古詩に由来する言葉で、

 去者日以疎 来者日以親
 出郭門直視 但見丘與墳
 古墓犂為田 松柏催為薪
 白楊多悲風 蕭蕭愁殺人
 思還故里閭 欲還道無因

 去って行った者は日毎に疎くなり、来る者だけが日毎に親しくなって行く。
 町はずれの城門を出て見渡してみても、ただ土をもった墓があるばかり。
 古い墓は耕されて田んぼになり、墓に植えてあった真木も伐採されて薪となる。
 境界の柳には悲しげな風ばかりが吹いて、ショウショウと葉を揺らす音が死にたいくらい物悲しい。
 故郷の入り口をくぐって帰ろうと思っても、そこで落ち着く手だてなどありはしない。

から来ている。
 六十四句目。

   穴蔵の行衛いかにと忘水
 宿がへをせし東路の果      一鉄

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注が引用している通り、

   東に侍りける時都の人に遣しける
 東路の道の冬草茂りあひて
     跡だに見えぬ忘れ水かな
              康資王母(新古今集)

を本歌として「忘水」に「東路」が付く。
 穴蔵に籠って修行していたが、今はどこかへ宿替えしたのだろう。その行方も知れず忘れ水となる。
 三裏、六十五句目。

   宿がへをせし東路の果
 借銭は人のこころの敵となり   卜尺

 前句の「東路の果」を借金取りに追われての逃避行とする。
 六十六句目。

   借銭は人のこころの敵となり
 桓武天皇九代の呑ぬけ      在色

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は謡曲『船弁慶』の、

 「抑もこれは、桓武天皇九代の後胤、平の知盛幽霊なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.74874-74878). Yamatouta e books. Kindle 版. )

を引いている。
 ただ、知盛が大酒飲みだったかどうかはよくわからない。
 『平家物語』には、

 「まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね。
 其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。」

とあるから、「桓武天皇九代の後胤」は平清盛と、その一門全体を表していたか。
 今の時代の酒で借金を拵えて没落する人を、平家の栄華に喩えたと見た方がいいかもしれない。
 六十七句目。

   桓武天皇九代の呑ぬけ
 道外舞塩辛壺とはやされたり   雪柴

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は『平家物語』の殿上闇討の、

 「忠盛御前の召に舞はれければ、人々拍子を替へて伊勢瓶子は醯甕(すがめ)なりけりとぞはやされる。」

を引いている。
 一般に平家(へいけ)と呼ばれるのは伊勢平氏で、「へいし」という音から「瓶子(へいじ)」と揶揄される。ここではその瓶子は酒ではなく酢甕だという。
 前句の平家の大酒飲みから、ここでは酢甕ではなく塩辛壺だと囃す。舞も延宝の頃の流行の「道外舞(だうけまひ)」にする。
 桓武平氏はいくつかの流れがあって、平家とよばれるのは伊勢平氏で、頼朝挙兵の時に頼朝を神輿に載せて担ぎ上げていた坂東武者の多くは、源氏ではなく坂東平氏だった。平氏が平家を打倒したといってもいい。
 六十八句目。

   道外舞塩辛壺とはやされたり
 戸棚をゆらりと飛猫の声     正友

 前句の道外舞を戸棚を跳ぶ猫とする。塩辛壺をひっくり返したか。
 六十九句目。

   戸棚をゆらりと飛猫の声
 恋せしは右衛門といひし見世守リ 志計

 『源氏物語』で柏木と呼び習わされている登場人物は、作中では「衛門督(ゑもんのかみ)の君」という官名で呼ばれている。正確には右衛門督だが、それを「右衛門」というと江戸時代の庶民っぽい。
 柏木というと猫の取り持つ縁で、普段他の人に馴れない猫が、なぜかその人にはなつくというパターンは、今でも時折用いられる。
 ここでは右衛門という江戸時代の青年の物語になり、前句の戸棚から男は店主ということになる。
 七十句目。

   恋せしは右衛門といひし見世守リ
 お町におゐて皆きせるやき    一朝

 「きせるやき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「キセル焼」の解説」に、

 「〘名〙 キセルにつめたタバコの火で肌を焼き、入れぼくろのようにすること。元祿(一六八八‐一七〇四)頃、誓約のしるしとして遊女の間などに行なわれた。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「恋せしは右衛門といひし見世守り〈志計〉 お町におゐて皆きせるやき〈一朝〉」

とある。
 当時の遊女は今日のソープランドのような、金さえ払えば誰でもやれるというものではなかった。
 売春施設というよりは、今日の出会い系に近いもので、男はせっせと通い、相手に気に入られるような文を交わしたり、金をつぎ込んでプレゼントなどをし、遊女に気に入られれば逢うことを許されるというプロセスを必要とした。
 遊女の側からすれば基本的には生活のための売春なのだが、通う男の方の意識としては憧れの遊女と恋仲になるという感情が入ってしまうため、ひとたび遊女と擬制の恋仲になると、客の男が遊女に貞節を要求するという、奇妙なことになっていた。
 もちろん、それは商売上の表向きのもので遊女も生活のためには何人もの客を取らなくてはならないのだが、すっかり頭に血がのぼってストーカーまがいになる客も多く、誓文を書かせたり、指を詰めて忠誠を誓うように要求したりしていた。
 こういう輩に憑りつかれた遊女の苦悩というのも並大抵のものではなかっただろう。遊女の側としては、せいぜい金を使い果たして身を持ち崩し、遊郭に来られなくなるのを願うしかない。
 遊び馴れた人間は、遊女の立場というのもよく理解しているから、こういう無理難題を吹っ掛けたりしないし、誓文なんかも、どうせ客のみんなに配ってるんだろうくらいに思い、本気にしたりはしない。
 煙管焼きというのも、その貞操の誓いの一つだったのだろう。見世守リで金はあるもんだから、何人もの遊女を相手にして、みんなに煙管焼きをするなんて、そうとう嫌な客だったのだろう。まあ野暮だから俳諧のネタにもなる。
 今日では煙草の火を肌に押し付ける「根性焼き」というのが、リンチの一つのやり方として残っている。
 七十一句目。

   お町におゐて皆きせるやき
 起請文既に宿老筆取にて     松臼

 起請文は誓文のこと。遊女の起請文も一々自分で書くものではなく、宿老が代筆していたのだろう。
 七十二句目。

   起請文既に宿老筆取にて
 今度の訴訟白洲をまくら     卜尺

 前句の起請文を裁判の時の宣誓の書類とする。宿老に代筆してもらう。
 白洲は「お白洲」で、ウィキペディアに、

 「お白洲(おしらす)は、江戸時代の奉行所など訴訟機関における法廷が置かれた場所。」

とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「白州・白洲」の解説」には、

 「⑥ (白い砂が敷かれていたところからいう) 江戸時代、奉行所の法廷の一部。当時は身分により出廷者の座席に段階が設けられており、ここは百姓、町人をはじめ町医師、足軽、中間、浪人などが着席した最下等の場所。砂利(じゃり)。
  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)四「夜中同じ事を百たびもおしへて又其朝もいひ聞せて両方御白洲(シラス)に出ける」
  ⑦ (⑥から転じて) 訴訟を裁断したり、罪人を取り調べたりした所。奉行所。裁判所。法廷。
  ※虎明本狂言・昆布柿(室町末‐近世初)「さやうの事は、此奏者はぐどんな者で、申上る事はならぬほどに、汝らが、お白砂(シラス)へまいって直に申上い」

とある。
 「まくら」は頭に敷くものということで、起請文の提出を裁判の初め(枕)とする。
 七十三句目。

   今度の訴訟白洲をまくら
 網引場月の出はには西にあり   松意

 前句の白洲を海岸の白浜とし、網引場の月を添える。海辺で白洲に寝ころびながら、今度の訴訟のことを思う。
 七十四句目。

   網引場月の出はには西にあり
 木仏汚す蠣がらの露       雪柴

 月は西にということで西方浄土の象徴とし、木仏を出す。網引場の木仏だから、蠣(かき)の殻がへばりついている。
 七十五句目。

   木仏汚す蠣がらの露
 秋風をいたむ小寺の方庇     一鉄

 木仏に小寺を付け、前句の「蠣がら」を牡蠣殻葺きの屋根とする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「牡蠣殻葺」の解説」に、

 「〘名〙 牡蠣殻を屋根の上に一面に敷き並べること。また、その屋根。飛び火などによる火災を防ぐために行なった。牡蠣殻屋根。〔禁令考‐前集・第四・巻三七・享保一〇年(1725)三月〕」

とある。
 庇に秋風は、

 人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風
              藤原良経(新古今集)

を本歌として、荒れた小寺の方庇とする。
 七十六句目。

   秋風をいたむ小寺の方庇
 新発心寒く成まさるらん     志計

 新発心(しんぼち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「新発意・新発」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。
  ① 新たに発心して仏道にはいること。また、その人。新たに出家した者。特に、武家などの出家した者をさすこともある。初発心。今道心。青道心。しんぼっち。
  ※法華義疏(7C前)一「六地以還、不レ宜レ明二新発一、而其不レ能三体二解如来実智之理一。皆是一種無レ異故。皆称二新発一」
  ※浮世草子・好色五人女(1686)四「跡は七十に余りし庫裏姥ひとり十二三なる新発意(シンボチ)壱人」
  ② 真宗で寺のあとつぎをいう。
  [語誌]シンボチとよむのが一般的であるが、「源氏物語」などには撥音無表記により「しぼち」とあり、また、「文明本節用集」に「シンホツイ」、「明応本節用集」に「シホツイ」、「黒本本節用集」に「シンボチイ」と見える。これに対し、「節用集大全」(一六八〇)に「シンボチ」「シンボチイ」の両形、「広益二行節用集」(一六八六)に「シンボチ」、「書言字考節用集‐四」(一七一七)に「シンボチ」が認められ、元祿に入って刊行された節用集以降は、ほぼシンボチに定着していくようである。」

とある。
 前句の「いたむ」を悼むとして、親しき人の死をきっかけに発心したのであろう。まだ寺での生活に慣れず、心まで寒くなる。
 七十七句目。

   新発心寒く成まさるらん
 久堅の天狗のわるさ花の雪    在色

 山の天狗が桜の花の散るのを本物の雪に変えてしまい、山寺の新発心は寒い思いをする。
 花はよく雪に喩えられ、雪もまた花にたとえられる。
 七十八句目。

   久堅の天狗のわるさ花の雪
 先谷ちかき百千鳥なく      松臼

 百千鳥は古今伝授三鳥の一つとされる謎の鳥で、鶯とも、不特定な沢山の鳥とも言われている。春に詠むことが多い。
 花の雪に百千鳥というと、

 百千鳥木づたひ散らす桜花
     いづれの春か来つつ見ざらむ
              紀貫之(貫之集)

だろうか。桜の花が雪のように散るのを天狗の悪さかと思ったが、実は百千鳥の仕業だった。

2022年3月3日木曜日

  


 写真は南相馬の菜の花畑で、二〇一九年五月二日に撮影されたもの。Haspydの「Рідна земля」のジャケットのイメージで張ってみた。
 南相馬も福島第一原発に近い所で、ウクライナのチェルノブイリに重なるものがある。
 今まではテキストのみのブログにこだわってきたけど、これからは日本の風景なんかも紹介していこうかな。焼け野原にならなければね。
 尾田栄一郎さんの『ONE PIECE』で、Dr.くれはがチョッパーに言った言葉をふと思い出した。

 「いいかい 優しいだけじゃ人は救えないんだ!!人の命を救いたきゃそれなりの知識と医術を身につけな!腕がなけりゃ誰一人救えないんだよ!!!」

 同じことで、平和を愛するだけじゃ、戦争を終わらせることはできないどころか、かえってデマを信じたりすると虐殺に加担することになる。難しいものだ。

 それでは「されば爰に」の巻の続き。

 二表、二十三句目。

   小知をすてて帰る雁金
 欠鞍の春やむかしに墨衣     在色

 『荘子』に「大知は閑閑たり、小知は間間たり」の言葉がある。雁を大知の鵬に見立てて、我も小知を捨てて、仏の大知に従い悠々と暮らそうと、馬に鞍を掛けて軍に赴いていたのも昔のこと、今は出家して僧になった、とする。
 「春やむかし」というと、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
              在原業平(古今集)

だが。
 二十四句目。

   欠鞍の春やむかしに墨衣
 いで其時の鉢ひらきにぞ     松臼

 「鉢ひらき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鉢開」の解説」に、

 「① 鉢の使いはじめ。
  ※咄本・醒睡笑(1628)七「今日の振舞は、ただ亭主の鉢びらきにて候」
  ② 鉢を持った僧形の乞食。女の乞食を鉢開婆・鉢婆という。鉢坊主。乞食坊主。」

とある。
 前句を逆にして、今は馬に乗っているが昔ははっち坊主だったとする。
 「いで其」というと、

 有馬山猪名の笹原風吹けば
     いでそよ人を忘れやはする
              大弐三位(後拾遺集)

の歌を連想させる。あの時のはっち坊主をどうして忘れることができよう。
 二十五句目。

   いで其時の鉢ひらきにぞ
 去間衆生済渡の辻談義      正友

 衆生済渡(しゅじゃうさいど)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「衆生済度」の解説」に、

 「〘名〙 仏語。衆生を迷いの苦しみから救って悟りの境地へ導くこと。
  ※三国伝記(1407‐46頃か)七「衆生済度の方便は慈悲を以て為レ始」

とある。
 あの時辻説法をして喜捨を集めていたお前か。
 二十六句目。

   去間衆生済渡の辻談義
 三千世界からかさ一本      松意

 三千世界はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「三千世界」の解説」に、

 「仏教の世界観による全宇宙のこと。三千大千世界の略。われわれの住む所は須弥山(しゅみせん)を中心とし、その周りに四大州があり、さらにその周りに九山八海があるとされ、これを一つの小世界という。小世界は、下は風輪から、上は色(しき)界の初禅天(しょぜんてん)(六欲天の上にある四禅天のひとつ)まで、左右の大きさは鉄囲山(てっちせん)の囲む範囲である。この一小世界を1000集めたのが一つの小千世界であり、この小千世界を1000集めたのが一つの中千世界であり、この中千世界を1000集めたのが一つの大千世界である。その広さ、生成、破壊はすべて第四禅天に同じである。この大千世界は、小・中・大の3種の千世界からできているので三千世界とよばれるのである。先の説明でわかるように、3000の世界の意ではなく、1000の3乗(1000×1000×1000)、すなわち10億の世界を意味する。[高橋 壯]
 『定方晟著『須弥山と極楽』(1973・講談社)』」

とある。とにかくでかい物で、辻談義の僧は大きな話をしているけど、そういう自分はしがない乞食で、住む家もなく、唐傘一本で雨露を凌いでいる。
 二十七句目。

   三千世界からかさ一本
 ふんぎつて樹下石上をめくら飛  一朝

 窮地に追い込まれ、観音助け給えとばかりに唐傘一本を落下傘のようにして飛び降りたのだろう。その後どうなったか。
 二十八句目。

   ふんぎつて樹下石上をめくら飛
 子どもがまなぶ吉野忠信     一鉄

 吉野忠信は源義経の家臣の佐藤忠信のこと。ウィキペディアに、

 「室町時代初期に書かれた『義経記』での忠信は、義経の囮となって吉野から一人都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物の一人となっている。義経記の名場面から、歌舞伎もしくは人形浄瑠璃の演目として名高い『義経千本桜』の「狐忠信」こと「源九郎狐」のモデルになった。
 継信・忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めんとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載された。」

とある。芭蕉が『奥の細道』の旅で佐藤庄司の旧跡を訪れているが、その佐藤庄司の息子。
 子供の教育のために忠信兄弟の妻たちの話をしても、子供の頭の中では忠信というと『義経記』の吉野合戦で奮戦する忠信の、

 「彼処にて死にたらば、自害したりと言はれんと思ひて、草摺掴んで、磐石へ向ひて、えい声を出して跳ねたりけり。二丈許り飛び落ちて、岩の間に足踏み直し、兜の錏押しのけて見れば、覚範も谷を覗きてぞ立ちたりける。「まさなく見えさせ給ふかや。返し合ひ給へや。君の御供とだに思ひ参らせ候はば、西は西海の博多の津、北は北山、佐渡の島、東は蝦夷の千島までも、御供申さんずるぞ」と申しも果てず、えい声を出して跳ねたりけり。」

の場面の方だ。古浄瑠璃でもこの場面は隋一の見せ場になる。庭で真似して飛び回る姿が浮かんでくる。
 二十九句目。

   子どもがまなぶ吉野忠信
 草双紙よりより是を窓の雪    卜尺

 古浄瑠璃をノベライズした浄瑠璃本は寛文・延宝の頃は大人気で、当時の子どもたちも夢中で読んだ。蛍の光窓の雪で熱心に勉強してるかと思ったが、というネタで、昭和の頃のオヤジが漫画を読む子供を見るような感覚だ。
 翌延宝四年春の「梅の風」の巻九十句目に、

   朝より庭訓今川童子教
 さてこなたには二条喜右衛門   桃青

の句があるが、二条喜右衛門は浄瑠璃本を多数出版していた人で、ネタとしては似ているが、浄瑠璃本を揶揄する調子はここにはない。
 新しい文化を肯定するか否定するかで、卜尺と桃青との間にはギャップがあったのだろう。卜尺はいろんな意味でオヤジ臭く、そのあたりの感性の差で其角や杉風のようにはなれなかった。
 三十句目。

   草双紙よりより是を窓の雪
 風腰張をやぶる柴垣       在色

 腰張(こしばり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「腰張」の解説」に、

 「① 壁や襖(ふすま)の下半部に紙や布を張ること。また、その場所やそこに張ったもの。
  ※茶伝集‐一一(古事類苑・遊戯九)「一腰張の事、湊紙ふつくり、其長にて張も吉、〈略〉狭き座敷は腰張高きが能也」
  ② (見終わると壁などに張られたところから) 芝居などの番付表。
  ※雑俳・柳多留‐二一(1786)「こしばりをはかまはおりてくばる也」
  ③ 腰の力。好色であること。
  ④ =こしばりぐら(腰張鞍)〔色葉字類抄(1177‐81)〕」

とある。元禄二年の『山中三吟評語』によると、九句目の、

   遊女四五人田舎わたらひ
 落書に恋しき君が名もありて   芭蕉

の句には「こしはりに恋しき君が名もありて」の初案があったという。宿では掲示板代わりに用いられていたようだ。
 前句を雪の中の廃墟と化した家として、風が腰張を破るとする。『源氏物語』蓬生の、

 「霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて、ほかには消ゆる間もあるを、朝日、夕日をふせぐ蓬葎の蔭に深う積もりて、越の白山思ひやらるる雪のうちに、出で入る下人だになくて、つれづれと眺め給ふ。」
 (十一月になると雪や霰が時折降って、余所では所々融けているのに、朝日や夕日を遮る蓬や葎の陰に深く積ったまま、越中白山を思わせるような雪の中には出入りする下人すらいなくなって、ただぼんやりと眺めていました。)

のイメージもあるのかもしれない。
 三十一句目。

   風腰張をやぶる柴垣
 ゑりうすき衣かたしくす浪人   雪柴

 前句をさもしい牢人の家とする。「衣かたしく」は、

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
     衣かたしきひとりかも寝む
              藤原良経(新古今集)

の歌を思い起こさせる。
 三十二句目。

   ゑりうすき衣かたしくす浪人
 住持のやつかい小筵の月     正友

 小筵は「さむしろ」で、藤原良経の歌を本歌として寺の居候とする。
 三十三句目。

   住持のやつかい小筵の月
 山門の破損に秋やいたるらん   志計

 山門が破損したので小筵で応急修理をする。
 三十四句目。

   山門の破損に秋やいたるらん
 手代にまかせをけるしら露    一朝

 手代も多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手代」の解説」には、

 「① 人の代理をすること。また、その人。てがわり。
  ※御堂関白記‐寛弘六年(1009)九月一一日「僧正奉仕御修善、手代僧進円不云案内」
  ※満済准后日記‐正長二年(1429)七月一九日「於仙洞理覚院尊順僧正五大尊合行法勤修云々。如意寺准后為二手代一参住云々」
  ② 江戸時代、郡代・代官に属し、その指揮をうけ、年貢徴収、普請、警察、裁判など民政一般をつかさどった小吏。同じ郡代・代官の下僚の手付(てつき)と職務内容は異ならないが、手付が幕臣であったのに対し、農民から採用された。
  ※随筆・折たく柴の記(1716頃)中「御代官所の手代などいふものの、私にせし所あるが故なるべし」
  ③ 江戸幕府の小吏。御蔵奉行、作事奉行、小普請奉行、林奉行、漆奉行、書替奉行、畳奉行、材木石奉行、闕所物奉行、川船改役、大坂破損奉行などに属し、雑役に従ったもの。
  ※御触書寛保集成‐一八・正徳三年(1713)七月「諸組与力、同心、手代等明き有之節」
  ④ 江戸時代、諸藩におかれた小吏。
  ※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)七月二三日「其切手・てたいの書付、川井嘉兵へに有」
  ⑤ 商家で番頭と丁稚(でっち)との間に位する使用人。奉公して一〇年ぐらいでなった。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「宇治の茶師の手代(テタイ)めきて、かかる見る目は違はじ」
  ⑥ 商業使用人の一つ。番頭とならんで、営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。〔英和記簿法字類(1878)〕
  ⑦ 江戸時代、劇場の仕切場(しきりば)に詰め、帳元の指揮をうけ会計事務をつかさどったもの。〔劇場新話(1804‐09頃)〕」

と、いろいろな手代がいる。下っ端だけどある程度の権限を握っている、という感じがする。いかにも横領とかしてそうな、というイメージがあったのだろう。
 三十五句目。

   手代にまかせをけるしら露
 御祓に伊勢の浜荻声そへて    松意

 「伊勢の浜荻」は「難波の芦」ともいう。
 商売の方は手代に任せて伊勢参りに行くが、その手代がどうも心細い。御祓いをしても荻ならぬ芦の上風の寒々とした声がする。
 三十六句目。

   御祓に伊勢の浜荻声そへて
 上荷をはねる大淀の舟      卜尺

 上荷(うはに)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「上荷」の解説」に、

 「① 馬などの積み荷のうち、上に積み重ねたもの。
  ※万葉(8C後)五・八九七「ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと 云ふ事の如(ごと)」
  ② 車馬または船などの積み荷。上荷物。
  ※俳諧・大坂独吟集(1675)上「秋の海浅瀬は西に有と申 上荷とるらし彼岸の舟〈素玄〉」
  ③ 「うわにぶね(上荷船)」の略。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)一「上荷(ウハニ)茶船かぎりもなく川浪に浮ひしは」

とある。
 この場合は②でいいと思う。「はねる」は横にはねておくということで、御祓いをするため、一時的に荷物を余所にやる。
 伊勢の浜荻は「難波の芦」ということで、淀川の芦の生えている荷下ろし場の風景とする。
 二裏、三十七句目。

   上荷をはねる大淀の舟
 生肴五分一わけて帰る波     松意

 ここでは③の方の上荷船になる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「上荷船」の解説」に、

 「〘名〙 大型廻船の荷物の積みおろしをするために使われた喫水の浅い荷船。瀬取船、茶船と同じで、二〇石積みから四〇石積みがふつうだが、所により大きさ、船型に多少の相違がある。うわに。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「これ天のあたへと喜びくだきて、上荷舟にて取よせ」

とある。積荷の生魚を五隻に分けて運び出す。
 三十八句目。

   生肴五分一わけて帰る波
 すでに城下の明ぼのの風     雪柴

 城下町で魚を売る魚屋であろう。漁船が付くと、その五分の一を分けてもらって、これから売り歩く。
 三十九句目。

   すでに城下の明ぼのの風
 つき鐘に夢を残して代番     一鉄

 代番(かはりばん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「代番・替番」の解説」に、

 「① 互いにかわりあって事をすること。交替でつとめること。順番。かわりばんこ。
  ※俳諧・生玉万句(1673)「十五日つつ東風(こち)かせ恋風〈正察〉 かはり番余所目の関や霞むらん〈昌忠〉」
  ② 交替で当たる番。また、それに当たっていること。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「すでに城下の明ぼのの風〈雪柴〉 つき鐘に夢を残して代番〈一鉄〉」

とある。
 明け方からシフトに入る人が、まだ半分眠ったような状態で夜明けの鐘の音を聞く。
 つき鐘は撞木 (しゅもく) でついて鳴らす鐘で、お寺の梵鐘をいう。
 四十句目。

   つき鐘に夢を残して代番
 あかぬ別に申万日        志計

 万日(まんにち)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「万日」の解説」に、

 「① 万の日数、また、多くの日数。
  ② =まんにちえこう(万日回向)
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「つき鐘に夢を残して代番〈一鉄〉 あかぬ別に申万日〈志計〉」

とある。万日回向はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「万日回向」の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、一日参詣すると万日分の功徳に値するとされた特定の日。また、その日の法会。浄土宗の寺院に多く行なわれた。万日。
  ※咄本・軽口露がはなし(1691)三「夫婦づれにて百万辺の万日ゑかうに参るとて」

とある。
 「あかぬ別(わかれ)」は、

 きぬぎぬのあかぬ別れにまたねして
     夢の名残をなげきそへつる
              小倉公雄(新千載集)

が本歌か。後朝の後に二度寝して、その夢に愛しい人が出てきて悲しいという歌だが、ここでは今日は万日回向なので代番を残して行ってしまう、という意味になる。
 四十一句目。

   あかぬ別に申万日
 移り香の袖もか様に葉抹香    在色

 葉抹香(はまつかう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「葉抹香」の解説」に、

 「① 安物の香。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「あかぬ別に申万日〈志計〉 移り香の袖もか様に葉抹香〈在色〉」
  ② 葉のついた樒(しきみ)。
  ※俳諧・富士石(1679)「山青し嵐も霞む葉抹香〈等躬〉」

とある。
 万日回向だと言って行ってしまったあの人は、袖に移った香も安っぽい。
 四十二句目。

   移り香の袖もか様に葉抹香
 思ひつもりて瘡頭かく      松臼

 瘡頭(かさあたま)は「かさがしら」と同じで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「瘡頭」の解説」に、

 「〘名〙 おできのできている頭。かさあたま。
  ※御伽草子・高野物語(室町末)「かさがしらそり、此御山にてもはや三十よねんに成候」
  ※譬喩尽(1786)二「瘡頭(カサガシラ)掻乱(かきみだ)したやうな」

とある。葉抹香も瘡頭も貧乏臭い。貧乏人の恋。
 四十三句目。

   思ひつもりて瘡頭かく
 百とせの姥となりたる道の者   正友

 謡曲『卒塔婆小町』であろう。

 「今は民間賤のめにさへきたなまれ、諸人に恥をさらし、嬉しからざる月日身に積もつて、百年の姥となりてさむらふ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.43173-43178). Yamatouta e books. Kindle 版.)

とある。道は和歌の道。
 四十四句目。

    百とせの姥となりたる道の者
 むばらからたちすゑのはたご屋  松意

 「むばら」はイバラのこと。
 「むばらからたち」は『伊勢物語』六十三段に、

 「百年に一年たらぬつくも髪
     われを恋ふらしおもかげに見ゆ

とて、いで立つ気色を見て、うばらからたちにかかりて、家にきてうちふせり。」

とある。元ネタは在原業平はたとえ九十九の婆さんでも分け隔てなく相手するというものだが、ここでは旅籠屋の娼婦として、九十九の婆さんが出て来る。
 老いた娼婦でも相手をするのが色道を究めた本当の遊び人というものだ。
 四十五句目。

   むばらからたちすゑのはたご屋
 用心は残る所も候はず      一朝

 イバラもカラタチも棘があるので、人の侵入を防ぐ効果がある。イバラとカラタチに守られた旅籠屋は、防犯意識が高い。
 四十六句目。

   用心は残る所も候はず
 風やふきけす有明の月      一鉄

 火の用心ということか。月まで吹き消すなんて、やり過ぎだしシュールだ。
 四十七句目。

   風やふきけす有明の月
 扨こそな枕をまたく虫の声    卜尺

 前句の「有明」を有明行燈のこととする。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「有明行灯」の解説」に、

 「座敷行灯の一種。江戸時代、寝室の枕(まくら)元において終夜ともし続けた。構造は小形立方体の手提げ行灯で、火袋または箱蓋(はこぶた)の側板が三日月形や満月形などに切り抜かれていて、書見、就寝などのとき灯火の明るさを調節できるようになっている。黒や朱で塗り上げた風雅なもの。[宮本瑞夫]」

とある。
 風が行燈の火を吹き消して暗くなると、コオロギなど部屋に入って来て枕の辺りで鳴く。
 四十八句目。

   扨こそな枕をまたく虫の声
 童子が好む秋なすの皮      在色

 虫が寄ってくるのは、子供が秋茄子を勝手に食って、その皮を枕の辺りに捨てたからだ。
 今は茄子の嫌いな子が多いが、昔は茄子も子供にとってのご馳走だったのだろう。この時代の焼きナスは自分の手で向いて、手掴みで食べていたか。
 四十九句目。

   童子が好む秋なすの皮
 花嫁を中につかんでかせ所帯   雪柴

 「花嫁」は無季で非植物だが貞門・談林では正花として扱う。蕉門は基本的に花の定座は春、植物、木類の花に限られ、桜と限定できない譬喩の花でも春、植物、木類として扱う。
 「かせ所帯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「悴所帯」の解説」に、

 「〘名〙 貧乏所帯。貧乏暮らし。貧しい生活。かせせたい。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「童子が好む秋なすの皮〈在色〉 花娵(はなよめ)を中につかんでかせ所帯〈雪柴〉」
  ※浄瑠璃・双生隅田川(1720)三「あるかなきかのかせ所帯(ショタイ)、妻は手づまの賃仕事(しごと)」

とある。
 子供にはご馳走とはいえ、茄子はやはり貧乏人の食い物で、花嫁も子供と一緒になって茄子を掴んで食べる。
 「秋茄子は嫁に食わすな」とはいうが、悴所帯ではほかに食うものもあるまい。良家では食わすなということか。ひょっとしたら「秋茄子は嫁に食わすな」は、うちではそんな貧乏臭いものは食わないという見栄だったのかもしれない。
 五十句目。

   花嫁を中につかんでかせ所帯
 りんきいさかひ春風ぞふく    正友

 貧乏な家では親や兄弟が狭い部屋に同居していて、そんなところに花嫁がいると、手を出しただの出さないだの、いさかいのもとになる。

2022年3月2日水曜日

 ロシアの誤算はウクライナが平和ボケしてなくて、銃を持って戦う勇気があったことと、あと想像以上に自軍の戦意が低かったことかな。大義名分のない侵略戦争に嫌気がさしたのは、日本も昔経験したからわかる。
 まあ、まだ戦況は予断を許さないが、この調子じゃ少なくともロシア国営通信の言う「我々の目の前で新たな世界が生まれている」は無理だろう。首都制圧したとしてもゲリラ的に戦闘が続けば、泥沼化は避けられない。
 どっちにしても悲惨なことには変わりない。ウクライナがあっさり降伏してロシアの支配が確定すれば、戦線はヨーロッパ全土に拡大する危険がある。今はウクライナの勝利を祈るしかない。ウクライナの切り捨ては、やはり愚策だった。
 はっきり言ってしまえば、我々が悲惨なことにならないために、ウクライナ人にすべての悲惨を押し付けてしまったんだ。
 まあ、世界中の左翼パヨチンに言いたいが、プロレタリア独裁なんて野蛮な考えは捨て、独裁政治は悲惨な結果しかもたらさないと知るべきだ。革命なしで民主主義体制のもとで、共に持続可能資本主義(新しい資本主義)を作ろうではないか。地球環境の問題は待ったなしだ。分断して争っている余裕はない。
 あと、鈴呂屋書庫「宗長『宗祇終焉記』を読む」をアップしたのでよろしく。

 それでは発句はこの辺にして、春の俳諧を読んでみようと思う。芭蕉の参加したものは一通り読んでしまったので、この辺で『談林十百韻(とっぴゃくいん)』に挑戦してみようかと思う。松意編延宝三年刊。宗因が江戸に来た時に巻かれた百韻十巻を収めている。
 延宝三年というと、五月には芭蕉(当時の桃青)の参加した「いと涼しき」の巻も巻かれている。
 その第一百韻の発句は、談林の名を広く江戸に知らしめたとされている。
 なお、テキストは岩波書店の『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(森川昭、加藤定彦、乾裕幸校注、一九九一)を用いる。

 されば爰に談林の木あり梅の花  宗因

 宗因は「梅翁」とも呼ばれていることを考えれば、ここに談林に同調する俳諧師たちが集まり、宗因流の花を咲かせている、と高らかに宣言した句と見て間違いない。
 脇。

   されば爰に談林の木あり梅の花
 世俗眠をさますうぐひす     雪柴

 談林の俳諧は世俗大衆の目が覚めるような斬新なもので、正月の梅に花に目出度さを添える鶯のように、今新しい年(時代)が始まる。
 第三。

   世俗眠をさますうぐひす
 朝霞たばこの烟よこおれて    在色

 第三は発句のメッセージから離れる。
 世俗の人の眠りから覚める情景とする。「よこおれ」は「横ほる」で横たわることを言う。寝覚めの一服の煙草の煙が春の霞のように部屋に横たわる。
 「横ほる」は用例は少ないが雅語で、

 東路やよこほる山にふせるなり
     さやにも見はや古郷の夢
              正徹(草魂集)
 月まてと雲もよこほるかひかねに
     光さきたつ秋の白雪
              同

など、歌に用いられている。
 四句目。

   朝霞たばこの烟よこおれて
 駕籠かき過るあとの山風     一鉄

 前句を旅宿の朝として、旅発つ人の駕籠が一通り通り過ぎると、後にはただ風が吹いているだけ。静かになる。
 五句目。

   駕籠かき過るあとの山風
 ながむれば供鑓つづく峰の松   正友

 前句の駕籠を大名行列の駕籠として、あとから鑓持ちが続く。山風に峰の松が付く。
 六句目。

   ながむれば供鑓つづく峰の松
 追手にちかきかけはしの月    志計

 「追手」は大手門のこと。鑓持ち達が大手門の前の橋を渡ると、既に宵の月が昇っている。
 七句目。

   追手にちかきかけはしの月
 小男鹿や藁人形におそるらん   一朝

 藁人形と言えば楠正成の有名なはかり事で、千早城を防衛するために城の前に鎧を着せた藁人形を配置し、城を出たと見せかけて、敵が藁人形に群がるとそこに石垣の上から石を落としたという。
 月明りでは藁人形も本物の軍勢に見えてしまう。それを小男鹿どもが恐れたのだろうか。
 秋の季語が必要なので、敵の軍勢を小男鹿に喩える。
 八句目。

   小男鹿や藁人形におそるらん
 五色の紙に萩の下露       松臼

 五色の紙は御幣(ごへい)のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「御幣」の解説」に、

 「金、銀、白色、五色などの紙垂(しで)を幣串(へいぐし)に挿(はさ)んだもの。幣(ぬさ)、幣束を敬っていった語で、神前に用いる。串に挿む紙垂は、もとは四角形の紙を用いたが、のちには、その下方両側に、紙を裁って折った紙垂を付すようになり、さらに後世には紙垂を直接串に挿むようになった。紙垂の様式には、白川家、吉田家その他の諸流がある。また、御幣、幣、幣帛と書いて、いずれも「みてぐら」と読む。語義は、(1)手に持って捧(ささ)げることの御手座(みてくら)、(2)絹織物である御妙座(みたえくら)、(3)どっさりと供えることの充座(みてくら)、などの諸説があるが、いずれも神への奉り物の意である。したがって、御幣(ごへい)ももとは神への奉り物であったが、のちには神が憑依(ひょうい)する依代(よりしろ)として、あるいは神体として祀(まつ)られるようになった。そこで、土地により、歳徳神(としとくじん)、水神(すいじん)、山神(さんじん)、その他それぞれ神によって、紙の裁ち方や折り方など、さまざまの様式がある。なお、五色の場合は、青黄赤白黒の5色だが、黒のかわりに紫が用いられることが多い。[沼部春友]」

とある。
 魔物を追払うための五色の紙だが、庭や畑を荒らしに来た小男鹿がそれを恐れるだろうか。「らん」は反語に取り成される。萩の下露は涙の比喩。談林のお約束。
 初裏、九句目。

   五色の紙に萩の下露
 星合の歌を吟ずる夕の風     卜尺

 ここで芭蕉さんのお世話になった小沢さんの登場。この次は編者の松意で、次が執筆だから事実上の末席と言っていいだろう。
 星合は七夕で、前句の五色の紙を七夕の儀式とし、願い事を和歌にして捧げる。
 十句目。

   星合の歌を吟ずる夕の風
 頭をかたぶけて水銀茶碗     松意

 水銀茶碗は辰砂を釉薬に使った赤みのある茶碗のことであろう。実際に水銀を使うわけではなく、硫化水銀の結晶の色に似ている所からこの名前があるという。
 前句を数寄者の集まりとして、歌を吟じ水銀茶碗で茶を飲む。「頭(づ)をかたぶけて」というところに、茶道のうやうやしさが感じられる。「結構なお点前で」というところだろう。
 十一句目。

   頭をかたぶけて水銀茶碗
 香薷散召上られて御覧ぜよ    執筆

 香薷散(かうじゅさん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「香薷散」の解説」に、

 「〘名〙 陰干しにしたナギナタコウジュの粉末で作る薬。暑気払いの薬。江戸時代には、霍乱(かくらん)の薬として、旅行者の多くがこれを携行した。《季・夏》
  ※言継卿記‐天文一三年(1544)六月一七日「右衛門佐今朝香薷散所望之間聊持向、同麝香丸〈一貝〉遣之」

とある。
 金持ちの偉い人は香薷散を飲むのにも水銀茶碗を使う。あるいは水銀茶碗を売りに来た商人が、薬を飲むのに用いてはいかがですかと勧める場面か。
 十二句目。

   香薷散召上られて御覧ぜよ
 なふなふ旅人三伏の夏      在色

 三伏(さんぷく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「三伏」の解説」に、

 「〘名〙 (「さんぶく」とも。「伏」は火気を恐れて金気が伏蔵する日の意)
  ① 一般には、夏至後の第三庚(かのえ)を初伏、第四の庚を中伏、立秋後初めての庚を末伏といい、その初中末の伏の称。五行思想で夏は火に、秋は金に当たるところから、夏至から立秋にかけては、秋の金気が盛り上がろうとして夏の火気におさえられ、やむなく伏蔵しているとするが、庚日にはその状態が特に著しいとして三伏日とした。この日は種まきに悪いという。《季・夏》
  ※翰林葫蘆集(1518頃)三・便面「紅塵三伏汗如レ湯、不レ及三鷺鸞栖二柳塘一」 〔梁簡文帝‐謝賚扇啓〕
  ② (①から転じて) 時候の挨拶で酷暑の候をいう。」

とある。ここでは②の意味でいいだろう。
 前句を街道の薬売りの口上とする。
 十三句目。

   なふなふ旅人三伏の夏
 なみ松の声高ふして馬やらふ   雪柴

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、謡曲『源太夫』の、

 「時は三伏の夏の日の、熱田の宮路浦伝ひ、近く鳴海の磯の波、松風の声寝覚の里、聞くにも心涼しく老の身も夏や忘るらん老の身も夏や忘るらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.10347-10352). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面を引いている。
 なみ松はここでは「なみ」と「松」で「磯の波、松風」を略していて、熱田神宮に近い海辺の景色として、馬やらふを謡曲に登場する勅使とする。
 十四句目。

   なみ松の声高ふして馬やらふ
 礒うつ波のさはぐ舟着      正友

 前句の「なみ」がわざと平仮名にしてあるのは、「並松」と取り成すためで、街道の松並木として船着き場を付ける。
 十五句目。

   礒うつ波のさはぐ舟着
 傾城をあらそひかねてまくり切  志計

 『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』の注は、謡曲『兼平』の、

 「兼平と、名乗りかけて、大勢に割つて入れば、もとより、一騎当千の、秘術を現し大勢を、粟津の、汀に追つつめて磯打つ波の、まくり切り、蜘蛛手十文字に、打ち破り・かけ通つて、その後、自害の手本よとて・太刀を銜へつつ逆様に落ちて、貫ぬかれ失せにけり。兼平が最期の仕儀目を驚かす有様かな目を驚かす有様かな。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18676-18687). Yamatouta e books. Kindle 版. )

の場面としている。
 「まくり切り」は「切りまくり」と同じ。
 ただ、ここでは遊女を争っての喧嘩の場面に換骨奪胎する。舟着は吉原の日本堤であろう。
 十六句目。

   傾城をあらそひかねてまくり切
 泪の淵をくぐるさいの目     一朝

 豆腐の賽の目切りか。汁に入れるのも悲しく、泪の淵に見立てる。傾城に夫を取られた女房の気持ちであろう。
 十七句目。

   泪の淵をくぐるさいの目
 勘当や夢もむすばぬ袖枕     松臼

 賽の目を普通にサイコロの目として、夫の博奕が過ぎて親から勘当されたとする。明日からどうやって生活してゆこうかと思うと、涙が止まらない。
 十八句目。

   勘当や夢もむすばぬ袖枕
 つよくいさめし分別の月     卜尺

 勘当は何度も強く諫めたが、それでも直らなかった結果だった。「分別の月」は真如の月に倣った言い回しか。
 十九句目。

   つよくいさめし分別の月
 お盃存じの外の露しぐれ     松意

 「お盃(さかづき)」は御盃(ぎょはい)のことか。
 忠臣が主君を強く諫めて、その分別に感謝のしるしとして御杯を賜る。注がれた酒はさながら月のきらめく露時雨のようだ。
 二十句目。

   お盃存じの外の露しぐれ
 ふらるるうらみ山の端の色    雪柴

 「山の端の色」は紅葉の色で秋になる。紅葉は時雨の染めるもので、

 白露も時雨もいたくもる山は
     下葉のこらず色づきにけり
              紀貫之(古今集)

のように、古くから和歌に詠まれている。
 前句の「お盃」を離別の盃とし、「ふられる」というのはここでは恋の意味ではなく、割り振られる、という意味で、今日だと芸人が言うような「ネタを振る」「無茶振りする」のような「振り」に近いのではないかと思う。
 離別の宴の盃が自分の方に回って来て、その悲しい涙の盃に顔を赤くする。
 二十一句目。

   ふらるるうらみ山の端の色
 一分は男自慢の花ざかり     一鉄

 一分(いちぶん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「一分」の解説」に、

 「① 一〇に分けたものの一つ。十分の一。転じて、ごくわずかの意にも用いる。
  ※宇津保(970‐999頃)俊蔭「おのが一分とくぶんなし。なにによりてか、なんぢ一分あたらむ」
  ※読本・昔話稲妻表紙(1806)五「さもあらば我身の罪の一分(イチブン)を減じ」
  ② 一身。自身。自分ひとり。
  ※仮名草子・竹斎(1621‐23)上「是を知らぬかと人に思はれん事を悲しみ、一ぶん済まひたる顔をして」
  ③ 一身の面目、責任。その人、ひとりの分際。→一分が廃(すた)る・一分立(た)つ。
  ※浮世草子・好色敗毒散(1703)五「是皆身より出たる錆刀、一分に瑕がついたる上は」
  ④ 同様。一様。
  ※御伽草子・三人法師(古典文庫所収)(室町末)「十六の年近習一ぶんにて、朝夕召つかはるる間」
  ⑤ そのことに専念すること。一筋。
  ※評判記・けしずみ(1677)「こひをはなれてつとめ一ぶんのあひやうなるべし」

とある。多義な言葉だが、②の今の言葉の「自分」が他人に対しても拡大されて、③の意味になったのだと思う。今でも相手に対し「自分はどうなんだよ」という自分と同じで、この場合も「手前(てめえ)は男自慢の花ざかり」という意味になる。
 そんな話を延々と振られると、せっかくの花の宴も台無しだ。そうやって日も傾き山の端が染まって行く。
 二十二句目。

   一分は男自慢の花ざかり
 小知をすてて帰る雁金      志計

 前句の「一分」をお金の一分(いちぶ)とする。鳥の「かりがね」と借金の「借り金」を掛けるのはお約束。
 小知はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小知」の解説」に、

 「〘名〙 少しの知行。わずかな扶持。
  ※俳諧・談林十百韻(1675)上「一分は男自慢の花ざかり〈一鐵〉 小知をすてて帰る雁金〈志計〉」

とある。
 わずかな扶持をもらって生活しても、それだけでは足りず、結局主君から前借を重ねることになる。自分で一分を稼ぎ出して、借金を返し独立する。

2022年3月1日火曜日

 コロナの時にも私権を制限できないということで憲法改正が問題になったが、今度のロシアのことでも憲法改正が問題になるのは当然なことだ。
 これを「かこつけて」だとか「乗じて」などという人がいるが、そういう人は「震災に乗じて防災対策を強化しようとしている」だとか「津波の危機にかこつけて堤防を作ろうとしている」だとか言うのだろうか。
 まあ、何か独裁国家の暴走を抑える実行力のある方法が他に見つかればいいんだけどね。考えてくれ。
 一方的に侵略戦争を始めて国際法を無視して、核使用までちらつかせて脅している国に対して「中立」って何だろうか。やくざとかたぎとの間に中立なんてあるのかいな。あるとしたら半グレだ。
 社会主義者もこれ以上独裁国家を甘やかすべきではない。あんたたちの理想とは全くかけ離れたものだというのがよくわかっただろう。

 それでは『阿羅野』の発句の続き。

   蘭亭の主人池に鵝を愛せられしは筆意有故也
 池に鵝なし仮名書習ふ柳陰    素堂

 鵝はガチョウのこと。
 蘭亭というと、王羲之が蘭亭で「曲水の宴」を催したことがよく知られている。その紹興の蘭亭には鵝池という池がある。「王羲之愛鵝」と言われていた。王羲之の鵝はしばしば画題にもなっている。
 ウィキペディアには、

 「王羲之は幼い頃から鵞鳥が大好きであった。ある日のこと、一軒の家の前を通ると、鵞鳥の鳴き声が聞こえてきたので、譲って欲しいと頼んだところ、一人の老婆が出て来てこれを断った。翌日、鳴き声だけでも聞かせてもらおうと、友人の一人を伴って、老婆の家に赴いた。この姿を家の窓から見つけた老婆は、すぐさま鵞鳥を焼いて食ってしまった。そして、老婆は彼に「鵞鳥は今食ってしまったところだよ」と答え、羲之は大変がっかりし、一日中溜め息をついていた。それから数日後、鵞鳥をたくさん飼っている所を教えてくれる人がおり、その人に山の向こうの道観に案内され、道士に「一羽でもいいから譲って欲しい」と頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がったという。」

とある。
 一方、素堂は不忍池の畔に住んでいたが、残念ながら不忍池にガチョウはいない。柳ならあるので、そこで仮名書きを習ってます、と詠む。

 風の吹方を後のやなぎ哉     野水

 風の吹く方を見れば、柳の枝が一斉にこっちに向かって靡いてくる。これが柳の後ろ姿だ。
 柳の枝を髪の毛に喩えるのはよくあることで、それにまえうしろがあるとするところが作者の着眼になる。

 何事もなしと過行柳哉      越人

 柳と桜はしばしば並べて評され、素性法師の歌には「柳桜をこきまぜて」とも歌われるが、桜の下ではいつも賑やかに宴が催されるのに対し、柳の下はいつも静かなものだ。
 似たような句に、

 柳には鼓もうたず歌もなし    其角

の句が、貞享四年刊其角編の『続虚栗』にある。

 さし柳ただ直なるもおもしろし  一笑

 柳はたくさんの枝が枝垂れている様も面白いが、枝一本挿すだけでも面白い。
 千利休の一輪の朝顔の心にも通うものがある。
 一笑という俳号の人は何人かいるが、『阿羅野』の一笑は加賀の一笑だという。夭折して『奥の細道』の旅で芭蕉を悲しませた。
 俳諧は笑いの文学なので、「一笑」というのはわりかし誰もが思いつきそうな俳号なのだろう。一般名詞としてはスマイルの意味で、破顔一笑だと大笑いの意味になる。

 尺ばかりはやたはみぬる柳哉   小春

 短く折ると真っすぐな柳も、一尺ほど折ると軽く撓む。

 すがれすがれ柳は風にとりつかむ 一笑

 柳は長い髪の毛で女の連想を誘う。まるで逃げて行く風に、必死に取りすがろうとしているみたいだ。

 とりつきて筏をとむる柳哉    昌碧

 筏を岸に留める時に、川に向かって枝垂れている柳を掴んで筏を引き寄せる。

 さはれども髪のゆがまぬ柳哉   杏雨

 昔の人は髪をきちんと結い上げていて、これが結構時間のかかるものだ。そのため木の枝に当って髪が乱れるのを嫌がる。その点柳の枝なら安心。

 みじかくて垣にのがるる柳哉   此橋

 『源氏物語』蓬生巻に、源氏の君が長いこと忘れていた末摘花の家の前を通った時の描写に、

 「柳もいたうしだりて、築地もさはらねば、乱れ伏したり」
 (柳も枝も枝垂れ放題に、筑地は崩れて邪魔されることもなく乱れ臥してました)

とある。
 普通だと長い柳の枝は垣に引っかかるもんだが、柳の枝が短いか、垣が崩れてたりすると、柳の枝も自由に靡くことができる。

 ふくかぜに牛のわきむく柳哉   杏雨

 風が吹くと柳の枝が枝垂れてきて、牛がうざったそうに横を向く。

 吹風に鷹かたよするやなぎ哉   松芳

 春の鷹は佐保姫鷹とも言う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「佐保姫鷹」の解説」に、

 「〘名〙 前年に生まれ、春になって捕えられた狩猟用の若鷹。一説には春の雉狩に用いる鷹のこと。さおだか。さおひめ。《季・春》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕」

とある。
 柳の枝が風に流れてくると、若鷹も位置を変える。

 かぜふかぬ日はわがなりの柳哉  挍遊

 風が吹くたびにその姿を変える柳。さてその真の姿は風のない時の柳。
 比喩としていろいろ使えそうな句で、忙しい時は我を忘れていて、閑になると本当の自分に戻れるという意味にも取れるし、もっと哲学的に言うなら、朱子学の「未発の性、已発の気」に結び付けられるかもしれない。
 『去来抄』修行教には、

 「あらまし人体にたとへていはば、先不易は無為の時、流行は座臥行住屈伸伏仰の形同じからざるが如し。一時一時の変風是也。」

とあるが、この無為と座臥行住屈伸伏仰の喩えは、本来は朱子学の「未発の性、已発の気」を説明するためのものだった。
 まあ、それで言えば、「かぜふかぬ日」の柳は不易、風に靡く柳は流行ということか。このころまだ芭蕉は不易流行を説いてなかったが。

 いそがしき野鍛冶をしらぬ柳哉  荷兮

 野鍛冶は主に農具を作ったり修理したりする鍛冶屋で、柳の季節はそろそろ苗代や畑打ちの季節ということで、農具を新調したり修理したりする人も多かったのだろう。
 こうした春に忙しい人たちは、ゆっくり柳を眺める余裕もない。
 岩波文庫の『芭蕉七部集』の中村注に、

 「『通旨』に、「此句世の中の金銭に遣はるる野かぢがごときはしらず、稽叔夜が高致はしるべしと、柳の恬静無為なるを称するなるべし」

とある。
 『通旨』は『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)のこと。幕末の注釈書。稽叔夜は竹林の七賢の嵆康のこと。
 嵆康が大樹の下で鍛冶をしたという故事があるようだが、この句との関係はよくわからない。

 蝙蝠にみだるる月の柳哉     荷兮
 
 今だと月に蝙蝠は吸血鬼が出て来そうだが、この頃は別にそういう連想はなかった。蝙蝠は福に通じる縁起の良いものとされていた。ここでは「かはほり」から川堀→柳の連想もあったか。
 柳に蝙蝠の取り合わせは、後に七代目市川團十郎によって定番の図案になって行った。
 出典があるのかないのかよくわからないが、取り合わせの妙と言っていい句だ。

 青柳に蝙蝠つたふ夕はへや    其角

の句が『五元集』にあるが、どちらが先か。

 青柳にもたれて通す車哉     素秋

 道を大八車が行き来すると、それをよけるために柳の木にもたれかかる。何気ないようだが、

   大道曲   謝尚
 青陽二三月 柳青桃復紅
 車馬不相識 音落黃埃中
 (春の二月三月の柳は青く桃もまた赤い
  車も馬もお互いを知らないまま音だけが黃埃の中に)

を思わせる。

 引いきに後へころぶ柳かな    鷗歩

 「引(ひく)いき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「息を引く」の解説」に、

 「いき【息】 を 引(ひ)く
  ① 息を吸う。息をする。
  ※申楽談儀(1430)音曲の心根「『津の』の『の』と、『国の』の『の』との間に、いきを引やうに云」
  ② 息を引き取る。死ぬ。
  ※雑嚢(1914)〈桜井忠温〉一三「今に息(イキ)を引(ヒ)きさうになってゐても、まさかに銃を手にして彼を撃殺するだけの残忍な気にはなれぬ」

とある。②は近代の用法であろう。
 よくわからないが、柳の枝が風で急に自分の方に来たので、思わずのけぞって転んだ、ということか。向かい風を息を吸うのに喩えたか、それくらいしか思いつかない。

 菊の名は忘れたれども植にけり  生林

 曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』の「菊若葉」のところに、

 「[本草]初春、地に布(しき)て細苗を生ず。是みな宿根(ふるね)より生ずるもの也。又種子(たね)は立春に下す。二月啓蟄の節、種(たねまき)て始て芽を出す。二候を経て葉始て分る、云々。」

とある。
 初春の最後にこの句を据えてあるのは、「細苗を生ず」を見て、そういえばここに菊が植えてあったかと思い出すという句だからであろう。
 菊を植える句ではない。去年の菊の宿根から出た芽を見つけた句になる。