2021年11月7日日曜日

 岩波の『仮名草子集』の「身の鏡」を読んだ。これは当時の武家のオヤジが読んでいそうな、今でいう自己啓発本に近い。「歌道の事」に万治の頃の貞門時代の点取り俳諧のことが記されている。

 「殊に今時俳諧の点取とて、一句を二銭三銭づつにて、宗匠に見するならば、百韻にては銭二三百のついへ、塵積もつて山となるといへば、年月の俳諧のついへ限りなし」

と、あえて歌道好きな人の言葉として書いているが、著者自身の考えであろう。人の言ったことにして責任逃れをするのはよくあることだ。自分が思っていることでも、友達から聞いた話なんだけど、と言うようなもの。

 さて、続き。
 山中三吟の二十一句目は芭蕉の推敲過程が辿れる。

   銀の小鍋にいだす芹焼
 手まくらにしとねのほこり打払ひ 芭蕉
 (手まくらにしとねのほこり打払ひ銀の小鍋にいだす芹焼)

評語

   手枕におもふ事なき身なりけり 翁
   手まくらに軒の玉水詠め侘   同
   てまくら移りよし。汝も案ずべしと有けるゆへ
   手枕もよだれつたふてめざめぬる  枝
   てまくらに竹吹ふきわたる夕間暮  同
手まくらにしとねのほこり打払ひ   翁
ときはまりはべる。

 芹焼はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「芹焼」の解説」に、

 「〘名〙 焼き石の上で芹を蒸し焼きにした料理。転じて芹を油でいため、鳥肉などといっしょに煮た料理もいう。《季・冬》
  ※北野天満宮目代日記‐目代昭世引付・天正一二年(1584)正月一四日「むすびこんにゃく、せりやき三色を折敷にくみ候て出候」

とある。

 芹焼や縁輪の田井の初氷     芭蕉

という晩年の句もある。
 日本では野菜を生で食う習慣がなく、芹も蒸したり炒めたり煮込んだりして、火を通して食べた。この場合の初案、

   銀の小鍋にいだす芹焼
 手枕におもふ事なき身なりけり

だと、手枕をして手持ち無沙汰で待っているのだから、この場合は煮物であろう。
 推敲の方は何か一つ取り囃しが欲しいということであろう。「おもふ事なき」を直接ではなく、何かそれを匂わすようにということで、

   銀の小鍋にいだす芹焼
 手まくらに軒の玉水詠め侘

となる。

   銀の小鍋にいだす芹焼
 手枕もよだれつたふてめざめぬる 北枝

はあるあるネタで笑いを取ろうとする。

   銀の小鍋にいだす芹焼
 てまくらに竹吹ふきわたる夕間暮 北枝

は景で流した感じにする。

 我がやどのいささ群竹吹く風の
     音のかそけきこの夕べかも
              大伴家持(万葉集)

が本歌で、そのまんまという感じもする。

    銀の小鍋にいだす芹焼
 手まくらにしとねのほこり打払ひ 芭蕉

の最終案は、あるあるネタだが、あまり人が気に留めないネタということで、これに定まったのだろう。
 二十四句目。

   つぎ小袖薫うりの古風也
 非蔵人なるひとのきく畠     芭蕉
 (つぎ小袖薫うりの古風也非蔵人なるひとのきく畠)

評語

  非蔵人なるひとのきく畠   同
我、此句は三句のわたりゆヘ、向へて附玉ふにやと申ければ、うなづき玉ふ。

 非蔵人というと、禁中に出入りできる貴族の中では一番下の部類で、蔵人見習いみたいな微妙な立場だが、昔から結構風流人が多い。『古今著聞集』巻十九には順徳院のときのこととして、

 「内裏にて花合ありけり、人々めんめんに風流をほどこして花たてまつりけるに、非蔵人孝時、大なる桜の枝を両参人してかかせて、南庭の池のかたに ほりたて たりけり。」

とある。こういう華道の達人なら、さぞかし立派な菊の畠を持っているのだろう。
 「向むかへて附玉つけたまふ」というのは、中世連歌でいう「相対付け」のことで、三句同じ趣向が続くこと(三句の渡り)を避けるために、大きく展開を図りたいときに用いられる。
 ここでは「薫物売り」と「非蔵人」が対になる。

 山中三吟で曾良と別れた後、芭蕉は再び小松に戻り、

 あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

を発句とする興行が行われる。この句も後に

 むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉

の形で『奥の細道』の句となる。
 十六句目。

   鵙落す人は二十にみたぬ㒵
 よせて舟かす月の川端      芭蕉
 (鵙落す人は二十にみたぬ㒵よせて舟かす月の川端)

 猟師は殺生を生業とするため、身分的には何らかの差別を受けていたのだろう。ウィキペディアには

 「各村の「村明細帳」などに「殺生人」と記される「漁師」・「猟師」などの曖昧な存在もあり、士農工商以外を単純に賤民とすることはできない。」

とあり、いわゆる穢多・非人ではないが、何らかの区別はあったようだ。
 漠然と被差別民とみなすなら、河原に縁があったのかもしれない。
 十九句目。

   去年の軍の骨は白暴
 やぶ入の嫁や送らむけふの雨    芭蕉
 (やぶ入の嫁や送らむけふの雨去年の軍の骨は白暴)

 藪入りは奉公人だけでなく、嫁も実家に帰ることができた。夫が同伴する地域もあったという。
 江戸時代には奉公人の帰省の日になったが、本来は嫁が実家に帰る日だったという説もあり、前句を戦国時代として、藪入りの古い形を付けたのかもしれない。
 二十二句目。

   うつくしき佛を御所に賜て
 つづけてかちし囲碁の仕合     芭蕉
 (うつくしき佛を御所に賜てつづけてかちし囲碁の仕合)

 御所を碁所に取り成したか。「碁所」は一般的には「ごどころ」だが、「ごしょ」と読むこともあったのだろう。仕合は「しあはせ」と読む。
 二十八句目。

   竹ひねて割し筧の岩根水
 本家の早苗もらふ百姓       芭蕉
 (竹ひねて割し筧の岩根水本家の早苗もらふ百姓)

 前句を苗代水としたか。苗は本家の敷地でまとめて作られていて、分家がそれをもらいに来るというのはよくあることだったか。芭蕉も農人の出だから、幼少期の経験なのかもしれない。
 三十一句目。

   討ぬ敵の絵図はうき秋
 良寒く行ば筑紫の船に酔      芭蕉
 (良寒く行ば筑紫の船に酔討ぬ敵の絵図はうき秋)

 「良」は「やや」と読む。仇を討つために筑紫の船で旅をするのだが、船酔いして情けない。
 筑紫船「めづらしや」の巻二十三句目にも、

   寝まきながらのけはひ美し
 遥けさは目を泣腫す筑紫船     露丸

というふうに登場している。

 八月二十一日、芭蕉は大垣に到着する。しばらくは長い旅の疲れを癒したのだろう。九月三日にようやく「野あらしに」の巻半歌仙が興行される。
 十句目。

   いとおしき人の文さへ引さきて
 般若の面をおもかげに泣      芭蕉
 (いとおしき人の文さへ引さきて般若の面をおもかげに泣)

 愛しき人に裏切られたのだろう。文を引き裂いて般若の顔で泣く。
 十三句目。

   薬たづぬる月の小筵
 薄着して砧聞こそくるしけれ   芭蕉
 (薄着して砧聞こそくるしけれ薬たづぬる月の小筵)

 前句の「小筵」を筵を着た乞食として、砧の音も悲しげだが、砧打つような衣すらない乞食はもっと苦しい、とする。

 九月四日には大垣左柳亭で、

 はやう咲九日も近し宿の菊    芭蕉

を発句とした歌仙興行が行われる。曾良とも再開し、他にも路通、越人、木因、荊口一家の参加する賑やかな会となった。
 十四句目。

   飽果し旅も此頃恋しくて
 歯ぬけとなれば貝も吹れず    芭蕉
 (飽果し旅も此頃恋しくて歯ぬけとなれば貝も吹れず)

 長いこと旅から遠ざかった前句の人物を修験者とする。修験者は巡礼もすれば登山もする。ただ、年老いて歯も抜けて法螺貝を吹くこともできなくなると、さすがに昔を恋しがるだけになる。
 二十九句目。

   尼に成べき宵のきぬぎぬ
 月影に鎧とやらを見透して    芭蕉
 (月影に鎧とやらを見透して尼に成べき宵のきぬぎぬ)

 透けて見えるのは亡霊だ。残念ながら主人は戦死しました。明日からは尼です。

 九月六日、芭蕉は曾良、路通とともに伊勢長島へ行き、大智院に滞在し、九月八日に七吟歌仙が興行される。
 十三句目。

   月見ありきし旅の装束
 さまざまの貝ひろふたる布袋   芭蕉
 (さまざまの貝ひろふたる布袋月見ありきし旅の装束)

 『奥の細道』の旅での敦賀の記憶だろう。

 潮染むるますほの小貝拾ふとて
     色の浜とは言ふにはあるらん
              西行法師

の歌で知られていて、芭蕉もここで、

 寂しさや須磨にかちたる浜の秋  芭蕉
 波の間や小貝にまじる萩の塵   同

の句を詠んでいる。
 二十七句目。

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉
 (田を買ふて侘しうもなき桑門薬手づから人にほどこす)

 桑門は「よすてびと」と読む。自ら薬を作って人に施すのは殊勝なことだが、それには先立つものがなくてはならない。
 田を買い寺領を所有し、経済的基盤を固めなくてはならない。
 三十四句目。

   打むれてゑやみを送る朝ぼらけ
 麦もかじけて春本ノママ     芭蕉
 (打むれてゑやみを送る朝ぼらけ麦もかじけて春本ノママ)

 「春本ノママ」は「春」の下の文字が読めなかったということで、春がどうなったのかは想像するしかない。まあ、大変なことになったのは確かだ。
 「かじける」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  寒さで凍えて、手足が自由に動かなくなる。かじかむ。 「手ガ-・ケタ/ヘボン 三版」
 ②  生気を失う。しおれる。やつれる。 「衣裳弊やれ垢つき、形色かお-・け/日本書紀 崇峻訓」

とある。麦が旱魃で萎れてしまい、春だというのに‥‥。これは飢饉だ。疫病神を追い払う儀式が行われる。

2021年11月6日土曜日

 天気のいい日が続く。今日は生田緑地ばら苑へ行った。秋のバラ園はこれで二度目。そのあと久しぶりにクラフトビールを飲みに行った。みんなコロナ明けを待ちわびていたのか、結構混んでた。
 ただ、コロナの方もまだ安心はできない。実効再生産数がこのごろ0.8を越えているし、このまま根絶するのは難しく、どこか片隅で命脈を保つ可能性が高い。今マスクを一斉に外してどんちゃん騒ぎをすれば、夜の街から再び感染拡大する可能性もある。
 今日見たところではマスク飲食が守られていて、今のマスク生活が今後も維持されるなら、欧米のような再拡大は防げるのではないかと思う。
 再拡大をしても、ワクチンだけでなく治療薬が充実してきて、重症者がほとんど出ないような状況になるなら、その時はコロナはただの風邪で、感染者数のカウントに意味はなくなるのではないかと思う。

 では昨日の続き。
 直江津では、

 文月や六日も常の夜には似ず   芭蕉

を発句とする興行が行われるが、曾良の『俳諧書留』にはニ十句までしかない。
 この句は「文月の六日も常の夜には似ずや」の倒置で、七夕の前日のこの日には織姫彦星も明日の逢瀬の前にきっと特別な気分でいることであろう、と詠んでいる。
 十二句目。

   数々に恨の品の指つぎて
 鏡に移す我がわらひがほ     芭蕉
 (数々に恨の品の指つぎて鏡に移す我がわらひがほ)

 「移す」は「映す」であろう。恨みの品を眺めながら、何か吹っ切れたのだろう。「何これ、もう笑っちゃうね。」という感じか。
 十九句目。

   蝶の羽おしむ蝋燭の影
 春雨は髪剃児(ちご)の泪にて  芭蕉
 (春雨は髪剃児の泪にて蝶の羽おしむ蝋燭の影)

 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに杜国と別れる際に送った句に、

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉   芭蕉

の句がある。その時のことを思い出したか。
 ここでは稚児の美しかった髪を蝶の羽に喩え、出家による別れを惜しんでいる。

 この頃芭蕉の体調がすぐれなかったか、興行は少ない。そのなかで、金沢では七月二十日少幻菴で興行が行われる。金沢に到着した時、芭蕉は一笑の死を聞かされ、これは少し遅いが初盆の追善半歌仙興行となる。発句は、

 残暑暫手毎にれうれ瓜茄子    芭蕉

で、この句は後に、

   ある草庵にいざなはれ
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子    芭蕉

の形で『奥の細道』の一句となる。
 瓜や茄子は故人へのお供え物で、精霊棚にみんなそれぞれ皮をむいて故人に供え、故人と一緒に食べましょうということだろう。キュウリやナスで馬を作るようになったのは多分もっと時代の下った後のことだ。
 実際には送り火も過ぎて精霊棚はなかっただろう。それでも気持ちとして今日は故人とともにこの興行を行いましょうという意味だったと思う。
 「れうれ」は料理(れうり)を「料(れう)る」と動詞化した命令形で、名詞の動詞化は今日でも色々見られる。
 まだ残暑の厳しい折だが、みんな一笑さんに手毎に瓜茄子を剥いてあげましょう、というのがこの発句の元の意味だった。
 芭蕉の付け句は十四句目の、

   ふたつ屋はわりなき中と縁組て
 さざめ聞ゆる國の境目      芭蕉
 (ふたつ屋はわりなき中と縁組てさざめ聞ゆる國の境目)

のみで、前句の「わりなし」を良い意味に転じている。国境までその噂が聞こえるほどの仲の良い二人に取り成す。

 七月二十五日には小松で、

 しほらしき名や小松ふく萩芒   芭蕉

を発句とする歌仙興行が行われる。
 十二句目。

   螓の行ては笠に落かへり
 茶をもむ頃やいとど夏の日    芭蕉
 (螓の行ては笠に落かへり茶をもむ頃やいとど夏の日)

 「茶をもむ」というのは抹茶ではなく、唐茶とも呼ばれる隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、

 「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
 このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)

とある。
 芭蕉の時代に急速に広まり、今の煎茶の元になる。
 二十五句目。

   かたちばかりに蛙聲なき
 一棒にうたれて拝む三日の月   芭蕉
 (一棒にうたれて拝む三日の月かたちばかりに蛙聲なき)

 これは座禅のときの三十棒だろう。
 江戸後期の人だが仙厓義梵の「蛙」という絵には「座禅して人が佛になるならば」と書き添えてある。座禅して人が佛になるなら、蛙だっていつも座っているからとっくに佛になっている、という意味なのだろう。蓮の葉の上に座る所から、鳥獣戯画でも蛙は仏様の姿で描かれている。
 三十棒を受けても悟りに程遠い自分を、形ばかり座っている蛙に喩え、「喝!」と言われても声もなくお辞儀する。
 三十句目。

   わすれ草しのぶのみだれうへまぜに
 畳かさねし御所の板鋪      芭蕉
 (わすれ草しのぶのみだれうへまぜに畳かさねし御所の板鋪)

 これは、

 百敷や古き軒端のしのぶにも
     なほあまりある昔なりけり
              順徳院(続後撰集)

からの発想だろう。
 元歌は軒端をしのぶだが、忘れ草しのぶも植え混ぜだから、御所に重ねられた畳に昔を忘れたり忍んだりするとする。
 三十五句目。

   聲さまざまのほどのせはしき
 大かたは持たるかねにつかはるる 芭蕉
 (大かたは持たるかねにつかはるる聲さまざまのほどのせはしき)

 町は活気に溢れているが、その大半は賃金労働者だ。金を持っている奴に使われている。
 宮本注は「なまじっか金を持っているばかりに、かえって人間が金のために使われて忙しい思をしている」としているが、当時の大方の人はそのなまじっかの金を持っていない。裕福な現代社会の発想だと思う。

 翌二十六日には歓生邸で五十韻興行が行われる。ただし、二の懐紙に関しては真偽に関して疑いが持たれる。
 発句は、

 ぬれて行や人もおかしき雨の萩  芭蕉

で、この日は昼間は激しい雨が降り、夕方には止んだが、昼間の雨を引き合いに出して、雨の中をたくさんの人が集まり、さながら萩の原を行くようです、という挨拶の意味が込められている。
 十二句目。

   入相の鴉の声も啼まじり
 歌をすすむる牢輿の船      芭蕉
 (入相の鴉の声も啼まじり歌をすすむる牢輿の船)

 「牢輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。
  ※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」

とある。牢輿の船は護送船だろう。処刑の時も近く、辞世を勧める。
 船ではないが、『懐風藻』の大津皇子に仮託された、

 金烏臨西舎 鼓声催短命
 泉路無賓主 此夕誰家向

 黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
 日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
 黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
 この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

の詩も思い浮かぶ。

 八月四日、加賀の山中温泉で芭蕉、曾良、北枝による三吟興行が行われる。
 体調不良のため曾良が芭蕉と別れ、先に伊勢に向かうことになっていて、そのための送別興行だった。
 この歌仙については、芭蕉の指導の内容を北枝がメモした「山中三吟評語」が残されている。「曾良餞 翁直しの一巻」とも呼ばれている。
 発句は、
発句

 馬かりて燕追行別れかな     北枝

 「馬かりて」は「馬駆りて」で、秋にツバメが南の島へ帰ってゆくのを、馬を駆り立ててでも追いかけていくような別れで、あなたが先に行ってもすぐに追いかけて行きますという意味になる。
 曾良の脇、

   馬かりて燕追行別れかな
 花野みだるる山のまがりめ    曾良

 (馬かりて燕追行別れかな花野みだるる山のまがりめ)

だが、「山中三吟評語」には、

 花野に高き岩のまがりめ   曾良
「みだるゝ山」と直し給ふ

とある。
 曾良の最初の作意からすると、燕を追いかけてついに追いつけなかったのを、山の険しさのせいだとした、「高き岩のまがりめ」が邪魔して見失ってしまったという付けだったのだろう。
 芭蕉の方は、あくまで句の姿を重視して、「花野みだるる」とする。「みだるる」は咲き乱れるという意味でもあり、馬に踏み荒らされて乱れるという意味にもなれば、別れに悲しさに心が乱れるという意味にもなる。
 芭蕉の第三、

   花野みだるる山のまがりめ
 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉
 (月よしと角力に袴踏ぬぎて花野みだるる山のまがりめ)

には、

 月はるゝ角力に袴踏ぬぎて   翁
「月よしと」案じかへ給ふ。

とある。芭蕉も興行の途中で、いろいろ案じながら作っていたようだ。
 この改作は句の調子の問題だろう。「よし」という言葉が力強い。
 四句目

   月よしと角力に袴踏ぬぎて
 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝
 (月つきよしと角力に袴踏ぬぎて鞘ばしりしをやがてとめけり)

評語

 鞘さやばしりしを友のとめけり 北枝
「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

 この場合の「おもし」はいわゆる「軽み」の風とは関係なく、「とも」という人倫の言葉があることで、次の句の展開が大きく制約されるという意味での「おもし」だと思う。
 「やがて」だと鞘走りを止めたのが友に限定されず、自分で止めたとしても良くなるし、複数の人間のいる状況だけでなく、一人でいる時の状況にもできる。次の展開の可能性が広がり、付けやすくなる。
 句の意味は、相撲を取ったのはいいが、血気盛んな若者のことだから勝敗でもめて、ついつい刀に手を掛け威嚇する場面とする。
 「鞘走り」は文字通りの意味だと、鞘から刀が自然に滑り落ちることだが、文字通りに取ったのでは正直すぎる。 土芳の『三冊子』に俳諧に使うべきでない言葉として、「人を殺す、切る、しばる」といった言葉を挙げているように、俳諧では暴力シーンが自主規制されていた。ここはやはり、かっとなって刀を抜こうとしたところを友が慌てて止めた、というところだろう。
 五句目。

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良
 (青淵に獺の飛こむ水の音鞘ばしりしをやがてとめけり)

評語

 青淵に獺の飛こむ水の音   曾良
「二三疋びき」と直し玉たまひ、暫しばらくありて、もとの「青淵」しかるべしと有ありし。

 曾良の句は物音がしたので、すわ、曲者!とばかりに刀に手をかけたが、なんだ川獺か、というありがちな句だが、一句が芭蕉の古池の句のパロディーになっている。この句も、前句が「友のとめけり」だったら思いつくこともなかった。自分で刀を元の鞘に収めたという解釈が可能になったからこそ、この句を付けることも出来た。
 曾良のこの句の場合も、「青淵」がと舞台が深山を流れる清流に限定されているところが、芭蕉さんには重く感じたのかもしれない。「二三匹」だったら舞台は限定されないから、洋々と流れる大河の情景とすることもできる。
 ただ、二三匹チャポンチャポンと川獺が跳ねて遊んでいる場面だと、刀に手をかけるだけの緊迫感が生まれず、何かほのぼのとしてしまうし、古池の句のパロディーの意味もなくなる。(芭蕉さんとしてはこのことが面白くなかったのかもしれないが。)結局他に代案もなくもとの形で治定された。

2021年11月5日金曜日

 今日は旧暦十月一日で、俳諧では冬の始まり。そう言えば昨日早起きしたら、幽かに末の二日月が見えたっけ。楽しい九月尽だった。
 岩波の『仮名草子集』の「是楽物語」を読み終えた。
 一夫多妻の論理として、生活に困る女性の救済を理由とするというのは、どこの国でも常にあったのだろう。イスラム教の一夫多妻が一番有名だが。
 浮気不倫はいけないが、それを咎められて糧を失った妾の救済は、最後は仏に托すしかない。
 医療水準が低く乳幼児の死亡率の高い社会では、必然的に確実に子孫を残すために常に保険を掛けて多めに子供を作っておかなくてはならず、いわゆる多産多死社会にならざるを得ない。これを誰も責めることはできない。
 多産多死社会は常に実際の死亡率よりも多めに子供が生まれ、子供の過剰を生み出す。だからといて生産性を向上させるような発明が極めてまれにしか起こらず、生産量は停滞している。
 有限な大地の恵みに無限の子孫の繁栄は不可能。なら、余った子供はどうなるかと言えば、男は軍で死に、女は遊女となる。これも洋の東西を問わず、前近代社会の宿命と言えよう。
 捨子、早婚、遊郭、一夫多妻、近代の倫理観では裁けないものが前近代社会にはあるし、今日でも近代化の遅れたフロンティアにはそれがある。少産少死社会になれば解消される。
 
 六月二日、新庄で「御尋に」の巻の歌仙興行が行われる。
 十七句目。

   疵洗はんと露そそぐなり
 散花の今は衣を着せ給へ     芭蕉
 (散花の今は衣を着せ給へ疵洗はんと露そそぐなり)

  疵を洗うために裸になっていたとする。あとから「裸だったのかよ」というネタは結構今の漫才でもある。
 二十三句目。

   牡丹の雫風ほのか也
 老僧のいで小盃初んと      芭蕉
 (老僧のいで小盃初んと牡丹の雫風ほのか也)

 老僧がやってきて牡丹で一杯やる。本当は酒はいけないんだけど、小盃だし、酒のことを、これは牡丹の雫だと言って飲んだんだろう。

 六月四日は羽黒山で、

 有難や雪をかほらす南谷     芭蕉

を発句とする興行が催されるが、この日は曾良の『旅日記』に、「俳、表計ニテ帰ル」とある。この後芭蕉と曾良は月山に昇り湯殿の御神湯に浸かって帰り、九日の日記に「俳、終。」とある。
 八句目。

   眠りて昼のかげりに笠脱て
 百里の旅を木曾の牛追      芭蕉
 (眠りて昼のかげりに笠脱て百里の旅を木曾の牛追)

 旅体ということで場面を木曾に転じる。姨捨山に行ったときに中山道で荷物を運ぶ牛を目にすることが多かったか。
 十六句目。

   月見よと引起されて恥しき
 髪あふがするうすものの露    芭蕉
 (月見よと引起されて恥しき髪あふがするうすものの露)

 寝乱れた髪に濡れた薄衣、引き起こされた時の状態であろう。女の姿か。
 山を下りての十九句目。

   的場のすゑに咲る山吹
 春を経し七ッの年の力石     芭蕉
 (春を経し七ッの年の力石的場のすゑに咲る山吹)

 的場は弓矢の練習場だった。遊技場ではない本来の意味での「矢場」で、武家の子供たちがここで練習したのだろう。片隅には去年七つになる子供が持ち上げた力石が置かれている。
 力石は今でも神社に行くと見られるが、神社にあるのは大人用の、祭りの時などに力比べをするためのものであろう。子供が持ち上げる力石はわざわざ子供用に用意したものか。
 三十三句目。

   鳴子をどろく片藪の窓
 盗人に連添妹が身を泣て     芭蕉
 (盗人に連添妹が身を泣て鳴子をどろく片藪の窓)

 盗人になってでも妹を食わせてゆこうとする兄と、それを心配そうに見守る妹、そういう設定だろうか。
 鳴子が鳴って何か悪いことが起きたかと驚く。

 このあと、鶴岡の長山五良右衛門(重行)宅で六月十日から十二日にかけて俳諧興行がある。発句は、

 めづらしや山をいで羽の初茄子  芭蕉

 「山を出で」に「出羽」を掛けて、出羽三山を下りてここ鶴岡で初めて取れた茄子をご馳走になってめずらしや、となる。
 十四句目。

   此秋も門の板橋崩れけり
 赦免にもれて独リ見る月     芭蕉
 (此秋も門の板橋崩れけり赦免にもれて独リ見る月)

 前句を蟄居(ちっきょ)を命じられ人の家に籠る様とする。
 他のものは許されたのに、自分だけがいまだに家から出られず、門の外の板橋を直すこともできない。
 三十句目。

   明はつる月を行脚の空に見て
 温泉かぞふる陸奥の秋風     芭蕉
 (明はつる月を行脚の空に見て温泉かぞふる陸奥の秋風)

 これは今している旅の感慨であろう。幾つ温泉(いでゆ)に入っただろうか。那須にも行っているし飯塚の湯はディスってるし、ついこの間は羽黒山や湯殿山の湯に入ったし。
 三十五句目。

   行かよふべき歌のつぎ橋
 花のとき啼とやらいふ呼子鳥   芭蕉
 (花のとき啼とやらいふ呼子鳥行かよふべき歌のつぎ橋)

 呼子鳥は古今伝授の三鳥の一つ。三鳥は呼子鳥、稲負鳥、百千鳥をいう。前句の「歌のつぎ橋」を古今伝授とし、呼子鳥は花の時に鳴くということを習う。

 わが宿の花にななきそ喚子鳥
     よふかひ有りて君もこなくに
              春道列樹(後撰集)
 巻向の檜原の山の呼子鳥
     花のよすがに聞く人ぞなき
              土御門院(新続古今集)

など、花に詠む。
 なお、古今集には、

 をちこちのたづきも知らぬ山中に
     おぼつかなくも呼子鳥かな
              よみ人しらず(古今集)

とあり、特に花は詠んでいない。
 今日ではツツドリではないかという説がある。

 六月十九日に始まり二十一日にかけて、酒田の不玉亭で芭蕉、曾良、不玉の三吟歌仙が作られている。発句は、

 温海山や吹浦かけて夕凉     芭蕉

 「温海山(あつみやま)」という今日のあつみ温泉のあるあたりの地名に、「吹浦(ふくうら)」という最上川が海に注ぐあたりの地名を並べることで、暑い所に風が吹いて夕涼みとする。「温海山に吹浦(を)掛けて夕涼みや」の倒置になる。
 十句目。

   海道は道もなきまで切狭め
 松かさ送る武隈の土産(つと) 芭蕉
 (海道は道もなきまで切狭め松かさ送る武隈の土産)

 武隈の松は既にこの『奥の細道』の旅で通過している。そこで復元された根本で二つに分かれた松の姿を見、

 桜より松は二木を三月越シ   芭蕉

と詠んでいる。
 ただしここは海辺の狭い道ではない。句の意味としては、武隈の松を見たお土産にその松ぼっくりを持って帰る途中ということだろうか。
 芭蕉は姨捨山の旅、つまり『更科紀行』の旅のときに、

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉

と詠み、荷兮に橡の実を土産に持ち帰っている。

     木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の
     実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、
     かざりにやせむとて
 としのくれ杼の実一つころころと 荷兮

と詠んではいるものの、どうしていいものか困ったのではなかったか。
 十六句目。

   あさ勤妻帯寺のかねの声
 けふも命と嶋の乞食      芭蕉
 (あさ勤妻帯寺のかねの声けふも命と嶋の乞食)

 これは佐渡に流された日蓮上人だろうか。芭蕉はこのあと、

 荒海や佐渡によこたふ天河   芭蕉

の句を詠むことになる。
 二十句目。

   物いへば木魂にひびく春の風
 姿は瀧に消る山姫       芭蕉
 (物いへば木魂にひびく春の風姿は瀧に消る山姫)

 「木魂」に「山姫」は「応安新式」で「非人倫」とされている。今の言葉で言う「人外」だ。木魂はエコーの意味だけでなく、樹木に宿る精霊の意味もある。山姫は神と妖怪の両方の意味がある。いずれも「非人倫」で「非神祇」。
 二十六句目。

   明日しめん雁を俵に生置て
 月さへすごき陣中の市     芭蕉
 (明日しめん雁を俵に生置て月さへすごき陣中の市)

 『図解戦国合戦がよくわかる本』(二木謙一監修、二〇一三、PHP研究所)によると、

 「秀吉が鳥取城を攻めたときのこと。三万余の大軍で鳥取城を包囲した秀吉は、兵糧攻めを敢行した。このとき、秀吉は軍の士気が低下しないよう、陣中に町屋を建て、市を開かせた。また歌舞の者を呼んで兵士達を楽しませてもいる。」

という。
 合戦も長引くと、兵士達の私的な物資の調達のために市が立つことはそう珍しくもなかっただろう。秀吉はそれを自ら指揮して行わせた。
 「月さへすごき」というのはそういう陣中の、明日の命をも知れぬ兵士の捨て鉢なすさんだ空気をよく表わしている。
 二十九句目。

   小袖袴を送る戒の師
 吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉
 (吾顔の母に似たるもゆかしくて小袖袴を送る戒の師)

 「戒の師」が出家前に妻としていた女性の娘を見て、懐かしくなって小袖袴を贈ったか。『西行物語』の娘との再会のシーンを思い浮かべたのかもしれない。
 三十二句目。

   奈良の京持伝へたる古今集
 花に符を切坊の酒蔵      芭蕉
 (奈良の京持伝へたる古今集花に符を切坊の酒蔵)

 「符」は「封」のことだと『校本芭蕉全集 第四巻』の注にある。「坊の酒蔵」は僧坊酒のことであろう。
 僧坊酒は奈良の寺院で作られていた「南都諸白」と呼ばれる名酒のことであろう。今の清酒に近い。ウィキペディアに、

 「やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した「○○諸白」なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。」

とある。
 前句は古今伝授が奈良に伝わったことを言う。ウィキペディアに、

 「宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。」

とある。この林宗二は京都の生まれだが、代々続く奈良の饅頭屋を継いで、饅頭屋宗二とも呼ばれていた。
 古今集は奈良の饅頭屋に伝り、名酒もまた奈良に伝わっていて、どちらも花見には欠かせない。下戸に上戸を付けた相対付け(向え付け)になる。

2021年11月4日木曜日

 今日は津久井城山(標高375m)に登った。登山というほどのものでもなく、午前中に終わるハイキングだった。山頂は城跡になっていた。
 山頂から鷹射場までの稜線には飯縄神社があり、大正十五年銘の狛犬があった。神社から少し下りたところから相模湾の方が見渡せる。鷹射場からは東京・横浜方向が見渡せる。津久井湖方面の眺めは所々で見られる。
 時間が余ったので車を走らせ、旧甲州街道の猿橋を見に行った。いつも仕事で甲州街道を通ってた時、気になっていたものだ。
 岩に挟まれて川が狭くなるところに作られた橋で、付近の紅葉も見られ、なかなかの景色だ。
 猿橋は刎橋(はねばし)でウィキペディアに、

 「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。」

とある。日光東照宮の神橋もかつては刎橋だったということを、前に「舞都遲登理」の日光の所で調べた。
 芭蕉も天和三年に谷村に行ったなら、ここを通ったはずだ。句は残していないが。

 さて、その芭蕉の風流の続き。
 五月には尾花沢の清風の所に到着する。かつて江戸の小石川で「涼しさの」の巻、「花咲て」の巻の興行をともにした仲だった。
 発句は、

 すずしさを我やどにしてねまる哉 芭蕉

で、自分ちのように寝て暮らしてますと挨拶する。
 八句目の、

   ふりにける石にむすびしみしめ繩
 山はこがれて草に血をぬる    芭蕉
 (ふりにける石にむすびしみしめ繩山はこがれて草に血をぬる)

は、那須の殺生石であろう。

   殺生石
 石の香や夏草赤く露あつし    芭蕉

の句もあり、草の赤いのを「血をぬる」とする。
 十一句目。

   秋田酒田の波まくらうき
 うまとむる関の小家もあはれ也  芭蕉
 (うまとむる関の小家もあはれ也秋田酒田の波まくらうき)

 これは相対付けで海の旅も辛いが、陸の旅で関を越えるのも哀れだ、と付ける。
 十六句目。

   入月や申酉のかたおくもなく
 鳫をはなちてやぶる草の戸    芭蕉
 (入月や申酉のかたおくもなく鳫をはなちてやぶる草の戸)

 前句の明け方の風景を旅立ちの時として、草の戸を打ち破るとする。「雁をはなちて」というのは雁を食おうと思ったが哀れになって放したということで、発心が動機のようだ。
 『猿蓑』の「市中は」の巻二十九句目に、

    ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
 草庵に暫く居ては打やぶり    芭蕉

の句があり、草庵を捨てて去る時には「やぶる」という言い方をする。
 十九句目。

   去年のはたけに牛蒡芽を出す
 蛙寝てこてふに夢をかりぬらん  芭蕉
 (蛙寝てこてふに夢をかりぬらん去年のはたけに牛蒡芽を出す)

 長閑な田舎の晩春ということで蛙と胡蝶を付ける。荘子の「胡蝶の夢」を引いてきて、寝ている蛙が夢で胡蝶となる、とする。
 二十七句目。

   わかれをせむる炬のかず
 一さしは射向の袖をひるがへす  芭蕉
 (一さしは射向の袖をひるがへすわかれをせむる炬のかず)

 「一さし」は今でもいう「さしで勝負」、つまり一対一で戦う、タイマンを張ることをいう。古代の戦闘では名乗りを上げて大将同士の一騎打ちで決着をつけることもあった。
 「射向の袖」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「射向の袖」の解説」に、

 「鎧(よろい)の左袖。⇔馬手(めて)の袖。
  ※吾妻鏡‐文治五年(1189)八月一一日「義盛与二国衡一互相二逢于弓手一、義盛之所レ射箭中二于国衡一訖、其箭孔者甲射向之袖二三枚之程定在レ之歟」

とある。
 射向の袖をひるがへすというのは弓を射かける体勢に入るということであろう。一騎打ちが始まる。
 三十二句目は旅の思い出か。

   たまさかに五穀のまじる秋の露
 篝にあける金山の神       芭蕉
 (たまさかに五穀のまじる秋の露篝にあける金山の神)

 金山彦神(かなやまひこのかみ)はウィキペディアに、

 「『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)と対になるともされる。
 神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。
 岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社、京都府京都市の御金神社及び幡枝八幡宮末社の針神社を始め、全国の金山神社で祀られている。」

とある。
 金華山は元禄九年に「舞都遲登理」の旅で桃隣が行くことになるが、芭蕉は石巻までは行ったが金華山へは行かなかった。芭蕉の見残しといえよう。
 石巻から金華山を眺め、明け方にそこに灯る漁師の篝火が印象に残ってたのかもしれない。

 同じ尾花沢でもう一つ、

 おきふしの麻にあらはす小家かな 清風

を発句とする興行が行われる。芭蕉の脇は、

   おきふしの麻にあらはす小家かな
 狗ほえかかるゆふだちの簑    芭蕉
 (おきふしの麻にあらはす小家かな狗ほえかかるゆふだちの簑)

 興行は夕方行われたのであろう。夕立の中を簑をきて会場にやってきて、その時に犬に吠えられたと、その時の状況をそのまま詠んだものと思われる。
 五句目。

   石ふみかへす飛こえの月
 露きよき青花摘の朝もよひ    芭蕉
 (露きよき青花摘の朝もよひ石ふみかへす飛こえの月)

 青花(あをばな)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「青花」の解説」に、

 「ツユクサ (『万葉集』などでは「つきくさ」) の花。また,これからとった青い染料,もしくはその液汁を和紙に吸収させた青花紙をいう。青花に似ているところから,藍染めの青い色を花色と呼ぶ。「つきくさずり」は青花を布地にすり染めにしたもので,古くから行われたが,水に濡れると退色するため,のちにはすたれた。滋賀県草津近郊で産する青花紙は,藍花紙 (あいばながみ) ,縹紙 (はなだがみ) とも呼ばれ,この退色する性質を利用して,友禅 (ゆうぜん) や臈纈 (ろうけち) の下絵を描くのに用いられる。」

とある。
 前句をツユクサ摘みを職業とする人とする。「朝もほひ」は朝食時で、朝飯のために川原に帰ってきたか。
 十句目。

   立どまる鶴のから巣の霜さむく
 わがのがるべき地を見置也    芭蕉
 (立どまる鶴のから巣の霜さむくわがのがるべき地を見置也)

 前句の鶴を高士の比喩としたか。空き家になった庵に、ここに住もうかと内見に来る。
 芭蕉が次の年に一時的に住むことになる幻住庵も、曲水の伯父である幻住老人の空き家になっていた別荘だった。
 十七句目。

   つかねすてたる薪雨にほす
 貧僧が花よりのちは人も来ず   芭蕉
 (貧僧が花よりのちは人も来ずつかねすてたる薪雨にほす)

 貧しい僧でも吉野に庵を構えていれば、それこそ

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の科にはありける
              西行法師

の歌だ。ただ、桜の季節が終わればまた誰も来なくなる。余った薪をゆっくり干す暇もある。
 二十五句目。

   鳥はなしやる月の十五夜
 舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた  芭蕉
 (舎利ひろふ津軽の秋の汐ひがた鳥はなしやる月の十五夜)

 舎利は『校本芭蕉全集 第四巻』の補注に、

 「青森県東津軽郡の今別・平館付近の浜辺から産する一種の白石。その形状、小なるものは仏舎利に似る。」

とある。正確には青森県東津軽郡今別町袰月で、翡翠だとか石英だとか言われている。今は護岸工事によって消滅したという。まあ、産業になるほどの高価なものでもなかったのだろう。
 『奥の細道』の旅で芭蕉が行ってみたいと思ってた名所のひとつだったあろう。象潟で津軽から蝦夷に行きたいというのを曾良に止められなければ、実際にこの目で見ていたかもしれない。
 三十三句目。

   簗にかかりし子の行へきく
 繋ばし導く猿にまかすらん    芭蕉
 (繋ばし導く猿にまかすらん簗にかかりし子の行へきく)

 甲州街道の猿橋のことか。ウィキペディアに、

 「猿橋が架橋された年代は不明だが、地元の伝説によると、古代・推古天皇610年ごろ(別説では奈良時代)に百済の渡来人で造園師である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。」

とある。「繋(つなぎ)ばし」は刎橋(はねばし)のことであろう。他には日光の神橋が有名。
 前句の簗にかかった子のところに駆けつけるために、猿に導かれて架けたと言われる橋を渡って行く。
 尾花沢を出て五月二十九日・三十日、出羽大石田一榮宅で、

 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

を発句とする興行が行われる。この句は後に、

 五月雨をあつめて早し最上川    芭蕉

と改作され、『奥の細道』の中の有名な句の一つとなった。
 九句目。

   松むすびをく國のさかひめ
 永樂の古き寺領を戴て       芭蕉
 (永樂の古き寺領を戴て松むすびをく國のさかひめ)

 明の永楽帝の在位は一四〇二年から一四二四年。日本ではほぼ足利義持の時代。能では世阿弥の活躍した時代で、宗祇が生れたのもこの時代。韓国では朝鮮(チョソン)の時代で、一四一八年には世宗(セジョン)が即位し、最盛期を迎える。
 日韓の国交も回復され、中国とは勘合貿易が盛んに行われ、東アジアに強力な経済文化圏が生じた時代でもあった。まさに東アジア共同体の時代だった。そのため、永楽帝の時代の貨幣「永楽銭」は日本でも大量に流通することになる。
 永楽帝の古い時代から受け継がれてきた寺領のことだから、何かその境界に松を結んだりしてもおかしくない。そういう空想による付けで、別に史実があるというわけではないから、本説ではない。
 十九句目。

   ねはむいとなむ山かげの塔
 穢多村はうきよの外の春富て    芭蕉
 (穢多村はうきよの外の春富てねはむいとなむ山かげの塔)

 穢多というと、かつての貧農史観の影響のせいで、一般の農民も貧しかったのだから、その下の身分の人たちはもっと貧しかったに違いないという偏見の目でもって見られることが多かった。
 こうした観点からこの句を読むと、穢多が経済的に裕福なはずはない、これはあくまで精神的な豊かさを言っているのだろう、という解釈になる。これは偏見である。
 実際の穢多えたは農地を所有し、中には豊かな村もあった。
 江戸時代には一般の寺と区別して穢多寺(浄土真宗の寺が多いというが、必ずしも浄土真宗とは限らない)がこうした被差別民に押し付けられていった。裕福な穢多が立派な仏舎利の立つお寺で、涅槃会を営むこともあったのだろう。
 ただ、自らの差別の理由となっている宗教で、今度は穢多に生れないことを祈るというのは、何か変な感じがする。この種の問題はまだまだ多くの闇に包まれているのだろう。
 二十句目、は曾良の句だが、

   穢多村はうきよの外の春富て
 かたながりする甲斐の一乱     曾良
 (穢多村はうきよの外の春富てかたながりする甲斐の一乱)

 穢多は単に動物関係の職業に付くだけではなく、警察に近い役割を持っていた。
 戦国時代に穢多が栄えたのは、もちろん武具などに動物の皮などが多用されているせいもあるが、一般人と異なる立場にいる穢多の人たちが、一般人を監視する役割を担ったとも言われている
 反乱があれば、それを鎮圧するために刀狩が行なわれる。その実行役を任されたのも穢多だったという。
 二十七句目。

   柴売に出て家路わするる
 ねぶた咲木陰を昼のかげろひに   芭蕉
 (ねぶた咲木陰を昼のかげろひに柴売に出て家路わするる)

 「ねぶた」は合歓ねむの花はなこと。「かげろひ」は影が動くということだが「かげ」に光と影という相反する意味がある。ここでは影が動くという意味。
 合歓の木の木陰で休んでいると、その花はなの影がゆらゆらとして、まるで催眠術のように眠りに誘われていったのだろう。すっかり家に帰るのを忘れてしまったという前句がここで生きてくる。
 三十二句目。

   雪みぞれ師走の市の名残とて
 煤掃の日を草庵の客        芭蕉
 (雪みぞれ師走の市の名残とて煤掃の日を草庵の客)

 昔は家の中の物も少なく、大掃除といってもはたき掛けが主だった。そんなに重労働でもなく、むしろ一年の打ち上げのお祭りのようなものと言った方がいいのかもしれない。それも人がたくさんいる商家などの話。
 草庵の一人暮らしの者にとって、煤払いも一人淋しく行なわなくてはならない。そんなときにお客さんが来てくれれば、それはそれは嬉しいもの。どうせ小さな草庵のこと、掃除はあっという間に終って、あとは酒でも、ということになりそうだ。

2021年11月3日水曜日

 岩波の『仮名草子集』の「是楽物語」を読み始めた。ようやく仮名草子らしくなったというか、これまでのはちょっと違うだろうという感じだ。
 中世の物語が仏教説話の形を取ったのは、説法=方便=嘘という前提があったからではないかと思う。物語は嘘だが役に立つ嘘だということで、嘘の許される空間が生まれ、この空間が江戸時代の仮名草子から近代の大衆文学や今日のラノベに受け継がれている。
 俳諧もまた「上手に嘘をつくこと」であり、「虚を以て実を行う」ものだった。
 ところが近代に西洋文学が入ってきた時に、文学は真実を書かなくてはいけないという奇妙な方向に流れてしまった。だから、昔から虚(嘘)を前提としてきた物語類が、こんなことは実際には有り得ないだとか非難され、「現実と虚構の区別をつかなくさせる有害なもの」と見られるようになった。
 まあ、こうした感覚は一部の人のものにすぎなかったし、西洋文学とはいえ小説が虚構であり嘘であるのは自明なことなので、今日の純文学は嘘ばっかりだが、昔は私小説だとかいう本当のことしか書かないと称する小説があった。筒井康隆が時々茶化していた。
 話は変わるが、源氏物語の明石巻も少しずつ読み進めていて、いよいよという場面、「近かりける曹司の内に入りて、いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。されど、さのみもいかでかあらむ。」は、そのまま読むと戸口での攻防だが、比喩でもう一つの戸口と両方の意味を掛けているんだろうな。

 さて、元禄二年三月二十七日、芭蕉は陸奥へ向けて旅立つ。ここから誰もが知る『奥の細道』の旅が始まる。ただ、この旅で行われた沢山の俳諧興行については、まだあまり知られていない。
 まずは那須黒羽の余瀬翠桃亭での興行が、この旅の風流の始めとなる。
 発句は、

 秣おふ人を枝折の夏野哉     芭蕉

 那須は馬の産地でもあり、放牧も盛んにおこなわれていたのだろう。大田原神社には日露戦争の軍馬の慰霊碑があり、近代でも有数の馬の供給地だった。馬頭観音塔も至る所にある。
 黒羽に来るまでも野飼の馬を借りているし、翠桃もまた多くの馬を所有してたのではないかと思う。
 そういうわけで秣(まぐさ)を負う人の案内でこの夏のを旅していますと挨拶する。
七句目。

   秋草ゑがく帷子はたぞ
 ものいへば扇子に顔をかくされて 芭蕉
 (ものいへば扇子に顔をかくされて秋草ゑがく帷子はたぞ)

 前句の秋草帷子の風流人を女性と取り成す。
 扇子は中世では魔除けの意味があり、人の視線を遮りたい時にも扇子で顔を隠し、一時的な覆面として用いたという。
 そこから、男の視線をさえぎるのにも女性は扇子を用いたのだろう。前句まえくの「誰ぞ」は顔を隠したから「誰ぞ」という意味になる。
 十一句目。

   盗人こはき廿六の里
 松の根に笈をならべて年とらん  芭蕉
 (松の根に笈をならべて年とらん盗人こはき廿六の里)

 「盗人」に「とらん」が付く。追いはぎのでる恐い里だが、笈(おい)を背負った旅の僧に盗られるような金目のものはない。ただ年をとるだけ、となる。笈は「老い」にも掛けていて芸が細かい。
 廿六(とどろく)の里は日光から矢板へ抜ける途中の日光北街道にある。芭蕉はこの辺りは大谷川を舟で大渡まで下ったのか、通ってはいない。ここには轟早進という足の速い義賊がいたという。
 二十一句目。

   ころもを捨てかろき世の中
 酒呑ば谷の朽木も佛也      芭蕉
 (酒呑ば谷の朽木も佛也ころもを捨てかろき世の中)

 「ころもを捨て」から伊勢の五十鈴川で禊みそぎした時に服を乞食にくれてやり、裸で戻ったという増賀上人を連想したのか。ただ、増賀上人にんが酒飲みだったという記述は説話には見られない。ただ、奇行の多かった増賀上人のことだから、酒飲みを連想してもおかしくはない
 増賀上人であれば、酒を飲んでも飲まなくても谷の朽木を見てもそこに仏の姿を見出したであろう。
 これも本説というほど説話への忠実さはなく、俤付けといっていいだろう。
 二十九句目。

   洞の地蔵にこもる有明
 蔦の葉は猿の泪や染つらん    芭蕉
 (蔦の葉は猿の泪や染つらん洞の地蔵にこもる有明)

 月に猿は付き物。水に写る月を取ろうとする猿は、伝統絵画の画題としても定番で、分不相応の高望みをするという意味になる。出世だったり、恋であったり、かなわぬ夢を追っては満たされない心を、昔の人は戯画化してそう描いた。
 とはいえ、猿の声は中国の古典では、その悲痛な叫び声が涙を誘うものだった。これは昔は中国南部にもテナガザルが生息していて、物悲しいロングコールを実際に聞くことが多かったからだ。
 『野ざらし紀行』では、富士川で芭蕉は、捨子の今にも消えそうな命の声に、猿の声をかさね合わせている。
 猿の持つその悲痛な声と、戯画化された姿の同居は、そのまま俳諧と言えるかもしれない。
 ここではあえて「猿の声」ではなく、「猿の泪」と言い、猿の声を言外に隠す。そして、和歌では蔦や楓の葉を染めるのは時雨なのだが、「猿の泪」が染めるののだろうかとすることによって、時雨が猿の泪と重なる。つまり、実際は時雨が蔦の葉を染めたのだが、それを猿の泪だろうか、と猿の泪に例える。そこに雨上がりの明け方の空に有明の月が現れる。
 猿と時雨、このモチーフは『奥おくの細道ほそみち』の旅を終えた後、故郷の伊賀へ戻る道すがら、あの
 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

の句に結実されることになる。

 四月二十一日には芭蕉と曾良は白河の関を越え、二十三日には須賀川等躬宅で興行する。
 発句は、

 風流の初めやおくの田植歌    芭蕉

で、「風流」は俳諧と同義。風流(=俳諧興行)の始まりは、みちのくのひなびた田植え歌の興にしましょうかという挨拶になる。
 十句目。

   有時は蝉にも夢の入ぬらん
 樟の小枝に恋をへだてて     芭蕉
 (有時は蝉にも夢の入ぬらん樟の小枝に恋をへだてて)

 前句の「蝉にも夢の入ぬ」を蝉の声が夢に入ってくるのではなく、鳴く蝉も夢を見るというふうに取り成す。
 蝉もちがう小枝にとまっている蝉に恋をして悲しげに鳴いているのだろうか。楠は大木になり、枝と枝の数も多く、枝と枝の間は結構距離がある。

 和泉なる信太の森のくすのきの
    千枝にわかれてものをこそ思へ
              詠み人知らず(夫木抄)

に出典がある。
 十三句目。

   霜降山や白髪おもかげ
 酒盛は軍を送る関に来て     芭蕉
 (酒盛は軍を送る関に来て霜降山や白髪おもかげ)

 前句をの霜降り山の白髪を、老いた武将の面影とする。勇ましい出陣というよりは、敗軍の白河の関を越えて落ち延びてゆく風情だろう。謡曲『摂待』のような、義経や弁慶とともに落ち延びる兼房の姿だろうか。
 芭蕉はこの後『奥の細道』の旅で、謡曲『摂待』の舞台となった佐藤庄司の旧跡を訪ねるし、平泉では曾良が、

 卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

の句を詠むことになる。
 十九句目は謎句だろうか。

   かなしき骨をつなぐ糸遊
 山鳥の尾にをくとしやむかふらん 芭蕉
 (山鳥の尾にをくとしやむかふらんかなしき骨をつなぐ糸遊)

 「山鳥の尾に置く」だが、これは「山鳥の尾に置く枕詞」ではなかったか。つまり、この句は、「足引きの年や迎ふらん」ではなかったか。これに下句をつなぐと

 足引きの年や迎ふらんかなしき骨ほねをつなぐ糸遊いという

つまり、足を骨折した人が新しい年を迎え、添え木をしたりして一生懸命骨をつないでいるというのが句の意味で、最後に「つなぐ」の縁で糸遊のように幽かな望みで、と結ぶ。
 芭蕉の謎句は他に例がなく、別の解があるのかもしれない。
 二十八句目は『源氏物語』の本説。

    住かへる宿の柱の月を見よ
 薄あからむ六条が髪       芭蕉
 (住かへる宿の柱の月を見よ薄あからむ六条が髪)

 はっきりと「六条」という源氏物語の登場人物の名が出て来るので、俤ではなく本説とすべきであろう。
 加茂の祭りの時の牛車の駐車場を廻る「車争い」の場面は有名で、源氏の君も行列に参加するというので急遽葵の上の御一行が見物にやってきた時に、先に来て止まってた六条御息所の車が邪魔だとばかりに放り出される。
 その葵の上の出産の時に祈祷師たちが、たくさんの物の怪の取り憑く中でどうしても立ち去らない物の怪が一人いて、源氏の君はもう助からないと思って葵の上と二人きりになっていまわの言葉を聞こうとすると、どうも言ってることがおかしい。源氏の君はそれを六条御息所だと思う。
 その時六条御息所は祈祷の際に焚くことの多い護摩の芥子の香が髪に染み付いて取れなくて困っていたといったことが描写されている。
 この句はこのことをふまえた本説による句で、本説付けの常として必ず少し変えるということで、ここでは髪に芥子の香が染み付くのではなく、薄が赤らむように色を変えるといしている。
 六条御息所もまたその頃辺鄙な所へ行って密教の御修法を受けていたから、「住みかへる宿の」に付く。
 三十一句目。

   太山つぐみの聲ぞ時雨るる
 さびしさや湯守も寒くなるままに 芭蕉
 (さびしさや湯守も寒くなるままに太山つぐみの聲ぞ時雨るる)

 上五の「さびしさや」は倒置で、「湯守も寒くなるままに太山つぐみの聲ぞ時雨るるさびしさや」となる。
 「湯守(ゆもり)」は温泉の源泉の管理する人のことで、江戸時代になって平和になり、神社仏閣参りにかこつけた旅行が盛んになることで、温泉の需要も高まり、多くの地で温泉のお湯を公平に分配するために湯守が任命された(参考;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「湯守」の項)。芭蕉の時代ならではの新ネタといえよう。
 山奥の温泉で冬の夕暮で時雨が降りだすともなると、さすがに来る人もいない。

 続く四月二十四日の須賀川可伸庵での興行。
 発句は、

 かくれ家や目だたぬ花を軒の栗  芭蕉

になる。この句は後に、

 世の人の見付ぬ花や軒の栗    芭蕉

の形に改められて『奥の細道』の一句となる。
 十七句目。

   笠の端をする芦のうら枯
 梅に出て初瀬や芳野は花の時   芭蕉
 (梅に出て初瀬や芳野は花の時笠の端をする芦のうら枯)

 芭蕉は『笈の小文』の旅で初瀬や芳野の桜を見て回ったが、その前に伊勢で御子良子の梅を見ている。
 前句を春もまだ早い頃の伊勢の浜荻とし、自分自身の旅の記憶を付けたか。
 二十二句目は前句の『源氏物語』若紫の本説からの逃げ句になる。

   まだ雛をいたはる年のうつくしく
 かかえし琴の膝やおもたき     芭蕉
 (まだ雛をいたはる年のうつくしくかかえし琴の膝やおもたき)

 この場合の「琴」は七弦琴で膝に乗せて演奏する。源氏の君も得意としていた。
 膝に乗る幼い子と比べると七弦琴の方が重い。間接的に子供の小ささをいう。
 源氏物語の雰囲気を残しつつ、源氏物語にない場面に展開する。

2021年11月2日火曜日

 岩波の『仮名草子集』の「尤之双紙」は仮名草子というよりは俳書に分類しても良いのではないかと思う。
 たとえば上巻の「長き物のしなじな」は前句に「長し」とあった時にどういうものが付けられるかを列挙しているようなものだ。
 下巻の「引く物のしなじな」で馬を引く、袖を引く、注連を引く、施行を引く、数珠を引く、木地引く、轆轤引く、‥‥と言った列挙は、前句に「引く」という言葉があった時の掛てにはに利用できる題材の列挙として役に立つ。
 これは俳諧師が常に練習として行っている、展開の練習の一端と考えればわかりやすいし、読者も俳諧のネタに利用してたのではなかったか。
 「清水物語」の方はそれなりに政治的な主張を持って書かれた本なんだろう。当時の細かなことはよくわからないが、基本的には中世の顕密仏教の崩壊と江戸幕府の朱子学国教化の中で、神仏儒道を「天」の概念の下に統合する動きと見ていいのだろう。
 それは元は神仏習合の中で生じた本地垂迹説に倣うもので、仏教を本地、神道を垂迹とする両部の考え方は、神道を本地とする唯一神道によって相対化された。本地は神仏儒道をこえて天地自然に具わるものとする考え方が多くの人の同意を得ていく中で、初めて神仏儒道を相対化する江戸時代人の世界観が生まれ、これは今でも日本人の霊性の元になっている。
 近代になってキリスト教を取り入れたとしても、キリスト教は神仏儒道と並ぶたまたま西洋に現れた垂迹の一つで、今の日本人にとってのクリスマスやハローウィンはそういったものだ。本地は天地自然、語られぬもの、不可知なもの、それでいて本性として自らに具わるもの、それが答えだ。
 この「清水物語」も基本的に「天」の概念を下に幕府の朱子学と仏教とを統合する試みの一つと見ていいんだと思う。芭蕉の不易流行説も基本的にこの延長線上にある。

 まあ、それはそうと、左翼もいい加減に今度の選挙で「革命至上主義」は大衆の支持を得られないことに気付くべきだ。かつて「修正主義」という左翼の忌み嫌う言葉があったが、あのころから左翼は変わっていない。
 革命と修正が相反するのは、革命は資本主義の矛盾を極限まで顕在化させる方向へ向かわせなくてはいけないからだ。つまり今抱えている問題を解決するのではなく、むしろ問題を破滅に至るまで増幅しなければいけない。
 コロナが流行ればコロナで多くの人がばたばたと死んでいく状態を作らなくてはならない。地球環境の問題でも、破滅的状況を作らなくてはいけない。日本の平和の問題にしても、周辺国に誤った情報を流して日本への恨みと警戒感を増幅させ、自ら戦争を焚き付けていると言っていい。核兵器のない世界と言いながら、反米諸国の核保有を容認し、核拡散を助長する。差別の問題でも、マイノリティーとマジョリティーの対立をより暴力的にすることで解決の道を閉ざす。
 これを抜け出すためには、日本共産党は米帝(アメリカ帝国主義)の支配が現在では存在していないことと、暴力革命の未来永劫に渡る放棄を宣言し、綱領に盛り込むべきであろう。
 そして、それに基づいて「民主主義革命」の文言も消去すべきであろう。民主主義の改革は必要だが革命は必要ないし、特定勢力の排除は民主主義と矛盾する。
 日本共産党がこれを行うなら、他の政党や団体の日本共産党との共闘への不安は解消され、強力な野党連合が可能になるし、二大政党制も夢ではない。改革か革命かの究極の選択を回避して、改革の中身で争うことが可能になる。
 まあ、これが野党が変わる最後のチャンスではないかと思う。革命を擁護する限り野党は変われない。革命至上主義は野党の足枷であるだけでなく、今の日本の足枷になっている。革命の妄想に囚われている限り、いつまでたっても改革を議論する土壌が生まれない。

 それでは風流の方に戻ろう。
 元禄二年正月、路通の、

 水仙は見るまを春に得たりけり  路通

の発句で始まる。
 芭蕉の第三。

   窓のほそめに開く歳旦
 我猫に野等猫とをる鳴侘て    芭蕉
 (我猫に野等猫とをる鳴侘て窓のほそめに開く歳旦)

 歳旦から猫の恋へと展開する。
 八句目。

   婿入に茶売も己が名を替て
 恋に古風の残る奥筋       芭蕉
 (婿入に茶売も己が名を替て恋に古風の残る奥筋)

 平安時代の通い婚を想像したのか、夫が妻の家に入り苗字を変えるとした。ただ、芭蕉はまだ奥の細道に旅立つ前なので、陸奥での経験ではない。想像で付けている。
 其角も母方の榎本の姓を名乗っていたし、後に宝井姓に改名したが、これは俗姓で、本来の血統を表す姓ではなく、武家の苗字に準じた苗字帯刀を許されない庶民の姓なのだろう。
 婿養子に入ると苗字が嫁の姓に変わり、その息子もまた母方の苗字を名乗るのは、日本独自の習慣だったのだろう。
 昔の韓国では代理母(シバジ)というのがあって、昔そんな映画のビデオを借りてきて見た記憶があるが、日本人は血統へのこだわりがあまりなく、跡継ぎがいないなら婿をとればいいという発想だった。姓と苗字の違いもそのあたりの血統へのこだわりのなさの反映なのだろう。
 皇室に関しては長いこと例外だったのは、古代に女帝をたぶらかして、後継ぎとなる次代の天皇の父になって権勢を奪おうとした、道鏡という破戒仏のせいだ。
 十六句目。

   折ふしは塩屋まで来る物もらひ
 乱より後は知らぬ年号      芭蕉
 (折ふしは塩屋まで来る物もらひ乱より後は知らぬ年号)

 京都で「戦後」というと応仁の乱の後のことだとよく冗談に言われるが、この場合の乱もおそらくそれだろう。
 都が荒れ果てて商売上がったりの芸人が、仕方なく辺鄙な田舎にまでやって来る。都の情報が入ってこないため、年号が何になったかもわからない。
 三十句目。

   唐人のしれぬ詞にうなづきて
 しばらく俗に身をかゆる僧    芭蕉
 (唐人のしれぬ詞にうなづきてしばらく俗に身をかゆる僧)

 これは明の滅亡によって亡命して日本にやってきた儒者に感化されて、ということか。朱舜水と水戸光圀公との交流はよく知られている。多分こういう人が何人もいたのだろう。

 同じ正月、

 衣装して梅改むる匂ひかな    曾良

を発句とした興業が行われる。
 芭蕉の七句目。

   のた打猪の帰芋畑
 賤の子が待恋習ふ秋の風     芭蕉
  (賤の子が待恋習ふ秋の風のた打猪の帰芋畑)

 夫が夜興引(よごひき)で猪を追い回している間は、賤の妻も待つ恋が習慣になる。
 十四句目。

   手作リの酒の辛みも付にけり
 月も今宵と見ぬ駑馬の市     芭蕉
 (手作リの酒の辛みも付にけり月も今宵と見ぬ駑馬の市)

 「駑馬(どば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 足のおそい馬。にぶい馬。
  ※令義解(718)厩牧「細馬一疋。中馬二疋。駑馬三疋。〈謂。細馬者。上馬也。駑馬者。下馬也〉」
  ※高野本平家(13C前)五「騏驎は千里を飛とも老ぬれば奴馬(ドバ)にもおとれり」 〔戦国策‐斉策五〕
  ② 才能のにぶい人のたとえ。」

とある。軍馬ではなく運搬や農耕に用いる馬の市が立ち、その頃には新酒も出来上がり満月になる。
 馬喰町の馬市がいつかはよくわからないが、名月の頃に立つ馬市もあったのだろう。
 あるいは夏の繁殖期に放牧していた馬に仔馬が生まれる頃、一度放牧馬が集められてチェックを受けた後、秋に市場に出す馬が選び出されていたか。
 貞享四年の「磨なをす」の巻十二句目に、

   古畑にひとりはえたる麦刈て
 物呼ぶ声や野馬とるらむ     芭蕉

の句があり、元禄七年五月の「新麦は」の巻第三にも、

   また相蚊屋の空はるか也
 馬時の過て淋しき牧の野に    芭蕉

の句がある。夏に野馬を取る習慣があり、ひょっとしたら相馬の野馬追もその名残なのかもしれない。
 十六句目。

   狩衣をきぬたのぬしに打くれて
 我おさな名を君はしらずや    芭蕉
 (狩衣をきぬたのぬしに打くれて我おさな名を君はしらずや)

 「おさな名」は元服前の名前。芭蕉の場合は金作。
 ある程度の年になってから妻を貰うと、妻は幼名を知らなかったりしたのだろう。砧打つ姿に母のことを思い出し、幼名で呼ばれてたことを懐かしく思い出す。
 二十八句目。

   此恋をいわむとすればどもりにて
 打れて帰る中の戸の御簾     芭蕉
 (此恋をいわむとすればどもりにて打れて帰る中の戸の御簾)

 吃音障害のせいで人に見つかった時にうまく説明できず、不審者に間違えられて追い出される。
 「中の戸」は『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注に「部屋と部屋の間の戸」とある。
 三十五句目。

   折にのせたつ草の初物
 入過て餘りよし野の花の奥    芭蕉
 (入過て餘りよし野の花の奥折にのせたつ草の初物)

 吉野に入るには順の峰入りと逆の峰入りとがあるが、時代によって違いがあったのだろう。芭蕉の時代には春に峰入りしている。
 貞享四年の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

の句があり、順の峯入りは春の句となっている。
 後に曾良が、

 大峰や吉野の奥の花の果て    曾良

とあるが、これも峰入りの句だろうか。

の句を詠んでいる。

 二月七日には、

 かげろふのわが肩に立かみこかな 芭蕉

を発句とする歌仙興行が行われている。もうすっかり『奥の細道』への旅立ちモードに入っている。それだけ、入念に計画された旅立ったのであろう。
 ここで路通が外れているところからも、同行は曾良に内定していたか。脇は曾良が付ける。

   かげろふのわが肩に立かみこかな
 水やはらかに走り行音      曾良
 (かげろふのわが肩に立かみこかな水やはらかに走り行音)

 春の水の流れる音が聞こえます、というだけの脇だが、「やはらかに走り行く」というところに旅の無事が込められているように思える。
 五句目の曾良の句は、

   身はかりそめに猿の腰懸
 いさよひもおなじ名所にかへりけり 曾良
 (いさよひもおなじ名所にかへりけり身はかりそめに猿の腰懸)

と、月の定座だが「いさよひ」という月の字のない月を選んでいる。
 十五夜だけでなく、十六日も見ようと、名所を離れかけたが戻ってきた。猿の腰掛に腰かけているように居所を定めない。
 これに九句目で、

   ブトふりはらふともの松明
 五月まで小袖のわたもぬきあへず 芭蕉
 (五月まで小袖のわたもぬきあへずブトふりはらふともの松明)

と、「五月」を出してバランスを取る。
 同じようなことは元禄五年の「けふばかり」の巻でも行われていて、十三句目の「宵闇」の句を月としたため十五句目に「八月」を出している。
 この年は寒くて五月まで小袖の綿を抜かなかった。暑くなったころにはブユが現れる。
 二十二句目。

   城北の初雪晴るるみのぬぎて
 おきて火を吹かねつきがつま   芭蕉
 (城北の初雪晴るるみのぬぎておきて火を吹かねつきがつま)

 鐘撞は鐘撞の番をして時を知らせる人で、ネット上の「浦井祥子著『江戸の時刻と時の鐘』掲載紙:日本経済新聞(2002.5.24)」には、

 「時の鐘の運営も幕府の意向が強く働き、かなり制度化されていた。寛永寺に残る史料などから、鐘撞人の職が世襲である一方で鍾撞人の権利を有する株も存在していたことが分かった。」

とある。城北ならおそらく寛永寺であろう。鐘撞人の生活を多分想像したものだろう。
 二十七句目。

   黒木ほすべき谷かげの小屋
 たがよめと身をやまかせむ物おもひ 芭蕉
 (たがよめと身をやまかせむ物おもひ黒木ほすべき谷かげの小屋)

 京都大原は古くから炭焼きの盛んなところで、炭だけでなく乾燥させた黒木も薪として大原女が売り歩き、都で用いる燃料を供給していた。

 日數ふる雪げにまさる炭竈の
     けぶりもさびし大原の里
              式子内親王(新古今集)

など、歌にも詠まれている。
 天和二年刊の西鶴の『好色一代男』の影響もあったのだろう。大原雑魚寝の女に成り代わって詠んだ句になっている。
 大原の雑魚寝の西鶴の記述はうわさ話に基づいて多少盛っている感じはするが、古代の歌垣の名残をとどめていたのだろう。
 もちろん原始乱婚制なんてのは論外で、歌垣は結婚相手を探すために歌などを歌い交わす祭りだった。ただ、どこの祭りでも酒が入ったりして嵌め外しすぎるものはいたというだけのことだと思う。
 芭蕉の句も、誰と結婚することになるのかという悩みにしている。
 三十一句目。

   水のいはやに仏きざみて
 麦ゑます諏訪の涌湯の熱かへり  芭蕉
 (麦ゑます諏訪の涌湯の熱かへり水のいはやに仏きざみて)

 「ゑます」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[1] 〘連語〙 (動詞「えむ(笑)」に尊敬の助動詞「す」の付いたもの) にっこりほほえまれる。笑顔をなさる。
  ※万葉(8C後)七・一二五七「道の辺の草深百合の花咲(ゑみ)に咲之(ゑましし)からに妻といふべしや」
  [2] 〘他サ四〙 (麦などを)水や湯などにつけたり、煮たりしてふくらませる。ふやかす。〔俚言集覧(1797頃)〕」

とある。米のあまりとれない昔の信州では蕎麦や麦を食べていたが、麦を炊くときはぬるま湯につけて柔らかくしてから炊いた。芭蕉も更科を旅した時に食べたのではないかと思う。
 諏訪の辺りの山の中なら洞窟に籠って仏像を刻んでいる人がいてもおかしくない。
 旅はいろいろと新しいネタを提供してくれる。

2021年11月1日月曜日

 新暦の十一月一日、ハローウィンの魑魅魍魎は魔界に戻り、出雲のへ行ってた神々が帰ってきた。神社は七五三のシーズンを迎える。
 選挙の結果は、まあ左翼の人からすれば「夢をありがとう」というところかな。今回はマスコミの予測が大きく外れた。トランプ大統領が爆誕した時のアメリカもこんなだったのかな。
 世界はいろいろな問題を抱えているけど、日本国民は革命ではなく地道な改革を選んだ。日本の支持政党なしというサイレントマジョリティーは、基本的にリベラルのなので改革を望んでいる。ただ革命は望んでいない。それがこの選挙の結果だったんだと思う。
 そういうわけでコロナ下の混乱に乗じて革命が起こせるのではないかという左翼の夢は、ここに儚く散っていった。
 (一応断っておくが、ここでいう革命は暴力革命ではなく、現行憲法下で選挙に勝利した上で米帝に迎合する勢力を排除するという、日本共産党の言う「民主主義革命」を意味する。)
 まあ、さすがに彼らも日本人だから、選挙の無効を訴えて国会議事堂を占拠するなんてことはしないと思う。
 今日は岩波の『仮名草子集』の「尤之双紙」を読んだ。貞門俳諧師の斎藤徳元が匿名で書いたものらしい。
 「尤之双紙」は「枕之双紙(枕草子)」のもじりで、体裁も枕草子を意識している。ただ、自分の体験を書くのではなく、古典や故事をいろいろ引用し、博識をひけらかしながら、時折「尤(もっとも)」というようなあるあるネタや、稀にシモネタを交えて俳言としている。

 さて芭蕉の風流の方の続き。
 貞享五年は九月三十日に改元され元禄元年になる。その十月、江戸大通庵主道円居士一周忌追善の七吟歌仙興行に路通と曾良が登場する。元禄二年に『奥の細道』の旅の同行を廻る因縁の二人だ。
 発句は、

   大通庵道円追善
 其かたちみばや枯木の杖の長ケ  芭蕉

だった。
 遺品の杖があったのか。すでに亡くなっていることを「枯木」に喩え、その長さを古人の徳に喩えて追悼する。
 六句目で路通が登場する。

   内洞のくぼかなるよりもるる月
 油単をかくる蔦のもみぢ葉    路通
 (内洞のくぼかなるよりもるる月油単をかくる蔦のもみぢ葉)

 油単(ゆたん)は油紙や布で作った耐水性のあるシートで、雨除けに被せたり下に敷いたり物を包んだり、様々な用途に用いられた。
 この場合は、修行僧が洞穴に野宿するときに蔦の上に油単を掛けて、地下水による湿気を防ぐのだろう。
 路通自身が一所不住の乞食僧だったので、その体験から来る句ではないかと思う。
 七句目は曾良で、

   油単をかくる蔦のもみぢ葉
 つつめどもやがてひえたる物喰て 曾良
 (つつめどもやがてひえたる物喰て油単をかくる蔦のもみぢ葉)

 油単に包んだ弁当を食うときには、油単はその辺に掛けておかれ、蔦の紅葉を隠す。曾良は僧ではなく神道家だが、旅の経験は豊富だった。
 十一句目の路通の句、

   声うつくしき念仏聞ゆる
 毎かはとなかばかたぶく島の御所 路通
 (毎かはとなかばかたぶく島の御所声うつくしき念仏聞ゆる)

は、隠岐に流された後鳥羽院の御所であろう。流される直前に出家し、法皇になっている。
 十三句目は曾良の句。

   となりをおこす雪の明ぼの
 籔の月風吹たびにかげ細く    曾良
 (籔の月風吹たびにかげ細くとなりをおこす雪の明ぼの)

 草木の手入れされていない藪の中に住む、貧し気な集落であろう。雪の曙の月も日に日に細くなってゆくのが心細く思われる。「しほり」が感じられる。
 その次の十四句目に芭蕉が登場する。

   籔の月風吹たびにかげ細く
 地にいなづまの種を蒔らん    芭蕉
 (籔の月風吹たびにかげ細く地にいなづまの種を蒔らん)

 「稲孕む」という言葉がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「稲孕む」の解説」に、

 「(稲妻によって稲に子(実)ができるという伝説から) 稲の穂がふくらむ。
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「稲妻のかよひてはらむいなば哉〈繁勝〉」

とある。稲妻の光に米が実ることを「いなづまの種を蒔」とする。
 十七句目の路通の句。

   無理に望をかけし師の坊
 峯の供はなの岩屋もつらからぬ  路通
 (峯の供はなの岩屋もつらからぬ無理に望をかけし師の坊)

 「はな」が平仮名なのは岩鼻に「花」を掛けているからだろう。
 峯の岩屋で修行するのは傍目には辛そうだが、そこにわざわざお伴して無理に弟子にしてくれと頼む。こういう人には岩屋も辛いとは思わないのだろう。
 達磨大師に弟子入りを訴える「慧可断臂図」の本説か。雪舟の絵が有名だが。
 岩屋での修行は六句目とやや被る。
 二十句目の路通の句。

   わかき身の隠居と成て日は長し
 かほのほくろをくやむ乙の子   路通
 (わかき身の隠居と成て日は長しかほのほくろをくやむ乙の子)

 「乙の子」は末っ子のこと。
 顔の黒子が欠点となって、嫁に行かずに隠居の面倒を見る羽目になった。今でいうヤングケアラーか。
 二十一句目は芭蕉が応じる。

   かほのほくろをくやむ乙の子
 舞衣むなしくたたむ箱の内    芭蕉
 (舞衣むなしくたたむ箱の内かほのほくろをくやむ乙の子)

 黒子のせいで舞いのメンバーから外された。
 二十五句目の路通の句。

   ゆめとおもひて覚かぬる夢
 振袖にいつまで拝む月のかげ   路通
 (振袖にいつまで拝む月のかげゆめとおもひて覚かぬる夢)

 「振袖」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「振袖」の解説」に、

 「① 丈を長くして、脇の下を縫い合わせない袖。また、その袖を付けた着物。昔は男女とも一五、六歳までで、元服以前の者が着た。振りの袖。ふり。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浮世草子・西鶴織留(1694)二「二十二三までも振袖(フリソテ)着て置て、十七の八のと年を隠す分にて別の事なし」
  ② ①の着物を着ているところから。
  (イ) 年頃の娘。若い娘。おぼこ娘。少女。
  ※雑俳・蝉の下(1751)「振袖の時も絵本の男沙汰」
  (ロ) 前髪立の少年。男色関係のある少年。歌舞伎の少年俳優。若衆。また、かげま。
  ※浮世草子・西鶴置土産(1693)五「吉彌といふふり袖(ソデ)が、野田藤見がへりに」
  (ハ) 夜鷹。下級の街娼。
  ※雑俳・柳多留拾遺(1801)巻五「本所から出るふり袖は賀をいわい」
  ③ 駕籠(かご)かきの陸尺(ろくしゃく)の異称。長い袖の黒鴨仕立(くろがもじたて)であったところからの呼称。
  ※雑俳・柳多留拾遺(1801)巻二〇「ふり袖を四人つれるはやり医者」
  ④ 「ふりそでしんぞう(振袖新造)」の略。
  ※色茶屋頻卑顔(1698)「つめ袖ふり袖之覚」

とある。
 この場合は遊女の振袖であろう。不運な境遇にこれが夢であったらと思っても、嫌でも現実だということを思い知らされる。そんな毎日に空しく月を拝む。
 路通の句は底辺の人の苦しみを訴える句が多く、今でいう社会派という感じだ。
 二十七句目は芭蕉の句。

   興じてぬすむ蘭の一もと
 露ふかき無言の僧の戸を明て   芭蕉
 (露ふかき無言の僧の戸を明て興じてぬすむ蘭の一もと)

 前句の「蘭」の男色のイメージから僧を付ける。無言の行をする僧の所から蘭を盗むのは稚児であろう。
 三十四句目の芭蕉の句。

   くみあぐる御堂の朝時ほのか也
 蚊にせせられてかぶる笈摺    芭蕉
 (くみあぐる御堂の朝時ほのか也蚊にせせられてかぶる笈摺)

 「笈摺(おひずる)」は「おひずり」と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「笈摺」の解説」に、

 「〘名〙 巡礼などが、着物の上に着る単(ひとえ)の袖なし。羽織に似たもの。笈(おい)で背が擦れるのを防ぐものという。左、右、中の三部分から成り、両親のある者は左右が赤地で中央は白地、親のない者は左右が白地で中央に赤地の布を用いる。おゆずる。おいずる。」

とある。
 袖がないならあまり蚊を防ぐのに役に立たないような気もする。夏の巡礼者の無駄な抵抗というところか。

 社会派の路通は蕉門の新しい風をもたらしたということか、芭蕉にすぐに気に入られたのであろう。元禄元年冬には、

 雪の夜は竹馬の跡に我つれよ   路通

の発句で興行が行われる。ここにも曾良が参加している。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、十二月十七日に芭蕉庵に集まり、

   雪の夜の戯れに題を探りて、米買の二字を得たり
 米買ひに雪の袋や投頭巾     芭蕉
   同 真木買
 雪の夜やとりわき佐野の真木買はん 岱水
   同 酒買
 酒やよき雪ふみ立てし門の前   苔翠
   同 炭買
 炭一升雪にかざすや山折敷    泥芹
   同 茶買
 雪に買ふ囃し事せよ煎じ物    夕菊
   同 豆腐買
 手に据ゑし豆腐を照らせ雪の道  友五
   同 水汲
 雪に見よ払ふも惜しきつるべ棹  曾良
   同 めしたき
 初雪や菜飯一釜たき出す     路通

の句を詠んでいる。
 この歌仙はこのメンバーから苔翠と泥芹が抜けて、代わりにに宗波が加わったもので、おそらくこの日から遠くない時に集まって行われた興行であろう。
 発句も、この時のことを思い出してのものであろう。
 竹馬(ここでは「ちくば」と読む)は子供の遊戯の竹馬のことではない。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「竹馬」の解説」にある、

 「② 江戸時代、ざるを中心に竹を四本組み合わせたものを二つ、棒の両端に天秤(てんびん)のようにさげ、中に品物を入れて運ぶのに用いたもの。大名行列の後尾につきしたがったり、行商人が用いたりした。
  ※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)三「侍供が十二人、やりもち、はさみ箱、ぞうり取、よいかよいか、かっぱかご、竹馬(タケうま)、つがう上下拾人あまりじゃ」

の方の竹馬であろう。
 みんなが買い物の句を詠んだのに対し、路通だけが飯炊きの句になっているから、これではあたかも路通だけが買い物に行く隊列に取り残されて、一人留守番して飯を炊いていたみたいだ。だから、この竹馬の列に我も連れてってくれ、そこがこの発句であろう。
 どこか芭蕉臨終の頃の支考の扱いにも通じるものが感じられる。この種の「いじり」は俳諧師の集まりでも常にあったのだろう。
 路通はその後も一部の門人の間でひどく嫌われ、冤罪事件に巻き込まれて、一時は芭蕉からも破門される。理由はよくわからない。出自の問題があったのかもしれない。
 四句目。

   うち渡す外面に酒の飯ほして
 鶴鳴きあはす旅だちのそら    芭蕉
 (うち渡す外面に酒の飯ほして鶴鳴きあはす旅だちのそら)

 干し飯を旅の携帯食にするのか。鶴の鳴き交わす中で旅立つ。この頃すでに来年の春の『奥の細道』の旅の計画も進んでいたのだろう。
 十句目は路通の句。

   生れ付みにくき人のうらやまし
 親にうらるるしなも有けり    路通
 (生れ付みにくき人のうらやまし親にうらるるしなも有けり)

 貧しい家では女の子は遊郭に売られてしまう。醜かったら家に留まれたのに。
 似たような句に、元禄四年秋の「安々と」の巻の三十一句目、

   粟ひる糠の夕さびしき
 片輪なる子はあはれさに捨のこし 路通

の句がある。片輪だったら売られることもなく家に残れる。
 十七句目も路通ならではの句といえるか。

   濁をすます砂川の水
 よもすがらつぶねは月につかはれて 路通
 (よもすがらつぶねは月につかはれて濁をすます砂川の水)

 「つぶね」は奴という字を当てる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奴」の解説」に、

 「つぶね【奴】
  〘名〙
  ① 召使。下仕えの者。しもべ。下男。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ② (転じて) 仕えること。奉仕。
  ※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「朝夕の奴(ツブネ)も殊に実(まめ)やかに〈略〉信(まこと)のかぎりをぞつくしける」

とある。
 月見の宴が夜を徹して行われる裏には、一晩中働かされている下僕がいるものだ。

 『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注は、

 汲みてこそ心すむらめ賤のめは
     いただく水にやどる月影
              西行法師(夫木抄)

の歌を引いている。
 下僕の立場からすれば何きれいごと言ってんだ、って感じだ。

 同じ頃の「雪ごとに」の巻も同じようなメンバーで行われる。
 芭蕉は第三を付ける。

   けむらで寒し浦のしほ焼
 さまざまの魚の心もとし暮て   芭蕉
 (さまざまの魚の心もとし暮てけむらで寒し浦のしほ焼)

 魚心あれば水心という言葉もあるが、いろいろな人の好意を受けながら今年も終わろうとしている。前句の「浦」に掛けて魚の心とする。
 十一句目の路通の句は、

   かたむく松に母のおもかげ
 宿かりて頃日うつる三井の坊   路通
 (宿かりて頃日うつる三井の坊かたむく松に母のおもかげ)

謡曲『三井寺』の生き別れの息子千満の、唐崎の松を見る心とする本説付け。
 これに芭蕉の十二句目は、

   宿かりて頃日うつる三井の坊
 ちからもちするたはら一俵    芭蕉
 (宿かりて頃日うつる三井の坊ちからもちするたはら一俵)

 坊にいる稚児たちの力比べであろう。当時の大人は米一俵は当たり前に持ち上げられたというが、子供たちには大人に一歩近づく瞬間でもある。
 二十七句目。

   痩たる乳をしぼる露けさ
 とはぬ夜に膳さしいるる蚊やの内 芭蕉
 (とはぬ夜に膳さしいるる蚊やの内痩たる乳をしぼる露けさ)

 前句の子を失い一人乳を搾り捨てる貧しい女に、哀れに思った男が、通えない日でも食事を差し入れる。

 元禄元年の暮も押し迫る頃、

 皆拝め二見の七五三をとしの暮  芭蕉

を発句とする興行が行われる。
 七五三と書いて何と読むかというのは、時々クイズになる。答えは「しめ」。
 伊勢二見ヶ浦の夫婦岩は二つの岩が注連縄で繋がれている。ここから見える富士山は東の洋上にあるといわれる蓬莱山に見立てられ、初日もこの方角から上る。

 蓬莱に聞かばや伊勢の初便り   芭蕉

の発句は元禄七年になる。
 正月飾りの一つにも蓬莱飾りとも言われているものがある。また、蓬莱山から来るという七福神の乗った宝船の絵を飾る。二見の七五三(しめ)は正月の蓬莱山の初日を望むものであり、年末の内からそれを拝んでおこう、と暮の挨拶の発句になる。既に来年は伊勢へ行くという計画もできていたのだろう。
 十句目。

   三弦を暁ごとにほつほつと
 まくりて帰る榻のねむしろ    芭蕉
 (三弦を暁ごとにほつほつとまくりて帰る榻のねむしろ)

 「榻(しぢ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「榻」の解説」に、

 「① 牛車(ぎっしゃ)に付属する道具の名。牛を取り放した時、轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、または乗り降りの踏台とするもの。形は机に似て、甲板を一枚板または簀子板とし鷺足(さぎあし)をつけ、漆を塗り金具を施す。黄金具は大臣用、散らし金物(赤銅)は納言・大将用、黒金物(鉄)は納言以下が用いる。ただし、四位以下は使用が許されなかった。
  ※新撰字鏡(898‐901頃)「榻 志持也」
  ※蜻蛉(974頃)上「川のかたに車むかへ、しぢたてさせて」
  ② 腰かけ。ねだい。
  ※続日本紀‐慶雲元年(704)正月丁亥「天皇御二大極殿一受レ朝。五位已上始座始設レ榻焉」

とある。ここでは②で、古浄瑠璃を語る浄瑠璃師が仕事を終えて帰って行く所とする。浄瑠璃は最初は琵琶法師のように琵琶で語っていたが、江戸時代には三味線に代わっていった。
 十五句目。

   たふとや僧のせがきよむこゑ
 侍の身をかへよとや秋の蝉    芭蕉
 (侍の身をかへよとや秋の蝉たふとや僧のせがきよむこゑ)

 僧の施餓鬼の声に武士の身分を捨てて出家したらどうかと秋の蝉が鳴いている。
 西行法師も北面の武士だったから、その俤とも言えなくもない。
 十六句目は、これに路通が答える。

   侍の身をかへよとや秋の蝉
 おひのうちにも夢はみえけり   路通
 (侍の身をかへよとや秋の蝉おひのうちにも夢はみえけり)

 「おひ」は笈で、前句を発心というよりも一所不住の旅への誘惑とする。芭蕉の『奥の細道』の旅立ちも近い。
 二十四句目。

   男なき妹がすだれを守かねて
 なみだ火桶にはなかみを干    芭蕉
 (男なき妹がすだれを守かねてなみだ火桶にはなかみを干)

 「はなかみ」は必ずしも鼻をかむことではなく、涙をぬぐうことも言う。『冬の日』の「狂句こがらし」の巻十八句目に、

   二の尼に近衛の花のさかりきく
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   芭蕉

の句がある。
 干さぬ袖という言葉があるが、ここでは涙にぬれた鼻紙を干す。