2021年10月31日日曜日

 朝からどんより曇っていた。岩波の『古浄瑠璃 説教集』を読み終わったので、図書館へ行き、同じ新日本古典文学大系の『仮名草子集』を借りてきた。仮名草子といえば江戸時代前期のラノベ。岩波文庫の『竹齋』ならだいぶ前、『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いた時に読んだ。
 日本語は文字が多様で数も多く、活字には不向きな言語なので、朝鮮半島から持ち出した活字印刷機もほとんど活用されることがなく、代わりに木版印刷による出版が盛んになった。ただ、元和・寛永の頃に作られた古い仮名草子本は日本で独自に作られた古活字で刷られていた。
 木版印刷は文字だけでなく絵も同じ版木に刻めるので、挿絵入りの本が早い時期から作られた。仮名草子もそうした豊富なイラストが売りだった。やがて挿絵が独立して絵だけで売るようになり、江戸後期の浮世絵文化が花開く元になった。
 今日はまず「大坂物語」を読んだ。これは元和初年刊や寛永年間刊の古活字本が残っている。一字一字を活字にするのではなく、二三字連綿した形で活字にしているようだ。見た目は横の線が揃っていて普通の版木本に比べても綺麗に見える。ただし、挿絵はない。版木を掘るようになった寛文版は所々見開きの挿絵が入っている。
 版木版のメリットは挿絵だけでなく、ルビを掘れるところにもある。これで漢字の苦手な人も読めるようになった。俳諧の方ではルビや様々な書体をミックスさせて遊ぶことも考えついた。
 「大坂物語」は大坂冬の陣夏の陣の直後にその噂を寄せ集めて作ったドキュメントにも近いもので、三谷脚本の大河ドラマ『真田丸』のいくつかのシーンが思い浮かぶような作品だ。ただ視点は『真田丸』と逆になり、徳川方から見るから、「牢人どもの悪意見」で亡んだことになっている。
 今日は旧暦九月二十六日で新暦では十月三十一日、午後からあいにくの雨になったが、渋谷のハローウィンは盛り上がらないかな。

 『笈の小文』の旅を終えて『更科紀行』の旅に出る前の尾張の鳴海重辰亭で、「初秋は」の巻の歌仙興行が行われる。
 発句は、

 初秋は海やら田やらみどりかな  芭蕉

で、初秋の夕暮れの景で、秋風の吹く澄んだ霞むことない空気に強い西日があいまって、海の青も田の緑もキラキラまぶしいくらいに輝いて見える。
 興行に来るまでの道すがら、見たままを詠んだ句であろう。後に、

 初秋や海も青田も一みどり    芭蕉

に改作されている。全体の調子は整っているが「みどりかな」の初期衝動が死んでしまい、ただの初秋の句になってしまっている。筆者は初案の方がいいと思う。
 十一句目は古典ネタで、

   おもひ残せる遠の國がへ
 琵琶弾て今宵は泣て明すべき   芭蕉
 (琵琶弾て今宵は泣て明すべきおもひ残せる遠の國がへ)

白楽天の『琵琶行』で付ける。

 今夜聞君琵琶語  如聴仙楽耳暫明
 莫辞更坐弾一曲  為君翻作琵琶行
 感我此言良久立  却坐促絃絃転急
 凄凄不似向前声  満座重聞皆掩泣
 座中泣下誰最多  江州司馬青衫濕

 今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。
 仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。
 遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。
 君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。
 私がそういうとしばらく立っていたが、
 再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。
 凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、
 満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。
 座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、
 江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。

 国替えで遠い地へ行くなら、白楽天のように今夜は琵琶を弾いて泣き明かさなくてはならないね。最後の「べき」の一言で、白楽天の境遇への共感という重いテーマではなく、白楽天を真似てはどうか、という軽い意味になる。
 十四句目は、

   軒高き瓦の鬼のかげさびし
 施餓鬼過たる入相の幡      芭蕉
 (軒高き瓦の鬼のかげさびし施餓鬼過たる入相の幡)

は、鬼瓦の悪霊退散の心に施餓鬼を付ける。
 施餓鬼はウィキペディアに、

 「餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、またそのような法会を指す。特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される。 施餓鬼は特定の月日に行う行事ではなく、僧院では毎日修されることもある。
 日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。」

とある。盆の施餓鬼が過ぎるとお寺も静かになり、夕暮れ時は寂しげだ。
 二十三句目。

   けふ一七日戸帳ひらきて
 かしこまる百首のうたをよみをはり 芭蕉
 (かしこまる百首のうたをよみをはりけふ一七日戸帳ひらきて)

 初七日の追善に百首歌を捧げる。
 ちなみに芭蕉は元禄七年十月十二日に亡くなり、十八日の初七日には、

 なきがらを笠に隠すや枯尾花   其角

を発句とする追善百韻興行が行われた。
 二十九句目の、

   魚つむ船の岸による月
 露の身の嶋の乞食とくろみ果   芭蕉
 (露の身の嶋の乞食とくろみ果魚つむ船の岸による月)

は島流しであろう。後鳥羽院の俤とも言えるが、普通の流刑人の姿とも見られる。
 三十二句目は隠士の心で、

   猿の子の親なつかしくさけびけむ
 からすも鷺も柴の戸の伽     芭蕉
 (猿の子の親なつかしくさけびけむからすも鷺も柴の戸の伽)

猿の叫ぶ山奥に一人隠棲すると、カラスもサギも友達で話し相手だ。
 蕉風確立期の芭蕉らしい、古典の心を重視した句が並ぶ。

 同じ頃七月二十日、名古屋長虹亭で荷兮、越人らを交えた歌仙興行が催される。
 発句は、

 粟稗にとぼしくもあらず草の庵  芭蕉

になる。
 長虹は僧でお寺の中の草庵に住んでいたという。これはその印象をちょっと面白くいじった感じで詠んだのだろう。
 八句目。

   木の葉ちる榎の末も神無月
 つて待かぬる嶋のくひ物     芭蕉
 (木の葉ちる榎の末も神無月つて待かぬる嶋のくひ物)

 本土では穀物の収穫は終わる頃だろう。いつ食料が届くかと島では待っている。
 これも流刑人に思いを寄せたものか。流刑地ネタはやがて『奥の細道』の旅で、

 荒海や佐渡によこたふ天の川   芭蕉

の句を生むことになる。この句は写生句ではなく、あの荒海はさながら牽牛織女にとっての天の川のように、佐渡島の前に横たわっているという、流刑地に思いを寄せた句だった。
 二十四句目は恋を付ける。

   さまざまの香かほりけり月の影
 人一代の恋をとふ秋       芭蕉
 (さまざまの香かほりけり月の影人一代の恋をとふ秋)

 「人一代」は西鶴の『好色一代男』の一代と同じで、一人の人間の生涯の恋遍歴のことであろう。そこにはたくさんの女との出会い別れがあり、その都度違う香の薫りがあった。
 やはり芭蕉もどこかで西鶴を意識していたのか。
 二十九句目

   下戸をにくめる雪の夜の亭
 早咲のむめをわが身にたとへたり 芭蕉
 (早咲のむめをわが身にたとへたり下戸をにくめる雪の夜の亭)

 雪の夜に外で風流を楽しむ酒飲みは、自らを寒梅に喩える。
 芭蕉も下戸で、薄めた白い酒しか飲めなかったし、桃隣が芭蕉の足跡を求めてみちのくへ「舞都遲登理」旅に出る時に、其角は、

   餞別
 饅頭で人を尋よやまさくら    其角

の句を送っている。
 三十四句目は武家文化への風刺か。

   明やすき夜をますらが腹立て
 なにを鳴行ほととぎすやら    芭蕉
 (明やすき夜をますらが腹立てなにを鳴行ほととぎすやら)

 王朝貴族なら明け方に聞くホトトギスに風流を感じるところだが、武骨な益荒男は「なんだ、もう夜が明けちまったか」と腹を立て、せっかくのホトトギスも台無し。
 江戸後期の国学のせいで「益荒男ぶり」が『万葉集』の歌風を表すポジティブな言葉になったが、芭蕉の時代の「益荒(ますら)」のイメージはこんなもんだった。

 貞享五年の秋、芭蕉は越人を連れて『更科紀行』の旅に出ると、そのまま越人とともに江戸に戻る。九月上旬であろう。「しら菊に」の半歌仙が興行される。
 その第三。

   泥かぶりたる稲を干す屋根
 月幾日海なき国に旅寐して    芭蕉
 (月幾日海なき国に旅寐して泥かぶりたる稲を干す屋根)

 これは越人とともに信州姥捨て山の月を見に行って、その足で江戸に帰ってきたことを思い起こしての句で、「ただいま」の挨拶になっている。発句と脇が当座の興でもなく、特に寓意もない時は、第三にこういう展開もありうる。
 十六句目。

   談義の場泣くはふじゆ上る人そうな
 美しい子の膝にねぶりて     芭蕉
 (談義の場泣くはふじゆ上る人そうな美しい子の膝にねぶりて)

 前句を葬儀の際の談義として、諷誦上げる人は未亡人、膝の上には何も知らない子どもが眠っている。
 死を理解できない小さな子供を出すことで、かえってその悲しみを際立たせる演出は、『源氏物語』桐壺巻が最初であろう。美しい子は光の君の俤になる。

 この秋は『阿羅野』に収録される、越人の芭蕉、其角、嵐雪との両吟が巻かれる。芭蕉との両吟は、

   深川の夜
 雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人

を発句とする。
 深川は隅田川と小名木川の合流する地点で、行き交う船の音も騒がしければ、水鳥の鳴く声もけっこううるさかったのだろう。
 雁がねの声も騒がしいが、こうして芭蕉さんと二人で静かに聞けば、風流な声にも聞こえなくもない、といもので、芭蕉の脇は、

   雁がねもしづかに聞ばからびずや
 酒しゐならふこの比の月     芭蕉
 (雁がねもしづかに聞ばからびずや酒しゐならふこの比の月)

 「酒しゐ」は酒を強いること、無理に勧めることだが、十三夜から月見の宴が続くと、お客さんに酒を勧めて飲ませるのに慣れてしまった、とやや照れたように言う。
 普通の酒飲みなら酒しゐは普通のことで、「まあ飲めや、何俺の酒が飲めねえだと、べらんめえ」というところだが、「朝顔に我は飯食う男哉」の芭蕉さんのことだから、ようやく人に酒を勧められるようになった、ということろか。
 まあ、越人さんは大の酒好きだから、早く酒しゐしてくれと思ってたところだろう。其角や嵐雪は酒のみだから、この二人との両吟は思う存分飲めたかもしれない。
 芭蕉はここでも古典ネタを連発する。
 六句目。

   瓢箪の大きさ五石ばかり也
 風にふかれて帰る市人      芭蕉
 (瓢箪の大きさ五石ばかり也風にふかれて帰る市人)

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『蒙求』の許由の故事とする。『徒然草』十八段にも引用されていて、

 「唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。」

とある。
 まあ、五石の瓢箪を見ても「ああでかい瓢箪があるな」くらいで終わって、わざわざ買おうとは思わない。どうやって持って帰るかも問題だし、船もわざわざ瓢箪で作らなくても普通に小舟はある。
 五石の瓢箪は結局売れず、出品した商人は空しく帰るのみ。
 七句目。

   風にふかれて帰る市人
 なに事も長安は是名利の地    芭蕉
 (なに事も長安は是名利の地風にふかれて帰る市人)

 これは白楽天の『白氏文集』の「長安は古来名利の地、空手金無くんば行路難し」で、前句の風に吹かれて帰る市人を金がなくて何も買えなかったとする。
 十一句目は舞台は日本だが古代の玄蕃寮を持ち出す。

   ひとり世話やく寺の跡とり
 此里に古き玄番の名をつたへ   芭蕉
 (此里に古き玄番の名をつたへひとり世話やく寺の跡とり)

 「玄番(げんば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 玄蕃寮のこと。また、玄蕃寮に属する役人。げんばん。
  ※観智院本三宝絵(984)中「治部玄蕃雅楽司等を船にのりくはへて音楽を調てゆき向に」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「此里に古き玄番の名をつたへ〈芭蕉〉 足駄はかせぬ雨のあけぼの〈越人〉」

とある。
 その「玄蕃寮」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「日本古代の令制官司。玄は僧,蕃は海外諸国の意で,《和名抄》は〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉と訓じている。治部省の管轄下にあって,京内の寺院・仏事,諸国の僧尼の掌握,外国使節の接待,鴻臚館(こうろかん)の管理などをつかさどった。中国では玄は道教を意味し,隋・唐では崇玄署という道士(道教を修めた人)を監督する役所が設けられたが,この役所は同時に僧尼に関することも担当した。玄蕃寮の〈玄〉はおそらくこの役所に由来するもので,日本には道士が存在しなかったので,玄で僧侶のみを指すことになったのであろう。」

とある。
 古代に玄番を務めた人の末裔が今も田舎の小さな里を領有しているのであろう。それが今でも寺の跡取りの世話をしているというのが笑える。
 十七句目。

   物いそくさき舟路なりけり
 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉
 (月と花比良の高ねを北にして物いそくさき舟路なりけり)

 比良山は琵琶湖の西岸にある。それが北に見えるというのは堅田より南だろう。前句の「いそくさき(磯臭き)」を「急ぐ先」に取り成して、月見と花見に急ぐ旅人のこととする。
 琵琶湖を渡るには瀬田の唐橋を渡るか矢橋(やばせ)の渡しを船で渡るかになる。

 もののふの矢橋の船は速かれど
     急がば廻れ瀬田の長橋
              宗長法師
 
の歌がある。船は川止めが多くあてにならないというので宗長法師の歌になったが、江戸時代でもやはり急ぐ人は矢橋(やばせ)の渡しを選ぶ人が多かったのだろう。
 直接瀬田や矢橋を出さずに「比良の高嶺」で匂わせるあたりは、匂い付けとも言える。
 匂い付けは、昔からある、制の言葉を回避するためにわざとそれを連想させるものに言い換えていた、その手法から来たものではないかと思う。
 それが、談林時代には、

   青物使あけぼのの鴈
 久堅の中間男影出で       常之

のように、逆に季語を入れなくてはいけないところを、別の言葉で季語を連想させるような手法を生み出し、芭蕉もそれを応用して、

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉 芭蕉

の句を詠んだ。
 それがこの頃になって、疎句付けの手法として用いるようになったところで、「匂い付け」が誕生したのではなかったか。
 二十句目は貧乏自慢というか。

   破れ戸の釘うち付る春の末
 みせはさびしき麦のひきはり   芭蕉
 (破れ戸の釘うち付る春の末みせはさびしき麦のひきはり)

 麦の碾割(ひきわり)は石臼で荒く砕いただけの麦のこと。米と混ぜて炊く。
 ウィキペディアには、

 「麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき、水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。これを「えまし麦」といい、湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
 現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠治郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。」

とある。今の麦飯は押し麦を用いるが、その前は碾割を用いていた。
 昔は粟や稗や黍などの雑穀を盛んに食べていたが、春も末となるとそれらは品薄になり代わりに穫れ初めの麦が並ぶようになる。
 二十四句目。

   人去ていまだ御坐の匂ひける
 初瀬に籠る堂の片隅       芭蕉
 (人去ていまだ御坐の匂ひける初瀬に籠る堂の片隅)

 同じ『源氏物語』の玉鬘巻の初瀬詣での場面とも取れるが、王朝時代に初瀬詣でをする貴人の多かったので、特に誰のことでもないということで展開をしやすくしている。
 こういう本説とも取れるが、それと取らなくても意味が通じるような微妙な付け方は、出典を外すという後の「軽み」につながるもので、俤付けもよりはっきり意識されるようになる。
 三十句目も古典を踏まえてはいるが、それなしでもわかる句になっている。

   行月のうはの空にて消さうに
 砧も遠く鞍にいねぶり      芭蕉
 (行月のうはの空にて消さうに砧も遠く鞍にいねぶり)

 月の消えるのを明け方のこととする。さっきまで夜中の砧の音を聞いていたのに、うとうとしている間に夜が明けてしまったか、月は西の空に沈もうとしている。
 戦場へ向かう兵士だろうか。長安の砧の音を思い起こし、それを夢に見たのかもしれない。

   子夜呉歌     李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
 
の夫の側からの句であろう。
 馬上での居眠りに月といえば、『野ざらし紀行』の、

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

の句も思い浮かぶ。

2021年10月30日土曜日

 昨日に続いてふるさと村を起点に、今度は上麻生の秋葉大権現まで歩いた。本地垂迹で浄慶寺の境内にある。
 お寺の方には現代的な羅漢像が並んでいる。その中にアマビエ像も加わっていた。神社の方は明治二十三年銘の狛犬があり、優しい顔をしている。大権現なので鈴ではなく、仏教式に鰐口を鳴らすようになっている。
 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の最後の「一心二河白道」を読んだ。昨日の「公平甲論」とこれは、中世的なものがほとんど感じられず、江戸時代になってからのものなのだろう。
 「公平甲論」は緻密な設定の割には、人間の残虐な部分にはあまり触れず、今でいういわゆるバトルものになっている。
 「一心二河白道」はストーカーの悲劇の連鎖がテーマだが、仏教の果たす役割がかなり微妙で、古い時代の説教物とは一線を画す。
 今のドラマなら、ストーカーを退治し、有馬の湯を褒美に得て、目出度し目出度しで終わらせるところであろう。
 ここでは追い打ちをかけるように、まさに犯人からして僧であったように、仏自らが被害者に罪状を負わせてゆく。
 顕密仏教のゆるぎなかった時代とは違い、近世は儒教を国教とし、仏教を弱体化させようとしてきたし、儒者が独自の神道を作り出す所で、仏教と神道の分離も始まっていた。これは江戸時代には緩やかな不和として、せいぜい寺領と神社領の訴訟などの多発を生んだが、明治維新の廃仏毀釈で一つの沸点を迎えることとなった。
 「一心二河白道」も仏法を説くとともに、仏法に疑いを持たせる、両面を持っていたのではなかったかと思う。
 俳諧でも釈教句は仏法を説くとは程遠い、形だけ仏教の言葉の入った句が多くなるし、殺生や肉食の矛盾を突く句も多い。江戸時代は仏教、神道、儒教、道家などが相対化されて行く時代で、それが結局今日の日本人の霊性へとつながっていったのではないか。

 さて風流の方だが。
 年が明け貞享五年の春二月、伊勢で、

 何の木の花とは知らず匂ひ哉   芭蕉

を発句とする歌仙興行が催される。この発句は『笈の小文』にも収録される。また杜国が「の人」の名前で参加している。
 十三句目はその杜国の句で、

   碁に肱つきて涙落しつ
 いねがてに酒さへならず物おもひ の人
 (いねがてに酒さへならず物おもひ碁に肱つきて涙落しつ)

「の人(ひと)」は野人、野仁という字も充てるという。まあ、今でいうなら裏垢といったところか。不運な事件から尾張国を追放されていたので、野に下った人という意味でつけたか。
 「いねがて」は眠れなくてということ。眠れないうえに酒も飲めず碁盤で過去の棋譜を並べながら悶々としている。大きな試合に負けた棋士だろう。
 十八句目の芭蕉の句は被差別民の句で、

   もる月を賤き母の窓に見て
 藍にしみ付指かくすらん     芭蕉
 (もる月を賤き母の窓に見て藍にしみ付指かくすらん)

前句の賤き母を紺屋とした。
 紺屋はウィキペディアに、

 「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」

とある。
 被差別民であることがバレないように、藍の染み付いた指を隠す。
 二十五句目は古典ネタ。

   誰が駕ぞ霜かかるまで
 あこがるる楽の一手を聞とりて  芭蕉
 (あこがるる楽の一手を聞とりて誰が駕ぞ霜かかるまで)

 前句の「駕」は「のりもの」と読む。駕籠のこととは限らないので、ここでは牛車にする。
 『源氏物語』末摘花巻で常陸の親王の娘が七弦琴が得意だと聞いた源氏の君が、親王が名手だっただけにどういう琴を弾くのか気になり、わざわざ聞きに行く場面がある。ただ、季節は朧月夜だった。
 本説というほど物語に即してはなくて、王朝時代ならわざわざ霜の夜に楽の一手を聞きに行くこともあったのではないか、という所で付けている。俤付けと言っていいだろう。
 三十二句目は本説で付ける。

   親ひとり茶に能水と歎れつる
 まづ初瓜を米にしろなす     芭蕉
 (親ひとり茶に能水と歎れつるまづ初瓜を米にしろなす)

 「米にしろなす」は『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注に、

 「売って米に換えるの意。『類船』「瓜」の条に「孫鐘といふ人家貧にして瓜を作りし也」と見える」

とある。孫鐘の話はウィキペディアに、

 「孫鍾は呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)の瓜売りの商人であった。はやくから父を亡くして母とふたりで暮らしおり、親孝行であったという。ある年に凶作の飢饉の状況であり、彼は生き延びるために、瓜を植えてそれを売って生計を立てていた。
 ある日に、彼の家の前にとつぜん三人の少年が現れて、瓜が欲しいとせがんだ。迷った孫鍾自身も生活が苦しいものの、潔く少年らに瓜を与えた。瓜を食べ終わった三人の少年はまとめて孫鍾に「付近の山の下に墓を作って、あなたが埋葬されれば、その子孫から帝王となる人物が出るだろう」と述べた。まもなく三人の少年は白鶴に乗っていずこかに去っていった。
 歳月が流れて、孫鍾が亡くなると、かつて少年らが述べた付近の山の下に埋葬されたが、当地からたびたび光が見えて、五色の雲気が昇ったという。」

とある。
 親にいつか茶に良い水を、と思いつつ、まずは瓜を育てて売ることから始める。その子孫が帝王になったかどうかはわからない。

 同じ伊勢の春、

 紙衣のぬるとも折む雨の花    芭蕉

を発句とする興行もおこなわれた。歌仙だったと思われるが、残念ながら断片的にしか残っていない。
 七句目。

   馬に西瓜をつけて行なり
 秋寒く米一升に雇れて      芭蕉
 (秋寒く米一升に雇れて馬に西瓜をつけて行なり)

 前句の馬で西瓜を運ぶ人は荷物を運ぶ専門の馬ではなく、たまたま馬を連れた百姓を見つけ、米一升で西瓜を運んでもらうとする。
 まあ、七夕の特需で馬が足りなかったのだろう。
 十六句目。

   いなづまの光て来れば筆投て
 野中のわかれ片袖をもぐ     芭蕉
 (いなづまの光て来れば筆投て野中のわかれ片袖をもぐ)

 稲妻の光は電光石火という言葉もあるように、瞬時に何かをひらめいたりするのにも用いられる。元はそれこそ雷に打たれたようにはっと悟りを開くことをいったのだが。
 ここでなかなか踏ん切りのつかなかった別れに、何か一筆と思ってた筆も投げ捨てて、片袖を破って形見として預けて別れる。
 『野ざらし紀行』の、

   杜国におくる
 白げしにはねもぐ蝶の形見哉   芭蕉

の句を彷彿させる。男女のというよりは男同士の、死してもう会えないかもしれないというような別れを感じさせる。
 何句目かはわからない付け合いだが、

   汐は干て砂に文書須磨の浦
 日毎にかはる家を荷ひて     芭蕉
 (汐は干て砂に文書須磨の浦日毎にかはる家を荷ひて)

 「文書」は「ふみかく」と読む。須磨の浦ということで在原行平の俤というのはお約束といえよう。ただ、普通につけても面白くないので「家を荷て」で浜のヤドカリを連想させたというところに芭蕉らしさがある。
 ヤドカリは「寄虫(がうな)」ともいう。『笈の小文』の旅に出る時の「旅人と」の巻四十一句目に、

   堺の錦蜀をあらへる
 隠家や寄虫の友に交リなん    観水

の句がある。
 もう一句、何句目かわからない付け合い。

   目前のけしきそのまま詩に作
 八ツになる子の顔清げなり    芭蕉
 (目前のけしきそのまま詩に作八ツになる子の顔清げなり)

 詩はこの時代では漢詩のことで、数え八歳で眼前の景を即興で漢詩にするなんて、なかなかできることではない。数え七歳で読書を始めて、すぐに渤海国の使節相手に漢詩を作って見せるほどになったという桐壺巻の源氏の君の俤であろう。「光君(ひかるきみ)」という名はこのとき渤海国の使節が付けた名前だという。

 貞享五年六月五日、『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は明石から京へ戻り、一度岐阜へ行ってから大津に引き返した、その時、

 皷子花の短夜ねぶる昼間哉    芭蕉

の興行になる。尚白が参加している。
 第三で早速登場する。

   せめて凉しき蔦の青壁
 はつ月の影長檠にたたかひて    尚白
 (はつ月の影長檠にたたかひてせめて凉しき蔦の青壁)

 「長檠(ちゃうけい)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 台の高い灯火。また、その台。
  ※中華若木詩抄(1520頃)上「長檠は八尺、短檠は二尺也」

とある。八尺というと結構な高さがある。二メートル四十といったところか。
 初月は二日か三日の月。高い所の灯火が西の空に見える細い月に負けじと戦いを挑んでいる。今の街灯なら満月よりも明るいが、昔の灯しは弱々しく、初月と争うのがせいぜいだったのだろう。
 八句目。

   うかれたる女になれて日をつくる
 矢数に腕のよはる恋草       芭蕉
 (うかれたる女になれて日をつくる矢数に腕のよはる恋草)

 京都三十三間堂の通し矢は御三家対抗の競技会で盛り上がっていた。その通し矢のかつてのスターも遊郭にはまって今は見る影もないというところか。
 矢数というと西鶴の大矢数俳諧は貞享元年六月五日から六日にかけて住吉神社で二万三千五百句独吟興行を行った。矢数俳諧は延宝期に盛り上がりを見せ、『俳諧次韻』を共に巻いた才丸や天和期に「花にうき世」の巻に参加し、甲斐谷村にも同行した一晶も果敢にこの矢数俳諧に挑戦していた。許六がまだ常矩の門弟だった頃には、「一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す」なんてこともやってたという。
 西鶴の貞享元年の二万三千五百句独吟興行には其角もその場に居合わせていた。それくらい当時の俳諧師の関心は高かった。芭蕉も無関心だったわけではないだろう。ただ、芭蕉の才能は即吟向きではなく、寺社での聴衆の前での興行にも向いてなかったのだろう。それが『俳諧次韻』のようなテキストの遊びを取り入れた書物俳諧の方向に向かわせたのではなかったか。
 芭蕉は西鶴と違う方向に向かったが、何も意識してなかったわけではあるまい。二万三千五百句一昼夜に二万三千五百句という華々しい記録を作ったあと、西鶴は俳諧をやめたわけではなかったが、天和二年に『好色一代男』を書き、草紙の方で次々とヒット作を出し続けているのを見て、矢数俳諧の頃懐かしむ気持ちもあったのではないかと思う。西鶴は芭蕉のよきライバルではなく、別の所へ行ってしまった。「矢数に腕のよはる恋草」の句は、そんな裏の意味もあったのかもしれない。
 十五句目は景色の句。

   杖をまくらに菅笠の露
 いなづまに時々社拝まれて     芭蕉
 (いなづまに時々社拝まれて杖をまくらに菅笠の露)

 遠くにある社が稲妻が光るたびに姿を現す。

 貞享五年六月十九日岐阜での「蓮池の」の巻の興行は、名古屋の荷兮、越人をはじめとして惟然も初参加した。総勢十五人の連衆による賑やかな五十韻興行となった。
 その第三。

   水おもしろく見ゆるかるの子
 さざ波やけふは火とぼす暮待て  芭蕉
 (さざ波やけふは火とぼす暮待て水おもしろく見ゆるかるの子)

 「火とぼす暮」は暗に長良川の鵜飼いを指しているのだろう。鵜飼も良いがこうしてそれを待ちながらカルガモの子を見るのも癒される。
 四句目は越人で、

   さざ波やけふは火とぼす暮待て
 肝のつぶるる月の大きさ     越人
 (さざ波やけふは火とぼす暮待て肝のつぶるる月の大きさ)

と普通に月が登る情景だが、「肝のつぶるる」と俗語で大袈裟に囃している。
 登ったばかりの月は大きく見える。目の錯覚だというが。
 ここで惟然が登場する。
 五句目。

   肝のつぶるる月の大きさ
 苅萱に道つけ人の通るほど    惟然
 (苅萱に道つけ人の通るほど肝のつぶるる月の大きさ)

 萱を刈って人が通れるほどの道ができたところにちょうど夕暮れの月が昇り、それが異様にでかく見える。
 こういう平凡ながら今まであまり俳諧に詠まれることのなかった景色を見つけ出すのが、惟然の才能だったのかもしれない。出典だとか古典の情とかにこだわらないところが、軽み以降の最晩年の芭蕉の風に影響を与えて行くことになる。
 十六句目。

   蓬生の垣ねに機を巻かけて
 歯ぬけの祖父の念仏おかしき   芭蕉
 (蓬生の垣ねに機を巻かけて歯ぬけの祖父の念仏おかしき)

 前句を蓬に蔓草の茂った荒れた隠居所とし、歯の抜けた祖父(ぢぢ)が念仏を唱え、お勤めを行っている。ふがふがいう声が聞こえてくるようだ。
 二十句目の惟然の句も、

   秋の風橋杭つくる手斧屑
 はかまをかけて薄からする    惟然
 (秋の風橋杭つくる手斧屑はかまをかけて薄からする)

橋の工事のために邪魔なススキを刈っているという、俳諧ではこれまでなかったような日常の平凡な情景だ。
 三十三句目も、

   琴ならひ居る梅の静さ
 朝霞生捕れたるものおもひ    惟然
 (朝霞生捕れたるものおもひ琴ならひ居る梅の静さ)

と、「生捕れたる」で売られてきた遊女の身に転じる。お座敷に出るために琴を習う。遊女の多くは親が売ったり、借金のかたに取られた債務奴隷だったと思われるが、稀に拉致されて遊女になった者もいたのだろう。
 まあ、親が売り渡したのを本人に知らせてなければ、娘は一方的に拉致されたと証言するかもしれないが。

2021年10月29日金曜日

 今日も良い天気で、寺家ふるさと村を起点にして三輪椙山神社や鶴見川沿いを散歩した。
 三輪椙山神社には大正七年銘の狛犬があった。目玉が黒く、口の中が赤く彩色されていた。鶴見川にはカルガモはもとより、マガモやカイツブリもいた。
 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「公平甲論(きんぴらかぶとろん)」を読もうと思ったら、読んでてさっぱりわからない。登場人物が多いこともさることながら、「頼義長久合戦公平生捕問答」という前作の続きで、前作を読んでないからわからないはずだ。
 とりあえず、登場人物をまとめてみた。
 面白いのは坂田の公平(金平)という勇者がいて、れつさん・じゃうばんという二人の魔王と戦うという図式があることだ。坂田の公平は坂田金時がモデルであろう。

源頼義方

 源頼義
  実在の人物でコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「源頼義」の解説」に、

 「平安中期の武将。頼信(よりのぶ)の子。1031年(長元4)父に従い、平忠常(ただつね)の乱を鎮定した。小一条院(こいちじょういん)(敦明(あつあきら)親王)の判官代(ほうがんだい)として仕え、功により36年相模守(さがみのかみ)となり、東国の武士を従えた。51年(永承6)陸奥(むつ)の安倍頼時(あべのよりとき)(頼良(よりよし))が背くと、頼義は陸奥守として鎮撫(ちんぶ)に赴いた。頼時は降服し、53年(天喜1)頼義は鎮守府将軍となったが、56年に頼時はふたたび反乱を起こした。翌年、頼義は頼時を討ったが、頼時の子貞任(さだとう)を中心とする安倍氏の抵抗の前に苦戦し、出羽(でわ)の清原(きよはら)氏の援助を得て62年(康平5)やっと貞任を討ち、安倍氏を滅ぼし(前九年の役)、その功により翌年、正四位下、伊予(いよ)守となった。妻は平直方(なおかた)の娘。[上横手雅敬]」

とある。

 おくみの平太左衛門
  「前作で流刑の頼義を預かり味方となるが、らいげんに討たれた。」
 おくみの平太左衛門が兄弟の子供、年ひろ
 おくみの平太左衛門が兄弟の子供、年みち
 舎弟、おくみの弥二郎

 定兼
  頼義四天王の一人。
  「碓井貞光の息子という設定、遠江守、前作でらいげんに右の肩先を切られた。」
 季宗
  頼義四天王の一人。
  「卜部季武の息子という設定、駿河守。前作でらいげんに右膝をを切られた。」
 一人武者
  「平井保昌の息子という設定。播磨守。名は清春。前作でらいげんに右腕を切り込まれた。」
 竹綱
  頼義四天王の一人。武蔵守。
 坂田の公平(金平)
  頼義四天王の一人。兵庫の守。勇者。
 山田の源内時定
  源家の侍。

 備中国、吉田の小太郎道のり
 八幡の五郎

 大ばの権太郎清道
  あぐろ山に閉じ籠る。
 大ばの太兵衛はる清(平太兵衛)
  あぐろ山に閉じ籠る。
 大ばの庄司道国
  清道、はる清の祖父
 渡部のぜんじもり綱
  竹綱の祖父

 周防国ひろとみの旗頭、ひろとみの平内本秀
 周防国もりだの十郎

 相模国もんまの四郎やす時
 相模国もんまの五郎やすひろ
 駿河国竹の下兄弟三人

 相模国本間
 相模国渋谷
 みつはのぜんし
 やぎりの八郎
 関屋の大将ながぬまの源太

ただすの広長方

 ただすの広長(権大納言広長)
  源頼義を熊野の浦に流す。讒人。
 ただすの中将しげ長
  広長の子

 むとうの伝内とものり
 むとうの伝内源次ともみつ
 竹原猪熊入道らいげん
  この三人は前の戦いで首を取られる。

 らいげんの朋友
  出雲国しの村しがの入道れつさん。魔王。
  備後国三次の一族、三あくの律師じやうばん。魔王。

 播州うすきの平蔵

 備中石田の兵どう時氏
 備中伝内左衛門もり時
  石田の兵どう時氏の嫡子

 荒木兄弟

 さて風流の方の続き。
 続く名古屋での十一月二十八日、昌碧亭での興行では、芭蕉が発句を詠む。

 ためつけて雪見にまかる帋子哉  芭蕉

 「帋子(かみこ)」は風を通さないので防寒着にもなる。ただ湿気には弱そうなので、雪見に行くときは衣の下に来たのではないかと思う。
 昌碧の家に来るのにちゃんと衣の皺を伸ばし、きちんとした格好で来ました、というのだが、そのあと「雪見にまかる」とくると、「ただし雪を見にね」となり、整えたのは紙子でしたという落ちになる。活字で見ると分かりにくいが、これをゆっくりと吟じると、最後の「紙子」の所でみんな笑ったのではないかと思う。
 十四句目は旅体で、旅の苦しさを付ける。

   門跡の顔見る人はなかりけり
 笈に雨もる峯の稲妻       芭蕉
 (門跡の顔見る人はなかりけり笈に雨もる峯の稲妻)

 前句の門跡を廃寺になった門の跡と取り成したか。誰もいない廃寺に笈を背負った巡礼の旅人がしばし雨宿りする。笈の上に雨漏りの水が落ち、峯には稲妻が光る。
 三十句目。

   月しのぶ帋燭をけしてすべり入
 もの着て君をおどす秋風     芭蕉
 (月しのぶ帋燭をけしてすべり入もの着て君をおどす秋風)

 帋燭が消えたかと思ったら、急に何かが部屋に入ってきた。お化けかと思ってびっくりしたが、よく見ると秋風に吹き飛ばされた衣だった。
 幽霊の正体見たり的なネタだ。

 同じ頃の名古屋での興行であろう。荷兮、重五以外は見知らぬ名前が並ぶが、貞門系の人達か。
 発句の、

 露冴て筆に汲ほすしみづかな   芭蕉

の句は後に、

   苔清水
 凍解て筆を汲干すかな      芭蕉

に改作されている。
 冬の興行なので、清水の露が氷るように冷たいけど、この興行を書き留める筆のために汲み干しましょう、という興行開始の挨拶で、まあ、皆さん沢山句を付けて下さいね、という意味になる。
 十二句目は母の悲哀。

   朝もよひ我苣母の食に煮ん
 おぼろのかがみ値百銭      芭蕉
 (朝もよひ我苣母の食に煮んおぼろのかがみ値百銭)

 母ともなると色気もなくなり、鏡が曇ったまま長いこと砥いでない。
 そんな鏡は値千金とは言えないが、百銭の価値はある。
 二十一句目は古典ネタ。

   なでしこ手折瘡の瑞籬
 赤顔に西施が父の髭むさき    芭蕉
 (赤顔に西施が父の髭むさきなでしこ手折瘡の瑞籬)

 赤顔(あかがほ)は赤ら顔のこと。
 西施は庶民の生まれなので父親がどういう人かは知られていない。勝手に赤顔の髭面ということにする。
 この時代には梅毒がないので、前句の瘡は瘡蓋か腫物の意味になる。

 十二月一日は熱田の桐葉亭での興行になる。名古屋と熱田はそう遠くないが、名古屋には名古屋の連衆、熱田には熱田の連衆とはっきり分かれていて、あまり交流がなかったのか。博多と福岡のような違いなのかもしれない。城下町の名古屋と門前町の熱田とは雰囲気が全く違っていたのだろう。
 この日は大垣から如行を迎えての興行になる。これも岐阜は名古屋、大垣は熱田という組み合わせなのか。
 芭蕉の旅立ちの時の発句、

 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

の句を受けて、

   芭蕉老人京までのぼらんとして熱田にしばし
   とどまり侍るを訪ひて、我名よばれんといひ
   けん旅人の句をきき、歌仙一折
 旅人と我見はやさん笠の雪    如行

の句を発句として半歌仙興行が行われる。
 芭蕉の脇は、

   旅人と我見はやさん笠の雪
 盃寒く諷ひ候へ         芭蕉
 (旅人と我見はやさん笠の雪盃寒く諷ひ候へ)

で、「はやす」から「諷(うた)ひ」を付け、「雪」から「盃寒く」と四手に受ける。
 発句の「見はやさん」と主体を変えずに、旅人と見はやすから、寒いけど謡ってくれと二句一章にする。まあ、如行さんも大垣から旅をしてきたのだし、ともに旅人だということで、この半歌仙を楽しもうというところか。
 五句目。

   露になりけり庭の砂原
 こみかどに駒引むこふ頭ども   芭蕉
 (こみかどに駒引むこふ頭ども露になりけり庭の砂原)

 前句の砂の庭を馬場として、駒引きを付ける。
 駒引きはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 平安時代、毎年八月中旬に、諸国の牧場から献上した馬を天皇に御覧に入れる儀式。天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もと、国によって貢馬の日が決まっていたが、のちに一六日となり、諸国からの貢馬も鎌倉末期からは信濃の望月の牧の馬だけとなった。秋の駒牽。《季・秋》 〔九暦‐九条殿記・駒牽・天慶元年(938)九月七日〕
  ※俳諧・去来抄(1702‐04)先師評「駒ひきの木曾やいづらん三日の月〈去来〉」

とある。「こみかど」は正門ではない門で、ここでは馬のための入口になる。
 十七句目は時事ネタか。

   美濃侍のしたり顔なる
 御即位によき白髪と撰出され   芭蕉
 (御即位によき白髪と撰出され美濃侍のしたり顔なる)

 貞享四年は東山天皇の即位した年だった。ただ、その式典に白髪の美濃侍がいたかどうかは知らない。

 十二月四日は名古屋へ行き、聴雪亭で名古屋の連衆と歌仙興行をする。
 発句は、

 箱根越す人もあるらし今朝の雪  芭蕉

で、句の方は説明するほどのものでもなく、まあ、他人事だけど今日箱根を越す人は大変だろうなという句。
 八句目。

   帷子に袷羽織も秋めきて
 食早稲くさき田舎なりけり    芭蕉
 (帷子に袷羽織も秋めきて食早稲くさき田舎なりけり)

 当時の早稲は香り米で独特な匂いがあったという。ウィキペディアに、

 「日本において香り米が記載されている最古の文献は、日本最古の農書とされる『清良記』で、「薫早稲」「香餅」と記載されている。『清良記』と同じく17世紀に刊行された『会津農書』にも「香早稲」「鼠早稲」との記述がみられる。19世紀初頭に刊行された鹿児島の農書『成形図説』によると、日本では古代から神饌米、祭礼用、饗応用に用いられてきた。19世紀末に北海道庁が編纂した『北海道農事試験報告』によると、香り米は古くから不良地帯向けのイネとして知られており、北海道開拓の黎明期にも活用された。」

とある。
 なお、『奥の細道』の旅で芭蕉は、

 早稲の香や分け入る右は有磯海  芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十四句目。

   ころつくは皆団栗の落しなり
 その鬼見たし蓑虫の父      芭蕉
 (ころつくは皆団栗の落しなりその鬼見たし蓑虫の父)

 蓑虫の句は貞享二年夏の「涼しさの」の巻の六十七句目にも、

   わけてさびしき五器の焼米
 みの虫の狂詩つくれと啼ならん  芭蕉

の句があった。
 許六編『風俗文選』の素堂「蓑虫ノ説」に、

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。いかに伝へて鬼の子なるらん。清女が筆のさかなしや。よし鬼なりとも瞽叟を父として舜あり。汝はむしの舜ならんか。」

と記している。
 蓑虫は鳴かないが「ちちよちちよ」と鳴くというのは、ウィキペディアによればカネタタキの声を蓑虫の声と誤ったのではないかと言う。まあ、ミミズが鳴くというのも、実はおケラの声だったというから。
 「清女」は清少納言のことで『枕草子』に

 「みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、今秋風吹かむをりぞ来んとする」

とある。瞽叟(こそう)は伝説の舜帝の父で、コトバンクの「世界大百科事典内の瞽叟の言及」に「舜の父は瞽叟(こそう)で暗黒神。」とある。
 団栗が落ちる中で一人ぶら下がっている蓑虫は父親が鬼だと言われている。どんな鬼なのか見てみたいという句で、団栗の落ちる木に蓑虫をあしらう。
 なお、芭蕉は翌三月伊賀を訪れた時に、土芳の蓑虫庵の庵開きにと、

 みの虫の音を聞きにこよ草の庵  芭蕉

の句を贈っている。
 また、そのあと葛城山で、

 猶みたし花に明行神の顔     芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十八句目は古典ネタ。

   ひょっとした哥の五文字を忘れたり
 妻戸たたきて逃て帰りぬ     芭蕉
 (ひょっとした哥の五文字を忘れたり妻戸たたきて逃て帰りぬ)

 「妻戸」はコトバンクに「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。寝殿造では、周囲の建具は蔀(しとみ)であったため、出入りには不便であり、そのため建物の端の隅に板扉を設けて出入口とした。妻は端を意味し、端にある扉であるために妻戸とよばれた。寺院建築や神社建築では板扉を板唐戸(いたからと)という。妻戸は板唐戸の形式の扉であったため、この形式の扉は建物の端に設けられなくても、すべて妻戸の名でよばれるようになった。[工藤圭章]」

とある。
 王朝時代の歌合の時に、歌の下手な人が事前に誰かに作ってもらってそれを覚えて行って披露するつもりだったのが、本番の時にその歌を忘れてしまったのだろう。妻戸を叩いて逃げ帰って行く。
 和泉式部の娘の小式部内侍が歌合の時に定頼の中納言に、「母からの文(ふみ)は来たか」と代作を疑われたのに答えて、

 大江山いく野の道の遠ければ
     まだふみも見ず天橋立
              小式部内侍(金葉集)

と詠んだという話はよく知られている。
 三十三句目はいわゆる楽屋落ち。

   ねぶたき昼はまろび転びて
 旅衣尾張の国の十蔵か       芭蕉
 (旅衣尾張の国の十蔵かねぶたき昼はまろび転びて)

 「十蔵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「越人の通称」とある。コトバンクの「美術人名辞典の解説」にも、

 「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」

とある。
 前句のぐうたら者はまるで越人だなということで、越人はいじりやすい人柄だったのだろう。

 十二月九日は同じく名古屋の一井亭での半歌仙興行になる。
 発句は

 たび寐よし宿は師走の夕月夜    芭蕉

で、興行は夕方から始まったのであろう。
 「たび寐よし」と一井の家に今日は泊めてもらうということで、当座の興に即した挨拶句になっている。九日の月はほぼ半月。
 八句目は『源氏物語』葵巻の六条御息所の本説であろう。

   起もせできき知る匂ひおそろしき
 乱れし鬢の汗ぬぐひ居る      芭蕉
 (起もせできき知る匂ひおそろしき乱れし鬢の汗ぬぐひ居る)

 「あやしう、われにもあらぬ御心ちをおぼしつづくるに、御ぞなども、ただけしのかにしみかへりたり。
 あやしさに、御ゆするまゐり、御ぞきかへなどし給ひて、こころみ給へど、なほおなじやうにのみあれば、我が身ながらだにうとましうおぼさるるに、まして、人のいひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつにおぼしなげくに、いとど御こころがはりもまさり行く。
 (妙な自分が自分でなくなるような感覚は続いていて、御衣などもただ、祈祷の際に焚いた護摩の芥子の香が染み付くばかりです。
 気持ち悪いので髪を洗ったり御衣を着替えたりしても、これといって変化もないので自分のことながら嫌になり、まして人がどう思っているかなど人に聞くわけにもいかず、一人で悶々とするだけでますます精神に変調をきたして行くばかりです。)

の場面であろう。
 十五句目。

   馬もありかぬ山際の霧
 小男鹿のそれ矢を袖にいつけさせ  芭蕉
 (小男鹿のそれ矢を袖にいつけさせ馬もありかぬ山際の霧)

 「いつけさせ」は「射付けさせ」で袖を射抜いてということ。
 街道から外れた山道、霧の中を歩いているとさお鹿を狙った矢が袖を射抜いてゆく。危ないから知らない山に勝手に入ってはいけない。抜け道などせずに街道を歩こう。
 旅ではたまに起きることだったか。

2021年10月28日木曜日

 今日は朝から天気がよく、つきみ野の大和市観光花農園のコスモスを見に行った。久しぶりに電車に乗った。
 帰りは中央林間に出て、モンシェリーのたぬきケーキを買った。
 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「阿弥陀の胸割」を読んだ。胸を割って臓器を摘出するという話になると、今の中国のことがすぐに連想されてしまうが、是は扨置。
 弟の「氏」のために姉が犠牲になるというパターンは、この時代の深い問題を含んでいたことは十分想像できる。すくなくともその犠牲を仏さまが望まない、ここが大事なんだと思う。
 悪に対しては仏さまは鬼を使役してでも報復する。近代では国家権力の暴力装置がこれを行うことになるわけだが。
 安達ヶ原の黒塚の話は前にも書いたが、病気を治すのに生き胆を求めるという発想は、薬にして飲む話になっているが、臓器移植を連想させる。「延命水といふ酒にて七十五度洗い清て」とあるのも、アルコール消毒と思われる。
 臓器が駄目になったなら移植すればいいという発想は、案外古くからあって、実際に試みられたことがあったのかもしれない。
 「牛王の姫」は拷問の残虐さがテーマか。「十日に十をの指を捥がれ、廿日に廿の身を砕かれ」は、似たようなのが月夜涙さんの『回復術士のやり直し』にもあったが、やはり本物の中世は違う。

 翌日六日にも如意寺如風亭で「翁草」の巻を興行する。
 まずは脇で、

   めづらしや落葉のころの翁草
 衛士の薪と手折冬梅       芭蕉
 (めづらしや落葉のころの翁草衛士の薪と手折冬梅)

 旅だと珍しいゲストを迎えた時の挨拶の句が増えて来る。そういうわけで、芭蕉も寓意で応じる場面が増えて来る。
 ここでは、翁草だと思ったのは衛士が焚き木にしようとして折った寒梅のことでしょう、と受ける。世間から見捨てられた世捨て人ですよ、といったところか。
 衛士というと、

 みかきもり衛士の焼火の夜はもえ
     昼は消つつ物をこそおもへ
             大中臣能宣(詞花集)

の歌が『小倉百人一首』でも有名だ。「衛士」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「古代,律令の兵制において,諸国の軍団から選ばれて1年 (のち3年) 交代で上京し,衛門府,衛士府に配属され,宮門の警衛にあたった者。」

とある。
 十二句目も俳言がなく、連歌のような句を付けている。

   白雲をわけて故郷の山しろし
 はなてる鶴の鳴かへる見ゆ    芭蕉
 (白雲をわけて故郷の山しろしはなてる鶴の鳴かへる見ゆ)

 白雲を分けて飛んで行く放たれた鶴とする。
 十九句目も謡曲で付ける。

   痩たる馬の春につながる
 米かりに草の戸出る朝がすみ   芭蕉
 (米かりに草の戸出る朝がすみ痩たる馬の春につながる)

 謡曲『鉢木』のあの「いざ鎌倉」の落ちぶれた武士であろう。謡曲では冬で秋に収穫した粟を食っていたが、それも底をつきたか、春には米を借りに行く。
 二十八句目。

   柱引御代のはじめのうねび山
 ささらにけづる伊勢の浜竹    芭蕉
 (柱引御代のはじめのうねび山ささらにけづる伊勢の浜竹)

 「伊勢の浜竹」はよくわからない。「難波の葦は伊勢の浜荻」をもとにして作った造語で、都では別の竹の名称があるということか。ささらは掃除をするわけではないだろう。楽器のささらで、即位を祝ってささらの舞を奉納したということか。田楽や神楽などの古い芸能にはささらが用いられる。
 伊勢と言うと伊勢踊りがある。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「伊勢参宮信仰に伴って近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり)。庶民の伊勢参宮流行の歴史は934年(承平4)の記録までさかのぼるが、1614年(慶長19)に大神宮が野上山に飛び移ったという流言がおこって、にわかに伊勢踊が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。1635年(寛永12)に尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した伊勢踊は、裏紅の小袖(こそで)に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯(なわおび)、晒(さらし)の鉢巻姿の、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これはどこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われている。1650年(慶安3)にお陰参りが始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての伊勢踊の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島(にいじま)や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している。[西角井正大]」

とある。
 この伊勢踊りに用いるささらであろう。

 貞享四年十一月七日では尾張鳴海の安信亭で興行を行う。発句は『笈の小文』にも収められたこの句だ。

 星崎の闇を見よとや啼千鳥    芭蕉

 七日は半月。夜半近くになると月も沈み闇となる。冬の寒々とした夜に鳴く千鳥の声は、あたかもこの闇を見よと言っているように聞こえる。
 十二句目。

   籾臼の音聞ながら我いびき
 月をほしたる螺の酒       芭蕉
 (籾臼の音聞ながら我いびき月をほしたる螺の酒)

 螺は法螺貝。法螺貝に酒を汲んで月を飲み干すだなんて、それ自体が法螺だ。まあ、籾臼の傍で鼾かいて寝ている人の夢ということだろう。
 越人ならそのままの意味になりそうだが、芭蕉さんの場合は上戸になった夢でも見たか。
 二十句目。

   辛螺がらの油ながるる薄氷
 角ある眉に化粧する霜      芭蕉
 (辛螺がらの油ながるる薄氷角ある眉に化粧する霜)

 田螺にはカタツムリのような角がある。そこに霜が降りかかり、化粧したみたいになる。前句の「薄氷」から冬の景とする。穏やかな句が続く。
 二十七句目。

   あさくさ米の出る川口
 欄干に頤ならぶ夕涼       芭蕉
 (欄干に頤ならぶ夕涼あさくさ米の出る川口)

 前句の「あさくさ米」は浅草御蔵に集められた御蔵米で、武士の給料はここから支払われる。ただ、ここではその支給日には関係なく、すぐ近くにある両国橋の情景を付ける。夏になると夕涼みの人で賑わった。
 頤(おとがい)はあごのことだが、欄干から川の方へ身を乗り出していると頤を突き出すような姿勢になる。特に舟か河原の方から見上げると顎ばかりが目立つ形になる。なかなか面白い描写だ。

 十一月二十四日には新しくなった熱田神宮に詣でて、桐葉との両吟歌仙を興行する。
 発句は、

   ふたたび御修覆なりし熱田の社にまうでて
 磨なをす鏡も清し雪の花     芭蕉

で、それに桐葉が、

   磨なをす鏡も清し雪の花
 石敷庭のさゆるあかつき     桐葉
 (磨なをす鏡も清し雪の花石敷庭のさゆるあかつき)

の脇を付けて、 玉砂利を敷き詰めた広い境内も雪で真っ白で、身が引き締まるような寒さの明け方ですね、と和す。
 四句目はわかりにくいが経済ネタになる。

   時々は松笠落る風やみて
 我がはとかへる山のかげろひ   芭蕉
 (時々は松笠落る風やみて我がはとかへる山のかげろひ)

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「夕暮れになって、風も落ち、山のかげる頃、自家の飼鳩が帰ってくる」としている。
 問題はこの「自家の鳩」だが、この時代伝書鳩があったのかどうかだ。
 ウィキペディアには、

 「日本には、カワラバトは飛鳥時代には渡来していた。伝書鳩としては江戸時代に輸入された記録があり、京阪神地方で商業用の連絡に使われた。大坂 - 大津間の米取引で大津の米商は大坂の米価の情報を早く掴むことを競っており、大坂 - 大津間では旗や幟を使った通信が盛んに行われていた。幕府は何度も旗や幟による通信の禁令を出したが、時代が下ると鳩による通信も禁令に加えられており伝書鳩も用いられていたことがわかっている。1783年に大阪の相場師・相模屋又八が投機目的で堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰されている。」

とある。
 まあ、わりかし最近でもコンマ何秒を争う株式相場のために証券取引市場まで山を越える専用の回線を敷いた投資家がいたから、昔の人がいち早く相場を知るのに伝書鳩を使ったというのはわかる。杜国のところに鳩がいたのかもしれない。今のような競技会が行われていて趣味で鳩を飼うということではなかったと思う。
 となると、この句は相場師の句であろう。前句の「風やみて」を夕凪とし、山が陰る頃に鳩が帰ってきたとする。
 八句目。

   肌寒くならはぬ銭を襟にかけ
 こぼるる鬢の黒き強力      芭蕉
 (肌寒くならはぬ銭を襟にかけこぼるる鬢の黒き強力)

 強力(がうりき)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「山伏,修験者 (しゅげんじゃ) に従い,力役 (りょくえき) をつとめる従者の呼称。修験者が,その修行の場を山野に求め,長途の旅を続けたところから,その荷をかついでこれに従った者。中世になると社寺あるいは貴族に仕え,輿 (こし) をかつぐ下人をも強力と称した。現在では,登山者の荷物を運び,道案内をする者を強力と呼ぶが,これは日本の登山が,修験者の修行に始ることに由来する。」

とある。
 慣れない銭をたくさん持っての旅を修験者の旅として強力を付ける。
 十二句目。

   古畑にひとりはえたる麦刈て
 物呼ぶ声や野馬とるらむ     芭蕉
 (古畑にひとりはえたる麦刈て物呼ぶ声や野馬とるらむ)

 古畑で麦を刈っていると、近くの放牧場から大声で何かを呼ぶ声がする。放牧されている馬を捕まえようとしているのだろう。放牧馬はしばしば放置されて半野生化することもある。
 十八句目は二句一章の和歌の用の句だ。

   此塚の女は花の名におられ
 ただ泣がほをさけるつつじぞ   芭蕉
 (此塚の女は花の名におられただ泣がほをさけるつつじぞ)

 つつじは漢字で躑躅(てきちょく)と書くが、この字はもう一方で「足踏みする、ためらう」という意味がある。
 躑躅という花の名をもつ女の塚の前で、泣き顔を見せたくないと避けるに、咲けるを掛けて「つつじぞ」で結ぶ。和歌のような付け句だ。
 二十一句目は旅体の句。

   ゆらゆら下る坂の乗かけ
 水濁る一里の河原煩ひて     芭蕉
 (水濁る一里の河原煩ひてゆらゆら下る坂の乗かけ)

 この「て留」は前付けで「ゆらゆら下る坂の乗かけ、水濁る一里の河原煩ひて」と読む。坂を下って行ったら水が濁って増水しているのが見えて、これは川止めだ困ったということになる。
 二十五句目では奇抜な空想を見せる。

   勅衣をまとふ身こそ高けれ
 鰐添て経つむ船を送るかと    芭蕉
 (鰐添て経つむ船を送るかと勅衣をまとふ身こそ高けれ)

 鰐(わに)は神話に登場する動物で、海の道を作ったり塞いだりする。鰐が水の上に並んで人を渡らせる物語は世界各地に存在するらしい。
 記紀神話の「和邇」は近年サメのことだとする説もあるが、ウィキペディアによると、

 「平安時代の辞書『和名類聚抄(和名抄)』には、麻果切韻に和邇は、鰐のことで、鼈(スッポン)に似て四足が有り、クチバシの長さが三尺、甚だ歯が鋭く、大鹿が川を渡るとき之を中断すると記してあるとある。和邇とは別の鮫の項には、「和名 佐米」と読み方が記され、「さめ」と読む「鮫」という字が使われ始めた平安時代において、爬虫類のワニのことも知られていたことを示す。和漢三才図会の鰐の項では、和名抄には蜥蜴に似ると記されているとある。」

 『和漢三才図会』は芭蕉の時代より少し後だが、この時代の人は見たことはなくても鰐と鮫は別のもので、神話や説話に登場する謎の生き物という認識だったのではないかと思う。「麒麟」や「獅子」のようなものではなかったかと思う。
 鰐が水路を開いたり閉じたりする存在であれば、その鰐を味方につけて経を積んだ船の無事を願うのは、当時の人の発想としてやや突飛だがありそうな、という微妙なところをついていて、ネタとして面白かったのだと思う。
 二十七句目も、礒に松は月並みなパターンだが、それを強引に恋に持って行く。

   塩こす岩のかくれあらはれ
 打ゆがむ松にも似たる恋をして  芭蕉
 (打ゆがむ松にも似たる恋をして塩こす岩のかくれあらはれ)

 岩の上に長年の風雨波浪に耐えて幹の曲折した松のように、長年に渡って苦悩の中で待ち続ける恋をする老婆がいる。『古事記』の赤猪子の俤もあるのかもしれない。日本人の松の枝ぶりに関する美学の根源といえよう。
 二十九句目も恋の句になる。

   縣の聟のしり目なる月
 秋山の伏猪を告る声々に     芭蕉
 (秋山の伏猪を告る声々に縣の聟のしり目なる月)

 前句の「縣の聟」を田舎の婿の意味にする。畑を荒らす害獣が見つかったというのに、庄屋の娘婿は知らん顔。非力な色男というところか。
 両吟だと詠む句も多く、芭蕉もここでは多彩な付け句を見せてくれている。 

 十一月二十六日には名古屋の荷兮亭で、『冬の日』のメンバーと再会を果たす。このときは越人も加わる。また、岐阜から来た落梧も加わり、賑やかな興行になる。
 芭蕉はまず脇を付ける。

   凩のさむさかさねよ稲葉山
 よき家続く雪の見どころ     芭蕉
 (凩のさむさかさねよ稲葉山よき家続く雪の見どころ)

 落梧の木枯らしの旅を重ねて稲葉山まで来てくださいという発句に、立派な家並の続く良い所で雪見するのにも良いと聞いています、と答える。
 落梧の家が岐阜で代々続く豪商だということを聞いていたのだろう。
 敦賀の方に高い山がないため、日本海の方からやってくる雪雲は伊吹山に大雪を降らせる。昭和二年二月十四日には十一メートル八十二センチの積雪が観測されたという。岐阜からだとこの伊吹山が良く見える。
 越人は四句目に登場する。

   鵙の居る里の垣根に餌をさして
 黍の折レ合道ほそき也      越人
 (鵙の居る里の垣根に餌をさして黍の折レ合道ほそき也)

 黍は風で折れやすい。黍畑の横の道を通ると黍が倒れて邪魔になっているのは「あるある」だったのだろう。狭い道では両方から黍が折れて道を塞いでしまう。
 前句の鵙の居る里を、米の取れない山里とした。
 芭蕉の九句目。

   芥子など有て竹痩し村
 被とる顔色白くおとろへて    芭蕉
 (被とる顔色白くおとろへて芥子など有て竹痩し村)

 前句は薬用の芥子を栽培している津軽地方で、竹も北限になり痩せているという句だった。
 これに薬を求めてやって来た「顔色白くおとろへ」た病人を付ける。
 二十句目は

   青々と動かぬ石の長閑にて
 酔てまたぬる此橋のうへ     芭蕉
 (青々と動かぬ石の長閑にて酔てまたぬる此橋のうへ)

と、前句の長閑な景に、橋の上で寝込んでいる酔っ払いを付ける。紺の着物を着ていたのだろう。

2021年10月27日水曜日

 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「さんせう太夫」を読む。
 これまでのような七五調の文体でなく、遊びのほとんどないハードモードだった。寛永の草子本が底本なので、琵琶法師の物語とはまた別なのだろう。
 中世の日本には下人という奴隷がいて、人身売買が行われていた。芭蕉の時代には過去のものになってはいたが、遊女の売買はまだ行わていた。
 キーワードを一つ言えば「女に氏はないぞやれ」であろう。江戸時代でも女性は名字で呼ばれることはなかった。田氏捨女は珍しく生涯田氏に縛られていたが、氏がないというのは両面性をもっていた。
 逃げたのが安寿姫だったなら、仇討の義務もなければお家の再興なんてことも考える必要はなかった。つし王丸だから、と思うと、『鬼滅の刃』の「長男だから」というのも、あの時代の設定なら炭次郎も氏を背負っているという意識があったのか。
 このあと森鴎外の『山椒大夫』を青空文庫で読んだが、だいぶイージーモードに書き直されていた。まあ、お伽話も時代が下れば下る程、みんないい人ばかり、残虐な人なんてどこにもいないみたいになってゆく。
 『回復術士のやり直し』も中世の人が読んだなら、これでもぬるいと言うだろうな。

 昨日の所でちょっと杜国のことに触れたが、今でも杜国の先物取引を非難する論者というのは、基本的に左翼なんだろう。経済音痴は左翼にとってはステータスになる。
 株に関しても、博奕だという風評を広めているのはこいつらだ。
 株の売買は二つの点で社会に貢献している。
 一つは企業の資金を提供することで企業活動を援助する。銀行預金と違って、投資する企業を選べるというのが大きい。銀行預金は間接投資になるので、投資する企業を選べない。
 もう一つは安く買って高く売ることで株価を適切な水準に調整するという役割がある。こちらの方は忘れられがちだが、いわゆる「神の見えざる手」の一翼を担う重要な役割だ。割安な株を買うことで株価を適正な価格にまで引き上げ、割高になった株を売ることで株価を適正な価格にまで引き下げる。これも大事な役割だ。
 キャピタルゲイン課税に関しては累進課税にするべきだと思う。零細な株主は非課税にしてほしい。個人株主の力を強くすれば、大資本の独占に対抗できる。

 貞享四年の冬の初めに、芭蕉はふたたび『笈の小文』の旅に出る。
 その旅の前に三つの餞別興行が行われる。
 まずは九月、露沾邸で餞別七吟歌仙が行われる。

 発句は、

   旅泊に年を越てよしのの花にこころせん事を申す
 時は秋吉野をこめし旅のつと   露沾

で、これに芭蕉はこう答える。
 脇。

   時は秋吉野をこめし旅のつと
 鳫をともねに雲風の月      芭蕉
 (時は秋吉野をこめし旅のつと鳫をともねに雲風の月)

 秋の旅なので「鳫(かり)」と仮寝をかけて「鳫をともね」と受けて、「風雲の月」を添える。雲も風も定めなきというところで、予定を明確に定めずにという意味も込められている。
 七句目。

   をろさぬ窓に枝覗く松
 傘の絵をかくかしらかたぶけて  芭蕉
 (傘の絵をかくかしらかたぶけてをろさぬ窓に枝覗く松)

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「絵日傘に描く絵」とある。
 「洋がさタイムズ」というサイトによると、貞享の頃、江戸・京・大阪で絵日傘が流行したという。
 「日本傘略年表 - ミツカン水の文化センター」のページにもこの頃婦女子の間で絵日傘が流行したとある。当世流行のネタだった。
 唐傘に絵付けをしている職人は頭を傾けて、窓の外の松の枝を見る。松の枝を描いているのだろうか。
 十四句目は恋の句。

   恋を断ッ鎌倉山の奥ふかし
 しぼるたもとを匂ふ風蘭     芭蕉
 (恋を断ッ鎌倉山の奥ふかししぼるたもとを匂ふ風蘭)

 風蘭(ふうらん)は富貴蘭ともいう。ウィキペディアには、

 「フウランは、日本特産のラン科植物で、樹木の上に生育する着生植物である。花が美しく、香りがよいことから、古くから栽培されたものと考えられる。その中から、姿形の変わったものや珍しいものを選び出し、特に珍重するようになったのも、江戸時代の中頃までさかのぼることができる。文化文政のころ、一つのブームがあったようで、徳川十一代将軍家斉も愛好し、諸大名も盛んに収集を行なっていたと言う。」

とある。芭蕉も先見の明があったものだ。
 前句の鎌倉山で恋を断つというのは、縁切寺として有名な東慶寺のことであろう。
 悲しみに涙流した袖を絞ると、蘭の香がする。
 蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、貞淑さを表す。『野ざらし紀行』の旅で、

 蘭の香やてふの翅にたき物す   芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十一句目は隠士の心。

   磬うつかたに鳥帰る道
 楢の葉に我文集を書終り     芭蕉
 (楢の葉に我文集を書終り磬うつかたに鳥帰る道)

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「寒山が興に乗じて落葉に詩を録し、後人それによって寒山集を編んだという故事による。」

とある。この話は芥川龍之介の『芭蕉雑記』にも、

 「寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかったやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳詣は流転に任せたのではなかったであらうか?少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかったではないか?」

とある。なお『寒山子詩集』の序には「唯於竹木石壁書詩」とあるが「葉」とは書いていない。竹や木や石や壁に書いたものは普通に後に残せるが、葉だと押し葉標本のように乾燥させる必要がある。
 日本語だと「このは」が「ことのは」に似ているというのもあるのだろう。前句を山深い庵としての展開になる。

 貞享四年十月十一日、其角亭での世吉(四十四句)興行はあの有名な発句で始まる。

   十月十一日餞別會
 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

 この句は『笈の小文』にも収録される。
 十二句目。

   酒のみにさをとめ達の並ビ居て
 卯月の雪を握るつくばね     芭蕉
 (酒のみにさをとめ達の並ビ居て卯月の雪を握るつくばね)

 いくら江戸時代が寒冷期だといっても、さすがに旧暦四月の標高八七七メートルの筑波山に雪はなかっただろう。これは、

 花は皆散りはてぬらし筑波嶺の
     木のもとごとにつもる白雪
              法眼兼譽(続千載集)

だったのではないか。
 あるいは卯月の雪は卯の花の花びらだったのかもしれない。筑波山の見える所で田植をしていると、苗と一緒に卯の花の花びらをつかむことになる。打越に松があるので卯の花は出せないため、あえて卯の花を抜いたのであろう。

 続く十月二十五日にも、芭蕉・其角・嵐雪・濁子の四吟半歌仙興行が行われている。
 発句は、

 江戸桜心かよはんいくしぐれ   濁子

と、吉野の桜を見に行く芭蕉に対し、吉野の桜も江戸の桜も心は同じだ。われわれも芭蕉さんが吉野の桜を見ているときには江戸の桜を見て、同じ桜を楽しむことにしよう。それまで、いくつ時雨に降られることかと詠む。
 旅に出なくても心はいつも一緒だよ、と言って送り出す。
 これに芭蕉の脇はこう答える。

   江戸桜心かよはんいくしぐれ
 薩埵の霜にかへりみる月     芭蕉
 (江戸桜心かよはんいくしぐれ薩埵の霜にかへりみる月)

 薩埵峠を越える時には江戸の方を振り返って月を見ることになるだろう。薩埵峠で東を見れば、月だけでなく富士山の雄大な姿も見える。
 十三句目は恋からの転換。

   夢を占きく閨の朝風
 津の国のなにはなにはと物うりて 芭蕉
 (津の国のなにはなにはと物うりて夢を占きく閨の朝風)

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注は、

 津の国の難波の春は夢なれや
     葦の枯葉に風わたるなり
              西行法師

の歌を引用している。前句の「夢」からこの歌の縁で「難波」に展開する。
 ただ、昔は葦原だった難波もこの時代は巨大な商業都市。朝風に聞こえてくるのは物売りの声。難波と「何は何は」を掛けている。
 十七句目は花の定座。

   苗代もえる雨こまか也
 鷺の巣のいくつか花に見えすきて 芭蕉
 (鷺の巣のいくつか花に見えすきて苗代もえる雨こまか也)

 鷺はウィキペディアに、

 「巣は見晴らしの良い高木性の樹の上に設け、コロニーを形成する。コロニーにおいては、特定の種が固まる性質はなく、同じ木にダイサギとコサギが巣をかけることも珍しくはない。コロニーは、天敵からの攻撃を防ぐために、河川敷などが選ばれることが多いが、近年は個体数の増加から、寺社林に形成する例も増え、糞害などが問題とされることがある。」

とある。
 筆者がよく仕事で通った埼玉県吉川市の中川沿いにも、大量の白鷺の集まる場所がある。さすがに花と見間違うことはないが、白鷺の群れの中に白い昔ながらの山桜があれば、「おきまどわせる白菊の花」のようで面白いかもしれない。

 貞享四年十月二十五日芭蕉は旅立ち、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着する。そして翌十一月五日には同じ鳴海の菐言亭で興行を行う。
 発句は、

 京まではまだなかぞらや雪の雲  芭蕉

だった。
 十句目。

   わたり舟夜も明がたに山みえて
 鐘いくところにしかひがしか   芭蕉
 (わたり舟夜も明がたに山みえて鐘いくところにしかひがしか)

 明け方に鐘が鳴るが、それは西か東か、というわけだが、この年の春に詠んだ、

 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉

とややかぶっている。隅田川の渡し船に上野か浅草の鐘の音が聞こえてくる情景を、どことも知れぬ山に近い渡し場に変えたというところか。
 十三句目。

   なみだをそへて鄙の腰折
 髪けづる熊の油の名もつらく   芭蕉
 (髪けづる熊の油の名もつらくなみだをそへて鄙の腰折)

 熊の油はマタギの人たちが古くから用いていたという。ただ、髪に使ったりはしないだろう。どんな田舎者かというギャグ。『伊勢物語』第十四段の「くたかけ」女のイメージか。
 二十句目。

   うき年を取てはたちも漸過ぬ
 父のいくさを起ふしの夢     芭蕉
 (うき年を取てはたちも漸過ぬ父のいくさを起ふしの夢)

 前句を戦死した父の喪に服しているので「うき年を取て」とする。
 俳諧では軍記物などの趣向で軍の場面を付けることも多いが、基本的には軍(いくさ)は悲しいもので、天下泰平を願う心を込めるのが風流の心と言えよう。古今集仮名序の「たけきもののふのこころをなぐさめ」の伝統だ。

2021年10月26日火曜日

 岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「かるかや」を読む。
 同じフレーズを何度も反復するのは、本だと前のページを読み返すことができるが、ライブパフォーマンスだと読み返せないので、大事なことは二度でも三度でも言うのだろう。
 京の新黒谷が出てきたが、黒谷と言うと、

   花のあるうちは野山をぶらつきて
 藤くれかかる黒谷のみち     芭蕉

   よつて揃ゆる弁当の椀
 糺より黒谷かけて暮かかり    游刀

といった句があったな。
 地名でも単語でも、それがあるから何か関係あるのかというと、一つの単語だけでは決められない。「お前は人間失格だ」と言われたからといって、別に太宰治の小説を思い起こす必要はないのと同じだ。本説は単語よりも文脈の一致で判断しなくてはならない。
 この物語も、多分に女性の視点での仏教の不条理、女人禁制の不条理を告発しているように感じられる。仏教の不条理は女性が仏になれないことよりも、男が仏になると言って勝手に出て行く方にあった。
 それはそうと、眞子様の結婚反対デモって、人数的にはたいしたことないが、背後団体が見えないのが不気味だ。一般的な右翼の意見でもなければ、いわゆるネトウヨの意見でもない。
 憲法第一条違反だとか、説明責任を果たせだというのは、どちらかというと左翼の人が使いそうな言葉だ。
 プラカードやビラに#が多用されているから、ツイッターで集まった人たちなのか。それにビラは週刊誌日刊紙のデジタル記事の引用ばかり。
 ネットができない旧世代の情弱ではなく、ツイッターとネットニュースばかり見ている情弱というのもいるのだろう。
 ちなみに日本国憲法第一条は、

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

というもので、まさかと思うが、皇族の結婚に国民の総意がいるなんて考えてるんじゃないだろうな。第二十四条には、

 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

とある。「両性の合意のみ」という所が大事。

 さて風流の方を行ってみよう。
 翌貞享四年の春の「久かたや」の巻では、京の去来を迎えて、芭蕉、其角、嵐雪などの江戸蕉門を代表するメンバーと四吟歌仙興行を行う。去来は前年の『蛙合』にも参加している。
 その去来の発句は、

   南窓一片春と云題に
 久かたやこなれこなれと初雲雀  去来

だった。 
 前書きの「南窓一片春」の句の出典はよくわからない。「南窓」は陶淵明『帰去来辞』の「倚南窗以寄傲、審容膝之易安」によるものか。去来の名前も「帰去来」から取ったものと思われる。隠士の窓に小さな春が、ということでいいのだろう。
 「久方や」は枕詞だが、「久方の空」ということでここでは空の意味。
 「こなれ」は「こ・に・あれ」で、「ここに有れ」という意味ではないかと思う。天高く空を飛ぶ雲雀が「来てみろよ」と誘っているのではないかと思う。
 寓意としては芭蕉さんを雲雀に喩え、遥かなる高みからここまで来てみろと言われているような気持ちです、といったところか。
 九句目の去来の付け句をみてみようか。

   官位あたへて美女召具せり
 烑灯に大らうそくの高けぶり   去来
 (烑灯に大らうそくの高けぶり官位あたへて美女召具せり)

 烑灯は提灯
 蝋燭は当時はかなり高価で貴重なものだった。ウィキペディアに、

 「江戸時代におけるろうそくは、常に貴重でぜいたくな品物だった。『明良洪範』には慶長年間の出来事として、徳川家康が鷹狩に赴いた際、ろうそくを長時間灯したままにした家臣がきつく叱責された逸話が記載されている。また、井原西鶴の『好色二代男』にはぜいたくの例えとして「毎日濃茶一服、伽羅三焼、蝋燭一挺宛を燈して」の語があることから、ろうそくを灯すことは濃茶を点て、高価な香を焚くのと同様の散財と見なされていたことが解る。しかし行灯に比べて光力に勝ることは衆人が認知するところで、『世間胸算用』には「娘子はらふそくの火にてはみせにくい顔」との一文がある。」

とある。
 宮廷に入る女性であれば贅沢な大蝋燭も用いられたのだろう。当時は蝋の質が悪かったのか高けぶりになる。
 これに芭蕉が応じる十句目。

   烑灯に大らうそくの高けぶり
 出水にくだる谷の材木      芭蕉
 (烑灯に大らうそくの高けぶり出水にくだる谷の材木)

 昔は材木を筏にして川に流して運んだ。大雨で増水した出水(でみず)の時はそのチャンスで、洪水で流された家の復興需要もあり、材木屋は大儲け。大蝋燭で高けぶりといったところか。久々の経済ネタになる。
 十三句目。

   つつむにあまり腹気押へし
 仇人のためにかく迄氏を捨    芭蕉
 (仇人のためにかく迄氏を捨つつむにあまり腹気押へし)

 かたき討ちのために家まで捨てて旅に出たが、おなかがゴロゴロ鳴る。つまり腹が減った。
 芝居ではもてはやされる仇討で、周囲からも急き立てられて仇討に行かざるを得なくなるが、現実はこんなもんで結構迷惑なものだったという。風刺ネタといえよう。
 十八句目も経済ネタになる。

   去ほどに心にそまぬ月も花も
 弥生へかけて蝦夷の帳合     芭蕉
 (去ほどに心にそまぬ月も花も弥生へかけて蝦夷の帳合)

 「帳合」は帳合取引のことで、ウィキペディアには、

 「帳合取引(ちょうあいとりひき)とは、江戸時代に広く行われた相場投機の空物取引のこと。帳合商などと呼ばれ、取引対象物によって帳合米・帳合金などとも呼ばれた。」

とある。本来は相場の安定のために必要な取引だが、一部に博打かなんかと一緒くたにする人は今も昔もいる。杜国のことでも未だに無理解な論者がいる。俳句や文学に傾倒する人はパヨクが多い。
 蝦夷地との交易は「商場知行制」と呼ばれ、藩主が家臣に農地の代わりにアイヌとの交易権を付与することによって成り立っていた。これによって松前藩が事実上交易権を独占することで公正な貿易が行われず、寛文の頃にシャクシャインの乱を引き起こすことになった。
 アイヌとの交易にも本土の米取引と同様、先物取引が行われていたのだろう。享保十五年(一七三〇年)に大坂の堂島米会所ができた時には春夏秋冬「各季の最終日にあたる限市(げんいち)/限日(げんじつ)を区切りとして決算された。」(ウィキペディア)という。アイヌとの取引でも弥生の末に決算していたのだろう。
 前句は遠い蝦夷地まで行ってしまうと月も花も心に残らないということで、それは人間が冷淡になるということか。
 芭蕉は蝦夷地にも興味を抱いていたようで、『奥の細道』の旅で象潟まで行ったときももっと先へ行きたがって、持病のこともあるからと曾良に説得されて泣く泣く越後へ向かった。『幻住庵ノ賦』に、

 「松嶋・しら川に面をこがし、湯殿の御山に袂をぬらす。猶うたふ鳴そとの浜辺よりゑぞがちしまを見やらんまでと、しきりに思ひ立侍るを、同行曾良なにがしといふもの、多病いぶかしなど袖をひかるるに心たゆみて、象潟といふ所より越路のかたにおもむく」

とある。
 二十一句目は無常の句だが、前句がシンプルな句だけに、あえてネタを加えて取り囃している。

   小姓泣ゆく葬礼の中
 丁寧も事によるべき杖袋     芭蕉
 (丁寧も事によるべき杖袋小姓泣ゆく葬礼の中)

 葬儀の際には冥土の旅路のために旅姿をさせ、手には杖を持たせることもあった。わざわざその杖を袋に入れるのはちょっと変。無常でしんみりした所から何とか俳諧らしい笑いに持っていくための、一種のシリアス破壊といえよう。
 三十四句目は去来が来ているということで、あえて上方のネタを出したか。

   鼻つまむ昼より先の生肴
 あわづにまけぬ串の有さま    芭蕉
 (鼻つまむ昼より先の生肴あわづにまけぬ串の有さま)

 粟津は近江粟津で瀬田の唐橋に近い。琵琶湖では魞漁(エリ漁)と呼ばれる大規模な定置網漁が古くから行われていて、そのため琵琶湖にはたくさんの長い棒のような杭が立っている。古語では「串」は杭の意味もある。
 その粟津にも負けないくらいたくさんの杭の立っている漁村では、午後にもなると生魚が傷んできて臭い匂いがする。

 同じ頃の「花に遊ぶ」の巻は、芭蕉が貞享元年冬に『野ざらし紀行』の旅で訪れた桑名本統寺の第三世大谷琢恵(俳号古益)等三人との江戸での興行になる。古益等は延宝・天和の古風を引きずっていて、芭蕉も苦戦したみたいだ。
 六句目。

   るりの酒水晶の月重ねたる
 鸞の卵をくくむ桐の葉      芭蕉
 (るりの酒水晶の月重ねたる鸞の卵をくくむ桐の葉)

 前句はラピスラズリの盃の酒に水晶のような月が映り、空の月と盃の月の二つになるというもので、異国趣味に満ち溢れた句で、天和の頃の雰囲気を残している。
 これに対し芭蕉は、とりあえず「鸞(らん)」を出して応じる。
 「鸞(らん)」はウィキペディアに、

 「鸞(らん)は中国の伝説の霊鳥。日本の江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には、実在の鳥として記載されている。それによれば、中国の類書『三才図会』からの引用で、鸞は神霊の精が鳥と化したものとされている。「鸞」は雄の名であり、雌は「和」と呼ぶのが正しいとされる。鳳凰が歳を経ると鸞になるとも、君主が折り目正しいときに現れるともいい、その血液は粘りがあるために膠として弓や琴の弦の接着に最適とある。
 実在の鳥類であるケツァール(キヌバネドリ目)の姿が、鸞の外観についての説明に合致するとの指摘もある。」

とある。「くくむ」は「くるむ」。
 前句のゴージャスな雰囲気に逆らわずに桐の葉に包んだ鸞の卵を差し出す。
 二十三句目も、

   風の南に麝香驚く
 此山に尊の沓を踏たまひ     芭蕉
 (此山に尊の沓を踏たまひ風の南に麝香驚く)

と、ちょっと浮世離れした異国趣味の「麝香」と持ち出されたので、舞台を王朝時代に転じて応じるしかない。
 「尊(みこと)」は高貴な人で靴を履いているから王朝時代であろう。従者がその沓をうっかり踏んでしまうというところで囃して俳諧にする。前句の「驚く」が麝香の香を漂わす尊が沓を踏まれて驚く、になる。
 乞食が転んでも笑えないが、貴族が転べば笑える。
 二十八句目も、長安城と異国趣味の句が出る。

   西に見る長安城に霧細く
 大樽荷ふ上戸百人        芭蕉
 (西に見る長安城に霧細く大樽荷ふ上戸百人)

 長安なので杜甫の「飲中八仙歌」の

 李白一斗詩百篇 長安市上酒家眠

の詩句から、大酒飲みを登場させる。だからといって李白の俤だとありきたりなので、百人の李白を登場させて大樽を担ぐ。漢詩の趣向でもきちんと笑いに持ってゆく。
 三十四句目は現実的な哀愁漂う句で、

   しよぼしよぼ信楽笠に小雨ふり
 出代り侘る一條の辻       芭蕉
 (しよぼしよぼ信楽笠に小雨ふり出代り侘る一條の辻)

と出代りの場面を付ける。
 「出代り」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 前の人が出たあとにかわってはいること。入れ替わり。「―の激しい下宿」
  2 奉公人が契約期間を終えて入れ替わること。多年季・一年季・半年季などがあり、地域ごとに期日を定めた例が多い。
 「年末の―の季節になれば」〈長塚・土〉」

とある。
 京都の一条通りは御所から西陣を通る道で、千両ヶ辻がある。奉公の期間が終わった人は春雨の降る中信楽笠を被って出て行く。これは芭蕉らしい現実的な句だ。

2021年10月25日月曜日

 引き続き岩波の『古浄瑠璃 説教集』の「をぐり」を読む。小栗判官の物語だが、ここにも大和言葉が出てきた。
 ストーリーがハードモードでも、こういう遊びを入れることで楽しませてくれる。こういうのも、今のラノベに受け継がれているのかもしれない。

 貞享三年の春は『蛙合』『春の日』が刊行され、古池の句の大ヒットとなった時期でもある。
 そんな頃、ふたたび清風の小石川江戸屋敷で興行が行われる。発句は、

 花咲て七日鶴見る麓哉      芭蕉

になる。
 花の盛りは七日くらいなので「花七日」とも言われている。その七日間は鶴を見るような気分です、というもの。清風を鶴に喩えたのかもしれない。
 十七句目の、

   虹のはじめは日も匂なき
 しづみては温泉を醒す月すごし  芭蕉
 (しづみては温泉を醒す月すごし虹のはじめは日も匂なき)

は月暈(げつうん)のことか。
 日も沈んで温泉(いでゆ)を醒ますかのように空気は冷たく、日が射してないのに虹が掛かっている月が不気味だ。
 二十三句目。

   涙おりおり牡丹ちりつつ
 耳うとく妹が告たる時鳥     芭蕉
 (耳うとく妹が告たる時鳥涙おりおり牡丹ちりつつ)

 耳が遠くて妻にホトトギスの声がしたのを教えてもらう。今更ながらに年老いてしまったことを嘆く。妻の方も昔の華やかさもなく散りゆく牡丹のようだ。
 三十四句目。

   哀さは苫屋に捨し破れ網
 何やらなくて塩やかぬ浦     芭蕉
 (哀さは苫屋に捨し破れ網何やらなくて塩やかぬ浦)

 江戸時代の製塩は塩田に取って代わられ藻塩は廃れていった。この少し後になるが『笈の小文』で須磨へ行った時も芭蕉は、「『藻塩(もしほ)たれつつ』など歌にもきこへ侍るも、今はかかるわざするなども見えず。」と書いている。
 苫屋に古典の情を思い起こしても、時代の違いを感じる。
 こうしたしみじみとするような、今で言うとエモい句が蕉風確立期の一つの到達点を示すのかもしれない。
 貞享三年の俳諧はあまり残っていない。現存するものと言うと、次は秋の「蜻蛉の」の巻半歌仙になる。
 芭蕉は脇を務める。

   蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな
 潮落かかる芦の穂のうへ     芭蕉
 (蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな潮落かかる芦の穂のうへ)

 発句の壁を葦原とし、海辺の風景とする。これはトンボ=秋津から秋津島=豊葦原の瑞穂の国を連想したか。深川芭蕉庵での興行であれば、海も近い。
 発句、脇とも特に寓意はなく、古典回帰というのか、この頃は発句・脇ともに挨拶としての寓意を持たせていない。宗祇の頃の最盛期の連歌はそれほどあからさまな寓意はなかった。
 五句目。

   沓にはさまる石原の露
 入月の薄粧たる武者ひとり    芭蕉
 (入月の薄粧たる武者ひとり沓にはさまる石原の露)

 鎌倉時代までの武士は馬に乗るため貫(つらぬき)という沓を履いた。
 江戸時代までは男も化粧していたという。特に武将には欠かせなかったという。まあ、だから歌舞伎の隈取もそんなに違和感はなかったのだろう。
 三谷脚本の大河ドラマ『真田丸』でも、北条氏政が顔を真っ白に塗って登場した。
 今でも日本にはビジュアル系という音楽文化があり、舞台での男の化粧は定着している。
 八句目は猿酒ネタだが、前句の狐に付けて狐酒にしている。

   山寺は昼も狐のさまかへて
 花とひ来やと酒造るらし     芭蕉
 (山寺は昼も狐のさまかへて花とひ来やと酒造るらし)

 山寺の狐は花見の季節になると人が来るといって酒を造る。ただ、狐の作る酒だから本当は何なのか。芭蕉の空想の句は健在だ。
 十四句目は無常の句。

   調なき形見の鼓音も出ず
 何も焼火に皆盡しけり      芭蕉
 (調なき形見の鼓音も出ず何も焼火に皆盡しけり)

 財産になりそうなものが何もないので皆死者と一緒に燃やしてあげた。
 取り囃しはなく、シンプルに付けているが、無常の句にはこういうシンプルさが効果的だ。
 十七句目

   渋つき染し裏の薮かげ
 みみづくの己が砧や鳴ぬらん   芭蕉
 (みみづくの己が砧や鳴ぬらん渋つき染し裏の薮かげ)

 前句の「渋つき染」は柿渋で染めた衣で被差別民を象徴する。薮もそうした部落の連想を誘う。こうした哀れな人たちに、ミミズクの声を添える。
 「みみづく」は羽角のはっきりとしたコノハズクかオオコノハズクであろう。短い声で鳴くので砧を打つ音に聞こえなくもない。薮の向こうからその音がする。
 ミミズクはしばしば頭巾をかぶり蓑を着た、もこもこと着膨れた旅姿に喩えられる。蓑もまた聖なるものであるとともに賤を象徴するものでもある。

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮     其角

の句がある。
 同じ貞享三年の冬に「冬景や」の巻の歌仙興行がなされているが、残念ながら二句欠落している。
 芭蕉は第三で、其角の脇に付ける。

   となりを迷ふ入逢の雪
 年の貧たはら負行詠して     芭蕉
 (年の貧たはら負行詠してとなりを迷ふ入逢の雪)

 前句の「となりを迷ふ」を隣を見て迷うとし、隣で米俵を背負っている人を詠(ながめ)して、我が身の貧しさを付ける。
 十四句目は謡曲『通小町』のネタ。

   加茂川の流れを胸の火にほさむ
 萩ちりかかる市原のほね     芭蕉
 (加茂川の流れを胸の火にほさむ萩ちりかかる市原のほね)

 京都市原の補陀落寺は小野小町の終焉の地とされている。謡曲『通小町』では、僧が市原に訪れると、

 秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
     小野とは言はじ薄生ひけり

という歌が聞こえてくる。この歌は鴨長明の『無名抄』では、在原業平が陸奥を旅した時に、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」という歌が聞こえてきて、行ってみると目から薄の生えた髑髏が見つかる。人に聞くとここが小野小町の終焉の地だという。そこで業平が「小野とはいはじ薄生ひけり」と付けたという物語になっている。謡曲では陸奥ではなく京都市原になっている。
 このことを踏まえて、前句を小野小町の恋歌として、市原の小町の髑髏に萩を添えて弔う歌にする。
 十九句目は前句の「傾城(遊郭)」ネタを、本当に国が傾くと取り成す。

   桃になみだが一国の酔
 朝がすみ賢者を流す舟みえて   芭蕉
 (朝がすみ賢者を流す舟みえて桃になみだが一国の酔)

 国を顧みない皇帝に賢者が左遷されてゆく。杜甫も華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷された。
 二十四句目は「時節也」の付けであろう。

   四ッの時冬はあられのさらさらと
 水仙ひらけ納豆きる音      芭蕉
 (四ッの時冬はあられのさらさらと水仙ひらけ納豆きる音)

 冬の霰さらさら降る頃はもうじき水仙も咲く。納豆は冬の寒いときに低温で熟成させる。お寺では配り納豆を行う。薬食い(冬のスタミナをつけるための獣肉食)をしない僧には貴重な蛋白源だ。
 「納豆きる」は引き割り納豆を作る作業で、芭蕉はのちの元禄三年に、

 納豆切る音しばし待て鉢叩き   芭蕉

の句を詠む。鉢叩きの音が聞こえるから納豆を切るのを待ってくれという句になる。
 三十句目。

   月入て電残る蒲すごく
 ことしの労を荷ふやき米     芭蕉
 (月入て電残る蒲すごくことしの労を荷ふやき米)

 前句の蒲の茂る草原に、周辺の百姓の稲刈りを労う。
 やき米はウィキペディアに、

 「焼米とは、新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。米の食べ方・保存法の一つ。 そのままスナック菓子として食べても良いし、汁物に浮かべて粥にして食べるという雑多な利用法があった。米粒状・粉状と形態も様々である。」

とある。収穫して精米せずにすぐに食べられるので、稲刈りの後に食べたのであろう。