2021年10月24日日曜日

 『古浄瑠璃 説教集』の「ほり江絵巻双紙」を読んだ。浄瑠璃姫と言い、女性の悲劇を描くのは、琵琶法師などの物語を聞く人は女性が多かったからなんだろうな。『源氏物語』でも物語に熱中する女を源氏の君が揶揄しているし。
 浄瑠璃姫もほり江も、ともに七五調を基調としている。こういうのは叙事詩と言っても良いのだろう。
 日本で「詩」というと漢詩のことで、明治以降西洋のポエムが入ってきてその訳語として「詩」が選ばれた。正岡子規の『詩歌の起源及び変遷』でもそうだったが、日本には西洋のような長大な詩がないという所にコンプレックスがあり、かわりに俳句や短歌のような短い詩こそ日本独自のものだと礼賛してきた。
 平家物語や浄瑠璃姫などを叙事詩とせず、「詩」から除外してきたのは、多分明治の知識人がそうしたものを卑俗なものとみなしていたからなのだろう。西洋詩は漢詩と同格で、俳句短歌はそれに準じるものとされ、俳諧は詩どころか文学からも排除された。
 戦後の丸山真男も「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか」と言っていた。自分を精神的に貴族だと勘違いしている辺りが痛い。でも日本がほんとに凄いのは庶民の文化だ。
 筆者は精神的庶民主義が持続可能資本主義と内面的に結びつくことを要求したい。
 精神的貴族主義なんてのは結局革命の指導者が自分で、「俺はお貴族様だ、えっへん」と言ってるようなもので、ろくなものではない。まあ、今どき丸山真男なんて名前はみんな忘れていると思うが(草)。筆者も学校で読まされて知っているだけだ。
 あと、久しぶりに長いこと明石帰りになっていた『源氏物語』の続きを読もうと思った。
 明石の入道が箏を引く場面からだが、何が何だかさっぱりわからず、こういう時に季吟さんの『湖月抄』は役に立つ。箏を引きながら、さりげなくこれは娘の真似しただけでと、娘に興味を持たそうとしている場面だった。
 「何の憚りかはべらむ。御前に召しても。商人の中にてだにこそ、古琴聞きはやす人は、はべりけれ。」
の部分も、御門の前だろうと商人の中だろうとОKというふうに読もうとしたが、これは「御門の前だろうと憚りない」で切るもので、商人の中で云々は白楽天の『琵琶行』だという。こういうのは注釈がないとなかなか思いつかない。
 出典があっても、琵琶を古琴にするように少し変えるというのは、俳諧の本説付けと一緒だ。

 それでは芭蕉の付け句の続き。
 「日の春を」の巻の七句目の、

   炭竃こねて冬のこしらへ
 里々の麦ほのかなるむら緑    仙化
 (里々の麦ほのかなるむら緑炭竃こねて冬のこしらへ)

の句の『初懐紙評注』には、

 「付やう別条なし。炭竃の句を初冬の末霜月頃抔の体に請て、冬畑の有様能言述侍る。その場也。」

とある。「その場也」という言葉は後の元禄八年支考編『西華集』でも頻繁に用いられるが、芭蕉が早くからこの言葉を用いてたのだろう。
 意味としては冬だから炭竃をこねて準備するというところに、背景として麦がようやく目を出した里が続く景を付けている。
 これと言って笑いにもって行くネタもなければ新味もなく、遣り句などは軽く景を付けて流すということだったが、支考の時代になると、俳諧は常にこの調子で良いという方に向かう。
 九句目。

   我のる駒に雨おほひせよ
 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白
 (朝まだき三嶋を拝む道なれば我のる駒に雨おほひせよ)

 『初懐紙評注』には、

 「是さしたる事なくて、作者の心に深く思ひこめたる成べし。尤旅体也。箱根前にせまりて雨を侘たる心。深切に侍る。」

とある。
 「侘(わび)」とあるが、ここでは普通に難儀するという意味。芭蕉は「さび」「しほり」「細み」は説いたが「侘び」を美学としていたわけではない。ただ、旅体であれば旅の苦しさを描くのは、連歌の時代から羇旅の本意といえよう。
 小田原を朝未明に出て、箱根八里を越えて三島に至る道なれば、雨は困ったものだ。箱根を越えたことのある人なら痛切に感じる所だろう。
 十三句目にようやく芭蕉の句が登場する。

   敵よせ来るむら松の声
 有明の梨子打ゑぼし着たりける  芭蕉
 (有明の梨子打ゑぼし着たりける敵よせ来るむら松の声)

 『初懐紙評注』には、

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

とある。
 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。
 ネットで梨打烏帽子を調べると、「中世歩兵研究所 戦のフォークロア」というサイトがあり、「萎烏帽子」というページにこうあった。

 「烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。
 烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。」

 これを読めば「軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる」の意味がわかる。
 「あしらう」というと今では「適当にあしらう」なんて慣用句があるが、和食では食材の組み合わせで彩を添えることをいい、連歌では付き物によって付けることをいう。
 特に本説などによる深い意味を持たせず、ここでは軽くあしらわれている。「軽い」というのは出典の持つ深い意味を引きずらずに、出典を知らなくても意味が通るように付けることをいう。
 芭蕉の「軽み」の風はこれよりまだ数年先のことだが、それ以前の蕉風確立期でも、付け句に関しては展開を楽にするために軽いあしらいを推奨していた。「一句の姿、道具、眼を付て見るべし」とは、これが付け句の手本だと言っているようなものだ。
 それとここで「道具」という単語が出ていることにも注意しておこう。後に許六が「発句道具」「脇道具」など、道具に格があることを述べている。ここでは梨打烏帽子がこの付け句の道具ということになる。物付けの時の前句の「敵(かたき)よせ来る」に応じて持ち出した言葉だが、この言葉が一句の取り囃しとなっている。
 句を盛り上げたり新味を出したりするときに持ち出す要となる言葉と言っていいだろう。
 十四句目。

   有明の梨子打ゑぼし着たりける
 うき世の露を宴の見おさめ    筆
 (有明の梨子打ゑぼし着たりけるうき世の露を宴の見おさめ)

 『初懐紙評注』には、

 「前句を禁中にして付たる也。ゑぼしを着るといふにて、却て世を捨てるといふ心を儲たり。観相なり。」

とある。
 前句の梨子打ゑぼしを宮中の公式行事の際の烏帽子ではなく、退出する際の普段着の烏帽子としたか。
 江戸時代ではみんなちょん髷頭を晒しているが、中世まではちょん髷頭をさらすのは裸になるよりも恥とした。職人歌合の博徒のイラストには素っ裸のすってんてんになった博徒の頭に烏帽子だけが描かれている。
 禁裏を退出して出家するにも、髪を剃るまでは烏帽子をかぶっている。烏帽子をかぶるのもこれが最後という思いで「うき世の露を宴の見おさめ」とする。
 『初懐紙評注』の「観相なり」という言葉は、支考の『西華集』でも用いられている。

   草に百合さく山際の道
 我こころちいさい庵に目の付て  支考

の句への自注で、

 「行脚の観相也。大家高城もかつてうらやまず早百合の道のほそぼそと、かくても住れけるよと目のつきたるは、泉石烟霞のやまひいゆる時なからんと、我心をとがめたる余情也」

としている。
 その時の思いを付ける、という意味で良いのだろう。
 三十五句目。

   近江の田植美濃に恥らん
 とく起て聞勝にせん時鳥     芳重
 (とく起て聞勝にせん時鳥近江の田植美濃に恥らん)

 『初懐紙評注』には、

 「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」

とある。これも支考流では「時節也」であろう。
 田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。
 三十七句目。

   船に茶の湯の浦あはれ也
 つくしまで人の娘をめしつれて  李下
 (つくしまで人の娘をめしつれて船に茶の湯の浦あはれ也)

 『初懐紙評注』には、

 「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」

とある。
 「余情(よせい)」という言葉は先に引用した支考の『西華集』の注にも用いられている。はっきりとこういう事情だとわかるのではなく、想像を掻き立てられるような句ということであろう。
 「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。
 「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。
 四十四句目。

   理不尽に物くふ武者等六七騎
 あら野の牧の御召撰ミに     其角
 (理不尽に物くふ武者等六七騎あら野の牧の御召撰ミに)

 『初懐紙評注』には、

 「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」

とある。
 これは略奪から一転して道草の句に。荒野の牧場にお殿様の乗る馬を選びにきたものの、そんな簡単なことではない。むちゃ振りというか、理不尽な命令にすねた武者等が道草食う。
 江戸中期になると「三句の渡り」なんてことが言われるが、本来連歌も俳諧も三句に渡ってはいけないもので、「三句のはなれ」が正しい。「句の替り様」こそ連句の醍醐味といっていい。
 『初懐紙評注』は五十句目までで終わっているが、その後に芭蕉の句がある。
 五十三句目。

   京に汲する醒井の水
 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉
 (玉川やをのをの六ツの所みて京に汲する醒井の水)

 井手の玉川は宇治の南にあり、平成の名水百選にも選ばれている。

 かはづ鳴く井手の山吹散りにけり
     花の盛りにあはましものを
              よみ人知らず(古今集)

 の歌にも詠まれている。
 ただ、玉川は京都(山城)だけでなく、近江の野路の玉川、摂津の三嶋の多摩川、武蔵の調布の玉川、陸奥の野田の玉川、紀伊の高野の玉川と合わせて「六玉川」と呼ばれていた。
 六つの玉川の水をそれぞれ見て歩いたが、やはり京の醒井の水が一番ということか。
 六十句目。

   餅作る奈良の広葉を打合セ
 贅に買るる秋の心は     芭蕉
 (餅作る奈良の広葉を打合セ贅に買るる秋の心は)

 「贅(にへ)」は古語辞典によれば「古く、新穀を神などに供え、感謝の意をあらわした行事」とあり、「新穀(にひ)」と同根だという。それが拡張されて朝廷への捧げものや贈り物にもなっていった。
 前句の「餅作る」を端午の節句の柏餅ではなく神に供える新穀とし、「奈良」を楢ではなく文字通りに奈良の都とする。「広葉を打合セ」を捨てて、奈良で餅を作り新穀として献上するために買われてゆくのを「秋の心」だなあ、と結ぶ。
 六十九句目は恋へと展開する。

   姉待牛のおそき日の影
 胸あはぬ越の縮をおりかねて 芭蕉
 (胸あはぬ越の縮をおりかねて姉待牛のおそき日の影)

 前句の「牛」から牽牛・織姫の縁で、狭布(けふ)の細布ならぬ越後縮みを折る女性を登場させたのだろう。
 「胸あはぬ」は、

 錦木は立てながらこそ朽ちにけれ
     けふの細布胸合はじとや
               能因法師(後拾遺集)
 みちのくのけふの細布程せばめ
     胸あひがたき恋もするかな
               源俊頼

などの用例がある。「狭布(けふ)の細布」は幅が細いため、着物にしようとすると胸が合わないところから、逢うことのできない恋に掛けて用いられた。
 ただ、ここでは胸が合わないのは元々細い布だからではなく、多分皺をつけるときに縮みすぎたのだろう。なかなか思うような幅に織れなくて、牽牛は延々と待たされている。
 「越後縮(えちごちぢみ)」はウィキペディアの「越後上布」の項に、

 「現在では新潟県南魚沼市、小千谷市を中心に生産される、平織の麻織物。古くは魚沼から頚城、古志の地域で広く作られていた。縮織のものは小千谷縮、越後縮と言う。」

とある。「縮織(ちぢみおり)」はコトバンクの「大辞林第三版の解説」によれば、

 「布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯よこ糸に強撚糸を用いて織り上げたのち、湯に浸してもみ、皺を表したもの。綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮など。」

だという。

2021年10月23日土曜日

 久しぶりに図書館に行った。岩波の『古浄瑠璃 説教集』を借りてきた。
 『浄瑠璃御前物語』の大和言葉の所はこんな感じかな。

 hey yo、君はまるで繋がぬ馬、野中の清水、沖漕ぐ舟、峰の小松、笹の霰、一叢ススキ、埋火、筧の水、細谷川に丸木橋、飛騨の匠の墨繩、お香の煙、安達が延べた白真弓、片割れ船、二俣川、板屋の霰、清水坂、弦のない弓に羽抜け鳥、中国の鏡、明かり障子、車の両輪、熊野那智の山、都言葉は知らないが、大和言葉わかるかな。

 繋がぬ馬は主人がいない、野中の清水は一人澄む、沖漕ぐ舟はこがれてる、峰の小松は嵐激しく、笹の霰は触れば落ちる、一叢ススキは穂に出て乱れ合え、埋火は見えないところで燃えてる、筧の水は夜毎通うぞ、細谷川に丸木橋は文(踏み)返されて袖を濡らす、飛騨の匠の墨繩はお前一筋、お香の煙は胸の煙、安達が延べた白真弓は引く手に靡け、片割れ船は漕ぐも漕がれぬ、二俣川はシモでめぐり合う、板屋の霰は転がっちゃおうよ、清水坂はみんなが見てる、弦のない弓に羽抜け鳥は射(居)ても発(立)っていられない、中国の鏡は俤だけ、明かり障子は眩しいじゃん、車の両輪に廻り合おう、熊野那智の山に願い叶えて、都言葉は知らないが、大和言葉くらいわからいでか。

 それでは風流の方に。
 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅を終えて江戸に帰ってきたあと、六月二日小石川で尾花沢の清風を迎えての百韻興行が行われている。
 この百韻は連歌本式と呼ばれる独特なルールで巻かれている。
 連歌の式目は二条良基の頃から『応安新式』が採用され、その後の『新式今案』の部分的な改定に留まる。連歌本式は新式以前のルールで、明応元年(一四九二年)に兼載が十三項の簡単な連歌本式を制定して蘇らせたもので、翌年宗祇らによって『明応二年三月九日於清水寺本式何人』が興行されている。
 発句は、

 涼しさの凝くだくるか水車    清風

で、小石川付近の神田川か、そこに流れ込む清流の辺りの水車をそのまま詠んだものであろう。今の関口芭蕉庵の辺りではないかと思う。
 これに芭蕉の脇も、

   涼しさの凝くだくるか水車
 青鷺草を見越す朝月       芭蕉
 (涼しさの凝くだくるか水車青鷺草を見越す朝月)

と景を添える。
 十六句目。

   雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし
 草庵あれも夏を十畳       芭蕉
 (雨そぼつ蚊やり火いたく煙てし草庵あれも夏を十畳)

 「あれも」は「もあれ」の倒置だろうか。前句の雨の日の蚊遣火の煙に、十畳の草庵を付ける。
 二十三句目は謡曲『熊野』の本説だが、以前のような謡曲の言葉を引くのではなく、それとなく匂わす程度の、俤付けに近いものになっている。

   うしろ見せたる美婦妬しき
 花ちらす五日の風はたがいのり  芭蕉
 (花ちらす五日の風はたがいのりうしろ見せたる美婦妬しき)

 花見の宴が中止になって母のもとに帰京する熊野の後姿を、平宗盛が妬ましく思う。謡曲では雨で中止になったが、本説を取る時には少し変えなくてはいけないので風に変える。
 古式だとここが定座になる。
 三十七句目も蕉風確立期らしい穏やかな景を付けている。

   古梵のせがき花皿を花
 ひぐらしの声絶るかたに月見窓  芭蕉
 (ひぐらしの声絶るかたに月見窓古梵のせがき花皿を花)

 月見窓はお寺の窓であろう。蜩も鳴き止む頃には日もすっかり暮れて月夜になる。
 四十二句目も同様。

   丑三の雷南の雲と化し
 槐の小鳥高くねぐらす      芭蕉
 (丑三の雷南の雲と化し槐の小鳥高くねぐらす)

 鳥が塒に帰るのは漢詩などによく出てくる夕暮れの情景だが、ここでは夜中の雷が止んで南へ去り、鳥は安心して眠るとする。
 四十五句目の、

   狂女さまよふ跡したふなる
 情しる身は黄金の朽てより    芭蕉
 (情しる身は黄金の朽てより狂女さまよふ跡したふなる)

これは浄瑠璃姫か。
 五十三句目は十六句目の十畳の草庵同様、質素な暮らしを描く。

   春を愁る小の晦日
 陽炎に坐す縁低く狭かりき    芭蕉
 (陽炎に坐す縁低く狭かりき春を愁る小の晦日)

 陽炎の立つ庭に面した縁側は低くて狭い。月も小なら家も小だ。
 江戸にもどってきても、元の都会的な風に戻らずに、名古屋で学んできた穏やかで質素な侘び住まいの美学を、江戸の人たちに伝えていると言ってもいいかもしれない。
 六十七句目。

   わけてさびしき五器の焼米
 みの虫の狂詩つくれと啼ならん  芭蕉
 (みの虫の狂詩つくれと啼ならんわけてさびしき五器の焼米)

 素堂の『蓑虫ノ説』はいつごろ書かれたかわからないが、多分この興行より後のことであろう。

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。」

で始まる俳文の後に、「又以男文字述古風」という詩が添えられている。本当に狂詩を作ってしまったか。

   又以男文字述古風
 蓑虫蓑虫 落入牕中 一絲欲絶 寸心共空 似寄居状
 無蜘蛛工 白露甘口 青苔粧躬 従容侵雨 飄然乗風
 栖鴉莫啄 家童禁叢 天許作隠 我憐称翁 脱蓑衣去
 誰識其終

 素堂もこの興行に参加していた。
 粗末な草庵で一人焼米を食っていると、蓑虫が父よ父よと鳴き、詩を作れといっているかのようだ。もっとも、実際には蓑虫は鳴かない。カネタタキの声と間違えたのではないかと言われている。
 粗末な草庵での暮らし、蓑笠着た旅姿など、我々がよく知る芭蕉的な世界がここに誕生したと言ってもいいかもしれない。
 七十四句目は夢落ち。

   御明しの夜をささがにの影消て
 汗深かりしいきどふる夢     芭蕉
 (御明しの夜をささがにの影消て汗深かりしいきどふる夢)

 これは蜘蛛が体の上を這ったのが夢でアレンジされて化け物に襲われた夢を見て目が覚めたということ。

 切られたる夢は誠か蚤の跡    其角

の句と同じ。元祿三年刊の『花摘』の句だとすると、芭蕉の方が先か。付け句で得た着想を発句に作ることはそう珍しくない。其角もこの興行に参加している。
 侘びた世界だけでなく、八十一句目のような人情句も展開する。

   立初る虹の岩をいろどる
 きれだこに乳人が魂は空に飛   芭蕉
 (きれだこに乳人が魂は空に飛立初る虹の岩をいろどる)

 「乳人(めのと)」は乳母のこと。
 糸の切れた凧というのは巣立っていった子供の象徴のようでもある。愛情を注いできた子供がいなくなって、放心状態というところだろう。前句の景色に正月の凧揚げを付ける。
 後の江戸後期に千代女の句とされるようになった、

 とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら

の句にも通じるものがある。

 翌貞享三年正月の「日の春を」の巻は、芭蕉自身による注釈『初懐紙評注』の付いている貴重な巻でもある。
 発句、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

はその『初懐紙評注』に、

 「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」

とある。
 脇は、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗
 (日の春をさすがに鶴の歩ミ哉砌に高き去年の桐の実)

で、『初懐紙評注』には、

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

とある。
 松永貞徳の脇体四道はよくわからない。ネットで調べると四道ではないが「俳諧」というサイトに「白砂人集」が紹介されていて、そこには「脇に五つの仕様あり。一には相対付、二つには打越付、三つには違ひ付、四つには心付、五つには比留り。」とあった。
 実はこれと同じものが戦国時代の連歌師紹巴の『連歌教訓』にある。

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也、
  年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
   雪こそ花とかすむはるの日
  梅の薗に草木をなせる匂ひかな
   庭白妙のゆきのはる風
  ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
   木の下草のはなをまつころ
 か様に打添て脇をする事本意成べし、脇の手本成べし、」
 (『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.263~264)

 「白砂人集」は肝心な「打添」を「打越」と誤っているし、打添以外は滅多に用いられない。
 打添は発句の趣向の寄り添うような付け方で、「年ひらけ」に「春の日」、「梅はつぼめる」に「雪こそ花」と付ける。二番目の例も「梅の薗」に「庭白妙」、「なせる匂ひ」に「春風」と打ち添える。三番目の例も「ちらじ夢」に「はなをまつころ」と打ち添える。
 貞門時代の芭蕉も参加した寛文五年の貞徳翁十三回忌追善俳諧の脇は、

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひと音おばなき跡     季吟

で、これも「かるれどかれぬ紫苑(師恩)」に「音をばなき(亡き)跡」というふうに打ち添えている。
 延宝四年の芭蕉の発句に対する信章の脇も、

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作        信章

というふうに、「牛も初音」に「ましてや‥」と打ち添える。
 発句が次第に明白な挨拶の意味を失ってくると、脇も打ち添えようがなくなって景気で付けるようになる。
 延宝六年の芭蕉発句に付けた千春の脇は、景気付けの走りといえよう。

   わすれ草煎菜につまん年の暮れ
 笊籬味噌こし岸伝ふ雪       千春

 「わすれ草」に年忘れを掛けた芭蕉の発句に何ら打ち添えるのでもなく、「煎り菜摘み」に「雪」を景気で出してくる。これは、

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
               光孝天皇(古今集)

 の歌を踏まえている。
 さて、文鱗の脇に戻ってみると、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗

 初春の句に初春の情景として去年からなっている桐の実を付けているのがわかる。「桐の木」と言わずに「桐の実」というところで桐の実だけが残って葉の落ちた木を、子規流に言えばマイナーイメージで描いている。
 残った桐の実に新しい年の光が差して輝く様を「高き」という言葉を添えることで際立たせる。
 こういう脇の付け方を、「新敷俳諧の本意かかる所に侍る」と芭蕉は考えていた。
 第三の、

   砌に高き去年の桐の実
 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風
 (雪村が柳見にゆく棹さして砌に高き去年の桐の実)

も『初懐紙評注』には、

 「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」

とある。「長高く」は今の言葉ではうまく表現しにくいが、力強くと格調高くを合わせた感じか。「居丈高」という言葉に「たけたか」は生き残っているが、もとは背が高いことからきている。それが高い所から物を言うという意味になった。
 紹巴の『連歌教訓』には、

 「第三は、脇の句に能付候よりも長高きを本とせり、句柄賤しきは第三の本意なるべからず、」(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.264)

とある。
 発句が新年の句だったのに対し、柳は仲春から晩春の景になる。「未景不対也」というのは、秋から残っている桐の実に春の柳を対比させる「相対付け」とするには、まだ「見にゆく」段階で柳そのものを出していないので成り立たない。
 雪村は室町後期から戦国時代にかけての絵師で、雪舟をリスペクトしていたが、雪舟の亡くなった頃に生まれているため、直接的なつながりはない。尾形光琳に影響を与えたが、尾形光琳が活躍するのはもう少し後のこと。
 雪村が自ら舟を漕いで柳を見に行くというあたりに風狂が感じられる。「砌(みぎり)」は発句に対しては「その時まさに」という意味で用いられていたが、ここでは「水際」の意味になり、そこから「棹さして」を導き出している。

2021年10月22日金曜日

 普段実写のドラマはほとんど見ないので、dアニメには入っているがネトフリには入っていないので、その方面はよくわからないがイカゲームというのが流行っているらしい。系譜としてはカイジではなく映画の『スラムドッグ$ミリオネア』と似たような雰囲気がある。多分マスメディアや左翼系文化人の反応が似ているのだと思う。
 こういう人たちが紹介すると、エンターテイメントではなく政治的プロパガンダの方が前面に出てしまい、結果的に日本ではコケることになる。世界で大ヒットしていても日本で今一つという作品は、このパターンが多い。
 エンターテイメントとしてのバトルは基本的にゲームであり、異世界転生して過酷なバトルに巻き込まれたとしても、その世界は神のような開発者によって作られて世界であり、その世界が創造された理由が「娯楽」であることがはっきりしている。それをこれが現実だみたいに言われると笑えない。
 現実の世界には創造主もなければ、そこに何らかの意図が働いてるわけでもない。現実を生きる我々にはクリアすべき目標があるわけでもないし、戦うように宿命づけられているわけでもない。競うのはあくまで任意だ。そこを間違えてはいけない。だからこそ、ゲームは「異世界」なんだ。

 同じころ熱田で「つくづくと」の巻が興行される。
 七句目の、

   宿のみやげに撫子を掘る
 はな紙に都の連歌書つけて    芭蕉
 (はな紙に都の連歌書つけて宿のみやげに撫子を掘る)

 は連歌を持ち出すことで、この時代のリアルでなく、やや古い設定になる。
 中世の連歌は寺社で興行され、境内に張り出されたりしたのだろう。それを鼻紙にメモして撫子とともにお土産に持ち帰る。まあ、懐紙という言葉もコトバンクに「精選版 日本国語大辞典「懐紙・会紙」の解説」に、

 「① たたんで懐中に携帯する紙。詩歌の草稿や、その他書きつけ、あるいは包み紙、拭い紙などとして使用した。ふところがみ。たとう。たとうがみ。
  ※小右記‐寛弘二年(1005)正月一日「今日次第若注懐紙歟」
  ② 詩歌、連歌、俳諧を正式に記録、詠進する時に用いる料紙。檀紙、奉書紙、杉原紙など。寸法、折り方、書き方などにおのおの規定がある。→懐紙式(かいししき)。
  ※吾妻鏡‐延応元年(1239)九月三〇日「於二御所一有二和歌御会一、〈略〉佐渡判官各献二懐紙一」

とあるように多用途の紙で、鼻紙だと言われれば鼻紙なのだが。
 十四句目。

   烏羽玉の髪切ル女夢に来て
 恋をみやぶる朝顔の月      芭蕉
 (烏羽玉の髪切ル女夢に来て恋をみやぶる朝顔の月)

 世を捨てたと思ってみても、あの女が髪を切る夢を見る。ふと見ると明け方の月に照らされる朝顔が見える。
 『源氏物語』の朝顔の出家をほのめかしているのかもしれない。
 天和調は漢詩や王朝時代などの古典から突飛な空想を生み出すことが多かったが、貞享に入ると古典の情をそのまま生かそうするようになる。現在のことを描いても、どこか古典に通じるものを求めるあたりが蕉風確立期の風で、これが不易流行説に結実してゆく。
 十九句目の、

   陰干す於期のかづら這ふ道
 笠持て霞に立る痩男       芭蕉
 (笠持て霞に立る痩男陰干す於期のかづら這ふ道)

の句も、海辺を行く痩せた旅人は古代の流刑人を連想させる。
 三十五句目の、

   入日の跡の星二ッ三ッ
 宮守が油さげつも花の奥     芭蕉
 (宮守が油さげつも花の奥入日の跡の星二ッ三ッ)
 
の句も。「宮守(みやもり)」という言葉でやはり謡曲の時代の連想を誘う。
 宮守はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 宮の番をすること。神社の番をすること。また、その人。神社の番人。神官。〔延喜式(927)〕
  ※謡曲・蟻通(1430頃)「神は宜禰が慣らはしとこそ申すに、宮守りひとりもなきことよ」

とある。神主とは限らない。
 花の奥にある社の灯篭に火を灯すために油を下げて行く。
 謡曲『蟻通』には、

 「社頭を見れば燈火もなく、すずしめの声も聞こえず。神は宜禰がならはしとこそ申すに、宮守一人もなき事よ。よしよし御燈は暗くとも、和光の影はよも曇ら じ。あら無沙汰の宮守どもや。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.47728-47735). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあり、御燈を灯すのが宮守の仕事だった。
 『冬の日』で、リアルなあるあるネタの面白さを思い出したものの、再び芭蕉は古典趣味に引き寄せられ、それが蕉風確立期の一つの風となってゆく。

 貞享二年四月四日の「杜若」の巻も、古典回帰が見られる。
 十句目の、

   道野辺の松に一喝しめし置
 長者の輿に沓を投込ム      芭蕉
 (道野辺の松に一喝しめし置長者の輿に沓を投込ム)

の句も謡曲『張良(ちょうりょう)』の本説になる。そこには、

 「これは漢の高祖の臣下張良とはわが事なり。われ公庭に隙なき身なれども、 或る夜不思議の夢 を見る。これより下邳といふ所に土橋あり。かの土橋に何となく休らふ処に、一人の老翁馬上にて行き逢ふ。かの者左の沓を落し、某に取つて履かせよといふ。何者なればわれに向ひ、かくいふん と思ひつれども、かれが気色ただものならず。その上老いたるを貴み親と思ひ、沓を取つて履かせて候。その時かの者申すやう、汝誠の志あり。今日より五日に当らん日ここに来たれ。兵法の大事を伝ふべき由申して夢さめぬ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.86792-86816). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 張良はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「能の曲名。四・五番目物。観世信光(のぶみつ)作。シテは黄石公(こうせきこう)。漢の高祖に仕える張良(ワキ)は,夢の中で不思議な老人に出会い,5日後に下邳(かひ)の土橋で兵法を伝授してもらう約束をする。下邳に出向くと,老人(前ジテ)はすでに来ていて遅参を咎(とが)め,さらに5日後に来いといって消え失せる。張良が今度は早暁に行くと,威儀を正した老人が馬でやって来て黄石公(後ジテ)と名のり,履いていた沓(くつ)を川へ蹴落とす。」

とある。このあとのことは、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「漢の高祖の軍師となった張良が黄石公の川に落とした沓(くつ)を取って、その人柄を認められ、ついに兵法の奥義を授かる。」

とある。「松に一喝」を遅参を咎める場面とし、沓を返す場面を「輿に沓を投込ム」と元ネタと少し違えて付ける。
 そんな芭蕉でも想像力を発揮する場面はある。二十句目の、

   燕に短冊つけて放チやり
 亀盞を背負さざなみ       芭蕉
 (燕に短冊つけて放チやり亀盞を背負さざなみ)

は特に何か故事があるわけではなさそうだ。
 前句に燕に短冊をつけて放つという空想に応じたもので、曲水の宴の発想をさらに進めて、お目出度い亀の背中に盞(さかずき)を背負わせて酒をふるまうという、実際にはこれはないだろうという粋な趣向を付ける。
 実際には亀は思ったとおりに歩いてくれないし、揺れて酒がこぼれたりするから、難しい。
 燕に亀と対句のように付ける相対付け(向え付け)になる。連歌の頃からある付け筋で、芭蕉はこれを得意としていた。

 四月の熱田での「ほととぎす」の巻でも、基本的に古典に添っている。
 十三句目。

   蜘でのはしのかけつはづしつ
 恋ぐさを其中将とおもひわび   芭蕉
 (恋ぐさを其中将とおもひわび蜘でのはしのかけつはづしつ)

 前句の「蜘(くも)でのはし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にある、

 「橋の梁(はり)、桁(けた)を支えるために、橋脚から斜めに渡した筋交いの支柱。
  ※詞花(1151頃)雑上・二七四「並み立てる松のしづ枝をくもでにてかすみ渡れる天の橋立〈源俊頼〉」

のことで、街道などで橋が禁止されているところでも、禁令が出るとそのときだけ橋をはずし、しばらくするとまた架けるということを繰り返していたのだろう。
 そこに芭蕉は「中将」を登場させる。中将というと在五中将(在原業平)か『源氏物語』の頭中将が有名だが、前句の「蜘でのはし」は『伊勢物語』第九段に、

 「三河のくに、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋とはいひける。」

とあるので在五中将の方であろう。
 前句の「蜘でのはし」を業平ゆかりの八つ橋に掛けて、「くもでに思ひ乱るる」の意味も含ませる。
 二十二句目。

   挟みては有かと腰の汗ぬぐひ
 非人もみやこそだちなりけり   芭蕉
 (挟みては有かと腰の汗ぬぐひ非人もみやこそだちなりけり)

の句だが、手拭や汗拭いは江戸時代に綿花の栽培が広まることで急速に普及した。ウィキペディアには、

 「綿はおもに中国大陸などから輸入され絹より高価であったが、江戸時代初頭の前後に、日本でも大々的に栽培されるようになり普及した。また、用途においても神仏の清掃以外では、神事などの装身具や、儀礼や日除けなどにおいての被り物(簡易の帽子や頭巾)であったとされ、普及するにつれ手拭きとしての前掛けなどの役割を帯びていったと考えられている。」

とある。
 貞享の頃はまだ地方にまでは広まってなかったか、汗拭いを腰に下げるのは京都人というイメージがあったのだろう。
 都人なら非人でも汗拭いを使っている。もっとも、歌舞伎役者も身分的には非人だから、非人もピンからキリまでだが。
 芭蕉の俳諧にはしばしば穢多非人やそれに含まれない雑種賤民が登場し、その姿がリアルに描かれる。まあ、当時の人にとって、それはどこにでもいる身近な存在だったということもあるのだろう。
 二十七句目。

   やかましい日はかねも覚えず
 又しても忘れた物を月あかり   芭蕉
 (又しても忘れた物を月あかりやかましい日はかねも覚えず)

 前句の「かね」は鐘の意味だったが、ここでは金に取り成す。「かね」とわざわざ平仮名にしているといる場合は、次が取り成し句になっていると思った方が良い。
 ここではお金を忘れたになる。大体貸した方は覚えていても借りた方は忘れているものだ。これはあるあるネタになる。
 三十二句目。

   お十二に過た何かの御きようさ
 不浄をよける金襴の糸      芭蕉
 (お十二に過た何かの御きようさ不浄をよける金襴の糸)

 不浄には女性の生理の意味もある。前句の「お十二」から良家の娘の初潮とし、金襴の糸を使った丁字帯(ふんどし状のナプキン)を御教唆する。
 当時、丁字帯まではあるあるだっとと思うが、さすがに金襴のナプキンは芭蕉の空想だろうな。

2021年10月21日木曜日

 今日も朝から晴れだが、時折雲が多くなる天気だった。昨日は長月十五夜の満月がよく見えた。
 生田緑地ばら苑に行った。平日なのでそれほど混んでなかった。
 コロナ明けでいろいろなところ行ってみたいけど、株は下がるしガソリンは高いしで、まだまだご近所散歩か。
 あと、「狂句こがらし」の巻やり直しバージョンと、貞享四年冬の「霜冴て」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。これで『校本芭蕉全集』の三巻から五巻の半歌仙以上の俳諧をコンプリートしたことになる。まあ、存疑の部は残っているが。

 昨日の続き。
 この年(貞享元年)の十二月十九日に熱田で船遊びをする。この日の夜の興行であろう。発句は、

 海くれて鴨の声ほのかに白し   芭蕉

で、これに、

   海くれて鴨の声ほのかに白し
 串に鯨をあぶる盃        桐葉

の脇でもって始まる。
 十四句目で、

   笠敷て衣のやぶれ綴リ居る
 あきの烏の人喰にゆく      芭蕉
 (笠敷て衣のやぶれ綴リ居るあきの烏の人喰にゆく)

と、前句の旅人の句に、カラスが人を食いに飛んで行く、と付ける。
 旅人から河原者に取り成したか。昔の河原には死体が打ち捨てられ、カラスがそれを啄ばみに来る。いわゆる「野ざらし」だ。

 野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

の発句とともに旅発ったことが思い起こされる。
 二十二句目。

   木の間より西に御堂の壁白く
 藪に葛屋の十ばかり見ゆ     芭蕉
 (木の間より西に御堂の壁白く藪に葛屋の十ばかり見ゆ)

 「葛屋(くずや)」は草葺屋根の家のこと。白壁のお堂を西にして、薮の中には粗末な草ぶき屋根の家が十ばかり見える。これも部落を連想させる。
 二十五句目の、

   京に名高し瘤の呪詛(まじなひ)
 富士の根と笠きて馬に乗ながら  芭蕉
 (富士の根と笠きて馬に乗ながら京に名高し瘤の呪詛)

は、『冬の日』の「狂句こがらし」の発句に登場した薮薬師の竹齋の連想を誘う。
 「富士の根」は「富士の峰(ね)」のこと。

 時知らぬ山は富士の嶺いつとてか
     鹿の子まだらに雪の降るらむ
              在原業平(新古今集)

の歌も「富士の嶺(ね)」と読む。
 この業平の歌は仮名草子『竹斎』でも引用されていているところから、前句の「京に名高し瘤の呪詛」に竹斎の姿をイメージしたと思われる。竹斎は京に名高い「やぶくすし」(ただし似せ物)を名乗っている。
 後の許六編『風俗文選』に収録されている汶村の『藪醫者ノ解』に、薮医者は元は名医だったが、その名声が世間に広まるにつれて薮医者を名乗る偽物がたくさん現れ、その結果偽物の医者のことを薮医者と呼ぶようになった、とある。

 翌年の三月二十七日にふたたび熱田にやって来た時に、

 何とはなしに何やら床し菫草   芭蕉

を発句とする芭蕉・叩端・桐葉による三吟歌仙が巻かれている。
 四句目の、

   田螺わる賤の童のあたたかに
 公家に宿かす竹の中みち     芭蕉
 (田螺わる賤の童のあたたかに公家に宿かす竹の中みち)

は、王朝時代趣味ではなく、公家の現実を詠んだ句であろう。
 江戸時代のお公家さんは石高も低く抑えられていた。一説には公家の九割は三百石以下だったともいう。
 元禄三年二月十日、鬼貫等の大阪談林系の俳諧「うたてやな」の巻の三十五句目にも、

   金乞ウ夜半を春にいひ延
 どれ見ても一かまへあるお公家たち 万海

と立派な家に住んではいても借金が返せず、期限を延ばしてくれというネタがあった。
 旅に出ても山奥の寺の宿坊などに泊まり、竹藪の奥へ行ったのだろう。
 七句目は人情ネタ。

   酒飲む姨のいかに淋しき
 双六のうらみを文に書尽し    芭蕉
 (双六のうらみを文に書尽し飲む姨のいかに淋しき)

 爺が博奕にはまってしまい、その恨みを延々と書き綴った文が息子の所に届く。字が乱れていて、相当酔っぱらってるんだろうな。昔も今も博奕狂いというのは困ったもんだ。
 人生は少なからず博奕の要素がある。誰だって未来のことなどわからない、人生は日々是ガチャのようなもので、いつ外れくじを引くかわからない。だから、リスクをあらかじめ読み込んで対処しなくてはならない。博奕にはまるというのは、ある意味でそういう現実のギャンプルから目を背けているのだろう。
 十句目は王朝時代の「侍従」の登場する句に付けたもので、

   髪下す侍従が娘おとろへて
 野々宮のあらし祇王寺の鉦    芭蕉
 (髪下す侍従が娘おとろへて野々宮のあらし祇王寺の鉦)

と、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした、京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社に展開する。
 こういう古典ネタはこの時期は頻繁に登場する。
 十三句目。

   芸者をとむる名月の関
 面白の遊女の秋の夜すがらや   芭蕉
 (面白の遊女の秋の夜すがらや芸者をとむる名月の関)

 これは。前句の芸者を遊女とするものだが、言葉の方で、

 「遊楽の夜すがらこれ、采女の戯れと思すなよ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.22886-22889). Yamatouta e books. Kindle 版. )

という謡曲『采女』の遊楽の「夜すがらや」を用いていて、こうした謡曲の言葉の使用は談林時代に多用され、『奥の細道』の旅で、

 あな無残やな甲の下のきりぎりす 芭蕉

と呼んだ頃まで残って行くことになる。
 十六句目も、謡曲の言葉は使ってないが、謡曲を本説としている。

   川瀬行髻を角に結分て
 舎利とる滝に朝日うつろふ    芭蕉
 (川瀬行髻を角に結分て舎利とる滝に朝日うつろふ)

 これは謡曲『舎利』で、

 「都・泉涌寺に保管された仏舎利を足疾鬼が奪い取って逃げると、韋駄天が追っ駈けて取り戻す。それを泉涌寺 参拝の旅僧の幻想として描き出す。](野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.77506-77509). Yamatouta e books. Kindle 版. )

という能の、泉涌寺の湧き水を滝に変えて本説で付ける。舎利は無事に取り戻されて朝日が射す。
 二十二句目。

   聞なれし笛のいろえの遠ざかり
 三ッ股のふね深川の夜      芭蕉
 (聞なれし笛のいろえの遠ざかり三ッ股のふね深川の夜)

 「三ッ股」は隅田川、小名木川、箱崎川の分かれる場所で「三つまたわかれの淵」と呼ばれていた。深川芭蕉庵もこの近くにあった。
 夜になると舟遊びをする人たちの乗った船の笛の音が聞こえてきたのだろう。芭蕉にとっては聞きなれた笛だったか。旅の空で、江戸を思い出していたのかもしれない。
 二十五句目。

   花幽なる竹こきの蕎麦
 いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら 芭蕉
 (いかに鳴百舌鳥は吹矢を負ながら花幽なる竹こきの蕎麦)

 鵙は食用にされ、「鵙落とし」という目を潰した囮の鵙を使う猟もあった。吹矢の鵙猟もあったのだろう。蕎麦を食べて精進していても、隣では吹矢を負った鵙が鳴いている。
 こういう殺生を廻るネタは俳諧では多い。殺生はいけない。でもみんなそのお世話になっている。その矛盾した感情を俳諧は両方を肯定する形で描き、しばしば坊主も殺生をやっているだとか、動物は行けなくて植物は良いのかだとか、矛盾をそのまま表現するというのが基本であろう。
 まあ、いつの時代にも今でいうビーガン原理主義者みたいのはいたのだろう。俳諧は理念ではなく情(こころ)を述ぶるなかだちで、理念に偏るものではない。

2021年10月20日水曜日

 今日は朝から晴れた。富士山が雪で白くなっていた。
 随分と久しぶりに寺家ふるさと村に行った。様子が変わっていて、すっかり公園として整備されていた。
 あと元禄七年夏の「水鶏啼と」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 次の「はつ雪の」の巻第三では、

   霜にまだ見る蕣の食
 野菊までたづぬる蝶の羽おれて  芭蕉

 (野菊までたづぬる蝶の羽おれて霜にまだ見る蕣の食)

と、前句を比喩として展開する。そのままの意味だったのを比喩に展開したり、比喩だったのをそのままの意味で展開するのは、連歌の頃からしばしば行われている。
 「蕣の食」を朝顔のような儚い飯という比喩として、晩秋の野菊に最後の力を振り絞った蝶も羽が折れて、霜の上に落ちたとする。
 十句目は、

   床ふけて語ればいとこなる男
 縁さまたげの恨みのこりし    芭蕉
 (床ふけて語ればいとこなる男縁さまたげの恨みのこりし)

と、親族が余計な口出ししたり借金をこさえてしたりして、縁談の妨げになるのはよくあることで、リアルなあるあるネタになる。
 二十三句目は囲碁ネタ。

   三線からん不破のせき人
 道すがら美濃で打ける碁を忘る  芭蕉
 (道すがら美濃で打ける碁を忘る三線からん不破のせき人)

 前句の「三線」を三味線のことではなく碁盤の端から三番目の線のこととして、そこに「からん」と碁石を置く。
 美濃で碁に負けたことも、不破の関を越える頃には忘れる。勝ったなら忘れないところだが。
 三十二句目の重五の句だが、

   秋蝉の虚に聲きくしづかさは
 藤の実つたふ雫ぽつちり     重五
 (秋蝉の虚に聲きくしづかさは藤の実つたふ雫ぽつちり)

 ここは景を付けて逃げ句にするつもりだったのだろう。ただ、藤は花は詠むが藤の実は珍しい。
 藤の実というと、元禄二年に素牛(後の惟然)と出会った時、素牛がこの地を訪れが宗祇法師の話をし、

   美濃国関といふ所の山寺に藤の花の咲きたるを見て
 関こえて爰も藤しろみさか哉   宗祇

という句を残したのを聞いて、

   関の住素牛何がし大垣の旅店を訪はれしに彼ふちしろみさ
   かといひけん花は宗祇の昔に匂ひて
 藤の実は俳諧にせん花の跡    芭蕉

という句を詠んでいる。(『風羅念仏にさすらう』沢木美子、一九九九、翰林書房)
 藤はマメ科なので鞘に入った豆の実がなる。藤の花が連歌なら藤の実は俳諧ということで、花も大事だが実も大事だということを教えたという。ちょうど芭蕉にとっても不易流行説の固まる頃だったのだろう。
 この時芭蕉の脳裏にはこの重五の句もあったかもしれない。「藤の実」はこの時は遣り句の道具に過ぎなかったが、芭蕉はそれを発句の道具に高めることとなった。
 この重五の句の後の三十三句目は芭蕉が付ける。

   藤の実つたふ雫ぽつちり
 袂より硯をひらき山かげに    芭蕉
 (袂より硯をひらき山かげに藤の実つたふ雫ぽつちり)

 矢立てのことであろう。筆のケースの先に小さな硯のついたもので、芭蕉が用いたのは檜扇型という扇子のように横に蓋をスライドさせて使うタイプのものだという。『奥の細道』の旅立ちの時に、

 「行春や鳥啼き魚の目は泪    芭蕉
 これを矢立の初として、行道なをすすまず。」

と記している。
 旅で矢立ての硯を開いて何か書きつけようとしていると、藤の実の雫が落ちてくる。
 つづく「つつみかねて」の巻の四句目。

   歯朶の葉を初狩人の矢に負て
 北の御門をおしあけのはる    芭蕉
 (歯朶の葉を初狩人の矢に負て北の御門をおしあけのはる)

 北の御門は搦手門とも言われ、小型で目立たない普通の家で言うと勝手口にあたる。初狩りといってもお忍びの外出か。「押し開け」と「年の明ける」を掛ける。
 いかにもありそうな情景を付けて巧みに掛詞を用いた展開は、蕉風確立期の風を完全にものにしたといってもいいだろう。
 なお名古屋城の場合は東に搦手門があり北には不明(あかず)御門があったという。
 九句目は相撲ネタだが、

   燈籠ふたつになさけくらぶる
 つゆ萩のすまふ力を撰ばれず   芭蕉
 (つゆ萩のすまふ力を撰ばれず燈籠ふたつになさけくらぶる)

と田舎相撲で人情を見せている。
 夜の御寺の境内で燈籠を灯して相撲が行われるが、土俵脇には萩に露が降り、あまりきれいなので思い切り投げ飛ばすわけにもいかず、力比べではなく情け比べになってしまった。これなどは「細み」と言っていいだろう。
 十六句目は災害から釈教へ展開する。

   まがきまで津浪の水にくづれ行
 仏喰たる魚解きけり       芭蕉
 (まがきまで津浪の水にくづれ行仏喰たる魚解きけり)

 魚の腹の中から仏像が出てくればこれは有難い、奇跡だということで、復興のシンボルにもなるだろう。ありそうな霊験譚を付ける。
 後に桃隣編『陸奥衛』で、桃隣がみちのくを旅して桑折までもどってきたときに、

 「仙臺領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上ゲ、不思儀の緣により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法圓寺に安置し奉ル。惣の御奇瑞諸人擧て詣ス。まことに所は邊土ながら、風雅に志ス輩過半あり。げに土地の清浄・人心柔和なるを神も感通ありて、鎭坐し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜み、桑折にとゞめぬ
       天神社造立半
    〇石突に雨は止たり花柘榴」(舞都遲登理)」

と記している。
 十九句目。

   五形菫の畠六反
 うれしげに囀る雲雀ちりちりと  芭蕉
 (うれしげに囀る雲雀ちりちりと五形菫の畠六反)

 六反の畑の上に囀る雲雀を付けた、単純に景を付けて流したような句だが、ここに「ちりちり」というオノマトペで俳言とする。軽みの時代になるとこれを発句道具にして、

 梅が香にのつと日の出る山路哉  芭蕉

のように発句にも取り入れられる。ただ、この擬音の使用は「狂句こがらし」の巻五句目に既に、

   朝鮮のほそりすすきのにほひなき
 ひのちりちりに野に米を刈    正平

とあるところから、芭蕉の方が名古屋の門人から学んでいると言っていいだろう。
 芭蕉は独力で新風を切り開いているのではない。むしろ若い門人たちの良いものを巧妙に盗んでいると言った方が良いのかもしれない。天才というのは学習能力の高い人のことで、頭が柔軟で、自分が思いつかなかったものをすぐに取り込む才能なのかもしれない。
 この巻の挙句は、

   こがれ飛たましゐ花のかげに入
 その望の日を我もおなじく    芭蕉
 (こがれ飛たましゐ花のかげに入その望の日を我もおなじく)

で、これは、

 願はくは花のしたにて春死なむ
     その如月の望月の頃
              西行法師(続古今集)

の歌によるもので、西行法師の魂が体から抜け出して花の蔭に入っていくなら、我が魂も同じように花の蔭に入ってゆきたい、と極楽往生を願う体で一巻が終了する。
 季語はないが「その望の日」は「その如月の望月の頃」の意味なので一応春ということになる。これは

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉 芭蕉

の句が、

 世にふるもさらに時雨のやどり哉 宗祇

の句を元にしているので、「時雨」の文字がなくても時雨の句で冬になるのと同じだ。これは談林時代からある手法で、『俳諧次韻』のきっかけになった信徳編『七百五十韻』の「八人や」の巻の七句目、

   青物使あけぼのの鴈
 久堅の中間男影出で       常之

の、月の文字はないけど「中元(七月十五日)」の久堅の天に影出でで、実質月の句になる、このテクニックの応用と言っていいだろう。
 続く「炭売の」の巻の十二句目は恋の句で、

   捨られてくねるか鴛の離れ鳥
 火をかぬ火燵なき人を見む    芭蕉
 (捨られてくねるか鴛の離れ鳥火をかぬ火燵なき人を見む)

 火を置かない火燵に、いつも火を用意してくれたあの人はいないのかと思いつつ、それでいて自分で火を入れようとしない。前句をすねているのか、一羽になってしまったオシドリとしている。
 十七句目はロジックネタというか、逆説ネタというか。

   ふゆまつ納豆たたくなるべし
 はなに泣桜の黴とすてにける   芭蕉
 (はなに泣桜の黴とすてにけるふゆまつ納豆たたくなるべし)

 花の散るのを悲しみ、この世は所詮桜の黴にすぎないと世捨て人になったが、冬になるとお寺でその黴(正確には菌)で作った納豆を叩いている。
 二十九句目。

   つづみ手向る弁慶の宮
 寅の日に旦を鍛冶の急起て    芭蕉
 (寅の日に旦を鍛冶の急起てつづみ手向る弁慶の宮)

 弁慶から毘沙門天の発想はありそうだが、その毘沙門天を言葉の裏に隠して、あえて毘沙門天の縁日の「虎の日」とする。このような単純な付け合いの連想ゲームを嫌い、それをさらに婉曲にして言葉の裏に隠す手法は、後の匂い付けにつながる。
 寅の日は毘沙門天の縁日。コトバンクの「世界大百科事典内の毘沙門天の言及」に、

 「《弁慶物語》などでも,弁慶は太刀,飾りの黄金細工,鎧(よろい)などを五条吉内左衛門,七条堀河の四郎左衛門,三条の小鍛冶に作らせていて,炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。 鍛冶の集団は毘沙門天(びしやもんてん)を信仰していたから,《義経記》の中で鞍馬(くらま)寺が大きな比重を占めるのも,鍛冶の集団の中で伝承され成長した物語が《義経記》の中に流れ込んだためとも考えられる。また,山伏と鍛冶との交流も考えられるが,問題はそれらの個々の伝承者を離れて,弁慶が典型的な民間の英雄として,その像がどのような種類の想像力によって生成されたかを解明することであろう。」

とある。
 鍛冶は毘沙門天を信仰していたので、寅の日の朝は早く起きて弁慶の宮に鼓を手向ける。
 三十四句目はミスマッチネタ。

   粥すするあかつき花にかしこまり
 狩衣の下に鎧ふ春風       芭蕉
 (粥すするあかつき花にかしこまり狩衣の下に鎧ふ春風)

 狩衣の上に鎧を着るならわかる。下にというのは戦場での休息か。花見の席なので鎧は似合わず、上に狩衣を着て隠すということか。
 後の、

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

にも通じるものがある。
 最後の「霜月や」の巻。
 発句の、

   田家眺望
 霜月や鸛の彳々ならびゐて    荷兮

の句は「て」留で発句としてはかなり意表を突いたものだ。後に芭蕉が許六に言った「底を抜く」ということだろう。
 こういうのを芭蕉は見逃さない。すぐに翌年の春に、

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

の句を詠むことになる。
 荷兮の発句には、芭蕉が脇を付ける。

   霜月や鸛の彳々ならびゐて
 冬の朝日のあはれなりけり    芭蕉
 (霜月や鸛の彳々ならびゐて冬の朝日のあはれなりけり)

 軽く朝日を添えて流すが、そこにももちろんこの興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。上句下句合わせて、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて
     冬の朝日のあはれなりけり

と和歌のように綺麗につながっている。
 こうした穏やかに日和を付けるだけの脇は、『ひさご』の、

   木の本に汁も膾も桜哉
 明日来る人はくやしがる春    風麦

の脇を取らずに、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珍碩

の脇を採用したところにも受け継がれている。
 二十六句目。

   芥子あまの小坊交りに打むれて
 おるるはすのみたてる蓮の実    芭蕉
 (芥子あまの小坊交りに打むれておるるはすのみたてる蓮の実)

 この頃の子どもはその髪型から「芥子坊主」と呼ばれていたが、女の子は「芥子あま」になる。
 蓮の実は食べられるので、昔は子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。
 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所も、後の匂い付けに通じるものが感じられる。
 『冬の日』は、これまで『俳諧次韻』の「世に有て」の巻で展開された作風を、名古屋の連衆に触発されて全面的に推し進めることになった、その意味での記念すべき一巻だった。これによって蕉風の俳諧が固まったといってもいい。そこには既に後の匂い付けの萌芽も見られる。

2021年10月19日火曜日

 今日は朝から雨。
 日本はすっかりコロナの第五波が収まったが、世界はどうかと見てみると、アメリカも一回目のワクチン接種が六十六パーセントで、ペースダウンはしているが順調に進んでいるようだ。日本じゃ反ワクのことばかりが大々的に報道され、あたかも反ワクが盛り上がらない日本が遅れているかのような調子だが。新規感染者数もとっくにピークアウトして減少傾向にある。
 インドも一回目のワクチン接種率が五割を越え、収束傾向にある。
 ヨーロッパはラテン系はワクチン接種率も高く、感染者も少ない。ポーランド、チェコといった東欧の優等生も少ないみたいだ。
 シンガポールは感染者の急増ばかりが報道されているが、イギリスの時と同様死者は少ない。ワクチン接種を進める一方で生活の方を普通に戻してしまうと、どこもこういう傾向になるのだろう。
 世界的に減少傾向にあると、変異株も生じにくくなる。突然変異というのはあくまで確立だから、感染爆発すればそれだけ変異株の発生する確率が高くなる。
 ワクチン接種率が高まると、感染者数の中のワクチン接種者の率が高くなる。死者数も同様だ。極端に言えば、ワクチン接種率が百パーセントなら、感染者数や死者数の中のワクチン接種者率も百パーセントになる。単純な数学的問題だ。
 コロナの脅威は確実に減りつつある。恐れずに次の時代に進もう。今心配なのは中国経済の恐怖だ。日本の政情については特に心配していない。

 それでは「狂句こがらし」の巻のやりなおしの続き。挙句まで。

 二十五句目。

   冬がれわけてひとり唐苣
 しらじらと砕けしは人の骨か何   杜国

 江戸時代前期には、まだ火葬や土葬などの習慣が徹底せず、死体を川原などに投げ捨てたりするので、いわゆる「野ざらし」と呼ばれる髑髏が草むらにごろごろしていても、それほど珍しいことではなかった。それらはやがて風化し、自然に砕け散ってゆき、土に帰ってゆく。
 冬枯れの中で一人唐苣を摘んでいると、白く砕けた人骨のようなもを見つける。
 二十六句目。

   しらじらと砕けしは人の骨か何
 烏賊はゑびすの国のうらかた    重五

 「人の骨か何」を、砂浜に散らばる白いものと取り成す。イカの甲羅が白いので、それはイカだろう、という付けなのだが、それだけでは面白くないので、そのイカはどこか見知らぬ夷(えびす)の国の占いに用いられたものだろう、と付け加えている。(「うらかた」は占い方であって、裏方ではない。)
 「ゑびす」と聞いて誰しもすぐに思い浮かべるのは、七福神の恵比寿様だろう。七福神は東の海上にある三神山の一つ、蓬莱山から、宝船に乗ってやって来ると言われている。だから、「ゑびすの国」とは蓬莱の国のことだろう。蓬莱山ではすべての生き物が白いと言われているから、そこにイカがいてもおかしくない。
 ゑびすは一方で「えみし」と同様、「夷」という字を当て異民族の意味でも用いる。中国では東夷・南蛮・西戎・北狄と呼ばれ、「夷」は我々日本人の祖先である倭人を初めとして、越人、韓人などもひっくるめてそう呼んでいた。恵比寿様が漁師の姿なのも、中国人の側からみた東夷に漁撈民族のイメージがあったからだろう。東夷はかつての長江文明の末裔ということもあってか、他の蛮族に比べて一目置く所もあって、孔子も東方礼儀の国と言い、海の向こうの島国への憧れは、いつしか蓬莱山伝説を生んだのだろう。
 秦の徐福も不老不死の仙薬を求めて日本に来たというし、鑑真和尚(がんじんわじょう)の日本布教への情熱も、おそらく日本に何かエキゾチックな魅せられるものがあったからだろう。マルコ・ポーロの黄金の島ジパングも、蓬莱山伝説がごっちゃになったものだろう。
 二十七句目。

   烏賊はゑびすの国のうらかた
 あはれさの謎にもとけし郭公    野水

 「し」は「じ」で否定の言葉。
 恵比寿の国の占方が占っても解けないのは、ホトトギスがなぜ哀れなのかだった。
 永遠の命を持つ神仙郷の住民には、死後にホトトギスとなって血を吐きながら鳴くというのが、何のことだか理解できない。
 二十八句目。

   あはれさの謎にもとけし郭公
 秋水一斗もりつくす夜ぞ      芭蕉

 「秋水」は本来は秋に黄河の水かさが増すことで、『荘子』の秋水編はそこから来ている。それとは別に秋の清らかな水を意味することもあるが、この場合は秋の新酒のことだろう。酒は一升も飲めば立派な酒豪だが、その十倍の一斗(十八リットル)となると、なかなか豪勢だ。
 酒豪が何人もそろって、今日は派手に飲み明かそうぜ、というわけでホトトギスにまつわる悲しい伝説など知ったことではない。
 新酒の季節とホトトギスの鳴く季節とが合わないので、前句に関しては、単なるあしらいと見た方が良い。
 二十九句目。

   秋水一斗もりつくす夜ぞ
 日東の李白が坊に月を見て     重五

 酒といえば李白の酒好きは有名だが、ここでは李白ではなく、あえて「日東の李白」としている。基本的には架空の人物と見ていい。李白のような漢詩を得意としながらも、酒が好きで、李白の『月下独酌』の詩のように、月を見ながら月と壁に映る自分の影と三人?で酒を一斗飲み干したというから、豪勢だ。
 「日東の李白」ではないが、「日東の李杜」と呼ばれた人は、これより十二年前の寛文十二年(一六七二年)に没したが、石川丈山という人がいた。三河の出身ということで、名古屋の連衆もよく知っていただろう。藤原惺窩に師事したという点では、松永貞徳とも交流があったと思われる。ただ、丈山は貞徳よりは歳が十二ほど下で、むしろ貞徳の息子の昌三と親しかった。
 丈山は寛永十四年(一六三七年)に朝鮮使節が来日した際、権侙(クォンチョク?)という韓国人と筆談の際に、「日東の李杜」と褒められたという。当時の日本人は、漢文に関しては相当劣等感があったのだろう。韓国人も別に漢文に関しては母国語ではないのだが、それでも漢文に関しては韓国の方が上だという意識があり、本人はどうか知らないが、回りがすっかり有頂天になってしまったのではなかったか。寛文十一年(1671年)に刊行された『覆醤集(ふしょうしゅう)』の序文にもそのことが記された。
 実際の丈山の詩を一つ紹介しておこう。

   驟雨
 冥色分高漢 雷聲過遠山
 晩涼殘雨外 月潔斷雲間

 暗い色が銀河を分かち
 遠山をよぎるかみなり
 夕暮は涼しく残雨の外
 破れた雲に月は清らに

 三十句目。

   日東の李白が坊に月を見て
 巾に木槿をはさむ琵琶打      荷兮

 『太平広記』巻第二百五、楽三に、玄宗皇帝が愛した羯鼓の名手璡(しん)が、頭に絹の帽子を載せ、その上に槿の花を置き、『舞山香』という曲を一曲演奏し、滑り落ちることがなかった、それだけ体を微動だにさせずに演奏したという話が収録されている。
 李白も玄宗皇帝の時代の人ということで、この物語を本説として、日東の李白の月見の宴に琵琶の名手が頭巾の上に槿をはさみ、それを落とさずに演奏した、と付ける。
 二裏、三十一句目。

   巾に木槿をはさむ琵琶打
 うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉

 牛や馬は死ぬとすぐに専門の処理業者がやってきて解体し、使える部分は持ち帰り、使えない部分もそれ専用の処理場に集められる。いわゆる穢多と呼ばれる人たちの仕事だ。
 飼い主はこの時何もすることはない。馬の場合は江戸後期だと馬頭観音塔を建てて弔うが、この時代はよくわからない。
 まして牛の場合はどうだったのか。後世には残らなくても、何らかの形で祭壇を設けて弔っていたのではないかと思う。
 前句の琵琶法師がその現場を訪れて、そっと槿の花を添える。
 三十二句目。

   うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに
 箕に鮗の魚をいただき       杜国

 鮗(このしろ)というと、『奥の細道』の室の八島の所に、「このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨むね世に伝ふ事も侍はべりし。」とある。
 ウィキペディアには、

 「『慈元抄』では、コノシロの名称は戦国期ごろ「ツナシ」に代わり広まったという。大量に獲れたために下魚扱いされ、「飯の代わりにする魚」の意から「飯代魚(このしろ)」と呼ばれたと伝わる。これは、古くは「飯」のことを「コ」や「コオ」といい、また、雑炊に入れる煮付けや鮓(すし)の上にのせる魚肉なども「コ」や「コオ」といったところから。また『慈元抄』や『物類称呼』には、出産児の健康を祈って地中に埋める風習から「児(こ)の代(しろ)」と云うとある。当て字でコノシロを幼子の代役の意味で「児の代」、娘の代役の意味で「娘の代」と書くことがある。出産時などに子供の健康を祈って、コノシロを地中に埋める習慣があった。また焼くと臭いがきついために、以下のような伝承も伝わっている。
 むかし下野国の長者に美しい一人娘がいた。常陸国の国司がこれを見初めて結婚を申し出た。しかし娘には恋人がいた。そこで娘思いの親は、「娘は病死した」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬してみせた。その時棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれたツナシで、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。
 富士山の山頂には「このしろ池」と呼ばれる夏でも涸れない池があり、山頂にある富士山本宮浅間大社奥社の祭神木花咲耶姫の眷属である「このしろ」という魚が棲んでいるとされ、風神からの求婚を断るために女神がやはりコノシロを焼いて欺いたという同様の話が伝わっている。
 また『塵塚談』には、「武士は決して食せざりしものなり、コノシロは『この城』を食うというひびきを忌(いみ)てなり」とあり、また料理する際に腹側から切り開くため、「腹切魚」と呼ばれ、武家には忌み嫌われた。そのため、江戸時代には幕府によって武士がコノシロを食べることは禁止されていたが、酢締めにして寿司にすると旨いため、庶民はコハダと称して食した。その一方で、日本の正月には膳(おせち)に「コハダの粟漬け」が残っており、縁起の良い魚としても扱われている。」

と謂れの多い魚ではある。
 箕(み)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「箕」の解説」に、

 「〘名〙 穀類をあおりふるって、殻やごみをよりわける農具。また、年中行事などで供具としても使う。
  ※播磨風土記(715頃)餝磨「箕(み)落ちし処は、仍て箕形丘(みかたをか)と号け」

とある。
 この場合は、牛の弔いにコノシロを供えるということだと思う。
 三十三句目。

   箕に鮗の魚をいただき
 わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮

 ネット上の中谷征充さんの『空海漢詩文研究 「故贈僧正勤操大徳影讚并序」考』で、弘法大師の『故贈僧正勤操大徳影讚并序』を読むことができる。
 そこには、

 初母氏無嗣、中心憂之、數詣駕龍寺
 玉像前 香花表誠 精勤祈息
 夜夢明星入懐、遂乃有娠

 初め母氏に嗣無く、中心之を憂う。數々駕龍寺に詣で、
 玉像の前にて、香花をもて誠を表わし、精勤して息を祈る。
 夜 明星の懐に入るを夢み、遂に乃ち娠有り。

とある。
 弘法大師の懐妊にあやかって明けの明星に懐妊を祈ったが、得たのはコノシロだった。
 三十四句目。

   わがいのりあけがたの星孕むべく
 けふはいもとのまゆかきにゆき   野水

 「まゆかき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「眉描・黛」の解説」に、

 〘名〙 まゆずみで眉をかくこと。また、まゆずみで眉をかくのに用いる筆。まよがき。
  ※白氏文集天永四年点(1113)三「青き黛(マユカキ)(〈別訓〉まゆすみ)眉を画いて眉細く長し」

とある。既婚女性は眉毛を抜いて、眉を描いていた。
 結婚した妹の眉を描きに行き、妹の懐妊を祈る。
 三十五句目。

   けふはいもとのまゆかきにゆき
 綾ひとへ居湯に志賀の花漉て    杜国

 居湯(をりゆ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居湯」の解説」に、

 「〘名〙 直接釜を連結していない風呂。別にわかした湯を移し入れた風呂。湯船は流し場より低いところに作りつけにされていた。江戸時代、寛文(一六六一‐七三)末頃には、水風呂、据風呂(すえぶろ)に混同されたという。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とある。
 ここでは当時お寺などを中心に広まりつつあった水風呂、つまり今日のような湯船にお湯に浸かる風呂であろう。
 風呂に使う水に浮いた桜の花びらを、綾布で濾し取り、一風呂浴びさせてから妹の眉を描く。
 挙句。

   綾ひとへ居湯に志賀の花漉て
 廊下は藤のかげつたふ也      重五

 お寺か立派な屋敷の風呂として、廊下の障子には藤の影が映る。春爛漫をもって一巻は目出度く終わる。

2021年10月18日月曜日

 今日は晴れたが気温が急に下がった。「やや寒」というところか。
 雲はほとんどないんだけど、丹沢の上に若干雲がかかっていて、富士山は見えなかった。雪がほんの少し積もってたらしい。
 今日は十三夜。夕方に雲が出てきたが、月が登って少しすると晴れた。

 それでは「狂句こがらし」の巻のやりなおしの続き。

 十三句目。

   あるじはひんにたえし虚家
 田中なるこまんが柳落るころ    荷兮

 「こまん」は「関のこまん」で丹波与作との恋物語が寛文の頃から俗謡に歌われ、浄瑠璃や歌舞伎にも脚色されてゆくことになった。貞享二年六月二日の「涼しさの」の巻七十句目にも、

   はつ雪の石凸凹に凸凹に
 小女郎小まんが大根引ころ     才丸

の句がある。
 前句の貧しい暮らしに悲恋の柳を添える。
 十四句目。

   田中なるこまんが柳落るころ
 霧にふね引人はちんばか      野水

 柳というのは川べりに植えられていることが多い。その意味では柳に船は付き物と言えよう。単に霧に船を引く人では連歌の趣向になってしまうが、そこを「ちんばか」とすることで俳諧にしている。人の身体の障害を笑うというのではなく、足が悪いながら一生懸命船を引く姿には、何か壮絶なその人間の生き様が感じられる。
 この場合の「か」は「かな」と同じ。
 十五句目。

   霧にふね引人はちんばか
 たそがれを横にながむる月ほそし  杜国

 秋三句目で、この辺で月の欲しいところだ。船をゆっくりと引きながら次第に日が暮れていくと、地平線近くに細い月が見える。
 「横にながむる」は見上げるような高さでなく、横を向くだけで見える、という意味。
 十六句目。

   たそがれを横にながむる月ほそし
 となりさかしき町に下り居る    重五

 前句の「横にながむる」を横になって眺める、とする。
 「さかし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「賢」の解説」に、

 「[二] なまいきな才知、分別があって、すきがない。
  ① 才知、分別だけあって、人間味が欠けている。かしこぶって、さしでがましい。こざかしい。
  ※落窪(10C後)一「まさにさかしき事せんや」
  ※枕(10C終)二五九「さかしきもの、今様の三歳児(みとせご)。〈略〉下衆の家の女あるじ」
  ② 他人のことについて、あれこれと口ぎたなくいうさまである。小うるさいさまである。
  ※俳諧・冬の日(1685)「たそがれを横にながむる月ほそし〈杜国〉 となりさかしき町に下り居る〈重五〉」

とある。
 隣にうるさい奴がいる街に下りてきて、横になって細い月を眺める。細い月に何か世知辛さのようなものが感じられる。
 十七句目。

   となりさかしき町に下り居る
 二の尼の近衛の花のさかりきく   野水

 前句の「下り居る」を牛車から降りるの意味に取り成す。
 天皇が崩御した時には、その妻達は尼となり、「二の尼」というのは二番目の尼、つまり本妻ではなく、かつての側室ということだろう。
 「近衛の桜」というのは、謡曲『西行桜』に、

 シテ「然るに花の名高きは。」
 地「まづ初花を急ぐなる。近衛殿の糸桜。」

とある。西行法師が、

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ
    あたら桜のとがにはありける

という歌を詠んだことで、花の精が現れて、桜には罪はないとばかりに、様々な桜の徳を並べる話だが、その中でも近衛の糸桜は有名だったようだ。
 二の尼が近衛の桜が今盛りだと聞き、京の都の下町に牛車から降り立つ。
 十八句目。

   二の尼の近衛の花のさかりきく
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ    芭蕉

 前句の王朝ネタはこの時代によくあるものだったので、芭蕉としてもややほっとした感じがしたのではないか。
 かつての宮廷で蝶のように華やかに舞っていた身も、今や近衛の糸桜どころか、こんな雑草にとまる蝶になってしまったと涙ぐむ。「鼻かむ」というのは泣くことを間接的に言う言いまわして、風雅なようだが、何か鼻水でぐしゅぐしゅになった顔が浮かんできそうで、俳味がある。
 二表、十九句目。

   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ
 のり物に簾透顔おぼろなる     重五

 舞台を現代に戻して、駕籠の簾の向こうに鼻をかむ人が朧に見える、とする。愛しき人の姿を見て、蝶のような浮気なあの人は野卑なむぐらの所に行ってしまったと涙する。

 二十句目。

   のり物に簾透顔おぼろなる
 いまぞ恨の矢をはなつ声      荷兮

 一転して仇討の句となる。
 顔もおぼろなのに大丈夫だろうか。人違いでないだろうか。
 二十一句目。

   いまぞ恨の矢をはなつ声
 ぬす人の記念の松の吹おれて    芭蕉

 熊坂長範(くまさかちょうはん)は謡曲『熊坂』でもって多くの人に知られるようになり、江戸時代の歌舞伎、浄瑠璃などの題材にもなっている。十二世紀の大盗賊ということで、義経伝説に結び付けられ、謡曲のほうも、綾戸古墳の松の木の下で、熊坂の十三人の手下をばったばったと切り捨てた牛若丸に、ついに熊坂が薙刀で切りかかり、一騎打ちとなるが、そこで牛若丸は今日の五条での弁慶のときのように、ひらりひらりとあの八艘飛びを見せ、ついには熊坂もこの松の木の下で息絶える。
 この形見の松は謡曲『熊坂』に、

 「あれに見えたる一木の松の、茂りて小高き茅原こそ、唯今申しし者の古墳なれ。往復ならねば申すなり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.85623-85626). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 その熊坂の形見の松も、やがて年月を経て、老木となり、今では吹き折れている。しかし、その木の下にたたずむと、今でも熊坂の霊が現れて、恨みの矢の声が聞こえてくるようだ。本説付になる。
 謡曲では熊坂の武器は薙刀で、弓ではなが、出典で付ける時は、そのものではなく多少変えるのが普通なので、熊坂が弓で牛若丸を狙ったとしても悪いことはではない。
 二十二句目。

   ぬす人の記念の松の吹おれて
 しばし宗祇の名を付し水      杜国

 岐阜県の郡上八幡は、かつって連歌師の宗祇が古今伝授を受けた東常縁の支配下にあり、ここでも古今伝授を受けるために宗祇が滞在したという伝承がある。
 その宗祇の庵は長良川に流れ込む吉田川のほとりにあったと言われ、そこにある泉が、やがて「宗祇水」と呼ばれるようになった。(参考;『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館)
 ともに美濃国の名所で相対付けになる。
 二十三句目。

   しばし宗祇の名を付し水
 笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨   荷兮

 宗祇というと、

 世にふるもさらに時雨の宿り哉   宗祇

の発句が有名で、前句の「宗祇の名を付し水」を宗祇水ではなく、時雨にも宗祇の名があるという意味に取り成す。
 宗祇ゆかりの時雨であれば、無理にでも濡れて宗祇法師の「世にふるも」の気持ちになって見たいものだ。
 二十四句目。

   笠ぬぎて無理にもぬるる北時雨
 冬がれわけてひとり唐苣      野水

 唐苣(たうちさ)はフダンソウとも言い、葉を食用とするビーツの仲間で、江戸時代の初め頃に中国から入ってきて、よく栽培されていたらしい。レタスのような味だという。今ではスイスチャードとも呼ばれる。冬でも収穫できないことはない。
 ウィキペディアに

 「ホウレンソウに似ているが比較的季節に関係なく利用できるので「不断草」とよばれる。「恭菜」という表記もある。 葉はホウレンソウとおなじように、おひたしや和物に利用される。太い葉柄は煮たり炒めたりして食べられる。 茎は色彩鮮やかで、赤、オレンジ、白などの種類があり、これらはポリフェノールの一種であるベタレイン色素によるもの。
 欧米ではレッドチャードの若葉がラムズレタスなどといっしょにサラダとしてよく使われる。
 沖縄県では「ンスナバー」と呼ばれ、「スーネー」または「ウサチ」という和え物や「ンブシー」という味噌煮に仕立てる。沖縄では冬野菜として利用される。他にも様々な地域名があり、岡山県ではアマナ、長野県ではトキシラズやキシャナ、兵庫県ではシロナ、京都府ではタウヂサ、大阪府ではウマイナ、島根県ではオホバコヂサと呼ばれる。」

とある。
 時雨に濡れてでも収穫したいものだ。