2021年9月14日火曜日

 今日は曇っていて蒸し暑い。今日も散歩に出た。彼岸花や鶏頭も咲いていた。柿の実が赤くなり始めている。8,600歩で昨日より距離が伸びた。
 ラジオでトラックの路上駐車の問題を取り上げていた。時間指定のせいだとか、いろいろ議論がある。
 根本的なことを言えば、トラックを止める場所が路上以外にない、というのが原因だ。荒野の真っただ中ではないんだということだ。勝手にトラックを止めていい場所なんてどこにもない。多少トラック用の駐車場を作っても絶対的に数が足りない。
 トラックの業務は基本的に会社が自宅の駐車場を出て集荷に行き、それを指定された場所に納品して、それで終わりだ。ここですぐに帰社になることはあまりないが、基本的には仕事は集荷→納品の繰り返しだ。
 最初の会社か自宅の駐車場は、これが確保されてなければトラックの所有ができないので、ここで路上駐車の問題が生じることはないし、あるとすれば違法な手段で車を所有していることになる。(車庫飛ばしというのは結構よくある。)
 駐車場所が問題になるのは、集荷と納品の場面に限られる。集荷場所に駐車スペースがない。あるいは狭くて複数のトラックが入ることができない。同様に納品場所に駐車スペースがない。あるいは狭くて複数のトラックが入ることができない。この場合路上駐車は必然だ。この問題が解決されない限り、路上駐車の問題は無くならない。
 集荷の場合、大きな流通センターを作って、そこに広い駐車スペースを確保できればある程度解決できる。
 納品の場合は前述の流通センターへの、いわゆるセンター納品をしても、そこからまた個々の現場や店舗に運び込まなくてはならないから、根本的な解決にはならない。
 納品場所に一度に複数のトラックが着いたら、その周辺に止めて順番を待つしかない。それを避けるために事前の電話連絡を義務付けて、呼ばれたら現場に入るようにしている所も多いが、近所に並ばれて苦情が来るのが防げるだけで、トラックドライバーはただ別の場所に止めて待つだけのことだ。
 エリアを決めて待機を禁止している現場もあるが、これも押し入れにゴミを詰め込んで片づけたと言っているようなものだ。Aという現場の一キロ以内の待機を禁止しても、その一キロ圏外にトラックが溜まってしまうだけだし、その圏外にBという現場があれば、そこへ来たトラックがA現場の前で待機するようになって、待機場所交換をするだけだから、現状は何も変わらない。
 店舗配送の場合は、センター納品を基本として、店舗に納品する積荷をひとまとめにして最小限の数のトラックで納品するというのが一応の答えになる。つまり納品各社のトラックがそれぞれ自分の会社の商品を運ぶのではなく、他社の商品と混載することでトラックの台数を減らし、一本化できれば、店舗前に複数のトラックが殺到する事態を避けられる。コンビニや大手チェーン店では既にやっている。
 建築現場の場合、納品方法が多様なので、混載は難しい。さすがに生コンと鉄骨を混載するわけにはいかない。ただ、雑貨などの手卸できるようなものは、混載するシステムが作れるのではないかと思う。
 路上駐車に対する社会に目は、これからますます厳しくなるし、さらに将来の自動運転化を目指すなら、効率的な混載システムはビジネスチャンスになる。
 ただそれに必要な規制緩和を行い法改正をするということになると、いろいろ問題も生じてくるだろう。無駄に多くのトラックが動いているから、そのおこぼれで食っていけるという業者もいるだろうし。

 これまで主に『校本芭蕉全集 連句篇』を元に俳諧を読んできたが、残すは元禄六年のみになった。その元禄六年の秋の俳諧も読み終え、残る秋の俳諧がなくなってしまった。
 そこで次は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の「存疑之部」の「重々と」の巻を読んでみようと思う。
 この巻は桃青と立圃の両吟になているが、この立圃が野々口立圃のことだとしたらありえない組み合わせだ。野々口立圃は雛屋立圃とも呼ばれているが、寛文九年没で、対面したとしても芭蕉がまだ伊賀にいた頃の話になってしまう。
 ただ、中村注によると能役者服部栄九郎(宝生家十世の家元)二世立圃というのがいて、それだと芭蕉晩年の両吟と思われるという。
 後世の偽作だとした場合、不易の句はわりかし真似しやすく、流行の句は難しいというのは大体わかるだろう。今から百年前に何が流行したかなんて言われても、なかなかわかるものではない。
 また、芭蕉のが得意とした衆道ネタ、経済ネタ、被差別民ネタ、ちょっと道徳めいた句とかはわりかし真似される傾向にあるだろう。
 蕉風の場合は新味を命とするから、その時代ならではのあるあるネタが多くなる。それがほとんどないとなると、疑った方が良い。
 まずは発句だが、

 重々と名月の夜や茶臼山     芭蕉

の句で、この句は『校本芭蕉全集 第五巻』中村注によると、元禄十四年の序のある『射水川』収録の、

 名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉

の句があるという。この句は『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、一九七〇、岩波文庫)にも年次不詳の所にある。またその注には、

 「底本序文中に『一とせ洛の法師をすかして古翁の吟詠二章を得たり云々』とあって九五八と並記。」

とある。その九五八は、

 うとまるる身は梶原か厄仏    芭蕉

の句になっている。その『射水川』は十丈という人の編で、早稲田大学の「古典籍総合データベース」に上巻がアップされている。序文の中にこの二句が並べられていて、本文は元禄九年の紀行になっている。伊勢では凉菟・支考、京では去来・風国、木曽塚では正秀・丈草などの名前が見られる。
 「名月の」の句が芭蕉の句なのはほぼ間違いはないだろう。洛の法師が誰かはわからないが、おそらくは上方で詠まれた句で、そうなると茶臼山もその方面の山と見ていいのだろう。
 元禄七年の名月は伊賀で過ごし、

 名月に麓の霧や田のくもり    芭蕉
 名月の花かと見えて棉畠     同
 今宵誰よし野の月も十六里    同

の句を詠んでいる。支考が『笈日記』に「名月の佳章は三句侍りけるに」とあるから、この時はこの三句だけだったと思われる。
 元禄六年の名月は深川で閉関していて、八月十六日に、

 いざよひはとりわけ闇のはじめ哉 芭蕉

を発句とする歌仙興行が行われた。この年でもないだろう。
 元禄五年の名月も江戸にいて、

 名月や篠吹く雨の晴れを待て   濁子

を発句とする半歌仙興行が行われた。この年でもないだろう。
 元禄四年の名月は木曽塚で月見の会が行われた。この時のことは支考の『笈日記』に、

  「三夜の月
   是もむかしの秋なりけるが今年は月の本ずゑ
   を見侍らんとて待宵は楚江亭にあそび
   十五夜は木そ塚にあつまる。いざよひは船を
   浮てさゞ浪やかた田にかへるとよめるその浦の
   月をなん見侍りける。路通がまつ宵に月
   をさだむる文あり支考が名月の泛湖の賦
   あり阿叟は十六夜の辨をかきて竹内氏の
   所にとゞむ。此三夜を月の本末と名づけて
   成秀楚江が二亭に侍り。文しげゝれば爰に
   しるさず。
   十四夜
 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通
 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考
   十五夜
 米くるゝ友を今宵の月の客    翁
 五器たらで夜食の内の月見哉   支考
   十六夜 三句
 やすやすと出ていざよふ月の雲  翁
 十六夜や海老煎る程の宵の闇
   その夜浮見堂に
        吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂」(笈日記)

とある。
 膳所には茶臼山古墳があり、十五日の木曽塚の月見の会で詠まれた可能性は十分にある。この時集まったメンバーは『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、路通・正秀・楚江・智月・道休・究音・成昌・丈草・支考。珍碩(洒堂)だったという。
 元禄三年の名月も木曽塚で月見の会があり、元禄九年刊風国編の『初蝉』には、

 名月や兒たち並ぶ堂の縁     芭蕉
   とありけれど此句意にみたずとて
 名月や海にむかへば七小町    同
   と吟じて是もなほ改めんとて
 名月や座にうつくしき顔もなし  同
   といふに其夜の句はさだまりぬ

とある。
 最後の「うつくしき顔もなし」の句は尚白との両吟歌仙が巻かれている。この年の可能性もある。
 元禄四年だとすると、

 名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉

の形ではなかったかと思う。

 重々と名月の夜や茶臼山     芭蕉

だと、

 やすやすと出ていざよふ月の雲  芭蕉

の句との被りが気になる。
 元禄三年だとすると、「重々と」の形の句を作って未発表だったものを、翌年に「やすやすと」の句に使い回し、その後改作した形を誰かに托した可能性もある。
 いずれにせよ、発句が芭蕉の句であるのは間違いあるまい。茶臼山の麓に来れば、琵琶湖の向こうから大きな月が重々しく登る。
 脇は、

   重々と名月の夜や茶臼山
 肌寒しとてかり着初る      立圃

 「かり着」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「借着」の解説」に、

 「① 他人の着物を借りて着用すること。また、その着物。
  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「いづくともしらぬ敗僧、禅僧の衣をかりぎして」
  ② (比喩的に) 実際とはちがった態度などをよそおうこと。
  ※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉風呂の後「何時迄経っても、特更(ことさら)に借着(カリギ)をして陽気がらうとする自覚が退(の)かないので」

とある。寒いから上に羽織るものを借りたということか、あるいは拙い俳諧がお寒い限りで、今日は芭蕉さんの指導で借り物の句を詠みますということか。
 第三。

   肌寒しとてかり着初る
 秋の葉のその匂ひより麝香草   立圃

 麝香層(じゃかうさう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「麝香草」の解説」に、

 「① シソ科の多年草。北海道・本州・四国の山地の樹陰に生える。高さ六〇~九〇センチメートル。全体に芳香がある。葉は対生し、短柄があり、葉身は長さ一〇~二〇センチメートルの長楕円形、先はとがり基部は耳形で縁に粗い鋸歯がある。初秋、上部の葉腋に淡紅紫色か白色で長さ三~四センチメートルの筒状唇形花を数個ずつつける。《季・秋》 〔和漢三才図会(1712)〕
  ② 植物「いぶきじゃこうそう(伊吹麝香草)」の異名。
  ③ 植物「うまのすずくさ(馬鈴草)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。
 「かり着」に「匂ひ」の付けだと思われる。ただ、衣裳の匂いではなくあくまで草の匂いなので、その季節を付けている感じもする。
 四句目

   秋の葉のその匂ひより麝香草
 ほうろく買にたれ頼ばや     桃青

 「ほうろく」は焙烙のことで、コトバンクの「世界大百科事典 第2版「ほうろく(焙烙)」の解説」に、

 「浅い皿形の厚手の土器。関西でいう〈ほうらく〉が正しい読みで,〈ほうろく〉はそのなまり。炮烙とも書く。火のあたりがやわらかいので,豆,ゴマ,茶などをいるのに適する。そのため,物炒り(ものいり)を物入りにかけて,出費の続くことを〈焙烙の行列〉というしゃれがある。ほうろく焼きは江戸時代から行われていた料理で,《料理談合集》(1822)には〈ほうろくへしほをもり,魚は何にてもしほの上へならへ,又,ほうろくをふたにして,上下に火を置てやく〉と見えるが,現在ではふつうオーブンで焼き,ポンスしょうゆで食べている。」

とある。
 「焙烙の行列」に掛けたとすれば、出費がかさむから誰か金を持ってる奴に頼まなくてはならない、という意味になる。前句のとの付け筋は不明。
 五句目

   ほうろく買にたれ頼ばや
 かくばかり足の入たる高瀬舟   立圃

 これは「足」をお金を意味する「お足」に掛けて、高瀬舟を使って仕入れに行くのはお金がかかる、という意味になる。
 六句目

   かくばかり足の入たる高瀬舟
 けふも一日蝉のなく椎      桃青

 前句の「足の入たる」を単に船に足を踏み入れるとして、その日和を付ける。椎の木に蝉の鳴く暑い一日で、船は涼しげに感じられる。
 初裏、七句目。

   けふも一日蝉のなく椎
 宿ありと五里程出る家童子    立圃

 暑い日だから通常の旅人なら八里行く所を五里で宿を取る。
 「家童子」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家童子」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (「いえとうじ(家刀自)」の変化した語) =いえとじ(家刀自)〔塵袋(1264‐88頃)〕
  [2] 狂言。鷺(さぎ)流。好きな女の所に出かけようとする男と、だまされまいとする妻のやり取り。」

とある。家刀自はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「家刀自」の解説」に、

 「〘名〙 (「とじ」は婦人の尊称) 主婦を尊んでいう語。いえのとじ。いえとじめ。いえとうじ。いえどうじ。内儀。〔高田里結知識碑‐神亀三年(726)二月二九日〕
  ※霊異記(810‐824)中「家室(いへトジ)、家長(いへぎみ)に告げて曰はく〈国会図書館本訓釈 家室 二合家刀自〉」

とある。
 五里しか行かなかったのは女だったからという落ちなのか。
 八句目。

   宿ありと五里程出る家童子
 老はみなみな十念をまつ     桃青

 十念はこの場合は死のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「十念を授く」の解説」に、

 「僧が南無阿彌陀仏の六字の名号を一〇遍唱えて信者に阿彌陀仏との縁を結ばせる。浄土宗では、葬式のとき、引導のあと、導師が六字の名号を一〇度唱えることをいう。
  ※謡曲・敦盛(1430頃)「易(やす)きこと十念をば授け申すべし、それについてもおことは誰そ」

とある。
 これもあまり前句と関係なく、人はみんな死んでゆくものだと付けているようだ。
 九句目。

   老はみなみな十念をまつ
 水仙のさかりを見する神無月   立圃

 神無月になるのは前句を「十夜念仏」のこととしたからか。ただ、水仙の盛りは師走ではないかと思うが。
 十句目。

   水仙のさかりを見する神無月
 松毬まだ常盤なりけり      桃青

 松毬は糸偏に毛の文字が用いられているが、『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注により松毬のこととする。字数からすると五文字だから「まつふぐり」になるのか。冬でも松は常盤だが、そこを「松ふぐり」つまり「きんたま」を出すことで落ちにする。
 「松ふぐり」の語は延宝の頃の「色付や」の巻三十八句目に、

   見わたせば雲ははがれて雪の峯
 松のふぐりに下帯もなし     桃青

の用例がある。
 十一句目。

   松毬まだ常盤なりけり
 登られぬ大内山の后がね     立圃

 「后がね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「后がね」の解説」に、

 「〘名〙 (「がね」は接尾語) 将来皇后に予定されている方。后の候補者。きさいがね。
  ※宇津保(970‐999頃)国譲上「今日明日、女御后がねなどの、対に住み給はんには」
  ※源氏(1001‐14頃)常夏「太政(おほき)おとどの、きさきかねのひめ君ならはし給ふなる教へは」

とある。
 大内山はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「大内山」の解説」に、

 「[1]
  [一] 京都市右京区にある仁和寺(にんなじ)の北の山。宇多天皇の離宮があった。御室山。
  [二] 箏曲。生田流。純箏物。高野茂作曲。高崎正風作歌。明治二七年(一八九四)、明治天皇の銀婚式を祝って作られた。のち、松坂春栄が替手(かえで)形式に改作。
  [2] 〘名〙 (一)(一)から転じて、上皇の御所をいうようになり、さらに宮中をさすようになった。皇居。禁中。
  ※源氏(1001‐14頃)末摘花「もろともにおほうち山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月」」

とある。
 常盤の松から大内山(皇居)に展開したか。
 十二句目。

   登られぬ大内山の后がね
 雨はらはらと郭公聞       桃青

 五月雨の時鳥は古歌に多く詠まれている。こういう不易の句は一見芭蕉らしいが、実は芭蕉の嫌う所のものだ。これまでの発句以外の十一句は、芭蕉の生きた時代ならではの、その時代のネタというのがほとんど見られない。
 付け筋も、芭蕉は貞門時代から軽みの時代までいろいろ変遷はあったけど、それは過去を否定するものではなく、むしろ蓄積し、されに上を行こうという歩みだったが、その芭蕉らしい付け筋も見られない。
 諸兄はどう思われるだろうか。

2021年9月13日月曜日

 だいぶコロナも収まってきたところだし、二回目接種の副反応も収まったという所で、久しぶりに散歩を再開した。しばらく歩いてなかったので今日は軽く5600歩。金木犀、萩、葛、露草などが咲いていた。薄の穂も出始めていた。
 雪のない富士山が見えた。初冠雪の後溶けてしまったのだろう。

 それでは「いざよひは」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   道祖のやしろ月を見かくす
 我恋は千束の茅を積み重ね    芭蕉

 楽屋落ちネタでいじられてしまった芭蕉さんだが、そこは冷静に恋の句に転じる。
 旅人に恋して、その旅人は亡くなってしまったのだろう。茅を積み重ねて屋根を作って道祖神の社を作る。
 二十六句目。

   我恋は千束の茅を積み重ね
 雁も大事にとどけ行文      凉葉

 空飛ぶ雁の列を文字に見立て、思いよ届け。

 秋の夜に雁かも鳴きて渡るなり
     わが思ふ人のことづてやせし
              紀貫之(後撰集)

の歌もある。
 二十七句目。

   雁も大事にとどけ行文
 眉作るすがた似よかし水鏡    濁子

 昔の日本人は眉を剃るか抜くかして書いていた。普通は金属製の手鏡を用いるが、前句が雁なので、水鏡とする。
 二十八句目。

   眉作るすがた似よかし水鏡
 大原の紺屋里に久しき      芭蕉

 京都大原の大原女は木炭や薪を売っていたが、紺屋もいたのか。大原女は紺の筒袖を着ているが、それを染めている紺屋の姿は見たこともない。
 二十九句目。

   大原の紺屋里に久しき
 数多く繋げば牛も富貴也     凉葉

 大原の炭焼きや薪取りには牛が使われてたのだろう。大原の里は貧しそうだが牛はたくさんいる。
 三十句目。

   数多く繋げば牛も富貴也
 冬のみなとにこのしろを釣    濁子

 コノシロはウィキペディアに、

 「東北地方南部以南の西太平洋、オリガ湾(英語版)以南の日本海南部、黄海、東シナ海、南シナ海北部に広く分布し、内湾や河口の汽水域に群れで生息する。大規模な回遊は行わず、一生を通して生息域を大きく変えることはない。」

とある。港で釣れる魚で脂ののった冬が旬となる。
 港には荷を運ぶ牛もたくさん繋がれていて、牛引きや人足たちがコノシロを釣っている。
 二裏、三十一句目。

   冬のみなとにこのしろを釣
 初時雨六里の松を伝ひ来て    芭蕉

 「六里の松」は天橋立のことか。冬に初時雨、みなとに六里の松を付ける。四手付け。
 三十二句目。

   初時雨六里の松を伝ひ来て
 老がわらぢのいつ脱たやら    凉葉

 前句を旅体として、草鞋の脱げた老いた旅人を登場させる。
 三十三句目。

   老がわらぢのいつ脱たやら
 朝すきを水鶏の起す寝覚也    濁子

 水鶏の声は戸を叩く音に似ているというので、古来和歌に詠まれている。
 「朝すき」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に、

 「朝すきが朝数寄(朝の茶事)ならば夏の朝催すもので、午前六時から八時ごろまでに席に入るとされている。」

とある。
 この場合はもっと早く水鶏の声に起こされてしまったのだろう。茶事が始まっていると勘違いして、いつ草鞋を脱いだっけ、となる。
 三十四句目。

   朝すきを水鶏の起す寝覚也
 筍あらす猪の道         芭蕉

 朝の茶事のために早起きして、数寄者にふさわしく竹林の道を行く。その竹林の道を俳諧らしく「筍あらす猪の道」とする。
 三十五句目。

   筍あらす猪の道
 雪ならば雪車に乗るべき花の山  凉葉

 花が散って雪が積もったかのようだ。これが本当の雪なら雪車(そり)に乗って行く所だ。
 挙句。

   雪ならば雪車に乗るべき花の山
 はる風さらす谷の細布      濁子

 普通の天日晒しだが、花が雪のようだから雪晒しに見立てたのであろう、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雪晒」の解説」に、

 「〘名〙 布などを雪中にさらすこと。雪が日光を反射する際に発生するオゾンを利用して苧麻(ちょま)糸や苧麻織物を漂白すること。今日では越後の小千谷地方のものが知られている。
  ※御伽草子・強盗鬼神(室町時代短篇集所収)(江戸初)「越中のうしくびぬの、ゑちごの雪ざらし、かねきん、伊勢もめん」

とある。

2021年9月12日日曜日

 TBSの「ひるおび!」という番組で八代英輝弁護士が、「共産党は『暴力的な革命』というのを、党の要綱として廃止してませんから。」と言ったことで共産党から猛抗議をうけたという。確かにこれは共産党にとって死活になる。
 公務員試験を受けた人ならわかると思うが、その条件に日本国憲法の体制を暴力的に転覆する集団に属してない、というのがあったと思う。暴力革命を認めてしまえば、日本の官僚や公立学校の教職員の中にいる共産党員がすべて身分を失うことにもなりかねない。
 「党の要綱」というのは正確に言えば「日本共産党綱領」のことであろう。これは日本共産党のホームページで公開されているから、誰でもすぐに読むことができる。
 そこには暴力革命について触れた文言は一切存在しない。暴力革命を否定しているという根拠になるのは以下の文言であろう。

 「四、 民主主義革命と民主連合政府
 (一二)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。」

 問題はこの「民主主義革命」が暴力的かどうかということだ。(一四)のところにある、

 「日本共産党と統一戦線の勢力が、積極的に国会の議席を占め、国会外の運動と結びついてたたかうことは、国民の要求の実現にとっても、また変革の事業の前進にとっても、重要である。
 日本共産党と統一戦線の勢力が、国民多数の支持を得て、国会で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる。」

ということを指すとするなら、選挙での勝利が前提となる。ただ、これが「民主主義革命」だとは明記していない。
 ここでいう統一戦線は、

 「統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。」

とあり、日本共産党が単独で選挙で勝利しなくても、共産党を含む野党の連立政権が誕生した場合はこの統一戦線政府・民主連合政府が成立したとみなされる。

 「このたたかいは、政府の樹立をもって終わるものではない。引き続く前進のなかで、民主勢力の統一と国民的なたたかいを基礎に、統一戦線の政府が国の機構の全体を名実ともに掌握し、行政の諸機構が新しい国民的な諸政策の担い手となることが、重要な意義をもってくる。」

とあるように、ここまで行って初めて「民主主義革命」が達成されると見るべきであろう。これは統一戦線に参加しない者の事実上の政治からの排除であり、実質的な一党独裁と見ていい。これが現行の日本国憲法の体制の中で成立するとは思われない。

 まず基本的なことからいえば、日本共産党は戦前からの古い時代のマルクス・レーニン主義の系譜に位置する政党で、そのため柱となっているのは帝国主義論と民族自決論だ。 この民族自決論については、最近の左翼の間ではすっかり忘れ去られているが、これは戦後左翼が日本共産党に反発して、トロツキーの永久革命を信奉し、一つの世界を作る方向に傾倒していったからだ。このいわゆる新左翼と呼ばれる人たちは、今の日本のマス護美や人権団体など至る所に巣食っている。
 日本共産党が民族自決の立場に立つ限り、中国のウイグル問題やチベット問題のみならず、尖閣諸島の問題にも抗議するのは当然のことだし、北方領土の問題でロシアに抗議するのも当然のことだ。
 帝国主義論の方は、「異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革」という表現にはっきりと表れている。これは現在の体制が米帝の支配下にあって、本来の民主主義体制ではないという認識によるものだ。
 今の政府は日本国憲法に基づき、民主的な手続きによって選ばれたものであるが、それが米帝支配で民主主義ではないというのは、一体どういうことなのか。

 また、「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく」と断っている通り、これは「現在」の話であり、将来の話ではない。
 つまり日本共産党が勝利をおさめ、政権を取った後、どのような変革が行われるかについて、今まで通りの選挙が行われるという保証は何もない。そこはきっちりと押さえておく必要がある。
 まず考えられるのは米帝時代に戻そうとする政党を非民主的政党とみなして非合法化する、つまり自由民主党やその他の保守系政党の非合法化だ。そして、一度非合法化すれば警察権力による弾圧が可能になる。
 また暴力革命については党や統一戦線が直接関与することがないというだけであり、つまり組織としては行わなくても、血の気の多い衆が勝手にやったということなら不可能ではない。「暴力革命に類することは一切否定する」という種の文言はどこにもないからだ。
 現行の日本国憲法が明治憲法の改正手続きによるものではなく、八月革命による成果だという憲法学の立場に立つなら、「民主主義革命」が起きたなら、現行憲法も日本国憲法第九十六条によらずに改正することは可能になる。むしろ、統一戦線政府・民主連合政府が現行憲法を破棄し、新憲法を制定した時が「民主主義革命」と見ても良いのではないかと思う。
 ここから社会主義革命への次の段階が始まるわけだが、日本共産党は二十世紀の社会主義国家の統制経済を否定している。ならどういう経済になるのかというと、そのビジョンは何も描かれていない。

 かつての西洋列強の植民地化政策によってゆがめられた世界は、戦前の日本の軍国主義だけでなく、日本の左翼にも影を落としている。
 反西洋・日本の独立、という点ではややねじれた形だが両者は共通していた。ただ西洋列強のかつての脅威を「資本主義の脅威」として捉え、それに対する日本の独立を「社会主義の実現」として捉えていたところが違う。
 資本主義の脅威については、戦後の資本主義そのものの変化に対応していない。未だに資本家は隙あらば世界を植民地化し、労働者を貧困のどん底に陥れることを望んでいるという前提を引きずっている。資本主義は必然的に侵略戦争を引き起こすというレーニンの帝国主義論の亡霊に囚われている。
 社会主義の実現に関しては、二十世紀社会主義の計画経済の失敗を繰り返さないような新しいビジョンを持てないままでいる。
 今の左翼はこの二つの弱点を隠すための、その場限りの感情論を繰り返しているように思える。
 「資本主義の脅威」はしばしば陰謀論に陥ってデマ情報をまき散らし、日本の独立が敗戦を理由にないがしろにされ、一つの世界を廻って勝ち馬に乗ることばかり考えている。冷戦構造崩壊以来、左翼は劣化し、混乱し続けている。
 左翼がこの混乱から抜け出すには、まずは帝国主義論が過去のものとなったことを認め、戦後資本主義の変化を評価しなおさなくてはならない。そして、かつての社会主義の理想が今後の持続可能資本主義の中で実現される可能性を求めなくてはならない。これは元は極左だった筆者が至りついた結論でもある。
 多分日本共産党も早かれ遅かれそこにたどり着くことになるのではないかと思う。

 それでは「いざよひは」の巻の続き。

 十三句目。

   ばけ物曲輪掃のこす城
 梅の枝下しかねたる暮の月    岱水

 名月を隠すように梅の枝がある。切るべきか切らぬべきか、というのは古典的なネタで、宗鑑の、

   切りたくもあり切りたくもなし
 さやかなる月をかくせる花の枝

以来のものだ。
 結局切らずに残した梅の枝は、化け物が曲輪を残したようなものだ、と付く。
 宗鑑の句は、

   切りたくもあり切りたくもなし
 ぬすびとを捕へて見ればわが子なり

の方が有名だが。
 十四句目。

   梅の枝下しかねたる暮の月
 姨まち請る後のやぶ入      馬莧

 姨が待っているお盆の薮入り。正月十五日は単に「藪入り」で、七月十五日の秋の薮入りを「後の薮入り」という。
 姨(おば)に月というと姨捨山の連想が働く。ここでは捨てられずに残っている姨ということで、前句の「梅の枝下しかねたる」に付く。
 健康な姨なら問題はないが、姨捨山の姨も今でいうアルツハイマーのような障害を持った老婆で、今でも介護は深刻な問題だ。
 十五句目。

   姨まち請る後のやぶ入
 ひとり住ふるき砧をしらげけり  濁子

 「しらげる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「精」の解説」に、

 「しら・げる【精】
  〘他ガ下一〙 しら・ぐ 〘他ガ下二〙
  ① 玄米をつき、糠(ぬか)を除いて白くする。精米する。また、植物のあくなどを抜いて白くする。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕
  ※宇津保(970‐999頃)吹上上「臼一つに、女ども八人立てり。米しらけたり」
  ※拾遺(1005‐07頃か)夏・九一「神まつる卯月にさける卯花はしろくもきねがしらけたる哉〈凡河内躬恒〉」
  ② 磨きをかけて仕上げる。きたえていっそうよくする。精製する。
  ※玉塵抄(1563)二八「公主の高祖の子秦王にもしらげた兵一万人をあたえて」
  ※俳諧・毛吹草追加(1647)中「霜柱しらげ立るやかんな月〈夕翁〉」

とある。元は①の意味だったものが比喩として②の意味に拡張されたのであろう。
 ここでは②の意味で、藪入りで実家に帰ると姨が一人住まいで、砧で衣に磨きをかけて仕上げてくれる。
 十六句目。

   ひとり住ふるき砧をしらげけり
 うらみ果てや琴箱のから     芭蕉

 砧は李白の「子夜呉歌」以来、夫を兵隊に取られた女の恨みを連想させるものだで、それが恋の恨み全般に拡張されて用いられる。
 「琴箱」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「琴箱」の解説」に、

 「〘名〙 琴を入れておく箱。また、琴の胴。
  ※俳諧・蕉翁句集(1699‐1709頃)「琴箱や古物店の背戸の菊」

とある。用例にある古物店(ふるものだな)の句は同じ元禄六年秋の句で、

   大門通り過ぐるに
 琴箱や古物店の背戸の菊     芭蕉

という前書きがある。ここでは琴を入れておく箱の意味であろう。「琴箱のから」は箱だけということで、本体がどうなったかよくわからない。
 十七句目。

   うらみ果てや琴箱のから
 都より十日も遅き花ざかり    曾良

 前句を都を離れた隠士とする。琴箱を琴の胴体という意味にするなら、陶淵明の弦のない琴を抱いていた故事につながる。
 十八句目。

   都より十日も遅き花ざかり
 爪をたてたる独活の茹物     岱水

 山奥の田舎として茹でた山独活を爪で小さくほぐす。
 二表、十九句目。

   爪をたてたる独活の茹物
 年礼を御師の下人に言葉して   馬莧

 年始の挨拶の言葉をお伊勢参りの案内をする御師の下人にする。前句はその御師の生活感を表すものであろう。独活に伊勢白という品種があるが、独活に伊勢の連想があったか。
 二十句目。

   年礼を御師の下人に言葉して
 烏帽子かぶれば兀も隠るる    芭蕉

 御師は改まった席では烏帽子を被っていたか。烏帽子は髷の上に引っ掛けるものだが、兀(はげ)だとすぐに落っこちそうだが。
 二十一句目。

   烏帽子かぶれば兀も隠るる
 持つけぬ御太刀を右にかしこまり 濁子

 「持つけぬ御太刀」で皇族の軍としたか。ひょっとして後鳥羽院?
 二十二句目。

   持つけぬ御太刀を右にかしこまり
 よれば跳たる馬のふり髪     

 刀も持ち慣れなければ馬にも嫌われている。今どき平和に慣れた将軍・大名の御子息ということか。
 二十三句目。

   よれば跳たる馬のふり髪
 夏川やはや宵の瀬を踏ちがへ   凉葉

 馬が跳ねた原因を、川を渡る時に夕暮れで薄暗くて踏む場所を誤ったからだとした。
 二十四句目。

   夏川やはや宵の瀬を踏ちがへ
 道祖のやしろ月を見かくす    濁子

 夕暮れで瀬を踏み違え、道に迷い、道祖神の社も月を見ていて見落とす。そこで一句、

 笠嶋はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 この句は『猿蓑』に、

   奥刕名取の郡に入て、中将実方の塚はいづ
   くにやと尋侍れば、道より一里半ばかり左
   リの方、笠嶋といふ處に有とをしゆ。ふり
   つゞきたる五月雨いとわりなく打過るに
 笠嶋やいづこ五月のぬかり道   芭蕉

の形で発表されていた。『奥の細道』には、

 「「鐙摺(あぶみずり)・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、『是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云ひ、道祖神の社、かた見の薄今にあり』と教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、簑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
 笠嶋はいづこさ月のぬかり道」

とある。

2021年9月11日土曜日

 副反応の熱は今日は下がった。
 911事件というと思い浮かぶのが翌年五月に発売されたTHE BACK HORNの「世界樹の下で」という曲で、世界樹にワールドトレードセンターを重ね合わせて、「若き兵士が‥‥」のフレーズにアフガニスタンのことを重ね合わせて聞いていた。
 イスラム原理主義のテロも中国の問題も日本の戦前の軍国主義も、根っこのところではつながっているんだと思う。それは西洋文明の侵略によってそれ以外の独自な文明の正常な発展が妨げられた、すべてはそこから始まっているのではないかと思う。
 ただ、西洋の近代化も西洋の伝統文化との戦いがなかったわけではないことは知っている。近代化はあらゆる文明を越えて可能であるにもかかわらず、近代化を急進的に勧めようとする連中が、安易に近代化=西洋化としてしまうところにひずみが生まれてしまう。それは結局のところ「利権」の問題だ。
 最終的には各民族がそれぞれ自分たちの伝統文化と近代化との妥協点を見つけ出す所にしか解決はない。それはそれぞれの民族の内部の力であって、外圧はゆがんだ結果しかもたらさない。
 西洋は軍事力による支配を速やかに止めるべきだし、同時に非西洋圏の人達は西洋を恨まないでほしい。恨みは自らの文化の発展の道を塞ぐ。日本人は黒船も原爆も恨んではいない。それを発展のエネルギーに変えてきた。
 報復の連鎖を断つというのは、日本では謡曲『摂待』以来のテーマだった。
 あと、鈴呂屋書庫に元禄五年冬の「木枯しに」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは名月にはちょっと早いけど、元禄六年八月十六日、江戸での歌仙興行を見て行こうと思う。発句は、

 いざよひはとり分闇のはじめ哉  芭蕉

 前に読んだ、

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

の興行に先行するものだ。
 十六夜の月は日没に対して若干月の出が遅れる所から、短時間ながら日も月もない闇の時間が生じる。十七夜、十八夜となるにつれ、この闇の時間が長くなってゆく。今日はこの闇の始まる日だ、というわけだ。
 脇。

   いざよひはとり分闇のはじめ哉
 鵜船の垢をかゆる渋鮎      濁子

 「渋鮎」は「さびあゆ」と読む。錆鮎はコトバンクの「世界大百科事典内のさびアユの言及」に、

 「…産卵間近のアユは,体が黒ずみ腹部は赤く色づき雄では体表に〈追星(おいぼし)〉と呼ばれる白い小さな突起が生じ,手でさわるとざらざらした感じになる。このような状態を〈さびる〉といい,さびアユと呼ぶ。年魚の名のとおり,産卵が終わるとアユは死亡するが,水温の低いところに生息したものや餌が十分とれず成熟しなかった一部は越年することもあり,〈越年アユ〉または〈古瀬(ふるせ)〉などと呼ばれる。…」

とある。
 夏の鵜舟も鮎を取るものだが、季節は変わり今は錆鮎の季節になっている。鵜飼が闇の中で篝火を焚いて行われるが、それが殺生の罪の後生の闇を思わせ、

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉

の句を思わせる。
 その殺生の罪の垢を錆鮎漁が引き継いでゆく。前句の「闇のはじめ」に応じた付けだ。
 第三。

   鵜船の垢をかゆる渋鮎
 近道に鶏頭畠をふみ付て     岱水

 前句の罪の垢を近道しようとして鶏頭を踏んだ罪として、鵜舟、渋鮎と罪つながりで付ける。
 鶏頭は食用にもされていて、

 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花 嵐雪

の句もある。食用なら畠で作られていてもおかしくない。
 四句目。

   近道に鶏頭畠をふみ付て
 肩のそろひし米の持次      依々

 「持次(もちつぎ)」はよくわからないが、運んできた米を途中で交代して運ぶ人のことか。前句の鶏頭を踏んだ犯人とする。
 五句目。

   肩のそろひし米の持次
 見かへせば屋根に日の照る村しぐれ 濁子

 米の持ち次が降る変えると、時雨も上がって屋根に日が照るのが見える。
 六句目。

   見かへせば屋根に日の照る村しぐれ
 青菜煮る香の田舎めきけり    芭蕉

 時雨の頃は青菜の季節で、時雨も上がる頃に青菜煮る煙の臭いがし出すと、田舎に来たなという実感がわく。
 陶淵明の園田の居は

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓

と、犬や鶏の声に田舎を感じさせるが、それを卑俗なものに言い換えるのが芭蕉だ。
 初裏、七句目。

   青菜煮る香の田舎めきけり
 寄リつきのなき女房の㒵重き   岱水

 「寄りつき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寄付」の解説」に、

 「① よりつくこと。そばへ寄ること。
  ※評判記・満散利久佐(1656)野関「なべての人、うちとけがたく、心をかれて、人のよりつきすくなし」
  ② 頼りとするところ。よるべ。〔詞葉新雅(1792)〕
  ※俳諧・袖草紙所引鄙懐紙(1811)元祿六年歌仙「青菜煮る香の田舎めきけり〈芭蕉〉 寄りつきのなき女房の㒵重き〈岱水〉」
  ③ はいってすぐの部屋。玄関脇にある一室。袴付け。
  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)二「先よりつきに矢の根を琢き立、其次に鑓の間あれば」
  ④ 舞台などの正面。観客に向かった側。
  ※雑俳・太箸集(1835‐39)四「神楽堂よりつき丈は戸樋がある」
  ⑤ 茶庭などに設ける簡略な休息所。
  ※落語・素人茶道(1893)〈三代目春風亭柳枝〉「兎も角も御寄付(おヨリツキ)から拝見を為(し)て、御庭を拝見為て」
  ⑥ 取引市場で、前場または後場の最初の取引。また、その値段。寄り。⇔大引け。
  ※洒落本・北華通情(1794)「朝の寄(ヨリ)つき合図の拍子木は」
  ⑦ 「よりつきねだん(寄付値段)」の略。
  ※雑俳・冠付五百題(1857)「追々繁昌・寄付(ヨリツキ)がヱヱ低いので」

とある。②にこの句が用例として挙げられている。
 田舎に帰っても頼るあてのない女房はつらいものだ。
 八句目。

   寄リつきのなき女房の㒵重き
 夜すがら濡らす山伏の髪     芭蕉

 身寄りをなくして一人ぼっちになった女房が山伏に顔を押し付けて毎晩の様に泣くが、その㒵が重いという所に俳諧がある。
 九句目。

   夜すがら濡らす山伏の髪
 若皇子にはじめて草鞋奉リ    濁子

 たかが草鞋一足とは言え、皇子様から下賜されたもの。感激の涙を流す。
 十句目。

   若皇子にはじめて草鞋奉リ
 渡しの舟で草の名を聞      依々

 草履の下賜は渡し舟で草の名を教えてたことへのお礼だった。一字の師という言葉があるが、草の名一つでも師で、その恩に報いる。
 十一句目。

   渡しの舟で草の名を聞
 鷭の巣に赤き頭の重リて     芭蕉

 バン(鷭)は全身が黒っぽくて額から嘴の付け根辺りまでが赤い。川や池の草の生える中に巣を作る。「赤き頭の重リて」は子バンがたくさん生まれたのであろう。
 十二句目。

   鷭の巣に赤き頭の重リて
 ばけ物曲輪掃のこす城      濁子

 「曲輪(くるわ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「曲輪」の解説」に、

 「城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い。江戸時代になって「郭」の字もあてるようになった。構造の形態や位置などによって,二ノ曲輪,三ノ曲輪,内曲輪,外曲輪,横曲輪,引張曲輪,帯曲輪などの名称がある。また,「廓 (郭) 」と書いて,遊里,遊郭をもさすようになった。」

とある。
 芦を刈ったあとの取残されたバンの巣を例えて言ったものであろう。

2021年9月10日金曜日

 今朝までは何でもなかったが、昼頃から38.5度(セ氏)の熱が出た。熱以外に何の症状もないので、副反応に間違いない。夕方には多少収まった。
 fm横浜のKiss & Rideという番組でやってた俳句。

   初デートでいったら胸キュンな場所
 露の宿昔忘るゝ土手チョメリ   龍口健太郎
   クローバー
 山下の草露白幸チョケリ     仝
   気合い
 爽やかに電波に乗りけり他局前  長友愛莉
   ストリート
 駅中で秋雨奏でるピアノかな   仝

 チョメリ、チョケリは明確な意味はないが、チョメは×で伏字にする言葉などをチョメチョメと言ったりするので、何かそういうものを想像させようという意図ではないかと思う。英語のxxxとは特に関係ない。
 この句は大廻しで、切れ字がないが切れている。「露の宿(に)昔忘るゝ土手チョメリ(や)」とすれば、しっかりと発句の体を成す。
 チョケリもチョメリとの微妙な差異を持つ言葉だが、基本的に明確な意味はない。いずれも俳言になり、取り囃しの新味は十分だ。「山下」は横浜の山下公園のこと。
 この句は「山下の草露白(し)幸チョケリ」で切れている。
 「爽やかに」の句は「他局前(で)爽やかに電波に乗りけり」の倒置。「けり」という強い断定の切れ字は使い方が難しいが、ここは気合で乗り切っている。
 「駅中で」の句は駅中のストリートピアノの演奏を詠んだ句で、季節柄秋雨の音に賦す。「かな」の切れ字の使い方が良い。
 最近のテレビでやっている俳句番組でも、これだけきちんと切れ字が使えている例は稀だ。
 あと、元禄五年冬の「打よりて」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 『笈日記』の「難波部」はここから先は冬になるので、その前に「湖南部」を読んでおこうと思う。

  「元禄三年の秋ならん木曽塚の旧草にありて
   敲戸の人々に對す。
 草の戸をしれや穂蓼に唐がらし  翁
 稻すずめ茶の木畠や迯どころ」(笈日記)

 元禄三年は七月二十三日まで幻住庵で過ごした。木曽塚の無名庵の行くのはその後になる。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、幻住庵を去った跡しばらく大津に滞在し、それから木曽塚に行ったようだ。ここで『幻住庵記』の執筆が行われた。九月中旬には堅田に移る。
 二句はこの時の句と思われるが、「稲すずめ」の句は元禄四年の説もあり、岩波文庫の『芭蕉俳句集』には四年の所にある。

 草の戸をしれや穂蓼に唐がらし  芭蕉

 この句は「唐がらし(と)穂蓼に草の戸をしれや」の倒置になっている。
 穂蓼は宗因独吟「口まねや」の巻八十九句目に、

   川原の隠居焼塩もなし
 月にしも穂蓼斗の精進事     宗因

や、『春の日』の「春めくや」の巻二十七句目に、

   念仏さぶげに秋あはれ也
 穂蓼生ふ蔵を住ゐに侘なして   重五

の句もあり、草庵での質素な精進の食卓にふさわしい。蓼穂ともいい、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「たでほ」とも) 蓼の穂。特有の辛味があり塩漬にして食用にする。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「海月桶(くらげをけ)のすたるにも蓼穂(タデホ)を植ゑ」

とある。

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉     其角

の句もある。
 唐辛子は薬味として用いられたが、青唐辛子は食用にもされていた。元禄五年に、

   深川夜遊
 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

の句がある。

 稻すずめ茶の木畠や迯どころ   芭蕉

の句は、「稻すずめ(は)茶の木畠が逃どころや」の倒置。
 稲を食い荒らす害鳥でもあるスズメは、百姓に追払われると、隣の茶畑に逃げてくる。細かい枝の茂った茶の木の中に隠れてしまえば手が出せない。
 人間にとっては迷惑な鳥でも、スズメにしてみれば生きていかなくてはならない。そんな双方への共感のある「細み」の句と言えよう。
 元禄三年の冬、支考は京で「ひき起す」の巻の歌仙興行に同座している。

  「そののちは武の深川に有しが去年の秋
   文月の始ふたたび旧草に歸りて
 道ほそし相撲とり草の花の露
 木つゝきの入まはりけり藪の松  丈草
 蕎麥の花まちてやたてる岡の松  支考
   此二句も木そ塚の前境なるが藪の松
   岡の松とて阿叟もおかしがり申
   されしにそれも耳底の名殘とおも
   へば爰には記し侍る也。」(笈日記)

 次は芭蕉が元禄四年十一月に江戸に移り、元禄七年の閏五月にふたたび近江に来て、一度京の桃花坊の去来亭に滞在し、六月十五日に膳所に移った後の句になる。
 
 道ほそし相撲とり草の花の露   芭蕉

 相撲とり草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「相撲取草」の解説」に、

 「① 植物「すみれ(菫)」の異名。《季・春》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② 植物「おひしば(雄日芝)」の異名。《季・秋》
  ※俳諧・笈日記(1695)上「道ほそし相撲とり草の花の露〈芭蕉〉」

とある。2017年8月22日の俳話でも触れているので重複するが引用しておく。
 
 「「相撲取草(すもうとりぐさ)」と呼ばれる草はいくつかある。子供が草を使ってどっちの草が強いかを競う遊びを草相撲といい、それに用いられる草はそう呼ばれるようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「兼三秋物」のところに「相撲草」の項目がある。

 相撲草 [和漢三才図会]野原湿地にあり。葉、地に布(しい)て叢生す。忍凌(じゃうがひげ)に似て微扁(ちとひらた)く、石菖に似て浅く、秋、茎を起(たつ)て嶺に穂をなす。青白色。細子あるべけれどもみえず。其茎、扁く強健、長さ六七寸。小児、茎を取て穂を綰(わげ)、結て繦(ぜにさし)の如くし、二箇を用ひ、一は其襘(むすび)めにさしはさみ、両人、茎を持て相引く。切たる方、輪(まけ)とす。(『増補 俳諧歳時記栞草』曲亭馬琴編、二〇〇〇、岩波文庫、p.295)

 忍凌はジャノヒゲのことで、石菖はそのままセキショウで、それに似ているという。今日ではオヒシバのこととされている。
 ただ、オヒシバの穂に小さな花をつけるとはいうものの目立たないし、あまり花という感じがしない。そのため相撲取草はスミレではないかという説もある。スミレも花首を引っ掛けて遊ぶところからこの名前があるという。
 スミレは通常春のものだが、秋に帰り花を咲かすこともあり、そこであえて春の季語ではない「相撲取草」の名前で詠んだ可能性もある。「相撲」は秋の季語だ。」

 木つゝきの入まはりけり藪の松  丈草

 今では松くい虫防止のために、松林にキツツキ用の巣箱を設置したりしているという。特に呼ばなくても、昔からキツツキは松の木に来ていたのだろう。
 ここでは薮の松だから、手入れの行き届いてない松の木のようだ。

 蕎麥の花まちてやたてる岡の松  支考

 松と「待つ」を掛けるのは和歌以来のお約束とも言える。蕎麦畑は水路のない岡の上にあり、そこには松の木が立っている。
 木曽塚の周辺の景色を詠んだもので、薮の松に岡の松と松の句が被り、句合わせみたいになったことで芭蕉が喜んでたことが、支考にとっての芭蕉の生前の思い出となる。

  「三夜の月
   是もむかしの秋なりけるが今年は月の本ずゑ
   を見侍らんとて待宵は楚江亭にあそび
   十五夜は木そ塚にあつまる。いざよひは船を
   浮てさゞ浪やかた田にかへるとよめるその浦の
   月をなん見侍りける。路通がまつ宵に月
   をさだむる文あり支考が名月の泛湖の賦
   あり阿叟は十六夜の辨をかきて竹内氏の
   所にとゞむ。此三夜を月の本末と名づけて
   成秀楚江が二亭に侍り。文しげゝれば爰に
   しるさず。
   十四夜
 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通
 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考
   十五夜
 米くるゝ友を今宵の月の客    翁
 五器たらで夜食の内の月見哉   支考
   十六夜 三句
 やすやすと出ていざよふ月の雲  翁
 十六夜や海老煎る程の宵の闇
   その夜浮見堂に
        吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂」(笈日記)

 これは元禄四年の秋になる。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、十三日は木曽塚無名庵にいて、十四日は楚江亭で待宵の会があり、十五日に木曽塚無名庵で月見の会があり、十六日に堅田成秀亭で「安々と」の巻の歌仙興行が行われた。
 「路通がまつ宵に月をさだむる文」や「支考が名月の泛湖の賦」というのもあったようだが不明。「十六夜の辨」は『堅田十六夜之辨』で、鈴呂屋書庫の「安々と」の巻の発句の所に掲げてある。
 まずは十四夜で、

 うかるなよ跡に月まつ宵の興   路通

 月を待つ宵は浮かれるなと言っても無理だろう。まあ、あまり早くから酒が入って、月が登る頃にへべれけになっていても困るが。

 まつ宵はまだいそがしき月見哉  支考

 月を待つ間に飯を食ったり、互いに挨拶や談笑をしたりするが、結局月が登る頃にはみんな出来上がってしまう、ということだろう。
 十五夜。

 米くるる友を今宵の月の客    芭蕉

 『徒然草』の第一一七段に「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。」とある。米をくれる友はその中でも最良の者だろう。
 あと、芭蕉の門人には洒堂や木節など医者が多い。木節は最後にお世話になることになる。知恵は、俳諧をやるくらいだからみんな持っているはずだ。

 五器たらで夜食の内の月見哉   支考

 人が大勢集まって、夜食の頃には食器が足りなくなる。前句を受けて言うなら米はあってもそれを盛る器がない、ということか。
 十六夜は「安々と」の巻の興行のあった日で、

 やすやすと出ていざよふ月の雲  芭蕉

はその発句になる。総勢十九人でのにぎやかな興行だった。
 十六夜の月が待つ程もなく出てきたのはいいが、すぐに雲に隠れなかなか姿を現さなかった。これをそのまま詠んだのがこの日の興行の発句だった。
 「いさよふ」はためらう、躊躇するの意味で、十六夜の月は日没からややためらうように遅れて出ることからそう呼ばれた。

 十六夜や海老煎る程の宵の闇   芭蕉

 芭蕉は伊賀藤堂藩の元料理人で、煎り海老も自ら作ってふるまったのだろう。
 煎るというのは、当時は油を引かずに直に鍋で炒めることが多かったからだろう。焦がさないように鍋を振るう、その手さばきが見せ場でもあったか。
 煎り牡蠣も芭蕉の好物で、これを作る時には鍋のガラガラいう音が外に聞こえたという。

   その夜浮見堂に吟行して
 鎖あけて月さし入よ浮み堂    芭蕉

 この句は『堅田十六夜之辨』の末尾にも「安々と」の句と並べられている。
 浮御堂は堅田の海門山満月寺の湖上に建てられたお堂で、橋でつながっている。ウィキペディアには「平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したという。別名に『千仏閣』、『千体仏堂』とも呼ばれる。」とある。
 浮御堂の扉を開けて、月の光に照らされる千体仏の姿を見てみたい、というものだ。

  「おなじ年九月九日乙州が
      一樽をたづさへ來りけるに
 草の戸や日暮てくれし菊の酒   翁
   蜘手にのする水桶の月    乙州
   正秀亭初會興行の時
 月しろや膝に手を置宵の宿    翁
   萩しらけたるひじり行燈   正秀」

 九月九日は重陽で、乙州が酒を一樽差し入れに来る。

 草の戸や日暮てくれし菊の酒   芭蕉

 草の戸は木曽塚無名庵のことであろう。草庵で重陽の菊の酒を貰ったというだけの句だが、「暮て」と貰うの意味の「くれる」とをつなげて「暮てくれる」と反復するところに取り囃しがある。
 これに対し乙州は、

   草の戸や日暮てくれし菊の酒
 蜘手にのする水桶の月      乙州

と返す。蜘手(くもで)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蜘蛛手」の解説」に、

 「(ホ) 照明に用いた灯台、行灯(あんどん)の油皿を支える台。また、手水鉢や水桶などを載せる台。
  ※随筆・貞丈雑記(1784頃)八「切燈台、白木にて上はくも手にして」

とある。
 台に乗せた水桶に月が写っている。樽酒は原酒で、酒の弱い芭蕉さんは薄めるための水を用意したのだろう。

   正秀亭初會興行の時
 月しろや膝に手を置宵の宿    芭蕉

 この句は『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)に、元禄三年の八月中とある。
 「月しろ」は元禄五年冬の「月代を」の巻の発句、

 月代を急ぐやふなり村時雨    千川

の所で述べたが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「月代」の解説」に、

 「① 月。太陰。《季・秋》
  ※日葡辞書(1603‐04)「Tçuqixiroga(ツキシロガ) ミエタ〈訳〉すでに月がのぼった。または月の光が見えた」
  ※談義本・根無草(1763‐69)前「日は西山にかたむき、月代(ツキシロ)東にさし出て」
  ② 中古以来、男子が冠の下にあたる額ぎわの髪を半月形にそりあげたもの。さかやき。つきびたい。
  ※玉葉‐安元二年(1176)七月八日「自二件簾中一、時忠卿指二出首一其鬢不レ正、月代太見苦、面色殊損」
  ※撰集抄(1250頃)六「年かたぶきて、もとどりを切り、月しろみえわたり」
  ③ ⇒つきしろ(月白)」

 とある。②は「さかやき」のこと。③は「精選版 日本国語大辞典「月白・月代」の解説」に、

 「〘名〙 月が出ようとする時、東の空が白く明るく見えてくること。《季・秋》
  ※大斎院御集(11C初)「いでぬまの月しろにみむあまつぼし 有明までの雲隠れする」
  ※俳諧・笈日記(1695)上「月しろや膝に手を置宵の宿〈芭蕉〉 萩しらけたるひじり行燈〈正秀〉」

とある。
 苗代(なわしろ)は苗床(なえどこ)と言い換えることができるように苗を育てる場所を表すし、糊代(のりしろ)は糊を付ける場所をいう。伸びしろは伸びる余地のことで、「しろ」という言葉自体が本体とは別に作られたスペースの意味があるのではないかと思う。
 そこから月代は月のこれから出る、月のために用意された場所のことで、それが空の白むことと合わさったのではないかと思う。
 月の出る方角の白むのを見ながら、皆さん膝に手を置いて待っています、という興行開始の情景を詠んだ発句だったのだろう。
 この発句に正秀は、

   月しろや膝に手を置宵の宿
 萩しらけたるひじり行燈   正秀

と返す。月に萩は付け合いで、そこに聖行燈で新味を出す。
 聖行燈はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「聖行灯」の解説」に、

 「〘名〙 (「ひじりあんどん」とも。高野聖の笈(おい)に似ているところからとも、また、聖窓に掛けるところからともいう) 江戸時代、遊女屋の局見世(つぼねみせ)の格子、または風呂屋の軒にかけて、看板代わりにした行灯。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)七「非寺里行燈(ヒジリアントウ)のひかりを請て」

とある。

2021年9月9日木曜日

 今日は新暦の重陽で、個人的には二回目のワクチン接種の日。今のところ特に副反応はない。
 あと、「升買て」の巻「秋もはや」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは『笈日記』の続き。

   「畦止亭
   今宵は九月廿八日の夜なれば秋
   の名殘をおしむとて七種の戀を結
   題にしておのおのほつ句あり。是ハ
   泥足が其便集に出し侍れバ爰に
   しるさず。」(笈日記)

 泥足編元禄七年刊の『其便』の最後の方に、

 「此集を鏤んとする比、芭蕉の翁は難波に抖數し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半哥仙を貪り、畦止亭の七種の戀を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」

という前書きの後、「此道や」の半歌仙と「七種の戀」を掲載している。撰集があらかた完成してた時に芭蕉が大阪へやって来たため、急遽追加したのではないかと思う。芭蕉を追悼する記述がないので、刊行はこの「此道や」の半歌仙と「七種の戀」を追加して、すぐに原稿を京の井筒屋に送って為されたのであろう。
 その七種の恋は以下の通りだ。

  畦止亭におゐて卽興
   月下送兒
 月澄や狐こはがる兒の供     芭蕉
   寄鹿憶壻
 篠越て來ル人床し鹿の脛     洒堂
   寄薄戀老女
 花薄嫗が懐寐て行かん      支考
   寄稻妻妬人
 いなづまや暗がりにさす酒の論  惟然
   深窓荻
 雙六の荻の葉越や窓の奥     畦止
   寄紅葉恨遊女
 逢ぬ日は禿に見する紅葉哉    泥足
   聽砧悲離別
 洗濯の中に別るゝ小夜砧     之道

 まず芭蕉の句だが、

   月下送兒
 月澄や狐こはがる兒の供     芭蕉

 夜に稚児を送るというのがどういうシチュエーションなのか、当時の人なら思い当たるものがあったのだろう。今では夜の外出が普通でも、昔はわざわざ夜に外出するには何か理由があると考えるものだ。
 たとえば言水独吟「木枯らしの」の巻の二十八句目の、

   腰居し岩に麓の秋をみて
 朝霧かくす児の古郷       言水

の句は、稚児の帰省の旅が暗いうちに始まり、朝霧にようやく麓の秋の景色と朝霧に隠れた故郷の姿を見ている。
 稚児との別れは、『奥の細道』の旅の新潟での「文月や」の巻十九句目に、

   蝶の羽おしむ蝋燭の影
 春雨は髪剃児(ちご)の泪にて  芭蕉

とあるような、出家による別れもある。
 貞享二年の本式連歌を取り入れた「涼しさの」の巻六十五句目にも、

   名をあふ坂をこしてあらはす
 後の月家に入る尉出る児     素堂

のように、月夜に別れて逢坂山を越える稚児が描かれている。
 稚児が人目を避けて月の夜に旅をするというイメージが一般にあったとすれば、芭蕉の句もそのイメージを借りながら、「狐こはがる兒の供」と取り囃したのであろう。
 狐が人を化かすといった怪談話はこの頃既に一般的だった。芭蕉の延宝四年の「此梅に」の巻八十九句目に、

   わけ入部屋は小野の細みち
 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん  桃青

の句がある。美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。
 この手の話は鉄板だったのだろう。延宝六年の「実や月」の巻二十一句目の、

   そよや霓裳羅漢舞する
 やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ 二葉子

の句もその手の話か。楊貴妃の舞を見ていて気付いたら幻と消えていったので、「雲の通い路吹き閉じよ乙女の姿しばし留めん」となる。これも狐に化かされたのであろう。
 寛文の頃の宗因独吟「花で候」の巻八十八句目にも、

   浮橋を踏はづすかとみる夢に
 ため息ほつと月の下臥      宗因

 天女の屋敷に誘われてついて行くと、突然足元の浮橋が消え去ってまっさかさま。気付くとあれは夢で、月の下に横たわってほっと溜息を付く。同じようなネタだ。
 怖がるのはこうした怪異とは限らない。当時は人魂も狐火と呼ばれた。才麿編『椎の葉』に

   窃武者樵のかよふ道に馴レ
 光のちがふ燐(きつねび)の色  執筆

の句もある。大晦日の王子の狐火は有名だった。其角編『続虚栗』に、

 年の一夜王子の狐見にゆかん   素堂

の句がある。
 さて、七種の恋の二番目の句。

   寄鹿憶壻
 篠越て來ル人床し鹿の脛     洒堂

 壻は婿(むこ)と同じ。題は鹿の姿にかつての通ってきた婿のことを思い出す、というものだ。
 笹の茂る中をやって来た鹿に婿のことを思い出す。単に鹿とせずに「鹿の脛」と言う所に取り囃しがある。鹿が正面を向いていると前足が男の足のように見えるということか。
 通い婚と妻訪う鹿との重ね合わせは古典的な題材だ。
 三番目の句。

   寄薄戀老女
 花薄嫗が懐寐て行かん      支考

 薄に寄せる老女への恋という題で、薄は「招く・白髪」の連想が働く。
 老いても花のような白髪の姥が招くので、姥の懐で寝て行きたい。支考は『禿賦』だけではなかった。
 熟女愛は『源氏物語』「紅葉賀」の典侍(ないしのすけ)にも見られる。若紫から典侍まで幅広く愛すのが風流というものだ。
 句の方は『伊勢物語』第六十三段「九十九髪」の本説であろう。

 百歳に一歳たらぬつくも髪
     われを恋ふらしおもかげに見ゆ

という歌を詠み、その夜はともに寝ることになる。
 四番目の句。

   寄稻妻妬人
 いなづまや暗がりにさす酒の論  惟然

 嫉妬の情を稲妻に喩えるという題で、何とも怖そうだ。
 「論」は道理を述べるという意味もあるが、「あげつらふ」という訓もあるように、異を唱える、非難するというニュアンスがある。酒の論と言えば、いわゆる「飲んでくだ巻く」という状態であろう。
 それだけでもうんざりするのに、うっかりしたことを言って地雷を踏んだら暗がりに稲妻が走る。
 議論が有益なのは、科学の議論のようなきちんと管理された議論だけで、議論が大概非難の応酬に終始し「やり込め術」になっているのは、洋の東西問わず一緒ではないかと思う。
 五番目の句。

   深窓荻
 雙六の荻の葉越や窓の奥     畦止

 深窓の荻という題だが、『源氏物語』の軒端荻をイメージしたものか。深窓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「深窓」の解説」に、

 「〘名〙 奥深い窓の内。家の中の奥深い部屋。多く、身分の高い家柄、大切に扱うことなどの意を含んで用いられる。深閨。
  ※経国集(827)一〇・夏日同美三郎遇雨過菩提寺作〈小野年永〉「深窓欲レ曙憑レ松暗。絶巘初明衘レ雲蘿」 〔翁巻‐宿寺詩〕」

とある。
 家の奥で双六遊びをしている女の所に密かに通ってくる男がいるというところで、恋の句になる。
 『源氏物語』の空蝉と軒端荻は碁を打っていたが、俳諧だからそこは雙六に変える。
 雙六はバックギャモンのような古くからあるサイコロを用いたボードゲームで、博奕に用いられることが多かったが、江戸時代には繪雙六という「振りだし」と「上り」がある今の双六に近いものが発達し、浄土双六が流行した。延宝五年の「あら何共なや」の巻二十七句目に、

   野郎ぞろへの紋のうつり香
 双六の菩薩も爰に伊達姿     信徳

の句がある。
 六番目の句。

   寄紅葉恨遊女
 逢ぬ日は禿に見する紅葉哉    泥足

 題は「紅葉に寄せ、遊女を恨む」であろう。遊女が恨むではなく、客の男がつれない遊女を恨むもので、当時の遊郭の遊女は客を選ぶことができた。むしろいかに遊女を落とすかが男の甲斐性でもあった。王朝時代の通い婚を疑似体験をする場所だった。今でいうとソープランド形式ではなく、出会い系に近い。
 客の方も誰でもいいというわけではなく、それぞれに押しがあったのだろう。お目当ての遊女に見せようと持ってきた紅葉も、残念ながらあってもらえず、揚屋の禿に見せる。
 七番目の句。

   聽砧悲離別
 洗濯の中に別るゝ小夜砧     之道

 題は「砧を聞いて離別を悲しむ」で、これだけで李白の、

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征
 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

の詩が浮かんでくる。この詩の情を俳諧らしく表現するわけだ。
 そういうわけで出征などという重いテーマではなく、やってくる洗濯女への恋にする。当時は洗濯女が家にやってきて洗濯してくれたが、洗濯が終わり、仕上げに砧を打ち終えると帰って行く。

  「明日の夜は芝柏が方にまねきおもふ
   よしにてほつ句つかはし申されし。
 秋深き隣は何をする人ぞ     翁」(笈日記)

 この句は2017年11月16日の俳話でも取り上げた。
 本来は興行のための発句で、秋も深まる中、こうしてみんな集まってくれたけど、さあ、隣は何をする人かな、ということで、連衆の答えは「もちろん俳諧だ」というところだろう。秋の終わりの物悲しさを打ち崩そうということで、

 秋の夜を打崩したる咄かな    芭蕉

にも通じるものがある。
 ただ、この句が元文三年(一七三八)の野坡等編『六行会』に収録されている、

 秋深し隣は何をする人ぞ     芭蕉

の形になってしまうと、この発句は興行と切り離され、句の方も「秋深し」「隣は何をする人ぞ」の二つの文章に分裂してしまうことになる。ここからこの句の独り歩きが始まる。
 「秋深き隣」だと「秋も深まる中でお隣さんは」と繋がるわけだが、「秋深し」と切ってしまうと単に「秋も深まった!隣は‥‥」と暮秋と隣人が分離されてしまい、近代俳句で言うところの二物衝突になってしまう。ちなみに「し」も「ぞ」も切れ字だから、切れ字が二つになってしまう。
 そこから晩年の芭蕉の孤独というふうに受け取られるようになっていった。
 さらにこの句はちょうど筆者が子供の頃、つまり七十年代にはマスコミ関係でよく用いられた。つまり、高度成長期を経て様々な地方から大都市へと人口が流入した結果、隣近所との人間関係が希薄になり、それを象徴するかのような言葉として芭蕉のこの句が盛んに引用された。木枯し紋次郎の「あっしには関わりのないことでござんす」が流行語になった頃だった。
 それは芭蕉が思いもしなかった用いられ方だったのだろう。そのせいでこの句は、隣近所への無関心の句というイメージが広まってしまった。

  「廿九日
   此夜より泄痢のいたはりありて神無月
   一日の朝にいたる。しかるを此叟ハよのつね
   腹の心地悪シかりければ是もそのまゝにてやみ
   なんと思ひいけるに二日三日の比よりやゝ
   つのりて終に此愁とはなしける也。されば
   病中の間は晋子が終焉記にくはし
   けれバ但よのつねの上わづかにかきもら
   しぬる叓を支考が見聞には記し侍る。」(笈日記)

 元禄七年の九月は小の月で二十九日で終わる。翌朝は神無月一日になる。
 この日から「泄痢」があったという。今でいう下痢のことだ。あるいは下血を伴うものだったか。
 下痢は前からしばしばあったのだろう。いつものこととして放置していたら容態は急変してゆく。
 ここから先の話は其角編元禄八年刊の『枯尾花』冒頭の「芭蕉翁終焉記」と重複になるため、そこにない話だけを書き記すことになる。

2021年9月8日水曜日

 ギニアのことをちょっと調べようとしたら、コンテとコナテとコンデがいて紛らわしい。要するに大統領当選→三選への改憲→不正に勝利→軍事クーデターという流れが定着している所なのか。アルミニウム鉱山は影響ないみたいだ。タイのクーデターみたいなものか。
 ワクチンパスポートは、アレルギーなどで打ちたくても打てない人と、デマや主義主張で打たない人とを一緒くたにしないでほしい。やむを得ぬ事情のある人は保護しなくてはいけないが、そうでない人は自らの意思でコロナを広めることを選択しているのだから、差別されても自己責任だ。
 マスクの時もそうだったが、一部の人を引き合いに出して全部やめさせようとする、「一人でも蕎麦アレルギーの人がいたら蕎麦を食うな」の論理は通用しない。(その人だけ別の者を食えば済むもので、一部の例外を特例ということで救済措置を講じれば済むことだ。)
 eスポーツで女性のプロが少ないというニュースがあったが、乙女ゲーを種目に加えれば増えるんでないかい。
 あと、元禄五年冬の「水鳥よ」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは『笈日記』に戻ろう。

「秋の夜を打崩したる咄かな
   此句は寂寞枯槁の場をふみやぶりたる老後
   の活計なにものかおよび候半とおのおの
   感じ申あひぬ
   車庸亭
 面白き龝の朝寐や亭主ぶり    翁」(笈日記)

 「秋の夜を」の句は九月二十一日車庸亭での半歌仙興行の発句で、芭蕉は病床に臥すことも多く、その合間にかろうじて興行をこなす状態だった。そんな痩せ細りやつれ切った芭蕉の姿に秋の長雨となれば、門人たちの気持ちも沈みがちになる。
 せめて興行の時くらいは悪いことはみんな忘れて、みんなで楽しい話をして、秋の夜の寂しさを打ち崩そうではないか、という挨拶だった。
 興行の方は前に読んだものが鈴呂屋書庫にあるので、そこの「秋の夜を」の巻のところをよろしく。十三句目の、

   薄がなくば野は見られまい
 鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損    惟然

の句は重陽の夜に奈良の鹿の句を詠んだことを思い起こし、あの時鹿がいなかったら、と思ったのかもしれない。

   車庸亭
 面白き龝の朝寐や亭主ぶり    芭蕉

の句は二十一日の「秋の夜を」の興行と、次の二十六日の「此道や」の巻の半歌仙興行の間に詠んだ句であろう。
 興行の後車庸亭に泊まったのだろう。朝ゆっくり寝てれば、気分はここの亭主だという句。車庸のおもてなしへの感謝の言葉だ。

「此道や行人なしに龝の暮
   此二句の間いづれをかと申されしに
   この道や行ひとなしにと獨歩したる
   所誰かその後にしたがひ候半とて是
   に所思といふ題をつけて半歌仙
   侍り爰にしるさず」(笈日記)

 この句については2017年11月9日の俳話にも書いたので重複することになる。

 「この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句になる。
 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
 その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
 それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

 私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
 それに対し、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
 支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。」

「秋風や軒をめぐつて秋暮ぬ
   是はあるじの男の深くのぞみける
   よりかきてとゞめ申されし」(笈日記)

 これも先の続きなら、車庸に求められての句であろう。
 秋風は秋の初めの「風の音にぞ驚かれぬる」の心だが、秋風はその後も秋の間ずっと吹き続け、今いるこの家の軒やほかの家の軒、日本全国あまねく巡りながら秋は暮れて行く。秋風は万物に吹く。そういう思いだったのであろう。

  「旅懷
 此秋は何で年よる雲に鳥
   此句はその朝より心に籠てねんじ申されしに
   下の五文字寸々の腸をさかれける也。是は
   やむ叓なき世に何をして身のいたづらに老ぬらん
   と切におもひわびられけるがされば此秋は
   いかなる事の心にかなはざるにかあらん。伊賀を出て
   後は明暮になやみ申されしが京大津の間を
   へて伊勢の方におもむくべきかそれも人々
   のふさがりてとゞめなばわりなき心も出さぬべし。と
   かくしてちからつきなばひたぶるの長谷越すべき
   よししのびたる時はふくめられしにたゞ羽を
   のみかいつくろひて立日もなくなり給へる
   くやしさをいいとゞいはむ方なし」(笈日記)

 これも2021年3月25日の俳話と重複する。

 「支考は旅を続けたくて旅のできない師の状態を、羽を搔い繕うだけの鳥にたとえ、その悔しさを雲に託したというふうに解釈している。
 筆者は前に別の所で、

   わが心誰にかたらん秋の空
 荻に夕風雲に雁がね       心敬

 此秋は何で年よる雲に鳥     芭蕉

の類似から、雲は鳥と語るが我には寄るべき友がいない、というふうに解釈した。」

 両方を合わせて解釈するなら、鳥は空を飛び回り雲を友とするというのは、『奥の細道』の「片雲の風にさそはれて」の一節を思い起こさせる。その片雲を友とすることもできずに寝床に伏せっている我が身を思い、「何で年よる」だったのではないかと思う。
 支考の「たゞ羽をのみかいつくろひて立日もなく」の心と違うものではない。

「白菊の目にたてゝ見る塵もなし  翁
   是は園女が風雅の美をいへる一章
   なるべし。此日の一會を生前の名殘
   とおもへばその時の面影も見るやうに
   おもはるゝ也。」(笈日記)

 「風雅の美」なんて言ってしまうと、園女さんの容姿の美はどうなんだということにもなるが、まあ興行の席での珍しい女性の同座に、そういういじりあったのではないかと思う。女性の発句は多くても、興行への参加の機会はあまりなかった。
 「生前の名殘」とあるように、芭蕉の最後の俳諧興行となった。