2021年4月21日水曜日

  朝の新聞広告に「SDGsは阿片だ」なんてコピーがあったが、まあ、極左の連中がSDGsを快く思ってないのはわかってた。資本主義がサステナブル(持続可能)だと困るんだろうな。
 まあ、気が短い連中だから、物事を一つ一つ地道に解決するのではなく、革命で一気にちゃぶ台返しで、そこでどんなけ人が死のうが知ったことではないんだろう。「殉教」という言葉で大量殺人を正当化するのは、あらゆる原理主義者に共通することだ。
 あと、日本はこれまで何とかコロナを抑えてきたけど、今日は多分一日の新規感染者が五千人を越えるし、今のところ減る気配はない。海外の人はしばらく日本には来ない方がいいと思う。

 それでは『三冊子』の続き。

 「師の曰く、付といふ筋は、匂、響、俤、移り、推量などゝ形なきより起る所也。こゝろ通ぜざれば及がたき所なり。師の句を以て其筋のあらましをいはゞ、
   あれあれて末は海行野分かな
  鶴のかしらをあぐる粟の穂
   鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
  一吹風の木の葉しづまる
 此脇二つは、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる體を脇とす。木のはの句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を亂し、納りて後の鳶のけしきと見込て、發句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122~123)

 鶴の句は元禄七年七月二十八日の伊賀雖亭での興行で、発句は猿雖による。土芳自身も同座している。
 この後の芭蕉の八月九日付去来宛書簡に「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。」とぼやいてるほど、芳しくない興行だったようだ。
 発句はちょうど台風の季節で、嵐のさなかで危ぶまれていたこの興行もようやく無事に開催できましたということで、荒れに荒れた野分もそのうち海へ抜けることでしょう、と挨拶する。芭蕉はそれに対し、隠れていた鶴も頭を上げ、粟の穂の上に顔を出してます、と付ける。
 先の去来宛書簡には、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
 この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はない。粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという、土芳の言う通り嵐の去った後の景色でさらっと流している。
 木の葉の句は『猿蓑』にも収録されている元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙興行の脇だ。
 発句の方は特に鳶の姿を見たということではなく、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」という程度の挨拶に、今頃鳶も羽を掻い繕っていることでしょう、と景色を与えた句だったと思う。
 芭蕉はそれに、風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。特に寓意は感じられない。発句の鳶の羽の掻い繕いの原因として時を戻して「一吹風の」とし、今は「木の葉しづまる」とする。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と景で付けている。

  「寒菊の隣もありやいけ大根
  冬さし籠る北窓の煤
 此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123)

 元禄五年の十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。「深川の草庵をとぶらひて」という前書きがついている。
 この句は許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、

 「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」

とある。
 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けている。

  「しるべして見せばやみのゝ田植うた
  笠あらためん不破の五月雨
 此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.123~124)

 芭蕉が貞享五年、『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。

   ところどころ見めぐりて、洛に
   暫く旅ねせしほど、みのの国より
   たびたび消息有て、桑門己百のぬ
   しみちしるべせむとて、とぶらひ
   来侍りて、
 しるべして見せばやみのの田植歌   己百
   笠あらためむ不破のさみだれ   芭蕉

という前書きがついている。
 「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。関を越える時には衣装を正すという発想は、元禄二年『奥の細道』の、

 卯の花をかざしに関の晴着かな    曾良

の句に先行している。
 実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。

  「秋の暮行先々の苫屋かな
  荻にねようか萩に寐ようか
 此脇、發句の心の末を直に付たる句なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 これは元禄二年の『奥の細道』の旅で、八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
 そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟になる。これにも前書きがある。

   ばせを、いせの国におもむけるを
   舟にて送り、長嶋といふ江によせ
   て立わかれし時、荻ふして見送り
   遠き別哉 木因。同時船中の興に
 秋の暮行さきざきの苫屋哉      木因
   萩に寝ようか荻にねようか    芭蕉

 「行く先々」に「萩」や「荻」が付き、「苫屋」に「寝る」が付く。萩と荻は字が似ていて面白いし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
 「發句の心の末」というのは、餞別吟なので旅に出た先のことを付けるという意味だろう。

  「菜種干ス筵の端や夕凉み
  螢迯行あぢさいのはな
 此脇、發句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたり似合敷物を寄。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 これは元禄七年六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。発句は曲翠で膳所藩士。
 菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
 「菜種干す筵」の百姓の位でというところだが、蛍や紫陽花は身分の高い者も観賞するもので、やや位を引き上げているように思える。それは発句の主を卑しめないためだと思う。
 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

  「霜寒き旅寐に蚊屋を着せ申
  古人かやうの夜の木がらし
 此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寐心高く見て、心を以て付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124)

 これは貞享元年の『野ざらし紀行』の旅での大垣滞在中の句。
 元禄八年刊支考編の『笈日記』には「貞享元年の冬如行が舊苐に旅寐せし時」と前書きがある。『稿本野晒紀行』には

 霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申     如行
   古人かやうの夜のこがらし    芭蕉

の形になっている。
 蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。

  「おくそこもなくて冬木の梢哉
  小春に首の動くみのむし
 この脇、あたゝかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.124~125)

 元禄四年十月に芭蕉は名古屋の露川と対面し、露川は入門する。その時の句で、元禄八年刊支考編の『笈日記』には「おなじ冬の行脚なるべし。はじめて此叟に逢へるとて」と前書きがある。
 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注に、

 「『三冊子』(石馬本)には「おく庭」とし、「庭」に「底か」と傍書する」

として、「奥庭」としている。その方が意味が通る。
 葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。

  「市中は物の匂ひや夏の月
  あつしあつしと門々の聲
 此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顯して見込の心を照す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
 市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、とする。
 芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。

  「いろいろの名もまぎらはし春の草
  うたれて蝶の目をさましぬる
 此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり亂るゝ様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 元禄三年刊珍碩編の『ひさご』の所収の歌仙の発句で、芭蕉は脇のみの参加になっている。ただし、元禄版の『ひさご』では、

 いろいろの名もむつかしや春の草   珍碩
   うたれて蝶の夢はさめぬる    芭蕉

になっていて、享保版の『ひさご』は『三冊子』の形になっている。
 発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、そこに止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。

  「折々や雨戸にさはる萩の聲
  はなす所におらぬ松むし
 この脇、發句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 発句は雪芝で元禄十一年刊沾圃編の『続猿蓑』に収録されている。
 芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にもある句で、「あれあれて」の句と同じ頃の伊賀での句と思われる。
 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。
 これも位で付ける時の心得で、古来賞翫されている「松虫」を付けることで若干位を引き上げて付けている。

2021年4月20日火曜日

 前にも書いたが、「止まない雨はない」と言うが止まない雨があったらどうすべきか、既にアニメ映画「天気の子」がそれを問いかけていた。
 日本人は一過性の災害に慣れてしまって、終わりの見えない戦いが相変わらず苦手だ。
 戦争だって関ケ原の戦いは半日で終わり、太平洋戦争だってたったの四年だ。世界には百年戦争もあれば、中東は何千年も終わりのない戦いが続いている。アメリカだってつい最近バイデンさんがアフガニスタンから撤退して最も長い戦争を終わらせると言ってたが、(実際はトランプさんが五月撤退を決めていたのを九月に延期した)、本当に一番長い戦争、朝鮮戦争はまだ終わってない。(これもトランプさんは終わらせようと必死に動いたが、バイデンさんは何をやっているのだか。)
 今週が正念場だと言うと、今週さえ乗り切ればなんとかなると思ってしまうが、コロナはそういうものではない。日々是正念場でそれがまだあと何年も続くかもしれないんだ。これだけ世界中に広がってしまうと、インフルエンザがそうだったように次々と世界のどこかで変異株が誕生し、毎年のようにワクチンを打たなければいけなくなる可能性も大きい。
 スポーツも芸術も今まで通りの興行形態では成り立たないというなら、変えていかなくてはならない。コロナが止むまで何年でも待てるならそれでもいいが。
 とにかく今は「いつまで頑張れば」というゴールなんかない。止まない雨があるなら、雨の中で生きてゆく方法を考えなくてはならない。

 あと、前(2019年9月1日)に千春編『武蔵曲』の、

   末の五器頭巾に帯て夕月夜
 猫口ばしる荻のさはさは       素堂

の句を紹介したが、今改めて「錦どる」の巻を読み進めていて思ったんだが、「鎧の櫃に餅荷ひける」が打越になるので、お椀(五器)を山伏の「頭襟(ときん)」に見立てるというのは、打越の鎧の櫃に応じるもので、素堂の句にまでは引きずらない。
 ここではあくまでお椀を持った山伏が夕月夜に外に出てゆくと、猫が思わず声を上げて荻の向こうからさわさわとやってくる、という句で、一見厳つい山伏さんも実は猫に餌をやるやさしいおじさんだったという句になる。

 それでは『三冊子』の続き。

 「師の曰、俳諧之連哥といふは、よく付といふ字意也。心敬僧都の私語にも、前句に心のかよはざるは、たゞむなしき人の、いつくしくさうはきてならびゐたるなるべしと、ある俳書ニ有。又、付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍るよし、師のいへるとも有。又、ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。此後こゝに究め侍るやうに人こゝに留らんか。しかれば書留るにもいたらずとて、事やみ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122)

 この「ある俳書」は許六の『宇陀法師』だと『去来抄・三冊子・旅寝論』の注にある。
 『去来抄』にも、

 「支考曰、附句は附るもの也。今の俳諧不付句多し。先師曰、句に一句も附ざるはなし。
去来曰、附句は附ざれば附句に非ず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.74)

とある。
 この「付く」が何を意味するかについては、本来は上句と下句を合わせて一首の歌に仕上げることを言ったのだが、時代が下るにつれてないがしろになっていった。だからある者は「付いている」と言うが、ある者は「付いてない」というような状態になっている。
 また、「付かず離れず」は俳諧から出た言葉なのかどうかは疑わしい。「挙句の果て」が本来の連歌から離れて、俗語として独自の意味を持っているように、元の意味と離れて使われている言葉も多い。連歌も俳諧も基本的には「付く」ものであり「付かず離れず」は間違い。
 特に近代では正岡子規以降技術を軽視する傾向が強く、付け筋などというものも無視され、廃れてしまったから、現代連句はただの連想ゲームで、それを正当化するためのあらゆる理論が立てられている。
 「付の事は、千變万化すといへども、せんずる所只俤と思ひなし」というのは、上句下句を合わせて一つの意味なり姿なりが生じる事が基本で、狭義の俤付けではない。
 たとえば、

   抱込で松山廣き有明に
 あふ人ごとの魚くさきなり      芭蕉

の句であれば、前句の海辺の夜明け前の風景にたくさんの魚臭い人がいるというところで、活気あふれる漁港の姿が浮かんでくる。しかも、それを魚臭きと感じる所に、旅人の見た漁港だという所までわかる。これは広義の意味で漁村を旅する人の俤(たとえば在原行平のような)と言っていいのではないかと思う。
 歌というのは必ず誰かが詠むものなのだから、歌として成立するということは、それを詠む人というのが必ず面影として浮かんでくる。

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて  芭蕉

の句であれば、杖だけで寸鉄を帯びずに旅する人は旅の僧で、それが烏が群れ飛ぶさまに死期の近いのを感じ涙ぐむとなれば、この歌の主は老いた旅僧(たとえば晩年の西行法師のような)ということになる。
 前句と付け句合わせて、最終的にはそれを詠む人物が思い浮かぶ。「せんずる所只俤」というのはそういうことだと思う。
 狭義の俤付けは、誰なのか特定できる付け方で、

   草庵に暫く居ては打やぶり
 いのち嬉き撰集のさた        去来

のような「いのち」に「いのちなりけり」の歌、「撰集」で勅撰集の歌人というヒントのあるような付け方をいう。
 「只俤と思ひなし、景氣此三に究り侍る」というのは、俤に加えて、景と気が大事ということで、「此三」とあるから、「景気」で一つではない。景は物、気は心。景色が相通うというのは、必ずしも一枚の絵にするということではない。前句を過去として現在の景色を付けたり、前句を現在として未来の景色を付けたり、違えて付けたり、あるいは対句のように二つの景を並べる付け方もある。

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ       芭蕉

の句は樫木の森に隠棲する隠者が桜の花が咲いたといっては門を出入りするということで、樫の木の森と桜の花は一つの絵に収まるわけではない。

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて    芭蕉

の句は過去に花見のために設けた縁台も今は傾いて、今は池の蓮の実がポンと抜けるという、やはり蓮池の辺で暮らす僧の俤であろう。一つの絵としては成立しない。
 ただ、同じ人物の見た景であり、同じ人物の心が想像できるので、一つの俤になる。
 ちなみにこれらの句を和歌の形に改めるなら、

 抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり
 野がらすのそれにも袖のぬらされて杖一本を道の腋ざし
 草庵に暫く居ては打やぶりいのち嬉き撰集のさた
 咲花に小き門を出つ入つくろみて高き樫木の森
 咲花にかき出す橡のかたぶきてぽんとぬけたる池の蓮の実

ときちんと付いているのがわかる。
 こういうことを言うと一生懸命付いてない句を探し出して、これが証拠だと言うような御仁がいそうだが、多分取成しか本説の句だと思う。
 「ある時師の詞に、躰はさまざま有といへども、世上二三躰には見へ侍る也。物にも書留んや。」というのは、付け筋はその場その場で無数にあるもので、それを世間は大雑把に二三の体にまとめているだけだということ。付け筋を極めようと思えばこんな大雑把な分類のこだわってはいけないので、芭蕉はあえてそれを土芳に書き残すようなことはしなかった。
 芭蕉の場合、相手に合わせて教え方を変えるので、これはあくまで土芳に対してはということだろう。
 支考の場合は天才的に次々と自分で新しい付け筋を発見する能力があるから、そういう人には、自分の過去に見つけた付け筋を教えても大丈夫だと思ったのかもしれない。土芳の場合は下手に教えるとそればっかり馬鹿の一つ覚えになりそうなので教えなかったか。
 基本的には上句下句を合わせて歌を完成させたときに、一人の人物の俤が浮かぶように詠めというのが、土芳への教え方だったのだろう。

2021年4月19日月曜日

 今日もいい天気だったけどね。
 日本はこれまでうまく行き過ぎた。だからいつのまにかコロナに関するトンデモ本が氾濫している。こういう連中って、結局一度地獄を見ないとわからないのかもしれない。
 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)の公家さんの名前の所を読んだ。『源氏物語』で惟光・良清が本名なのは六位以下だったからということでいいのかな。
 現代でも組織にいる人は課長だとか部長だとか役職名で呼ぶ習慣があり、本名で呼ぶのは失礼になる。外資系の一部では西洋式にファーストネームで呼ぶようにしているところもあると聞くが、日本人的にはかなり違和感がある。この習慣は古代から脈々と続いてきたもので、なかなか変わることはないんだろうな。部長が何人もいれば営業部長だとか総務部長とか呼ぶのも古代と同じだ。
 ネット上でハンドルネームを使うのは、本名と別に雅号を持つのと似ている。日本では本名でやり取りするフェースブックは広まらなかったのも、こうした古くからの習慣によるものなのだろう。
 俳諧の雅号も、一般社会で用いられている名前は上下関係がはっきりと表示されてしまうため避けたのだと思う。ただ、医者や僧の号と紛らわしいので、江戸前期の俳諧では武家社会に所属している人は雅号ではなく、名乗りを用いる傾向があったのだろう。身分を隠すための知恵だったったのだと思う。そこには「俳号」というものをまだ武家社会の方が認知していなかったという事情があったのかもしれない。
 その意味では宗房から桃青になったのは、武家社会を脱して俳諧師として生きて行く決意だったのだろう。

 それでは今日は延宝から離れて、久しぶりに『三冊子』「あかさうし」の続きを。

 「門人の句に、元日や家中の禮は星月夜、といふ有。たゞ、門松に星月夜と計する句也。味ふべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 其角の句で「年立つや」の上五のものもあるようだ。
 元日は朔日だから月はないので、晴れていれば星月夜になる。貞享三年刊荷兮編の『春の日』には、

 星はらはらかすまぬ先の四方の色   呑霞

の句もある。
 当時は星月夜というと闇を詠むもので星の美しさを詠んだ句は珍しい。

 「同、松風に新酒を澄す山路哉、といふ句有。山路を夜寒にすべしといへり。その夜の道の戻りに、集などに若出す時は、はじめの山路しかるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120)

 この句は元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 松風に新酒を澄す山路かな      支考
   此句は山路を夜寒にすべきよしにてその會
   みちて歸るとて集などに出すべくばもとの
   山路しかるべしといへり。いかなるさかひにか申されけむ。

とある。
 この句は元禄七年九月四日伊賀の猿雖亭での七吟五十韻興行の発句で、その時の発句は、

 松風に新酒をすます夜寒哉      支考

だった。興行の前に芭蕉にこの句を見せたところ「夜寒」にした方がいいと言われて、この形で興行を行ったが、帰り道で集に入れる場合は「山路」で言い、という話だった。
 この時の新酒は「あらばしり」と呼ばれるもので、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程と思われる。こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。
 新酒を用意してくれた亭主猿雖への感謝という意味では、このような夜寒の季節に新酒はありがたいの方がふさわしかった。
 山路だと旅体になる。山路を行くうちに新酒も濾過され、宿に着く頃には美味しい新酒が飲めるという意味になる。おそらく猿雖亭に行くまでの道でできた句であろう。
 興行の際の立句と書物に乗せる際の発句との違いといえよう。

 「同、花鳥の雲に急ぐやいかのぼり、といふ句有。人のいへる。この句聞がたし。よく聞ゆる句になし侍れば句おかしからず、いかゞといへば、師の曰、いかのぼりの句にしてしかるべしと也。聞の事は何とやらおかしき所有を宜とす。此類の事はある事也。むかしの哥にも、小男鹿のいるのゝ薄初尾花いつしか君がたまくらにせん、と云もその類也。聞とげざれそもあはれなる哥也といひならはしたるとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.120~121)

 これは土芳の句。
 「花鳥」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 花に宿る鳥。また、花と鳥。花や鳥。かちょう。《季・春》
  ※後撰(951‐953頃)夏・二一二「はな鳥の色をもねをもいたづらに物うかる身はすぐすのみなり〈藤原雅正〉」

とあるが、「花に宿る鳥」と「花と鳥」では随分の意味が違っていて、それだけでもどっちだろうかと悩ませてしまう。例文の藤原雅正の歌は「花の色」「鳥の音」で「花と鳥」の方であろう。
 土芳の句は、花は咲いて花の雲となり、鳥は雲に向かって高く飛び立つ。そのようにいかのぼり(凧)も空へ勢い良く舞い上がって行く、という句だと思われる。ただ、花の雲と鳥の雲とで雲の意味が違うため、何だろうと思ってしまう。
 この句は元禄八年刊浪化編の『有磯海』では、

 花鳥の空にいそぐやいかのぼり    土芳

と改作されている。これならすっきりだ。花は空に向かって散って行き、鳥も空へと飛び立っていく。そのようにいかのぼりも空へと上がって行く。
 「や」は疑いの「や」で「花鳥の空にいそぐ」を疑うので、こちらが比喩になるため、この句がいかのぼりの句なのは間違いない。
 和歌の方は、

 さ牡鹿の入野の薄初尾花
     いつしか妹が手枕にせむ
            柿本人麻呂(新古今集)

であろう。まあ、薄が手招きしているから、ささ牡鹿が野に入って行くように妹が家に行きたいな、ということか。上句を比喩として下句を言い起す、『詩経』の「桃之夭夭」のような作りになっている。

 「同、都にはふりふりすらん玉の春、といふ句有。これは玉の字分別あり。かくすも無念なるわざとて結句いひ顯したる句といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 「ふりふり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[副]舞い落ちるさま。
  「足を離れて網の上に踊りければ、―と落つる程に」〈今昔・二六・三〉」

とある。「はらはら」に近いようだ。
 「玉の春」は「新玉(あらたまの春」であろう。

 「同、ぬしやたれふたり時雨に笠さして、といふ句あり。是は初五理屈也。なしかゆべしと有。後、跡に月とはいかゞと云ば、宜と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 この場合の笠は傘の方であろう。二人でひとつの傘に入っている度、傘の持ち主はどちらだろうか、という句だが、跡に月だと時雨の後の月という古典的なテーマになる。

 「同、時なる哉柊旅客は笠の端にさゝん、といふ句あり。初の詞過たり。柊を、と計すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 天和の破調の句か。五七五の定型に戻す。柊は立春の時に用いるから、「時なる哉」で春が来た喜びを表したのだろう。

 「同、鶯に橘見する羽ぶき哉、といふ句あり。下の五文字、師の手筋よく思ひ知りたるはと也。四ッ五器のそろはぬ花見心かな、と云も爰なるべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121)

 鶯に橘見する羽ぶき哉        土芳

は『続猿蓑』の歳旦のところに収録されている。鶯に橘の取り合わせに「羽ぶき」を取り囃しとする。
 「羽ぶき」は「羽振」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 鳥や虫が羽を強く振ること。はばたき。はたたき。はぶり。
  ※曾丹集(11C初か)「おし鳥のはぶきやたゆきさゆる夜の池の汀に鳴く声のする」

とある。
 鶯と橘の取り合わせだけではただ景物を並べただけで情が生じない、鶯の羽ばたく様を加えることで、動きのある生き生きとした様が加わり、春の目出度さにふさわしいものとなる。

 四ッ五器のそろはぬ花見心かな    芭蕉

の句も花見に用いる食器の揃わないような、という比喩で浮かれた心を表す。これは『炭俵』の句。

 「同、春風や麦の中行水の音、といふ句あり。景氣の句なり。景色は大事の物也。連哥に、景曲といひ、いにしへの宗匠ふかくつゝしみ、一代一兩句に不過。初心まねよき故にいましめたり。俳には連哥ほどにはいまず。惣而景氣の句はふるびやすしとて、つよくいましめ有る也。此春風、景曲第一也とて、かげろふいさむ花の糸に、といふ脇して送られ侍ると也。歌に景曲は、見様躰に屬すと、定家卿もの給ふと也。寂蓮の急雨、定賴の網代木、之見様躰の哥とある俳書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.121~122)

 春風や麦の中行水の音        木導

は元禄六年の句で、芭蕉が、

   春風や麦の中行水の音
 かげろふいさむ花の糸口       芭蕉

の脇を付けている。元禄八年刊支考編の『笈日記』にも付け合いとして収録されている。
 春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
 景気は景物ではない。二条良基の『連理秘抄』に、

 「さびしかりけり秋の夕ぐれ といふ句のあらんは、寄合も風情も豊かにて、雲霧草木に付ても付けよくこそあらむずれども、是を人々案じて仕たりと思とも、すべてこの句にかけ合ひたる秀逸は十句に一句も有がたし、その故は、ただ鹿をも啼せ、風をも吹せなどしたる計にては、美しく、秋の夕暮の寂しく、幽かなる景気もあるべからず、只形のごとく時節の景物を案じ得たる許にて、下手はよく付たりと思ふべし」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.33)

とあるように、景物は「物」であって形を整えるだけで、景気は情を伴うものをいう。
 鹿や秋風には確かに情もあるが、長く言い古された景物は、初めてそれを見た時の感動とは程遠い、既に古典の知識の中での存在になっているからだ。

 山吹や蛙飛び込む水の音       芭蕉

の句の山吹は「景物」だが、

 古池や蛙飛び込む水の音       芭蕉

だと「景気」になる。
 それゆえ二条良基の『連理秘抄』でいう景気は、

 「景気 これは眺望などの面白き體を付くべし」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.35)

ということになる。
 ただ、景気は個人的には良い眺望だと思っても、長年に渡ってコード化された景物とは異なり、その意味が伝わりにくい。そのため乱用することを戒めている。乱用すればどうなるかというと、それは近代俳句を見ればいい。
 景色はどれも綺麗なものだし、様々な景色を描くとどれも等価になり特別な意味を持たなくなる。
 どんな平凡な景色でも、自分が明日死ぬと思えば、一つ一つがすべて輝いて愛おしく思えるかもしれない。でもそうした句が大量に作られてしまうと、似たり寄ったりの景色の中に埋没してしまうことになる。
 そのため古来和歌も連歌も心を詠むことを第一にしてきた。心を詠むという基本ができた上で景気を詠むと、自ずと景気に心が乗っかるが、そこまでの力量のない者が安易に景気を詠むことを戒めてきた。古池の句は芭蕉だから詠めたというのはその意味で正しい。確かにただの景色で終わってないからだ。「月やあらぬ」や「時に感じて花にも涙を濺ぎ」の古典の情に通じている。情があってそれに新しい「景気」を与えるというのは、実のところそう簡単ではないからだ。

   春風や麦の中行水の音
 かげろふいさむ花の糸口       芭蕉

この脇は「いさむ」という取り囃しが大事で、平凡な景色の描写に留まる発句に命を与えているといっていい。

2021年4月18日日曜日

 いい天気なんだけどね。
 感染者は増え続けて危険な状態になってきている。日本では法律上ロックダウンは困難なので、超法規的措置で行うか、そうでなければ国民一人一人が自覚するしかない。
 今必要なのは「追及」ではない。みんなで力を合わせてコロナと戦うことだ。本当の敵を見誤るな。

 それでは今日は延宝人のおなまえ。


風の篠原

 「あら何共なや」四句目

   居あひぬき霰の玉やみだすらん
 拙者名字は風の篠原       桃青

 霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。

 ウィキペディアには篠原という名字にはいくつか系統があるという。近江国野洲郡篠原郷の篠原、源師房(村上源氏)を祖とする公家の篠原家、上野国新田郡篠原郷(現在の群馬県太田市)の起源の氏族、尾張国の篠原氏、安房国に進出した篠原氏など。


風の三郎

 「あら何共なや」八十八句目

   米袋口をむすんで肩にかけ
 木賃の夕部風の三郎        桃青

 風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。

 「あら何共なや」八十九句目

   木賃の夕部風の三郎
 韋達天もしばしやすらふ早飛脚   信章

 前句の風神風の三郎を早飛脚とする。
 当時は「風の」のように呼ばれることがよくあったのだろうか。


波の瀬兵衛

 「見渡せば」三十二句目

   一喧嘩岩に残りし太刀の跡
 處立のく波の瀬兵衛       似春

 岩に太刀の跡を残したのは、波の瀬兵衛という刀鍛冶だった。
 波平(なみのひら、なみへい)と呼ばれる波平行安(なみのひらゆきやす)という刀鍛冶が平安時代にいた。それを延宝風に言い換える。


すいたの太郎左

 「塩にしても」二十七句目

   ながるる年は石川五右衛門
 まかなひをすいたの太郎左いかならん 似春

 「吹田の太郎左」という人物はすぐに金を要求する人物なのだろう。モデルになった人がいたのかどうかはよくわからない。


二蔵

 「梅の風」二十三句目

   志賀山の春ふいごふく風
 さざ浪や二蔵が袖にさえかへり  信章

 二蔵は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「二蔵は鍛冶職人の通名」とある。春のふいごふく風に鍛冶屋の二蔵の袖がさえかえり、となる。


源介

 「梅の風」六十六句目

   日本橋ちんば馬にて踏ならし
 方々見せうぞ佐野の源介     信章

 謡曲『鉢木』にも登場する「いざ鎌倉」で有名な佐野源左衛門を延宝風にいうと「佐野の源介」になる。


彦太郎

 「さぞな都」六十一句目

   鞍馬僧正床入の山
 若衆方先筑紫には彦太郎     信章

 鞍馬天狗の御伴の彦山の豊前坊を、若衆方の彦太郎にした。


九郎助

 「さぞな都」八十句目

   熊坂も中間霞引つれて
 山又山や三国の九郎助      信徳

 「三国の九郎」(源九郎義経)を中間の九郎助とする。


忠二郎

 「見渡せば」五十九句目

   善男善四と説せ給ひし
 又爰に孔子字は忠二郎      似春

 孔子の本当の字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。町人っぽく呼び変えた。前句を町人の孔子が説いたことにする。


さぶ様・四郎様・五郎様

 「物の名も」六十七句目

   いつの大よせいつの御一座
 朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の  信徳

 朝比奈三郎は朝比奈義秀で実在の人物だが、遠慮してか「さぶ様」にしている。
 朝比奈四郎は曾我物語の登場人物。朝比奈五郎は知らない。
 前句の大よせ御一座を朝比奈様御一行とする。


与三郎

 「見渡せば」八十一句目

   代八車御幸めづらし
 伺公する例の与三郎大納言    似春

 「伺公」は公文書によく用いられるようだが「伺(うかが)う」ということか。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「烏丸光広大納言が牛車に乗って島原に遊んだという話がある。」とある。
 大八車だから与三郎なんだけど御幸だから大納言になる。ほとん御幸ごっこといっていい。


与市

 「実や月」六句目

   台所棚なし小舟こぎかへり
 下男には与市その時      桃青

 「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。


与作

 「のまれけり」六句目

   碓の音いそがしの松の風
 与作あやまつて仙郷に入     桃青

 次の句で丹波与作に取り成される。


ぬく太郎

 「須磨ぞ秋」四十九句目

   冥きにまよふ道は紙燭で
 口惜の花の契りやぬく太郎    似春

 「ぬく太郎」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「愚かな若者」とある。特に固有名詞だとかモデルとかはないのだろう。


勅使芋原の朝臣蕪房

 「春澄にとへ」八十四句目

   麦星の豊の光を覚けり
 勅使芋原の朝臣蕪房       桃青

 今日勅使河原(てしがわら)という名字の人がいるが、埼玉県児玉郡上里町の勅使河原という地名から来たという。勅使河原直重はウィキペディアに、

 「勅使河原 直重(てしがわら なおしげ、生年不明 - 建武3年(1336年))は、日本の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士。左衛門尉。『太平記』では勅使河原丹三郎で知られる。子に貞直、光重か。
 勅使河原氏は武蔵七党の一つ丹党の流れを汲む。
 南北朝の動乱が勃発すると、直重は南朝方として新田義貞に従う。後醍醐天皇や義貞と対立し一時は九州へ没落していた足利尊氏が、勢力を巻き返し軍勢を率い京へ進軍してくると、義貞は迎撃するが大渡で敗れた。『太平記』によると、大渡で敗れた直重は三条河原で奮戦するも、後醍醐が比叡山へ脱出したことを知ると悲嘆し、羅城門近くで子と共に自刃した。」

とある。五十六句目と六十五句目に『太平記』ネタがあるから、ここから取った可能性は十分ある。
 麦星の貧しそうなイメージから勅使芋原の朝臣蕪房という架空の人物を作る。「蕪房」は桃青の宗房をもじったか。


慈悲斉

 「鷺の足」六十句目

   侘雀畫眉を客によびけらん
 慈-悲-斉が閑つれづれにして   其角

 前句の「らん」を反語から推量に取り成す。「侘雀わびすずめ」の名は慈-悲-斉じひさい。その場の思いつきで作った適当な名前だろう。


しら藤

 「あら何共なや」七十八句目

   衣装絵の姿うごかす花の風
 匂ひをかくる願主しら藤      信徳

 前句の衣装絵を願掛けの絵馬とする。願主は「しら藤」、源氏名だろうか。


まつ虫・鈴虫

 「物の名も」四十句目

   秋の哀隣の茶屋もはやらねば
 松むし鈴虫轡たふるる      信徳

 松むし鈴虫は遊女の源氏名で、「轡(くつわ)」は下級の轡女郎のこと。


法印・法眼・法橋

 「いと涼しき」二十三句目

   参台過て既に在江戸
 時を得たり法印法橋其外も    信章

 「法印」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「僧綱(そうごう)の最上位。法印大和尚位とも。法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の上。864年定められ,空海,最澄,真雅の3人に授けられたのが最初。創設当初は官位では従2位に相当。中世以降仏師,社僧,医師,連歌師などにも与えられる称号となった。」

とあり、「法橋(ほっきょう)」は、

 「日本の僧位の一つ。僧綱(そうごう)の最下位である律師に与えられる。法橋上人位とも。官位でははじめ正4位に相当。法印と同様,中世・近世では僧以外にも与えられた。」

とある。
 法印の位に付いた連歌師というと中世では心敬がいる。季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。尾形光琳も後に法橋になる。
 法印法橋といった僧位を得て江戸に移住すれば、それこそ出世コースの頂点と言えよう。宗因は大阪天満宮の連歌宗匠にはなったが、特に法位はなかったようだ。

 「世に有て」八十六句目

   夜々に来て上るり語る聲細く
 法眼が書し武者絵とやらん    才丸

のように位を表す法眼も、実際には名前のように用いられて「法眼」というだけで狩野安信だとわかったのだろう。


太夫

 「いと涼しき」三十四句目

   露時雨ふる借銭の其上に
 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
 延宝ではなく寛文の頃だが、宗因独吟「花で候」の巻の挙句に。

   さしにさしお為に送る花の枝
 太夫すがたにかすむ面影     宗因

の句がある。


公方

 「梅の風」五句目

   けんやくしらぬ心のどけき
 してここに中比公方おはします  信章

 公方様、つまり将軍様なら倹約令は関係ない。さぞのどかだろうなと皮肉る。
 おそらく「公方」というだけでその時の公方を指していたのだろう。ただ、今の公方様と思われてはいけないから、一応「中比(なかごろ)」とことわっておく。
 今日だと「天皇陛下」という場合は今の天皇を指す。名前で呼ぶことはまずない。

2021年4月17日土曜日

 尾脇秀和さんの『氏名の誕生─江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(二〇二一、ちくま新書)を読み始めた。主に江戸後期を取り扱った本なので、芭蕉の時代はまた多少違うかもしれない。江戸時代後期の本には俳諧師の雅号の上に苗字が書いてあることが多いが、前期ではほとんど苗字を見ない。
 代わりに、芭蕉が伊賀にいた頃宗房を名乗っていたように、貞門の俳諧師は雅号でなく名乗りを用いているが、この習慣は談林以降廃れてしまったようだ。
 あと、もし自分が江戸時代にタイムスリップした場合、名前がないというの気付いた。俳諧師として生きられるなら鈴呂屋こやんでも大丈夫そうだが、そうでなく普通に町人になる場合の名前がない。
 鈴呂屋は屋号でこやんは雅号。今の時代の本名は苗字と名乗りだが、名字も名乗りも日常生活ではほとんど使わないという。証文を交わすときに書く名前がない。つまり今の日本人が江戸時代にタイムスリップしたら、名前に「すけ」「へい」「ろう」などがつく人以外はみんな名無しの権兵衛になるわけだから、そのときはいっそ権兵衛を名前とすればいいのではないか。
 というわけで、江戸時代ネームは鈴呂屋権兵衛に決定。
 あと、鈴呂屋書庫に延宝九年の「世に有て」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは延宝シリーズで、今日は医に関係しそうなものを集めてみた。

傷寒(しようかん)、狭義

 「此梅に」六十四句目

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮
 多くは傷寒萩の上風         桃青

 「傷寒」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「漢方で、体外の環境変化により経絡がおかされた状態。腸チフスの類をさす。」

とある。同じく「世界大百科事典内の傷寒の言及」には、

 「中国の医書に,〈傷寒(しようかん)〉または〈温疫(うんえき)〉と総称される急性の熱性伝染病には腸チフスも含まれていたと思われ,また日本で飢饉のときに必ず流行する疫癘(えきれい)とか時疫(じえき)と呼ばれた流行病には腸チフスがあったと思われる。江戸時代には飢饉のたびに大量の死者を算したが,餓死と疫死と分けて記録されることが多く,ときには疫死者のほうが上回ることがあった。」

とある。飢饉で死ぬ人の「多くは傷寒」で、餓死する人よりも多かったりした。


傷寒(しようかん)、広義

 「さぞな都」三十七句目

   迷ひ子の母腰がぬけたか
 傷寒を人々いかにととがめしに  信章

 「傷寒」はウィキペディアに、

 「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」

とある。そしてその治療を廻って後漢末期から三国時代に張仲景が編纂した『傷寒論』の翻刻、注釈が繰り返されてきた。
 まあ、近代でも風邪の特効薬を作ったらノーベル賞なんて言われてきたが、ウィルスの存在を知らなかった時代には効果的な予防法もなく厄介な病気で、ウィルスの型によっては多くの死者も出してきたのだろう。大正時代のスペイン風邪や今日の新型コロナも、おそらくこの傷寒に含まれるのではないかと思う。現代の中国医学では別の意味で使われているようだが。


針立

 「須磨ぞ秋」二十六句目

   朝めしをまつ間ほどふる我恋は
 時雨の松の針立をよぶ      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 わが戀は松を時雨の染めかねて
     眞葛が原に風さわぐなり
              前大僧正慈圓(新古今集)

の歌を引いている。
 時雨の雨で松を染めるのではなく松の針に掛けて鍼医を呼ぶ。

 「青葉より」二十七句目

   杉の庵に腹ぞさびしき
 針立の玄賓僧都見まはれて    桃青

 玄賓僧都はウィキペディアに、

 「玄賓(げんぴん、天平6年(734年)- 弘仁9年6月17日(818年7月23日))は、奈良時代から平安時代前期の法相宗の僧。河内国の出身。俗姓は弓削氏。
 興福寺の宣教に法相教学を学び、その後伯耆国会見郡に隠棲し、その後備中国哲多郡に移った。805年(延暦24年)桓武天皇の病気平癒を祈願し、翌806年(延暦25年)大僧都に任じられたが玄賓はこれを辞退している。」

とある。
 鴨長明の『発心集』には、

 「むかし、玄敏僧都(げんぴんそうず)といふ人ありけり。山科寺の、やんごとなき智者なりけれど、世をいとふ心深くして、さらに寺のまじはりを好まず。三輪河のほとりに、わづかなる草の庵をむすびてなん、思ひ入つゝ住みける。
 桓武の御門の御時、この事きこしめして、あながちにめし出だしければ、逃るべきかたなくて、なまじゐに交はりけり。されども、なほ本意ならず思ひけるにや、奈良の御門の御代に、大僧都になし給けるを辞し申すとて詠める、

 三輪川のきよき流れにすすぎてし
     ころもの袖をまたはけがさじ

とてなん奉りける。」

とある。三輪の大神(おおみわ)神社の神杉の縁で、杉の庵の主を玄敏僧都とする。
 桓武天皇の病気平癒を祈願だけでなく平城上皇の病気平癒も行っているが、ここでは針立(針治療)の医者とした。その都度禄を断っているので腹はすいてる。


有馬の湯

 「青葉より」二十八句目

   針立の玄賓僧都見まはれて
 秋果ぬれば湯山の月       似春

 鴨長明の『発心集』に玄賓の、

 山田もるそうづの身こそあはれなれ
     秋はてぬれどとふ人もなし

の歌がある。
 前句を玄賓が針立のお世話になってとして、それでも病気が治らず有馬の湯で療養する。


腰寒き

 「世に有て」五十五句目

   雪のから鮭に文付てやる
 衰へや火桶の嫗の腰寒き     其角
 (衰へや火桶の嫗の腰寒き雪のから鮭に文付てやる)

 火桶は火鉢のこと。「嫗」は「うば」と読む。
 年寄りの腰が冷えるのは自律神経の問題で血管運動神経失調から血流が衰えるからだという。しっかり栄養を取ってもらおうと乾鮭を送る。


お灸

 「わすれ草」二十五句目

   脛の白きに銭をうしなふ
 滑川ひねり艾に火をとぼし    桃青

 前句をお灸でお金を支払ったとする。
 滑川(なめりがわ)は鎌倉の朝比奈を水源として鎌倉市街の東を通り由比ガ浜と材木座海岸の間にそそぐ川だが、ここで滑る川という意味で滑って転んで足をひねって艾(もぐさ)に火をつけて、となる。


膏薬

 「須磨ぞ秋」九十七句目

   蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ
 千年の膏薬既に和らぎて     桃青

 千年の膏薬は前句の蝦蟇を受けての蝦蟇の油のことであろう。ウィキペディアには、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。」

とある。


膏薬屋、藤の丸

 「須磨ぞ秋」九十八句目

   千年の膏薬既に和らぎて
 折ふし松に藤の丸さく      桃青

 「藤の丸」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「小田原の膏薬屋、藤の丸。三都に出店があり、有名。」とある。コトバンクの膏薬屋のところの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 膏薬を売る店。また、膏薬を売る行商人。
  ※浮世草子・好色二代男(1684)二「藤の丸の膏薬屋(カウヤクヤ)にたより」

という西鶴の例文がある。


外郎

 「いと涼しき」六十五句目

   伽羅の油に露ぞこぼるる
 恋草の色は外郎気付にて    似春

 「外郎」はウィキペディアに、

 「ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。」

とある。気付け薬にも用いられた。
 仁丹に似た銀色の小さな粒は「露」を思わせる。募り募った恋草の色は外郎気付けのような露のようにこぼれる、と付く。


徐福の薬

 「梅の風」五十一句目

   草もえあがる秦の虫くそ
 あさ霞徐福が似せのうり薬    信章

 徐福は不老不死の薬を求めて蓬莱山へ行ったというが、その蓬莱山が実は日本だったという伝説もある。日本には徐福の求めた薬があるということで、これがそれだといって偽物を売るのは昔からあったのだろう。今でも徐福の名を語って霊芝というキノコが売られている。


粉薬

 「あら何共なや」二十四句目

   よし野川春もながるる水茶碗
 紙袋より粉雪とけ行       信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「薬袋」とした、とある。
 紙袋から出した粉薬を粉雪に見立て、水茶碗の水に溶け行く、とする。


石の綿

 「あら何共なや」七十二句目

   前は海入日をあらふうしろ疵
 松が根まくら石の綿とる      信徳

 石綿はここではアスベストではなく「ほこりたけ(埃茸)」の異名だという。ウィキペディアに、

 「漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血、消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる。西洋でも、民間薬として止血に用いられたという。
 ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく独自の経験則に基づいて、止血用などに用いられていたのも確かであろうと考えられている。」

とある。松の根を枕にして休み、怪我したからホコリタケで血を止める。


血の道

 「須磨ぞ秋」二十三句目

   青柳よわき女房あなづる
 血の道気うらみ幾日の春の雨   似春

 「血の道」は血の道症でウィキペディアに、

 「血の道症(ちのみちしょう)とは、月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことである。なお、医学用語としては、これら女性特有の病態を表現する日本独自の病名として江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語である「血の道」について、1954年九嶋による研究によって西洋医学的な検討が加えられ「血の道症」と定義された。」

とある。


西瓜と腫気

 「見渡せば」七十八句目

   腫気のさす姿忽花もなし
 春半より西瓜は西瓜は      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「西瓜は腫気の薬」とある。確かに今日でもシトルリンというアミノ酸が血流を促し、むくみを解消すると言われている。その一方でカリウムが多いので腎臓に悪いとも言われている。
 西瓜は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[和漢三才図会]慶安中、黄檗隠元入朝の時、西瓜・扁豆等の種を携へ来り、始て長崎に植。[本朝食鑑]水瓜は西瓜也。俗に、瓜中水多し、故に名く。[大和本草]三月種を下し、蔓延て地に布。四五月黄花を開く。甜瓜の花のごとし。」

とある。春半ばではこれから種を蒔く頃だ。


薬ちがい

 「須磨ぞ秋」五十六句目

   長髪の霜より霜に朽んとは
 薬ちがひに風寒るまで      似春

 薬が合わなくて、副作用でぼろぼろになってしまった。「寒る」は「さゆる」と読む。
 薬と白髪の因果関係ははっきりしないが、今日だと覚せい剤や合成麻薬で頭が白くなることはあるらしい。直接の因果関係はなくても、体が極度に衰弱すれば白髪になることはありうる。


堕胎薬

 「須磨ぞ秋」五十七句目

   薬ちがひに風寒るまで
 幾月の小松がはらや隠すらん   桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「小松が妊娠幾月かの腹をかくそうとして、薬をのんだ。前句の薬を堕胎薬とした。」

とある。
 江戸時代には中条流と称する怪しげな堕胎をする医者がいて、中条丸という薬があったという。成分に水銀が含まれていたという。


ふのり紙

 「物の名も」十三句目

   かたちは鬼の火鉢いただく
 紙ふのり伊勢の国より上りけり  信徳

 「神風の伊勢」を「紙ふのりの伊勢」にする。「ふのり」は食用の海藻で伊勢の名産だが、「ふのり紙」は全く別のものになる。weblioで検索するとウィキペディアの「通和散」の所に転送されたが、そこに、

 「通和散(つうわさん)は、江戸時代に市販されていた日本のぬめり薬である。閨房で使う秘薬の一種。今で言うラブローションである。主に男色の時の肛門性交で使われたが、未通女の初交や水揚げの時など男女間の性交でも用いることがあった。当時の有名な秘薬で、川柳や春本でもよく取り上げられている。練り木、白塗香、ふのり紙、高野糊などの別称がある。」

とある。前句を男色の体位とし、ふのり紙を付ける。


薬草喩品

 「実や月」八句目

   乗物を光悦流にかかれたり
 薬草喩品くすりごしらへ    紀子

 「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。

2021年4月16日金曜日

  昨日ようやく近くのスーパーで台湾パイナップルを見つけたが、これが大外れだった。中身が真っ白でぱさぱさで味がない。パイナップルは置いておいても熟さないというので、仕方ないからヨーグルトと牛乳と砂糖を加えてスムージーにした。夕飯には酢豚を作った。
 コロナの方も減る気配がないので、とにかく去年の今頃を思い出して、もう一度あれをやりましょう。去年できたことが今年できないはずがない。籠城じゃ。
 さて、今回は延宝の有名人とも被る所もあるが、延宝の芸能を。

浄瑠璃

 「此梅に」六十八句目

   判官の身はうき雲のさだめなき
 時雨ふり置むかし浄瑠璃       桃青

 浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。
 この両吟百韻の頃にはまだ竹本義太夫や近松門左衛門は台頭してきていない。ただ、浄瑠璃会に新風を望む機運はあっただろう。
 それに対して昔の浄瑠璃といえば「浄瑠璃姫十二段草紙」で、これは浄瑠璃御前(浄瑠璃姫)と牛若丸(義経)の物語だった。

芝居破り

 「物の名も」六十八句目

   朝夷奈のさぶ様四郎様五郎様の
 地獄やぶりや芝居やぶりや    桃青

 古浄瑠璃には「義経地獄破」があるという。朝比奈三郎は門破り。芝居破りはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (芝居が終わると、見物席の客を追い出すように出すところから) 芝居興行、見世物、また遊山(ゆさん)などの終わり。
  ※慶長見聞集(1614)二「皆人、名残惜思ふ処に風呂あかりの遊びおどりを芝居やぶりに仕へしとことはる」
  ※浮世草子・色里三所世帯(1688)上「是が今日の御遊山の芝居(シバヰ)やふり」

とある。
 義経地獄破、朝比奈三郎門破りの芝居を観たらあとは芝居破り。


からくり芝居

 「青葉より」六句目

   糸よせてしめ木わがぬる秋の風
 天下一竹田稲色になる      桃青

 天下一竹田は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「竹田近江」とある。ウィキペディアに、

 「初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。」

 「万治元年(1658年)、京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年(1659年)に近江掾を再び受領し竹田近江と改名する。そののち寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。」

とある。


人形芝居

 「時節嘸」三十三句目

   雨や黒茶を染て行覧
 消残る手摺の幕の夕日影

 順番からすると桃青の番。
 「手摺(てすり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「② (「てずり」「ですり」とも) 人形芝居の舞台前面に、人形遣いの腰から下を隠すために設けたしきり。舞台から客席まで三段にしきられ奥から(現在では手前から)一の手(本手)・二の手・三の手と呼ぶ。
  ※俳諧・芭蕉真蹟懐紙‐時節嘸歌仙(1676)「雨や黒茶を染て行覧〈芭蕉〉 消残る手摺の幕の夕日影〈杉風〉」
  ※随筆・本朝世事談綺(1733)三「辰松は人形に手練し、上下を着し、手摺(デスリ)をはなれて」

とある。

 「あら何共なや」九十六句目

   人形の鍬の下より行嵐
 畠にかはる芝居さびしき      信徳

 仮説の芝居小屋は去って行って元の畠に戻る。人形劇は嵐のように去っていった。


水からくり

 「見渡せば」九十五句目

   からくりの天下おだやかにして
 臣は水およぎ人形波風も     桃青
 (からくりの天下おだやかにして臣は水およぎ人形波風も)

 「およぎ人形」は不明だが、水からくりの一種で、そういうからくり人形があったのだろう。「水からくり」はコトバンクの「世界大百科事典内の水からくりの言及」に、

 「…水を用いて種々のからくりを見せる見世物の一種。水からくり。水を利用した仕掛物は,すでに寛文期(1661‐73)から行われている。…」

とある。また、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「演劇,芸能におけるからくりの一種。水力を利用した仕掛けで人形などを動かしてみせる演芸。江戸時代には,からくり専門の一座の人気番組の一つに加えられ,操 (あやつり) 浄瑠璃や歌舞伎にも用いられた。水芸もその一種である。」

とある。


小謡(こうたひ)

 「梅の風」八十九句目

   気根の色を小謡に見す
 朝より庭訓今川童子教      信章

 「庭訓(ていきん)」は『庭訓往来』で手紙の体裁で日常の語句を解説した本。「今川」は『今川状』で今川了俊の二十三か条の家訓。『童子教』はウィキペディアに、

 「鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。女子向けの「女童子教」など、「○○童子教」といったさまざまな対象に向けた類書も書かれた。」

とある。いずれも子供の教育に欠かせないものだった。ただ、寺子屋が広まってったのは江戸中期以降で、この頃はまだ稀だったのではないかと思う。
 小謡(こうたひ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「能の用語。謡曲のなかから独吟に適するようなごく短い一節を取り出したもの。小謡用の箇所は指定されているのが普通である。節付けの細かい、叙景や叙情を内容とする「上歌(あげうた)」が多く、内容やうたう場合によって祝言、送別、追善、四季用などに分かれる。婚礼や宴席でめでたい小謡をうたう風習は今日でもまだ各地に残っているが、とくに江戸時代以降は小謡本の刊行が盛んで、一曲を通して稽古(けいこ)する素謡(すうたい)とは別の簡便な形として民衆の間に流行し、小謡本が寺子屋の教本に用いられるほどであったという。[増田正造]」

とある。小謡も子供の学習に利用されていたので、謡曲の言葉が共通語として通用したのだろう。庭訓今川童子教プラス小謡で子供のころから気根を養う。


新狂言、野郎歌舞伎

 「あら何共なや」四十三句目

   文正が子を恋路ならなん
 今日より新狂言と書くどき    桃青

 「新狂言」は歌舞伎の「狂言尽」のことであろう。歌舞伎が半ば売春に走っていた時代から野郎歌舞伎として真面目なお芝居へと変わっていったときに、幕府からも「物真似狂言尽」として許可されるようになった。
 前句を新狂言の演目とし、役人を納得させる。ウィキペディアに、

 「歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を『野郎歌舞伎』と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。」

とある。二十六句目の役者の紋のついた楊枝といい、延宝五年は野郎歌舞伎の全盛期だった。


野郎歌舞伎、紋楊枝

 「あら何共なや」二十六句目

   風青く楊枝百本けづるらん
 野郎ぞろへの紋のうつり香    信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紋楊枝のことだとある。紋楊枝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、歌舞伎役者などの定紋をつけた楊枝。
  ※俳諧・大矢数千八百韻(1678)一二「紋楊枝十双倍にうりぬらん 人をぬいたる猿屋か眼」

とある。どういう形状の楊枝かはよくわからない。
 西鶴の大矢数の句は役者の紋の入った楊枝が二十倍で売れるというのだから、この頃にも転売ヤーがいたのか。そこで「猿屋」が登場している。日本橋さるやは宝永の創業なのでこの頃はまだなかったが、元禄の頃に書かれた『人倫訓蒙図彙』に「猿は歯白き故に楊枝の看板たり」とあるらしく(ウィキペディアによる)、猿屋を名乗る楊枝屋はそれ以前にもあったのだろう。


野郎歌舞伎、六方

 「此梅に」十四句目

   青鷺の又白さぎの権之丞
 森の下風木の葉六ぱう        桃青

 「六方」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「歌舞伎(かぶき)演出用語。六法とも書く。手足と体を十分に振り、誇張的な動作で歩く演技。勇武と寛闊(かんかつ)な気分を表すもので、荒事(あらごと)演出では重要な技法の一つになっている。語源については諸説あるが、発生的には古来の芸能の歩く芸の伝統を引くもので、祭祀(さいし)に「六方の儀」と称する鎮(しず)めの儀式があったことから、両手を天地と東西南北(前後左右)の六方に動かすことの意にとるのが妥当のようだ。ほかに、江戸初期の侠客(きょうかく)グループ六方組から出たというのは俗説だが、当時の「かぶき者」たちが丹前風呂(たんぜんぶろ)へ通うときの動作を模したものは、丹前六方とよばれ、現在でも『鞘当(さやあて)』などにみられる。荒事系の技法では、手足の極端な動きによって強さを強調しながら花道を引っ込む「飛(とび)六方」が代表的なもので、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内(わとうない)、『車引(くるまびき)』の梅王丸、『勧進(かんじん)帳』の弁慶などが有名。その変形として片手六方、狐(きつね)六方、泳ぎ六方などがある。人形浄瑠璃(じょうるり)や民俗芸能にも「六方」と称する足の動きの技法が伝えられている。」

とある。
 野郎歌舞伎は新狂言とも呼ばれていたが、ここでは鷺流の狂言との混同があるのか。


六方、小坊主

 「須磨ぞ秋」四十四句目

   はやりうたさすが名をえし其身とて
 でつち小坊主男なりひら     桃青

 小坊主は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に小坊主小兵衛とある。坊主小兵衛のことであろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「生年:生没年不詳
初期歌舞伎の道外形の歌舞伎役者。月代を左右深く剃り下げる糸鬢という髪型にしていたので,この名が付いた。この風貌が人々に親しまれたようで,のちにこれを真似て坊主段九郎,坊主百兵衛,小坊主などと名乗って糸鬢で道外六法をした役者もあったが,小兵衛ほどの人気を得ることはできなかった。また歌舞伎役者に似せた五月人形を作ることはこの人に始まり,その後多くの役者人形が作られたという。歌舞伎の評判記が出る以前の役者なので,芸風経歴など詳しいことはわかっていない。山東京伝が『近世奇跡考』に「小兵衛人形」の項目を立て,若干の考察を加えている。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1期(北川博子)」

とある。


野郎歌舞伎、女形

 「さぞな都」六十二句目

   若衆方先筑紫には彦太郎
 かづらすがたや右近なるらん   信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に右近源左衛門とある。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:没年不詳(没年不詳)

  生年:元和8(1622)

 初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目に狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)(北川博子)」

とある。


女形

 「青葉より」二十二句目

   ふり袖の薄も髭と生出て
 小町が果の女方ども       似春

 小野小町も老いれば卒塔婆小町になるように、美しかった女方の役者も寄る年波には勝てず、化粧の乗りが悪くなり髭を隠せなくなる。


物真似芸

 「わすれ草」十一句目

   あるひはでつち十六羅漢
 又男が姿かたちはかはらねど   千春

 「又男」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「大阪の物真似の名人。『物種集』序に『川原もの又男がつけ髪松千代が柿頭巾もかづき物ぞかし』。」

とある。ネット上にある石井公成『物真似芸の系譜─仏教芸能との関係を中心にして─(上)』に、

 「そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁王や十六羅漢や観音の三十三身を演じることで有名だった。」

とあるが、同じ人か。


ひとり狂言

 「須磨ぞ秋」十四句目

   置頭巾額にたたむさざなみや
 洲崎の松のひとり狂言      桃青

 洲崎の松は滋賀唐崎のひとつ松のこと。その「ひとつ」に掛けて一人狂言を導き出す。一人狂言はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 「一人芝居」に同じ。
  2 シテが独演する特殊な本狂言。現行曲中にはないが、番外曲として数曲伝えられている。」

とある。置頭巾が用いられたのか。


仕形咄

 「此梅に」十一句目

   ひとかいあまりすみよしの松
 淡路島仕形ばなしの余所にみて    信章

 「仕形咄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 手ぶり、身ぶりして語る話。
  ※雲形本狂言・空腕(室町末‐近世初)「いかな仕方咄(シカタバナシ)なればとて、某(それがし)の首を討おとす真似をするといふ事が有物か」
  ② 江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。
  ※雑俳・住吉おどり(1696)「手を出して・しかた咄をせぬあを屋」

とある。


小歌

 「さぞな都」発句

 さぞな都浄瑠璃小哥はここの花  信章

 「浄瑠璃」はこの頃の主に古浄瑠璃で、寛文の頃から浄瑠璃本が多く出版された。人形劇も盛んになり、やがて元禄の頃に人形浄瑠璃文楽として確立されてゆく。
 延宝四年の「時節嘸」の巻の三十三句目に、

   雨や黒茶を染て行覧
 消残る手摺の幕の夕日影

の句があるように、文楽のような後ろから操るタイプの人形劇が盛んで、文楽の舞台にもあるような「手摺」がこの頃にあったことが窺われる。
 小哥(小歌)は江戸末期にうまれた「小唄」とは別のもので、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「歌謡。古く「大歌」に対する名称として記録にみえるが,普通室町時代から江戸時代にかけて流行した歌謡をいい,三味線伴奏の歌曲はそれぞれの伝承種目で呼ばれるため,狭義には除外される。しかし現在伝承が絶えている江戸時代初期の流行小編歌謡の総称として,近世初期小歌などということもある。ただし,江戸時代末期から明治に発生した三味線小曲は「小唄」と書いて区別される。現存する小歌集としては,『閑吟集』 (1518) ,『宗安小歌集』 (1600頃) ,『隆達小歌集』 (1593) などがある。狂言のなかに含まれているものもあり,一般に狂言小歌と総称するが,狂言における「小歌」は,ごく特定の狂言謡をいい,狂言小歌にあたるものは小舞謡のことである。伴奏楽器には扇拍子や一節切 (ひとよぎり) という尺八の一種を用いたといわれる。曲調は滅びてしまってわからないが,狂言歌謡に遺存するものや三味線組歌などから類推することができる。詞形はかなり自由で,七五七五調,七七七五調,自由な口語調とさまざまである。」

とある。


弄斎節と片撥

 「此梅に」六十九句目

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

とある。
 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。


はやり歌

 「のまれけり」七句目

   与作あやまつて仙郷に入
 はやり哥も雲の上まで聞えあげ  春澄

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 与作思へば照る日も曇る 関の古万が涙雨

という当時の流行歌があったという。
 「丹波与作」をコトバンクでみると、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「丹波の馬方。のち江戸へ出て出世し、武士になった。寛文(1661~1673)ごろから、関の小万との情事を俗謡に歌われ、浄瑠璃・歌舞伎にも脚色された。」

とある。

 「須磨ぞ秋」四十三句目

   既によし原の合戦破れし
 はやりうたさすが名をえし其身とて 似春

 この頃はまだ江戸後期のような一般に知られているような小唄はなく、長唄・端唄も元禄の浄瑠璃から派生したものだから、まだ早い。かといって弄斎・片撥は寛永のころになってしまう。延宝の頃のはやり歌はどのようなものだったか。
 寛文の頃の『糸竹初心集』の俗謡が短い歌詞の、のちの小唄の原型のようなものだったと思われるし、こうした古いものも含めて広義で「小唄」と呼ばれることもある。延宝期もおそらくこのようなものだったのだろう。ネット上の林謙三さんの『江戸初期俗謡の復原の試み ─特に糸竹初心集の小唄について』に詳しい。


つれぶし

 「さぞな都」四十五句目

   舞台に出る胡蝶うぐひす
 つれぶしには哥うたひの蛙鳴   桃青

 「つれぶし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 他の人とともに節を合わせてうたうこと。つれ。
  ※俳諧・貝おほひ(1672)序「右と左にわかちて、つれぶしにうたはしめ」

とある。

2021年4月15日木曜日

 今日はよく晴れた。
 コロナの方は感染者の増加が止まらない。ワクチンは感染者の多い地域に優先して回した方がいいのではないか。大阪の変異株の力は本物で、ある程度経済を止める覚悟がないと収まらない。少なくとも去年の今頃くらいのことはやらなくては。
 アニメの「ムシウタ」を改めてもう一度見た。岩井恭平さんの「ムシウタ」は「ムシウタbug」も含めて前に全部読んだ。
 人は自分の居場所のために戦っているというテーマは、自分の思っていた「生存の取引」にも重なる。それは自分だけでなく、誰もが自分の居場所を持てる社会にするという理想をもたらす。その頃自分の夢は何だろうかと思ったとき、出てきたのは「排除なき共同体」という理想だった。
 この夢は今でも変わっていない。あれからわかったのは、様々な多様な価値観を持つ人たちをごちゃまぜにしてはいけないということくらいで、うまく住み分けられるシステムを模索している。
 大事なのは敵が何なのか見誤らないことだということも、この小説から学んだ。

 それでは延宝のグルメ3。

塩辛

 「青葉より」三十二句目

   夕日影光はちよくにかたぶきて
 塩からあらふ沖津白浪      春澄

 酒の肴の塩辛は海で獲れるから、夕陽とともに白波に洗われるとする。


あぢ鴨

 「塩にしても」脇

   塩にしてもいざことづてん都鳥
 只今のぼる波のあぢ鴨      春澄

 都鳥は食べないけどあぢ鴨(トモエガモ)は美味なので、都鳥は言伝だけにして、ただいまトモエガモが都へと上ります、とする。ウィキペディアには、

 「食用とされることもあった。またカモ類の中では最も美味であるとされる。そのため古くはアジガモ(味鴨)や単にアジ(䳑)と呼称されることもあった。 アジガモが転じて鴨が多く越冬する滋賀県塩津あたりのことを指す枕詞「あじかま」が出来た。」

とある。


海苔ととろろ

 「塩にしても」二十句目

   麦食の𦬇や爰に霞むらん
 妙なるのりととろろとかるる   春澄

 菩薩が説くのは妙なる法(のり)だが、ここでは麦飯に合わせて海苔ととろろをかき混ぜる。


白絞油

 「塩にしても」二十五句目

   聖天高くつもるそろばん
 帳面のしめを油にあげられて   桃青

 帳面の締めで利益が上がるのと白絞油で天ぷらが上がるのとを掛けて、待乳山聖天のように高く利益が積もり積って、天ぷらも積み上げられる。


煎菜

 「わすれ草」発句

 わすれ草煎菜に摘まん年の暮   桃青

 煎菜(いりな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 ゆでて二、三寸くらいに切った菜を酒、しょうゆ、塩などで味をつけて煎りつけた料理。
  ※俳諧・俳諧一葉集(1827)「わすれ草煎菜につまん年の暮〈芭蕉〉 笊籬(いかき)味噌こし岸伝ふ雪〈千春〉」

とある。
 年忘れに忘れ草を食べようという発句だが、「摘まん」だからまだ入手してないようだし、洒落で言っただけで本当に食べたわけではないのだろう。


ごまめと膾大根

 「見渡せば」五十四句目

   御供にはなまぐさものの小殿原
 つづく兵膾大根         桃青
 (御供にはなまぐさものの小殿原つづく兵膾大根)

 生臭物のごまめに続くつわものは膾大根。ごまめの生臭さを抑えてくれる頼れる奴だ。


白魚

 「鷺の足」七十二句目

    春秋を花と飡とに暇なき
 白魚をかざすより餅春の宴    桃青

 白魚は『和漢三才図会』にも上饌とされていて、高級なものだった。徳川家康もこの魚には葵の紋がついているといって白魚を好み、献上させたという。


西瓜

 「見渡せば」七十八句目

   腫気のさす姿忽花もなし
 春半より西瓜は西瓜は      桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「西瓜は腫気の薬」とある。確かに今日でもシトルリンというアミノ酸が血流を促し、むくみを解消すると言われている。その一方でカリウムが多いので腎臓に悪いとも言われている。
 西瓜は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[和漢三才図会]慶安中、黄檗隠元入朝の時、西瓜・扁豆等の種を携へ来り、始て長崎に植。[本朝食鑑]水瓜は西瓜也。俗に、瓜中水多し、故に名く。[大和本草]三月種を下し、蔓延て地に布。四五月黄花を開く。甜瓜の花のごとし。」

とある。


柚べし

  「実や月」五十四句目

   窓近き小ざさみだるる竹の皮
 夕日こぼれて柚べしかたまる   杉風

 柚べしはウィキペディアに、

 「源平の時代に生まれたとも伝えられる。菓子というよりも保存食・携帯食に近いものだったとされ、時代とともに現在のような菓子へ変化したといわれている。現在では珍味に分類されるものと、和菓子の一種(蒸し菓子や餅菓子など)に分類されるもの、その他のものに分けられる。また江戸時代には、徳川家にも献じるなどの献上品として扱われることもあった。」

 「柚子の実の上部を切り取った後、中身をくり抜き、この中に味噌、山椒、胡桃などを詰めて、切り取った上部で蓋をする。そして、これに藁等を巻いて日陰で1か月から半年ほど乾燥させる。食べる際には藁を外して適宜に切り分け酒の肴やご飯の副食物として用いる。」

とある。
 柚べしが固まるというのはこの乾燥させる作業であろう。窓の所に干してあった。


冷飯に生姜梅漬

 「須磨ぞ秋」四十六句目

   冷飯を鬼一口に喰てけり
 是生滅法生姜梅漬        桃青

 冷や飯も、そのおかずの生姜梅漬も食ってしまえばあっという間になくなる。まこと是生滅法なり。



 「わすれ草」十七句目

   雲井に落る鳫の細首
 料理人御前を立て花の浪     千春

 前句の雲井を御所のこととして、料理人が花見の宴のために呼ばれる。鳫がその場で捌かれる。


雁、鶴

 「実や月」二十七句目

   殿様かたへゆくあらしかな
 雁鶴も高ねの雲の立まよひ   紀子

 「高嶺の花」という言葉は本来は高い山の上で咲く花で手が届かないという意味だったが、今日では「高値の花」つまり値段が高くて手の届かないという意味で用いられている。


焼鳥

 「実や月」十三句目

   秋を坐布の床の山風
 焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ   二葉子

 秋風に鶉は、

 夕されば野辺の秋風身にしみて
     鶉鳴くなり深草の里
           藤原俊成(千載和歌集)

が本歌になる。それを焼鳥の鶉にして卑俗に落とす。



 「春澄にとへ」十三句目

   犬切つて其聲のかなしく
 ねざま侘て雪の炉に根深温ル   才丸

 日本では仏教の影響が強く、四つ足の動物を食べることは稀だったが、犬を食べたという記録は存在していて、ウィキペディアに、

 「江戸時代に入ると、犬食は武士階級では禁止されたが、庶民や武家の奉公人には食されていた。17世紀の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述がある。18世紀の『落穂集』には、「江戸の町方に犬はほとんどいない。武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況であったのである。」としている。」

とある。
 この大道寺友山重祐(1639-1730)が享保12年(1727年)に発表『落穂集』巻十の「以前町方諸売買初之事」に、

 「武家・町方共に下々の給物(たべもの)に犬に増(まさ)りたる物ハ無之ごとく有之候ニ付、冬向に成り候へハ見合次第打殺し賞玩(しょうがん)仕るに付ての義と有之候也」

とある。
 お隣の国では夏に暑気払いで食べるようだが、日本では冬のものでネギと一緒に煮込んで食べたようだ。


干し鯨

 「春澄にとへ」四十一句目

   納戸の神を齋し祭ル
  煤掃之礼用於鯨之脯      其角

  これは漢文で「煤掃(すすはき)の礼に鯨の脯(ほしし)を用ゆ」と読む。
 「脯(ほじし)」は「ほしじし」で干し肉のことをいう。
 鯨は冬の季語ではあるが、一度に大量の肉が取れるので、多くは何らかの形で保存食になったのだろう。塩漬けにして保存することもあった。芭蕉の元禄五年の句に、

 水無月や鯛はあれども塩鯨    芭蕉(葛の松原)

とある。


玉子酒

 「色付や」八十三句目

   義経是にて雪の暁
 玉子酒即事に須磨を打つぶし   桃青

 義経が須磨の平家に打ち勝った一ノ谷の戦いは旧暦二月七日で、実際は春だった。
 ここでは雪の暁に玉子酒を飲んで出陣したことにしている。


南蛮の酒

 「物の名も」二十一句目

   木綿ざらさの紅葉かたしく
 花に嵐あらきちんたをあたためて 信章

 「あらき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (arak) 江戸時代、オランダから渡来した蒸留酒。アルコールに香気をつけたもの、あるいは、丁子、肉桂、ういきょうなどを焼酎につけたものという。アラキざけ。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「花に嵐あらきちんたをあたためて〈信章〉 胸につかへし霞はれ行く〈信徳〉」

とある。
 「ちんた」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (vinho tinto 「赤ぶどう酒」の略)⸨チンダ⸩ ポルトガルから輸入された赤ぶどう酒。チンタ酒。
  ※太閤記(1625)或問「上戸には、ちんた、ぶだう酒」

とある。