2021年4月14日水曜日

 今日は雨。夜には雷が鳴った。
 延宝九年の「春澄にとへ」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 越人が何で『俳諧次韻』を蕉風の確立としたのか、順に読んできてわかった気がする。確かに、これまでと違って面白い。
 多分それまでのが寺社などでの公開を前提とした俳諧だったのに対し、『俳諧次韻』は書物俳諧で、ある程度時間をかけて作ったのではないかと思う。書物で読まれることを前提としているから、展開も大きくなるし、表記の上でのいろいろな実験も行われている。
 興行俳諧の時代が終わり書物俳諧に時代はシフトしてゆく、その最初のものということで画期的だったのではないか。
 それでは延宝のグルメの続き。

蓼酢

 「物の名も」三十六句目

   土用しれ山は紺地の青あらし
 谷水たたへて蓼酢のごとし    信章

 蓼酢はすりつぶした蓼を酢で伸ばしたもので、緑色の液体になる。


金柑

 「物の名も」三十七句目

   谷水たたへて蓼酢のごとし
 異風者金柑渕になげ捨る     信徳

 「異風者(いふうもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 世間普通の様子とは異なった人。性質、態度などが人並みでない者。
  ※仮名草子・可笑記(1642)二「真実の異風(イフウ)ものといふは、当世人々のいへる、くゎんかつもののたぐひなるべし」

とある。
 蓼酢に金柑を添えるのは粋だけど、蓼酢のような湖に金柑を投げ捨てるのは行き過ぎ。


うどん

 「物の名も」六十三句目

   うどん切落す橋の下水
 つりものに中の間の障子引はなし 信章

 「つりもの」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (━する) 路上などで出会った見知らぬ者をさそって情を交わすこと。
  ※評判記・色道大鏡(1678)二五「釣者(ツリモノ)といふは、物見物参りの道路にて、近付ならぬ女を引ゆく事也」
  ② 路傍で客をさそって売春する女。
  ※俳諧・鷹筑波(1638)二「つきだされたる寝屋の釣(ツリ)もの 後夜時に鐘楼の坊主目は覚て」
  ③ だまして金などをまきあげる相手。えもの。
  ※浄瑠璃・奥州安達原(1762)四「結構な釣者がかかったと思ひの外、あちこちへ釣られてのけた」
  ④ (釣物) つるすようにしたもの。また、つってあるもの。簾など。特に歌舞伎の大道具の一つで、天井につっておいて、必要なときに綱をゆるめておろして背景などに用いるもの。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※歌舞伎・浮世柄比翼稲妻(鞘当)(1823)大切「大柱、吊(ツ)り物(モノ)にて水口を見せ」

とある。
 「中の間」は「デジタル大辞泉の解説」に、

 「家の中央にある部屋。奥の間と玄関などとの間にある部屋。」

とある。この場合はうどん屋の暖簾で、中の間の障子が開け放たれてうどんを切っているところが見えるということか。


新蕎麦

 「梅の風」九十三句目

   後陣はいまだ横町の露
 上々新蕎麦面もふらず切て出   信章

 後陣は横町で、この上ない新蕎麦をわき目もせずに切って行くその手際を見ている。


新蕎麦にたれ味噌

 「実や月」四句目

   新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
 芦の葉こゆるたれ味噌の浪   卜尺

 醤油が普及する前の江戸では、蕎麦はたれ味噌で食べていた。


けんどん蕎麦

 「見渡せば」九十句目

   鉢一ッ万民これを賞翫す
 けんどむ蕎麦や山の端の雲    桃青
 (鉢一ッ万民これを賞翫すけんどむ蕎麦や山の端の雲)

 「けんどむ蕎麦」は「けんどんそば」でコトバンクの「世界大百科事典内のけんどんそばの言及」に、

 「…江戸初期のそば屋は,三都とも菓子屋から船切り(生のそばを浅い矩形の箱に並べたもの)を取り寄せて使う店が多かった。1664年(寛文4)に〈けんどんそば切り〉が売り出され,4年後にははやりものの一つに数えられるまでになった。けんどんそばの元祖については,瀬戸物町信濃屋と堀江町二丁目伊勢屋との説があるが,吉原の江戸町二丁目仁左衛門とするのが正しい。…」

とある。


大根おろし

 「見渡せば」九十九句目

   八盃豆腐冬ごもる空
 俤のおろし大根花見して     桃青


饅頭

 「物の名も」七十二句目

   千早振木で作りたる神すがた
 岩戸ひらけて饅頭の見世     信章

 ここでは阿修羅ではなく別の神像になる。境内には饅頭屋があり、岩戸を出てきた天照大神もびっくりだろう。


紅葉豆腐

 「梅の風」六十句目

   鶏の御斎を申今朝の月
 龍田の紅葉豆腐四五丁      桃青

 「紅葉豆腐」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、和泉国(大阪府)堺の名物の豆腐。上にもみじの形をしるしたもの。のちに江戸でも売られた。〔堺鑑(1684)〕
  〘名〙
  ① 紅葉の葉の型をおした豆腐。
  ※俳諧・常盤屋の句合(1680)六番「桜にあらぬさくらごんにゃく、予たはぶれに曰、彼は紅葉豆腐に増れるといはんか」
  ② 豆腐料理の一つ。豆腐に刻んだ唐辛子や生薑(しょうが)をすり混ぜ、揚げたもの。〔豆腐百珍続編(1783)〕」

とある。時代的には①の方か。


豆腐

 「色付くや」発句

 色付くや豆腐に落て薄紅葉    桃青

 句としては、まず「色付や」と疑っているのと、この句の主題が「薄紅葉」であるところから、この句は「薄紅葉の豆腐に落ちて色づくや」の倒置と考えられる。これは薄っすらと色づいたまだ青さの残る紅葉が豆腐の上に落ちて、汁の水分で色が鮮やかになるのだろうか、なってくれないかな、という句ではなかったかと思う。


八盃豆腐

 「見渡せば」九十八句目

   あほう噺芦火にあたりて夜もすがら
 八盃豆腐冬ごもる空       似春
 (あほう噺芦火にあたりて夜もすがら八盃豆腐冬ごもる空)

 八盃豆腐はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 豆腐を細長く切って煮た料理。煮出し汁が水四杯、だし二杯、醤油二杯の割合であったので八杯と名づけたとも、豆腐一丁で八人前とれたので名づけたともいう。八杯。〔浮世草子・風俗遊仙窟(1744)〕」

とある。昔の豆腐は今よりも堅かったのかもしれない。


とろろ汁に海鼠の小だたみ

 「色付や」六十八句目

   とろろ汁生死の海を湛たり
 元小だたみは無面目にて     桃青

 「小だたみ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

  「海鼠を酒に漬けておき、煮出汁・塩・味みりんで味付けした中に入れて、わさびあえにした料理。」

とある。


奈良茶飯

 「のまれけり」三十一句目

   日待にきたか山郭公
 やすき夜も寝ぬに目覚めすならちやずき 春澄

 ならちや(奈良茶)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 奈良地方から産する茶。
  ② 「ならちゃめし(奈良茶飯)」の略。〔料理物語(1643)〕」
 
とある。
 この場合は②の方で、奈良茶飯は二つあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 薄く入れた煎茶でたいた塩味の飯に濃く入れた茶をかけて食べるもの。また、いり大豆や小豆(あずき)・栗・くわいなどを入れてたいたものもある。もと、奈良の東大寺・興福寺などで作ったものという。ならちゃがゆ。ならちゃがい。ならちゃ。〔本朝食鑑(1697)〕
  ② 茶飯に豆腐汁・煮豆などをそえて出した一膳飯。江戸では、明暦の大火後、浅草の浅草寺門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋の祖となった。〔物類称呼(1775)〕」

とある。
 日待のときに食べるなら①の方か。


焼味噌

 「のまれけり」三十二句目

   やすき夜も寝ぬに目覚めすならちやずき
 雲のいづこに匂ふ焼みそ     似春

 焼き味噌はコトバンクの「和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典の解説」に、

 「みそを杉板などに塗りつけて、遠火であぶった料理。そばの実・ごま・しょうがなどを加えることもある。酒の肴(さかな)、飯のおかず、茶漬けの具などにする。」

とある。奈良茶飯の具に焼味噌は定番だったのだろう。


田楽

 「須磨ぞ秋」六十五句目

   帝近所へ夜ばなしの秋
 錦かと田楽染る龍田川      桃青

 「夜話(よばなし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 夜、談話すること。また、その談話。やわ。《季・冬》 〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※咄本・醒睡笑(1628)八「この夕、夜咄にたより、われ人案じて遊ばん」
  ② =よばなし(夜話)の茶事
  ※雑俳・表若葉(1732)「夜噺しに時圭をはづす亭主振」

とある。ここでは①の意味に転じ、付き物の田楽(食べ物)を出す。
 龍田川を流れる紅葉を帝の目には錦と見えるのだから、夜ばなし(この場合は茶席ではなく普通の夜ばなし)で食べる味噌田楽も錦と見えるだろう、という句になる。

2021年4月13日火曜日

 今日は曇り時々小雨。
 コロナの新規感染者数はまだ減る気配がない。マスク会食だとか団扇会食だとか何とか会食をさせようと姑息な手を使っていても、人間は騙せてもコロナは騙せない。
 同じ部屋の中にいれば自ずとエアロゾルは充満する。不織布マスクをしていればある程度防げるというだけのこと。少しでも外したら意味はない。
 会食でなくても、同じ部屋で複数人数で飲食をするのは避けなくてはいけない。
 大体、会食なんて半強制のものが多くて、迷惑だと思っている人も多い。やめればせいせいする人も多い。
 ミャンマーの死者は虐殺レベルになってきている。ただ、ウイグル問題と違うのはビルマ族同士の内紛で民族浄化ではない。それが「ウイグルガー」とか言ってる人への答えだ。
 むしろ我々が考えなくてはならないのは、日本が中国に支配された時、デモやゼネストのような平和的闘争が軍事政権の前でいかに無力かということだろう。
 我々の世代は親父から戦前戦中の言論統制の時代のことをいろいろ聞かされているが、若い世代はそれを知らない。今のネット上で権利を主張しているみたいに、何でも言っていいし何でもできると思ってはいけない。
 その時のためにも基本的人権の一つである「抵抗権」について、きちんと考えてゆく必要がある。民衆の正統な抵抗とテロとの境界をぐだぐだにしたままだと、テロとの戦いの名目で民衆の声が抹殺されることになるし、逆に民衆の抵抗を装ったテロが横行することにもなる。
 
 さて、今日は延宝のグルメ。芭蕉は伊賀藤堂藩の料理人だったこともあってか、食い物のネタも多い。


干菜

 「いと凉しき」九十三句目。

   月はこととふうら店の奥
 秋の風棒にかけたる干菜売      桃青


酢味噌

 「此梅に」四句目

   春雨のかるうしやれたる世中に
 酢味噌まじりの野辺の下萌      桃青

 春の野辺の下萌といえば若菜。これを酢味噌で食べるのは洒落ている。


茎漬

 「此梅に」二十八句目

   地にあらば石臼などとちかひてし  
 末の松山茎漬の水          信章

 「茎漬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「ダイコンやカブなどを茎や葉といっしょに塩漬けにしたもの。くき。 [季] 冬。」

とある。これは和歌山の茎漬けで、三重の茎漬けはヤツガシラの茎を塩と赤紫蘇で漬ける。茎を塩漬けにして臼に入れて重石を乗せると、茎の水分が出てくる。


油揚げ

 「此梅に」九十句目

   忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん
 あぶらにあげしねづなきの声     信章

 あぶらあげは後の元禄四年の「牛部屋に」の巻三十四句目に、

   手に持し物見うしなふいそがしさ
 油あげせぬ庵はやせたり       野童

の句がある。精進料理でいて高プロテインで高カロリーな油揚げ。これを食べない僧は痩せていた。

天ぷら

 「此梅に」九十一句目

   あぶらにあげしねづなきの声
 唐人も夕の月にうかれ出て      桃青

 「唐人」は中国人だけでなく外国人一般をさす言葉として用いられ、西洋人も含まれていた。
 油で揚げた「てんぷら」は江戸時代に急速に普及していったが、西洋(南蛮)が起源ということも意識されていた。


十団子

 「此梅に」九十九句目

   霰の玉をつらぬかれけり
 花にわりご麓の里は十団子      桃青

 「わりご」は「破子」と書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「破籠とも書く。食物を入れて携行する容器。ヒノキの白木の薄板を折り,円形,四角,扇形などにつくり,中に仕切をつけ蓋をする。平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した。」

とある。
 「花より団子」というくらいで、花見に弁当は付き物。

 「麓の里」は東海道の丸子宿から宇津の谷に入るところの集落で、「十団子(とおだご)」は中世から売られていた名物の団子。ウィキペディアには「江戸時代の紀行文や川柳からは、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものと知れる。」とある。


わらび餅

 「此梅に」挙句

   花にわりご麓の里は十団子
 日坂こゆれば峰のさわらび      信章

 ここでは日坂宿の名物の蕨餅のことか。

 ウィキペディアの「わらびもち」の所には、

 「東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。」


茸鍋

 「梅の風」十九句目

   桐壺はは木木しめぢ初茸
 鍋の露夕の煙すみやかに     桃青

 キノコといえば鍋。


カステラ

 「梅の風」二十七句目

   玉子の前やうちくだく覧
 伝聞唐のやうかんかすていら   信章

 前句を単に玉子を割って作る菓子としてカステイラを出す。


鯰の蒲鉾

 「梅の風」五十五句目

   弁才天に鯰ささぐる
 かまぼこの塩ならぬ海このところ 信章

 鯰は白身魚だからかまぼこの材料にはなるだろう。「塩ならぬ海」は淡水の海、琵琶湖のこと。
 同様に「見渡せば」六十九句目

   長十丈の鯰なりけり
 かまぼこの橋板遠く見わたして  似春

の句もある。


醤油

 「あら何共なや」七句目

   海老ざこまじりに折節は鮒
 醤油の後は湯水に月すみて    桃青

 塩味の強い醤油味の魚介料理の後はさ湯ですっきり。関西・中京では普及していたが、関東ではこれからという時代だった。


煮しめに薄醤油

 「物の名も」七十九句目

   にしめの蕨人参甘草
 春霞気を引たつる薄醤油     信徳

 醤油は『日本の味 醤油の歴史』(林玲子・天野雅敏編、二〇〇五、吉川弘文館)によると、紀伊湯浅で正応年刊(一二八八~九三)には販売されていて、以降十六世紀には他国への移出していたという。播州龍野でも天正年刊(一五七三~九二)には生産が始められていた。薄口醬油は寛文六年(一六六六年)に播州龍野の円尾孫右衛門によって始められたとされる。これが関西方面に広まっていて京都の信徳も知っていたのだろう。関東で醤油が広まるのはもう少し後になる。
 これと別系統で愛知、岐阜、三重の東海三県では原初的な穀醤から派生した溜まり醤油があったが、商品化されたのは元禄十二年(一六九九年)だという。また、海辺の地方では独自の魚醤が作られていたものと思われる。


干鱈

 「あら何共なや」十四句目

   物際よことはりしらぬ我涙
 干鱈四五枚是式恋を       信章

 貞享二年に芭蕉は。

 躑躅生けてその陰に干鱈割く女  芭蕉

の句を詠むが、干鱈は棒鱈とちがって柔らかく、水で戻さなくてもそのままかじることができる。干鱈を咲いている様子が女が悲しみに文を引き裂いている様子と似ているというのが俳諧のネタになる。


心太

 「さぞな都」十七句目

   つづけやつづけ紙張の母衣
 石花菜水のさかまく所をば    信徳

 石花菜は心太のこと。「ところてん」と読む。心太突きから出てくる心太は瀧のようでもあり、それを盛り付けると水が逆巻くようにも見える。子供たちにも大人気で続けや続け。


鯉の丸揚げ

 「さぞな都」二十句目

   落瀧津地獄の底へさかさまに
 鉄杖鯉の骨をくだくか      信徳

 鯉の丸揚げであろう。鯉が油の中で暴れないように眉間を叩いて絞める。それを地獄の鬼の金棒に見立てる。


のっぺい汁

 「さぞな都」二十六句目

   鍋の尻入江の塩に気を付て
 のつぺいうしと鴨のなく覧    信徳

 「のつぺい」はのっぺい汁で、ウィキペディアに、

 「原型は、寺の宿坊で余り野菜の煮込みに葛粉でとろ味をつけた普茶料理『雲片』を、実だくさんの澄まし汁に工夫したものという。精進料理が原型だが、現在では鶏肉や魚を加えることもある。」

とある。江戸時代でも鴨を加えることがあったのだろう。


ざくざく汁

 「さぞな都」九十七句目

   鰯でかりの契りやかるる
 はかゆきにざくざく汁の薄情   信章

 ウィキペディアの「ごづゆ」のことろに、

 「内陸の会津地方でも入手が可能な、海産物の乾物を素材とした汁物である。江戸時代後期から明治初期にかけて会津藩の武家料理や庶民のごちそうとして広まり、現在でも正月や婚礼などハレの席で振る舞われる郷土料理である。なお似たようなレシピで「ざくざく」という家庭料理も作られるが、こちらは昆布・ダイコン・ゴボウなどが加わり、出汁にも煮干しなどが加わる点が異なる。 また、南会津地方ではこづゆを「つゆじ」と言うこともある。」

とある。今日でも「ざくざく汁」と呼ばれているが、延宝の頃にあったかどうかは不明。江戸では廃れたが会津に残ったということも考えられる。


河豚汁

 「あら何共なや」発句

 あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青

 「ふぐとじる」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① フグを椀種(わんだね)とした汁物。ふくとうじる。ふくとじる。鉄砲汁。《季・冬》 〔大草家料理書(16C中‐後か)〕」

とある。

2021年4月12日月曜日

 今日は弥生の朔日。何だか春も終わりのような気がするが、まだ一か月ある。
 日本でもようやく医療関係者以外のワクチン接種が始まった。何のかんの言っても既に百万人以上の人が接種を受けている。日本は他の国に比べて感染者も死者も少ないからそんなに急ぐことはない。もちろん早いに越したことはないが、ワクチンのいきわたらない国もたくさんある。恵まれていると思った方がいい。
 それでは延宝の有名人の後半。

京秤座 神善四郎

 「見渡せば」五十八句目

   因果は夫秤の皿をまはるらん
 善男善四と説せ給ひし      桃青

に登場する。
 コトバンクの「世界大百科事典内の神善四郎の言及」に、

 「…守随家の初代吉川守随茂済(しげなり)は甲州出身で今川氏に奉公し,人質中の徳川家康に仕えた後,甲府に帰り1574年(天正2)武田信玄から秤製作の特権を得,82年には家康から三遠駿甲信の5ヵ国における秤製作の特権,さらに関八州における特権から,1653年(承応2)には日本を東西に神家と分掌して東33ヵ国における特権へと成長した。神家初代神善四郎は伊勢国白子の牢人で,京に出て公家に仕え秤座を開き豊後掾に任ぜられ,慶長(1596‐1615)末年ごろには製品を二条城にいた家康に納め,やがて西国33ヵ国を分掌するに至った。秤座では,国や都市単位に約10年ほどの間隔で秤改めを実施した。…」

とある。


江戸秤座 守随彦太郎

 「あら何共なや」五十四句目

   昔棹今の帝の御時に
 守随極めの哥の撰集       信徳

に登場する。
 守随(しゅずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、幕府の許しにより、東三三か国における秤のこと一切をつかさどる特権をもった、江戸秤座(はかりざ)守随彦太郎家。または、守随家によって製作、検定された秤。転じて、一般に秤をいう。なお西三三か国は、神善四郎家が、京秤座としてつかさどった。
  ※御触書寛保集成‐三四・承応二年(1653)閏六月「一 守随、善四郎二人之秤目無二相違一被二仰付一候上ハ、六拾六箇国ニて用レ之、遣可レ申事」

とある。


霊元天皇

 「あら何共なや」五十三句目の「今の帝」は霊元天皇になる。ウィキペディアによれば霊元天皇は、

 「霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。」

とある。


作家 鈴木正三

 「さぞな都」三十九句目

   悪鬼となつて姿はそのまま
 正三の書をかれたる物がたり   桃青

に登場する。
 鈴木正三はウィキペディアに、

 「鈴木 正三(すずき しょうさん、俗名の諱まさみつ、道号:石平老人、天正7年1月10日(1579年2月5日)- 明暦元年6月25日(1655年7月28日))は、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は徳川家に仕えた旗本である。」

とあり、仮名草子については、

 「また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子を利用し、『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草子』などを執筆して分かりやすく仏教を説き、井原西鶴らに影響を与えた。」

とある。


怪談作家 道春

 「さぞな都」四十句目

   正三の書をかれたる物がたり
 ここに道春是もこれとて     信章

に登場する。
 道春は林羅山のこと。林羅山はウィキペディアに「出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。」とある。博識で朱子学者というだけでなく、ウィキペディアに、

 「中国の本草学の紹介書『多識編』、兵学の注釈書である『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』、さらに中国の怪奇小説の案内書『怪談全書』を著すなど、その関心と学識は多方面にわたっている。」

とある。


正本屋 鶴屋喜右衛門

 「梅の風」九十句目

   朝より庭訓今川童子教
 さてこなたには二条喜右衛門   桃青

に登場する。
 京都二条の喜右衛門は正本屋、つまり出版社だった。ネット上の柏崎順子さんの『鶴屋喜右衛門』という論文によると、寛文期までに古浄瑠璃の正本を多数出版していた。


俳諧の祖 荒木田守武

 「さぞな都」八十八句目

   千句より十万億も鼻の先
 我等が為の守武菩提       信徳

に登場する。
 俳諧の祖の守武は守武千句が知られている。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「俳諧集。荒木田守武著。1冊。1536年(天文5)起草,40年成稿。《誹諧之連歌独吟千句》ともいい,冒頭の〈飛梅やかろがろしくも神の春〉により《飛梅千句(とびうめせんく)》ともいう。数年にわたる推敲を経た入魂の作で,それまで詠捨ての座興であった俳諧に千句という正式の形を与えたことにより,俳諧のジャンル確立に貢献。宗鑑の《犬筑波集》と並称される。跋文は当時の一流連歌師の俳諧への嗜好を生き生きと伝える。後世,ことに談林俳諧への影響が大きい。」

とある。


儒者 熊沢藩山

 「青葉より」十八句目

   爰に中比儒者一人の月澄て
 或は広沢熊沢の秋        桃青

 熊沢蕃山はウィキペディアに、

 「熊沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後に助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。」

とある。寛文七年まで京で私塾をやっていた。


神道家 萩原兼従

 「須磨ぞ秋」三十七句目

   神代の鼠まくら驚く
 明ぬれば萩原どのの鶉啼     似春

に登場する。
 「萩原どの」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「江戸期の神道家」とある。神道家でもある曾良(岩波庄右衛門)の師である吉川惟足の師匠の萩原兼従のことか。
 萩原兼従はウィキペディアに、

 「萩原 兼従(はぎわら かねより、天正16年(1588年) - 万治3年8月13日(1660年9月17日))は、江戸時代前期の神道家。吉田兼治の子。母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。室は高台院の姪。萩原家の祖。
 1599年(慶長4年)、祖父吉田兼見の画策により兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国神社の社務職に就任し萩原を名乗る。1615年(元和元年)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦された。
 その後本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた。兼従の死後、吉田神社の境内に「神海神社」が創建された。」

とある。


呉服師 後藤縫殿助

 「色付や」八十九句目

   乙女の姿白じゆすの帯
 呉服物後藤源氏の物思ひ     桃青


に登場する。
 後藤源氏は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「縫物所後藤縫殿助。幕府の御用呉服所。」とある。ウィキペディアに、

 「後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)は、江戸時代に代々呉服師を手がけた後藤家の当主が名乗った名称である。江戸幕府の御用達呉服師として仕え、彫金師の彫物後藤および小判鋳造を手がけた金座後藤庄三郎家と区別するため呉服後藤(ごふくごとう)とも呼ばれた。また後藤縫之助と書かれる場合もある。」

とある。


鍛冶屋 播磨守兼増

 「見渡せば」七十句目

   かまぼこの橋板遠く見わたして
 兼升勢多より参包丁       桃青

 兼升は「刀剣ワールド」というサイトに、

 「「播磨守兼増」は、銘を播磨守兼升・播磨守兼桝とも切ります。播磨(はりま)は、現在の兵庫県のこと。元々は美濃の刀工で、のちに大坂で寛文(1661年~)頃に鍛刀しています。「兼(金)が増す」と喜ばれた名前ですが、あまり数を見ない刀工です。」

とある。


謀反人 由井正雪

 「色付や」九十五句目

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや    杉風

の伏字部分に登場する。

 伏字部分は慶安四年(一六五一年)に慶安の変を起こした「由井正雪」ということになる。ウィキペディアに、

 「由井 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき、慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日(1651年9月10日))は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。」

とある。


遊女 吉野太夫

 「見渡せば」八十二句目

   伺公する例の与三郎大納言
 たはけ狂ひのよし野軍に     桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「芳野山と遊女の吉野太夫に言い掛けた。」

とある。さしずめ与三郎大納言様の御参戦ということか。
 吉野太夫はウィキペディアに、

 「二代目吉野太夫(にだいめよしのたゆう、本名:松田徳子、慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日)) は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。実父はもと西国の武士であったとも。」

とある。


伝説のカップル 丹波与作・関の小万

 「のまれけり」七句目

   与作あやまつて仙郷に入
 はやり哥も雲の上まで聞えあげ  春澄

に登場する。
 「丹波与作」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「丹波の馬方。のち江戸へ出て出世し、武士になった。寛文(1661~1673)ごろから、関の小万との情事を俗謡に歌われ、浄瑠璃・歌舞伎にも脚色された。」

とある。また、「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典の解説」に、

 「歌舞伎・浄瑠璃の外題。
  初演延宝5.11(京・北側芝居)
  歌舞伎・浄瑠璃の外題。
  元の外題丹波与作手綱帯 など初演元禄6(京・村山平右衛門座)」

とある。
 ネット上の小西准子さんの『「薩摩歌」論─「丹波与作手綱帯』との関係をめぐって─』によると、元禄六年の方は富永平兵衛の『丹波与作手綱帯』で、延宝五年のは元祖嵐左衛門の『丹波与作』だという。それ以前から俗用に謡われてたのなら、当時誰しも知るキャラだったのだろう。
 ここで気になるのは与作と対になっている関の小万だが、これも、『冬の日』の「狂句木枯し」の巻十三句目に登場する、

   あるじはひんにたえし虚家
 田中なるこまんが柳落るころ   荷兮

の「こまん」のことなのだろうか。貞享二年六月二日の「涼しさの」の巻七十句目にも、

   はつ雪の石凸凹に凸凹に
 小女郎小まんが大根引ころ    才丸

の句がある。
 前句の与作もこの小万の句もその出典にさかのぼって理解する必要があるのかもしれない。


生存説のあった義経の家来 海尊

 「あら何共なや」五十九句目

   ふる入道は失にけり露
 海尊やちかい比まで山の秋    信章

に登場する。
 常陸坊海尊はウィキペディアに、

 「源義経の家来となった後、武蔵坊弁慶らとともに義経一行と都落ちに同行し、義経の最後の場所である奥州平泉の藤原泰衡の軍勢と戦った衣川の戦いでは、源義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていた為に生き延びたと言われている。」

とある。
 また、

 「江戸時代初期に残夢という老人が源平合戦を語っていたのを人々が海尊だと信じていた、と『本朝神社考』に林羅山が書いている。」

とあるので、「ちかい比まで」生存説があったようだ。


剣豪 吉岡憲法

 「時節嘸」三十一句目

   うけて流いた太刀風の末
 吉岡の松にかかれる雲晴て

 順番からすると桃青の番。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「京都北郊の一乗寺下り松。吉岡憲法と宮本武蔵との果し合いの場。」とある。吉岡憲法は吉岡直綱で、ウィキペディアに、

 「吉岡直元を祖とする足利将軍家の剣術師範を務める剣術流派である吉岡流の3代目・吉岡直賢の嫡男として生まれ、祇園藤次に兵法を学んだ。後年、吉岡家の4代目当主となった。伝記作家・福住道祐が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』によれば京都所司代の屋敷で宮本武蔵との試合が行われ、この時の勝負では武蔵が大出血したことから直綱の勝利、あるいは両者引き分けの両判定があったとあり、また慶長19年(1614年)の大坂の陣では豊臣方について篭城したという。落城後は家伝の一つである染物業に専念したという。なお、黒褐色の染物を「憲法染」と呼ぶのは、吉岡憲法が発明したからだと伝えられている。」

とある。


大泥棒 石川五右衛門

 「塩にしても」二十六句目

   帳面のしめを油にあげられて
 ながるる年は石川五右衛門    春澄

に登場する。
 ウィキペディアには、

 「安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。」

とある。

2021年4月11日日曜日

 今日もいい天気で、雨が少ないな。水不足になったりしないのかな。
 ミャンマーも香港もそうだし、そもそも天安門の時の中国がそうだった。平和的なデモは軍事独裁政権に対抗することができず、結局外圧が頼りということになっても、なかなか外圧が一枚岩になれないで分裂する。限界なのかもな。ただ徒に死者だけが増えて行く。
 それはそうと延宝七年の「見渡せば」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 これで延宝の芭蕉が参加した俳諧はあと『俳諧次韻』の二巻を残すのみとなった。そういうわけで、延宝の芭蕉の俳諧に登場する人物を集めてみた。当時の人々の噂に上る人たちだったのだろう。今日はまず半分。

狂言師 鷺権之丞

 「此梅に」十三句目

   とも呼鳥の笑ひごゑなる
 青鷺の又白さぎの権之丞       信章

に登場する。
 コトバンクの「世界大百科事典内の鷺権之丞の言及」には、

 「狂言の流派の一つ。江戸時代は観世座付で,幕府などに召し抱えられたが,明治時代に廃絶した。室町初期の路阿弥(ろあみ)を流祖とし,その芸系が兎太夫や日吉満五郎,その甥の宇治源右衛門らを経て,9世鷺三之丞まで伝えられてきたと伝承するが確かでなく,観世座付の狂言方として知られた者たちを家系に加えたにすぎないらしい。日吉満五郎は大蔵流・和泉流でも芸を伝授したとされており,両流と同じ芸系にあることになる。三之丞の甥鷺仁右衛門宗玄(にえもんそうげん)が1614年(慶長19)に徳川家康の命で観世座付となり,流儀として確立した。」

とある。その後も鷺権之丞の名は代々襲名されてゆくことになり、鷺権之丞は何人もいる。
 延宝七年秋の「見渡せば」の巻十四句目にも、

   木賊苅山はうしろに長袴
 鷺が袂は木曾の麻衣       桃青

の句がある。


狂言師 大藏八右衛門

 「あら何共なや」六十五句目

   森の朝影狐ではないか
 二柱弥右衛門と見えて立かくれ   信章

に登場する。
 狂言の大蔵流はウィキペディアに、

 「大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。
 猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。
 江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。」

とある。


歌舞伎役者 右近源左衛門

 「さぞな都」六十二句目

   若衆方先筑紫には彦太郎
 かづらすがたや右近なるらん   信徳

に登場する。
 コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:没年不詳(没年不詳)

  生年:元和8(1622)

 初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目に狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)(北川博子)」

とある。


歌舞伎役者 坊主小兵衛

 「須磨ぞ秋」四十四句目

   はやりうたさすが名をえし其身とて
 でつち小坊主男なりひら     桃青

に登場する。
 小坊主は坊主小兵衛のことであろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「生年:生没年不詳
初期歌舞伎の道外形の歌舞伎役者。月代を左右深く剃り下げる糸鬢という髪型にしていたので,この名が付いた。この風貌が人々に親しまれたようで,のちにこれを真似て坊主段九郎,坊主百兵衛,小坊主などと名乗って糸鬢で道外六法をした役者もあったが,小兵衛ほどの人気を得ることはできなかった。また歌舞伎役者に似せた五月人形を作ることはこの人に始まり,その後多くの役者人形が作られたという。歌舞伎の評判記が出る以前の役者なので,芸風経歴など詳しいことはわかっていない。山東京伝が『近世奇跡考』に「小兵衛人形」の項目を立て,若干の考察を加えている。<参考文献>『歌舞伎評判記集成』1期(北川博子)」

とある。小坊主という坊主小兵衛のフォロワーもいたようだ。浮世絵文献資料館のサイトには、

 「『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕⑥293(山東京伝著・文化元年(1803)十二月刊)
  (「小兵衛(コヘイ)人形」の項)
 〝江戸に名高く聞えし、坊主小兵衛と云俳優(ヤクシヤ)は、延宝、天和、貞享の頃を盛に経たる道外形なり。かしら糸鬂(イトビン)にて、かりそめに見れば、坊主のごとくなればしかいふめり。同時に坊主百兵衛、坊主段九、小坊主などいふ俳優あり。皆小兵術なまねびたり。其頃小兵衛が姿を、五月の兜人形にりはじめて、これを小衛人形といふ。其後段十郎、小太夫などをも、兜人形に作りしとぞ。【以上元禄六年板本、四場居(シバヰ)百人一首)に見ゆ】其角が小兵衛人形の句、左の如し。
 『五元集』 此友や年をかくさず白鬚二毛の身をわすれて、松どの太郎どのなりけりとのゝしれば、今の人形の風俗、ことさらに小兵衛などいふ人形はなし。

 我むかし坊主太夫や花菖  其角

 『五元集』 坊主小兵衛道心して、人々、小兵衛坊主と申ければ、

 坊主小兵衛小兵衛坊主とかへり花  同

 【案るに、小兵衛長き羽おりを好みて着たり。其頃の小唄に、ぼんさまの長羽おり、このゑいつべしにはりひぢしやと、うたひしよし、写本『洞房語園』に見ゆ。二朱判吉兵衛が、『大尽舞』に小兵衛の坊さの長羽おりと作りしも是なり。『本朝文鑑』に、支考が狂名を、坊主仁平といひしも、小兵衛になずらへたる名なり。いづれ世にめでられたる者とおぼふ〟」

とある。


物真似師 又男三郎兵衛

 「わすれ草」十一句目

   あるひはでつち十六羅漢
 又男が姿かたちはかはらねど   千春

に登場する。
 「又男」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「大阪の物真似の名人。『物種集』序に『川原もの又男がつけ髪松千代が柿頭巾もかづき物ぞかし』。」

とある。ネット上にある石井公成『物真似芸の系譜─仏教芸能との関係を中心にして─(上)』に、

 「そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁王や十六羅漢や観音の三十三身を演じることで有名だった。」

とあるが、同じ人か。当時歌舞伎役者は非人の身分だから「川原もの」とも呼ばれていただろう。


小唄坊主 籠斎

 「此梅に」六十九句目

   時雨ふり置むかし浄瑠璃
 おもくれたらうさいかたばち山端に  信章

に登場する。
 「らうさいかたばち」は弄斎節と片撥。
 「弄斎節」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「日本の近世歌謡の一種。「癆さい」「朗細」「籠斎」などとも記す。その成立には諸説あるが,籠斎という浮かれ坊主が隆達小歌 (りゅうたつこうた) を修得してそれを模して作った流行小歌から始るという説が有力である。元和~寛永年間 (1615~44) 頃に発生し,寛文年間 (61~73) 頃まで流行したものと思われる。目の不自由な音楽家の芸術歌曲にも取入れられ,三味線組歌に柳川検校作曲の『弄斎』,箏組歌付物に八橋検校作曲の『雲井弄斎』および倉橋検校作曲の『新雲井弄斎』,三味線長歌に佐山検校作曲の『雲井弄斎』 (「歌弄斎」ともいう) などがあるが,いずれも弄斎節の小歌をいくつか組合せたものとなっている。流行小歌としての弄斎節は,いわゆる近世小歌調の音数律形式による小編歌謡で,三味線を伴奏とし,初め京都で流行,のちに江戸にも及んで江戸弄斎と称し,それから投節 (なげぶし) が出たともされる。」

とある。
 「片撥」もコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代初期の流行歌。寛永 (1624~44) 頃から遊郭で歌われだした。七七七七の詩型のものをいう。」

とある。


人形師 竹田近江

 「青葉より」六句目

   糸よせてしめ木わがぬる秋の風
 天下一竹田稲色になる      桃青

に登場する。
 天下一竹田はウィキペディアに、

 「初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。」

 「万治元年(1658年)、京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年(1659年)に近江掾を再び受領し竹田近江と改名する。そののち寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。」

とある。


占い師 伊勢のよもいち

 「あら何共なや」十句目

   きき耳や余所にあやしき荻の声
 難波の芦は伊勢のよもいち    桃青

に登場する。
 「伊勢のよもいち」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「伊勢の人で百人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名」

とある。


力士 丸山仁太夫

 「見渡せば」四十八句目

   腰の骨いたくもあるる里の月
 又なげられし丸山の色      似春

に登場する。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に丸山仁太夫とある。寛文から延宝の頃に活躍した力士で、坪田敦緒さん「相撲評論家之頁」というサイトの「寛文元年是歳」というページに詳しくある。


柔術 藤巻嘉信

 「此梅に」七十八句目

   時は花入江の雁の中帰り
 やはら一流松に藤まき        信章

 雁が宙返りしたかと思ったら、宙返りしていたのは自分だった。

 「やはら」といえば柔らの道だが、今の柔道は明治の頃に嘉納治五郎によって確立されたもので、それ以前は「やわら」と呼ばれることが多かったようだ。
 ウィキペディアの「柔術」のところには、

 「戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力業ではないという意味などを込めて、柔術、柔道、和、やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流、楊心流、起倒流(良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法、白打、手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「当時流行の居合抜柔術の名人藤巻嘉信をふまえる。」とある。ネットで藤巻嘉信を調べると居合抜きの大道芸人だったようだ。藤巻嘉真という別の大道芸人もいたようだから、「藤巻」を名乗る大道芸人は当時たくさんいたのか。そうなると、この場合の柔術も武道としての柔術というよりは大道芸だったのかもしれない。派手な宙返りをする柔術の芸もあったのだろう。


絵師 狩野探幽

 「時節嘸」十三句目

   朱印を染て時雨降行
 探幽が筐の雲に残る月

に登場する。
 ウィキペディアに、

 「狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日)[要出典])は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。」

とある。


書家 角倉素庵

 「実や月」七句目

   下男には与市その時
 乗物を光悦流にかかれたり   卜尺

に登場する。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に与市は角倉素庵(すみのくらそあん)のことだとある。角倉素庵はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「江戸前期の学者・書家・貿易商。了以の長男。名は光昌・玄之、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵等がある。藤原惺窩の門人で本阿弥光悦に書を学び一家を成し、角倉流を創始、近世の能書家の五人の一人に挙げられる。了以の業を継ぎ、晩年には家業を子供に譲り、嵯峨本の刊行に力を尽くす。また詩歌・茶の湯も能くする。寛永9年(1632)歿、61才。」

とある。

書家 本阿弥光悦

 ウィキペディアに、

 「本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。」

とある。


黄檗僧 即非

 「あら何共なや」四十九句目

   隠元ごろもうつつか夢か
 法の声即身即非花散て      桃青

に登場する。
 「即非」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「[生]万暦44 (1616).5.14. 福建

  [没]寛文11 (1671).5.20. 長崎

  江戸時代前期に来朝した中国,明の黄檗僧,書家。俗姓は林,法名は如一。師の隠元隆琦の招きに応じて明暦3(1657)年に来朝。長崎の崇福寺,宇治の萬福寺,豊前の福聚寺などを拠点に黄檗宗の教化に努めた。かたわら書をもって世に聞こえ,隠元,木庵性瑫とともに「黄檗の三筆」と称され,江戸時代の唐様書道界に貢献した。絵も巧みで,崇福寺蔵『牧牛図』,萬福寺塔頭萬寿院蔵『羅漢図』などの作品があり,また著述に『語録』25巻,『仏祖道影賛』1冊がある。」

とある。


黄檗僧 隠元隆琦

 「あら何共なや」四十八句目

   月影や似せの琥珀にくもるらん
 隠元ごろもうつつか夢か     信徳

 隠元隆琦はウィキペディアに、

 「隠元隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉[要出典])は、明末清初の禅宗の僧[1]。日本黄檗宗の祖。俗姓は林氏。福建省福州府福清県の出身。」

とある。

2021年4月10日土曜日

  ここのところちょっと風の冷たい日が続いている。これでも例年よりは暖かいんだろうな。

 芭蕉の山吹の句というと延宝九年刊言水編の『東日記』に、

   菜花
 山吹の露菜の花のかこち顔なるや 桃青

の句がある。
 「かこち顔」は百人一首でも知られる西行法師の、

 なげけとて月やは物を思はする
     かこち顔なるわが涙かな
              西行法師(千載集)

の言葉で、山吹は古来和歌に歌われていて高貴な花とされていたのに対し、菜の花はどこにでも生えている田舎の草でそれに露が降りることで山吹にかこつけて奇麗に咲いている。
 山吹と菜の花の貴賤の関係は、同じ延宝九年刊の常矩編の『俳諧雑巾』に、

 山吹と菜種と下種と上臈と    如雲

の句がある。これは山吹は上臈、菜種は下種(げす)と直接的でわかりやすい。桃青のような古歌を介して婉曲に言うテクニックはない。
 ネタかぶりといえばネタかぶりだが、江戸の言水と京の常矩が同じ年に刊行した撰集なので、偶然であろう。
 延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻五十一句目に、

   ふられて今朝はあたら山吹
 ひよんな恋笑止がりてや啼蛙   桃青

の句があり、山吹と蛙の寄り合いで付けている。本歌は、

 かはづ鳴く井出の山吹散りにけり
     花のさかりにあはましものを
              よみ人しらず(古今集)

 遊女につぎ込んだ山吹(小判)が無駄になったという前句に、蛙が笑っていると付ける。
 山吹というと、天和三年刊其角編の『虚栗』に、

 山吹や无言禅師にすて衣     藤匂子

の句がある。
 これは隠元衣のことであろう。隠元衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 黄檗(おうばく)宗風の派手な僧衣。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「月影や似せの琥珀(こはく)にくもるらん〈信章〉 隠元(インケン)ころもうつつか夢か〈信徳〉」

とある。用例になっているのは「あら何共なや」の巻の四十八句目、

   月影や似せの琥珀にくもるらん
 隠元ごろもうつつか夢か     信徳

で、隠元禅師の肖像を見ると黄色の上に半身赤い衣を被った姿で描かれている。赤は一番高貴な僧のきるものとして、それ以下の僧は黄色だったのだろう。
 山吹は金色で小判を連想させるともに、和歌に詠まれた高貴な花というイメージがついて回っていたようだ。

 山吹や蛙飛び込む水の音     桃青

という「古池」の句の初案も、そうした高貴な花に井出の玉水の高貴な蛙と思わせて、水音で卑俗に落とす趣向だったのだろう。

2021年4月9日金曜日

 飯山陽さんの『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』 (河出新書)を読み終えた。
 イスラム原理主義を過度に恐れる必要のないのは、彼らはムスリムであっても所詮は人間だからだ。思想は人間を根底から変えることができないということは二十世紀の社会主義が証明した。イスラム原理主義も世界を席巻することはない。
 ただ我々もパヨクを簡単に説得できるなんて思ってないように、ムスリムにそれを求めないよう気をつけよう。無益な議論をしないのは日本人の美徳だ。
 移民はかつての古代ギリシャ人の、労働は全部奴隷にやらせ、自分たちだけで自由を満喫した時代の名残だ。もっともらしい哲学で正当化しても、所詮は働きたくないだけだ。奴隷の上に成り立つ自由と平等という欺瞞が、長いこと欧米を支配していた。最近になってようやくそれがとんでもない結果を引き起こすことが分かってきただけだ。我々日本人は彼らに学んではいけない。反面教師にしなくてはいけない。
 あと「春めくや」の巻「なら坂や」の巻「蛙のみ」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 『春の日』は三つの歌仙の外に「山吹の」の表六句が記されている。
 三月十九日は荷兮亭での興行と同じ日なので、昼に荷兮亭で「蛙のみ」の巻の続きをやり、夜に荷兮と越人だけで舟泉亭に行き、この表六句を巻いたか。
 追加の表六句は『冬の日』にもあり、それに倣ったものであろう。
 発句。

   三月十九日舟泉亭
 山吹のあぶなき岨のくづれ哉   越人

 「岨(そば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (近世以後「そば」とも) けわしい所。がけ、絶壁、急斜面、急坂など。きりぎし。
  ※山家集(12C後)中「古畑のそはのたつ木にゐる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮」

とある。山吹の所に行きたいが、崖の崩れた危なっかしい所にある。
 舟泉は『芭蕉七部集』の中村注に、

 「舟泉は芭蕉門、三河の人、永田氏、通称六兵衛、別号介石園、流形庵」

とある。三河挙母の人というから今の豊田氏の豊田スタジアムの近くで山奥ではないので、この句は当座とは関係なく詠まれたのだろう。
 脇。

   山吹のあぶなき岨のくづれ哉
 蝶水のみにおるる岩ばし     舟泉

 山吹の咲く崖があり、蝶が水のみに岩橋に降りてくる。蝶はこの時代は黄蝶なので、黄色に黄色と似た者同士になる。
 第三。

   蝶水のみにおるる岩ばし
 きさらぎや餅洒すべき雪ありて  聴雪

 餅の保存法はいくつかあるようで、『芭蕉七部集』の中村注にあるのは、「餅を水に浸け厚さ五分程に切り、寒夜に晒し凍らせる」という方法で、今でもネットで見れば水餅保存のやり方が出てくる。
 もう一つ東北の方で行われてきた餅を寒風にさらして干し餅(凍み餅)にするという方法で、これだと食べる時に水にさらして戻す。
 この場合は前者で、「餅さらすべき雪ありて、(今は)きさらぎに蝶水飲みに降るる岩はしや」であろう。
 四句目。

   きさらぎや餅洒すべき雪ありて
 行幸のために洗う土器      螽髭

 春の花見のための行幸であろう。古代の吉野行幸として土器(かはらけ)を付ける。
 五句目。

   行幸のために洗う土器
 朔日を鷹もつ鍛冶のいかめしく  荷兮

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 「『標注』は「後鳥羽院ノ御宇ノ番鍛冶ノ面影カ」という。[参考]鷹もつは句のとりはやしにていさましき鍛冶の体也。(七部十寸鏡)」

とある。『標注』は『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)で、七部十寸鏡は『七部集十寸鏡春日解』(天堂一叟)か。
 後鳥羽院の番鍛冶はウィキペディアに、

 「後鳥羽院は刀剣の製作を好んだ。院は京都粟田口久国、備前国信房にその業を授けられた。承元2年、諸国から刀工12人を召して、水無瀬において毎月、刀を作らせた(12人の番鍛冶)。」

とある。
 前句を鷹狩の御幸とし、番鍛冶に鷹を持たせたのであろう。厳めしそうな鍛冶が鷹を持てば余計に厳めしくなる。これが「取り囃し」になる。
 六句目。

   朔日を鷹もつ鍛冶のいかめしく
 月なき空の門はやくあけ     執筆

 朔日だから月はない。暗いうちに鷹狩に出発する。

2021年4月8日木曜日

 今日も晴れ。朝早く人の少ないうちに神木山等覚院まで歩いてツツジを見てきた。
 今年は花冷えがなかったし、ツツジも藤も牡丹も咲いている。菜種梅雨もなかった。
 ところで、原理主義者になりやすい人というのはどこにでもいるのではないかと思う。基本的には正義感の強い人なんだろうけど、気が短くてすぐに怒るし、何でも即時に解決を求める。
 人間関係が長年に渡る個々の取引の繰り返しで成り立っていて、社会の慣習も法制度も長い歴史の積み重ねにより試行錯誤を繰り返して今の形になっているのに、それを一時の感情で即座に変えなければ気の済まないという人たちだ。
 例えていえば安全運転をしている人の隣に座って、アクセルを思いきり踏み込めと怒鳴りまくる人たちだ。どこの社会でも一定数はいるが、決して多数派になることはない。
 一神教だと一直線に教義を守れという方向に行くのだろう。日本だと行く所がないから、結構右に行ったり左に行ったり右往左往する人も多い。
 右にぶれなくても、中国が世界を支配すると思えば中国崇拝者になり、イスラームが世界を席巻すると言われればイスラームになり、国連がが中心になって世界が一つになるというなら国連主義になり、バイデンがと言われればバイデンに付く。パヨクというのはそういう生き物だ。
 この感覚の何がおかしいかというと、結局彼らは戦前の日本人の意識をそのまま引きずっているところだ。つまり、世界はやがて一つになる。近代化は世界統一を廻り諸民族の相争う戦国時代に他ならない。日本は明治以降吉田松陰先生の教えのもとに勇敢に戦ってきたが、第二次大戦の敗北で決着がついた。日本は戦争に負けたのだ。だから、日本はもはや戦うことなく、ただ世界が一つになってゆく流れの中で積極的に国家を解体し、併合されなくてはならない。それが彼らの原理主義だ。だから崇拝するのは西洋でも中国でもイスラームでもいいということ。所詮は勝ち馬に乗りたいだけの日和見主義。

 それでは「蛙のみ」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   岩苔とりの篭にさげられ
 むさぼりに帛着てありく世の中は 冬文

 贅沢にも絹を着て歩く世の中は、ということだから、やはりイワヒバ取りはいい金になったのだろう。
 二十六句目。

   むさぼりに帛着てありく世の中は
 筵二枚もひろき我庵       越人

 贅沢が当たり前の世の中に俺の庵は筵二枚分の広さしかないが、それでも満足している、と。
 ただ、越人は、

   のがれたる人の許へ行とて
 みかへれば白壁いやし夕がすみ  越人

という発句を詠んでいるから、越人自身のことではない。付け句はあくまでフィクション。
 二十七句目。

   筵二枚もひろき我庵
 朝毎の露あはれさに麦作ル    旦藁

 降ってはすぐに消えて行く朝露のはかなさに発心を起こし、小さな庵に住んで麦を作る生活を始める。
 二十八句目。

   朝毎の露あはれさに麦作ル
 碁うちを送るきぬぎぬの月    野水

 この時代は本因坊道策というスターが生まれ、それに渋川春海のような強力なライバルもいて囲碁の盛り上がった時代だった。そのため底辺にはたくさんの無名な碁打ちもいたのだろう。
 いつも負けてばかりで涙の露の碁打ちに麦飯を作って送り出す。
 二十九句目。

   碁うちを送るきぬぎぬの月
 風のなき秋の日舟に網入よ    荷兮

 アゲハマならぬハマグリが取れるということか。まあ、白石は蛤から作るが。
 三十句目。

   風のなき秋の日舟に網入よ
 鳥羽の湊のおどり笑ひに     冬文

 鳥羽港はウィキペディアに、

 「江戸時代には鳥羽藩の藩庁が置かれ、城下町として発展する。また上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港することとなった。港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。この重要性は幕府も認識しており、山田奉行所の職務の1つに「鳥羽港の警備」が含まれていた。そして鳥羽港に安全に入港できるよう、延宝元年(1673年)、菅島に「御篝堂(おかがりどう)」、神島に「御燈明堂」が幕府によって設けられた。これは、日本初の公設灯台とされている[7]。」

とある。また鳥羽、

 「鳥羽の盆踊りは、町人に交じって武士も踊りの輪に加わったことから、身分を隠すために手ぬぐいや編み笠で顔を隠して踊るという独特の風習があったが、」

とある。

 二裏。
 三十一句目。

   鳥羽の湊のおどり笑ひに
 あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水

 「あらまし」は中世では「あらまほし」でこうありたいという意味だったが、後に概略の意味で用いられる容易なった。ここでは古い方の意味か。
 大原の雑魚寝は天和二年刊の西鶴の『好色一代男』で有名になっていたから行ってみたかったのだろう。実際に行ってみたらどうだったかは「見て過ぬ」とあるから当て外れか。筑摩祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「滋賀県米原市朝妻筑摩にある筑摩神社の祭礼。昔は四月八日、現在は五月八日に行なわれる。古くは、女が交渉をもった男の数だけ鍋をかぶって神幸に従い、その数をいつわれば神罰を受けるとも、また、八人の処女が鍋をかぶって神前に舞い、もし男と通じていれば鍋が割れるともいわれた。今は狩衣(かりぎぬ)、緋(ひ)の袴(はかま)をつけた八人の少女が張子の鍋をかぶって神輿に供奉(ぐぶ)する。渡御の途中、神輿を琵琶湖にかつぎ入れる。日本三奇祭の一つ。筑摩鍋祭。つくままつり。《季・夏》」

とある。

 君が代や筑摩祭も鍋一ツ     越人

はこれより後の『猿蓑』の句になる。
 大原にも行き、筑摩祭も見て、次は鳥羽の盆踊りと、お祭り男だね。
 三十二句目。

   あらましのざこね筑摩も見て過ぬ
 つらつら一期聟の名もなし    荷兮

 大原の雑魚寝も筑摩祭も結婚相手を探す場だというのに、思えば一生縁がなかった。この場合筑摩祭では鍋がゼロになるのか。
 三十三句目。

   つらつら一期聟の名もなし
 我春の若水汲に昼起て      越人

 若水は立春の朝一番に汲む水だが、昼まで寝過ごしてしまう。それと同じで気づいたら娘はとっくに婚期を逃していた。
 三十四句目。

   我春の若水汲に昼起て
 餅を喰つついはふ君が代     旦藁

 若水は昼に汲んで正月は餅が喰えて、何も言うこともない。君が代に万歳だ。
 三十五句目。

   餅を喰つついはふ君が代
 山は花所のこらずあそぶ日に   冬文

 「所のこらず」は『芭蕉七部集』の中村注に、「土地の者がこぞっての意」とある。
 山には桜が咲いて、村中みんなが遊ぶ日は餅をついて天下泰平を祝おう。
 挙句。

   山は花所のこらずあそぶ日に
 くもらずてらず雲雀鳴也     荷兮

 曇らず照らずというのは霞がかかっているということで、

 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
     朧月夜にしくものぞなき 
              大江千里(新古今集)

の歌の趣向を昼にして雲雀の声を添えて一巻は長閑に終わる。