2021年4月7日水曜日

 コロナの方は予想以上に大阪を中心とした関西の感染拡大が急激で、変異株を侮るべきではなかった。気温の上昇と紫外線量の増加の効果が変異株によって相殺されてしまうと、さらなる行動の自制が必要になる。
 四月に入って年度が替わってから、一週間がたった。次の一週間でピークアウトできないと、かなりやばいことになる。
 あと飯山陽さんの『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』で気になったのは「公共の場で顔を隠すことは基本的には認められない、というのは近代社会のルールです。」(位置no.1114)だけど、これって欧米であれだけコロナで多くの死者が出ているのにマスクをしない人が多いばかりか、マスク反対デモが起こっている原因になっているんじゃないかな。まあ、これはコロナ前に書かれた本だから、飯山さんも今は考えが変わっていると思うが。
 とにかく日本にはこんなルールはない。日本人は昔から外出するときに、吉原通いするときに覆面をしたり、女性が市女笠を被ったりしてきたし、穢多非人も覆面してたし、虚無僧も顔を隠していた。また、覆面はなくても扇子で顔を隠す仕草は網野さんが即席の覆面だと言っていた。
 今でも田舎に行けば農家のおばさんは顔を覆っているし、冬になると口元を完全に覆った上にニット帽を深くかぶって目だけ出している若者もいる。これが黒づくめだったらイスラム国の戦闘員そっくりだ。また、ウォーキングしているおばさんも大きな鍔のついたサンバイザーを下に向けて、ほとんどフェイスガードみたいにしている人もいる。もちろんコロナの前から花粉症でマスクをして歩いている人はたくさんいたし、日本では顔を隠すことはルール違反ではない。
 日本ではマスクと覆面と仮面とお面は別のものだが英語だと全部マスクになる。

 それでは「蛙のみ」の巻の続き。

 十三句目。

   解てやをかん枝むすぶ松
 咲わけの菊にはおしき白露ぞ   越人

 咲わけは一本に違う色の花が咲くこと。二色の花も珍しいのにさらに白露でその色が際立ち、もったいないくらいだ。勿論褒めて言っている。
 松の枝ぶりを作るために結んでた松の枝も、景色がいいので今日は解いてみる。
 十四句目。

   咲わけの菊にはおしき白露ぞ
 秋の和名にかかる順       旦藁

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 「源順が『和名抄』(和名類聚抄)「秋の部」の稿にとりかかったの意。」

とある。ウィキペディアに、

 「『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。」

とある。十巻本は二十四部からなり、二十巻本は三十二部からなるが、ともに草木部は最後にある。
 十五句目。

   秋の和名にかかる順
 初雁の声にみづから火を打ぬ   冬文

 夜遅くまで一人籠って執筆を続けるので、火種は常に自分で用意している。「秋の和名にかかる」に初雁の声を付ける。
 十六句目。

   初雁の声にみづから火を打ぬ
 別の月になみだあらはせ     荷兮

 前句を切り火とする。「切り火」に関しては明治に作られたという古い説もあるようだが、江戸時代に切り火が行われていたという証拠もあるという。この句も証拠にならないか。
 後朝の別れの月に初雁の声がして、切り火を切って見送る。
 十七句目。

   別の月になみだあらはせ
 跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて   旦藁

 「四の宮」は京都山科の「しのみや」か。京都を出て東海道の最初の宿である大津へ行く途中に通る。ここから山を越えると大津になる。「跡ぞ花」はここで振り返ると花の都が見えるということだろう。
 唐輪(からわ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「日本髪の一種。男女ともに結んだ。男性の唐輪は、鎌倉時代に武家の若者や寺院の稚児(ちご)などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷(まげ)に類似している。その結び方は、髪のもとを取りそろえて百会(ひゃくえ)(脳天)にあげ、そこで一結びしてから二分し、額の上に丸く輪とした。一方、女性の唐輪は、下げ髪が仕事の際に不便なので、根で一結びしてから輪につくり、その余りを根に巻き付けたもので、安土(あづち)桃山時代の天正(てんしょう)年間(1573~92)から行われた。[遠藤 武]」

とある。似たものというと「ゆるキャン△」のリンちゃんを想像すればいいかもしれない。
 また、ウィキペディアには、

 「唐輪(からわ)とは、安土桃山時代ごろ兵庫や堺などの上方の港町の遊女に好まれた女髷。」

ともある。当時としては古い風俗で、大津の遊郭だとまだ唐輪だったということか。
 幕末の浮世絵だが『観音霊験記 西国順礼』「拾四番近江三井寺 大津町杉女」に描かれて杉女が唐輪のようにも見える。
 前句の別れを都との別れにする。
 十八句目。

   跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて
 春ゆく道の笠もむつかし     野水

 唐輪だと笠がかぶりにくい。

 二表。
 十九句目。

   春ゆく道の笠もむつかし
 永き日や今朝を昨日に忘るらん  荷兮

 日が長いので今朝のことが昨日のことのように思える。笠を被り旅をするにも一日が長くて疲れる。
 二十句目。

   永き日や今朝を昨日に忘るらん
 簀の子茸生ふる五月雨の中    越人

 五月雨でじめじめしているから、簀子に茸が生えてくる。五月雨の時期は夏至に近く、一番日が長い。
 二十一日。

   簀の子茸生ふる五月雨の中
 紹鷗が瓢はありて米はなく    野水

 紹鷗(じょうおう)はウィキペディアに、

 「武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。」

とある。紹鷗茄子と呼ばれる「唐物茄子茶入」はあるが、瓢箪型の茶入も何となくありそうな、というところか。茶はあっても米はない。
 二十二句目。

   紹鷗が瓢はありて米はなく
 連歌のもとにあたるいそがし   冬文

 連歌会を催すというのはかなり金のかかることだったらしく、

 足のうて登りかねたる筑波山
     和歌の道には達者なれども

という狂歌もあった。明智光秀も連歌会をやるために妻が髪を売った。
 連歌師の招待や、それに興行は一日がかりだから、そのための会場の確保、宿泊や食事の準備、それに賞品なども出さねばならなかった。
 金もかかるし、準備することも多くて忙しい。
 二十三句目。

   連歌のもとにあたるいそがし
 瀧壺に柴押まげて音とめん    越人

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 「後鳥羽院の時、吉田家の連歌の会で、滝の音がやかましくて聞き分けられなかったので、藤原為教が山から柴を折って滝の滝口を塞ぎ静かになったという故事。」

とある。ウィキペディアには、

 「時期は不明であるが頓阿『井蛙抄』には、西園寺別邸の吉田泉殿で催された連歌会へ為家は為教を伴い伺候し、滝の音が耳障りであったところを為教が機転を効かせて滝を塞いだという逸話を記している。(辨内侍日記)」

とある。
 なお、為教は嘉禄三年(一二二七年)の生まれなので、後鳥羽院の時代ではない。後嵯峨院の時代だと思う。
 本説を取る場合は少し変えるので、滝口を塞いだというところを瀧壺を塞いだことにしている。
 二十四句目

   瀧壺に柴押まげて音とめん
 岩苔とりの篭にさげられ     旦藁

 岩苔は『芭蕉七部集』の中村注に岩檜葉(イワヒバ)とある。江戸時代には盆栽として好まれ、たくさんの園芸品種が作られた。
 瀧壺のそばで危険を冒してでもイワヒバと取る人がいたのだろう。

2021年4月6日火曜日

  今日は晴れの予報だったが一日曇りでやや寒かった。染井吉野はすっかり葉桜になっていた。
 「蝦蟇」を調べるついでに「児雷也」を調べてたら、歌川国貞の一八五二年の「自来也」という絵の背景に海から上る旭日旗上の朝日(上半分)が描かれているのを見つけた。前に見つけた「要石鹿島大尽」が安政江戸地震の頃だとすれば、それより古いことになる。
 あと、鈴呂屋書庫に延宝七年の「須磨ぞ秋」の巻をアップしたのでよろしく。
 さて引き続き『春の日』の歌仙をいってみよう。
 三月十六日に旦藁が田家で興行されたもので、途中夜遅くなって中断し、続きを十九日荷兮亭で行われている。
 発句は

   三月十六日旦藁が田家に
   とまりて
 蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな 野水

で、田んぼの真ん中にあった旦藁亭で一泊したのだろう。そこらかしこから蛙の声が聞こえる中で寝入り、目覚め、これは「ゆゆしき」というわけだ。
 「ゆゆし」はweblio古語辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「①おそれ多い。はばかられる。神聖だ。
  出典万葉集 一九九
  「かけまくもゆゆしきかも言はまくもあやにかしこき明日香(あすか)の真神(まかみ)の原に」
  [訳] 心にかけて思うのもはばかられることよ、口に出して言うのもまことにおそれ多い明日香の真神の原に。
  ②不吉だ。忌まわしい。縁起が悪い。
  出典更級日記 大納言殿の姫君
  「たちいづる天の川辺のゆかしさに常はゆゆしきことも忘れぬ」
  [訳] (牽牛(けんぎゆう)と織女が)出会う天の川辺に心が引かれて、いつもは不吉なことも(今日は)忘れてしまった。
  ③甚だしい。ひととおりでない。ひどい。とんでもない。
  出典徒然草 二三六
  「おのおの拝みて、ゆゆしく信起こしたり」
  [訳] 各人それぞれが拝んで甚だしく信仰心を起こした。
  ④すばらしい。りっぱだ。
  出典徒然草 一
  「徒人(ただびと)も、舎人(とねり)など賜る際(きは)はゆゆしと見ゆ」
  [訳] ふつうの貴族でも、随身などを(朝廷から)いただくような身分の人は、すばらしいと思われる。」

と多義だが、基本的には本来忌むべきものだったのが逆の意味に転用された言葉で、「いみじ」「すごし」などと同様だ。今の感覚だと「蛙のみききてやばい寝覚めかな」と言った方がわかりやすいかもしれない。もちろん発句は挨拶だから、褒めて言っている。
 脇は亭主の旦藁が付ける。

   蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな
 額にあたるはる雨のもり     旦藁

 雨漏りがして額に当たったでしょうと、いかに粗末な家であるか謙遜して言う。
 第三。

   額にあたるはる雨のもり
 蕨煮る岩木の臭き宿かりて    越人

 「岩木」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 岩石と樹木。
  2 感情を持たないもののたとえ。木石(ぼくせき)。
  「だれが―だと思うもんか」〈逍遥・当世書生気質〉
  3 亜炭の古称。」

とある。2ではないのは明らかだが、1でもない。となると、これは3の亜炭ということになる。
 亜炭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (石炭に亜(つ)ぐ意) 炭化度の低い石炭の一つ。褐色または黒褐色で木質組織を残しているものもある。主として第三紀地層中に存在。亜褐炭。磐木(いわき)。」

とある。亜炭は日本のあちこちで産出したもので、名古屋でもかつて亜炭の採掘がおこなわれていた。といってもそれは近代のことで、江戸時代に果して亜炭が用いられていたかどうかということになる。
 名古屋ではないが宮城の名取川の埋れ木は古代から燃料として用いられ、

 名取川瀬々の埋れ木あらはれば
     いかにせむとかあひ見そめけむ
              よみ人しらず(古今集)

と歌にも詠まれてきた。ウィキペディアには「名取川の埋れ木を香炉の灰として使用するのが都で流行し、最高級の灰として珍重された。」とある。
 つまり亜炭は古代から知られていた。そのため似たようなものが容易に入手できるなら他の地方でも用いられた可能性は十分にある。
 ただ、名取川以外のものは品質に問題があったのだろう。この句でも「岩木の臭き」とあるように、その多くは硫化水素などの匂いがきつくて、一般にはあまり用いられることなく、ただ、拾ってきて使える所で細々と使われていと考えればいいのではないかと思う。
 少なくとも宝暦二年(一七五二年)に『張州府志』には長久手と高針で亜炭が取れたことが記録されているという。
 第三は発句の情を離れるので、岩木で蕨を似ていたのは旦藁の家ではない。ただ、岩木の使用はこの連衆の間では共有されてて、おそらく名古屋の「あるある」だったのではないかと思う。
 四句目。

   蕨煮る岩木の臭き宿かりて
 まじまじ人をみたる馬の子    荷兮

 岩木を燃やす宿には馬の子がいて、人をまじまじと見ている。街道の宿なら乗り掛け馬がいるから、その仔馬がいてもおかしくはない。
 五句目。

   まじまじ人をみたる馬の子
 立てのる渡しの舟の月影に    冬文

 名古屋で渡し舟というと七里の渡しがある。
 時代は下るが歌川広重『五十三次名所図会・桑名 七里の渡舩』を見ると、大きな船では座っている人が多いが立っている人もいる。その手前の小さな船には立って櫓を押す人と立って乗っている人がいる。『東海道名所図会 桑名渡口』も同様だ。
 はっきりとしたことは言えないが、渡し船に立って乗ることはあったのではないかと思う。月明りに仔馬が一緒に乗っていてこっちを見ているのが見える。
 六句目。

   立てのる渡しの舟の月影に
 芦の穂を摺る傘の端       執筆

 渡し舟は芦の中を進むので、唐傘が芦の穂をかすめることもあった。

 初裏。
 七句目。

   芦の穂を摺る傘の端
 磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて   旦藁

 施餓鬼はウィキペディアに、

 「施餓鬼(せがき)とは、仏教における法会の名称である。または、施餓鬼会(せがきえ)の略称。」

 「日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。
 水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。」

とある。この場合は川施餓鬼と思われるが、施餓鬼は秋の季語で、ここでも秋として扱われている。
 八句目。

   磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて
 岩のあひより蔵みゆる里     野水

 漁村でも裕福な漁村もあるのだろう。大漁続きなら蔵も立つ。ただ、自然任せなので浮き沈みが激しいし、海難の危険にも常にさらされているから、施餓鬼の僧が集まっている。
 九句目。

   岩のあひより蔵みゆる里
 雨の日も瓶焼やらん煙たつ    荷兮

 蔵が立っているのは陶芸の里だった。
 十句目。

   雨の日も瓶焼やらん煙たつ
 ひだるき事も旅の一つに     越人

 腹が減っていると瓶を焼く煙も何かおいしいもの焼いているように見えてくる。それも旅の一つ。越人のキャラはひょっとして「うっかり八兵衛」?
 十一句目。

   ひだるき事も旅の一つに
 尋よる坊主は住まず錠おりて   野水

 食うものや夜寝る所に困ったら、とりあえずお寺に厄介になろうというのはあったのだろう。残念ながら留守だった。
 十二句目。

   尋よる坊主は住まず錠おりて
 解てやをかん枝むすぶ松     冬文

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 「再会を希うための松の枝をわがね結ぶ古代の習慣。」

とある。コトバンクの「世界大百科事典内の結び松の言及」に、

 「…太平洋に注ぐ南部川の河口部に位置し,流域に平地が広がる。西部海岸沿いの岩代(いわしろ)は,謀反の罪で捕らえられた有間皇子が〈磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び……〉(《万葉集》巻二)と詠んだ地で,そのゆかりの〈結び松〉が植えつがれている。南部川下流域一帯には平安末期から中世にかけて南部荘があった。…」

とある。江戸時代には廃れていた習慣だと思うが、岩代の結び松は紀州熊野道の名所として知られていたのだろう。前句を巡礼の旅とする。
 このあと、

   今宵は更たりとてやみぬ
   同十九日荷兮室にて

とあり、続きは十九日ということになる。
 発句では「寝覚かな」とあるから午前中から興行が始まったのだろう。それにしては時間がかかりすぎだ。実際には夜になってから始めたか。

2021年4月5日月曜日

 今日は一日雨。
 豊田章男は電気自動車の問題点ばかり言わないで、電気がないなら作っちゃえばいいじゃないかと思うよ。トヨタが発電事業に参入すれば問題解決。天下のトヨタが動けば日本は変えられる。それくらいの力あるんじゃないかなあ。

 それでは「なら坂や」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   ものごと無我によき隣也
 朝夕の若葉のために枸杞うへて  荷兮

 枸杞の葉は「日本農業新聞」2010年11月24日の記事に、

 「枸杞葉にはベタイン、ルチン、ビタミンCが豊富に含まれています。5~10グラムをせんじて服用すれば、高血圧症に効き目があります。若い葉をさっとゆでて塩で味を付けて刻み、ご飯に炊き込んだクコ飯は、強壮効果が期待できます。」

とある。お隣さんは健康に気を使う人のようだ。
 二十六句目。

   朝夕の若葉のために枸杞うへて
 宮古に廿日はやき麦の粉     羽笠

 「廿日はやき」が何に対して二十日早いかよくわからない。ひょっとしたら都では、貞享二年に制定された貞享暦七十二候の麦秋至(むぎのときいたる)よりも二十日も早く麦の粉が売られているということか。温暖な地方から早めに取れた麦が届く。
 二十七句目。

   宮古に廿日はやき麦の粉
 一夜かる宿は馬かふ寺なれや   野水

 麦の粉がやたら早く入荷されているから、このお寺の宿は馬でも飼っているのか。
 二十八句目。

   一夜かる宿は馬かふ寺なれや
 こは魂まつるきさらぎの月    旦藁

 『芭蕉七部集』の注に、

 「『増山井』に『なき魂来ますといふ事一年に数多度あるなれど云々』とある。年に六度(二月十五日、五月十五日、七月十四日、八月十五日、九月十六日、十二月二十日)という。」

とある。如月の望月に魂を祭る寺がある理由はこれでわかるが、馬との関係はよくわからない。
 二十九句目。

   こは魂まつるきさらぎの月
 陽炎のもえのこりたる夫婦にて  越人

 陽炎は死者の魂を暗示させる言葉で、親を亡くしてしまったのだろう。如月の月に魂を祭る。
 三十句目。

   陽炎のもえのこりたる夫婦にて
 春雨袖に御哥いただく      荷兮

 陽炎に春雨というと、

 かげろふのそれかあらぬか春雨の
     ふるひとなれば袖ぞ濡れぬる
             よみ人しらず(古今集)

の歌が本歌になる。「ふるひと」は「降る日と」と「古人」とを掛けている。
 御哥はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 他人の歌を敬っていう語。
  2 天皇・皇后や皇族の作歌の敬称。御製(ぎょせい)。」

とある。
 陛下から追悼の歌を贈られ、悲しさと有難さの両方に春雨の袖となる。

 二裏。
 三十一句目。

   春雨袖に御哥いただく
 田を持て花みる里に生けり    羽笠

 自分の田んぼが持てる家に生まれたというのは、それだけでラッキーなことだ。まして花見る里に領主様か何かから歌まで賜って、袖を涙の春雨にするほど有難い。
 三十二句目。

   田を持て花みる里に生けり
 力の筋をつぎし中の子      野水

 前句の「生まれけり」を中の子のこととする。親譲りの強健で体力に恵まれている。
 三十三句目。

   力の筋をつぎし中の子
 漣や三井の末寺の跡とりに    旦藁

 「力の筋」はここでは有力者の筋ということか。今は末寺だが格上げを計る。
 三十四句目。

   漣や三井の末寺の跡とりに
 高びくのみぞ雪の山々      越人

 「たかびく」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「《「たかびく」とも》高いことと低いこと。また、高い所と低い所とがあって平らでないこと。でこぼこ。こうてい。「高低のある道」

とある。
 三井寺の向こうに見える琵琶湖を取り囲む山々は高いの低いのあって凸凹としていて雪を抱いている。
 三十五句目。

   高びくのみぞ雪の山々
 見つけたり廿九日の月さむき   荷兮

 二十九日の東のギザギザした山の上にかすかに末の二日月が昇る。中々見れるものではない。

 こがらしに二日の月のふきちるか 荷兮

は『阿羅野』の句で、このあとに詠むことになる。二十九日の月は付句道具で二日の月は発句道具ということか。
 挙句。

   見つけたり廿九日の月さむき
 君のつとめに氷ふみわけ     羽笠

 主人が朝の読経をするのに氷を踏み分けてお伴する。明け方の空に二十九日の月が見える。
 冬が二句続いた後の挙句ということで、釈教に転じることで目出度いというよりは殊勝に締めくくったとでもいうべきだろう。

2021年4月4日日曜日

 今日は曇りで時折強い風が吹いた。夕方から雨になった。
 飯山陽さんの『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相 』を読み終えた。一つ思うのは、楊海英さんもそうだけど、日本の大学は極めて特殊な世界で、そこでの常識というのはそんなに世間には広まってないから安心してほしい。
 イスラム国を支持したやつなんてパヨク以外にいないし、つかまったり殺されたりしたやつはみんな馬鹿だと思ってるよ。ある大工さんが「丸腰で組事務所に乗り込むようなもんだ」と言ってた。
 続けて『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』 (河出新書)も読み始めた。イスラム原理主義と日本のいわゆるパヨクとの関連はやはり明確なように思える。大学というところがそうした連中のアジールになってるのは確かだろう。学術会議の問題もそこから理解しなくてはなるまい。穏健派ムスリムも日本のパヨクをもっと警戒すべきだと思う。
 パヨクは左翼の中でも主にネット上に巣食う勢力で、彼らは従来の科学的社会主義に反旗を翻した新左翼の系譜を引いているマルクス原理主義者で、ネットを通じて主張を過激化させている。日本の社会の中では少数派で行動は制限されているため、暴力などの過激な行動はしていないが、彼らは外国に日本に関する嘘の情報を広め、外国人を過激化させようとしてきた。韓国や中国に対しての工作はわかりやすかったが、ムスリムを過激化させてたことはやはり見過ごされてきた。
 科学的社会主義はとっくに破綻しているし、また彼らは哲学に立脚しているわけですらない。ドイツのマルクス・ガブリエルが図らずも暴露したように、今のマルクス主義は形而上学にすら根拠を持つことができない。ただ、情緒的な道徳意識だけで科学も哲学も無視してすべてを正当化している。
 彼らは基本的には日本に革命を起こすことを至上命題としていて、そのためなら欧米のマルキストやリベラルだけでなく、中国や韓国の反日勢力やイスラム原理主義とも手を組み、日本の政治や経済を破綻させようとあの手この手を尽くしている。
 危険なのは彼らは大学だけでなく教育現場や官僚や司法、それにマスコミに深く潜り込んでいるということだ。
 それと彼らに対するときに注意しなくてはいけないのは、彼らを動かしているのは理論でも思想でもなく、あくまで情緒で動いているということだ。そのため論理的批判は一般人に対しては有効だが彼らには何の意味もなさない。
 対処法としては彼らはとにかく道徳感情に訴えて怒りの感情を起こさせようとする。だから、彼らがどのようなことを言っても決して一緒になって怒らないということが大事だ。感情的に彼らの怒りに共感してしまったら負けだ。クールになれ。

 それでは「なら坂や」の巻の続き。

 十三句目。

   何やら聞ん我国の声
 旅衣あたまばかりを蚊やかりて  羽笠

 首から上を覆う短い虫垂れのことか。女性の旅衣になる。
 十四句目。

   旅衣あたまばかりを蚊やかりて
 萩ふみたをす万日のはら     野水

 万日は万日回向(まんにちえこう)のこと。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、一日参詣すると万日分の功徳に値するとされた特定の日。また、その日の法会。浄土宗の寺院に多く行なわれた。万日。
  ※咄本・軽口露がはなし(1691)三「夫婦づれにて百万辺の万日ゑかうに参るとて」

とある。
 万日回向の時は人が大勢来るし、その中には遠くから来る女性も多い。ただ、人が多すぎて無残にも萩が踏み倒されてゆく。
 十五句目。

   萩ふみたをす万日のはら
 里人に薦を施す秋の雨      越人

 薦(こも)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 マコモを粗く編んだむしろ。現在は多く、わらを用いる。こもむしろ。「荷車に薦を掛ける」
  2 「薦被(こもかぶ)り2」の略。おこも。
  3 (「虚無」とも書く)「薦僧(こもそう)」の略。
  4 マコモの古名。
  「心ざし深き汀(みぎは)に刈る―は千年(ちとせ)の五月いつか忘れむ」〈拾遺・雑賀〉」

とある。万日回向の日に急に雨が降ってきたので、薦を配って雨をしのいでもらう。
 十六句目。

   里人に薦を施す秋の雨
 月なき浪に重石をく橋      羽笠

 秋の雨は台風か何かで水害を起こす恐れがある。橋の上に重石を置いて流れないようにし、里人には薦を配り土嚢を作らせる。
 十七句目。

   月なき浪に重石をく橋
 ころびたる木の根に花の鮎とらん 野水

 「花の鮎」は鮎子のことであろう。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の鮎子(春)のところに、

 「[和漢三才図会]二三月の初、江海の交(あはひ)に在て、大さ一二寸、いまだ鱗骨を生ぜず、潔白。ただ黒眼をみるのみ。呼んで小鮎、若鮎と云。」

とある。白くて小さいところが桜に似ているということで花の鮎としたのではないかと思う。
 月のない夜は真っ暗で、木の根につまずいて転ぶと、橋の下に重石を置いて筌(うけ、うえ)を仕掛ける。筌は別名「もんどり」とも言う。もんどりを打って倒れたところでもんどりを仕掛ける。
 十八句目。

   ころびたる木の根に花の鮎とらん
 諷尽せる春の湯の山       旦藁

 「諷尽せる」は今は廃曲となっている謡曲『鼓瀧』か。桜の季節の有馬温泉が舞台となっている。

 二表。
 十九句目。

   諷尽せる春の湯の山
 のどけしや筑紫の袂伊勢の帯   越人

 有馬温泉には筑紫の人も伊勢の人も療養に訪れる。そして、ともに春の長閑さを分かち合う。
 二十句目。

   のどけしや筑紫の袂伊勢の帯
 内侍のえらぶ代々の眉の図    荷兮

 眉の図は唐の玄宗の「十眉図」以来、墨で眉を描くためのその時代時代で眉の見本図が作られてきた。
 内侍(ないし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 令制で、内侍司(ないしのつかさ)の女官の総称。古くは、内侍所にも奉仕した。
  ※万葉(8C後)一九・四二六八・題詞「黄葉沢蘭一株抜取令レ持二内侍佐々貴山君一」
  ② 「ないし(内侍)のじょう」の略。
  ※九暦‐九条殿記・五月節・天慶七年(944)三月二日「内侍二人持二侍御剣・契御筥等一」
  ③ 斎宮寮(さいぐうりょう)の女官の一つ。
  ※源氏(1001‐14頃)澪標「女別当・内侍などいふ人々」
  ※古今著聞集(1254)一「荒祭宮、斎宮の内侍に御詫宣あり」
  ④ 安芸国(広島県)厳島神社に奉仕した巫女(みこ)。
  ※梁塵秘抄口伝集(12C後)一〇「安芸の厳島へ、建春門院に相具して参る事ありき。〈略〉その国の内侍二人、くろ、釈迦なり」

とある。どの内侍だかはわからないが、筑紫の袂に伊勢の帯に眉の形を選んで華やかに着飾る。
 二十一句目。

   内侍のえらぶ代々の眉の図
 物おもふ軍の中は片わきに    羽笠

 『芭蕉七部集』の注に、「新田義貞、匂当内侍の俤なりと。(七部大鏡)」とある。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)のことか。匂当内侍はウィキペディアに、

 「建武3年(1336年)初頭、新田義貞は建武政権から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れたが、2月から3月にかけて義貞は尊氏追撃を行わなかった。その理由として、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとして、彼女が結果的に義貞の滅亡の遠因を作ったとする描き方がされている。
 その後、尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、新田義貞は恒良親王らを奉じて北陸地方へ逃れた。『太平記』よると、琵琶湖畔の今堅田において別れ、京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は新田義貞に招かれ北陸へ向かった。
 しかし義貞は足利軍の攻勢により延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日に越前国で戦死した(藤島の戦い)。」

とある。軍の時に片脇に置こうとしたが果たせなかったようだ。
 二十二句目。

   物おもふ軍の中は片わきに
 名もかち栗とぢぢ申上ゲ     野水

 かち栗はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「くりの実を殻のまま乾かすか,火に当てて乾かしたものを,臼で搗 (か) いて殻と渋皮をとった食物。「搗つ (臼でつくこと) 」と「勝つ」が共通するところから,縁起をかついで古くは出陣祝いに供された。」

とある。
 軍の時に爺が持っていけといって渡された搗栗(かちぐり)を片脇に抱えては、爺のことを気にかける。
 二十三句目。

   名もかち栗とぢぢ申上ゲ
 大年は念仏となふる恵美酒棚   旦藁

 恵美酒は姫路市飾磨区にこの字を書く地名があるが、ここでは普通に恵比寿様のことだろう。神無月の恵比寿講に用いた祭壇を大晦日に歳神様を迎える恵方棚に流用する。搗栗を供える。
 二十四句目。

   大年は念仏となふる恵美酒棚
 ものごと無我によき隣也     越人

 「無我」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (anātman の訳) 仏語。我(われ)というとらわれを離れること。また、不変の実体である我(が)は存在しないとすること。⇔我。
  ※秘蔵宝鑰(830頃)中「第四唯薀無我心〈略〉存レ法故唯薀。遮レ人故無我。簡持為レ義故唯」 〔龍樹菩薩為禅陀迦王説法要偈〕
  ② (形動) 我意のないこと。無心であること。
 ※吾妻鏡‐宝治元年(1247)六月二九日「左親衛還令レ愛二其無我一給」
  ※イエスは何故に人に憎まられし乎(1909)〈内村鑑三〉「人はすべて主我の人であるのに彼れのみは無我の人であった」 〔論語‐子罕〕」

とある。ここでは物事に頓着しないというような意味か。

2021年4月3日土曜日

 近所では八重桜やツツジやアメリカハナミズキが咲き初め、そろそろ春も暮のような気分になるが、まだ如月。コロナは東京よりも大阪になってきて、あれが変異株の実力なのか。
 何かイスラモフォビアの戦略が日本の左翼とそっくりなところが気になるね。案外連合赤軍が入れ知恵したのかも。自爆テロも日本人がやったことだし。
 西洋の植民地支配から脱して誕生したイスラム諸国が、西洋と対等になるかそれ以上になりたいと思ったとき、最初は西洋の良いところを取り入れてという明治の日本のような方向性もあったんだろうと思う。ただ、なかなか追いつけなくてその希望が失われてくると、今度は西洋文明を破壊するというか、それができるという幻想が広まり、それが原理主義を生んできたのではないかと思う。彼らがよりどころにしたのはその欧米にありながら資本主義は終わると言っている人たちで、彼らと共闘すれば勝てると思ったのでは。
 イスラム圏が今後どのような動きをするかは、結局ムスリムの決めることだから見守るしかないけど、イスラム教と持続可能資本主義とを両立させる方法はあると思う。持続可能資本主義の実現をジハードに取り入れる方が、闇雲に西洋文明をぶっ壊すより現実的だと思う。もちろん非西洋文化圏である日本もそれを目指す必要がある。科学と経済は世界の共通言語だからそれを制する者が世界を制する。イデオロギーでは天下は取れない。
 あと、ジハードという点では中国はこれから最も強力な敵になる可能性があるのだから、反米反キリストを理由に手を取るようなことはしない方がいい。今のウイグルで起きていることはやがてすべてのイスラム圏に広がる可能性がある。今の中国政府は残忍で容赦ない。手を結ぶにしても今日の味方は明日の敵くらいに思っておいた方がいい。

 さて、それでは『春の日』の続きということで、また俳諧の方を読んでいくことにする。
 発句は、

   三月六日野水亭にて
 なら坂や畑うつ山の八重桜    旦藁

 場所も日付も前書きに明示されている。
 ただ、名古屋での興行だけど、発句は奈良坂で旅体になっている。旦藁が奈良の方を旅してたのか、事情はよくわからない。芭蕉同座の時にはあまりないが、発句が当座の興にならないことも稀にあるということか。
 奈良坂はこのじだいだと奈良街道の元明天皇陵の東側を越えて般若寺から正倉院の方へ降りる道のことだろう。今でも地名が奈良阪町になっている。
 小高い山なので当時は辺りに畑があり、八重桜も植えられていたのだろう。八重桜というと百人一首でもおなじみの、

 いにしへの奈良の都の八重桜
     けふ九重ににほひぬるかな
              伊勢大輔(詞花集)

の歌が思い浮かぶ。

季語は「八重桜」で春、植物、木類。「なら坂」は名所。「山」は山類。
 脇。

   なら坂や畑うつ山の八重桜
 おもしろふかすむかたがたの鐘  野水

 奈良というと、

 ほのぼのと春こそ空に来にけらし
     天の香具山霞たなびく
              後鳥羽院(新古今集)

の歌も思い浮かぶ。奈良だからお寺がたくさんあって、さぞかしあちこちから鐘の音が聞こえてくることだろう、と発句に同意する形で受ける。
 第三。

   おもしろふかすむかたがたの鐘
 春の旅節供なるらん袴着て    荷兮

 春で節句といえば三月上巳(じょうし)の桃の節句で、旅の途中できちんと袴を着ている人を見ると節句なんだなと思う。
 四句目。

   春の旅節供なるらん袴着て
 口すすぐべき清水ながるる    越人

 節句なので口をすすぎ、身を清める。旅の途中なので清水で口をすすぐことになる。
 五句目。

   口すすぐべき清水ながるる
 松風にたをれぬ程の酒の酔    羽笠

 口をすすぐのを酔い覚ましのためだとする。
 六句目。

   松風にたをれぬ程の酒の酔
 売のこしたる虫はなつ月     執筆

 表にまだ月が出てなかったので、執筆がぎりぎりで六句目に月を出す。
 虫売りはコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」

 「江戸時代には6月ころから,市松模様の屋台にさまざまな虫籠をつけた虫売が街にあらわれ,江戸の風物詩の一つであった。《守貞漫稿》には,〈蛍を第一とし,蟋蟀(こおろぎ),松虫,鈴虫,轡虫(くつわむし),玉虫,蜩(ひぐらし)等声を賞する者を売る。虫籠の製京坂麁也。江戸精製,扇形,船形等種々の籠を用ふ。蓋(けだし)虫うりは専ら此屋体を路傍に居て売る也。巡り売ることを稀とす〉とある。虫売は6月上旬から7月の盆までの商売で,江戸では盆には飼っていた虫を放す習慣だったので盆以後は売れなくなったという。」

とある。
 前句の酒の酔いをお盆の夜のこととして、売残した虫を放つ。

 初裏。
 七句目。

   売のこしたる虫はなつ月
 笠白き太秦祭過にけり      野水

 太秦の牛祭りのことで九月十二日に行われる。今は白ずくめの衣装にお面を被り、白い冠のようなものを被っているが、時代によって衣装は変化してきたのだろう。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「寺中の行者、紙衣を着、牛に乗りて上宮王院の前に出、祭文を読誦する。」とある。
 貞享の頃には白い笠を被っていたのだろう。祭りがあると縁日に露店が並び、そこで季節的に松虫や鈴虫を売っていたのだろう。ただ、季節的に遅く、この祭りが終わったら売れ残った虫を放つ。
 八句目。

   笠白き太秦祭過にけり
 菊ある垣によい子見ておく    旦藁

 祭りといえば可愛い娘との出会いもある。菊を見るふりをして品定めする。
 九句目。

   菊ある垣によい子見ておく
 表町ゆづりて二人髪剃ん     越人

 男二人が月代を剃っているところだろう。噂に菊ある垣根の娘のことを話題にする。
 髭と一緒で毎日剃らないとすぐ毛が生えてきたんだろうな。
 十句目。

   表町ゆづりて二人髪剃ん
 暁いかに車ゆくすじ       荷兮

 髪を剃るのは毎朝の日課なのだろう。表町の道筋は荷車が通る。
 十一句目。

   暁いかに車ゆくすじ
 鱈負ふて大津の濱に入にけり   旦藁

 棒鱈は蝦夷や東北で作られ、それをで若狭湾に運び、陸路で琵琶湖の北岸に運び、そこから鱈船と呼ばれる船でで琵琶湖を縦断し、大津の港に上がる。そこからまたいろいろなところに運ばれてゆく。
 李由・許六編『韻塞』(元禄九年刊)に、

 鱈船や比良より北は雪げしき   李由

の発句がある。
 十二句目。

   鱈負ふて大津の濱に入にけり
 何やら聞ん我国の声       越人

 大津の港にはいろいろなところから船が集まるので、船乗りたちのいろいろな方言が聞こえる。その中にはなじみのある自分の故郷の言葉も混じっている。

2021年4月2日金曜日

 飯山陽さんの『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相 』を読み始めた。途中までの感想だが、イスラム教に限らず一神教というのは基本的に世界征服の宗教だと思う。他の神を認めないなら、結局他の神を滅ぼすしかない。そこが多神教と違うところだ。だからこの世から本当に神が一つになるまで戦い続けなくてはならない。それはキリスト教もユダヤ教もマルクス主義も基本的に一緒だと思う。
 ただ、彼らが建前としては戦わなくてはならないにしても、実際に一人の人間としては、平和で何不自由のない生活が送れたならそれで十分と思う。そこで一神教の文化というのは原理主義と世俗主義の間でいつも揺れ動いているのではないかと思う。まあ、ある意味「適当」であることによって成り立っていると言っていい。
 だから日本人としてなすべきことは、彼らに世俗主義の夢を広げることだ。何も今すぐに神の国を作らなくても、目標を先延ばしにし続けることで、今の人生を十分謳歌することができる。そして世俗主義においては誰でも平和共存できるということだ。多神教の風土に育ちながら、既に神の名を忘れた日本人こそが究極の世俗主義者だからだ。
 逆に言えば反日的な人たち(リベラル)というのは一神教なら何でもいいと思ってるんじゃないかな。キリスト教でもマルクス主義でもイスラム教でも、一神教なら日本を否定できる。どれでもいいという時点で結局多神教徒なのだけれど。
 戦後の左翼は科学的社会主義の破綻から、新左翼の一部は神秘主義に活路を求めるようになった。マルクス主義とイスラム原理主義のかかわりはそのころからで、テルアビブ乱射事件や連合赤軍の中東潜伏のころからのつながりがあった。まあ、同じような人たちというのはヨーロッパにもいるんだろうな。あの有名なドイツのパヨチンの名前も挙がっていたし。
 筆者は文化的多元主義を否定しないし、文化的多様性はマストだと思っている。なぜならば、それを否定したら日本の文化の独自性も主張できなくなるからだ。ただ、文化的多元主義を実現するには「棲み分け」が不可欠だと主張しているにすぎない。
 例えて言えば、車が右側を走るべきか左側を走るべきかははっきり言ってどっちでもいいんだ。ただ一つの地域で両方ルールを共存させることはできない。文化もそういうもので、一つの地域で相反する複数のルールを認めることはできない。だから文化的多様性を守るには棲み分けるしかない。
 日本はヒジャブを禁止していないし、する必要もない。だからといって別に奨励しているわけでもない。ヒジャブの問題はムスリムが考える問題で、我々が判断することではない。そこは進歩的なムスリムに頑張ってもらうしかない。ファラオの割礼もエジプトの女性が決めることだ。

 それでは『春の日』春の発句の続き。

12,朝日二分柳の動く匂ひかな    荷兮

 柳の句になることで、これは歳旦ではない。「二分(にぶ)」というのがわかりにくいが、十分の二、つまり今の二割のことで、風に動く柳の二十パーセントは朝日が動かしている、ということか。
 古語の「にほひ」は嗅覚に限らない。揺れる柳の美しさの八割は風、二割は朝日によるものとする。

13,先明て野の末ひくき霞哉     荷兮

 朝日が射して野原の向こうに低くたなびく霞が現れる。山に詠むことの多い霞を地平線に詠む。

14,芹摘とてこけて酒なき瓢哉    旦藁

 芹を肴に酒を飲もうと思ったらこけて、酒がこぼれてなくなった。ショートコントのような句だ。物を拾おうとしてランドセルから教科書が落ちるような「あるある」だったのかもしれない。

   のがれたる人の許へ行とて
15,みかへれば白壁いやし夕がすみ  越人

 世を遁れた隠者の所へ行こうとすると、自分の家の立派な白壁が卑しく思えてくる。「夕がすみ」の下五は落日の無常を暗示させる。「いやし」と言うところのややあざとい感じが越人のキャラでもある。
 「のがれたる人」は芭蕉のことだとする説もある。芭蕉のことをほのめかして次の句につなぐという配列だったのかもしれない。

16,古池や蛙飛こむ水のをと     芭蕉

 あまりに有名すぎる句だ。配列的には前句の「白壁」に古池の寂びた雰囲気が対照的で、この句を引き立てている。
 放置され荒れ放題になった古池に、何やら出るのではないかと不安にさせられる中、じゃぼっという水の音に一瞬ビクッとさせられる。どうやら蛙だったようだ。
 天和の終わりごろに「山吹や」という上五で作られた句で、後に「古池や」の五文字に改められた。
 山吹やの上五だと、古今集などの和歌に詠まれた井出の玉水の山吹と蛙になるが、それでは古典にべったりなのが気になっていたのだろう。
 古池やの五文字にすることで、当時どこにでも見ることができた廃墟などの放置された古池に、在原業平の「月やあらぬ」の情を喚起することができるようになった。不易の情を古典の題材ではなく現在の身近な「あるある」で表したことに、この句の革新性があった。
 井出の山吹の蛙は、当時にあっては古典の素養として誰もが知るものだったにしても、実際に井出へ行ってそれを見たという人はまず限られていたし、ほとんどの人にとってはあくまで想像上の井出の山吹の蛙にすぎなかった。古池やの五文字を置くことで、読者のそれぞれの実体験を重ね合わせることができた。

17,傘張の睡リ胡蝶のやどり哉    重五

 傘張(かさはり)というと傘張牢人が連想されるが、当時の傘は高価でいい仕事になってたらしい。
 途中で居眠りしていると傘の下に胡蝶がとまる。

18,山や花墻根墻根の酒ばやし    亀洞

 山には桜が咲き、あちこちで山の桜を見ながら酒宴が行われている。

19,花にうづもれて夢より直に死んかな 越人

 これは言わずと知れた、

  願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ
            西行法師(山家集)

の歌によるもので、「夢より直に」と長い夢から覚めるみたいに死ねたらなと願う。
 「酔生夢死」という言葉は本来否定的な意味に用いられるものだが、別に何か立派なことをしなくても人生を楽しく過ごしたいという本音が表れている。共感する人も多いと思う。

   春野吟
20,足跡に櫻を曲る庵二つ      杜国

 「庵二つ」は、

 さびしさに堪へたる人のまたもあれな
     庵ならべむ冬の山里
            西行法師(新古今集)

の歌による。
 足跡が桜の方に曲がっている庵が二つある、ということ。西行さんが吉野の西行庵に住んでいたことにも思いを寄せて、ここにも西行ファンが二人いるということか。二軒ある庵はいずれも桜の花が植えられている。
 きっと二人とも「願はくは花の下にて」なんて思っているのだろう。
 春野吟と前書きがあるのは、庵二つを傍目に見るという意味。自称に非ず。

21,麓寺かくれぬものはさくらかな  李風

 麓に寺があっても普段あまり気に留めないが、桜が咲くとそこだけ目立ち、ああこんなところにお寺があったのか、今まで気づかなかったな、とそう言って、花見の人も集まってくる。

22,榎木まで櫻の遠きながめかな   荷兮

 榎は一里塚に植える木で、貞享二年三月の熱田で芭蕉を送る、

 つくづくと榎の花の袖にちる     桐葉

を発句とする歌仙興行があった。
 遠くの山にある桜は次の一里塚まで行っても相変わらず遠い。

   餞別
23,藤の花ただうつぶいて別哉    越人

 「藤」は「臥す」に通じる。ここではこうべを臥す。時期的に一年前の芭蕉への餞別だったか。

24,山畑の茶つみぞかざす夕日かな  重五

 茶畑は山の中腹や上の方にも作られる。峠道、特に小夜の中山越えの道は昔から茶畑が多く、『野ざらし紀行』の旅の時でも芭蕉は、

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり    芭蕉

の句を詠んでいる。
 春の終わりともなると茶摘みをする姿が見られ、それを夕日に手をかざしながらチラ見する。さすがにじろじろ見るのは失礼だ。

25,蚊ひとつに寐られぬ夜半ぞ春の暮 重五

 春というと眠たいものだが、一匹の蚊に寝られなくなるところに、春も終わり夏が来るのが感じられる。

2021年4月1日木曜日

  昨日、夜の散歩をしたら裏道でタヌキに出会った。
 アニメの「回復術士のやり直し やり直しver.」の十一話がなぜか急にアカウントがロックされてしまい、仕方なく通常バージョンの方を見て、そのあと何とかロックを解除して「やり直しver.」の方を見たが、違いがよくわからなかった。あいかわらずダークなストーリーだ。
 ラノベも「なろう」系が台頭してきてから、それまでの健全で真っ直ぐなティーンエイジャーが主人公というお約束が崩れて、同時に性描写や何かもかなり自由になってきている。ハーレム展開でありながら誰にも手を出さないもどかしさというのはなくなってきた。
 この物語は「恨み」という感情に真っ正面から向き合っているという点で、最近では珍しい。まあ、胸糞と思う人もいるかもしれないが、恨みの感情も昇華されて恨(ハン)のようなものに至りつけば、それはやはり「世界を救う」力になるのではないかと思う。
 あと「青葉より」の巻鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 「春めくや」の巻も終わったところで、たまには発句も読んでみようかというところで、『春の日』の、春の句を順番に読んでいこうと思う。

1,昌陸の松とは尽ぬ御代の春    利重

 昌陸は里村昌陸(さとむらしょうりく)で、コトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「徳川初期の連歌師。昌程の嫡子。16才の時父に代わり宗匠代を務め法橋に叙せられる。後御会始の宗匠を務めるようになり法眼に叙せられる。将軍の栄寵を受け葵の紋服や羽織舞笠を度々賜られ、貴紳と連歌を共にしたことは数しれぬほどある。宝永4年(1707)歿、69才。」

とあり、「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」には、

 「1639-1707 江戸時代前期の連歌師。
寛永16年生まれ。里村昌程の子。慶安3年から幕府につかえ,承応(じょうおう)3年父にかわって宗匠代をつとめる。寛文10年家督をつぎ,延宝元年法眼。元禄(げんろく)8年職を辞した。宝永4年11月16日死去。69歳。別号に三宜斎。」

とある。貞享三年(1686年)現在では四十八歳だった。ネット上の濱千代清さんの『天六三年五月「賦何船連歌」』というpdfファイルで昌陸の連歌を読むことができる。
 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)には、

 「元和年中の人。恒例正月十一月御連歌会の百韻巻頭に松の句を奉ったという。[参考]寛永五戊辰正月廿日、松にみん百万代の春の色と祝し奉りしとなん、(打聴)」

とある。時代が合わない。打聴とあるのは『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)のことか。
 なお、撰者の荷兮はウィキペディアに「晩年は連歌師として昌達と号して、法叔に叙せられる」とある。
 千歳の松に尽ぬ御代を祝うのは賀歌の定番でもあり、

   良岑經也が四十の賀に
   女にかはりてよみ侍りける
 萬代をまつにぞ君をいはひつる
     千年のかげに住まむと思へば
               素性法師(古今集)

以来、松は千歳をことほぐもので、謡曲『高砂』にもそれは凝縮されている。
 『春の日』の発句の巻頭を飾るこの句も、その形式によるもので、撰者の荷兮もこのころから連歌師への憧れがあったのかもしれない。「昌陸」がこの場合一応俳言になる。

2,元日の木の間の競馬足ゆるし   重五

 競馬というと五月の賀茂も競馬が有名だが、正月にも何らかの馬を用いる儀式があったのだろう。
 『阿羅野』の歳旦に、

 松高し引馬つるゝ年おとこ    釣雪

の句があるが、「引馬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 貴人または大名などの外出の行列で、鞍覆(くらおおい)をかけて美しく飾り、装飾として連れて行く馬。
 ※吾妻鏡‐元暦二年(1185)五月一七日「能盛引馬、踏二基清之所従一」

とある。
 また、同じく『阿羅野』に、

 うら白もはみちる神の馬屋哉   胡及

の句もあり、馬が歳神様の乗物として正月には飾り付けられ練り歩いたのを、ここでは競馬(くらべうま)と詠んだのではないかと思う。
 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)は「打聴」を引用し、

 「門松の間に供侍する駒を競馬になぞらへし也。常にはおとらじときそふをけふは元日なれば足ゆるしと也」

と記している。
 馬が何頭も過ぎて行くけど、どれもゆっくりとした歩みで、

 日の春をさすがに鶴の歩哉    其角

の句を思わせる。

3,初春の遠里牛のなき日かな    昌圭

 牛もまた歳神様の乗物になる。芭蕉の『野ざらし紀行』の時の貞享二年の歳旦に、

 誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年  芭蕉

の句を詠んでいる。
 町中にこれだけ牛が歩いているのを見ると、さぞかし遠里では牛がみんな出払ってしまって、牛無き里になっているだろうな、とする。

4,けさの春海はほどあり麦の原   雨桐

 「ほどあり」は「ほどなし」の反対ということでいいのだろう。海はまだまだ遠いということで、延々と麦畑が続く。遠里から海のある熱田の方に出てくる道すがらの景色であろう。旧正月の頃の麦はまだ背が低く、遠くまで見渡せる。

5,門は松芍薬園の雪さむし     舟泉

 芍薬は「薬」と付くように漢方薬の用いられてきたが、江戸時代には観賞用の園芸品種がたくさん作られた。
 芍薬の花を俤にしながら、今は正月で雪の門松に華やかさを添える。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の時の冬の句に、

   桑名本統寺にて
 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   芭蕉

の句がある。冬の牡丹は現実だが、正月の芍薬を夢に咲かせたと言っていいかもしれない。

6,鯉の音水ほの闇く梅白し     羽笠

 鯉の音は水がぬるむのを感じさせる。それに梅の白さと取り合わせるのに、鯉の住む水を「ほの闇(くら)く」として引き立てる。

7,舟々の小松に雪の残けり     且藁

 平安時代は子(ね)の日の菜摘みとともに子(ね)の日に小松引きが行われた。この習慣は一方で正月を迎えるための松飾りから門松へと進化した。そして菜摘みは七草粥に変わっていった。
 ただ、子の日の小松引きそのものは廃れたのではなく、誰かが取ってきて売りに来るように変わっただけで、町には牛や馬に小松を背負わせた行商人が通り、その一部は舟に乗せた運ばれたのではないかと思う。
 船に積まれた小松には雪が残っているが、それはこの小松を取ってきたところの雪がついているのだろか、という句だと思う。

8,曙の人顔牡丹霞にひらきけり   杜國

 上五は「あけのかほ」でいいのか、「あけのひとがほ」だと字余りになる。
 先の芍薬の句と同様、ここでも幻の牡丹を咲かせる。登る朝日に赤く照らされる顔と、その笑顔に牡丹の花を見出す。「咲く」と「笑う」は相通じるもので、「山笑う」という季語もある。喜納昌吉の「花」という歌の歌詞にも「花は花として笑いもできる」というのもこの伝統によるものか。

9,腰てらす元日里の睡りかな    犀夕

 『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に、『標注』に、

 「白氏文集の『暖牀斜臥日曛腰』(巻三七)を引用。」

とある。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のことか。
 元日の日の光が古人の腰を照らしたように、今は里全体が眠っているようだ。古典の風雅を今の卑近なものに変換することで俳諧らしい風流になる。

10,星はらはらかすまぬ先の四方の色 呑霞

 「はらはら」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①さらさら(と)。▽物が触れ合って立てるかすかな音を表す語。
  出典源氏物語 帚木
  「衣(きぬ)の音なひはらはらとして」
  [訳] 衣(きぬ)ずれの音がさらさらとして。
  ②物が砕けたり、壊れたり、破れたりする音を表す語。
  出典今昔物語集 二三・一九
  「八つの胡桃(くるみ)一度にはらはらと砕けにけり」
  [訳] 八つのくるみは一度にばしっと砕けてしまった。
  ③ぱちぱち(と)。▽物が焼けてはぜる音を表す語。
  出典徒然草 六九
  「焚(た)かるる豆殻のはらはらと鳴る音は」
  [訳] 燃やされる豆殻のぱちぱちと鳴る音は。
  ④長い髪などがゆらめいて垂れ下がるようす。
  出典源氏物語 葵
  「はらはらとかかれる枕(まくら)の程」
  [訳] (髪が)ふんわりとかかった枕のようす。
  ⑤ぱらぱら(と)。ぽろぽろ(と)。▽雨・木の葉や涙がしきりに落ちるようす。
  出典平家物語 二・教訓状
  「大臣(おとど)聞きもあへずはらはらとぞ泣かれける」
  [訳] 大臣殿はみなまで聞かずに涙をぽろぽろと流してお泣きになった。
  ⑥気をもむようす。◇近世語。」

とある。現代語でもちいられているのは⑥と、あとは桜の花びらが散る様子だが、古語だと「ぱらぱら」が一緒になっている。古語だと接触系の擬音に多く用いられている。
 星の場合は「ぱらぱら」の方ではないかと思う。これは細かい粒の飛び散る感覚で、夜空に星がちりばめられている様子をいうのではないかとおもう。光の瞬きは「ひかひか」つまり今の「ぴかぴか」が用いられる。
 つまりこれは澄んだ空に無数の星が散らばっている、いわば満天の星空を表す言葉で、それが春の霞になるまでのあらゆる方角にひろがっていることを表している。
 この句は伝統的な春の景色を詠んだものではなく、当時の日本ではほとんど目にとめることもない満天の星空を詠んだ珍しい句で、その新味が認められて入集したのだと思う。

11,けふとても小松負ふらん牛の夢  瑞雪

 正月の歳神様を乗せる飾りではなく、この牛は小松売りの牛ということで、先の馬や牛の句と区別されて、ここに置かれているのではないかと思う。