2021年2月20日土曜日

  今日は晴れて暖かく久しぶりに散歩に出た。近所の木瓜も咲いていたし、杏も咲き始めていた。梅はあちこちで満開で、この前咲き初めだった河津桜も満開になっていた。伊勢社にお参りして帰ってきた。
 それにしても大坂なおみは無敵だね。筋肉も凄いし。
 あとお詫びですが、延宝六年の「塩にして」の巻、「塩にしても」の「も」が抜けてました。訂正します。前に「磨なをす」の巻が「磨をなす」になってたことも重ねてお詫びします。

 それでは「三冊子」の続き。

 「切字の事、師のいはく、むかしより用ひ來る文字ども用べし。連俳の書に委くある事也。切字なくてなほ句の姿にあらず、付句の躰也。切字を加ハへても、付句の姿ある句あり。誠に切たる句にあらず。又切字なくても切る句有。其分別切字の第一也。その位は自然としらざればしりがたし。猶、口傳あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.91)

 何が切れ字かは習慣的に用いられているもので、「や」「かな」などの代表的な文字は多くの書に共通しているが、厳密な決まりはない。
 というのも切れ字が入っていても切れてない句もあれば、切れ字がなくても切れている句があるからだ。大事なのは句を切るということで、切れ字はそのための便宜的なものと思った方がいい。
 切れ字に関して古いところでは梵灯庵主の『長短抄』に、「かな、けり、そ、か、し、や、ぬ、む(ハネ字) セイバイの字、す、よ は、けれ」が挙げられている。ハネ字というのは撥音で「ん」と発音される。セイバイの字は状況で判断される字ということであろう。
 『長短抄』には、大廻(まわし)と三体発句という切れ字なしで切れる句の例を挙げて切れない句と比較して説明している。

 「発句大廻ト云 在口伝、
   山ハ只岩木ノシヅク春ノ雨
   松風ハ常葉ノシグレ秋ノ雨
   五月雨ハ嶺ノ松カゼ谷ノ水
  三体発句
   アナタウト春日ノミガク玉津嶋
  此等ハ切タル句也、
   庭ニミテ尋ヌ花ノサカリ哉
   山近シサレドモヲソキ時鳥
   花ハ今朝雲ヤ霞ノ山桜
 此三句キルル詞ハアレドモ不切、」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.180)

 「山ハ只」の句は「山は只岩木のしづくが春の雨や」という意味で、この末尾の治定の「や」が省略されているとみていい。
 「松風ハ」の句も「松風(の音)は常葉の時雨や、秋の雨や」という意味で、治定の「や」が省略されている。
 「五月雨ハ」の句も「五月雨は嶺の松かぜ(に)谷の水(をそえる)や」で、いずれも治定の言葉が省略されている。それを補えば「〇〇は〇〇や」という主語述語整った形になる。

 蚤虱馬の尿する枕もと       芭蕉
 目には青葉山ホトトギス初鰹    素堂

もこの類といえよう。「蚤虱や馬の尿する枕もと」「目には青葉山(には)ホトトギス(口には)初鰹や」となる。
 これに対し三体発句は形容詞の活用語尾の省略で、「春日のみがく玉津嶋はあなとうと(し)」になる。この「し」があれば、それが切れ字ということになる。

 あらたうと青葉若葉の日の光    芭蕉

もこれにあたる。
 形容詞の活用語尾の省略は今日でも口語では頻繁に見られる。ださいを「ださっ」、近いを「近っ」という類で、『源氏物語』にも「あなかしまし」というところを「あなかま」という例がある。
 切れ字なくても切れている句は、基本的に何らかの切れ字が省略されているだけと見ればいいのかもしれない。
 これに対し切れ字があっても切れてない句というのは、切れ字が形だけで機能していない場合ではないかと思う。

 庭にみて尋ぬ花のさかり哉

の句は「尋ねぬ」が実質的な切れ字で最後の「哉」は付け足しにすぎない。「庭に見て尋ぬる花のさかり哉」なら切れる。

 山近しされどもをそき時鳥

の句は「されどもをそき」の方が句のメインになっていて、「山近し」は付け足しにすぎない。「時鳥のされども遅し山の脇」ならわかる。

 花は今朝雲や霞の山桜

の句も、「花や今朝雲に霞の山桜」ならわかる。
 芭蕉が二句どちらがいいか沾徳に判を求めたという

 ほととぎす声横たふや水の上
 一声の江に横たふや時鳥

の句で「一声の」の句の切れが悪いのも、この「や」が十分機能してないからなのかもしれない。この句は「時鳥の一声の江に横たふや」の倒置だが、これだと「時鳥」「一声」「江」「横たふ」のどれを治定しようとしているのかわからない。
 もう一句の方だと「水の上」を強調しているのがはっきりとわかる。「一声の」の句の場合も強調したいのは「江」であろう。それが十分機能していない。
 切れ字のことは多くの連歌師俳諧師が感覚的に理解していることではあったが、なかなか論理的に説明するのは難しく、それで「猶、口傳あり。」ということになってしまったのだろう。『去来抄』「故実」の切れ字について述べた個所でも、

 「此事あながち先師の秘し給ふべき事にもあらず。只先師の伝授の時かく有し故なるべし。予も秘せよと有けるは書せず、ただあたるを記して人も推せよと思ひ侍るなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.53)

とある所を見ると、去来にも口伝があったようだ。

 「師常に道を大切にして示されし也。あこくその心はしらず梅の花、と云句をして、切字を入る事を案じられし傍にありて、此句は切字なくて切るやうに侍ると云ば、切る也。されば切字はたしかに入たるよし、初心の人の道のまどひに成てあしゝ。つねにつゝしむべし。ましてさせる事もなき句は、句を思ひやむとも常にたしなむべし、と示されし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.91~92)

 「あこくそ」の句は貞享五年の春、伊賀滞在中に詠んだ句で、

   風麦子にて兼日の会に句を乞はれし時
 あこくその心はしらず梅の花    芭蕉

という前書きがついている。「兼日」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「かねてのひ」の「兼日」の音読)
  ① かねての日。また、あらかじめ。日頃。
  ※左経記‐長和五年(1016)四月一五日「又兼日或仰二陰陽寮神祇官等一、可レ令候」
  ※葉隠(1716頃)一「是は折節の仕形・物言にて顕るるもの也。〈略〉兼日にて人が知るものなり」 〔論衡‐感虚〕
  ② 歌会の行なわれる前にあらかじめ題が出され、歌会以前に歌をよみ用意しておくこと。また、その歌会。⇔当座(とうざ)。
  ※無名抄(1211頃)「兼日の会には、皆歌を懐中にして」

とある。②の意味であろう。
 伊賀滞在中だったから、この句ができた時に土芳に語ったのだろう。
 「あこくそ」は紀貫之の幼名と言われている、ウィキペディアに、

 「幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。」

 古い時代には本名を隠すことが多く、たいていは職名で呼ぶ。紫式部だとか清少納言とかも本名ではないように、本名を隠す習慣があったのだろう。「新古今集」でも「摂政太政大臣」だとか「京極前關白太政大臣」だとか「入道前關白太政大臣」とかあって、一体誰なんだというのが多い。
 「阿古久曽」もおそらくは「吾子糞」で意図的に悪い名前を付けたのではないかと思う。麿(まろ)も汚物を意味する言葉で、便器を意味する「おまる」という言葉にそれが残っているという。ウィキペディアの注釈にも、

 「 荒俣宏は、くそは不浄であり、悪鬼の類ですらこれを嫌うものであるため、鬼魔の害を避ける方法として幼児に「マル」(不浄をいれる容器)や「クソ」(不浄そのもの)の名をつける親が現れたと論じている。荒俣(1994)」

とある。
 そういうわけで芭蕉も「梅」を題として詠むように依頼されたのだろう。兼日だから当座の興で詠むのと違って、いつどこでどんな天気のどんな時刻でもいいように、場所や時間や天候を特定せず、貫之の心は知らないけど梅の花と、とても紀貫之には及ばないという謙虚な句に作り、貫之を幼名にすることで俳味を持たせたのだろう。
 切れ字は入ってないけど終止形の「ず」が事実上の切れ字になっている。

2021年2月19日金曜日

  コロナの新規感染者数は底打ち感が出てきた。今の自粛のレベルではこれ以上減らすのは難しいかもしれない。春だからといって浮かれてもいられない。
 街道ウォークは結構楽しかったし、夏の気温とワクチンである程度収束したら再開したい。別に有名観光地に行ったり高い料理を食ったり温泉に入ったりしなくても、楽しい旅ってあると思うよ。今日ニュースサイト見ていてマスツーリズムという言葉を知ったが、そういうのってそろそろ終わりでいいんじゃないかな。

 それでは「三冊子」の続き。

 「等類の事おろそかにすべからず。師のいはく、他の句より先我が句に我が句、等類する事をしらぬもの也。よく思ひ別て味べし。若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし。趣向に表と裏の事あり。句にもよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし。ふるき連歌に、思はぬ方にちらす玉章、と云前句に、山風や枝なき花を送るらん、と有。この句、山風の枝なき花を送るこそ、全ちりたる躰、前句同意の連歌と沙汰しけるよし有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.90)

 当時はいわゆる著作権という概念はなかったが、一定の暗黙のルールは存在していた。盗作はもとより、たとえその意図のない偶然の一致でも、似た作品があれば大衆はパクリではないかと疑い、その噂が広まれば作者としての信用を失うことになる。それは今と変わらないと思っていい。著作権はこうした自然権に基礎を持っているといった方がいい。(対立する民族からパクるのは良いという愛国無罪の論理が働くと、この自然権が機能しなくなることもあるが。)
 『去来抄』には、

 「月雪や鉢たたき名は甚之亟
 去来曰、猿ミの撰ノ比伊丹の句に、弥兵衛とハしれど憐あはれや鉢扣と云有。越が句入集いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句働見へて、しかも風姿有。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣の俗体を以もつて趣向を立たて、俗名を以て句をかざり侍れば、尤も遠慮有なんと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.16)

とあるように、パクリではなくても先行する似た句があると発表を控えるくらいに用心していた。今なら裁判で無関係だと争うこともできるかもしれないが、当時は風説抗す手段もなかった。
 それゆえ「等類の事おろそかにすべからず」は当たり前のことで、むしろ今よりも神経質になっていたと思われる。ただ、それは作品に関してで、知識に関しては共有物という意識が強く、引用された文章に出典を明記する習慣はなかった。今でも学問に関しては引用を明記する必要があるだけで、使用料を払う必要はない。
 むしろ芭蕉が強調したのは、自分の作品であっても過去の作品に類似するものは控えるということだった。
 たとえば芭蕉が死の直前の話で、支考が『前後日記』に記した、

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉     翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

ということにも現れている。
 この改作が有名な「旅に病んで」の句より一日あとということから、「清滝や」の句が芭蕉の絶筆だという人もいる。まあ、ここまで来ると絶筆の定義の問題になってしまう。両方とも絶筆でいいと思う。
 そして「若、わが句に障る他の句ある時は、必わが句を引べし」とするのは、自分に厳しければ、当然他人の句との類似にも厳しくなるという意味だろう。
 「趣向に表と裏の事あり。句にもよるべしと云ながら、大様のがして等類になさず取べし」というのは、表面的に似ていても実際の意味が違う場合の事であろう。『去来抄』にも、

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆
 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

 蕣の裏を見せけり秋の風
 くずの葉の面見せけり今朝の露   芭蕉

 野を横に馬牽むけよほとゝぎす   芭蕉
 面梶よ明石のとまり時鳥      野水

といった類似が問題になっている。
 「樫の木」の句は『野ざらし紀行』の旅で三井秋風を訪ねた時に、談林の主要人物が次々と亡くなったことを悲しんでた時にそれを慰めるために詠んだ句で、表向きの言葉通りの意味ではない。
 「くずの葉」の句も反目していた嵐雪が戻ってきた時の句で、これも言葉通りの意味ではない。
 「野を横に」の句も『奥の細道』の旅で馬引きに発句をねだられて、ならばホトトギスの所に案内してくれという裏の意味のある句で、発句にはこうした表裏のある句が多く、表面的な言葉の類似だけで等類にはできない。
 「ふるき連歌」の例は、

   思はぬ方にちらす玉章
 山風や枝なき花を送るらん

という付け句が、「枝なき花」は散った枝で同語反復に近いという指摘で、等類の問題からは外れるように思える。打越の句がわからないから何とも言えないが、打越が恋の句で手紙を書き散らすの意味だったとしたら、「枝なき花」は「ちらす」を別の意味に取り成しているから問題ない。『応安新式』には「玉章にこと葉 歌にことのは 敷島の道に歌」などの同語は「如此類不可付之」とある。それの拡大解釈であろう。

 「又いはく、
  都をバ霞とともに出しかど
   秋風ぞふく白河のせき
  都にはまだ青葉にて見せしかども
   もみぢちりしく白河の關
 此哥の叓、師のいはく、いにしへより色をわかちたる作意によりて、等類のがれたると云来る也。さもあるべし。今師の思ふ所、後のうた、卯月此都を出て、十月に及び白川に至り、紅葉のちり敷たるを見て、前の能因法師の哥を思ひだし、彌その哥の妙所を感德したりと、云心より詠る哥なるべし。是にて等類よくのがるゝと云り。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.90~91)

 この、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
             能因法師
 都にはまだ青葉にて見しかども
     紅葉散り敷く白河の関
             源頼政

のことは昔からよく似ていることで有名で、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められていた。能因法師の歌の方は「みちのくにゝまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける」という前書が付いていることから、本当に旅で詠んだとされていた。もっとも、『十訓抄』や『古今著聞集』には旅をしたように装って発表したとされているが。
 芭蕉は両方とも旅で詠んだと思っていたのだろうか。これだと能因をリスペクトしていて、そのオマージュだという論理に近い。まあ、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな  宗祇
 世にふるもさらに宗祇の宿りかな  芭蕉

の類似に関してはそうなのだろう。

2021年2月18日木曜日

 森元の後任の東京五輪・パラリンピック組織委員会会長がどうやら決まるのかな。これは馬鹿発見器になるな。森元の発言に比べればベロチューなんて可愛いもんだということをどれくらいの人が理解できてるかな。
 もちろん日本人だけでなく欧米の人も問われている。

 それでは「三冊子」の続き。

 「本歌を用いる事、新式に云ク、新古今已来の作者を用べからずと也。八代集は古今、後撰、拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今、是也。後土御門依勅、新勅撰、續後撰二代を加へて、十代集を本哥に取る。又堀川兩度の作者迄の哥は、十代の外の集たりとも、たとひ集にいらぬ哥也とも、作者の吟味有之かと云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89)

 『応安新式』には、

 「本歌付合事は至新古今集用之、堀川院両度百首作者までは、假雖入近代集、猶可為本歌之例、但人のあまねく、しらざる歌をば、付合に不可好用之、彼百首以後作者、近代歌までも、依事證歌には可引用也」

とある。「至新古今集用之」は古今から新古今までの八代集で、万葉集は含まれない。
 「堀川院両度百首」は「堀河百首」と「永久百首」のことで、「堀河百首」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「平安後期の歌集。長治2年(1105)ごろ成立か。堀河天皇の時、藤原公実(きんざね)・源俊頼・源国信らを中心に、当時の代表的歌人の大江匡房(まさふさ)・藤原基俊ら16人が詠んだ百題による百首歌の集成。後代の組題百首の規範とされ、重んじられた。堀河院御時(おんとき)百首和歌。」

とあり、「永久百首」は、

 「平安後期の歌集。2巻。永久4年(1116)鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほか6人が編集。百首の和歌を収録。永久四年百首。堀河院後度百首。堀河院次郎百首。」

とある。この時代までの作者の歌であれば、八代集以降の集にある歌でも用いることができる。但し、有名な哥以外は推奨しない。
 誰も知らないようなマニアックな歌を引いてきてどや顔するのはいかにもありそうなことだが、本来連歌は機知を競うもので、知識を競うものではない。俳諧でも其角流はこの方向に陥りがちだった。
 本歌は歌の趣向を借りるもので、単に使用する語句が雅語であることを証明するために用いられる證歌であれば、それ以降の和歌でもいいとされている。俳諧では特に『夫木和歌抄』(鎌倉時代後期に成立)が多く用いられる。

 「又、新式にいはく、人のあまねくしらざる歌をば、付合に是を好むべからず。事により證哥には引用ゆべしと也。
 本哥と證哥と差別あり。本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。證哥とは聊違有。或は一句餘情、又名所續合たる物を付るをいふ也。證哥はいづれの集にても可有事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89)

 本歌の場合はその元歌を知らないと意味がよくわからないものが多い。

   蛤もふんでは惜む花の浪
 さつとかざしの篭の山吹      宗因

の句なども、なんで篭の山吹が何を意味するかというと、『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りを知らないとよくわからない。

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、
   やまぶきを上にさして書付けて侍りける
 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを
     ゐでのわたりの物と見るかな
                 家綱
   返し
 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは
     はまくりかへしあはれとぞ思ふ
                 俊頼」

 山吹は元は手紙に添えるかざしで、それを蛤を詰めた籠を贈るのに用いたということだと分かる。
 ただ紹巴の時代の連歌では付合の根拠となるものを本歌と言ってたようなところもある。『連歌新式永禄十二年注』には、

 「たとへば、朝霧と云句に明石の浦と付て、又嶋がくれ行舟と付れば、三句になるなり。
 前の朝霧の一句に雖無本歌心、明石の浦を付れば、ほのぼのと明石の浦の朝霧にといふ歌の心に、朝霧の句もなる也。
 其ゆへは、彼本歌なくは、朝霧に明石の浦付くべきゆへなけらば也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

 これに対して逃げ歌は、

 「逃歌とは、我舟に乗て漕行に、嶋のみえたる体の句はくるしからず。別の歌の心になれば也。
 天ざかるひなの長路を漕くれば明石のとより大和嶋みゆ」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.18)

とある。『三冊子』の「本哥取といふは、古哥の詞を取合て付るをいふ。」も本歌をこういう意味で用いていると思われる。それに対し情をとるのを證歌としている。
 『連歌新式永禄十二年注』には、

 「本歌と証歌との分別の事。本歌と云は、前句の付合也。証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20)

とある。ただし付合であっても、

 「本歌といふにも猶心え有べし。たとへば、梅に鶯を付、柳に鶯を付、雪に桜、款冬に蛙、又、卯花・橘、五月雨等に時鳥を付、紅葉・萩等に鹿・鴈を付、萩・薄・女郎花等に虫を付事をば本歌とはいはず。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.20~21)

とあり、特定の歌に限定される付合は本歌だが、多くの歌に見られる組み合わせは本歌とは言わない。
 「証歌と云は、詞づかひ・一句のしたて也。」とあるのは、文字通り言葉の使い方一句の文章の続き方で、言葉の意味や文法の正しさを証明する歌のことと思われる。
 證歌は貞門や初期談林などまだ雅語を中心にして俗語は一語までというルールでやってた頃はかなり厳しく言われたようだが、それ以降、特に蕉門ではほとんど問題にされなかったのではないかと思う。
 この辺りは連歌書を書き写したような感じで芭蕉の時代の実際の差し合いとはかけ離れているように思える。

 「輪廻の事、新式に薫といふ句に、こがるゝと付て、また紅葉を付べからず。舟にて付べし。こがるゝといふ字かはる故也。夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。又たとへば、花といふ句に、風とも霞とも付て又不可付也。 數句をへだつといふとも、一座に可嫌之、他准之。又、竹と云句に世と付て、又、竹出る時、夜の字不付也。如此の類、遠輪廻也。あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.89~90)

 輪廻は『応安新式』に、

 「薫物と云句に、こがると付て、又紅葉をつくべからず、船にては是を付べし。こがるといふ字、かはる故也、煙と云句に里とつきて、又柴たくなど薪の類を不可付、他准之」

とある。「新式に薫」以下「かはる故也」まではほぼそのまま書き写している。
 これは同じ「こがる」でも違う意味に取り成してつける分にはかまわないということを言う。
 「薫物のこがる」「紅葉のこがる」はどちらも火によって焦げるという意味で、紅葉の場合も葉が赤くなるのを比喩として焦がると言っているから、同じ意味の「こがる」となる。これに対し「船のこがる」は漕ぐという別の単語への取り成しになるから良しとする。
 煙に里と付けてまた柴たくや薪を付けるのは、「煙りたなびく里」「柴焚く里」「薪こる里」と趣向が似てしまうからで、これも輪廻になる。
 『応安新式』の遠輪廻事には、

 「仮令花と云句に、風とも霞とも付て又付加付之、数句を隔といふとも、一座に可嫌之、他准之。」

とある。「又たとへば、花と」以下「一座に可嫌之」まではほぼこれを書き写している。
 また『新式今案』の遠輪廻事には、

 「花に付、風霞之類、近来不及沙汰、若猶可守新式歟、又竹と云句に世と付て、又夜字不可付之、如此類又遠輪廻也」

とある。「又、竹出る時」以下「遠輪廻也」まではこの後半部分をほぼそのまま書き写している。
 なら残る「夢といふ句に、面影と付て、月花を付る事、面影ものと云て、近代不付之、更無其理、曾以不嫌之。」はというと、「連歌新式永禄十二年注」には、

 「夢と云句に面影と付て、月花を付事、面影物といひて、近代不付之、更無其理、曽以不嫌之。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.15)

とあり、ほぼ一致する。なおこの一文は『連歌新式心前注』にも同じものがあり、古い書に元の文があるのかもしれない。
 「あらしと云に、山と付、次に富士など付ば、取なして打越へ歸るなり。是を嫌。他准之。一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」の部分は宗因の『俳諧無言抄』に、

 「又嵐と云に山と付て、次に冨士なと付は取なして打越へかへる也。是等を嫌也。他准之。」

とある。
 「一巻の内似たる句嫌之なり。是遠輪廻也。」も宗因の『俳諧無言抄』に「一巻の内、似たる句嫌也」とある。 この辺りもまた古い書物からの書き写しで蕉門独自の論ではない。

2021年2月17日水曜日

  日本でもワクチン接種が始まり、余所の国の情報でもかなり効いているようだから、思ったより早くコロナ戦争も終わるかもしれない。そしたらまたいろんなところ行きたいな。もっとも日帰り限定だけど。
 大幸薬品の株を「みんなの株式」で見たら、個人投資家の予想と証券アナリストの予想が全く逆だった。この会社は去年の八月をピークに下げトレンドが続いてるけど。

 それでは「三冊子」の続き。

 「戀の事を先師云ク、むかしより二句結ざれば不用也。むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。 いま思ふ所は戀別而大切の事也。なすにやすからず。そのかみ宗砌、宗祇の比迄、一句にて止事例なきにもあらず。此後所々門人とも談じて、一句にても置べき事もあらんかと也。又ある時云ク、前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべしと也。是には此句のみにて、つヾいて戀にも及べからず。新式にも此沙汰あるよし也。しかれども、戀の事は分て其座の宗匠に任すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.88)

 恋は『応安新式』にはただ五句としか規定されてない。五句まで続けることができるというだけで二句続けなくてはいけないというルールはない。それは春秋についても同じで春秋は三句以上続けなくてはいけないというのも式目で定められているわけではない。ただ、連歌の時代からこれは暗黙のルールになっていた。
 『連歌新式永禄十二年注』には、句数のところに、

 「春 秋 恋(以上五句、春・秋句、不至三句ば不用之。恋句、只一句而止事無念云々)」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.123)

とある。
 月花の定座というのも四花八月というのも式目にはない。これは連歌でも紹巴の頃から慣習化したもので、定座はその場の臨機応変で繰り上げたり繰り下げたりするのは普通に行われていた。
 「むかしの句は、戀の詞を兼而集メ置、その詞をつヾり句となして、心の戀の誠を思はざる也。」というのは、特に談林時代に式目を形式的に守ることで実質的には自由に詠めるようにしたというのがあった。中世の連歌では特に恋の詞というのもなく、内容で判断していた。また、中世の場合、恋は和歌の恋歌のように、自分の気持ちとして恋心を述べるもので、他人の恋を客観的に描くようなことはしなかった。まあ、今でもラブソングというのは恋心を歌うのが普通だが。
 江戸時代の俳諧では恋心を歌うということは少なくなり、むしろ恋愛あるあるのようなネタ物が多くなった。この時点で既に恋というテーマは形骸化していた。
 たとえば「水無瀬三吟」の十九句目、

   わが草枕月ややつさむ
 いたずらに明す夜多く秋ふけて   宗祇

の場合、明確に恋の詞が入っているわけではないが、前句と合わせて。

 いたずらに明す夜多おほく秋ふけて
     わが草枕月ややつさむ

と和歌にしたとき、業平や西行のように身分違いの恋に破れて旅に出た男が、無駄に夜を明かしては月も涙で霞んで見えるという歌になる。恋の詞がなくても実質的に恋の歌だし、また他人の恋ではなくあたかも自分が恋をしてるかのように詠んでいる。
 それに続く二十句目、

   いたずらに明かす夜多く秋ふけて
 夢に恨むる荻の上風        肖柏

にしても、夢にあの人が来てくれたのに、目覚めれば荻の上風の音がアレンジされただけだったと分かって、荻の上風を恨むという歌になり、自分が女の人の身に成り代わって詠んでいる。
 これに対し、俳諧の恋句というのは、宗因の「花で候」の巻の五句目を例にするならば、

   手と手まくらをかはすとはなし
 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に  宗因

この句は、

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に
     手と手まくらをかはすとはなし

と和歌の形にしても、恋歌の体裁にはなっていない。昼のような月の明るい夜だから枕を交わすこともできないというネタであって、情を述べてはいない。和歌なら、

 しのばれぬ昼のやうなる月の夜に
     手まくらすらもなきぞかなしき

のように、自分の思いとして語らなくてはならない。
 まだ芭蕉庵に移る前の談林時代の桃青の俳諧「あら何共なや」の巻でも、

   から尻沈む淵はありけり
 小蒲団に大蛇のうらみ鱗形     桃青

は「うらみ」が恋の詞ということになるが、内容はから尻馬の鞍に敷く座布団の柄が鱗形で、大蛇の恨みで淵に沈むという内容に何ら恋の要素はない。
 ただ、「うらみ」という恋の言葉が出た以上は、次の句は恋にしろというのが、「前句戀とも戀ならずとも片付がたき句ある時は、必戀の句を付て前句ともに戀になすべし」だ。

   小蒲団に大蛇のうらみ鱗形
 かねの食つぎ湯となりし中     信章

 大蛇の恨みを謡曲『道成寺』の、安珍に裏切られた少女清姫の蛇になって道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す場面を下敷きにして、金属製の飯櫃も溶けて湯になるような仲と展開している。この「中(仲)」という言葉が恋の詞になる。もちろんこの恋の激情が自分のものとして表現されることはなく、あくまでネタにすぎない。中世連歌的に作るなら、

   小蒲団に大蛇のうらみ鱗形
 かねの食つぎ湯ともなさなむ

であろう。恋の言葉がなくても連歌では内容的に恋となる。

 「旅の事、ある俳書に師の曰、連哥に旅の句三句つヾき、二句にてするよし。多くゆるすは神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し。今、旅、戀、難所にして、又一ふし此所にある。旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし、とは連(歌)の教也とあり。又、旅、東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なしとも云りと有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.88~89)

 恋の時と同様、羇旅も三句までは連ねることができるとあるだけで、式目上は一句でもいいことになっている。春秋も五句までとはあるけど何句以上ということは書かれていないが、春秋の三句以上だけは慣習的に守られている。なお、『応安新式』では「旅行」と書かれているが、これも習慣で連歌では「羇旅」、俳諧では「旅体」という言葉が用いられることが多い。
 「神祇、尺教、戀、無常の句、旅にてはなるゝ所多し」というのは、旅体は逃げ句に便利だということで、恋の情は容易に旅の情に転じることができるし、神祇、釈教はそこへの巡礼の道筋を付ければ旅体になる。
 俳諧の場合は

   文書てたのむ便りの鏡とぎ
 旅からたびへおもひ立ぬる     白之
   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね   去来

は恋から旅体、

   門跡の顔見る人はなかりけり
 笈に雨もる峯の稲妻        芭蕉
   朝露の夢に仏を孕らん
 笠の下端に結ぶ御祓        古益

は釈教から旅体になる。
 「旅躰の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂を越へ、淀の川舟にのる心持、都の便求る心など本意とすべし」は連歌だと恋と同様に自分が旅をしている立場に立って、旅人に成り代わって詠むのが本意だが、俳諧では旅行あるあるになる場合が多い。そういうネタを仕入れる意味でも「東海道の一筋もしらぬ人、風雅に覺束なし」ということになる。ただこれは女性作者には厳しい。

 夏の月御油より出でて赤坂や    桃青

の句は延宝四年の句だが、これも東海道の御油と赤坂が半里しかないことを知らないと意味が分からない。
 貞享三年春の「日の春を」の巻九句目、

   我のる駒に雨おほひせよ
 朝まだき三嶋を拝む道なれば    挙白

の句にしても、これが箱根越えのことだとすぐにわからなくては句を詠むことも、それを聞いて「あるある」と笑うこともできない。
 これは東海道を行く旅人ではあるが、連歌のような都を追われた人の情ではない。江戸時代の帰省や商用や参宮で行き来する人の句だ。

2021年2月16日火曜日

  マクドナルドのある国同士は戦争しないとかつてトーマス・フリードマンは言ったが、これにはとんでもない逆説があったわけだ。つまり、マクドナルドのある国はどんな虐殺をやっても他国は介入できない。市場を失うのが怖いから、目をつぶってしまうわけだ。
 もともと国から追い出そうとしている人を引き受けてくれる国があるなら、それこそ願ったりだろう。国を失う民がこれ以上出ないようにすることが第一で、難民の受け入れはその次だ。
 それと、子宮を持つものはペニスを持つ者の脅威から守られなくてはならないと前に書いたが、その逆はありえない。性的非対称性をきちんと理解すべきだ。
 コロナの新規感染者数はだいぶ減ったが死者は七千人を越えた。阪神・淡路大震災の死者数は6434人。これで何も思わない人はどうかしている。

 それでは「三冊子」の続き。

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

 「詩歌連俳」の詩は漢詩、歌は和歌、連は連歌、俳は俳諧で、いずれも風雅に属する。
 風雅は『詩経』大序の「変風変雅」からきた言葉で、

 「上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。」
 (為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)

とあり、

 「故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。」
 (故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。)

という考え方は『古今和歌集』仮名序の、

 「力をもいれずして、あめつちを動かし、目に見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなの仲をもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、歌なり。」

に受け継がれている。「力をもいれずして、あめつちを動かし」「たけきもののふの心をもなぐさむる」は大序で述べられた政治的な側面で、「をとこをむなの仲をもやはらげ」は小序「關雎」の詩に関する部分を引き継いでいる。
 風雅の政治的側面では古代には山上憶良の「貧窮問答歌」のようなものもあったが、八代集以降の和歌ではそれほど前面に出ることはなかった。連歌では、

   罪をもしらで勇むもののふ
 後の世につるぎの山のあるものを  良阿
   はかなきものはもののふの道
 たが為の名なれば身より惜しむらん 宗祇

のような反戦的な句や、

   身を安くかくし置くべき方もなし
 治れとのみいのる君が代      心敬
   唐土も天の下とやつらからん
 すめば長閑き日の本もなし     宗祇
   山川も君による世をいつか見む
 危き国や民もくるしき       宗祇

などの応仁の乱に荒れた国を憂う句が詠まれてきた。
 俳諧では特に宗因法師によって庶民の生の声が解放されて以来、庶民の本音を読む句も増えてきた。為政者の間でも民の心を知るための手段として、積極的に俳諧に参加するものもいた。特に宗因の時代から俳諧を好んだ磐城平藩の風虎、露沾などの名も挙げられる。
 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。」というのは、ともすると形骸化した漢詩、和歌、連歌の変風変雅の精神が、俳諧では余すところなく行われているという自負を込めているのではないかと思う。
 花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ」は、元禄五年の、

 鶯や餅に糞する縁の先       芭蕉

の句、「水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり」は言わずと知れが貞享三年の、

 古池や蛙飛び込む水の音      芭蕉

の句をいう。
 ここには神聖な鏡餅に糞をするとは不謹慎ななんて制約もない。暗に世俗の権威何ぞ糞くらわせてやれといった反抗心も匂わせている。だが、それを露骨に言うことなく、正月の「あるある」の中に隠し込んでいる。
 古池の句も時代の変化によって没落した家の古池などが放置されているところに、水音に驚き、在原業平の「月やあらぬ」や杜甫の「鳥にも心を驚かす」の心を表している。
 単なるあるあるネタで人を笑わす俳諧師はいくらもいるが、そこに変風変雅の心を隠し込む所までできたのは芭蕉をおいて他にいなかったといってもいい。『去来抄』で論じられた、

 応々といへどたたくや雪のかど   去来

に欠けてたのは、まさにそこだった。
 その境地に達してこそ、「見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」になる。

 「俳諧の式の事は、連哥の式より習て、先達の沙汰しける也。連哥に新式有。追加ともに二條良基摂政作之。今案は一條禪閤の作、この三ッを一部としたるは肖柏の作と也。連に三と數ある物は、四とし、七句去ものは五句となし、万俳諧なれば事をやすく沙汰しけると也。今案の追加に、漢和の法有。是を大様俳諧の法とむかしよりする也。貞徳の差合の書、その外その書、世に多し。その事をとへば、師信用しがたしと云り。その中に俳無言といふ有。大様よろしと云り。差合の事もなくては調がたし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87)

 「式」は連歌のルールで、連歌が本来多くの連衆が即興で機知に富んだ句を付けるのを競うゲームであり、賞品が出たりした。機知は中世から近世前半においては科学的な論理の未発達と不確かな情報を補う重要な能力で、硬直した論理で対応できない現実に的確に対応するには、機知が最高の能力とされた。
 与えられた前句により的確に面白く句を付ける能力は、政治においても領主的経営においても、宗教界においても有能さの証となるものだった。
 近代であれば科学知識と正確な情報に基づいた判断が要求される。しかし、それが得られなかった時代は何に基づいて判断しなくてはならなかったかというと、ひたすら状況判断あるのみだった。それもいかに素早く時流に合った判断をするかが大事だった。そのため宮廷でも武家でも寺社でも機知を養うことだ必要だった。
 (余談だが今日のコロナに関しては未知のウイルスだったため、従来のコロナウイルスに関する科学的な知識では対応できず、情報も中国側の隠蔽などがあって不十分だったため、各国政府が機知によって対処せざるを得なかった。こうしたことは中世の政治であれば日常だったのだろう。)
 ゲームということになると、より面白く長く遊ぶためには適度な難易度が要求される。難易度が低くて誰でもできるものだと、実力を見せることができない。難易度が高くて誰もできないようなものだと、ゲームとして成立しない。スポーツなどでもしばしばルールの細かい部分が修正され、いかにゲームを面白くするかに注意を払っている。野球のストライクゾーンが変わったりするのも、ストライクゾーンが広すぎると誰も打てなくてゲームが動かなくなるし、ストライクゾーンが狭すぎると簡単に打ててしまってゲームが荒れてしまう。
 連歌の式目も後鳥羽院の頃に五十韻百韻などの長連歌が生まれて以来、ルールが建てられては何度となく修正されてきた。そして、その一つの成果として生まれたルールが二條良基による『応安新式』(応安五年、西暦一三七二年成立)だった。ルールの主なところは去り嫌いであり、似たような趣向の句が連続することを避け、より素早く発想の転換を行うかが重視されていた。
 それから八十年後、一条兼良によって一部修正がなされたのが『新式今案』(享徳元年、西暦一四五二年)だった。その後肖柏によって和漢連歌(漢詩句を交えた連歌)のルールが追加されたのが『連歌新式追加並新式今案等』(文亀元年、西暦一五〇一年)だった。
 俳諧の連歌も基本的には連歌の式目を受け継ぐが、去り嫌いの規則はかなり緩和されている。「貞徳の差合の書」は『俳諧御傘』などであろう。たとえば『応安新式』では同季(春と春、夏と夏など)は七句去り(七句間に別の季か無季の句を挟まなくてはならない)だったがそれを五句去りにしている。蕉門の俳諧もおおむねこれに基づくが、新しい季語を追加したりしているし、俳言が一句に一語という制限も撤廃して俗語だけでも俳言なしでも良しとしている。
 細かい部分は絶えず修正されるため、実際に芭蕉同席の俳諧に参加して直に学ぶことも大事だった。

 「師の門にその一書あれかしといへば、甚つゝむ所也。法を置と云事は重き所也。されども花のもとなどいはるゝ名あれば、其法たてずしては、其名の詮なし。代々あまた出侍れど、人用ひざれば何ンが為ぞや。法を出して私に是を守れとは恥かしき所也。差合の事は時宜にもよるべし。先は大かたにして宜と也。たヾこゝろざしある門弟は、直に談じて信用して書留るもの、蜜にわが門の法ともなさずばなすべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.87~88)

 蕉門に式目の書はないのかと言われれば「甚(はなはだ)つつむ(慎む)」となる。スポーツでもローカルルールはあるが、公式ルールとなるとしかるべき統括する競技団体が十分議論して行わなくてはならない。俳諧の場合も全国に様々な師匠がいて、大まかにいうと貞門、談林、蕉門ということになるが、それぞれが勝手にルールを作ったのでは収拾がつかなくなる。蕉門といえども全国を統括できるだけの勢力はない。特に大阪は最後まで取りこぼし、大阪談林が主流を占めていた。
 連歌の式目にしても二條良基は摂政、一条兼良は関白、肖柏も内大臣中院通秀の弟で皆立派な官位を持つ貴族で、式目はいわば皇室の権威に於いて基礎づけられていた。芭蕉はもとより松永貞徳ですらこうした権威に匹敵するものではない。残念ながら俳諧は大名クラスまでは広まっても皇族を巻き込むには至らず、今日に至るまで俳諧の公式ルールともいうべき式目は存在しない。現代連句もそれぞれ勝手にルールを立てて行われている。
 「差合の事は時宜にもよるべし」とあるように、特に俳諧に権威のあるルールがない以上、ルールはその場の状況に応じて臨機応変に適用しなくてはいけない。まあ、国の法律だって杓子定規になってはいけないし、スポーツのルールでも特にサッカーなどの接触プレーの判定は線引きが難しく、審判の勘によるところも多い。今ではVARも導入されているが、その判断も結局は複数審判の協議によるもので、むしろ些細な判定で試合が頻繁に止まることを懸念する声もある。俳諧の差合はそこまでの厳密さもなく、むしろプロレスの判定に近いかもしれない。

2021年2月15日月曜日

 今日は雨だが夕方になって急に晴れた。
 ウイグルもチベットもモンゴルも、大事なのは彼らの先祖代々住んできた土地を取り返す事であって、彼らを日本に連れてくれば問題が解決するというもんではない。こうしているうちにもモンゴルの草原は悪漢どもによって砂漠に変えられてゆく。
 大体彼らを日本に亡命させて、どこで遊牧させるというのだ。待っているのは劣悪な賃金労働だけだ。例によって左翼はその怒りのエネルギーで日本に革命が起こせるとでも思ってるのだろう。

 それでは「三冊子」の続き。

 「師はいかなる人ぞ、連俳直一也。心詞共に連歌有。俳諧有。心は連俳に渡れども、詞は連俳別て、むかしより沙汰仕をける事共有。俳無言と云書に、聲に云詞都而俳言也。連歌に出る聲のものあれども、俳言の方也。屏風、拍子、律の調子、例ならぬ、胡蝶など云類也。千句連哥に出る鬼女、龍、虎その外千句のものゝ詞俳言也。連歌に嫌ふ詞の櫻木、飛梅、雲の峯、霧雨、小雨、門出、浦人、賎女などの詞、無言抄にも紹巴の聞書等にも數多みへ侍る。か様みな俳言也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.85~86)

 風雅の誠に至った時、すべてが語りつくされた感もある。ここからは、俳諧に限定された議論になる。まずは俳諧で用いられる言葉に関するもので、雅語と俳言の問題へと進む。
 連歌と俳諧は共に風雅の誠から生じるものとして、その根は一つとなる。ただ、心は連歌俳諧共通していても、用いる言葉は違っている。
 当時の基本的な通念からすれば、連歌は雅語で作るもので、俳諧はそれに俗語を交えたものだった。俳諧に用いられる俗語は俳言とも呼ばれた。
 「俳無言」は『俳諧無言抄』(宗因著、延宝二年刊)のことであろう。先に「京」の「俳諧」の項に触れたが、同書の「京」の「俳言」の項に、

 「こゑの字なへて俳也。屏風、几帳、拍子、律の調子、例ならぬ胡蝶、かやうの物は連哥に出れと、こゑの字は俳言になると云にならひて俳言をもつ也。又千九連哥に出ぬる鬼女、龍、虎、その外千句の詞、俳言也。又連哥嫌詞の分、桜木、飛梅、雲峯、霧雨、小雨、門出、浦人、賤の女なとの詞、無言抄にも紹巴の聞書等にもあまた見え侍也。かやうの物、皆俳言也と知へし。」(信大・医短・紀要Vol.8,No.1,1982『俳諧無言抄 翻刻と解説その一、翻刻』より)

とある。
 「聲に云詞都而俳言也」の「都而」は「すべて」と読む。「なへて」と同じ。「聲に云詞」「こゑの字」は口語と見ていいだろう。声に出して用いられている言葉という意味だ。八代集の和歌の言葉である雅語と対比して用いられているのだろう。

  「名にめでゝおれるばかりぞ女郎花
    我落にきと人にかたるな
 此句僧正遍照さが野の落馬の時よめる也。俳諧の手本なり。詞いやしからず、心ざれたるを上句とし、詞いやしう、心のざれざるを下の句とする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.86)

 上句は俗語は入らないが女郎花に女とを掛けた部分は戯れている。下句は「落ちにき」が落馬という和歌に用いぬ題材とそれに俗語の「女の許に落ちる」に掛かっているので「詞いやしう」になる。この歌は古今集の秋の所にある。

 「先師のいはく、いにしへの俳諧哥雜躰あまたなれども、まめやかに思ひ入たる躰、
  おもふてふ人の心のくまごとに
   立かくれつゝ見るよしもがな
  冬ながらはるの隣のちかければ
   なか垣よりぞ花は咲ける」

 「おもふてふ」の歌は古今集の「誹謡歌」でよみ人しらず。民謡のような伝承歌なのだろう。「くま」は「こもる」と同系の詞で、隠されている、暗がりにある、ということで、熊野も隠れ里という意味があったのだろう。今日でも目の周りが黒くなることを「目にくまができる」という。
 好きだと言ってくれる人に何か隠し事があると思うたびに、それを物陰からこっそり覗いてみたいものだ、という歌だ。
 「冬ながら」の歌も「誹謡歌」だが、

   明日春立たむとしける日、
   隣の家の方より、
   風の雪を吹き越しけるを見て、
   その隣へよみて遣はしける
 冬ながら春の隣の近ければ
     中垣よりぞ花は散りける
               清原深養父

と前書きと作者名が記されている。「春の隣」は春が近いと隣の家とを掛けていて、おそらく「中垣」は雅語というよりは「ただごと」に近いのだろう。
 雪を花にたとえるのは、古今集の春に、

   雪の木に降りかかれるをよめる
 春たてば花とや見らむ白雪の
     かかれる枝にうぐひすの鳴く
               素性法師

の歌がある。雪に鶯は和歌だが、隣の中垣の花は卑俗な事象に落とすということで俳諧になる。

 「又いはく、春雨の柳は全躰連歌也。田にし取鳥は全く俳諧也。五月雨に鳰の浮巣を見に行くといふ句は詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳也。又、霜月や鴻のつくづく双居て、と云發句に、冬の朝日のあはれ也けり、といふ脇は心詞ともに俳なし。ほ句をうけて一首のごとく仕なしたる處俳諧なり。詞に有んに有。其他この句の類作意に有。信所一筋に思ふべからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.86~87)

 春雨に柳は和歌にも詠まれている。

   延喜の御時屏風に
 春雨の降りそめしより青柳の
     絲の緑ぞ色まさりける
              凡河内躬恆(新古今和歌集)

 これが連歌発句だと、

 春雨をあはをによれる柳哉     宗祇

となる、「あはを」は淡緒で細い糸のことだが、「あは」は「淡雪」の「あは」で、「を」は「玉の緒」の「を」で八代集に用例がある。
 これが俳諧発句になると、

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

になる。「八九間」は俳言になる。また、雨降るが実際の春雨ではなく、柳の糸を雨に喩えた、「雨」を虚とするところに俳諧がある。
 これに対し「田にし取鳥」は和歌でも連歌でも題材とされることはなかったという点で俳諧となる。田螺を詠んだ発句はあるが田螺に鳥はさすがにありきたりなのか、

 古郷を思ひ出るや田にしぬた    言雀(東日記)
 賤の子の泥干遊びや田にし潟    立吟(同)

    贈洒堂
   湖水の礒を這出たる田螺一疋、芦間の蟹のは
   さみをおそれよ。牛にも馬にも踏まるゝ事な
   かれ
 難波津や田螺の蓋も冬ごもり    芭蕉

のような句はある。付け句では、

   編笠しきて蛙聴居る
 田螺わる賤の童のあたたかに    桐葉

の句がある。
 「五月雨に鳰の浮巣を見に行くといふ句は詞にはいかいなし。浮巣を見にゆかんと云所俳也。」は貞享四年の、

   露沾公に申し侍る
 五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん   芭蕉

の句を指す。江戸にいた時の句で、『鹿島詣』の旅はまだ三か月先なので、どこの鳰の浮巣を見に行くのかはわからない。何かしら寓意があって「見にゆかん」だったのだろう。
 「又、霜月や鴻のつくづく双居て、と云發句に、冬の朝日のあはれ也けり、といふ脇は心詞ともに俳なし。」
とあるのは、『冬の日』の、

   田家眺望
   霜月や鸛の彳々ならびゐて   荷兮
 冬の朝日のあはれなりけり     芭蕉

で、発句は「霜月」も「鸛」も「彳々」も雅語ではないし、最後の「て」留にも俳諧がある。これに対してあえて「て」留を生かして、和歌のような続きで無俳言で応じる所に逆説的な意味で俳諧がある。
 「朝日」は、

 朝日さす峰のつづきは芽ぐめども
     まだ霜深し谷の陰草
              崇徳院御歌(新古今集)

の歌がある。 

2021年2月14日日曜日

  昨日の地震はこちらでは特に物が落ちたりということもなかった。時間が深夜な上に緊急事態宣言下で出歩いている人が少なかったのも幸いだった。

 それでは「三冊子」の続き。

 「夫俳諧といふ事はじまりて、代々利口のみにたはむれ、先達終に誠を知らず。中頃難波の梅翁、自由をふるひて世上に廣しといへども、中分いかにしていまだ詞を以てかしこき名也。しかるに亡師芭蕉翁、此道に出て三十余年、俳諧初て實を得たり。師の俳諧は名むかしの名にしてむかしの俳諧に非ず。誠の俳諧也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84~85)

 さて、これまでは俳諧という言葉の説明で、ここからが蕉門の俳論となる。
 俳諧は中世の連歌の盛んな時代に既に始まり、宗鑑・守武により連歌から独立し、松永貞徳によって多くの門弟を得て一つの大衆文化として確立された。
 ただ、そこまでは巧みに話を作り、笑わすというところに留まっていて「誠」を知らなかった。
 談林の祖宗因もまた、貞門の基本的に雅語で俗語は一句一語といった窮屈な制限を破り、謡曲や物語、その他様々な言葉を取り入れて、季語を本意本情と切り離して形式的に用いたり、字数においても破調を認めたりして、絵空事の古典風雅だけでなく、庶民のリアルな世界を自由に描き出す道を開いたが、風雅の「誠」には至らなかった。
 芭蕉翁だけが初めて俳諧に「誠」を得た。芭蕉の俳諧は名前は従来通りの「俳諧」の名称を用いてはいるが、中身の違う「誠の俳諧」として区別されねばならない、という。
 ならばその「誠」とは何かということになる。これは朱子学の概念で、人の感情の喜怒哀楽その場限りに移ろいゆく情に対して、その根底にある情、孟子のいう四端に属するものを「誠」という。
 これは朱子学の理と気に二元論から李退渓の四端七情説を通じて日本の朱子学に持ち込まれた考え方だった。芭蕉は『奥の細道』の旅の際に曾良こと岩波庄右衛門を経由してこれを学んだと思われる。
 これによって『猿蓑』の頃の芭蕉の俳諧は古典に通じる不易の情と流行の現象とを区別し、流行の現象を以て不易の情、風雅の誠を表現するものとなった。
 土芳の『三冊子』は『去来抄』とともにこの『猿蓑』の頃の不易流行説を記した貴重な書となった。これ以降の「軽み」の頃の芭蕉の説を知るには、許六の『俳諧問答』や支考の『俳諧十論』の方が重要になる。

 「されば俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事いかにぞや。師も此道に古人なしと云り。又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐ると、返々詞有。むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり。我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。誠に代々久しく過て、此時俳諧に誠を得る事、天正に此人の腹を得る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.85)

 笑いやもっと広い意味での娯楽、あるいはエンターテイメントといったものは誰もが求めるものだしどこの国にもある。そして、それが多くの人の心を満たし、平和な暮らしに貢献していることは理解できるだろう。
 ただ、こうしたもののしばしば政治的に利用されたりするし、反政府的なもの、それも戦争をやろうとしている国家が非戦的という理由で弾圧したりするのもまたよくあることだ。弾圧まではされなくても、低俗だとか子供向けだとか言って蔑まれ、教育制度から排除しようとするのは今でも続いている。サブカルチャーという言葉も左翼が革命に利用できるという観点から与えた名称だ。
 近代の芭蕉研究も低俗な大衆芸能から西洋文学にも劣らぬ立派な芸術に高めたという視点で行われている。そして西洋文学に比する理由として「写生説」が今でも芭蕉研究の主流となっている。写生説に反対するなら象徴詩として扱うかという二択になっている。
 「俳諧の名有て、其物に誠無が如く代々むなしく押移る事」というのはそうした脆弱さを嘆いて言っているのではないかと思う。「無が如く」は無かったのではなく、有るのに自覚されてなかった、と見た方がいい。
 芭蕉が「此道に古人なし」というのは俳諧にまだ「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という『笈の小文』の言葉に対して、俳諧にそれに匹敵する人物があらわれてないという意味で言ったのだと思われる。貞徳・宗因も傑出した人物ではあるが、彼らと並べるには不足だった。それはこうした芸能の根底にある何かが自覚されてなかった、ということだろう。
 それは不易に通じる何かだから、「又、故人の筋を見れば、求るにやすし。今おもふ處の境も此後何もの出て是を見ん。我是たヾ来者を恐る」と、一時の流行で終わって何も残らないことを恐れていた。
 「むかしより詩哥に名ある人多し、皆その誠より出て誠をたどるなり」と芭蕉が見つけたのは「誠」だった。それは西洋哲学でいう「理性」とも似ているが、東アジアの誠はよりメンタルな方に重点が置かれている。
 西洋哲学が人間だけが動物的な肉体に霊魂が宿り、それが人間らしさを与えているとするが、その霊はロゴス(言葉を意味すると同時に論理を意味する)という言葉に封じ込められている。それは肉体を制御する理論であり、理性を持つものが真の文学とされた。カントは理性を理論理性、実践理性、判断力に分け、芸術における理性を判断力として論じた。
 ただ、西洋のこの霊肉二元論だと、人間の感情は肉体の方に押しやられ、その結果「感動は芸術ではない」という理論になってしまった。大衆芸術がいくら世界中の人を感動させても、芸術はそういうものではなく、一部のマニアックな人間に支持された作品が賞をもらうようにできている。そこでは哲学(形而上学)を学んだ批評家が大きな権威を持っている。そして芭蕉研究もそのやり方を踏襲して行われている。
 西洋の伝統的な形而上学は一方に機械的な欲望があり、一方にそれをコントロールする理性があるというだけで、その中間にある恋愛や友情や日常の喜怒哀楽がそっくり欠落してしまう。そのため大衆芸術が世界を席巻していても、芸術評論家は誰も知らないような無味乾燥な作品を賛美し続けている。(人権問題にしても、人間の肉体は差別する機械であり、理性による立法とそれを行使する警察力だけが抑止できると考えている。)
 ただナチズムや共産圏で起きた数々の虐殺の前に、理性による非情な殺人に対してのカント的な実践理性の無力さを見せつけられ、カミュの不条理哲学をはじめ、実存主義、構造主義、ポストモダンなどの新しい哲学が起こり、西洋理性の伝統そのものが反省されるようになった。ただ、それ喉もと過ぎれば熱さ忘れるで、若い世代の中からマルクス・ガブリエルのようなのが現れている。
 風雅の誠は朱子学のいう「理」ではあるけど、西洋の理性のようなロゴスとして解釈されるようなものではない。朱子学には経緯という考え方がある。理は経であり経糸であり、気は緯であり横糸になる。横糸は空間であり、経糸は時間を意味する。空間は様々なものが並置されている場所でお互いを認識しないが、経糸はそれら全体を見通すことができる。経糸は意識であり、理はこの世界の経糸になる。
 現代の物理学で言うなら横糸は時間を含んだ多次元の時空であり、経糸はその中で生じた特殊な量子的な場ということになるだろう。今はそれ以上のことは言えない。ただ、そこには西洋的なロゴス以上のものが含まれている。
 李退渓の四端七情説は人間の感情の根底に四端に通じる性理を見出す。風雅の誠はその場所に存在する。感情は性理の発露であり、西洋的に言うなら理性から生じる。感情は理性が肉体化されたものであり、機械的な欲望ではない。そのため、感情は理性によってコントロールされるべきものではなく、むしろ理性は感情そのものなのである。ただ、それが発露するときに現実の世界の様々な状況にさらされ、不完全で間違ったことをしているにすぎない。
 西洋哲学も基本的にはこの性理から生み出されたもので、純粋に論理的なものではなく、実際にはこの世界の現実の前で様々な感情や衝動に突き動かされている。思想家は時としてヒステリックに見えるのもそのせいだし、理性の名のもとに虐殺が行われるのもそのせいだ。
 たとえどんな善意思で生み出された思想であろうとも、それがこの現実の世界に直面した時には凶器に変わる。それを防ぐには常にそれが発せられた場所に立ち返るしかない。
 善意思で生じたはずの思想や感情が現実の世界で裏切られ、それが終わりのない争いのなかで朽ち果ててゆくとき、そこに恨みと後悔が起こる。芸能もまた一時の游興騒動を離れて最初の衝動に立ち返った時、風雅の誠はそこにある(Es ist Da)。
 芭蕉はこの不易流行説を説いた時点では、この反省は古典の心を学ぶことによって達せられると考えていた。だが、後に「軽み」を説く頃には、直接自身の初期衝動に求めるようになった。
 余談だが韓国の「恨(한)」も七情から四端へ立ち返る時に生じる恨みであり、単なる怨恨と区別されねばならない。
 「我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる。」とあるように、この芭蕉の行きついた風雅の誠を近代的に翻訳するなら、現代の世界を席巻する大衆芸術のうねりもここに基礎づけることが可能だろう。