2021年2月13日土曜日

  今日は晴れて暖かく、春が来たのを実感させる一日だった。
 楊海英さんの『内モンゴル紛争─危機の民族地政学─』(二〇二一、ちくま新書)で「スーホの馬」のことが出てきた。実の所筆者はこの物語のことを何も知らない。私の通った学校の教科書にはなかったし、その後もこの物語の話を聞くことはほとんどなかった。教科書は学校によって違うから、習った人は知っているのだろう。それでも大抵の人は教科書に載ってたことなんてそんな覚えていないだろう。授業が終わればみんな記憶の外に吹っ飛んで行くもんだ。習っても、そういえばそんな話があったな、くらいにしか覚えてないのではないかと思う。
 我が家は左翼の家庭だけど親も別に「スーホの馬」の話はしなかったし、テレビで見た記憶もない。漫画や小説で引用されているのも見たことがない。話を聞いてもこれからも読んでみようとは思わない。だからモンゴルの人もこの物語を日本人の誰もが知る話だとは思わないでほしい。
 あと、モンゴルが中国の北だという認識は単純に位置関係として認識しているだけで、政治的な意味を持たせている人はわずかだと思う。たとえばモンゴルの人に埼玉がどこにあるかを説明するときには、東京ならどの辺だかわかるだろうと思って「東京の北にある」と言うだろう。中国がどこにあるかは誰もが知っているが、モンゴルはそれほど有名ではないから、中国の北というだけだと思う。ロシアの南でもいいんだけど、ロシアは東西に長すぎるから、かえってわかりにくい。
 日本の大学の中はかなり特殊な世界で、昔の毛沢東崇拝者やその弟子たちが未だに居座ってたりするから、モンゴルから来ると日本が中共に汚染されているかのように感じるかもしれないけど、一般庶民は決してそんなことはないからね。

 それでは「三冊子」の続き。

 「和哥には連歌あり。俳諧あり。連歌は白川の法皇の御代に連歌の名有。此號の先は繼哥と云。其句の數もさだまらず。日本武尊、東夷せいばつの下向、吾妻の筑波にて、
  新はりつくばをこへて幾夜かへぬる
と仰られければ、
  かゞなべて夜には九夜日には十日よ
と火燈しの童の次侍る。是連歌の起とすといへり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83~84)

 日本武尊を連歌の起源とする説は以前にもあり、「宗牧」の『四道九品』にも「夫連歌は熱田大明神新治筑波の言葉より始まりて」とある。
 なお、『古事記』には、「火燈しの童」ではなく「御火焼之老人」とあり、場所も甲斐の酒折宮になっている。今の甲府市酒折では連歌発祥の地ということで、酒折連歌賞を開催しているが、五七七の片歌のお題に五七七の片歌を返すだけのいわゆるネタ物で、中世に隆盛を極めたいわゆる「連歌」には関心がないようだ。
 この後日本武尊は科野(信濃)を経て尾張に行き、美夜受比売に草薙剣を預けたのが熱田神宮の起源とされている。

 「業平、いせの國かりの使の時に、齋宮、歩行人のわたれどぬれぬえにしあらば、と云上に、又逢坂の關は越なん、その盃の皿のついまつのすみして、哥の末を書付とあり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 これは『伊勢物語』第六九段で、

   歩行人のわたれどぬれぬえにしあらば
 又逢坂の關は越なん     業平

となる。
 和歌の上句と下句を分けた古い例となる。「ついまつのすみして」は「続松の炭」で、松明(たいまつ)を燃やした炭という意味。「続松(ついまつ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「つぎまつ(継松)」の変化した語)
  ① 松明(たいまつ)のこと。
  ※伊勢物語(10C前)六九「その杯の皿に、ついまつの炭して歌の末をかきつぐ」
  ② (斎宮が杯に歌の上(かみ)の句を書いて出したのに対して、在原業平が、続松(ついまつ)の炭を用いて下の句を続けて書いたという「伊勢物語」の故事から) 歌ガルタ、歌貝などの、和歌の上の句と下の句とをとり合わせる遊戯。特に歌ガルタの場合が多い。続松草(ついまつぐさ)。
  ※評判記・色道大鏡(1678)七「続松(ツイマツ)うたがるたの事也」
  ※浄瑠璃・本朝二十四孝(1766)一「お慰みに琴の組でも続松(ツイマツ)でも始め」

とある。
 ただ、これが和歌の上句と下句を分けた最古の例というわけではなく、二条良基の『連理秘抄』には、

 「万葉が尼が
  さほ河の水をせきあげてうへし田を
といふに、家持卿
  かるはついねはひとりなるべし
と付けける」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.24)

の短連歌を記している。

 「後鳥羽の院時、禪阿彌法師小林と云、連哥差合其外の句法式の書作れり。是本式なり。聯句法立也。是より新式あり。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 これも二条良基の『連理秘抄』には、

 「建保の比より、後鳥羽院殊にこの道を好ましめ給て、定家、家隆卿など細々に申行はれけるにや、懸物百種を句に随ひて給はせけるなど、この人この人も多く記しをかれたり、八雲の御抄にも末代殊に存知すべしとて、式目など少々記さるるにや、為家為氏卿みな相続して賞玩せられける故に、この道いよいよ盛にして、家々の式など多く流布せり」(『連歌論集 上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫p.25)

とある。禪阿彌法師小林については不明。
 『連歌の世界』(伊地知鐵男、一九六七、吉川弘文館)によれば、「後鳥羽院のころにはほぼ五十韻・百韻に定着して、その後は百韻が一応の基準にさだまった」(p.13)とある。

 「俳諧と云は黄門定家卿の云、利口也。物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付、物いはぬものに物いはせ、利口したる體也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 「利口」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①上手に口をきくこと。話し上手。
  ②こっけいなことを言うこと。冗談。
  ③賢明であること。利発。」

とある。今日では③の意味だけが残っているが、ここでは①と②の意味を合わせたような意味であろう。
 ①の意味だと物語のいわゆるフィクションの才能に近くなる。物語というのは言ってみれば作り話であり、上手に嘘をつくことだ。たとえ歴史小説や社会は小説でも、そこで語られていることは事実そのものではなく、資料や搔き集めた情報に基づきながら、作者の想像力で作り上げられた虚構の世界で、要するに「見てきたような嘘」だ。ただ、それを否定すると文学というのは成立しなくなる。ノンフィクションだって作者の解釈が込められているだけでなく、作品をどう読むかも読者の想像力にゆだねられている。つまり①は俳諧に限らず、すべての文学の根底だといってもいい。
 ②の方は俳諧に特に重要な要素と言ってもいいが、もちろん他の文学でも笑いの要素は欠かすことができない。シリアスな話でも読者が興味を持って読んでもらうには②の要素は欠かせない。
 和歌でも王朝時代の宮廷で歌合せが行われ、題詠で詠む際には、作者の想像力でもってその場にない景色や状況、恋物語などを想像し、歌を詠まねばならない。その意味で和歌でも上手に嘘をつくことと、それを面白くすることは絶対といってもいい。

 「韻學大成に、鄭綮詩語多俳諧。俳は戯也、諧は和也、唐にたはむれて作れる詩を俳諧と云。又滑稽と云有。滑稽は菅仲楚人答る也。本朝に一休和尚あり。是等は人に相當る答の辨の上にありて、いはゆる利口也。古今集にざれ哥と定む。是になぞらへて連哥のたヾごとを世に俳諧の連歌という。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.84)

 「韻學大成」は濮陽淶の『元聲韻學大成』のことか。鄭綮(ていけい)は唐末期の人で「维基百科」に「他以作歇后语诗讽刺政局打动唐昭宗闻名(唐昭宗を感動させる政治情勢を風刺した寓話詩で有名であり)」とある。
 「俳は戯也」というのは俳という文字の意味で、藤堂明保編の『学研漢和大字典』には、

 「①《名》右と左と並んでかけあいの芸をして見せる人、おもしろい姿をして見せる道化役、のち広く役者のこと。「俳優」
  ②《名》戯れ。ざれごと。
  ③《動》ひと筋に歩かず、右に左にとコースを踏みはずしてさまよう。ぶらつく。」

とある。①の意味だと、中国にも漫才のようなものがあったのか。③は徘徊の「徘」と同じ。
 同じく「諧」は藤堂明保編の『学研漢和大字典』に、

 「①《動》やわらぐ・やわらげる 調子をあわせてうち解ける。また、穏やかにする。
    ‥‥略‥‥
  ④《名》たわむれ 調子のよいことば。じょうだん。また、こっけいなおもしろさ。」

とある。
 俳諧というのはまさに変化球で、右に左に揺さぶって婉曲に物事を言いながら人の心を和らげることだと言っていいだろう。
 「滑稽」もまた、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「古代中国,戦国から秦・漢時代にかけての宮廷には,機転の利いたユーモアと迫真の演技力をまじえながら,流れるように滑脱な弁舌をもって,君主の気晴しの相手となり,また風刺によって君主をいさめる人々が仕えていた。滑稽の原義はそのような人々,またはそのような能力を意味する。幇間(たいこもち),道化,あるいは言葉の原義での〈俳優〉の一種であるが,そのなかには漢の武帝に仕えて〈滑稽の雄〉といわれた東方朔のように教養ゆたかな文士もいた。」

とあるように、俳諧とほぼ同義と言っていい。「菅仲楚人答る」は不明。斉の菅仲の故事か。一休和尚は頓智一休で有名だが、いずれも弁説のうえでの「利口」であって、詩歌の利口ではない。
 詩歌の方では『古今和歌集』の俳諧歌があり、連歌の「ただごと」、つまり雅語ではない言葉で作ったものを俳諧という。俳諧は俗語の連歌というのは当時の共通認識だった。
 なお、『俳諧無言抄』(宗因著、延宝二年刊)の「京」の「俳諧」の項に、

 「韻學大成に、鄭綮詩語多俳諧俳と見え侍。俳は戯也、諧は和也。唐にもたはむれてつくる詩を俳諧と云より、古今集にされうたを俳諧哥と定給し也。」(信大・医短・紀要Vol.8,No.1,1982『俳諧無言抄 翻刻と解説その一、翻刻』より)

とある。今ならコピペ疑惑というところか。

2021年2月12日金曜日

  今日は中国では春節、日本では旧正月という。あけおめ~。
 昨日のこっくりさんの喩えは、日本の社会を変革しようとするときも、何か目に付く象徴を決めてそこを集中的に叩くというこれまでの左翼のやり方では駄目だということも言っている。そんなことをやってもこっくりさんのコインが新しくなるだけで、動かしている人はいつまでも古いままだからだ。
 コインを動かしている人は一人ではない。誰か陰のドンがいて世界を操っているような陰謀説は、いくら大衆扇動のための方便と言っても無理がある。世界は無数の人間のそれぞれに異なる思惑のバランスで動いている。世界を変えたいならそのバランスをほんのちょっとでも動かさなくてはならない。
 思想や教条では人は変えられない。変えられるのは経済だ。市場に新たなトレンドを作れば世の中は動く。
 高度成長期の言葉だが「戦後強くなったのは女とストッキングだ」というのがあった。この二つは無関係ではない。女性が消費社会に加わり、市場の重要な部分に食い込んできたことが女性を強くしたのではないかと思う。出遅れたLGBTや障害者が消費社会のカギを握るようになれば、彼らもまた強くなるだろう。そして女性を含めてより強くなるには投資への参加と起業ではないかと思う。
 左翼に分かりやすく言うなら、上部構造の変革ではなく下部構造にマイノリティーが進出することが大事だ。マイノリティーを搾取される側に封じ込めて、その怒りを革命の原動力にしようという発想だと、永久にマイノリティーは悲惨だ。
 そういうわけで労働市場への参加だけでは何も変わらないばかりか永遠に悲惨だ。だが労働・消費・資本の三点がそろえば可能だと思う。BLMの問題も黒人の資本参加と起業によって黒人市場を拡大すれば、自ずと黒人の雇用も増えるし待遇も改善されると思う。
 あと、鈴呂屋書庫の方に「わすれ草」の巻「塩にして」の巻、それに俳話にはなかった貞享二年の「ほととぎす」の巻「牡丹蘂深く」の巻をアップしました。

 さて旧暦では年も改まり今日から春ということで、ちょっと俳諧を読む方は一休みして、俳論の方を少し見ていこうかな。
 『去来抄』と『俳諧問答』をこれまで読んだので、次はを土芳の『三冊子』を読んでみようと思う。基本的には『奥の細道』の旅を終えた猿蓑調の頃の不易流行論の頃の芭蕉の論理が強く反映されていると思う。
 『三冊子』はその名の通り「しろさうし」「あかさうし」「くろさうし」の三冊からなる。まずは「しろさうし」から読んでいこう。

 「俳諧は哥也。哥は天地開闢の時より有。陰神陽神(めがみをがみ)磤馭慮島に天下りて、まづめがみ、喜哉遇可美少年との給ふ。陽神は喜哉遇可美少女ととなへ給へり。是は哥としもなけれども、心に思ふ事詞に出る所則哥也。故に是を哥の始とすると也。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83)

 連歌書では連歌の起源を日本武尊に求めるものはあるが、このように歌の起源を記紀神話に即して語ることはありそうでなかった。もっとも神話はいわゆる「信仰」ではない。世界の起源なんて誰も見たものがいないのだから、基本的には「噂」と言っていいだろう。
 俳諧は「噂」を基礎とする。噂と言っても流言飛語のことではない。人と人との間に和をもたらすための共通認識の形成であり、多様なものを相互に理解し合い、正すべきものを正す。それが俳諧における「噂」だ。
 記紀神話は噂であり、仏教や儒教や道家などの様々な世界観と共存できる一つ「故実」にすぎなかった。故実は原理主義者の言うような信じるべきたった一つの説ではない。様々な故実を照らし合わせる中から整合性を見出して部立てしてゆく素材だった。そして部立てされた故実はそこで終わるのではなく、日々変わりゆく現実の中で柔軟に適用する機知に至る所で学問は完成する。これが平安末期から江戸中期までの日本のエピステーメだった。
 こういう柔軟性が神仏習合の世界の基礎になっていて、同じ基礎の上で儒教や道家も共存していた。日本神話を他のものと切り離して排他的な物としたのは本居宣長の非だった。
 「俳諧は哥也」というのも特に目新しいものではない。二条良基の『連理秘抄』に「連歌は歌の雑体也」とあり、宗砌の『初心求詠集』には「夫謌道は、花になく鶯、水にすむ蛙にいたるまでもその器と申侍れば、人の心じゃらむ如何でか是を翫事なからむ哉、殊連歌は三十字あまりの言の葉を上下にわけて、是に深き心あり」とある。
 宗祇の『長六文』にも、

 「抑連歌と申事は只歌より出来事候、又貫之が詞に人の心を種としてよろづ言葉とぞなれりけると侍れば、連歌も心の外を尋べき事にも侍らず、然共歌と連歌との替目少侍るべきにや、歌には五句を云くだして終に其理を述べ、連歌には上句と云ひ下句といひ別々に取分侍れば、分々に其理なくては不叶事也」(『連歌論集 下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.22)

とある。
 宗長の『連謌比况集』にも「夫連歌は歌より出て其感情歌より深し」とある。
 俳諧は「俳諧の連歌」であり、歌を上句下句に分けたものを更に俗語を交えて行うものをいう。

 「哥は天地開闢の時より有」以下は記紀神話に見られる和歌の起源を述べる。記紀神話の国生み神話に関しては、ここでくだくだ述べることでもないので、手っ取り早くウィキペディアを引用しておこう。

 「『古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。
 伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の二神は、漂っていた大地を完成させるよう、別天津神(ことあまつがみ)たちに命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐、伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした地上を掻き混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。
 二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。」

 「二神は男女として交わることになる。伊邪那岐は左回りに伊邪那美は右回りに天の御柱の周囲を巡り、そうして出逢った所で、伊邪那美が先に「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやし、えをとこを。意:ああ、なんという愛男〈愛おしい男、素晴らしい男〉だろう)」と伊邪那岐を褒め、次に伊耶那岐が「阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやし、えをとめを。意:ああ、なんという愛女〈愛おしい乙女、素晴らしい乙女〉だろう)」と伊邪那美を褒めてから、二神は目合った(性交した)。しかし、女性である伊邪那美のほうから誘ったため、正しい交わりでなかったということで、まともな子供が生まれなかった。」

 「悩んだ二神は別天津神の下へと赴き、まともな子が生まれない理由を尋ねたところ、占いにより、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性である伊邪那岐のほうから誘って再び目合った。」

 この時の「阿那迩夜志愛袁登古袁」「阿那邇夜志愛袁登売袁」が歌の初めとなる。
 『古今和歌集』の仮名序にも

 「このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。あまのうきはしのしたにて、め神を神となりたまへる事をいへるうたなり。」

とある。やまとうたが色好みの道と言われるのもそこから来ている。
 若干民俗学的なことを言うなら、歌の起源は江南系の民族に広く見られる、男女が結婚相手を探すために催される「歌垣(うたがき、かがい)」の際に交わされる歌にあったといえよう。

 「神代には文字定まらず、人の世と成て、すさのをの尊よりぞ三十一字となれる。
  八雲たつ出雲八重垣つまごめに
   やへがきつくるその八重垣を
 此歌より定れると也。和國の風なれば和哥と云。」 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.83)

 「人の世と成て」は『古今和歌集』の仮名序の、

 「ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。」

をそのまま受け継いでいる。
 神代と人の世は、今日では「中つ巻」の神武天皇の登場で区切り、それ以前の「上つ巻」を神話と見なす。神武天皇の東征は歴史とは言えないまでも何らかの実在した過去にかかわる伝承として扱われるが、スサノヲ神話を実在した過去の伝承とすることはない。もっとも、ひところ六十年代くらいだったか、天孫降臨神話を騎馬民族征服説に結び付ける人たちはいたが、今となってはすっかり過去のものとなっている。
 もっとも、アマテラス・スサノヲ神話以降を「人の世」とすることに根拠がないわけではない。伊弉諾尊の黄泉の国から帰る所で伊弉冉尊が「ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」と言っている。この人数が神でないなら、生み出されたばかりの島々に人が住むようになったと解釈できる。そのあとの五穀の起源の神話も、神が食べるものでなく、人の食べるものが生じたと考えられる。
 そして出雲の国に須賀の宮を作った時、

 八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
     八重垣作るその八重垣を

と五七五七七の和歌を詠む。この宮は神様だけの世界にあったのではなく、人の住む世界にあったはずである。
 古今集でいう神代は天地開闢までをいい、その後神と人とが共存する時代があり、神武天皇の時代になって人だけの世界になった。

2021年2月11日木曜日

  今日は旧暦だと大つごもり。明日は旧正月で、中国では春節になる。俳諧の冬も今日で終わり。王子では狐火が現れるって本当かな。
 新暦では神武建国の日で明治帝国憲法発布の日でもある。そういえば建国の日におにぎりをっていつの間にかぽしゃっちゃったかな。
 大会組織委員会の会長に限らす、組織のトップというのは日本ではこっくりさん(Table-turning)の硬貨のようなものだ。みんなが指でおさえ、それぞれの思惑で引っ張ろうとする、その力の均衡がどちらに偏るかで方針が決まってゆく。だからトップの発言なんて誰もそんなに気にしてはいない。全く違う原理で硬貨は動いているからだ。これが「絶対無」の皇帝がいるだけで誰も王様になれない国の政治だ。どうやら新しい硬貨が決まったようだ。

 それでは「塩にして」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   後家を相手に恋衣うつ
 去男かねにほれたる秋更て    桃青

 後家さんの所に通うのは、後家さんの持っている財産に惚れたからだった。
 三十二句目。

   去男かねにほれたる秋更て
 鶉の床にしめころし鳴ク     春澄

 「鶉の床」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 鶉の臥(ふ)す床。草むらのこと。《季・秋》
  ※月清集(1204頃)百首「深草やうづらのとこはあとたえて春の里とふ鶯のこゑ」
  ② むさくるしい寝床。旅の仮り寝などにいう。」

とある。
 金欲しさに殺しちゃうのか。それはヤバすぎる。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「しめころし」は「閨中の秘戯」とある。確かに首を絞めると気持ちいいという俗説はあるようだが、失神して意識が遠くなるだけで非常に危険なので絶対にやらないこと。柔道の「絞め落とし」と同じ。
 三十三句目。

   鶉の床にしめころし鳴ク
 産出すを見ぐるし野とや思ふらん 似春

 栗栖野(くるすの)はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「京都市北区の歴史地名。北野・紫野などの平安京近郊の野のうちの一つ。平安時代初期に遊猟地としてみえ,近郊として宮廷の氷室(ひむろ)が設けられたり官窯が営まれたりしている。とくに栗栖野瓦窯は著名で,ここでの生産と思われる〈栗〉印の瓦が平安京跡からいくつか発見されていて,史跡に指定されている。中世にも近郊の勝地として親しまれたらしく,洛北七野の一つとして萩の名所でもあった。なお洛東にも栗栖野の地名がみられ(伏見区小栗栖),よく両者は混同されるが北区のそれのほうがより著名であったようだ。」

とある。この栗栖野に掛けて「みぐるし野」とする。
 これも生み出してすぐに絞め殺すということか。当時捨て子は犯罪ではなかったし、捨子を収容する施設もなかった。
 三十四句目。

   産出すを見ぐるし野とや思ふらん
 きせうものなき天のかぐ山    桃青

 「きせうもの」は「着せるもの」のウ音便化したものか。
 天の香具山はウィキペディアに、

 「天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、とされる。」

とある。産み落とされたばかりの香具山に、やはり霞の衣を着せてやらなくてはならない。
 「しめころし」の物騒な雰囲気から神話に転じて何とか逃れる。
 三十五句目。

   きせうものなき天のかぐ山
 さほ姫のよめり時分も花過て   似春

 「よめり」は嫁入り。
 桜の季節が過ぎると霞もたなびかなくなり、天の香具山も裸になる。
 春澄の順番だが十七句目で花の句を詠んでいるので、ここは似春に譲ったか。
 挙句。

   さほ姫のよめり時分も花過て
 古巣にかへる仲人の鳥      春澄

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 花は根に鳥はふるすに返なり
     春のとまりを知る人ぞなき
             崇徳院(千載集)

の歌を引いている。佐保姫の嫁入りの仲人を務めた鳥も巣に帰って行く。「帰る」というところで、自身の京への帰還を重ね合わせて一巻は終わる。
 談林の俳諧は庶民の生きた現実の世界を解放したが、時になまなましい話題にもなる。やがて芭蕉は古典へ回帰してゆくことで古人の風雅の心を学びつつ、「軽み」の風を打ち出すあたりから、生きた現実の世界を描きながらも古人の風雅の精神を失わないような地点を求めてゆくことになる。

2021年2月10日水曜日

  楊海英さんの『内モンゴル紛争─危機の民族地政学─』(二〇二一、ちくま新書)を途中まで読んだ。タイトルは「内モンゴル」とあるけど、「内蒙古」だとか「内モンゴル」だとか、本当はこの言葉は使わない方がいいようだ。南モンゴルの方がいい。本来一つのモンゴルが中国と旧ソ連に分断されたもので、北モンゴルは独立国となったが、南モンゴルは長いこと漢民族による迫害が続いている。ウイグルやチベットだけでない虐殺の歴史を持っている。
 南モンゴルというとego fallは以前来日した時に見に行ったし、他にもTENGGER CAVALRYやNine Treasuresがいる。

 それでは「塩にして」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   在郷寺を宿として春
 麦食の𦬇や爰に霞むらん     桃青

 𦬇は菩薩の略字。「ささぼさつ」ともいう。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「「菩薩」の2字の草冠を合わせて「𦬇」とだけ書いた字。「菩薩」の略字として、仏書などの書写に多く使われる。片仮名の「サ」を重ねたように見えるのでいう。」

とある。
 田舎の寺の菩薩像のお供えは麦飯だったして、忘れ去られたように霞んでいる。
 二十句目。

   麦食の𦬇や爰に霞むらん
 妙なるのりととろろとかるる   春澄

 菩薩が説くのは妙なる法(のり)だが、ここでは麦飯に合わせて海苔ととろろをかき混ぜる。
 二十一句目。

   妙なるのりととろろとかるる
 幽霊は紙漉舟にうかび出     似春

 「紙漉舟(かみすきぶね)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 紙を漉く原料を入れる長方形の厚板水槽。紙の寸法に応じて大小があり、紙は漉槽の中に水でうすめた原料を入れ漉簀(すきす)で漉き上げる。紙槽(かみぶね)。
  ※俳諧・江戸十歌仙(1678)一〇「幽霊は紙漉舟にうかび出〈似春〉 さかさまにはひよる浅草の浪〈芭蕉〉」

とある。
 前句の海苔から板海苔を作る作業を思い浮べたか、海苔漉きに似た紙漉きの作業をしていると仏の霊験で海苔が現れる。「とろろ」は紙の粘土を高めるためのトロロアオイやノリウツギなど粘液の意味もある。
 二十二句目。

   幽霊は紙漉舟にうかび出
 さかさまにはひよる浅草の浪   桃青

 浅草紙はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代に、江戸・浅草山谷(さんや)付近で生産された雑用紙。故紙を原料とした漉(す)き返し紙で、普通は色が黒く、黒保(くろほう)とよばれて鼻紙や落し紙に広く使われた。また、漉き返す前に石灰水で蒸解し直したものは色が白く、白保(しろほう)と称して低級本の用紙にも使用された。佐藤信淵(のぶひろ)の『経済要録』(1827)に、「江戸近在の民は、抄(すき)返し紙を製すること、毎年十万両に及ぶ」とあるように、れっきとした製紙産業の一つであった。庶民の日常生活に欠かせないものであったため、江戸時代の川柳などにもよく出てくる。明治以後この地が繁華街となるにつれて、製紙業は周辺の地に分散移転したが、さらに洋式の機械製紙が地方で盛んになるにつれ、手漉きの零細業者はしだいに転廃業して跡を絶った。しかし浅草紙の名は、形や産地が変わってもなお長く庶民に親しまれている。[町田誠之]」

とある。
 この頃は一方で紙漉きの技術を用いた板海苔の浅草海苔も生産されていた。ここではどっちなのかよくわからない。
 『さかさまの幽霊』というタイトルの本も出ているようだが、江戸時代の幽霊は時として頭が下で足が上のさかさまの姿で現れたようだ。延宝五年刊の『諸国百物語』巻之四「端井弥三郎ゆうれいを舟渡しせし事」の幽霊も逆さの姿で現れる。
 二十三句目。

   さかさまにはひよる浅草の浪
 またぐらから金龍山やみえつらん 春澄

 さかさまになりローアングルになると、人の股の間から金龍山浅草寺が見える。金のつく別のものにも掛けていそうだが。
 二十四句目。

   またぐらから金龍山やみえつらん
 聖天高くつもるそろばん     似春

 金龍山浅草寺のすぐ裏には待乳山聖天(まつちやましょうでん)があり、小高い山になっている。今日では日本一短いケーブルカーもある。本龍院が本来の名前。
 金龍寺はたくさんの人が参詣に訪れて金がたくさんあるから、それが積もって山となったのではないか、ということで、積る算盤となる。
 二十五句目。

   聖天高くつもるそろばん
 帳面のしめを油にあげられて   桃青

 帳面の締めで利益が上がるのと白絞油で天ぷらが上がるのとを掛けて、待乳山聖天のように高く利益が積もり積って、天ぷらも積み上げられる。
 二十六句目。

   帳面のしめを油にあげられて
 ながるる年は石川五右衛門    春澄

 天ぷらの揚がるところから石川五右衛門の釜茹でを連想したのだろう。ウィキペディアには、

 「安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。」

とある。
 大年の締めの借金の返済ができなくて質草がながれてしまったため、石川五右衛門に盗まれたかのような損失を出した。
 「ながるる年」weblio辞書の「季語・季題辞典」に「年の暮れ」とある。
 二十七句目。

   ながるる年は石川五右衛門
 まかなひをすいたの太郎左いかならん 似春

 「まかなひ」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「1 食事や宴の用意をすること。また、下宿・寮などで作って出す食事や、それを作る役目の人。「寮の賄い」
  2 料理人が自分たちの食事のために、あり合わせの材料で作る料理。最近は「まかない料理」と称する、手の込んだ料理を出す店もある。
  3 給仕をすること。また、その人。
  「御髪 (みぐし) あげ参りて、蔵人ども、御―の髪あげて参らするほどは」〈枕・一〇四〉
  4 間に合わせること。
  「当座―に金とるだましの空誓文」〈浄・氷の朔日〉
  5 費用を出すこと。
  「一切わたしらが―で」〈人・梅児誉美・三〉」

とある。今では2の意味で用いられることが多いが、かつては金を賄うの意味で用いられていた。「賄」という字は賄賂(わいろ)の賄でもある。
 「まかなひをすいた」の「すいた」は好いたとも取れるし「吸い」と掛けたともとれる。要するに「吹田の太郎左」という人物はすぐに金を要求する人物なのだろう。モデルになった人がいたのかどうかはよくわからない。
 二十八句目。

   まかなひをすいたの太郎左いかならん
 既に所帯も軍やぶれて      桃青

 「所帯」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「[一]名詞
  身に付けているもの。地位・官職・領地・財産など。
  出典平家物語 三・御産
  「しょたい・所職を帯(たい)する程の人」
  [訳] 財産・官職を持つほどの人。
  [二]名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる
  一家を構え、独立した生計を立てること。
  出典仁勢物語 仮名
  「伊勢(いせ)の国にてしょたいしてあらん」
  [訳] 伊勢の国で一家を構え、独立した生計を立てて住もう。」

とある。今日では[二]の意味で用いられるのがほとんどだが、ここでは[一]の意味であろう。
 軍(いくさ)に破れて地位や財産も失い、あの賄いの好きな吹田の太郎左はどこへいったやら。
 二十九句目。

   既に所帯も軍やぶれて
 軒の月横町さして落給ふ     春澄

 「落給ふ」は「軍やぶれて」と「月」の両方を受ける。ただ、舞台が横町(横丁)だから本当の軍ではなく、多分夫婦げんかで[二]の意味での所帯を失うということだろう。
 三十句目。

   軒の月横町さして落給ふ
 後家を相手に恋衣うつ      似春

 「恋衣」は、元禄二年『奥の細道』での「残暑暫」の巻十五句目、

   さざめ聞ゆる國の境目
 糸かりて寐間に我ぬふ恋ごろも  北枝

や「凉しさや」の巻の七句目、

   影に任する宵の油火
 不機嫌の心に重き恋衣      扇風

などの用例がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (常に心から離れない恋を、常に身を離れない衣に見立てた語) 恋。
  ※万葉(8C後)一二・三〇八八「恋衣(こひごろも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」
  ② 恋する人の衣服。
  ※風雅(1346‐49頃)恋二・一〇六五「妹待つと山のしづくに立ちぬれてそぼちにけらし我がこひ衣〈土御門院〉」

とある。
 後家さんの所に通って衣を打っていると、横丁の軒に月も落ちて行く。
 月と砧の縁は李白の「子夜呉歌」。

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征
 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

2021年2月9日火曜日

 今日も晴れていい天気だった。近所の梅も咲いていて春もやや景色ととのうだね。今年はは年内立春だから春だけど春でないって微妙だけどね。
 男でも女でもLGBTでも、人間の持って生まれた性質や成長過程で獲得した性質って(三つ子の魂百までというくらいで)そうそう変えられるもんではない。大事なのは変えなくてもみんながうまくやっていけるようにすることだ。
 西洋のような形而上学による解決は、結局哲学者の数だけ哲学があるという状態で分断と内ゲバを繰り返すだけで、それを無理に一つにしようとすると強大な権力が必要になる。日本人はその道は行かない。よりよい共通認識(江戸時代の俳諧師の言葉で言うと「噂」)を作り上げ、俗を正す。大衆文化だけがそれを作り上げることができる。
 そういうわけで鈴呂屋は変わりません。日本人で男でノンケのままです。

 それでは「塩にして」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   高う吹出す山の秋風
 ふらすこのみえすく空に霧晴て  桃青

 フラスコというと今の日本では理科の実験に使うガラス容器だが、本来は実験に関係なく、ポルトガル語でガラス容器一般をさす言葉だった。
 透き通ったガラスの珍しかった時代、山の秋風に霧が晴れてフラスコのように向こう側が見えるようになった、とする。
 八句目。

   ふらすこのみえすく空に霧晴て
 油なになに雲ぞなだるる     春澄

 「なだる」は口語の「なだれる」と同じで、weblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「1 (雪崩れる)斜面などに降り積もった大量の雪や土砂などが、急激にくずれ落ちる。
  「去年は大雪だったよ。よく―・れてね」〈康成・雪国〉
  2 一度にどっと動く。
  「前後左右に―・れ出した見送り人の中へ」〈芥川・路上〉
  3 斜めにかたむく。傾斜する。
  「西へ―・れたる尾崎(=麓)は、平地につづきたれば」〈太平記・二〇〉」

とある。倒れた瓶から油がこぼれるように、霧が晴れてゆくとともに雲が傾いて崩れて行く。
 九句目。

   油なになに雲ぞなだるる
 浦嶋や櫛箱あけてくやむらん   似春

 浦島太郎が玉手箱を開けると煙が出て、という場面を雲の崩れてゆく様に喩える。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもあるように、謡曲『海士』の、

 「夜こそ契れ夢人の、あけて悔しき浦島が、親子の契り朝汐の波の底に」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.87362-87365). Yamatouta e books. Kindle 版.)

の一節を踏まえている。謡曲の方は「開けて」をさらに「夜が明けて」に掛けている。
 十句目。

    浦嶋や櫛箱あけてくやむらん
 鼠あれゆく与謝の夕浪      桃青

 与謝の海は天橋立の外側の海をいう。謡曲『大江山』にも「天の橋立与謝の海」とある。ここには与謝神社があり、浦島太郎の伝説の地とされている。
 前句の櫛箱を開けたのを鼠がひっくり返して開けたとして、どたどたと鼠の走り回る音があたかも与謝の夕浪のように聞こえる。
 十一句目。

   鼠あれゆく与謝の夕浪
 捨小舟米蛇の跡さびて      春澄

 「米蛇(こめくちなわ)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「米蔵に居て米を食う白蛇で鼠をとる。」とある。米を食われたら困る。これは「米蔵に居る白蛇で米を食う鼠をとる。」の間違いではないかと思う。アオダイショウのアルビノは日本では古くから信仰の対象になっていた。特に岩国のシロヘビは国の天然記念物にも指定されている。
 白蛇様がいなくなれば米蔵は鼠の天下で荒れ放題。米を運ぶための小舟も捨て置かれたままになっている。
 十二句目。

   捨小舟米蛇の跡さびて
 蔵も籬も水草生けり       似春

 米蔵が荒れ果てたのを洪水や川の移動などで浸水したためとする。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、「蔵も籬(まがき)も」は、

 里はあれて人はふりにし宿なれや
     庭もまがきも秋の野らなる
             僧正遍照(古今集)

「水草(みくさ)生(おひ)けり」は、

 わが門の板井の清水里遠み
     人し汲まねば水草生ひにけり
             よみ人しらず(古今集)

を證歌とする。

 十三句目。

   蔵も籬も水草生けり
 今朝みればゐてこし女は貧報神  桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「ゐてこし女」は『伊勢物語』第六段「芥川」の「見れば率(ゐ)てこし女もなし」を引いている。いなくなった女は鬼に食われたということになっている。
 ここではその言葉だけを借りて、蔵が荒れたのを女が貧乏神だからだとする。
 このように和歌、物語、謡曲の言葉などをつなぎ合わせて作ってゆくのがこの頃の俳諧で、共通言語のなかった時代に、多くの俳諧師たちによって俳諧の言葉を作ってゆく過程にあった。都市部を中心にある程度共通の口語が広まってくると、出典を意識せずとも自在に句を詠むような「軽み」が可能になる。
 十四句目。

   今朝みればゐてこし女は貧報神
 大酒ぐらひ口そへて露      春澄

 女は貧乏神の大酒飲みに頼まれて酒の工面をしているのだろう。末尾に放り込みで「露」というときは涙という意味で、今で言えば「大酒ぐらひ口そへて( TДT)」のようなものだろう。
 十五句目。

   大酒ぐらひ口そへて露
 一座の月八つのかしらをふり立て 似春

 大酒飲みといえば「うわばみ」。八つの頭といえば伝説の八岐大蛇(やまたのおろち)。宴会の一座にこんな大うわばみがいて暴れられつと厄介だ。前句の「露」の縁で「一座の月」と「月」を放り込む。一座の主役くらいの意味だろう。
 十六句目。

   一座の月八つのかしらをふり立て
 ばくちに成し小男鹿の角     桃青

 鹿の角はサイコロの材料になる。鹿の角で作ったものを頭(かしら)が振ることで博奕が始まる。
 前句の「月八つ」はこの場合時刻の夜の八つ、丑三つ時に取り成されたか。
 十七句目。

   ばくちに成し小男鹿の角
 数芝ゐぬれてや袖の雨の花    春澄

 この場合の「数」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘接頭〙 名詞の上に付けて、数が多い、安っぽい、粗末な、の意を表わす。「かず扇」「かず雪踏」「かず長櫃」など。
  ※俳諧・江戸十歌仙(1678)一〇「ばくちに成し小男鹿の角〈芭蕉〉 数芝ゐぬれてや袖の雨の花〈春澄〉」

とある。
 どこにでもあるような芝居小屋で、雨で花見に来る人もなく暇を持て余し、結局博奕になる。
 十八句目。

   数芝ゐぬれてや袖の雨の花
 在郷寺を宿として春       似春

 在郷は郷里、田舎のこと。田舎わたらいをする役者集団がお寺に宿泊する。

2021年2月8日月曜日

 寒い日が続くね。
 去年の暮に月間ムーの編集長がラジオに出てきて、東京オリンピックはないと予言してたから、ずっとないものだと思ってたけどね。
 森元(元首相だからネットではそう呼ばれている)があの失言でもやめないのは、多分誰も後釜になりたくないからだと思う。つまりオリンピックの中止を決定する張本人になりたくないから、最後まで森元に押し付けようというのではないかと思う。

 さて、「わすれ草」の巻と同じ延宝六年の冬。少し前になると思うが、松島行脚から戻る途中の京の春澄(はるずみ)を迎えての三吟歌仙をこの冬の最後にしようと思う。
 発句。

 塩にしていざことづてん都鳥   桃青

 言わずと知れた『伊勢物語』の在原業平の歌、

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥
     わが思ふ人はありやなしやと

によるものだが、このあと春澄が京へ戻るというので、都鳥を塩漬けにしてお土産に持たせたいというものだ。
 もちろん冗談で、ユリカモメを食べる習慣はない。
 脇。

   塩にしていざことづてん都鳥
 只今のぼる波のあぢ鴨      春澄

 都鳥は食べないけどあぢ鴨(トモエガモ)は美味なので、都鳥は言伝だけにして、ただいまトモエガモが都へと上ります、とする。ウィキペディアには、

 「食用とされることもあった。またカモ類の中では最も美味であるとされる。そのため古くはアジガモ(味鴨)や単にアジ(䳑)と呼称されることもあった。 アジガモが転じて鴨が多く越冬する滋賀県塩津あたりのことを指す枕詞「あじかま」が出来た。」

とある。

 あぢかまの塩津を指して漕ぐ船の
     名はのりてしを逢はざらめやも
             よみ人しらず(万葉集)

の歌がある。
 春澄は京に戻ったあと、信徳編の『俳諧七百五十韻』(延宝九年刊)に参加する。これに答えて江戸で桃青・其角・才丸・揚水の四人で残り二百五十韻を詠んだのか『俳諧次韻』だった。
 第三。

   只今のぼる波のあぢ鴨
 川淀の杭木や龍のつたふらん   似春

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 吉野なる夏箕の川の川淀に
     鴨ぞ鳴くなる山陰にして
             湯原王(新古今集)

の歌があり、川淀と鴨の縁がある。前句の「のぼる」に「龍」が付くことで、龍が川淀の杭を伝って登る、となる。
 似春はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:元禄年間?(1688~1704)
生年:生年不詳
江戸前期の俳人。通称は平左衛門。俳号は初め似春,晩年に自準と改める。別号,泗水軒。京都大宮に住したようだが,のち江戸本町に移る。晩年は下総行徳で神職に就く。俳諧は初め北村季吟に学び,のち西山宗因に私淑する。『続山井』(1667)以下季吟・宗因系の選集に多くの入集をみている。江戸に移住後は,松尾芭蕉とも交わり,江戸の新風派として活躍した。延宝7(1679)年冬,上方に行脚,諸家と連句を唱和して『室咲百韻』(『拾穂軒都懐紙』とも)を編み,帰府後には『芝肴』を編んでいる。晩年は隠遁,清貧を志向し,「世をとへばやすく茂れる榎かな」などの句を残している。」

とある。言水編『東日記』(延宝九年刊)に、

   世をいとふ心はあれど猶はた物
   くらふ事のあまり成をにくみて
 かくれ家や蚤の心を種として   似春
 酒遠しわすれぬ柚子を吹嵐    同

の句がある。
 四句目。

   川淀の杭木や龍のつたふらん
 千年になる苔みどり也      桃青

 山深い手つかずの森であろう。岩や倒木は苔むしていて、こういうところなら龍が潜んでいてもおかしくない。
 五句目。

   千年になる苔みどり也
 まだとはばいかなるうそを岩根の月 春澄

 千年の苔と岩根の縁は、
 
 常磐なる山の岩根にむす苔の
     染めぬ緑に春雨ぞ降る
             藤原良経(新古今集)

の歌にもある。
 謡曲では「岩根」は「居る」に掛けて「しばし岩根の松ほどに」(『通盛』)とも用いられているが、ここでは「嘘を言う」に掛けて用いられている。「いかなるうそを岩根の月」は「いかなるうそを言う、岩根の月」となるが、これは反語で、千年の苔の緑は嘘ではないと、月も証明してくれる、となる。
 六句目。

   まだとはばいかなるうそを岩根の月
 高う吹出す山の秋風       似春

 前句の反語を疑問に取り成し、どんな嘘をついたのか、山の秋風までが吹き出して大笑いしている。

2021年2月7日日曜日

 鈴呂屋書庫の方に「あら何共なや」の巻と、貞享二年春の「何とはなしに」の巻「つくづくと」の巻をアップしたのでよろしく。今年に入ってたくさん俳諧を読むことができた。ゆくゆくは芭蕉の全付け句を制覇して、発句と紀行文だけで芭蕉研究が成り立ってた時代を終わらせたいね。
 あと、Madmans Espritというバンドはなかなか良い。韓国にもヴィジュアル系があるというのを知った。日本語の曲もあった。ms.isohp romatem(ミス・イソフ・ロマテム)もなかなか良い。
 それでは「わすれ草」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   いさご長じて石摺の露
 どんよなも今此時をいはひ哥   桃青

 「どんよな」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「鈍なひと。間抜け者の意か。」とある。これだと関西弁の「どんくさい」に近いと考えていいのだろう。「よな」は終助詞「よ」+終助詞「な」で、謡曲にも「狂うよな」「をかしいよな」「ありけるよな」「八騎よな」「討手よな」などの言い回しが見られる。「鈍(どん)」だけで鈍くさい奴という意味があって、「よ」+「な」にさらに「も」のついた形かもしれない。
 まあ馬鹿でもチ〇ンでもというような意味合いで「鈍」でも今この時は祝い唄、でそれが君が代とちょっと違ってて「いさご長じて石摺」になってしまったということなのだろう。
 なお、余談だが「馬鹿でもチ〇ンでも」という言葉はウィキペディアに、

 「元々「チョン」は江戸言葉であり、その原義は「半端者」などの意味で使われてきた。
 公益役職などにおける役務を帳票に記す際、筆頭名主は役職名と姓名を記したのに対して、筆頭以下の同役に対しては「以下同役」の意味で「ゝ(ちょん)」と略記したうえで姓名を記したことに由来し、「取るに足らない者・物」を意味した。この表現は、明治初期に書かれた『西洋道中膝栗毛』(1870年)においても、「馬鹿だのチョンだの野呂間(ノロマ)だの」などと言ったかたちで用いられてきた。」

とある。
 筆者の感覚だと馬鹿チョンのチョンが朝鮮人に結び付けられるようになったのはわりと最近で、多分九十年代以降だと思う。
 三十二句目。

   どんよなも今此時をいはひ哥
 園生の末葉ならす四竹      千春

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に『徒然草』の第一段の「御門(みかど)の御位は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の、末葉(すゑば)まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。」を引用している。
 「四竹(よつだけ)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「日本の伝統楽器の一つ。竹製の打楽器で、太い竹を四つに割って削り、両手にそれぞれ二枚ずつ持ってカスタネットのように打ち合わせて鳴らす。主として民俗芸能において用いられ、さらには猿回しや女太夫(たゆう)、住吉(すみよし)踊などの舞踊に用いられる。歌舞伎(かぶき)の下座(げざ)音楽では舞踊と同様、門付(かどづけ)や大道芸人などの出る場面のほかに、下町の裏長屋などの貧しい家の場面に用いている。[渡辺尚子]」

とある。
 園生の末葉の鈍までも祝い唄を歌って四竹を鳴らす。
 三十三句目。

   園生の末葉ならす四竹
 馴てやさし乞食の妹背花に蝶   信徳

 乞食の結婚を祝言風に言う。
 三十四句目。

   馴てやさし乞食の妹背花に蝶
 うぐひす啼てこものきぬぎぬ   桃青

 「きぬぎぬ」は後朝という字を当てるが、元の意味は重ねてあった衣と衣をそれぞれ着て、という意味。乞食だから重ねてあった「薦(こも)」を着る。
 芭蕉の元禄三年に発句に、

 薦を着て誰人います花の春    芭蕉

というのがある。
 三十五句目。

   うぐひす啼てこものきぬぎぬ
 思ひ川垢離も七日の朝霞     千春

 思ひ川は「おもひかはす」と掛けてできた言葉か。「垢離」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏教用語。水で清めてあかを取去ること。山伏や修験者が神仏に祈願するとき,冷水や海水を浴びて身を清めることをいう。」

とある。
 前句の「こものきぬぎぬ」を修行中の乞食坊主とする。
 挙句。

   思ひ川垢離も七日の朝霞
 南無や稲荷の瀧つせの春     信徳

 稲荷の瀧は、『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

   稲荷の神庫に、女の手にて書き付けてはべりける
 滝の水かへりて澄まば稲荷山
     七日のぼれるしるしと思はむ
             よみ人しらず(拾遺抄)

によるとある。稲荷山は京都の伏見大社の裏にある。お稲荷さんも神仏習合の時代には「南無稲荷大明神」と呼ばれた。
 神仏の加護ある春ということで目出度く一巻は終わる。