2020年5月7日木曜日

 今日からまた仕事で、人も車も例年よりは少ないが、がらがらというわけでもない。こんなんで本当に大丈夫なのか。清水建設も工事を再開すると言っているし。

   変わったお茶をご馳走になる
 月を背に漁火遠い日本海

 まあとにかく今日は晴れた。旧暦四月十五日で満月が見える。
 今年は四月閏で四月が二ヶ月ある。そんなにたくさん卯月の俳諧を見つけるのは面倒なので、一足早く五月の連歌を読んでみようかと思う。
 随分前に図書館で借りて読んだ『心敬の生活と作品』(金子金次郎、一九八二、桜楓社)所収の、「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」を読み返してみようと思う。
 応仁元年(一四六七)というとあの有名な応仁の乱の年だが、その前年の文正元年(い四六六)七月の文正の政変があり、その年の十二月には畠山義就が大軍を率いて上洛し、京都は既に戦乱状態に入っていた。翌文正二年(一四六七)の一月には御霊合戦が起こり、京都の戦火は広がっていった。
 そして文正二年三月五日に改元され応仁元年となった。そしてその応仁元年四月二十八日、心敬は戦乱に明け暮れる京都を離れ関東に下る。まず伊勢神宮に参拝し、それから船で武蔵国品川に着いた。この独吟はその品川での吟になる。
 心敬の草庵がどこにあったかは今となっては謎だが、『心敬の生活と作品』(金子金次郎)によれば、南品川の南馬場のあたりだという。近くに天妙国寺があるが、かつては妙国寺と呼ばれ、

 ながれきてあづまにすずし法の水  心敬

の発句を詠んでいる。
 「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」はその品川に着いたばかりの五月の吟とされている。
 発句。

 ほととぎす聞きしは物か不二の雪  心敬

 ホトトギスの声が聞こえたが、あれは幽霊か物の怪のたぐいだろうか、富士は雪で真っ白だ。
 富士は雪で真っ白で冬のようだから、ホトトギスなんて鳴くはずがない、でも聞こえてくる。それを「物か」と疑う。
 「物」は多義で、今で言う物質に近い意味もあるが、霊魂だとかたましいだとかいう意味もあるし、物の怪も本来は物質が化けたということではなく、霊魂の意味での物の怪異だった。
 現実のホトトギスの声は「物か」と疑うことによって、現象を超えてその背後の世界、物自体の世界を響かせることになる。単なる音波ではなく、魂の声となる。
 品川からだと、富士はそんなに大きくは見えない。ひょっとしたら、伊勢からの船旅で、駿河沖から見た富士山のイメージがあったのかも知れない。
 脇。

   ほととぎす聞きしは物か不二の雪
 雲もとまらぬ空の涼しさ      心敬

 真っ白な富士山が見えるというからには、そこには雲がない。
 旧暦の五月は五月雨の季節だから、晴れるというのも珍しい。「雲もとまらぬ」というのは小さな雲が流れては消え、留まることがないという意味で、それだけ風がある、晴れてもそんなに暑さを感じさせない日だったのだろう。
 第三。

   雲もとまらぬ空の涼しさ
 月清き光によるは風見えて     心敬

 富士の雪は雲が止まらないから見えるもので、雲が止まらないのは風吹いているからで、雲が動くことで風が見えている。
 江戸時代の俳諧にはないわかりやすい展開で、それでいて月で秋に転じ夜分の景色とし、発句としっかり離れている。

2020年5月6日水曜日

 今日は一日曇りで午後から雨、夜には雷になった。今日も籠城。
 連休も終わりで、とにかくこれで感染者が減ってくれて、誰も死なないことを祈るだけだ。

   世話好きの熟年尼にときめいて
 変わったお茶をご馳走になる

 それでは「かくれ家や」の巻の続き、挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   鹿の音絶て祭せぬ宮
 冠をも落すばかりに泣しほれ    芭蕉

 冠(ここでは「かむり」と読む)は神主さんのかぶるもので、それを落とすばかりにというのは、うずくまって泣き崩れる様であろう。
 一体この神社に何があったのか。おそらく人も亡くなったのであろう。
 三十二句目。

   冠をも落すばかりに泣しほれ
 うつかりつづく文を忘るる     等躬

 届いた手紙を途中まで読んで早合点して泣き崩れてしまったが、実はその手紙、続きがあった。前句の哀傷を笑いに転じる。
 三十三句目。

   うつかりつづく文を忘るる
 恋すれば世にうとまれてにくい頬  素蘭

 「にくい」は憎いというそのままの意味のほかに、「そりゃあにくいねーー」だとか「ほんと、にくいお人」みたいに褒めて使う場合もある。この場合は後者の意味か。
 恋したがために周囲に焼餅を焼かれハブられてしまったか。それでも嫌いになれないその頬がにくい。これというのも手紙の続きを置いてきてしまって、人に読まれてしまったからだ。
 三十四句目。

   恋すれば世にうとまれてにくい頬
 気もせきせはし忍夜の道      栗斎

 相手は逢ってはいけない人だったために周囲の猛反対にあった。それでもひそかに合いに行く。夜になってから家を出て、気持ちは急くばかり。
 三十五句目。

   気もせきせはし忍夜の道
 入口は四門に法の花の山      曾良

 「四門」というと釈迦の出家の動機となった四門出遊のことか。
 お釈迦様が城から出ようとしたのは、実は恋人に会うためで、そのつど老人、病人、死人にはばまれ、ついに北門からの脱出に成功したが、僧に捕まって出家する羽目になった。
 挙句。

   入口は四門に法の花の山
 つばめをとむる蓬生の垣      等雲

 前句を草の生い茂った山の中の庵とし、南の方からはるばるやってきたツバメ(芭蕉・曾良)もそこでやすらぐことになる。こうして目出度く一周して可伸庵に戻って、この歌仙は終了する。

   かくれ家や目だたぬ花を軒の栗
 まれに蛍のとまる露草       栗斎

   入口は四門に法の花の山
 つばめをとむる蓬生の垣      等雲

 こうした発句と挙句の呼応は、「詩あきんど」の巻の、

   詩あきんど年を貪ル酒債哉
 冬-湖日暮て駕馬鯉(うまにこひのする) 芭蕉

   詩あきんど花を貪ル酒債哉
 春-湖日暮て駕興吟(きょうにぎんをのする) 芭蕉

にも似ている。

2020年5月5日火曜日

 今日は昼間ちょっと晴れたがその後雨になった。
 今日も一日籠城。「籠城」は「ステイホーム」と違って、いかにも見えない敵と戦ってるぞという感じがして良い。
 「生存権」というのはすべての人権の中でも最も重いもので、生存権のためなら他の私権を制限することは本来可能なはずだ。
 例えば正当防衛というのは、自分の生存権を守るためには他人を殺す権利を持つということだ。
 感染症対策も基本的に生存権に基づくものだということを認識しなくてはならない。強制的な移動制限、外出制限、経済活動の制限、学校の閉鎖もすべての人の生存権のためであるなら容認される。これは人権思想の初歩ではないかと思う。
 感染症対策での強権発動は民主主義や人権思想と矛盾するものではない。
 世界では中国の責任を追及する声が高まっているようだが、日本では中国べったりの左翼やマスゴミが全部安倍の責任にしようとしてわめいている。
 その安倍政権も中国の利権かからんでるのか、中国を非難しようとはしない。
 せっかく死者数をこれまで少なく抑えることに成功したというのに、世界の手本になれないわけだ。国民は最高だが政治は最低だ。

   黙っておこうカミングアウト
 世話好きの熟年尼にときめいて

 それでは「かくれ家に」の巻の続き。

 二十五句目。

   朴をかたる市の酒酔
 行僧に三社の詫を戴きて      曾良

 「三社の詫」は「三社託宣」と呼ばれるもので、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「伊勢神宮のアマテラスオオミカミ,春日神社の春日大明神,石清水八幡宮の八幡大菩薩の託宣を一幅に書き記したもの。正直,清浄,慈悲が説かれている。神儒仏三教を融合するとともに,皇室,貴族,武士の信仰を1つにまとめている。室町時代末期から江戸時代まで広く庶民信仰の対象として普及した。吉田家の祖,卜部 (うらべ) 兼倶の偽作とされるが根拠はない。」

とある。
 その内容は、

 天照皇太神宮:計謀雖為眼前利潤必当神明罰
        正直雖非一旦依怙終蒙日月憐
 八幡大菩薩 :雖食鉄丸不受心穢人物
        雖生銅焔不到心穢人処
 春日大明神 :雖曳千日注連不到邪見家
        雖為重服深厚可赴慈悲室

 天照皇太神宮:
  目先の利益ではかりごとをすれば必ず神罰を受ける
  正直は一時しのぎではなく必ず日月の憐れみを蒙る
 八幡大菩薩 :
  たとえ鉄の塊を食わされても心穢れた人から物をもらってはいけない
  たとえ燃え盛る銅の椅子に座ろうとも心穢れた人の所に行ってはいけない
 春日大明神 :
  たとえ千日の注連縄が引いてあっても、邪な考えの人の所に行ってはいけない
  たとえ多くの不幸が重なり喪に服していても、慈悲ある人はやってきてくれる

 八幡大菩薩の宣託は尾崎豊が「Bow!」という歌の中で、

 「鉄を食え餓えた狼よ、死んでも豚には食いつくな」

と歌っていて、現代に生きている。
 春日大明神の宣託は淫祠を戒めているのだろう。ふと箱根を歩いた時のことを思い出す。
 こうした教えは吉田神道とともに広まったとされている。曾良の師である吉川惟足も吉田神道の流れを汲んでいて、『奥の細道』の旅で僧形となった曾良もまた、その布教に貢献してたのではないかと思う。
 三社託宣は江戸の市井でコハダの味を語る酔客たちにも広まっていったが、それとは関係なくコハダは後に江戸前寿司の光物(ひかりもの)として欠かせぬものになる。
 二十六句目。

   行僧に三社の詫を戴きて
 乗合まてば明六の鐘        素蘭

 乗り合いの渡し舟を待っていたら明け六つの鐘が鳴る。「明け六つ」は不定時法で日の出の時刻になる。
 三社の託の説法は渡し舟を待つ人に向けても行われていたか。
 二十七句目。

   乗合まてば明六の鐘
 伽になる嶋鵯の餌を慕ひ      等躬

 鵯(ヒヨドリ)は漂鳥で、秋の季語とされている。嶋鵯はシロズキンヒヨドリで、頭が白い。色がきれいなので画題にもなっている。
 「伽になる」というのは飛べなくなっていた所を保護して餌をやっているということか。一晩経って元気になったならそれは目出度い。
 二十八句目。

   伽になる嶋鵯の餌を慕ひ
 四五日月を見たる蜑の屋      栗斎

 嶋鵯は海人の家で面倒を見ていて、その間夜通し月を見て過ごす。
 流人となった在原行平のことも思い浮かぶ。
 二十九句目。

   四五日月を見たる蜑の屋
 徒にのみかひなき里のむら栬    等雲

 人もまばらな海辺の里では紅葉だけが無駄に鮮やかだ。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮
             藤原定家(新古今集)

の歌とは違い、紅葉はある。
 三十句目。

   徒にのみかひなき里のむら栬
 鹿の音絶て祭せぬ宮        曾良

 寂れた里の荒れ果てた神社では神鹿もいないし、祭もない。
 こういう荒れ果てた神社の現状を調べ上げ、復興に結びつけるのも、神道家にして旅人である曾良の仕事だったのだろう。

2020年5月4日月曜日

 今日は午前中雨が降った。一日籠城。
 午後にサンクトガーレンのアマビエエールが届いた。
 「鈴呂屋書庫」の方、この前から 「いと涼しき」の巻、「此梅に」の巻、「実や月」の巻、 「海くれて」の巻、「杜若」の巻、 「温海山や」の巻、「忘るなよ」の巻、「文月や」の巻、「枇杷五吟」といったところをアップしているのでよろしく。

   これじゃまるでボーイズラブの女キャラ
 黙っておこうカミングアウト

 「枇杷五吟」は前に「この興行も元禄二年の冬だったのかもしれない。」と書いたが、鈴呂屋書庫にアップした分には、

 「元禄三年の日付欠落で十二月頃とおもわれる加賀の句空に宛てた書簡で、

 「次郎助其元仕舞候而上り可レ申旨、智月も次第に老衰、尤大孝候。則さも可有事被存候。早々登り候と御心可被付候。」

と次郎助(乙州)に大津への帰還を促しているところから、この頃北枝・牧童らとともに大津に来たのかもしれない。となると、この興行は元禄三年十二月ということになる。」

と、元禄三年説を取ることにした。
 それでは「かくれ家や」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   かすめる谷に鉦鼓折々
 あるほどに春をしらする鳥の声   素蘭

 「あるほど」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① いる間。また、生き長らえている間。
  ※和泉式部集(11C中)下「ある程はうきをみつつもなぐさめつ」
  ② そこにある限り。あるだけ。
  ※二人比丘尼色懺悔(1889)〈尾崎紅葉〉奇遇「あるほどの木々の葉〈略〉大方をふき落したれば」

とある。①の意味で隠遁者の風情だろう。
 山奥に身を潜め、こうして生きながらえている間は鳥の声が春を知らせてくれる。谷の底の方からはお遍路さんの鉦の音が聞こえてくる。
 二十句目。

   あるほどに春をしらする鳥の声
 水ゆるされぬ黒髪ぞうき      等躬

 この時代では水で髪を洗うということは滅多になかった。遊郭ですら月二回だったと『色道大鏡』(藤本箕山著、延宝六年刊)にあるという。庶民は年に数回という状態だったようだ。
 この場合「黒髪」だからまだ若い、多分女性であろう。それが「あるほどに」というから病弱なのだろうか。
 とすると、「水ゆるされぬ」は男が通ってくるでもない駕籠の鳥状態のことをいうのかもしれない。
 二十一句目。

   水ゆるされぬ黒髪ぞうき
 まだ雛をいたはる年のうつくしく  須竿

 これは言わずと知れた『源氏物語』の若紫。
 もっとも若紫の場合は「水ゆるされぬ」ではなく、髪を梳くのを嫌がっていて、長い髪の毛が扇を広げたようになっていた。それを源氏が切ってあげる場面がある。

 「いとらうたげなるかみどものすそ、はなやかにそぎわたして、うきもんのうへのはかまにかかれるほど、けざやかにみゆ。
 きみの御ぐしは、わがそがんとて、うたて、所せうもあるかな。いかにおひやらんとすらんと、そぎわづらひ給(たま)ふ。
 いとながき人も、ひたひがみはすこしみぢかくぞあめるを、むげにおくれたるすぢのなきや、あまり情なからんとて、そぎはてて、ちひろといはひきこえ給(たま)ふを、少納言、あはれにかたじけなしとみたてまつる。

 はかりなきちひろのそこのみるぶさの
  おひ行(ゆ)く末(すゑ)はわれのみぞみん

ときこえ給(たま)へば、

 ちひろともいかでかしらむさだめなく
  みちひる潮ののどけからぬに

と、ものにかきつけておはするさま、らうらうじき物(もの)から、わかうをかしきを、めでたしとおぼす。」

 (可愛らしい髪の先の方の毛をばっさりとそぎ落として、浮紋の礼装用の袴にはらりと落ち、鮮やかに広がります。
 「君の髪は私が梳く。」
とは言うものの、
 「それにしても凄いボリュームだ。
 どんな風に伸ばして整えればいいのやら。」
と梳ぎながら悩んでしまいます。
 「思いっきり長く伸ばしている人でも、前髪はやや短めに切ることが多いし、全部梳いて短く切りそろえてしまうのはいかにもダサいな。」
ということで、髪を梳き終わると、
 「千尋にながくなあれ。」
と呪文を唱えたので、少納言の乳母(今では乳母ではないが)はありがたいやら申し訳ないやらです。

 果てしない千尋の海の底のミル(海松)
     どこまで伸びて行くか俺は見る

と歌い上げると、

 千尋なんて深さかどうか知りません
     満ちたり引いたり潮は気まぐれ

と紙に書いてよこす様子がけなげなので、若くて可愛いというのはいいもんだなと思いました。)

 こういう名場面を思い出させてくれるのは、本説付けの一番の効用だ。
 二十二句目。

   まだ雛をいたはる年のうつくしく
 かかえし琴の膝やおもたき     芭蕉

 この場合の「琴」は七弦琴で膝に乗せて演奏する。源氏の君も得意としていた。
 膝に乗る幼い紫の上と膝に乗せる七弦琴の重さをつい較べてしまったのだろう。
 『源氏物語』から離れてはいないが、特に原作にはない場面なので良しとする。
 二十三句目。

   かかえし琴の膝やおもたき
 轉寐の夢さへうとき御所の中    須竿

 これは「邯鄲の夢」。須竿の本説はわかりやすい。「轉寐」は「うたたね」と読む。
 明智光秀の『天正十年愛宕百韻』五十八句目の、

   賢きは時を待ちつつ出づる世に
 心ありけり釣のいとなみ      光秀

の太公望ネタのように、いかにも覚えたての本説付けという感じだ。
 二十四句目。

   轉寐の夢さへうとき御所の中
 朴をかたる市の酒酔        等雲

 「朴」は「こはだ」と読む。コノシロの小さいのをそう呼ぶ。
 本当は「この城」のことを語りたいのだろう。自分がいつかお城に行って偉くなるんだと夢を語っても、どうせ「この城」まで行かないコハダ止まりだというわけで、ましてや御所なんぞ夢の夢だ。

2020年5月3日日曜日

 今日もいい天気でやはり暑い。
 wifiルーターの調子が悪かったので、それで予約して外出し、機種変更した。人は結構歩いている。子供連れの家族、老夫婦など、あまり一人で歩いてはいない。
 映画の『シンゴジラ』に、

 「日本はスクラップ&ビルドでやってきた。だから大丈夫、きっと立ち直る」

という言葉があったが、今のコロナもその時なのだろう。これからたくさんの店が潰れ、たくさんの企業が倒産し、たくさんの人が失業者になる。補助金や何かで一生懸命延命を図っても、いつかは壊れる時が来る。
 でもそのあと日本はまた奇跡を起せると信じている。
 今回ばかりは日本だけでなく、世界中でスクラップ&ビルドが起こると思う。時代は変わる。乗り遅れにご注意を。

   焼けぼっくいを横目で眺め
 これじゃまるでボーイズラブの女キャラ

 「かくれ家や」の巻の続きに行く前に、「温海山や」の巻で一分修正。

 五句目。

   土もの竃の煙る秋風
 しるしして堀にやりたる色柏  不玉

 陶芸窯の燃料にする薪を取りに行く。
 倒れかけた古木などにまず印をつけ、これを切り倒し、根も掘り出して使う。ここでは紅葉した柏が選ばれる。
 六句目。

   しるしして堀にやりたる色柏
 あられの玉を振ふ蓑の毛    曾良

 「堀」を動詞ではなく名詞の「堀」に取り成し、お城と武士を思い浮かべ、

 もののふの矢並つくろふ籠手の上に
     霰たばしる那須の篠原
                源実朝

の歌から霰へ持って行く。
 霰を防ぐために蓑を着るが、百姓から借りた蓑なのか、その蓑も古びて毛ばだっている。

 それでは「かくれ家や」の巻の続き。

 十一句目。

   酒の遺恨をいふ心なし
 婿入は誰に聞ても恥しき      曾良

 おそらく酔って過ちを犯し、責任取らされたのだろう。
 婿養子というのは昔から肩身の狭いものだが、これだと余計に肩身が狭い。
 まあ、跡取り欲しさに嵌められたのかもしれない。
 十二句目。

   婿入は誰に聞ても恥しき
 ざれて送れる傾城の文       等雲

 婿養子の弱みを握っている遊女は、あの手この手でいじり倒そうとする。実家に文などとはそら恐ろしい。
 十三句目。

   ざれて送れる傾城の文
 貧しさを神にうらむるつたなさよ  須竿

 金がなくて通うことができないから、その言い訳に冗談めかした文を遊女に送る。金持ちだったら身請けできるのに、というところか。
 十四句目。

   貧しさを神にうらむるつたなさよ
 月のひづみを心より見る      素蘭

 心に僻みがあれば月もひづんで見えるということか。
 十五句目。

   月のひづみを心より見る
 独して沙魚釣兼し高瀬守      等躬

 「高瀬守」は高瀬舟を管理している人のことか。「高瀬舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「近世以後、川船の代表として各地の河川で貨客の輸送に従事した船。小は十石積級から大は二、三百石積に至るまであり、就航河川の状況に応じた船型、構造をもつが、吃水の浅い細長い船型という点は共通する。京・伏見間の高瀬川就航のものは箱造りの十五石積で小型を代表し、利根川水系の二百石積前後のものはきわめて長大で平田舟(ひらだぶね)に類似し、大型を代表する。」

とある。
 いくら高瀬守だからといって、船を勝手に拝借して沙魚釣(はぜ釣り)を楽しむのは職権濫用というもの。でも実際にいたんだろうな。月もひづんで見える。
 十六句目。

   独して沙魚釣兼し高瀬守
 笠の端をする芦のうら枯      栗斎

 はぜ釣り船は芦のうら枯れの中を行く。ここは景を付けて流す。
 十七句目。

   笠の端をする芦のうら枯
 梅に出て初瀬や芳野は花の時    芭蕉

 芭蕉は『笈の小文』の旅で初瀬や芳野の桜を見て回ったが、その前に伊勢で御子良子の梅を見ている。
 前句を春もまだ早い頃の伊勢の浜荻とし、自分自身の旅の記憶を付けたか。連句でこういう私的な体験を付けるのは珍しい。
 まあそれを抜きにしても、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
              能因法師


の興で、いかに長く旅をしてきたか、という句ではある。「芦のうら枯」は別に難波の芦としてもいい。
 十八句目。

   梅に出て初瀬や芳野は花の時
 かすめる谷に鉦鼓折々       曾良

 前句をお遍路さんのこととする。
 西国三十三所めぐりに吉野は入ってないが、三十三所は時代によっても変わってきているし、江戸時代にはついでにその周辺の有名な寺院を回るのは普通で、江戸から来る場合は長野の善光寺にも立ち寄ったという。

2020年5月2日土曜日

 今日は暑い一日になった。とはいえ、まだ飲み物をがぶがぶ飲むほどではない。これから先は下痢にも気をつけないとな。トイレも閉鎖されているし。
 学生の頃読んだアルビン・トフラーの『第三の波』に、そういえば今で言うテレワークが予言されてたのを思い出した。もう四十年も前のことだ。その頃の学生も定年を迎える頃となっている。
 今思うと一体何をしていたかという所だ。何のためにみんな四十年も満員電車に揺られてたのか。
 結局職場でも教育でも、誰も何も変えようとしなかった。惰性のように古いシステムを引きずって今に至ったいる。その付けを今払うことになるのか。

   君の気を引くにも炭に火は着かず
 焼けぼっくいを横目で眺め

 それでは「かくれ家や」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   秋しり㒵の矮屋はなれず
 梓弓矢の羽の露をかはかせて    素蘭

 矮屋の主を源平合戦時代かそれ以前の武将とした。

 もののふの矢並つくろふ籠手の上に
     霰たばしる那須の篠原
                源実朝

のような世界を感じさせる。
 八句目。

   梓弓矢の羽の露をかはかせて
 願書をよめる暁の声        芭蕉

 願書というと今では入学願書のイメージだが、本来は神に祈願する時の文書で願文ともいう。
 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」によると、

 「(1)平曲の曲名。《木曾願書》とも称する。伝授物。読物(よみもの)13曲の一つ。木曾義仲が挙兵して越中の砥波山(となみやま)まで来て埴生(はにゆう)に陣を取ったとき,林の間に見える社が八幡宮と知り,連れていた大夫房覚明に命じて願書を書かせた。覚明は儒家の出身で,〈帰命頂礼八幡大菩薩は日域の本主……〉と見事な文章の願書をしたためた。これを八幡宮に納めたところ,山鳩3羽が義仲軍の白旗の上を飛び回ったので,義仲は冑を脱いで礼拝した。」

というのがあったという。
 平曲にはこの外にも『平家連署願書』というのがあるという。こちらの方は平家一問が比叡山を味方につけるために書いた願書のようだ。
 多分芭蕉がイメージしていたのは木曾願書の方だろう。芭蕉は木曾義仲の大ファンで、『奥の細道』の旅の後、上方にいた頃にはしばしば近江の義仲寺に滞在し、死後もここに埋葬された。
 九句目。

   願書をよめる暁の声
 松歯朶に吹よはりたる年の暮    栗斎

 松は門松の松、歯朶(しだ)も正月飾りに用いられる。
 江戸時代には今のような初詣の習慣はなく、正月の飾りつけの際に神事が行われたのであろう。
 元禄三年の年末の、

 半日は神を友にや年忘れ      芭蕉
 雪に土民の供物納る        示右

の発句と脇にもそれが感じられる。
 十句目。

   松歯朶に吹よはりたる年の暮
 酒の遺恨をいふ心なし       等躬

 「酒の遺恨」は酒乱で滅茶苦茶なことをやってしまったということか。年の暮れになると、今年もいろんなことがあったなという話になり、心なくも古傷が蒸し返される。

2020年5月1日金曜日

 今日は金曜日で明日から五連休の人も多いのか、車は多かった。先週の金曜ほどではないが。
 九月入学を批判するなら代案を出しておかないとね。
 これからの教育はネットを中心とするとことで人を一所に集める必要がなくなり、時間や空間から自由になるのではないかと思う。ネットで年齢に関係なくいつでも世界中の授業が受けられるようになれば、いつでも入学し、卒業できるようになる。
 年齢や時空を超越した教育、それが四月入学や九月入学に取って代わるようになる。

   すぐに過ぎてくたまの休日
 君の気を引くにも炭に火は着かず

 それでは「かくれ家や」の巻の続き。

 第三。

   まれに蛍のとまる露草
 切崩す山の井の名は有ふれて    等躬

 「山の井」は浅香山の山の井で、『奥の細道』に、

 「等窮が宅を出て五里計(ばかり)、檜皮(ひはだ)の宿(しゅく)を離れてあさか山有り。路より近し。此のあたり沼多し。」

とある。

 安積山影さへ見ゆる山の井の
     浅き心をわが思はなくに
          陸奥国前采女『万葉集』巻16 3807

の山の井だが、この頃にはもう切り崩されて存在しなかったのだろう。名前だけは有名で季吟の撰集の名前にもなっている。

 滝の音は絶えて久しくなりぬれど
     名こそ流れてなほ聞こえけれ
              藤原公任(拾遺集)

の歌にも通じるものがある。
 今はない山の井もすっかり有名になってしまったから、稀に蛍のような尊い客人がやってくる。
 四句目。

   切崩す山の井の名は有ふれて
 畔づたひする石の棚橋       曾良

 「棚橋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 板を棚のようにかけ渡した橋。欄干(らんかん)がなく、板を渡しただけの橋。
  ※万葉(8C後)一〇・二〇八一「天の河棚橋(たなはし)渡せ織女(たなばた)のい渡らさむに棚橋(たなはし)渡せ」

とある。
 この句は倒置で「石の棚橋(を)畔づたひする」という意味で、山の井は今はなく田んぼなっている、となる。
 五句目。

   畔づたひする石の棚橋
 把ねたる真柴に月の暮かかり    等雲

 前句の「畔づたひ」から、山奥の農村で柴刈りから帰る農民の姿につきを添える。
 六句目。

   把ねたる真柴に月の暮かかり
 秋しり㒵の矮屋はなれず      須竿

 「矮屋」はここでは「ふせや」と読むようだが、コトバンクだと「わいおく」という読みで、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 低く小さい家屋。矮舎。また、自分の家をへりくだっていう語。
  ※蕉堅藁(1403)山居十五首次禅月韻「放歌長嘯傲二王侯一、矮屋誰能暫俯レ頭」 〔開元天宝遺事‐巻上〕」

とある。
 前句の柴刈る人を隠遁者として、いかにも秋の悲しさを知り尽くしているような顔をしている、とする。