2020年1月30日木曜日

 「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 十七句目。

   後のなみだはただあぶら也
 口つつむつぼの石ぶみまよひきて  守武

 壺の碑(いしぶみ)はウィキペディアには、

 「12世紀末に編纂された『袖中抄』の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。
 「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。」

とある。
 「つぼ」という地名のところにあったから壺の碑で、壺に書いたわけではない。
 江戸時代になると仙台の方で多賀城碑が発見され、芭蕉もここを訪れ、「羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と記している。ただ、これは『袖中抄』の記述とは一致しないし、天平宝字六(七六二)年という碑に記された建立の年号も坂上田村麻呂がまだ四歳の時で、壺の碑より古い。
 壺は「つぼむ」と掛けて、口を包んで(口を抑えてのことか)つぼむ壺の碑となる。そんな言うに言われぬことを記した文に迷い涙を流すが、物が壺なだけに壺に入った油のようなものだとなる。
 十八句目。

   口つつむつぼの石ぶみまよひきて
 奥州なればものもいはれず     守武

 『連歌俳諧集』の注には奥州には口を包む習俗があることと訛りがひどいことをあげているが、後者に関しては近代の標準語制定以降の話で、近世までは奥州に限らず日本中どこへ行っても独自の方言を喋っていた。そのため連歌は八代集の歌語、いわゆる雅語を用いていた。
 俳諧の言葉も雅語を基礎としながら謡曲や浄瑠璃や漢文書き下し文などの言葉を取り込み、さらに江戸上方などの俗語を交えた作られた共通語だった。
 口を包むというのはおそらく寒さのためであろう。
 十九句目。

   奥州なればものもいはれず
 なかなかの判官どのの身の向後   守武

 壺の碑に奥州に判官(義経)と、ここでも展開は緩い。
 源の判官義経殿がその後どうなったかというと、奥州のことなのでなかなかわからない。
 義経が北海道に渡ったという説は、ウィキペディアによるなら、

 「寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である。」

という。守武の時代にはまだなかったようだ。義経=ジンギスカン説はシーボルトの『日本』が最初だとされている。
 二十句目。

   なかなかの判官どのの身の向後
 しづかが心なににたとへん     守武

 義経の波乱万丈の生涯を思えば、静御前もさぞかし心休まることがなかっただろう。そんな静御前の心を何に喩えればいいのか。
 天文九年(一五四〇年)の『守武千句』には、

   月見てやときはの里へかかるらん
 よしとも殿ににたる秋風      守武

の句がある。これを受けて芭蕉が『野ざらし紀行』で詠んだ。

 義朝の心に似たり秋の風      芭蕉

という句もある。
 静御前の心も喩えるならやはり秋風だろうか。
 二十一句目。

   しづかが心なににたとへん
 花みつつ猶胎内にあぢはへて    守武

 この頃には各懐紙の最後の長句が花の定座という意識があったようだ。三の懐紙が二句最後から二番目の長句になっているだけで、あとは最後の長句になっている。
 静御前の花の舞だとすると打越の義経からなかなか離れられない。このあたりもやはり展開が緩い。
 鎌倉での静御前の花の舞は桜ではなく卯の花だったが、このとき静御前は義経の子を孕んでいて、頼朝に男子だったら殺すといわれ、その通り男子が生まれ殺されたと『吾妻鏡』は記す。
 二十二句目。

   花みつつ猶胎内にあぢはへて
 いとどへそのを永き日ぐらし    守武

 前句の「胎内にあぢはへて」を『伊勢物語』四十四段の「この歌は、あるがなかに面白ければ、心とどめてよまず、腹に味はひて。」の腹で味わう(腹の中に留めておく)の意味にする。
 花を見ながらそれを腹に留め、「胎内」との縁で臍の緒のように長い一日を暮らす、と続ける。

2020年1月29日水曜日

 伝染病が蔓延してくるといろいろなことが起こるが、ただみんなウィルスが憎いだけで人が憎いのではないと思う。そこは信じなくてはいけないし、安易にヘイトなんて言葉は使わないで欲しい。
 ここはみんな新型肺炎という共通の敵に向って心を一つにしなくてはいけない場面だ。最も避けなくてはならないのはお互いに疑心暗鬼になって足を引っ張り合うことだ。
 それでは「守武独吟俳諧百韻」の続き。

 初裏
 九句目。

   月につかふや手水ならまし
 下葉散る柳のやうじ秋立て     守武

 今では楊枝というと小さくて尖っている爪楊枝のことだが、かつては歯ブラシとして使われる房楊枝が用いられていた。
 「やうじ」が平仮名なのは、「下葉散る柳の様な」と「楊枝」を掛けているからで、「立て」も「下葉散る柳の立つ」と立秋とを掛けている。
 歯磨きは水のある所で行う。
 十句目。

   下葉散る柳のやうじ秋立て
 はがすみいつの朝ぎりのそら    守武

 「はがすみ」は『連歌俳諧集』の注に「歯くそ」とある。歯垢のこと。
 風邪にすす鼻、房楊枝に歯垢のような時折こういう緩い展開の句があるのは、この時代の特徴なのだろう。その意味でも貞徳の独吟は画期的だったのだろう。
 十一句目。

   はがすみいつの朝ぎりのそら
 かへりてはくるかりがねをはらふ世に 守武

 「かりがね」は雁がねと借金に掛けている。「はがすみ」はこの場合「剝がす身」だと『連歌俳諧集』の注にある。
 「くる」も「繰り越す」に掛けているのか、繰り越してきた借金も払い終えてしまえば、身ぐるみ剝がされるのもいつのことだったか、最悪の事態を回避できたということになる。
 十二句目。

   かへりてはくるかりがねをはらふ世に
 さだめ有るこそからすなりけれ   守武

 帰ってはまた来る雁がねに定住する烏と違えて付ける。
 烏はは烏金に掛けている。烏金(からすがね)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《翌朝、烏が鳴くまでに返さなければならない金の意》日歩で借りて、借りた翌日にすぐ返すという条件の高利の金。」

とある。
 普通の借金は繰り越すことができるが、烏金は期限が決まっていて繰りこせない。
 「さだめ有る」というと、江戸時代の、

 大晦日定めなき世の定めかな    西鶴

も思い浮かぶ。一般論として定め無きは世の常だが、掛乞(かけごい)には定め(期限)がある。
 十三句目。

   さだめ有るこそからすなりけれ
 みる度に我が思ふ人の色くろみ   守武

 外で働く男達は日に曝されることで色素沈着が起こり、歳とともに色が黒くなってゆく。老化は生きとし生けるものの定めではあるが、それにしてもカラスみたいだ。
 十四句目。

   みる度に我が思ふ人の色くろみ
 さのみに日になてらせたまひそ   守武

 色が黒くなるのは日に曝されたからで、ここの展開も緩い。ただ口語っぽくして女性に語りかける体に変えている。咎めてにはの一種と見ていいだろう。
 十五句目。

   さのみに日になてらせたまひそ
 一筆や墨笠そへておくるらん    守武

 前句をそのまま手紙の内容とした。
 「墨笠」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「地紙を黒く染めた日傘。」

とある。
 十六句目。

   一筆や墨笠そへておくるらん
 後のなみだはただあぶら也     守武

 「後」は「のち」ではなく「あと」と読むようだ。「涙の跡」のことか。この墨笠に塗ってある油は私の涙です、ということか。

2020年1月28日火曜日

 「守武独吟俳諧百韻」の成立した一五三〇年だが、どういう時代か少し見てみようか。
 連歌界ではもちろん宗祇法師はもういない。肖柏も大永七年(一五二七年)に没している。宗長は天文元年(一五三二年)まで生きたので、八十二歳の高齢ながらまだ存命だった。
 宗長の弟子で「宗祇独吟何人百韻」の古注を残した宗牧は生まれた年がわからないので何歳だったかわからないが、一五四七年まで生きている。
 同じ「宗祇独吟何人百韻」の古注を残した周桂は一四七〇年生まれで六十歳。一五四四年まで生きる。荒木田守武が一四七三年生まれなので三つ年上になる。
 守武と並んで俳諧の祖とされる山崎宗鑑は一四六五年生まれで守武より八つ上になる。一五五三年没。
 戦国時代を代表する連歌師で、明智光秀の参加した「天正十年愛宕百韻」でも有名な紹巴は大永五年(一五二五年)生まれでまだ五歳。古今伝授の細川幽斎はまだ生まれていない。
 政治の方では西村勘九郎正利(後の齋藤道三)が美濃守護土岐氏から美濃を奪った頃で、織田信長はまだ生まれていない。
 この頃の将軍は十二代将軍足利義晴だった。まあ、戦国時代のことはあまり詳しくないので、これくらいに。
 さて「守武独吟俳諧百韻」だが、少しずつ進んでいきます。

 四句目。

   春寒み今朝もすす鼻たるひして
 かすみとともの袖のうす帋     守武

 「袖のうす帋」は紙子の袖のこと。紙子はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「紙で作った衣服。上質の厚くすいた和紙に柿渋をぬり、何度も日にかわかし、夜露にさらしてもみやわらげ、衣服に仕立てたもの。もと律宗の僧侶が用いたという。古くは広く貴賤の間で用いられていたが、近世ごろは、安価であるところから貧乏人などが愛用した。柿渋をぬらないものを白紙子(しろかみこ)という。かみぎぬ。《季・冬》 〔文明本節用集(室町中)〕
 ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)草加「紙子一衣は夜の防ぎ」

とある。
 今でも新聞紙などは風を通さないということで防寒着として使わたりする。災害の時やバイク乗りなどが用いる。紙子も夜着としての綿の蒲団が普及する以前には珍重されたのではないかと思う。
 近世になると紙が安価になったため、貧乏人の衣裳となったようだが、守武の時代はどうだったかはわからない。紙が貴重だった時代はそれなりに高価だっただろう。
 春の薄霞とともに袖も薄紙と洒落てみている。
 五句目。

   かすみとともの袖のうす帋
 手習をめさるる人のあは雪に    守武

 手習(てならひ)は「手(書)」を習うことで、「めさるる」というのだから高貴な人なのだろう。
 「『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)の注は蛍雪の功のこととするが、多分それでいいのだろう。紙子も夜着であるなら、紙子で寒さをしのぎながら雪の灯りで書の練習をするのはありそうなことだ。
 実質的には夜分だが夜分の言葉は入っていない。このあと二句去りで「月」が出るのはちょっと気になる。
 「あは雪」と「霞み」の縁について、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)は、

 さほ姫の衣はる風なほさえて
     霞の袖にあは雪ぞふる
            嘉陽門院越前(続後撰)

の歌を引用している。
 六句目。

   手習をめさるる人のあは雪に
 竹なびくなりいつかあがらん    守武

 淡雪に竹靡く(竹が押し倒される)は比喩で、いまは下手だがいつか上達するとする。
 七句目。

   竹なびくなりいつかあがらん
 ともすれば座敷の末の窓の前    守武

 立派な書院造りの座敷であろう。入口のあたりには明かり取りの障子を張った窓がある。
 この場合の前句の「竹なびく」は本物の竹とも取れるが、延々と挨拶が終らない主人と客とのやり取りの比喩とも取れる。いつになったら座敷に上がるやら。
 八句目。

   ともすれば座敷の末の窓の前
 月につかふや手水ならまし     守武

 便所のことを遠まわしに「手水」という。今でも「お手洗い」という言葉があるがそれと同じとみていいだろう。
 特に女性などは「手水に」などとも言わずに、「月を見に行く」というのがその合図だったりする。「お花摘みに行ってきます」のようなもの。

2020年1月26日日曜日

 新型肺炎が大変な状態になっているが、中国からの情報はあてにならないし、マスコミはその中国からの情報をそのまま流すだけだし、日本の政府もいくらもらっているか知らないが対策が甘いな。まあ、自分の身は自分で守れってことかな。
 「竹のカーテン」という言葉を久々に思い出した。
 さて、旧暦でも年が改まり、今年もまた俳諧を読んで行こうと思う。
 今回取り上げてみたのは『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)所収の「守武独吟俳諧百韻」で、『伊勢正直集』の跋文に、

 「享禄三年正月九日夜、時ハ亥、ねぶとやむとさくり出しぬ、さらば初一念ながら法薬にと、びろうながらねながら百韻なれば、さし合も侍らんか」

とある。
 享禄三年正月九日は西暦で言うと一五三〇年二月十六日になる。一年最初の子の日になる。子の日はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「ね【子】の日(ひ)
 (「ねのび」とも)
 ① 十二支の子にあたる日。特に、正月の最初の子の日をいうことが多い。この日、野に出て小松を引き若菜を摘み、遊宴して千代を祝う。《季・新年》
 ※亭子院御集(10C中)「ねのひに船岡におはしましたりけるに」
 ② 「ね(子)の日の松」の略。
 ※後拾遺(1086)雑四・一〇四六「君がうゑし松ばかりこそ残りけれいづれの春の子日なりけん〈源為善〉」
 [補注]「ネノヒ」は「根延(の)び」に通じると解され、「日葡辞書」「書言字考節用集」に「ネノビ」と三拍目が濁音の例が見られる。

とある。
 子の日は若菜を摘み、小松を引き抜いて遊んだ。若菜摘みは後の七草粥に変り、小松引きは門松へと変わった行ったが、両者が並行して行われる時期も長かったと思われる。
 「ねぶとやむ」の「ねぶと」は根太とも書き、おできや吹き出物のことを言う。ぶどう球菌などが皮膚に感染して起こるという。化膿するとひどい痛みに襲われる。
 さて、そんな中で法薬にと一念発起して作ったのが「守武独吟俳諧百韻」で、その発句をまず見てみよう。

 松やにはただかうやくの子日哉   守武

 「かうやく」は膏薬。松脂は膏薬の粘りを出すために用いる。
 子の日の遊びに本来は長寿を願って小松を引き抜いて遊ぶはずだったが、今日は根太の痛みに堪えかねて、だた松脂の入った膏薬だけで子の日を過ごすことになった。
 目出度くもあり目出度くもなしという感じだが、脇もまたそれを引き継ぐ。

   松やにはただかうやくの子日哉
 かぜはひくとも梅にほふころ    守武

 松引きの「引き」を「風邪」に掛けて「風はひくとも」と受ける、受けてにはだ。
 根太だけでなく風邪まで引いて、せっかくの梅の匂いも鼻が詰まって嗅ぐことができないのは残念だ。目出度くもあり目出度くもなし。
 第三。

   かぜはひくとも梅にほふころ
 春寒み今朝もすす鼻たるひして   守武

 「たるひ」は垂氷でつららのこと。すすった鼻水がも凍る寒さで、春の目出度さを離れて悲惨さだけが残る。まあ、自虐というのはギャグの基本だが。

2020年1月24日金曜日

 今日は師走の晦日、大つごもり。除夜の鐘もなければ、初詣の人の群もないし、空には月すらない。でもそれが芭蕉の時代の大晦日だった。借金がなければ早々に酒でも飲んで寝るのが最高の大つごもりだったのだろう。
 もちろん一方では掛け金の取立てに駆けずり回る人、そこから逃れようとする人もいた。これを掛乞(かけごい)と言った。

   深川の草庵にありて、年をむかふる夜、
   人々掛乞の句あまたいひ捨たるに、
   先師の茶話に、掛乞は冬の季しかるべし。
   つなぬきの音さえて小挑灯の影いそがしきは、
   彼が本情にして、よのつねの掛乞おかしからず、
   夜着・ふとん・水風呂の類ならば、
   発句にして冬の雑体ならんと
 掛乞や猫の啼居る台所     支考「草苅笛」

 この句は台所の猫の啼き居るは掛乞や、の倒置で「や」は疑いのやになる。猫が掛乞するわけではなくて、掛乞みたいだという意味だから。

  春来ると猫もいそがし品定   之道「己が光」

 この句は冬の部のところにある。年内立春のことか。

   柊・鰯の頭・豆うつよりはやく、
   立春の暦は
 豆をうつ音よりはやし猫の恋   越人「鵲尾冠」

 春を待たずにさかる猫は「猫の寒ざかり」ともいう。ただ、最近は野良猫も減って、猫の声を聞かなくなった。狸ばかり増えている。

 それはそうと話は変わるが、韓国起源説というのはもともと戦後の日本の左翼系の学者が、韓国に行って日本と同じものを見つけるとみんな朝鮮半島から渡ってきたことにしてしまった、そのあたりから始まったのではないかと思う。
 調査範囲が広がると、同じものが中国の南部や東南アジアなどでも見つかって、あっちの方が起源だということになってゆくが、古い知識のまま止まってしまっている人もたくさんいる。
 李栄薫の『反日種族主義』にも徴用工の問題は、

 「賃金は無きに等しかった。あったとしても朝鮮人を大きく差別し、日本人よりずっと少なかった。
 このような主張は、日本の朝鮮総連系知識人、または日本のいわゆる「良心的」知識人によって一九六〇年代から始められました。それを受けて韓国の研究者たちも、同じ主張を今に至るまで単純に繰り返しています。」(no.1090-94)

と書いていて、もちろん日本の「良心的」知識人も同じ主張を今に至るまで単純に繰り返している。
 同じく『反日種族主義』に従軍慰安婦のことも、

 「最も深刻な誤解は、慰安婦たちが官憲によって強制連行されたというものです。例えば憲兵が、道端を歩く女学生や畑で仕事をしている女性たちを、奴隷狩りをするようにして強制的に連れて行った、というようなものです。こんな話を最初もっともらしく作り、本まで書いた人がいますが、驚いたことに日本人です。」(no.3294)

と書いてある。日本人で左翼の家庭に育った筆者からすれば別にこれは驚くようなことでもなんでもない。彼らは外圧によって日本を変えようとしていたからだ。
 彼らは日本人は外圧に弱いと信じている。ペリーの黒船が来たらあっさりと開国して、原爆が落ちたらあっさりとアメリカの言いなりに民主化した。だから韓国や中国が攻めてくれば日本にも革命が起こるというわけだ。
 「劣等民族」という言葉も日本の左翼が言い出したことだと思う。自発的に革命を起せない劣等民族である日本人は、中国に占領されて初めてまっとうな人間になれるというわけだ。
 何のことない韓国の反日種族主義はすべて日本人が仕組んだことだった。韓国に罪はない。みんな日本人のしたことだ。

2020年1月23日木曜日

 「テコンダー朴」(原作:白正男、作画:山戸大輔)という漫画を読んだ。面白いけどこんなふうに韓国の反日種族主義をパロディーにして大丈夫なのかな。青林堂は勇気がある。さすがに『ガロ』を出していた会社だ。
 ネット上で「鬼滅の刃」が「テコンダー朴」と似ているなんてのがあったが、読んでみて「『鬼滅の刃』の起源は韓国ニダ」という種のネタだとわかった。
 さて、テコンドーといえば踵落とし、踵落としといえば故アンディ・フグということで、今日も鰒の句をつれづれに。

 那須の石玉川の水ふぐと汁   一鉄(俳諧当世男)

 那須の石は殺生石のことであろう。付近の火山ガスの作用により鳥獣の命を奪う。これに対し玉川の水は清らかな水として知られている。この両面を持つのが河豚と汁というわけだ。

 砒礵石瀬ぶみなりけり鰒汁   一閑(俳諧雑巾)

 「砒礵石(ひそうせき)」は有毒な砒素を含む石で、「瀬踏み」は川などで渡れるかどうか試すことをいう。河豚汁は砒素石を試すようなもの、という意味。

 煮売也さよの中山河豚汁    正長(俳諧雑巾)

 煮売りは移動販売の振売りと違い、店舗を構えて料理を提供するものを言う。小夜の中山で河豚と汁を売る茶店があったのか、よくわからない。食べ終わって無事なら、まさに「命なりけり」というところだろう。

 月は霜重ねふとんやふぐの腸  露吸(東日記)

 河豚の内臓には毒がある物が多い。ここでいう重ね蒲団に喩えられている「腸」は白子(精巣)ではないかと思う。
 重ね布団は夜着のことではなく綿の入った敷布団で、ふかふかの敷布団を三段重ねるのは遊郭でも大夫のようの最高位の遊女の贅沢だったという。

 鰒を煮て尺迦の売僧を知ル世哉 濁水(庵桜)

 「売僧(まいす)」は商売をする堕落した僧のこと。そんなことを言ったら今の坊さんはみんな売僧になってしまいそうだが。
 お坊さんも鰒の誘惑には勝てず、殺生の罪を犯してしまうということか。

 あの坊が鰒にまよふて落葉かな 簑里(二葉集)

 これも似たようなテーマだが、落葉に喩えて綺麗にまとめるあたりが、元禄も終わりに近い頃の風だったか。『二葉集』は惟然の撰。

 鰒の子や何をふくれて流レ行  八橋(いつを昔)

 河豚は膨れるものだが、河豚と汁ではなく生きている河豚を詠んだのは珍しい。

 投られて砂にいかるや鰒の面  竹西(一幅半)

これも膨れた河豚を詠んだものだろう。

 人の命や仙家にも鯸を売ならば 鉄卵(庵桜)

 人は河豚で命を落とすが、仙人ならどうなのだろうか。

 葬礼の其中を売ル鰒哉     賀子(蓮実)

 葬式をやっているところに鰒売りが着たりしたら、何かつまみ出されそうだが、実際にそんなことがあったのか。ちょっと作った感じがやはり大坂談林なのだろう。

 喰ふてや死ぬかと思ふふぐと汁 斧卜(卯辰集)

 これはそのまんまという感じで特にひねりはない。

 ちればこそいとど桜はめでたけれ鰒 牧童(卯辰集)

 最後の「鰒」がなければ普通に桜を詠んだ句になる。桜は散るから美しいということだが、鰒を食うにもその美学なのか。どうせ散りもせず、というところで、

 河豚汁や風呂に入ても何のその 尋問(花の雲)

 これは千山撰の『花の雲』からで、惟然の超軽みの風の句。
 ところで筆者はまだ鰒を食べたことがない。

2020年1月22日水曜日

 河豚を詠んだ句が多いのも、河豚が実際はそれほど危険でなかった証拠であろう。
 確かに死ぬことはあるが、かなりの率で死ぬならそれこそ「洒落にならない」わけで、俳諧の洒落になるのは安全だからだ。
 今日安心してふぐ料理が食べられるのは、必ずしも河豚の調理を免許制にして管理されているからだけではない。その免許を取るのに必要な知識や技術は決して一朝一夕に生じたものではなく、それこそ縄文時代からの長い河豚食の歴史によるものに他ならない。
 それに加え、衛生状態が今よりも明治の頃よりも更に悪かった江戸時代にあって、危険は何も河豚だけに限らない。夏に食中毒で死ぬ確率は鰒で死ぬよりも高かったかもしれない。
 また、生活の中でも野草や茸の採集を日常的に行っていた時代には、誤って毒草や毒茸を食べる危険もあった。
 食中毒や毒草・毒茸の危険に較べると、鰒の危険は計算できる危険であり、選択できる危険だった。
 いつ突然変なものを喰って死ぬかもしれない時代にあって、予測できてそれでいてそれほど確率の高くない危険であれば、年末に無事正月が迎えるかどうか占う意味でも、河豚というのは運試しをするのにちょうどよかったのかもしれない。
 そこで、死ぬかもしれない、でも死ななかった、その喜びが河豚の句に溢れているのではないかと思う。芭蕉の、

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 桃青

の句はまさにその典型と言えよう。
 そして無事年を越せれば、

 鰒汁の白髪めでたし年忘    桃妖(草苅笛)

となる。
 河豚には雪を詠むことが多い。

 雪辱し夜ルかつらぎの鰒姿   暁雲(武蔵曲)
 雪路ふかく水仙刈つ夜の鰒   言水(武蔵曲)
 舟君のさうしや落る雪の鰒   山川(其袋)
 河豚釣らん李陵七里の浪の雪  芭蕉(桜下文集)
 魚店に鰒の残るや雪けしき   呂風(続有磯海)
 河豚つりや海にきわ立ツ山の雪 史邦(俳諧猿舞師)
 初雪の消る所や河豚魚汁    冶天(正風彦根体)
 鰒くふて其後雪のふりにけり  鬼貫(大悟物狂)

 鰒の身が白いこと、雪の季節に食べることなどから、寄り合いになったのだろう。
 発句ではないが河豚が秋に詠まれた例もある。

   世の栄街に月の占見せて
 河豚めづらしく秋の江に釣ル  如泉(庵桜)