2020年1月21日火曜日

 今日は旧暦の十二月の二十七日。夜明け前の東の空の月も細くなった。春は近い。
 まだ冬だということで今日のテーマは鰒、それに河豚、あるいは魨、さらには鯸と、どれも「ふぐ」やないけーっ。
 まあ、

 河豚ほど鰒によう似た物はなし 鬼貫(其袋)

という句もあるくらいだから、鰒の表記の多様さは昔からネタにされていた。
 河豚は豊臣の秀吉が禁止し、伊藤博文が解禁したともいうが、この歴史はあまりに途中を省略しすぎている。

 鰒つりや今も阿漕が浦の波   凉莵(一幅半)

という句もあるから、一応禁制の意識もあったようだが、江戸時代に河豚を詠んだ句はたくさんあり、芭蕉さんも、

 あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁 桃青(俳諧江戸三吟)

の発句を詠んでいる。
 とはいえ、鰒の句は延宝、天和の頃に流行するが、その後はあまり詠まれなくなっている。
 当時は鰒というと鰒汁(ふぐとじる)だったようだ。

 ふぐ汁や生前一樽のにごり酒  卜尺(俳諧当世男)

 芭蕉が日本橋に居た頃お世話になっていた小沢さんの句だが、鰒喰って死ぬかもしれないから、一樽の酒を飲んで死のう、というわけだが、「一樽」がいかにも大袈裟だ。酒豪自慢か。

 ふぐ汁や其外悪魚鰐の口    泰徳 (俳諧当世男)

 下七五は謡曲『海人』の竜宮の玉塔の守護神八竜の登場の場面の「八龍並み居たり其外悪魚鰐の口」をそのまま用いている。鰒汁も人の命を奪う恐ろしい悪魚や鰐と並ぶというわけだ。

 鰒汁是なん悪魚椀の口     休嘉(俳諧雑巾)

 これはネタ被りだが鰐の口を「椀の口」に変えて洒落ている。

 我や獏荘子が夢を鰒汁     直貞(俳諧雑巾)

 荘子の夢というのは胡蝶の夢のことか。夢に蝶になるように、人は死んでも別の物になり、どっちが生でどっちが死かはわからない、というわけだが、鰒という生死未分の物を喰って、生きるか死ぬかをはっきりさせてしまう自分は、荘子の夢を喰う獏だということか。
 どこかシュレーディンガーの猫を思わせる。

 身はなき物となん読しは魨の浜 少羽(東日記)

 これは西行法師の歌として伝えられている、

 世を捨てて身は無きものとおもへども
    雪の降る日は寒くこそあれ

から来ている。鰒はしばしば雪を一緒に詠まれるが、西行の「身はなきもの」と詠んだのは鰒の浜に立って、これから死ぬかもしれないからだ、というわけだ。

 鰒網やおもへば三途の瀬ぶみなる 一栄

これもやはり鰒を喰って死ぬかもしれないという句だ。
 ただ、みんなこう言いながらも鰒で死んだ俳諧師の話を聞かないものを見ると、鰒での死亡率はそれほど高くはなかったのだろう。
 鰒は縄文時代から食べていたというし、鰒の毒に対する知識もそれなりに経験的に蓄積されていたにちがいない。
 鰒の毒を避けるには、基本的には毒のある腸と皮を取り除かなくてはならない。もちろん鰒の種類によっては肉にも毒がある場合があるから、完全ではない。ただ、腸と皮を取り除き身欠きを作る時点で水でよく洗えば、鰒の危険はかなり減らすことができる。

 河魨洗ふ水のにごりや下河原  其角(有磯海)

の句は、鰒を水で洗う知恵が当時あったことを示している。
 もう少し後の時代だが、

 人ごころ幾度河豚を洗ひけむ  太祇

の句がある。
 鰒のことを鉄砲ともいうが、其角の句が起源か。

 鉄炮のそれとひびくやふぐと汁 其角

 鉄砲といっても今日の自動小銃とは違い、撃つまでに時間がかかる上、命中精度も悪かった昔の銃のことだから、当たったらよほど運が悪いくらいのものだったのかもしれない。

 折を嫌ふべき歟鰒の皮に猫の舌 宗雅(俳諧雑巾)

 この句は鰒の皮に毒があるため、猫を近づけてはいけないという意味ではなかったか。「折を嫌う」は懐紙の表、裏を違えなくてはならない、つまり初表に鰒の皮を出したら、初表に「猫の舌」は出せないが、裏にならいい、という意味。
 鰒は干物にして保存したりもしたようだ。

  ふぐ干や枯なん葱のうらみ貌  子英(虚栗)

 鰒汁なら葱が付き物だが、鰒干しになってしまうと、葱は枯れるしかない。
 鰒汁に葱が付き物なのは、

 河豚ノ記ねぶかが宿に我独居て 其角(東日記)

の句からも窺われる。
 あと、鰒もどきというのもあったようだ。

 其汁の糟をすするや鰒もどき  忠珍(おくれ双六)
 甚太瓶を捨るや仮の鰒もどき  清風(おくれ双六)

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「鯛や鯒(こち)などの皮をはぎ、河豚のように料理して、汁などに作って食べるもの。ふくとうもどき。」

とある。

   妄語
 鯒を煮てふぐに売世の辛き哉  一品(虚栗)

も鰒もどきの句か。

 何ンぞ鱈世挙て皆河豚汁    順也(おくれ双六)

という句もあるように、鰒は人気があった。だから似せ鰒も出回っていたのだろう。
 禁制なんてなんのその、結局みんな鰒を食っていた。

2020年1月19日日曜日

 今日は町田の忠生公園の蝋梅を見に行った。満月蝋梅いい香りに包まれてきた。
 蝋梅は臘月(旧暦十二月)に咲くから蝋梅らしく、冬の季語で春はもうすぐ。
 昨日は結局雪がぱらついただけだが、予報が外れて夜まで降り続いた。雪になっていたら大雪になるパターンだった。
 それでは「半日は」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   世は成次第いも焼て喰フ
 萩を子に薄を妻に家たてて    芭蕉

 「いも焼て」というと今ではサツマイモの焼き芋を連想するが、当時はまだサツマイモはない。里芋は今ではもっぱら煮て食うが、かつては櫛に刺して味噌田楽にしたようだ。
 前句の場合は文無しで串に指して焚き火で炙っただけのような雰囲気だが、ここでは家を建てるくらいだから、それなりの味付けをしていたのだろう。芋というと徒然草第六十段の芋頭の僧都のことも思い浮かぶ。
 妻子を持たずにひっそりと暮らす風狂物のようだが、「妻」は薄で葺いた屋根の妻とも取れる。
 三十二句目。

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

 綾織物はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「模様を織り出した美しい絹織物。朝廷では五位以上の者の朝服に限り許されたが、蔵人(くろうど)は六位でも着用を許された。あやおり。あや。」

とある。前句の隠遁者のイメージにはそぐわない。ここは「萩」という名前の娘と「薄」という妻のために家を建てて住まわせた、光源氏のような人物に取り成したか。
 三十三句目。

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

 これは『去来抄』「先師評」に、

  「あやのねまきにうつる日の影
 なくなくも小きわらぢもとめかね   去来
 此前句出て座中暫く付あぐみたり。先師曰、能上臈の旅なるべし。やがて此句を付く。好春曰、上人の旅とききて言下に句出いでたり。蕉門の徒、練各別也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,26~27)

とある。
 前句が『源氏物語』のような王朝を連想させるだけに、そこから抜け出すのが難しかったのだろう。
 芭蕉のヒントは「上臈」よりもむしろ「旅」の方が重要だった。旅体に転じてはどうかというヒントで、去来のこの句ができたといっていいだろう。
 上臈の方は朝まで寝ているが、お付の者は草鞋を探して駆けずり回っている。
 どちらかというとアドリブに弱い去来さんだが、思うに頭の中にあるあるネタをストックしておくようにしたのではないかと思う。だから「上臈の旅」と言われてすぐに上臈の旅あるあるが出てきたのではないかと思う。
 三十四句目。

   なくなくもちいさき草鞋求かね
 たばこのかたの風にうごける     玄哉

 「たばこのかた」は『校本芭蕉全集 第四巻』の注に、

 「煙草の葉の形をした厚紙に渋を塗って店の軒にぶらさげた看板。」

とある。ネットで検索すると、吉田秀雄記念事業財団のページに「江戸期」の「諸国名葉」と書いてある煙草の葉の形をした看板を見ることができる。江戸中期には、菱形を縦に三つ繋げた看板にそれぞれ多・葉・粉と書いてあるものが用いられていたらしい。これは「たばこと塩の博物館」に再現されている。
 草鞋を探して宿場を歩いていると、ついつい煙草の看板に目が行ってしまうということか。
 三十五句目。

   たばこのかたの風にうごける
 真白に華表を見こむ花ざかり     景桃丸

 会場となる上御霊神社の別当の息子さんにいわゆる「花を持たせる」ということで、二番目の花の定座は景桃丸が詠む。最初の花は季吟門からのゲストの好春が詠んだ。
 「華表」が「とりゐ」と読むのは、「海くれて」の巻の十二句目「花表はげたる松の入口 工山」の時と同様で、ここでは正花の「花」が登場するので同字を避けて「華」の字に変えてある。
 「見こむ」はよくわからないが、ついついじっと見てしまう、という意味だろうか。境内の花が満開で真っ白に見えるので、ついついそちらの方を見てしまう。
 ただ、花盛りも長く続くものではなく、やがて風に散る定めか、タバコ屋の看板が風に揺れている。
 挙句。

   真白に華表を見こむ花ざかり
 霞にあぐる鷹の羽遣ひ        史邦

 神社の花も満開になり、春の霞に若い鷹が羽遣いを覚え、高く舞い上がってゆく。景桃丸の成長を祈ってのことか、この一巻は目出度く締めくくられる。

2020年1月17日金曜日

 今夜は雪になるのかな、あまり積もらないといいな。
 それはそうと、一昨年の四月八日から五月三日までこの俳話で読んでいった「宗祇独吟何人百韻」を鈴呂屋書庫にアップした。よろしく。
 それでは「半日は」の巻の続き。

 二十五句目。

   おさへはづして蚤逃しける
 閑なる窓に絵筆を引ちらし    史邦

 江戸時代に今のようなガラス窓がなかったことは「海くれて」の巻の八句目のところでも触れたが、中世の書院造りには和紙を張った「明かり障子」が登場する。これは「書院窓」とも呼ばれる。採光と喚起を行うためのものだった。
 こうした窓はある程度立派な屋敷かお寺などにあるもので、「閑なる窓」もこうした格式ある家の窓であろう。書院で絵を描いていると蚤がいるのを見つけ、つい墨のついた筆で捕まえようとしたのだろう。結果、墨が窓の障子に飛び散ることになる。
 二十六句目。

   閑なる窓に絵筆を引ちらし
 麓の里のおてて恋しき      凡兆

 「てて」は父(ちち)の母音交替。時代劇などでも「てておや」という言葉が使われてたりする。
 山寺に棲む年少の修行僧であろう。前句の「絵筆を引ちらし」を落書きのこととする。
 二十七句目。

   麓の里のおてて恋しき
 首とる歟とらるべきかの烏啼ク  示右

 合戦の場面であろう。掃討戦になってくると辺りに死体が累々と横たわり、烏が群がってくる。やるかやられるかの極限の状況の中、思い出すのは里に残してきた父のこと。
 二十八句目。

   首とる歟とらるべきかの烏啼ク
 野中に捨る銭の有たけ      好春

 前句を山賊の襲撃とし、ありったけの銭を置いて逃げる。命あっての物種だ。
 二十九句目。

   野中に捨る銭の有たけ
 月ほそく小雨にぬるる石地蔵   史邦

 前句の銭をお賽銭のこととする。村雨も上がり、明け方の空に細い月が浮かぶ。発心し、わずかな財産を捨てて仏道に入るのだろうか。
 三十句目。

   月ほそく小雨にぬるる石地蔵
 世は成次第いも焼て喰フ     凡兆

 「成次第」は成り行きに任せること。英語だとlet it beか。
 村外れに佇む石地蔵。雨上がりの月の出る明け方、これからどうしようかと嘆いても始まらない。まずは芋でも食って、それから考えよう。どうせ成るようにしか成らないのだから。

2020年1月16日木曜日

 昨日は白い韓服の知識は通信使ではなく貿易に来る朝鮮(チョソン)人かと思ったが、秀吉の朝鮮出兵の記憶ということも考えられる。
 この俳諧の興行は元禄三年(一六九〇年)、慶長の役(丁酉倭乱)は慶長二年から三年(一五九七~八年)、つまり九十二年前になる。さすがにこの時朝鮮半島に渡った兵士達は生き残ってはいないし、その息子世代もちょっと厳しい。だが、その孫くらいならまだ存命だった。高麗人の白い韓服の記憶は、そうした人たちが語り継いだものだったかもしれない。
 さて、「半日は」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   春の海辺に鯛の浜焼
 昼さがり寝たらぬ空に帰る雁   凡兆

 春の長閑な日にお祝いの宴で鯛の浜焼きをすれば、いつしか酔いも回って眠くなる。そんな時に帰る雁の姿が見える。
 二十句目。

   昼さがり寝たらぬ空に帰る雁
 雨ほろほろと南吹也       去来

 「南吹」は南風(はえ)の吹くことか。「ほろほろ」は「はらはら」「ぱらぱら」といったまばらな降り方をいう。花が散るときや涙が出る時にも用いられる。花の場合は、

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

の句がある。
 ほろほろと南風に乗って落ちてくる雨は、さながら雁の涙のようだ。
 二十一句目。

   雨ほろほろと南吹也
 米篩隣づからの物語       景桃丸

 「米篩(こめふるふ)」というのは脱穀した籾のゴミを取り除く作業。籾を落下させて風に当てることで軽い藁屑などを吹き飛ばす。
 「隣(となり)づから」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「隣どうしである間柄。」

とある。米を篩いながら、隣同士で世間話をしたりする。
 二十二句目。

   米篩隣づからの物語
 日をかぞへても駕篭は戻らず   芭蕉

 隣同士での噂話といえば急にいなくなった誰かのこと。駕篭に乗って旅に出たけど、なかなか帰って来ない。何があったのやら。
 二十三句目。

   日をかぞへても駕篭は戻らず
 くだり腹短夜ながら九十度    玄哉

 「くだり腹」は下痢のこと。それも一晩に九度も十度もトイレに行くほどのひどい下痢で、こんな状態だから駕篭は帰って来ない。O157のような病原性大腸菌の仕業か。
 二十四句目。

   くだり腹短夜ながら九十度
 おさへはづして蚤逃しける    去来

 下痢のひどい状態だから、蚤を捕まえようにも逃がしてしまう。

2020年1月15日水曜日

 今日は朝から雨で、午後になってようやく止んだ。
 テレビではどこもかしこも雪が少ないというニュースをやっている。生活するには雪がないほうが楽だろう。ただ、後で水不足とかなければいいが。
 それでは「半日は」の巻の続き。

 十五句目。

   猫のいがみの声もうらめし
 上はかみ下はしもとて物おもひ  芭蕉

 身分の高い人も身分の低い人も恋の悩みは一緒だ。それは猫だって変りはしない。
 猫のいがみ合いに、暗に人のいがみ合いがあることを付ける、違え付けの一種といえよう。
 十六句目。

   上はかみ下はしもとて物おもひ
 皆白張のふすまなりけり     示右

 「白張(しらはり)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「糊(のり)をこわく張った白い布の狩衣(かりぎぬ)。雑色(ぞうしき)などが着た。白張り装束。小張り。はくちょう。」

とある。「はくちょう」と読む場合は、同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「しらはり」を音読みにした語》
 1 「しらはり」に同じ。
 2 傘持ち・沓(くつ)持ち・車副(くるまぞい)などの役をする、1を着た仕丁(じちょう)。
 3 神事・神葬の際、白い衣を着て物を運ぶなど雑用に従事する者。」

とある。「ふすま」は夜着のこと。
 「白張のふすま」はそのままだと白い夜着のことだが、それだと意味がわかりにくい。
 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注には、

 「ここでは葬祭の白装束、白の上衣の意か(柳田國男氏『俳諧評釈』説)。」

とある。
 だとすると、前句の「物おもひ」を「喪のおもひ」に取り成したことになる。
 十七句目。

   皆白張のふすまなりけり
 高麗人に名所を見する月と花   好春

 好春は季吟門で京都の人。
 前句の「白張のふすま」を韓服のこととする。
 朝鮮通信使は天和二年(一六八二年)に来日している。ただ、その時は緑系の官服を着ていて白ずくめではなかったという。京都では八月に本國寺に宿泊している。
 韓服が白いのが多いという知識は、朝鮮通信使とは関係なく、対馬に貿易に来る朝鮮(チョソン)人のことが京にまで噂で広まっていたのではないかと思う。
 白い韓服の御一行を名所に案内すれば、山桜の白い花に白く光る月で白一色の世界になる。
 十八句目。

   高麗人に名所を見する月と花
 春の海辺に鯛の浜焼       史邦

 浜焼きはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「広島県の郷土料理。とりたての魚を浜辺で焼くのをいうが、古くから浜焼きとはタイを材料とすることになっている。『和訓栞(わくんのしおり)』には「鯛(たい)などを塩を焼く釜(かま)の下に生ながら土に埋(い)けて後焼くなり」とある。『料理談合集』には「鯛をよく洗ひ、土間へ塩を厚く敷き、上へ鯛を置き上より瓦(かわら)を蓋(ふた)にして、後先も瓦にてふさぎ炭火を多く瓦の上よりかけて蒸焼きにし(中略)、急なる時は大竹串(たけぐし)にさして長火鉢の縁へ立てかけて焼く」とある。」

とある。
 ただ、『和訓栞(わくんのしおり)』は安永六年 (一七七七年)、『料理談合集』は享和元年(一八〇一年)と時代が下るので、芭蕉の時代でも同じ料理法だったかどうかはわからない。
 いずれにせよ、鯛は目出度いもので、お祝いの席などに出される。

2020年1月14日火曜日

 「半日は」の巻の続き。

 九句目。

   里ちかくなる馬の足蹟
 押わつて犬にくれけりあぶり餅  示右

 「あぶり餅」は京都今宮神社の名物で、ウィキペディアには「きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、炭火であぶったあとに白味噌のタレをぬった餅菓子」とある。
 今宮神社の辺りから北西へ鷹峯街道が通っていて、若狭の国に通じている。若狭の方から来れば、今宮神社のあぶり餅は「里ちかくなる」あたりだったのだろう。興行の行われた上御霊神社からは二キロくらいの所か。
 十句目。

   押わつて犬にくれけりあぶり餅
 奉加に出る僧の首途       芭蕉

 「奉加(ほうが)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (神仏への寄進の金品に、自分のものを加え奉るの意) 勧進(かんじん)によって神仏に金品を寄進すること。また、その金品。知識。
 ※今昔(1120頃か)一二「此、皆、寺僧の営み、檀越(だんをつ)の奉加也」
  ② 転じて、一般に、金品を与えること、またはもらうこと。また、その金品。寄付。
 ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)下「福島の西悦坊が仏壇買ふたほうが、銀一枚回向しやれ」
  ③ 「ほうがちょう(奉加帳)」の略。」

とある。
 「奉加に出る」①の勧進に出ることを言うのだろう。ただ、その出発に当たって犬にあぶり餅を与えるのも②の意味での一種の奉加か。
 十一句目。

   奉加に出る僧の首途
 白川や関屋の土をふし拝み    去来

 「ふし拝み」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「はるかに拝む。遠くから拝む。ひれ伏して拝む。
 出典 平家物語 五・五節之沙汰
 「甲(かぶと)をぬぎ手水(てうづ)うがひをして、王城の方(かた)をふしをがみ」
 [訳] 甲をぬぎ、手を洗い清め、口をすすいで、都のほうをはるかに拝み。」

とある。僧は白川の関でひれ伏して拝んだというよりは、白川の関の方角を向いて拝んだと考えた方がいいのではないかと思う。
 十二句目。

   白川や関屋の土をふし拝み
 右も左も荊蕀咲けり       凡兆

 『奥の細道』の白河のところに、

 「卯(う)の花の白妙(しろたへ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。」

とある。とはいっても、この頃はまだ芭蕉は『奥の細道』を書いてない。旅の土産話にそんな話をしたことがあったか。
 卯の花に関しては、

 見て過ぐる人しなければ卯の花の
     咲ける垣根や白川の関
            藤原季通(千載集)

の歌がある。
 十三句目。

   右も左も荊蕀咲けり
 洗濯にやとはれありく賤が業   乙州

 京都では紺屋が洗濯屋も兼ねていた。ウィキペディアでは紺屋と非人との関係について触れている。

 「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」

 まあ、そういうわけで京の洗濯屋は荊の路だったのだろう。
 十四句目。

   洗濯にやとはれありく賤が業
 猫のいがみの声もうらめし    景桃丸

 洗濯に雇われていたのは女性が多かったという。年増は猫の声にも嫉妬する。

2020年1月13日月曜日

 今日は三浦半島のソレイユの岡に行った。菜の花が咲き富士は霞み、波の静かな海はのたりのたりと、今年も春をフライングゲット。
 ここにもカピバラがいたしアルパカもいた。
 それでは風流の方に戻り、旧暦の今年はまだ日にちがあるので「年忘歌仙 半日はの巻」を読んでいくことにした。
 去年の暮れ二十九日に発句と脇を読んだので第三から。

   雪に土民の供物納る
 水光る芦のふけ原鶴啼て     凡兆

 「ふけ原」は水の深い原のこと。芦の茂るところを「芦原」というように、水に浸っていても草の茂る所は原になる。
 苗字で「泓原(ふけはら)」さんがいるらしいが、泓の字は水が深くて清いという意味がある。「泓田(ふけだ)」さんという人もいるらしい。
 前句の「供物納る」の目出度さから鶴を付ける。冬枯れの芦原の水が日に照らされ光っていれば、その周りの雪の積もった所もまばゆいばかりに輝いているだろう。そんな中に鶴がいれば、まさに吉日だ。
 四句目。

   水光る芦のふけ原鶴啼て
 闇の夜渡るおも楫の声      去来

 前句の光る水を篝火に照らされた水面とし、場面を夜に転じる。船頭の「面舵いっぱい」の声が聞こえる。
 五句目。

   闇の夜渡るおも楫の声
 なまらずに物いふ月の都人    景桃丸

 景桃丸に関しては『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の補注に、

 「当時の上御霊神社別当は第二十八代法印小栗栖祐玄。俳号、示右。景桃丸は祐玄の子で当時十一歳。のち二十九代別当を嗣ぎ、小栗栖元規と称す。」

とある。
 「月の都」は冥府のことなので、「月の都人」は幽霊か。闇夜に舟漕ぐのは確かに怪しい。
 その幽霊も「都人」なので訛りがないとは洒落ている。
 月の定座で前句が「闇」だから、これは難題と言えよう。
 六句目。

   なまらずに物いふ月の都人
 秋に突折ル虫喰の杖       乙州

 打越の「闇」がはずれるので、ここは単に月の下の都人の意味にできる。「都人」は遠い辺鄙な地で都から来た人を呼ぶ言い方だから、流人のこととしたのだろう。長旅に使い古した杖も虫が食っていて折れてしまう。
 初裏。
 七句目。

   秋に突折ル虫喰の杖
 実入りよき岡部の早田あからみて 史邦

 「早田」は「わさだ」と読む。早稲を植える田んぼ。供給量の少ない時期に取れるため高く売れ、実入りがいい。
 その早稲田も赤く実ったので、もう旅を続ける必要はないと杖を折る。
 八句目。

   実入りよき岡部の早田あからみて
 里ちかくなる馬の足蹟      玄哉

 取れたばかりの稲を運ぶ馬が里へと向う。