2019年12月29日日曜日

 今日も晴れた寒い一日だった。
 昨日に続き、つれづれに、行方も知れず。

 年わすれしかし太鼓はたたかれじ 如柳(『千鳥掛』)

 ネットで見ると「年忘れ」は鎌倉時代から年末に連歌会を催したところからきているという。出典はよくわからない。
 江戸時代では一年の仕事の終わりの打ち上げだったようだ。
 この時代にはまだ年越し蕎麦はなかったが、年越し蕎麦もまた仕事を終えたときの打ち上げで食べていた。近代だと忘年会と年越し蕎麦は別の行事になっている。
 「年忘れ」は、昔は数え年で、誕生日ではなく正月が来ると年齢が一つ上がるということで、年を取るのを忘れるという意味での「歳忘れ」だった。別にこの一年あったことを忘れるという意味ではない。
 一部の人たちでは歴史を忘れるとはけしからんということで「望年会」をやってたりするが、はたして歴史を忘れているのはどっちだか。
 太鼓をたたかないというのは、本来それほど盛大にやるものではなかったのだろう。挨拶程度に今年も一年お疲れさんという感じのもので、江戸後期になると年越し蕎麦に取って代わられていったのだろう。

 人に家を買はせて我は年忘れ   芭蕉

の句は元禄三年、大津膳所の乙州新宅での句で、

 かくれけり師走の海のかいつぶり 芭蕉

の句とともに詠まれている。カイツブリは鳰(にお)ともいい、琵琶湖に多く生息していたので琵琶湖のことを「鳰の海」ともいう。
 京都から琵琶湖の方へ逃れてきたから、自身をカイツブリに喩えて詠んでいる。
 ここでも隠れ家での年忘れだから、そんなに派手なものではあるまい。
 同じ元禄三年だがこの句より少し前に京都上御霊神社神主示右亭で年忘れ九吟歌仙興行が行われ、

 半日は神を友にや年忘れ     芭蕉

の句を詠んでいる。こちらの方が中世以来の連歌会の伝統を引き継ぐ「年忘れ」だったのだろう。神主さんを友としてこれから半日楽しい時を過ごしましょうという挨拶の句になっている。
 これに対し示右は、

   半日は神を友にや年忘れ
 雪に土民の供物納る       示右

と返す。おそらく「半日」を受けて、この興行の前の半日は地元の氏子さんたちが供物を納めに来たので大忙しでした、満足なおもてなしが出来るかどうか、という意味であろう。
 「太鼓はたたかれじ」のついでだが、江戸時代は鐘や太鼓で時を知らせていたが、いわゆる除夜の鐘というのはなかった。一部では行われていたかもしれないが、全国に一般的に広がったのは近代に入ってからだろう。
 夜中の日付が変わる頃に初詣する習慣ができてから、いつのまに年越し蕎麦も初詣の直前に食べ、除夜の鐘が初詣に集まる人にとっての合図になっていったのではなかったか。
 最近になって除夜の鐘がうるさいという人たちが増えてきたが、鐘そのものよりも深夜に参拝に来る人たちがうるさいのではないかと思う。
 初詣はウィキペディアによれば、

 「江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形であるが、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。」

ということで、初詣の習慣は明治中期以降の鉄道の発達によるものだという。深夜の参拝も鉄道が終夜運転を始めてからではないかと思う。多分に西洋のカウントダウンの影響もあるのではないかと思う。
 江戸時代の大晦日は静かに過ごした。

   心よき年
 恙なく大晦日の寝酒かな     蚊足(『続虚栗』)

 晦日だから当然月もなく、外は真っ暗だったはずだ。さっさと酒飲んで寝るのが一番いい年の暮れだった。
 蚊足の句もう一句。

 晦日晦日や御念の入て大晦日   蚊足(『続虚栗』)

 そんな大晦日の夜、唯一にぎやかな場所があった。

 年の一夜王子の狐見にゆかん   素堂(『続虚栗』)

 王子稲荷神社には一年に一度大晦日の日に狐達が参詣し、狐火を灯したと言われている。

2019年12月28日土曜日

 今年の冬は雨が多いが、今日は冬らしい寒く晴れた一日になった。いつの間にか旧暦でも師走の三日になり、新暦では年の暮れ。
 今日は特にテーマもなくつれづれに。

 下女帯紣ヶ童めが文匣年暮けり  濁水(『庵桜』)

 この句は漢字が難しい。「紣」はなかなかフォントが見つからず、「糸偏に九十」で検索したら出てきた。「綷」の俗字だと言うが、音読みの「サイ、 スイ、 シュツ、 シュチ」はわかったが、「ケ」と送り仮名をふる訓読みがわからない。意味的に解く方ではなく絞めるほうなので、「からげ」だろうか。
 意味は、「漢字辞典オンライン」によると、

 「五色の糸で模様を織り出した絹布。
 混ぜる。混ぜ合わせる。
 綷䌨(すいさい)は、衣擦れの音の形容。」

だという。
 「文匣(ぶんこう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「厚紙に漆を塗って作った手箱。書類や小物を入れるのに用いる。手文庫。」

とある。句には「ブンコ」と振り仮名がふってある。
 「文庫結び」という帯の結び方があるが、関係あるのか。ウィキペヂアには「江戸時代には武家の女性の基本の帯結びだった経歴があり格調が高い。」とある。今でも浴衣帯びを結ぶときの定番だという。
 童には「ワロ」と振り仮名かある。わろ(和郎)だとすると、召使の子供のことで、ここでは下女の子供のことか。
 そうなるとこの句は、年の暮れには下女も子供の帯を文庫結びに結うということか。はずれだったら御免。

 人の命や仙家にも鯸を売ならば  鑯卵(『庵桜』)

 名前も難しい字を書くが「尖った卵」?
 「鯸」は河豚(ふぐ)のこと。
 「河豚を売るならば仙家にも人の命や」の倒置で、河豚の毒に当たれば仙人といえども人のように命を落とすのではないか、という意味でいいのだろう。
 夏の句だが、

 日は東に一鏡西にほととぎす   東行(『庵桜』)

の句は、百年後に詠まれる、

 菜の花や月は東に日は西に    蕪村

の句を髣髴させる。月を「一鏡」と呼ぶのは天文学的にも言い得て妙だ。
 蕪村風にするなら、「ほととぎす日は東にて月は西」だろうか。

   師走の月を
 冬がれは白髪遊女の閨の月    嵐朝(『虚栗』)

 老いた遊女の姿を冬枯れに喩えるのはいかにもだが、こうした遊女に冬の月を添える所に愛情が感じられる。
 何でもかんでも若い娘がいいというのは、まだ本当の遊び人ではない。老いた遊女の境遇に共感できて、それで遊べてこそ夜の帝王の名にふさわしい。

   さまざまに品かはりたる恋をして
 浮世の果は皆小町なり      芭蕉

の句もそんな遊び人の最終形ではないかと思う。老いた小町に愛の手を。

 寒苦鳥孤婦がね覚を鳴音哉    李下(『虚栗』)

 芭蕉庵の芭蕉の木を贈ったという李下さんの句。
 「寒苦鳥(かんくちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「インドのヒマラヤにすむという想像上の鳥。夜に雌は寒苦を嘆いて鳴き、雄は夜が明けたら巣を作ろうと鳴くが、太陽が出ると寒さを忘れて怠ける。仏教では、怠けて悟りの道を求めない人間にたとえる。かんくどり。」

とある。冬の季語。音的には閑古鳥と紛らわしい。
 怠け者で女の元に通うことしか考えない寒苦鳥。自身を自嘲したか。

 ねさせぬ夜身ヲ鳴鳥の寒苦僧   才丸(『虚栗』)

 「才丸」は「才麿」に同じ。江戸時代には人麿も「人丸」と言った。
 「寒苦鳥」を「寒苦僧」と言い換えて、夜遊びの破戒僧とする。

 貧苦鳥明日餅つこうとぞ鳴ケル  其角(『虚栗』)

 同じ遊び仲間の其角さんだが、寒苦鳥を「貧苦鳥」と言い換えて、明日は餅を搗こうというのだが、はたしてそのお金はあるのか。杉風さんにすがることになるのか。
 
   米つかず餅つかぬ宿は、みづから
   清貧にほこる
 臼寝て閑なる年の夕べ哉     似春(『武蔵曲』)

 「寝て」は「ねせて」か。「閑」はヒマというルビがふってある。まあ、餅はなくても、

 しら粥の茶碗くまなし初日影   丈草

という人もいるから安心していい。

2019年12月25日水曜日

 IR疑惑はついに逮捕者を出し、贈収賄事件となった。
 野党の発言が少ないのは、検察特捜は既に安倍の支配下にあるという幻想のせいで戸惑っているのか。
 今思うと、多分他にもいろいろやばいことがあるのだが、それを隠すためにあえて安全なモリカケの情報を小出しにしていたのかもしれない。野党やマスコミはこの作戦にまんまと乗せられ、囮の藁人形を攻撃していたことになる。流石に検察はそれには引っかからなかったと見るべきか。
 まあ、数々の疑獄事件を起してきた自民党が、そうすぐにクリーンになるはずもないか。
 さて本題に入ろう。
 謎の俳人皷角の発句だが、『虚栗』にはまだある。

 後家耻ぬ嫁星に寐巻かさん事   皷角

 これは七夕の句で、嫁星は織女星、西洋ではベガのこと。
 寐巻は蒲団に袖のついたような夜着とは異なり、薄手の体に纏うものをいうようだ。元禄三年の「半日は神を友にや年忘レ 芭蕉」を発句とする歌仙に、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寐巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。ちなみに次の句は『去来抄』にある「なくなくもちいさき草鞋求かね 去来」。
 どういう状況で後家が織女に寐巻を貸すことになったのかはよくわからない。何か出典があるのか。

 傘合羽はぜつり時雨顔なるや   皷角

 はぜ釣は秋の季語で、時雨は冬の季語だが和歌では秋にも詠む。
 傘を被り合羽を着てはぜ釣る人を見ていると、あたかも時雨が降っているかのようだ。

2019年12月24日火曜日

 はぴほりー。
 俳諧の時代にはまだクリスマスは日本に入ってきてなかったので、平常どおりに。

 皷角はどういう人なのかまったくわからないが、天和の頃に活躍した人で、千春撰の『武蔵曲』(天和二年)にも、

 雪の卦や二陰生ズル下駄の跡   皷角

の句がある。雪の上に付いた下駄の後が二が横に二つ並んだ状態で、易の陰が二つ(==)になる。
 この句は捨女の句と伝えられている、

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡  捨女

に似ている。
 『虚栗』の冬の句は前回紹介したが、それ以外の句は、

   在原寺ニて
 美男村の柳はむかしを泣せけり  皷角

 特に説明の必要のない句だ。
 在原寺は奈良の天理市にある不退寺の別名だという。ここには、

 うぐいすを魂に眠るか嬌柳    芭蕉

の句碑があると言うが、同じ『虚栗』の皷角のこの句隣に並んでいる。

   寒食
 木食も香炉に煙なき日なり    皷角

 「寒食(かんしょく)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。」

とある。
 「木食(もくじき)」はウィキペディアに、

 「木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のこと。木食上人ともいう。」

とある。
 普段から火を用いない木食戒の僧は香炉の火を絶つ日だ、というのだが、本当だろうか。

 唐扇はすねたり和扇ハ艶也渋団  皷角

 中国の扇子が渋団扇を見て「和扇は艶也」といってすねるというのだが、よくわからない。

 葺かへて不破のたびねの紙帳哉  皷角

 「紙帳(しちょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紙をはり合わせて作った蚊帳(かや)。防寒具にも用いた。」

とある。不破の関の破れた板庇も新しく葺いたのかと思ったら、紙帳を張って旅寝しているだけだった。

 あさぢふや地蔵の闇を問蛍    皷角

 これはわりと普通の句。説明の必要はないだろう。

2019年12月23日月曜日

 『虚栗』にあった、よくわからない句。

 不二に目鼻混沌の王死シテより  皷角

 「混沌の王」で検索するといろいろなゲームキャラが出てきてしまう。その中でようやく見つけたのが「荘子『混沌』」だった。『荘子』内篇應帝王篇第七に、

 「南海之帝為倏、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。倏与忽、時相与遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。倏与忽、謀報渾沌之徳、曰人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之。日鑿一竅、七日而渾沌死。」

 南海の帝は倏、北海の帝は忽、中央の帝は渾沌という。倏と忽は時々渾沌の地で合い、混沌のもてなしに何かお返しをしようと相談した。
 人には七つの穴があり見たり聴いたり食べたり息したりしている。渾沌にだけはそれがない。穴を開けてみたらどうか。
 一日一つづつ穴をあけていったら七日目に渾沌は死んだ。

 これが出典である事に間違いはないだろう。
 ところで「不二に目鼻」とは何だろうか。
 これは混沌=崑崙とし、西王母のいる崑崙山と対になる、東王父のいる蓬莱山に例えられる富士山にも穴を開けたらどうかと、そういう発想だったのではないか。
 渾沌に七つの穴が開いて死んだ後、次は富士にも目鼻を開けてゆけば‥‥、そういう句だったのでは。
 同じく『虚栗』の皷角の句。

 雪ヲ吐て鏡投けり化粧姫     皷角

 化粧姫はよくわからないが、雪を吐くなら雪女のようなものか。自分の顔を見るのが嫌なのか鏡を投げ捨てる。

2019年12月21日土曜日

 文学、芸術、およそ創作物から受ける感動の正体はそう簡単につかめるものではない。
 芭蕉が古池の句を詠めたのは、おそらく偶然だっただろう。ちょうど談林調、天和調を経て、古典回帰を進めてきた時期だっただけに、芭蕉は古典の情を新味ある題材で詠んだ所に成功の原因を求め、『奥の細道』の旅での曾良との会話からおそらく最初の不易流行説は生まれたのだろう。
 去来の『去来抄』や土芳の『三冊子』が伝える不易流行論はこの元禄二年冬からの猿蓑調の時代のもので、その後芭蕉はこの考えを変えていった。
 不易流行説では古典の本意本情と俗情を区別した。この区別にはおそらく李退渓の四端七情の説が影響していたと思われる。李退渓は藤原惺窩や林羅山の朱子学に大きな影響を与えていたから、それが朱子学系の神道を学んだ曾良を通して芭蕉に伝わったとしてもおかしくはない。
 気から来る既発のその場限りの情を流行とし、その背後に求めたのが理から来る未発の四端を不易の本意本情だった。この本意本情は時代を超えて普遍であるため、古典から学習できると考えた。
 ただ、実際に句が与える感動は、必ずしも古典に通じるものではない。むしろ出典に寄りかかった句は古臭く、元禄時代の人々の生活に必ずしもフィットするものではなかった。そこから芭蕉はあえて古典の出典をはずしていこうとした。
 ちょうど上方から江戸に下った時期、芭蕉は「軽み」という形でそれを試し、新たな理論を模索したのだろう。
 許六にはもはや不易流行を説くことはなかった。むしろこれまでの常識を破るような「底を抜く」句を求めた。
 そして再び上方に上り、支考と『続猿蓑』の編纂を進めていく中で虚実の論が作られていった。「実」はもはや古典に添ってはいない。ただ、それがはっきりと形を現す前に芭蕉はこの世を去った。
 だが、今それを推測するなら、それは各自の体験の中の本当に深いかけがえのない感動であり、それを引き出す虚だけが必要だったのではなかったかと思う。

2019年12月20日金曜日

 さて、今年もたくさん俳諧を読んできた。一応振り返ってみると、

 一月二十日から一月二十七日まで「洗足に」の巻
 二月十日から二月二十八日まで「此梅に」の巻
 三月十六日から三月二十一日まで「鰒の非」の巻
 四月十三日から四月二十六日まで「八九間」の巻(二種)
 五月十二日から五月十六日まで「杜若」の巻
 六月十七日から六月三十日まで「いと凉しき」の巻
 七月三日から七月七日まで「温海山や」の巻
 七月八日から七月十五日まで「忘るなよ」の巻
 八月十二日から八月二十九日まで「哥いづれ」の巻
 九月六日から九月十五日まで「実や月」の巻
 九月十八日から九月二十三日まで「名月や」の巻
 九月二十九日から十月十二日まで「松風に」の巻
 十月十三日から十月二十日まで「あれあれて」の巻
 十一月二十日から十一月二十六日まで「鳶の羽も」の巻
 十一月二十八日から十二月四日まで「凩の」の巻
 十二月十日から十二月十八日まで「枇杷五吟」

と十五巻になる。
 まあこれはゲームで言えばレベル貯めのようなもので、読む方は退屈かもしれない。
 今日はネットで話題になったGotch.aka後藤正文さんのこのツイットを読んでみようかと思う。

 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。一方で、俺は数十万円もするマイクで歌を録音してる。引き裂かれるよ。落ち込むよ。」(Gotch @gotch_akg 12月16日)

 たとえば目の前に餓えている子供がいるとしたら、心を痛めない人はいないと思うし、少なくともその時は何とかしてあげたいと思うだろう。
 それはたとえば芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中に富士川で捨て子を見つけ、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに  芭蕉

と詠んだことを思い起こすこともできる。
 ただ、こうして捨て子を目の前にしたときには断腸の声をあげても、実際その後芭蕉が捨て子のために何かをやろうだとか、孤児院のようなものを考案するということもなく、その後特に捨て子を詠むこともなかった。こうした反応もまたよくあるというか普通のことだ。
 人は目の前にある物については理由もなく感情を強く突き動かされたりすることもある。ただ、その瞬間が終ればたいてい速やかに忘れ去られてゆく。ちょうどさっきまで見ていた夢が、眼が醒めてしまうと思い出せなくなるようなものだ。
 ただ、こうした記憶は何かの弾みでフラッシュバックすることもある。特に言葉や芸術作品には、人の大事な記憶をフラッシュバックさせる働きを持つことがある。
 「例えば、近所の子どもが、朝も夜もスーパーの総菜パンで過ごしてる。ひとりで食べてる。お母さんは働きづめ。」という言葉は、最初に「例えば」とあるように、実際にこの子供を目の前にしたのではなく、これは人から聞いた話ではないかと思う。似たような話を認定NPO法人カタリバのページで見つけた。

 「良太くんのお母さんは、介護施設で働いています。
 離婚後、介護の仕事をしながら3人の子どもを育ててきました。

 2日に1度は夜勤があります。
 夜勤のあとも少しだけ仮眠をとったあと、また昼から仕事する毎日…。

 夜勤がない日も、残業がとにかく多く、夜、家にいられることがほとんどないそうです。
 それでも、厳しい家計を支えていくために、仕事を減らすことはできません。

 良太くんは、小学生の頃から、ご飯も1人、夜寝る時も1人でした。
ほぼ毎日コンビニのお弁当か、スーパーでお惣菜を買います。」

 多くの人はこの文章で、多少は不憫を感じるにしても、それほど心を痛めることもないだろう。なぜならこれは「情報」だからだ。目の前にその子供がいるわけではないからだ。
 情報である以上、自分で見て確認したわけではない。だからこの情報をたとえ本当のことだと信じたにせよ、そこに浮かんでくる映像は過去の記憶を繋ぎ合わせただけのもので、はっきりとしたものではない。「まあ、こういう人はいそうだな」くらいで終ることが多い。
 ただ、この言葉であっと心を痛める人がいたなら、それは以前にこういう人に会ったことのある人ではないかと思う。このとき言葉は単なる情報ではなく、過去の体験をフラッシュバックさせる一つの刺激となる。
 芸術には確かにこういう効果がある。普通の人には安っぽい失恋ソングに聞こえるような歌でも、今しがた失恋したばかりの人には、それがまるで自分のことのように聞こえ、涙が出てくることもある。
 勧誘というのはこうした効果を巧みに利用する。貧しい子供の話をしても、だれもがそれに食いついてくるわけではない。ほとんどの人は「ああそうですか」で終ってしまう。だが、片っ端からいろんな人に声をかければ、稀に自分の体験をフラッシュバックさせ、感銘の涙を浮かべる。そういう人に「こうすればいい」というと、ころっとなる確立が高い。
 カタリバは多分真面目で地道な活動をしている団体だから問題はないと思うが、昔の左翼だったら、それこそ革命を起してすべての富をいったん国家に集め再分配をすれば、貧困問題はたちどころに解決するという方に持って行っただろう。ある意味左翼の人たちにとって、こういう貧困の物語は左翼に勧誘されたきっかけとして、だれしも体験していることなのかもしれない。
 人の純粋な心の痛みも、導きようによっては爆弾を作って戦う人間を育てたりもする。だから貧困の物語を単なる情報としてあえて感情を抑えて放置するのも、そうした危険に対する防衛反応なのかもしれない。
 眼前から離れ、ひとたび情報の一つとなった言葉は、大概の場合真偽不明の情報として、一つのお話として、フィクションとして記憶される。
 フィクションというのは、物事を考える時に貴重なモデルを提供するもので、そのストックは多ければ多いほうがいい。そのため有史以前、文字以前の社会でもたくさんの物語が存在する。しばしばそうした物語は社会全体で共有される神話にもなる。
 フィクションはそれゆえ多様で相矛盾するものを多く持っていたほうがいい。一つのフィクションがモデルとして役に立たない時に、すぐ代わりが用意できるからだ。
 芭蕉や支考の虚実論の中で「虚」と呼ばれるのもそういうものではないかと思う。言葉によって伝えられる様々な情報、自然や人情や現実の様々な事象はすべて虚であり、ならば何が実だというと、その言葉に感動した時にはその気持ちが実なのではないかと思う。
 言葉は一つの情報でありフィクションにすぎない。ただ、その言葉に感動した時、その感動は外からやってきたのではない。自分自身の忘れかけていた重要な体験がフラッシュバックしたのであり、感動は内からやってくる。虚がきっかけになって自分の中にあった実が引き出される。それが虚を以て実を行うではないかと思う。
 先の「猿を聞く人」の句で言えば、句自体は虚だが、芭蕉が捨て子を見たときに感じた惻隠の情は実だったし、この句を聞いて断腸の思いになる人がいたら、その人の中にも実が引き出されたことになる。
 こうやって作品が偶発的にであれ、その人の心の底にある大切な感情を思い出させることができたなら、芸術はやはり捨てたものではない。
 音楽にもそれはあるはずだ。
 普段フィクションとして処理していた貧困の子供の物語を、あるときあたかも眼前にいるかのように思い出させ、心を痛ませてくれたとしたら、その芸術には価値がある。
 そして、同じ音楽を聴きながら、隣の人も涙を流していたとしたら、その人は自分の体験とはまったく別の体験を思い出して泣いているのは間違いないのだが、それでも「お前もか」「我も」「我も」ということで共鳴し合うことが出来る。

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

の句も、おそらくこの句のテーマは蛙でもなければ水音でもなく、廃墟、あるいは廃村だったのではないかと思う。
 かつて幸せに暮らしていた人たちが、何かの不幸でいつの間にかいなくなってしまい、荒れ放題の土地に池が残されている。そこで何らかの実体験をフラッシュバックさせた人が何人もいたのだろう。そこで「お前もか」「我も」「我も」ということになっていったのではなかったか。
 「そういう社会の側面を前にして、何が音楽だって思うわけ。」と後藤さんは言うが、そういう社会を思い出させ、体験を共有させることができるのも音楽ではないかと思う。数十万円のマイクは何ら恥じることではない。
 別に貧困をテーマにした歌を作れということではない。なぜなら何がその重要な体験をフラッシュバックをさせることができるのかなんて誰にもわからないし、それは人によっても違うし、偶然性のほうがはるかに強い。
 偶然を呼び込むにはむしろ必要なのは多様性だ。いろいろな歌があっていろいろな芸術があったほうがいい。一つの立場の歌ではなく、様々な矛盾する歌があったほうがいい。そのたくさん街にあふれる歌の一つを作ることが、結局一番尊いことなのではないかと思う。
 世の中に無数の音楽が溢れ、音楽業界が盛況を究め、数十万円もするマイクが使われる状態のほうが、権力者の与える決まった歌しか歌ってはいけない社会よりはるかに心を豊かにし、貧困問題も解消に向うのではないかと思う。