『新撰都曲』で、そんなに句数は多くないけど目に付くのは「網代守」だ。
「網代」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」にいくつか意味が載っているが、この場合は、
「湖や川に柴(しば)や竹を細かく立て並べ、魚を簀(す)の中へ誘い込んでとる仕掛け。冬の宇治川の氷魚(ひお)漁が古くから有名。《季 冬》」
になる。宇治川だけでなく近江の方でも行われていて、『幻住庵記』にも、
「ささほが嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」
とある。前に「幻住庵記」を読んだときに、
「網代守るにぞ」の歌は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に、
田上や黒津の庄の痩男
あじろ守るとて色の黒さよ
という古歌を『万葉集』の歌と混同したとある。この歌はこれより後に書かれた『近江與地志略』(享保十年)にあるという。この地方に芭蕉の時代からこういう伝承歌があったのか。」
と書いた。
『万葉集』の歌といえば、
もののふの八十やそ宇治川の網代木に
いさよふ波の行くへ知らずも
柿本朝臣人麻呂
の歌は今日でもよく知られている。
「網代守」を詠んだ歌は少ないが、
つきせじな八十宇治川の網代守
よる年波のひをかぞふとも
藤原家隆
がある。
それでは『新撰都曲』から、
色黒し京に猶見ぬ網代守 千春
網代守の日焼けした色の黒さは、誰しも知ってるものだったのだろう。『近江與地志略』の歌でも黒さが詠まれている。
「幻住庵記」の黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。」も黒を二回重ねて、間接的に網代守の黒さを匂わせていると見ていいのではないかと思う。
橋姫や物云かはす網代守 友益
橋姫は古くは、
さむしろに衣かたしき今宵もや
我をまつらん宇治の橋姫
よみ人知らず(古今集)
の歌にも詠まれている。『源氏物語』にも橋姫の巻があって、薫の詠む、
橋姫の心を汲みて高瀬さす
棹のしづくに袖ぞ濡れぬる
の歌がある。
橋姫は宇治の橋の守り神であるとともに、いつも誰かを待っているようだ。
宇治の網代守なら、そんな橋姫とも面識があって、会話を交わしたりしているのではないか、と疑いの「や」を用い、橋姫は網代守と物云かはしたりするのだろうか、と詠む。
網代守にはどこか仙人のような人間離れしたイメージがあったのだろう。
火の影や人にてすごき網代守 言水
「すごし」というのはぞくっとする感覚で、恐かったり気味が悪かったりすさんでいたり、何か日頃馴染んだよく知ったものがないようなときに用いられる。こうしたことばは昔の「いみじ」や今の「やばい」のように、逆にいい意味に転じて用いられることが多い。いまの「すごい」はそこから来ている。
「人にて」というところに、やはりひょっとして人間じゃないんじゃないかという感じが込められている。でも人間だと言い切るところは言水さんらしい。
只一つこはぜき高し網代守 一酔
「こはぜき」は「声咳」のこと。静かな河原では咳をする声がひときわ大きく聞こえる。
2019年12月8日日曜日
2019年12月7日土曜日
『新撰都曲』を読んでいると牛の句が結構目立つ。京都にはそんなに牛が多かったのだろうか。
京都ではないが、歌川広重の『東海道五拾三次之内大津』には牛が荷車を曳く様子が描かれている。京都近辺では古代道路の名残で、牛が通れるような広い舗装道路が多かったのかもしれない。
牛の毛の折レぬ曲らぬ時雨かな 加柳
牛の毛は雨をはじくというから、雨で毛が折れたり曲がったりすることがあるのかはよくわからない。
この句は牛の毛のように折れぬ曲がらぬと読むこともできる。
ちなみに毛雨は霧雨のこと。牛だけに「もう雨」?
寝ざめては牛の地を聞時雨哉 都雪
馬は立って寝ることもあるが、牛は大体横になって寝る。「食べてすぐ寝ると牛になる」という諺も牛の寝姿から来たのだろう。
牛が早朝に目覚めると、耳元で時雨が地面を打つ音が聞こえる。牛の気持ちになった句だ。
早今朝は牛の息見る冬野哉 正之
寒い朝は吐く息が白くなるが、牛の息も白くなる。
熊痩て牛に楽ある深雪哉 可雪
雪が降ると熊は痩せて、牛は襲われる心配がないから楽がある。でも熊って冬眠するのでは。
玉落す柳に牛の眠かな 松隠
柳が春なのは芽吹いたばかりの緑の鮮やかさだけでなく、この時期に目立たないが緑色の花も咲く。その春の柳に置く露は柳の糸に繋ぎとめられた玉にも喩えられる。
浅緑いとよりかけて白露を
珠にもぬける春の柳か
僧正遍照(古今集)
という歌にも詠まれている。
そんな柳の露の散る下で牛が長閑に眠っている。
捨牛の海松和布求る潮干哉 清昌
「海松和布」は「みるめ」と読む。扇状に広がる緑藻。捨てられた牛は腹をすかしてみるめでも食べるということか。
本当に牛が緑藻を食べるのかどうかはよくわからない。ただ、最近では牛にカギケノリという紅藻を食べさせることで、牛のげっぷを減らすことができるとの研究があるようだ。
刈込て牛の草撰躑躅かな 孤松
躑躅を引き立たせるために、回りの草を刈り込むから、牛がどこを食べていいか撰ぶのに困る。
松の色牛の見て鳴焼野かな 蚊市
野焼きの後の焼野に草はないが、松の木の緑を見ると食べ物があると思うのか、鳴く。
橋過る牛の影追ふ早鰷哉 觚哉
「早鰷(さばえ)」は「ハヤ」のことで、ウィキペディアには、
「日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称である。ハエ、ハヨとも呼ばれる。」
とある。ウグイやオイカワやカワムツなどを指す。
牛が橋を渡ってゆくと、ハヤもそれを追いかけるように泳いでゆく。
長き夜や花野の牛となる夢も 千春
花野といっても牛なら食べちゃうのではないかと思う。でも、綺麗な花に囲まれ悠々と過ごす牛にはなってみたい気もする。胡蝶の夢からの発想か。
ゆく牛に口籠はむる花野哉 可雪
やはり牛は花野の花を食べてしまう。そのため口に籠をはめる。
京都ではないが、歌川広重の『東海道五拾三次之内大津』には牛が荷車を曳く様子が描かれている。京都近辺では古代道路の名残で、牛が通れるような広い舗装道路が多かったのかもしれない。
牛の毛の折レぬ曲らぬ時雨かな 加柳
牛の毛は雨をはじくというから、雨で毛が折れたり曲がったりすることがあるのかはよくわからない。
この句は牛の毛のように折れぬ曲がらぬと読むこともできる。
ちなみに毛雨は霧雨のこと。牛だけに「もう雨」?
寝ざめては牛の地を聞時雨哉 都雪
馬は立って寝ることもあるが、牛は大体横になって寝る。「食べてすぐ寝ると牛になる」という諺も牛の寝姿から来たのだろう。
牛が早朝に目覚めると、耳元で時雨が地面を打つ音が聞こえる。牛の気持ちになった句だ。
早今朝は牛の息見る冬野哉 正之
寒い朝は吐く息が白くなるが、牛の息も白くなる。
熊痩て牛に楽ある深雪哉 可雪
雪が降ると熊は痩せて、牛は襲われる心配がないから楽がある。でも熊って冬眠するのでは。
玉落す柳に牛の眠かな 松隠
柳が春なのは芽吹いたばかりの緑の鮮やかさだけでなく、この時期に目立たないが緑色の花も咲く。その春の柳に置く露は柳の糸に繋ぎとめられた玉にも喩えられる。
浅緑いとよりかけて白露を
珠にもぬける春の柳か
僧正遍照(古今集)
という歌にも詠まれている。
そんな柳の露の散る下で牛が長閑に眠っている。
捨牛の海松和布求る潮干哉 清昌
「海松和布」は「みるめ」と読む。扇状に広がる緑藻。捨てられた牛は腹をすかしてみるめでも食べるということか。
本当に牛が緑藻を食べるのかどうかはよくわからない。ただ、最近では牛にカギケノリという紅藻を食べさせることで、牛のげっぷを減らすことができるとの研究があるようだ。
刈込て牛の草撰躑躅かな 孤松
躑躅を引き立たせるために、回りの草を刈り込むから、牛がどこを食べていいか撰ぶのに困る。
松の色牛の見て鳴焼野かな 蚊市
野焼きの後の焼野に草はないが、松の木の緑を見ると食べ物があると思うのか、鳴く。
橋過る牛の影追ふ早鰷哉 觚哉
「早鰷(さばえ)」は「ハヤ」のことで、ウィキペディアには、
「日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称である。ハエ、ハヨとも呼ばれる。」
とある。ウグイやオイカワやカワムツなどを指す。
牛が橋を渡ってゆくと、ハヤもそれを追いかけるように泳いでゆく。
長き夜や花野の牛となる夢も 千春
花野といっても牛なら食べちゃうのではないかと思う。でも、綺麗な花に囲まれ悠々と過ごす牛にはなってみたい気もする。胡蝶の夢からの発想か。
ゆく牛に口籠はむる花野哉 可雪
やはり牛は花野の花を食べてしまう。そのため口に籠をはめる。
2019年12月6日金曜日
今日も『新撰都曲』から、目に留まった句を。
まずは、
気違の狂ひ勝たる鹿驚哉 助叟
から。今の放送コードだとやばい句だが、この場合の「気違(きちがひ)」は精神障害者ではなく風狂のことであろう。
当然ながら当時は精神病の概念はないし、今日で言うような精神障害者はこの時代もいただろうけど、それを判定する医師がいたわけではなかった。だから「気違」の中に精神障害者も含まれていただろうけど、気違=精神障害者ではなかった。
とはいえ、この時代に「気違」の言葉は珍しく、「物狂い」の方がよく用いられている。
物狂いというと、謡曲『三井寺』の息子を探しに三井寺にやってきた母の月夜に浮かれて鐘を撞く場面が印象的だ。
俳諧だと、以前読んだ「蓮の実に」の巻の十五句目に、
官女の具足すすむ萩原
房枕秋の寝覚の物狂ひ 西鶴
というのがあった。
風狂といえば、芭蕉の『笈の小文』の冒頭部分もそれを演出している。
「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」
これを読むとぼろぼろの服をまとった風狂の徒の姿が浮かんでくる。もちろん実際はそうではなかっただろうけど。
その『笈の小文』の伊勢参宮の時の詠んだ句に、
裸にはまだ衣更着の嵐哉 芭蕉
の句がある。
これは『撰集抄』の増賀上人の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという話を思い浮かべ、自分はそこまではできないという句だった。これなども風狂の物語といえよう。
『去来抄』の、
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
の句に対し、
「先師曰、ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。‥略‥ 先師の意を以て見れバ、少狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこころをしらざりけり。」
というのも実際にやったわけではないが、こういう風狂というのが好まれていたことが分かる。
そういう風狂の徒であるなら、現実はどうかは別としても鹿驚(かかし)よりもぼろぼろの服を着ていてもおかしくない。
鹿驚(かかし)の服については、同じ『新撰都曲』に、
絹着たる鹿驚ひとつもなかりけり 木因
の句もある。こちらは蕉門の美濃の木因の句だ。
人間の社会の生存競争は多数派工作の戦いで、有限な大地に無限の人口を養うことができない以上、何らかの形で集団から排除され、淘汰される人間というのが出てくる。人口増加の圧力がある限り、それは必然となる。
ただ、複数の集団が対立している場面では、他所の集団が排除した人々を取り込むことができれば、より大きな集団を作り他所を凌駕できる。そういうわけで、多様性への寛容は強い集団を作るには欠かせない要素になる。
古代において日本は朝鮮半島で新羅によって排除された百済や高句麗の遺民を帰化人として受け入れ、その技術によって大きな進歩を遂げたし、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に朝鮮半島からやってきた職人達も特に焼物の分野で日本の文化を大きく発展させるのに貢献してきた。
狂に関しても、あるいは衆道に関しても、寛容さは日本の文化の発展に欠かせなかった。これから日本が更なる発展をしていくためにも、このことは忘れてはいけない。
摂待に先あはれなる座頭哉 水流
「摂待(せったい)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「( 名 ) スル
① 客をもてなすこと。 「湯茶の-」 「取引先の社長を-する」
② 陰暦七月、寺巡りの人々や往来の人々に仏家の門前に湯茶を用意してふるまうこと。門茶かどちや。 [季] 秋。 《 -の寺賑はしや松の奥 /虚子 》」
とある。この場合は②の意味。
お寺で摂待をすると、真っ先にやってくる座頭がいてあわれだ、というのが句の意味と思われる。
摂待や卒塔婆の中の一煙 都雪
はそんな摂待の風景を詠んだ句だ。
座頭は平曲を演奏する琵琶法師で、「平家物語」や「浄瑠璃十二段草子」などを琵琶を引きながら謡い語った。
目の不自由な人の耳が良いことと記憶力に優れていることとで、こういう職業が与えられ保護されてきた。ウィキペディアによると、江戸時代に入るとこれに地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩などの職業も加わっていった。
障害者との共存には、その障害にあった役割を与え居場所を保障する事が不可欠になる。それをせずに形だけ平等の権利を与えても、居場所がなければどうにもならない。今後の様々なマイノリティーのことを考えてゆくにしても、こうした過去の知恵は参考にしてゆく必要がある。
継母に槿のはなをしへけり 民也
魂祭子の㒵みたる継母かな 万玉
継母というと継子いじめがどうしても連想されがちだが、江戸時代には幼児虐待は死罪で、継子いじめもご法度だった。
子供は無邪気に継母(ままはは)に槿(アサガオ)の花が咲いていることを教えてあげる。
お盆には亡き母の魂を祭る子の姿を、継母(けいぼ)がそっと見守る。
やはり人倫とはこうありたいものだ。
左義長や代々の三物焼てみん 尚白
尚白は近江蕉門。「左義長」はドンド焼きとも呼ばれる正月の行事で、正月の松飾りや注連縄などを焼く。
俳諧師が毎年配る歳旦三物帳もこのとき一緒に焼いてしまったようだ。どうりで残ってないはずだ。
人数に夢をくばりし火燵哉 萩水
火燵に入ると眠くなる。みんなそれぞれ夢の中で、そういうことで、おやすみなさい。
まずは、
気違の狂ひ勝たる鹿驚哉 助叟
から。今の放送コードだとやばい句だが、この場合の「気違(きちがひ)」は精神障害者ではなく風狂のことであろう。
当然ながら当時は精神病の概念はないし、今日で言うような精神障害者はこの時代もいただろうけど、それを判定する医師がいたわけではなかった。だから「気違」の中に精神障害者も含まれていただろうけど、気違=精神障害者ではなかった。
とはいえ、この時代に「気違」の言葉は珍しく、「物狂い」の方がよく用いられている。
物狂いというと、謡曲『三井寺』の息子を探しに三井寺にやってきた母の月夜に浮かれて鐘を撞く場面が印象的だ。
俳諧だと、以前読んだ「蓮の実に」の巻の十五句目に、
官女の具足すすむ萩原
房枕秋の寝覚の物狂ひ 西鶴
というのがあった。
風狂といえば、芭蕉の『笈の小文』の冒頭部分もそれを演出している。
「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」
これを読むとぼろぼろの服をまとった風狂の徒の姿が浮かんでくる。もちろん実際はそうではなかっただろうけど。
その『笈の小文』の伊勢参宮の時の詠んだ句に、
裸にはまだ衣更着の嵐哉 芭蕉
の句がある。
これは『撰集抄』の増賀上人の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという話を思い浮かべ、自分はそこまではできないという句だった。これなども風狂の物語といえよう。
『去来抄』の、
岩鼻やここにもひとり月の客 去来
の句に対し、
「先師曰、ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。‥略‥ 先師の意を以て見れバ、少狂者の感も有にや。退て考ふるに、自称の句となして見れバ、狂者の様もうかみて、はじめの句の趣向にまされる事十倍せり。誠に作者そのこころをしらざりけり。」
というのも実際にやったわけではないが、こういう風狂というのが好まれていたことが分かる。
そういう風狂の徒であるなら、現実はどうかは別としても鹿驚(かかし)よりもぼろぼろの服を着ていてもおかしくない。
鹿驚(かかし)の服については、同じ『新撰都曲』に、
絹着たる鹿驚ひとつもなかりけり 木因
の句もある。こちらは蕉門の美濃の木因の句だ。
人間の社会の生存競争は多数派工作の戦いで、有限な大地に無限の人口を養うことができない以上、何らかの形で集団から排除され、淘汰される人間というのが出てくる。人口増加の圧力がある限り、それは必然となる。
ただ、複数の集団が対立している場面では、他所の集団が排除した人々を取り込むことができれば、より大きな集団を作り他所を凌駕できる。そういうわけで、多様性への寛容は強い集団を作るには欠かせない要素になる。
古代において日本は朝鮮半島で新羅によって排除された百済や高句麗の遺民を帰化人として受け入れ、その技術によって大きな進歩を遂げたし、文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉倭乱)の時に朝鮮半島からやってきた職人達も特に焼物の分野で日本の文化を大きく発展させるのに貢献してきた。
狂に関しても、あるいは衆道に関しても、寛容さは日本の文化の発展に欠かせなかった。これから日本が更なる発展をしていくためにも、このことは忘れてはいけない。
摂待に先あはれなる座頭哉 水流
「摂待(せったい)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「( 名 ) スル
① 客をもてなすこと。 「湯茶の-」 「取引先の社長を-する」
② 陰暦七月、寺巡りの人々や往来の人々に仏家の門前に湯茶を用意してふるまうこと。門茶かどちや。 [季] 秋。 《 -の寺賑はしや松の奥 /虚子 》」
とある。この場合は②の意味。
お寺で摂待をすると、真っ先にやってくる座頭がいてあわれだ、というのが句の意味と思われる。
摂待や卒塔婆の中の一煙 都雪
はそんな摂待の風景を詠んだ句だ。
座頭は平曲を演奏する琵琶法師で、「平家物語」や「浄瑠璃十二段草子」などを琵琶を引きながら謡い語った。
目の不自由な人の耳が良いことと記憶力に優れていることとで、こういう職業が与えられ保護されてきた。ウィキペディアによると、江戸時代に入るとこれに地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩などの職業も加わっていった。
障害者との共存には、その障害にあった役割を与え居場所を保障する事が不可欠になる。それをせずに形だけ平等の権利を与えても、居場所がなければどうにもならない。今後の様々なマイノリティーのことを考えてゆくにしても、こうした過去の知恵は参考にしてゆく必要がある。
継母に槿のはなをしへけり 民也
魂祭子の㒵みたる継母かな 万玉
継母というと継子いじめがどうしても連想されがちだが、江戸時代には幼児虐待は死罪で、継子いじめもご法度だった。
子供は無邪気に継母(ままはは)に槿(アサガオ)の花が咲いていることを教えてあげる。
お盆には亡き母の魂を祭る子の姿を、継母(けいぼ)がそっと見守る。
やはり人倫とはこうありたいものだ。
左義長や代々の三物焼てみん 尚白
尚白は近江蕉門。「左義長」はドンド焼きとも呼ばれる正月の行事で、正月の松飾りや注連縄などを焼く。
俳諧師が毎年配る歳旦三物帳もこのとき一緒に焼いてしまったようだ。どうりで残ってないはずだ。
人数に夢をくばりし火燵哉 萩水
火燵に入ると眠くなる。みんなそれぞれ夢の中で、そういうことで、おやすみなさい。
2019年12月5日木曜日
言水編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』はその名の通り京の都の風流で、京ならではのテーマが見られる。
その一つは「お火焼(ひたき)」で、今でも京都の人にはなじみがあるのだろうけど、関東のほうの人間にはいま一つぴんと来ない。
とりあえずいつものように、コトバンクを引用しておこう。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「京都を中心に行なわれた冬の火祭。旧暦 11月に社前に火を焚く神事の一つ。知恩院をはじめとして,出雲路幸神社,伏見稲荷大社などで連日にわたって行なわれた。宮中では一条天皇のときに始まるといわれる内侍所御神楽が奏でられた。当日は民家においても一般に庭火を焼き,製茶業,風呂屋,飲食店など大火を焚く商家も神供を献じたが,のちには鍛冶屋のふいご祭にわずかに名残りをとどめるだけとなった。この祭式は一般に夜に入ってから行なわれ,社前にあらかじめ積み上げられた井桁の薪の中央に笹や竹を入れ,これに新穀の神饌,神酒を供え,神楽を奏し,祝詞が終わると斎火を笹に移し,神酒をそそいで爆竹三声で式を閉じる。」
とある。
まず『都曲』から一句。
お火焼や梟飛でねぬ鴉 可心
夜に火を焚くから、その火で梟の飛ぶ姿が見えたりしたのだろう。明るいもんだからカラスも起きていて鳴いてたりする。
もう一句。
御火焼に木葉は薫ぬ習かな 去留
まあ、お火焼は落葉焚きではなく、あくまで神事なので割木を組んで、竹を立てて燃やす。炎が高く上がることになる。
お火焼や疱瘡したる子の数多き 入安
「疱瘡」はここでは「いも」と読む。天然痘のこと。病気にご利益があるというのと、暗がりだから疱瘡の跡があっても目立たないということか。
鉢叩きも冬の京の風物だった。
鉢扣銭やる馬士の㒵見たし 民也
鉢叩きは普段は茶筅の製造販売を行っているという。『風俗文選』の去来の「鉢扣ノ辞」にも、
「常は杖のさきに茶筅をさし大路小路に出て、商ふ業かはりぬれどさま同じければ、たたかぬ時も鉢扣とぞ曲翠は申されける。」
とある。
「馬士(まご)」は馬子に同じ。馬に荷を乗せて運ぶ人のこと。なんとなく鉢叩きと並ぶと不釣合いな感じだったのだろう。
しのふ夜や似せても似ざる鉢扣 北窓
去来の「鉢扣ノ辞」にも、芭蕉の鉢叩きを見せようとしたがあいにくの悪天候で鉢叩きは来ず、仕方なく去来が、
「箒こせ真似ても見せむ鉢扣と、灰吹の竹うちならしける、其声妙也、火宅を出よとほのめかしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもならず。」
と鉢叩きの真似は結構難しかったようだ。
夕ぐれや五条あたりの鉢扣 随友
清水五条の東に空也上人の開基による補陀洛山六波羅蜜寺があり、夕暮れになると鉢叩きたちがここに集まってきたのだろう。
あと、これは夏のものになるが、京都というと加茂の競馬(くらべうま、けいば)がある。
競馬見ぬ人や河原の歌念仏 可心
「歌念仏」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「念仏に節をつけて俗謡風に歌ったもので,《人倫訓蒙図彙》(1690)によると,菅笠をつけた僧形のものが,鉦鼓(しようこ)を首にかけて門付(かどづけ)をしている姿が描かれているが,これが歌念仏である。《竹豊(ちくほう)故事》(1756)に,寛文(1661‐73)ころ歌念仏を得意とした日暮林清,林故,林達の名が見える。元禄から享保(1688‐1736)にかけて浄瑠璃風に語るようにもなった。詞章としては近松の《五十年忌歌念仏》の中にお夏清十郎の歌念仏がある。」
とある。単なる念仏ならわざわざ見に行くものでもないが、物語ともなれば競馬と張り合える。
市原に昼寝さめたる競馬かな 和海
京都の市原は貴船や鞍馬の方の入口だが、上加茂神社からは二キロくらい離れている。そこまで加茂の競馬の歓声は聞こえたのだろう。
おほかたは冠見てくる競馬哉 露吹
見に行っても人だかりが凄くて冠しか見えない。
その一つは「お火焼(ひたき)」で、今でも京都の人にはなじみがあるのだろうけど、関東のほうの人間にはいま一つぴんと来ない。
とりあえずいつものように、コトバンクを引用しておこう。「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「京都を中心に行なわれた冬の火祭。旧暦 11月に社前に火を焚く神事の一つ。知恩院をはじめとして,出雲路幸神社,伏見稲荷大社などで連日にわたって行なわれた。宮中では一条天皇のときに始まるといわれる内侍所御神楽が奏でられた。当日は民家においても一般に庭火を焼き,製茶業,風呂屋,飲食店など大火を焚く商家も神供を献じたが,のちには鍛冶屋のふいご祭にわずかに名残りをとどめるだけとなった。この祭式は一般に夜に入ってから行なわれ,社前にあらかじめ積み上げられた井桁の薪の中央に笹や竹を入れ,これに新穀の神饌,神酒を供え,神楽を奏し,祝詞が終わると斎火を笹に移し,神酒をそそいで爆竹三声で式を閉じる。」
とある。
まず『都曲』から一句。
お火焼や梟飛でねぬ鴉 可心
夜に火を焚くから、その火で梟の飛ぶ姿が見えたりしたのだろう。明るいもんだからカラスも起きていて鳴いてたりする。
もう一句。
御火焼に木葉は薫ぬ習かな 去留
まあ、お火焼は落葉焚きではなく、あくまで神事なので割木を組んで、竹を立てて燃やす。炎が高く上がることになる。
お火焼や疱瘡したる子の数多き 入安
「疱瘡」はここでは「いも」と読む。天然痘のこと。病気にご利益があるというのと、暗がりだから疱瘡の跡があっても目立たないということか。
鉢叩きも冬の京の風物だった。
鉢扣銭やる馬士の㒵見たし 民也
鉢叩きは普段は茶筅の製造販売を行っているという。『風俗文選』の去来の「鉢扣ノ辞」にも、
「常は杖のさきに茶筅をさし大路小路に出て、商ふ業かはりぬれどさま同じければ、たたかぬ時も鉢扣とぞ曲翠は申されける。」
とある。
「馬士(まご)」は馬子に同じ。馬に荷を乗せて運ぶ人のこと。なんとなく鉢叩きと並ぶと不釣合いな感じだったのだろう。
しのふ夜や似せても似ざる鉢扣 北窓
去来の「鉢扣ノ辞」にも、芭蕉の鉢叩きを見せようとしたがあいにくの悪天候で鉢叩きは来ず、仕方なく去来が、
「箒こせ真似ても見せむ鉢扣と、灰吹の竹うちならしける、其声妙也、火宅を出よとほのめかしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもならず。」
と鉢叩きの真似は結構難しかったようだ。
夕ぐれや五条あたりの鉢扣 随友
清水五条の東に空也上人の開基による補陀洛山六波羅蜜寺があり、夕暮れになると鉢叩きたちがここに集まってきたのだろう。
あと、これは夏のものになるが、京都というと加茂の競馬(くらべうま、けいば)がある。
競馬見ぬ人や河原の歌念仏 可心
「歌念仏」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「念仏に節をつけて俗謡風に歌ったもので,《人倫訓蒙図彙》(1690)によると,菅笠をつけた僧形のものが,鉦鼓(しようこ)を首にかけて門付(かどづけ)をしている姿が描かれているが,これが歌念仏である。《竹豊(ちくほう)故事》(1756)に,寛文(1661‐73)ころ歌念仏を得意とした日暮林清,林故,林達の名が見える。元禄から享保(1688‐1736)にかけて浄瑠璃風に語るようにもなった。詞章としては近松の《五十年忌歌念仏》の中にお夏清十郎の歌念仏がある。」
とある。単なる念仏ならわざわざ見に行くものでもないが、物語ともなれば競馬と張り合える。
市原に昼寝さめたる競馬かな 和海
京都の市原は貴船や鞍馬の方の入口だが、上加茂神社からは二キロくらい離れている。そこまで加茂の競馬の歓声は聞こえたのだろう。
おほかたは冠見てくる競馬哉 露吹
見に行っても人だかりが凄くて冠しか見えない。
2019年12月4日水曜日
だいぶ寒くなってきた。
夕暮れの月は半月になっていた。
それでは「凩の」の巻、挙句まで。
二裏。
三十一句目。
鷗と遊ぶ江のかかり舟
黄昏を無官の座頭うたひけり 言水
ウィキペディアによると琵琶法師は、「検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。」という。無官というのは、まだ官位を持っていない初心の琵琶法師だという。
場面を黄昏時とし、はじめたばかりの琵琶法師が鷗相手に練習をしているのだろうか。
三十二句目。
黄昏を無官の座頭うたひけり
ゆるく焼せてながく入風呂 言水
「焼せて」は「たかせて」と読む。当時の銭湯はサウナだったが、この場合は家の中に据え付ける据風呂(水風呂)だろう。
ここでいう無官の座頭は多分なんちゃって座頭で、入浴している人が気分良くて平曲の一節なんかを歌ったりしたのだろう。
三十三句目。
ゆるく焼せてながく入風呂
しぐれより雪みる迄の命乞 言水
「命乞(いのちごひ)」は本来は長生きができるように神仏に祈ることだった。
長風呂をしていると、時雨がいつの間に雪に変わっていた。
三十四句目。
しぐれより雪みる迄の命乞
内裏拝みてかへる諸人 言水
内裏というと京都御所のことだろうが、ここを訪れて神社のように拝んで、長寿を祈ることは普通に行われていたのだろうか、よくわからない。
だいぶ後になるが、
女具して内裏拝まんおぼろ月 蕪村
の句もある。
三十五句目。
内裏拝みてかへる諸人
やさしきは花くはへたる池の亀 言水
ネットで調べたが、亀が花を食べるのは珍しくないようだ。
「やさし」の元の意味は身も痩せ細るような思いをすることだが、それが転じて謙虚で立派な心がけを言うこともある。
まあ、実際は花を食べているのだろうけど、見た目には花を咥えていると、内裏に花を奉げているようにも見える。
挙句。
やさしきは花くはへたる池の亀
弥生のあやめ出さぬ紫 言水
池の亀ということで、池にはあやめ(ここでは花菖蒲であろう)が植えられているが、弥生なのでまだ紫の花も蕾も見えない。亀の咥えている桜の花が池に花を添えている。
まあ、亀に花ということで、目出度く一巻は終わる。
夕暮れの月は半月になっていた。
それでは「凩の」の巻、挙句まで。
二裏。
三十一句目。
鷗と遊ぶ江のかかり舟
黄昏を無官の座頭うたひけり 言水
ウィキペディアによると琵琶法師は、「検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。」という。無官というのは、まだ官位を持っていない初心の琵琶法師だという。
場面を黄昏時とし、はじめたばかりの琵琶法師が鷗相手に練習をしているのだろうか。
三十二句目。
黄昏を無官の座頭うたひけり
ゆるく焼せてながく入風呂 言水
「焼せて」は「たかせて」と読む。当時の銭湯はサウナだったが、この場合は家の中に据え付ける据風呂(水風呂)だろう。
ここでいう無官の座頭は多分なんちゃって座頭で、入浴している人が気分良くて平曲の一節なんかを歌ったりしたのだろう。
三十三句目。
ゆるく焼せてながく入風呂
しぐれより雪みる迄の命乞 言水
「命乞(いのちごひ)」は本来は長生きができるように神仏に祈ることだった。
長風呂をしていると、時雨がいつの間に雪に変わっていた。
三十四句目。
しぐれより雪みる迄の命乞
内裏拝みてかへる諸人 言水
内裏というと京都御所のことだろうが、ここを訪れて神社のように拝んで、長寿を祈ることは普通に行われていたのだろうか、よくわからない。
だいぶ後になるが、
女具して内裏拝まんおぼろ月 蕪村
の句もある。
三十五句目。
内裏拝みてかへる諸人
やさしきは花くはへたる池の亀 言水
ネットで調べたが、亀が花を食べるのは珍しくないようだ。
「やさし」の元の意味は身も痩せ細るような思いをすることだが、それが転じて謙虚で立派な心がけを言うこともある。
まあ、実際は花を食べているのだろうけど、見た目には花を咥えていると、内裏に花を奉げているようにも見える。
挙句。
やさしきは花くはへたる池の亀
弥生のあやめ出さぬ紫 言水
池の亀ということで、池にはあやめ(ここでは花菖蒲であろう)が植えられているが、弥生なのでまだ紫の花も蕾も見えない。亀の咥えている桜の花が池に花を添えている。
まあ、亀に花ということで、目出度く一巻は終わる。
2019年12月3日火曜日
社会主義の敗北は理性崇拝の敗北でもあったのだろう。社会主義を失ってから理性は暴走している。人権派、ビーガン、環境エコロジスト、彼等の一部過激化した思想はどこへ行くのだろうか。
もう一度人間の感情を見つめなおそう。そこに次の時代の答がある。
「凩の」の巻の続き。
二十五句目。
餅つく人ぞ人らしき㒵
来ますとは世の嘘ながら祭ル魂 言水
お盆で先祖の魂が帰ってくるというのは確かに「世の嘘」なのだけど、それを言っては元も子もない。
京都ではお盆に「おけそく」と呼ばれる餅を供えるという。霊魂の話、鬼神の話は疑わしいとはいえ、それを信じて祭る人の心は人らしい。
二十六句目。
来ますとは世の嘘ながら祭ル魂
邪神に弓はひかぬ鹿狩 言水
邪神というと今はクトゥルー神話になってしまったが、元は災いをもたらす神の意味だった。
日本では鹿を食う習慣がなかったので、鹿狩りは農作物の害獣駆除として行われていた。
鹿は鹿島神宮の神使でもあり、奈良の春日大社でも神鹿とされている。その鹿には弓を向けるけど、邪神には弓を向けないというのは、確かに先祖の魂など信じない合理主義者には矛盾のように感じるのかもしれない。実際に姿を現すわけでもない邪神には弓の引きようがないが。
このあたりも蕉門の人たちと言水のキャラの違いなのだろう。何のかんの言って蕉門の人たちは信心深い。それが不易の風雅の誠の探求へと向わせたのだが、言水は現世的だ。
唯物論者というのはいつの時代にもいるもので、定家の卿もそうだったようだ。他の巻だが、
牙生し子は我家に置兼て
いのれど弥陀は常の㒵なる 言水
なんて句もある。
二十七句目。
邪神に弓はひかぬ鹿狩
腰居し岩に麓の秋をみて 言水
前句を単なる鹿狩りの光景として、岩に腰掛けて麓の秋の景色を眺める狩人を描く。
二十八句目。
腰居し岩に麓の秋をみて
朝霧かくす児の古郷 言水
「秋」は「飽き」との掛詞になる。男色に相手に飽きた稚児は故郷を離れる。岡の上から振り返る故郷は朝霧に隠れている。
二十九句目。
朝霧かくす児の古郷
月にこそ砧は昼の物めかず 言水
砧といえば李白の「子夜呉歌」で、月の下で聞くから趣もある。
み吉野の山の秋風小夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり
参議雅経(新古今集)
が本歌だが、朝になってもはや砧の音は聞こえない。まあ、昼聞いてもらしくないしな、と冷ややかに言う所が言水らしさなのだろう。
三十句目。
月にこそ砧は昼の物めかず
鷗と遊ぶ江のかかり舟 言水
「かかり舟」は繋船(けいせん)のこと。江に浮かぶ船は月にこそふさわしいが、つながれて鷗と遊ぶ昼の舟はそれはそれで別の味わいがある。
砧は物めかないが、舟は昼でも物めく。
もう一度人間の感情を見つめなおそう。そこに次の時代の答がある。
「凩の」の巻の続き。
二十五句目。
餅つく人ぞ人らしき㒵
来ますとは世の嘘ながら祭ル魂 言水
お盆で先祖の魂が帰ってくるというのは確かに「世の嘘」なのだけど、それを言っては元も子もない。
京都ではお盆に「おけそく」と呼ばれる餅を供えるという。霊魂の話、鬼神の話は疑わしいとはいえ、それを信じて祭る人の心は人らしい。
二十六句目。
来ますとは世の嘘ながら祭ル魂
邪神に弓はひかぬ鹿狩 言水
邪神というと今はクトゥルー神話になってしまったが、元は災いをもたらす神の意味だった。
日本では鹿を食う習慣がなかったので、鹿狩りは農作物の害獣駆除として行われていた。
鹿は鹿島神宮の神使でもあり、奈良の春日大社でも神鹿とされている。その鹿には弓を向けるけど、邪神には弓を向けないというのは、確かに先祖の魂など信じない合理主義者には矛盾のように感じるのかもしれない。実際に姿を現すわけでもない邪神には弓の引きようがないが。
このあたりも蕉門の人たちと言水のキャラの違いなのだろう。何のかんの言って蕉門の人たちは信心深い。それが不易の風雅の誠の探求へと向わせたのだが、言水は現世的だ。
唯物論者というのはいつの時代にもいるもので、定家の卿もそうだったようだ。他の巻だが、
牙生し子は我家に置兼て
いのれど弥陀は常の㒵なる 言水
なんて句もある。
二十七句目。
邪神に弓はひかぬ鹿狩
腰居し岩に麓の秋をみて 言水
前句を単なる鹿狩りの光景として、岩に腰掛けて麓の秋の景色を眺める狩人を描く。
二十八句目。
腰居し岩に麓の秋をみて
朝霧かくす児の古郷 言水
「秋」は「飽き」との掛詞になる。男色に相手に飽きた稚児は故郷を離れる。岡の上から振り返る故郷は朝霧に隠れている。
二十九句目。
朝霧かくす児の古郷
月にこそ砧は昼の物めかず 言水
砧といえば李白の「子夜呉歌」で、月の下で聞くから趣もある。
み吉野の山の秋風小夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり
参議雅経(新古今集)
が本歌だが、朝になってもはや砧の音は聞こえない。まあ、昼聞いてもらしくないしな、と冷ややかに言う所が言水らしさなのだろう。
三十句目。
月にこそ砧は昼の物めかず
鷗と遊ぶ江のかかり舟 言水
「かかり舟」は繋船(けいせん)のこと。江に浮かぶ船は月にこそふさわしいが、つながれて鷗と遊ぶ昼の舟はそれはそれで別の味わいがある。
砧は物めかないが、舟は昼でも物めく。
2019年12月2日月曜日
「凩の」の巻の続き。
二表。
十九句目。
牛は柳につながれて鳴ク
野々宮も酒さへあれば春の興 言水
京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社は、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした場所で、『源氏物語』賢木巻では源氏の君が六条御息所を尋ねてこの野宮にやってくる。秋のことだった。
謡曲『野宮』では牛車に乗った御息所が登場するというから、前句の牛を牛車を引く牛としたのだろう。源氏も忍んで来たから、源氏がどこかの柳の木に牛を繋いでいたのかもしれない。
斎王の制度は南北朝時代に廃絶し、それ以降は普通の神社になったのだろう。ならば酒さえあれば昔の源氏と御息所の寂しげな別れの場面なども忘れ、春の興となる。まあ、昔は潔斎の場所だから酒はなかったのだろう。
これも古典の雰囲気を生かした蕉門の俤付けとは違い、むしろ古代と現代のギャップで笑わせる。そういうところが談林的で言水流なのだろう。
二十句目。
野々宮も酒さへあれば春の興
詞かくるに見返りし尼 言水
嵯峨で尼さんをナンパしようとしたのか。
嵯峨の尼というと祇王寺で、清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前の悲しい物語があるが、それも昔の話。
二十一句目。
詞かくるに見返りし尼
思ひ出る古主の別二十年 言水
昔の主人との恋物語もあったのだろう。結局結ばれることなく女は尼となり、あれから二十年。ふと昔の主人に呼び止められたような気がして振り返る。そこには‥‥。メロドラマだね。
二十二句目。
思ひ出る古主の別二十年
東に足はささでぬる夜半 言水
忠臣だったのだろう。何かの誤解で左遷されてしまったかお暇を出されたか、それでも主君のいる方角に足を向けて寝ることはない。
殿は東にいるということは家康公の忠臣か。
二十三句目。
東に足はささでぬる夜半
漏ほどの霰掃やる風破の関 言水
前句の「東に足をささで」を東に向って歩かずにと取り成したか。
風破の関(不破の関)は荒れ果てて、雨漏りどころか霰も漏ってくるので掃き出さなくてはならない。そんな荒れた天気だから、今日は関を越えずにここで一夜過ごそう、とする。
二十四句目。
漏ほどの霰掃やる風破の関
餅つく人ぞ人らしき㒵 言水
前句の霰をあられ餅のこととする。不破の関で餅を搗いては大量のあられを作っている。一体こんな所で餅を搗くとは誰なんだろうか。人のように見えるがひょっとして人外さん?
二表。
十九句目。
牛は柳につながれて鳴ク
野々宮も酒さへあれば春の興 言水
京都嵯峨野にある野宮(ののみや)神社は、かつては伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした場所で、『源氏物語』賢木巻では源氏の君が六条御息所を尋ねてこの野宮にやってくる。秋のことだった。
謡曲『野宮』では牛車に乗った御息所が登場するというから、前句の牛を牛車を引く牛としたのだろう。源氏も忍んで来たから、源氏がどこかの柳の木に牛を繋いでいたのかもしれない。
斎王の制度は南北朝時代に廃絶し、それ以降は普通の神社になったのだろう。ならば酒さえあれば昔の源氏と御息所の寂しげな別れの場面なども忘れ、春の興となる。まあ、昔は潔斎の場所だから酒はなかったのだろう。
これも古典の雰囲気を生かした蕉門の俤付けとは違い、むしろ古代と現代のギャップで笑わせる。そういうところが談林的で言水流なのだろう。
二十句目。
野々宮も酒さへあれば春の興
詞かくるに見返りし尼 言水
嵯峨で尼さんをナンパしようとしたのか。
嵯峨の尼というと祇王寺で、清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前の悲しい物語があるが、それも昔の話。
二十一句目。
詞かくるに見返りし尼
思ひ出る古主の別二十年 言水
昔の主人との恋物語もあったのだろう。結局結ばれることなく女は尼となり、あれから二十年。ふと昔の主人に呼び止められたような気がして振り返る。そこには‥‥。メロドラマだね。
二十二句目。
思ひ出る古主の別二十年
東に足はささでぬる夜半 言水
忠臣だったのだろう。何かの誤解で左遷されてしまったかお暇を出されたか、それでも主君のいる方角に足を向けて寝ることはない。
殿は東にいるということは家康公の忠臣か。
二十三句目。
東に足はささでぬる夜半
漏ほどの霰掃やる風破の関 言水
前句の「東に足をささで」を東に向って歩かずにと取り成したか。
風破の関(不破の関)は荒れ果てて、雨漏りどころか霰も漏ってくるので掃き出さなくてはならない。そんな荒れた天気だから、今日は関を越えずにここで一夜過ごそう、とする。
二十四句目。
漏ほどの霰掃やる風破の関
餅つく人ぞ人らしき㒵 言水
前句の霰をあられ餅のこととする。不破の関で餅を搗いては大量のあられを作っている。一体こんな所で餅を搗くとは誰なんだろうか。人のように見えるがひょっとして人外さん?
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