2019年11月21日木曜日

 「鳶の羽も」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   人にもくれず名物の梨
 かきなぐる墨絵おかしく秋暮て 史邦

 前句の「人にもくれず」をケチなのではなく、人がよりつかないという意味に取り成したのだろう。
 一人閉じこもって墨絵を書き殴りながら暮らす隠士は、今だったら引きニートなどといわれそうだが(引きニートもネットで絵など書いて公開してたりする)、昔は世俗のかかわりを絶つのを聖なる行動と解釈していた。
 秋は暮れてゆくけど梨はくれない、というのがいちおう洒落になっている。
 八句目。

   かきなぐる墨絵おかしく秋暮て
 はきごころよきめりやすの足袋 凡兆

 メリヤスはウィキペディアに、

 「日本では編み物の伝統が弱く、17世紀後半の延宝 - 元禄年間(1673年 - 1704年)に、スペインやポルトガルなどから靴下などの形で編地がもたらされた。そこで、ポルトガル語やスペイン語で「靴下」を意味するポルトガル語の「メイアシュ」(meias)やスペイン語の「メディアス」(medias)から転訛した「メリヤス」が、編み物全般を指すようになった。「莫大小」という漢字は、伸縮性があり「大小がない」こととする説がある。主に、武士が殿中に出仕する際の足袋を作る技法として一部武士から庶民にも広まった。」

とある。
 まあ、当時の流行のネタと言えよう。墨絵をたしなむ風流人はここでは引きニートではなく立派な武士で、流行にも敏感なできる男だったのだろう。
 九句目。

   はきごころよきめりやすの足袋
 何事も無言の内はしづかなり  去来

 無言だと静かなのは当たり前のことで、要するに喋りだすとうるさくてしょうがないことを逆説的に言ったのだろう。
 うっかり足袋のことに触れたりすると、際限なく薀蓄を語られそうだ。
 十句目。

   何事も無言の内はしづかなり
 里見え初て午の貝ふく     芭蕉

 前句の「無言」を無言行を修ずる修験者に取り成す。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には、

 「前を峰入の行者など見さだめて、羊腸をたどり、人里を見おろす午時の勤行終わりしさまと見えたり。又柴灯といふ修法ありて、無言なりとぞ。午の時に行終りて下山する時、貝を吹なり。」

とある。
 無言行の時は静かだが、終ればほら貝を吹く。
 十一句目。

   里見え初て午の貝ふく
 ほつれたる去年のねござしたたるく 凡兆

 古註は寝茣蓙の持ち主が貝を吹く修験者なのか里の農民なのかで割れているようだ。
 ここは貧しい修験者として、寝茣蓙がほつれた上にじめじめしていて寝てられないので、里に出てきたのではないかと思う。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)の、「前を山家と見て、貧家体を付たり。寝ござのしたたるくは、やぶれて取所なきさま也。」でいいのではないかと思う。
 十二句目。

   ほつれたる去年のねござしたたるく
 芙蓉のはなのはらはらとちる    史邦

 寝茣蓙も古くなればほつれて湿気を吹くんでゆくように、芙蓉も時が経てばはらはらと散ってゆく。どちらも無常を感じさせるという所で響きで付いている。
 『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)にも、「去年のねござの敗たると言るに、うるはしき芙蓉も落花するといへる観想のたぐらへ付也。此芙蓉は、蓮也と諸註に言り。いかにも、木芙蓉は、しぼみてはらはらと散姿なし。」とある。
 ここでいう芙蓉はアオイ科フヨウ属の芙蓉ではなく蓮の別名のようだ。ウィキペディアにも、

 「『芙蓉』はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には『木芙蓉』(もくふよう)とも呼ばれる。」

とある。

2019年11月20日水曜日

 今朝は下弦の月が見えた。もうじき神無月も終わり。
 新暦十一月はまだ俳諧を読んでないので、そろそろかな。ということで、『猿蓑』の古典的名作、「鳶の羽も」の巻を読んでみようかと思う。
 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)や『校本芭蕉全集第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)、それに『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、一九八七、汲古書院)と参考になる本も多い。

発句。

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ    去来

 「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」と読む。「も」はこの場合「力も」で、特に何かと比較してということではないと思う。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「人も蓑笠に刷ふと、ひびかせたる也」とあるが、そこまで読んでも読まなくてもいい。
 時雨の後の情景で、鳶が濡れた羽を繕うというところに、安堵感のようなものを感じればそれでいいのだと思う。
 時雨というと、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句もあり、冷たい時雨はそれを逃れた時に逆にぬくもりを感じさせる。
 興行開始の挨拶としても、「いやあ、時雨も止みましたな、それでは俳諧をはじめましょう」ということだと思う。とくに鳶の姿が見えたとか、そういうことではなかったと思う。
 脇。

   鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
 一ふき風の木の葉しづまる   芭蕉

 発句が時雨の後の情景なので、それに答えるべく風も吹いたけど今は静まっている、と付ける。前句の安堵感に応じたもので、響き付けといえよう。『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)の「かいつくろいぬに、しづまると請たり。」でいいと思う。
 土芳の『三冊子』には、

 「木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」

とある。「ほ句の前」というのは、一ふき風の木の葉もしずまったので、鳶の羽も刷ぬという意味。
 発句と脇との会話という点では、

 「いやあ、時雨も止みましたな、鳶の羽もかいつくろってることでしょう、それでは俳諧をはじめましょう。」
 「そうですね、木の葉を一吹きしていた風もおさまったことですし。」

というところか。
 「木の葉」は今は木の葉っぱ全般を指すが、古くは落ち葉のことを言うものだった。湯山三吟の発句に、

 うす雪に木葉色こき山路哉   肖柏

の用例がある。薄雪の白とのコントラストで地面に散った落ち葉がの色が濃く見える。強いて寓意を持たすなら、それが集まった三人の歳を経て、なおも頑張って色を見せている姿に重なり合うということか。
 第三。

   一ふき風の木の葉しづまる
 股引の朝からぬるる川こえて  凡兆

 夕暮れの情景から朝に転じる。股引(ももひき)を濡らすというのは、膝くらいまでの浅い川を渡るということだろう。
 『奥の細道』の冒頭の部分に「もゝ引ひきの破れをつゞり笠の緒付かえて」とあるように、風の止んだ静かな朝早く、浅川を越える旅人と見るのがいいだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「人倫に転ず。旅体なり。」とある。
 四句目。

   股引の朝からぬるる川こえて
 たぬきををどす篠張の弓    史邦

 「篠張の弓」というのは篠竹で作った簡単な弓で、多分そんな殺傷力はなくて、脅かす程度のものだったのだろう。
 狸はそんな恐い生き物ではないので、本来は熊除けで、弓を鳴らしながら歩いたのではないかと思う。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は狼を除けるものとしている。それがあまりに粗末な弓なので、狸程度しか脅せないなというところに俳諧があるといっていいのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「山畠かせぐ男と見なして、肩に懸たる品をいへり。」とある。前句の股引を旅人ではなく農夫と見ている。
 五句目。

   たぬきををどす篠張の弓
 まいら戸に蔦這かかる宵の月  芭蕉

 「まいら戸(ど)」は「舞良戸」と書く。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「2本の縦框(たてかまち)の間に狭い間隔で横桟(よこさん)を渡し,それに板を打ちつけた引戸をいう。主として外まわり建具として用いられた。この形式の戸は平安時代の絵巻物にすでに描かれているが,当時は〈遣戸(やりど)〉と呼ばれていた。舞良戸の語源は明らかでなく,またその語が使用されるのも近世に入ってからである。寝殿造の外まわり建具は蔀戸(しとみど)が主で,出入口にのみ妻戸(つまど)(扉)が使われていた。遣戸の発生は両者より遅れ,寝殿の背面などの内向きの部分で使われはじめたがしだいに一般化し,室町時代に入ると書院造の建具として多く用いられるようになる。」

とある。書院造りは武家屋敷か立派なお寺を連想させるが、蔦這かかるとなれば、既に廃墟と化している。
 月夜に豪邸に招かれて、酒池肉林の宴をしていると、誰かが篠弓を掻き鳴らしながらやってきて、すると魔法が解けたかのように本来の廃墟に戻ってしまう。さては狸に化かされたか、そんな物語が浮かんでくる。
 『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)には、「昔は富貴也ける住、荒て狐狸の類ひも徘徊すれば、今宵はと篠竹に弓の形ヲこしらへ侍るにや。」とある。
 六句目。

   まいら戸に蔦這かかる宵の月
 人にもくれず名物の梨     去来

 古註の多くが『徒然草』の第十一段を引いている。

 「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」

 山奥に住む粗末な庵にさぞや心ある人だろうとおもって庭を見ると、大きな蜜柑の木にいっぱい実がなっているのに、周りを厳重に囲って盗まれないようにしているのを見て、どこにでもいる俗人かとがっかりする話だ。
 本説で付ける場合は、元ネタと少し変えて付ける。
 ここでは、前句の「まいら戸」を凋落したお寺とし、そこに月も出ていれば、そこに住む人もどんな風流人かと思うところだが、実際には名物の梨も出してくれないケチな人でがっかりした、というところだろう。

2019年11月18日月曜日

 芭蕉脇集を元禄七年で終ろうとしたが、『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)にはそのあと「年代未詳之部」があって、そこからもう一句追加しなくてはならない。

年代未詳

   風羅坊の師、旅を好本性にて、
   奥羽越後の月雪にさすらへ、
   またうごきなき石山の庵とおも
   ひしも幻住となして、都の納涼
   の風に吹れなど、流石におもひ
   定て、おもひ定めぬは風雅の情
   ならん。臍の緒に啼を憐て、玉
   玉ことしは東武にこころとどま
   りぬ。五十の波立越、老をいた
   はり、烏頭巾を送るとて、其志
   の短を継そへていふ。
   菅蓑の毛なみや氷る庵の暮   粛山
 まれに頭巾を貰ふ木兎       芭蕉

 奥の細道の旅を終えてしばらく上方に滞在した後、江戸に戻り滞在した時の冬の句だとすれば、元禄四年十一月から元禄七年五月までの間の冬、つまり元禄四年、元禄五年、元禄六年のいずれかということになる。
 「五十の波立越」とあり、五十歳の時だとすれば元禄六年ということになる。

 振売りの雁あはれなり恵比寿講   芭蕉

の句はこの年の十月で、ちょうど『炭俵』の風が固まった頃だ。
 粛山は其角門で松山藩の家老だという。其角撰『いつを昔』(元禄三年刊)に、

 亀の背に漂ふ鳰の浮巣哉      粛山
 涼しさや海すこしある戎堂     同
 左迁に鯖備へける文月哉      同

といった句がある。
 粛山の発句は、菅蓑だけでは髪の毛も凍ってしまうでしょう、この庵で年の暮れを過ごすには、というもので、それで烏頭巾を贈ったわけだ。
 烏頭巾がどのような頭巾かよくわからないが、ミミズクのように見えるとしたら角頭巾の黒いものか。
 芭蕉の脇は頭巾を貰ったこととそれを被った姿がミミズクに似ていることから、「頭巾を貰ふ木兎」となる。
 なお、其角撰『いつを昔』に、

   けうがる我が旅すがた
 木兎の独わらひや秋の暮      其角

の句がある。同じ其角の句に、

 みゝつくの頭巾は人にぬはせけり  其角(五元集)

の句もある。

2019年11月17日日曜日

 今日もいい天気だった。
 香港ではついに人民解放軍が出動し、障害物の撤去作業を行ったという。香港の自由のために国際社会は何もできず、暴力によって殺され傷つく民衆をただ見ているしかないのだろうか。
 安倍政権にもそのことを追求して欲しい所だが、野党には例の中国系議員もいることだし、桜が見にくる会の追求で忙しいようだ。
 それでは芭蕉脇集の続き。

   夕㒵や蔓に場をとる夏座敷   為有
 西日をふせぐ藪の下刈       芭蕉

 閏五月廿二日から六月十五日までの間の落柿舎滞在中の興行と思われる。
 二十四句目までは為有、芭蕉、惟然、野明の四吟で、それ以降は去来、之道、野明の三吟になっている。十七句目に花が来ていて、二十四句目が特に挙句のようになってないので、未完で終わったようだ。後日三人で継ぎ足して完成させたものであろう。
 また、これには元禄十一年刊の松星・夾始編『記念題』に、二十三句目から露川、如行、松星、夾始の四吟となっている別バージョンが存在する。二十二句目の「尻もむすばぬ恋ぞほぐるる 野明」が「尻もむすばぬ言をほぐるる 野明」になっていて、二十三句目の芭蕉の句と二十四句目の惟然の句がない。
  夕顔は蔓性で干瓢を取るために夕顔棚を作るから、藤棚同様それなりのスペースは必要になる。落柿舎に夕顔棚があったのだろう。
 発句は夕顔に場所をとられて狭いところですが、という挨拶になる。それに対し、夕顔棚は西日を防いでくれるとその徳を述べる。
 久隅守景の『夕顔棚納涼図屏風』のように、夕顔棚は貧しい家の納涼風景を連想させるものだった。

   菜種ほすむしろの端や夕涼み  曲翠
 蛍逃行あぢさゐの花        芭蕉

 六月十五日に落柿舎から膳所の義仲寺無名庵に移り、そのころの吟と思われる。曲翠は膳所藩士。
 土芳の『三冊子』に、
「此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」とある。
 以下、十月二十四日の俳話と重複するが、菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年に時折見られる脇の付け方だったようだ。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

   元禄七七月廿八日夜猿雖亭
   あれあれて末は海行野分哉   猿雖
 鶴の頭を上る粟の穂        芭蕉

 前書きにある通り、七月二十八日、伊賀の猿雖亭での興行。一度半歌仙で終ろうとして、そのあと挙句を入れ替えて歌仙にしたと思われる。六吟歌仙興行だったが、主筆と思われる木白も参加して七吟になっている。
 元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。台風も去ってどこかの海へ出て行ったようだという発句に対し、鶴も粟畑で頭を上げていると嵐の後の平穏な風景を付ける。
 土芳の『三冊子』には、「鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。」とある。
 また芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡に、「鶴は常体之気しきに落可」とある。
 この場合の鶴は季節から言ってコウノトリのことであろう。特に鶴にお目出度いという寓意はなく、粟は穂を垂れ、それと対称的に鶴は頭を上げるという嵐の去った後の景色でさらっと流している。

   歌仙
   残る蚊に袷着て寄る夜寒哉   雪芝
 餌畚ながらに見するさび鮎     芭蕉

 これも「あれあれて」の巻と同じ頃の興行と思われる。前書きに「歌仙」とあるが三十句で終っている。
 すっかり夜寒になり、こうして袷を着て集まっているのは興行の時の様子であろう。寒くなったのにまだ蚊がいて、秋の蚊はしつこくて嫌ですね、といったところか。
 「餌畚」は鷹匠の持ち歩く餌袋のことだが、釣の時の餌を入れる竹籠にも使う。「さび鮎」は秋の産卵期の鮎で「落ち鮎」ともいう。この時期の鮎は友釣りもできず、餌釣りも食いが悪いという。だからこの「さび鮎」は貴重なものだともいえよう。
 「寒いのに蚊がいるところですいません」「いえ、この時期の鮎は貴重です」といったところか。

   折々や雨戸にさはる荻の声   雪芝
 放す所におらぬ松虫        芭蕉

 これも同じ頃の句。
 芭蕉の元禄七年八月九日付向井去来宛書簡にある句で、「いまかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」という時の句。
 土芳の『三冊子』に、「この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」とある。
 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。

   松茸に交る木の葉も匂ひかな  鷗白
 栗のいがふむ谷の飛こえ      芭蕉

 これも芭蕉の伊賀滞在中で八月中旬とされている。
 発句は芭蕉の元禄四年秋の、

 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき  芭蕉

を踏まえたものだろう。もらった松茸を見ると、何だかわからない葉っぱがへばりついていることってあるよね、といったいわゆる「あるあるネタ」の句だったが、ここでは芭蕉を松茸にたとえ、伊賀の門人の名もなき木の葉にも香りを移しているという挨拶句に作りなおす。
 これに対し芭蕉は、栗のイガを踏んだりしながら谷を飛び越えて参りました、と返す。イガはやはり「伊賀」に掛けているのか。ならば「栗のイガを踏んだりしながらも、伊賀の地を踏むために」となる。
 八月二十三日には、

 松茸や都に近き山の形(なり)   惟然

を発句とする興行もあり、九月四日には伊賀を訪れた支考と文代(斗従)を迎えての「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき」を発句とする歌仙興行があった。さながらこの年の伊賀は松茸祭といったところか。
 なお、「しらぬ木の葉」の句を支考にくっ付いてきた文代(斗従)のことだとする解釈がネット上に流布しているのは、この句を当座の興で詠んだとの誤解によるものと思われる。

   猿蓑にもれたる霜の松露哉   沾圃
 日は寒けれど静なる岡       芭蕉

 これは九月の初め頃、前年に詠まれた沾圃の発句を元に行われた、芭蕉、支考、惟然による三吟歌仙興行の脇。この発句が『続猿蓑』のタイトルの由来ともなり、『続猿蓑』に収録されている。
 発句は、美味な食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
 これに対し芭蕉は「日は寒けれど」という気候と「静なる岡」という背景を添えるだけの謙虚なものだ。発句を引き立てようという意図で、自己主張を抑えた感じがする。ある意味これは脇句の見本と言ってもいい、芭蕉にとっての完成された脇の形ではないかと思う。

2019年11月15日金曜日

 先日の大嘗祭に二十七億円の税金が使われたことで、いろいろ言われている。まあ、これを機に皇室行事をやめろだとか、そもそも皇室なんて要らないだとか言う人にいい様に利用されたりしがちだが、ただ秋篠宮さまも懸念していたことでもあるし、もっといいやり方はないものかとは思う。
 二十七億のうち十九億七千万はこの儀式だけに使って後は使い捨ての大嘗宮の建設費・解体費だという。これはやはりもったいない。
 大嘗宮は十一月二十一日から十二月八日まで一般公開されるが、これは有料でもよかったのではなかったか。期間も西洋のクリスマス休暇の時期まで延長すれば、外人観光客も呼べたのではなかったか。解体した後の材料も、お守りやグッズにして売れるのではないか。
 大体公務員に仕事させるとどうしたって無駄が多いものだ。経済感覚がなく、見栄のために余計な金を使いがちになる。次回はイベント会社に入札させて、民間に委託した方がいいのではないか。放映権なんかも売れるのではないか。
 MOTTAINAIは今や世界の言葉。大嘗祭もったいなくも大嘗祭。
 それでは芭蕉脇集の続き。

元禄七年

   両吟
   五人ぶち取てしだるる柳かな  野坡
 日より日よりに雪解の音      芭蕉

 元禄七年春の野坡、芭蕉両吟歌仙興行の脇。野坡との両吟は「梅が香に」の巻の方が『炭俵』に採用され、「五人ぶち」の方は発句のみの入集となった。
 「五人ぶち」は扶持(ふち)という給与のことで、一人一日五合の米を一年分というのが一人扶持だった。五人扶持は家族が何とか生活していけるだけの最低賃金といったところか。
 野坡は越後屋両替店の手代だったというから、自分のことを自嘲気味に詠んだ句だったかもしれない。柳の木もほっそりしたもので、とてもじゃないが八九間とはいかなかっただろう。「しだるる」というところにも、いかにも力のなさが感じられる。
 これに対し、芭蕉は日に日に雪も解けて何よりですと、野坡のこれからの出世を暗示させる。そののち番頭にまで登りつめたともいわれている。

   水音や小鮎のいさむ二俣瀬   湖風
 柳もすさる岸の刈株        芭蕉

 これも春の興行で、六吟半歌仙になっている。
 「水音は小鮎のいさむや」の倒置で、何で勇んでいるのかというと、二俣瀬で両方からやってきた鮎が縄張り争いをするからだという落ちになる。
 鮎は縄張り意識が強く、侵入者には容赦なく体当たりを食らわす。それを利用したのが鮎の友釣りだ。実際に釣られているのは友ではなく敵なのだが。
 鮎の争いに対して芭蕉の脇は柳もすさる、今の言葉だとドン引きというところか。柳は切り株だけ残してどこかへ行ってしまった。

   ふか川にまかりて
   空豆の花さきにけり麦の縁   孤屋
 昼の水鶏のはしる溝川       芭蕉

 元禄七年の四月、芭蕉庵での四吟歌仙興行で、この巻は『炭俵』に採られている。
 以下、二〇一七年一月十八日の俳話と重複するが、ご容赦を。
 初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。
 「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
 この発句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
 これに対して芭蕉は珍しいお客を迎えたことの寓意としてクイナを引き合いに出す。
 クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、この興行の来席者の寓意としている。溝川は芭蕉庵に近い小名木川のことか。

   餞別
   新麦はわざとすすめぬ首途かな 山店
 また相蚊屋の空はるか也      芭蕉

 五月十一日には芭蕉は再び上方方面へと旅に出る。そしてこれが最後の旅になる。これはその直前の両吟歌仙興行の脇になる。これとは別に「紫陽花や藪を小庭の別座敷 芭蕉」を発句とした五吟歌仙興行も行われていて、こちらの方は二〇一七年の六月十六日から六月二十六日までの俳話を参照のこと。
 新麦はここでは大麦のことと思われる。麦飯に用いられる。そのまま焚いて食べる分には、やはり取れたてがいい。小麦は熟成を必要とする。新麦では粘りが足りない。
 発句は、ここで新麦のご飯をすすめてしまうと、もっと食べたくなって旅に出るのをやめてしまいかねないから、という意味だろう。
 脇はこれからの旅を想像してのもので、相蚊屋というのは庵に同居して芭蕉の身の回りの世話をしていた二郎兵衛少年を連れていくから、ともに同じ蚊帳の中に寝ることになるというもの。少年が出たところで余計な想像はしないように。
 なお、旅立ちの時に品川宿で詠んだ句は、

 麦の穂を力につかむ別れ哉     芭蕉

で、やはり麦が気になっていたか。

   やはらかにたけよことしの手作麦 如舟
 田植とともにたびの朝起      芭蕉

 東海道を登る途中、この年は大雨で大井川が増水し、しばらく島田宿の如舟の所に逗留する。これはその時の句。
 ここでどうやら柔らかい新麦の麦飯を食うことができたようだ。これに対し芭蕉は田植のころだからみんな早起きするので、川止めで宿にいても朝早く起されてしまう、とその時の状況を付ける。ぼやきとも取れるが、発句と合わせれば、朝早くから美味しい麦飯が食えるという意味だとわかる。

2019年11月14日木曜日

 芭蕉脇集の続き。

元禄六年

   餞別
   風流のまことを鳴やほととぎす 凉葉
 旅のわらぢに卯の花の雪      芭蕉

 元禄六年の四月、芭蕉庵での十吟歌仙興行の脇。餞別の前書きがあり、芭蕉の句も旅の句だが、誰の旅立ちなのかはよくわからない。千川の送別の歌仙は別にあるし、このときには凉葉が参加している。この歌仙が四月九日の出立の前だとしたら、このあと凉葉もどこかへ旅立ったか。許六の帰藩はもう少し後の五月になる。
 「風流のまこと」は芭蕉の教えだが、折からの時鳥の季節で時鳥の一声のように貴重な一言です、と世話になった芭蕉への挨拶になる。
 これに対し芭蕉は、旅の草鞋に雪のような卯の花を添える。特に寓意はない。

   春風や麦の中行水の音     木導
 かげろふいさむ花の糸口      芭蕉

 春風にそよぐ麦畑に水の流れる音が聞こえるという長閑な農村風景に、陽炎が奮い立ち、桜が咲くのももうすぐだと時候を添える。
 木導は許六と同様彦根の人で、『風俗文選』の作者列伝に、

 「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」

とある。「江州亀城」は近江国彦根城のこと。
 芭蕉の元禄六年五月四日付許六宛書簡に、

 「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」

とある。木導が春に詠んだ「春風や」の発句に脇を付けたので、第三を付けるようにということだが、この第三がどうなったのかはよくわからない。このあたりのことは以前に『俳諧問答』を読んだとき(二〇一九年三月十日)に書いた。

   三吟
   帷子は日々にすさまじ鵙の声  史邦
 籾壹舛を稲のこき賃        芭蕉

 七月の史邦、芭蕉、岱水による三吟歌仙興行の脇。
 一重の帷子では日々寒くなる、そんな頃モズが鳴いている。
 これを芭蕉は稲刈りの頃とし、脱穀の作業をした人に籾一升の給与を出すとする。
 脱穀は元禄期に千歯こきが発明されたとはいえ、一般にはまだ普及してなかったのだろう。それ以前は竹製の箸のようなものを用いてたため、時間がかかった。脱穀を手伝うと脱穀したばかりの籾を一升分けてもらえたようだ。これが何割くらいなのかはよくわからない。
 芭蕉は経済ネタを得意としたが、ここでは脇に持ってきている。

   柴栞の陰士、無絃の琴を翫しを
   おもふに、菊も輪の大ならん事を
   むさぼり、造化もうばふに及ばじ。
   今その菊をまなびて、をのづから
   なるを愛すといへ共、家に菊ありて
   琴なし。かけたるにあらずやとて、
   人見竹洞老人、素琴を送られしより、
   是を朝にして、あるは聲なきに聴き、
   あるは風にしらべあはせて、
   自ほこりぬ
   漆せぬ琴や作らぬ菊の友    素堂
 葱の笛ふく秋風の薗        芭蕉

 十月九日、素堂亭で残菊の宴があり、その時の三吟三物の脇。第三は沾圃が付けている。
 無弦の琴というと陶淵明のことが浮かぶ。『荘子』斉物論でも、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれるとあり、どんな名演奏も無音にはかなわないというわけだ。ジョン=ケージの「四分三十三秒」が思い浮かぶ。
 素堂の発句もその心で、菊も大きければいいというものでもなく、琴も漆を塗らない素琴がいいという。閑花素琴という四字熟語がこの頃あったかどうかはわからないが。この場合の琴は七弦琴であろう。膝の上に乗せて演奏する。
 ただ、いかにも風流だぞといった気負いのある発句なので、芭蕉は薗では秋風が葱を吹いて、笛のような音を立てているよ、と天地自然の音楽には叶わないと返す。

   雪や散る笠の下なる頭巾迄   杉風
 刀の柄にこほる手拭        芭蕉

 冬の六吟半歌仙の脇。
 「雪や散る」は「雪の散るや」の倒置だが、静かに降り積もるのではなく風に吹雪いている状態だろう。雪は笠の下にも吹き込んできて頭巾まで雪だらけになる、という発句に、刀の柄の雪を払おうとすると手拭までが凍るとする。
 刀といっても武士とする必要はない、ここでは脇差か旅刀であろう。

2019年11月12日火曜日

 今日は満月だが寒月だとか凍月だとかいうほど寒くはない。
 昼ごろは強い風も吹いたが木枯らしのような身を切る寒さはない。やはり暖かい。
 それでは芭蕉脇集の続き。

元禄五年

   名月や篠吹雨の晴をまて    濁子
 客にまくらのたらぬ虫の音     芭蕉

 八月十五日、名月の夜、大垣藩邸勤番の門人らとの五吟歌仙興行の脇。
 発句の「篠吹」は、

 今宵誰すず吹く風を身にしめて
     吉野の嶽の月を見るらむ
          従三位頼政(新古今集)

から来ているとすれば「すずふく」で、すずたけ(篠竹)のこと。
 この発句は「名月は篠吹雨の晴をまてや」の倒置だが、頼政の歌を踏まえてるとして読むなら、篠吹く風だけでなく雨まで降っているが、晴れるのを待てば身に染みる名月を見るだろう、という意味になる。
 これに対して芭蕉は、たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、と答える。

   月代を急ぐやふなり村時雨   千川
 小松のかしらならぶ冬山      芭蕉

 冬の芭蕉庵での八吟十六句興行の脇。未完なのか花の句がなかったのを、江戸後期の車蓋編『桃の白実』では丈草の十七句目の花の句と千川の挙句が付け加えられている。
 発句の「月代」はここでは「さかやき」ではなく「つきしろ」で、月の出の前に東の空が白むこと。暗くなってから月が出るので、十月の満月より後の興行か。
 時雨が晴れた時の月は感動的だが、時雨が晴れてもまだ月代だから、もっと早く登ってきてほしいものだと急かしたくなる。句では村時雨が月の出を急かしているようだとするが、急かしているのは人間の方だろう。
 芭蕉の脇はその月が登る山の景色を描く。
 ひょっとしたら誰か遅刻した人がいて、みんな待っているという寓意があったのかもしれない。

   水鳥よ汝は誰を恐るるぞ    兀峰
 白頭更に芦静也          芭蕉

 これも十月の同じ頃、江戸勤番の備前岡山藩士、兀峰(こっぽう)を芭蕉庵に迎えての四吟歌仙興行の脇。途中から里東が抜けて其角が参加しているが、同じ日なのか日を変えてなのか、事情はよくわからない。
 発句は、

 水鳥のしたやすからぬ思ひには
     あたりの水もこほらざりけり
            よみ人しらず(拾遺集)

によるものか。「やすからぬ思ひ」を誰かを恐れているとする。ここに集まっているのは風流の徒で、あんたらを射たりはしないから安心せよ、ということか。
 芭蕉の脇の「白頭更に」は杜甫の『春望』の「白頭掻けば更に短く」で、ここにいるのは年寄りだから水鳥も安心して、芦も静かだとなる。

   深川の草庵をとぶらひて
   寒菊の隣もありやいけ大根   許六
 冬さし籠る北窓の煤        芭蕉

 これも同じ十月頃で許六、芭蕉、嵐蘭が一句づつ詠み、第三で終っている。
 土芳の『三冊子』には、

 「此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」

とある。
 許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、

 「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」

とある。
 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。