西洋以外で、文化も伝統も大きく異なるにもかかわらず、日本はいち早く近代化に成功し、民主主義も根付くことができた
しかもキリスト教のような一神教の文化を取り入れるでもなく、多神教の風土のまま近代化できたというのは、やはり奇跡なのかもしれない。
かつての新興国も、中国を筆頭にロシア、トルコ、韓国といった国が時代に逆行するようなことをする中、日本が違っていたのは、かつて和、漢、印度の文化を並存させてきたその延長で西洋の文化もうまく並存させることができたからかもしれない。
これは多言語環境に育った人が新しい外国語を容易に付け加えることができるのに似ているかもしれない。多文化環境を作るというのが、これからの世界の一つの課題になるだろう。
多文化を並存させるには、矛盾を気にしないということが大事だ。人間は矛盾した生き物で、人生に矛盾は付き物と、それくらいに考え、あまり統一ということにこだわらない方がいい。
混沌は万物の母。混沌を恐れるな。
それでは芭蕉脇集の続き。
元禄四年
芽出しより二葉に茂る柿ノ実 史邦
畠の塵にかかる卯の花 芭蕉
『嵯峨日記』の中に見られる句。
四月二十五日、落柿舎にやってきた史邦が披露した発句に、翌二十六日、この句に芭蕉が脇を付け、去来が第三、丈草が四句目、乙州が五句目を付けている。
発句の「柿ノ実」は「かきのさね」と読む。果実の中心にある枝のことで、やがて果実が実るであろう新芽の枝と思われる。
柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生え、その付け根の所に蕾ができ、やがて花が咲き、実となる。落柿舎だけにちゃんと実って欲しいものだ。
これに対し、芭蕉の脇は「卯の花の塵の畠にかかる」の複雑な倒置で、柿の若葉の緑に卯の花の白を添える。
蠅ならぶはや初秋の日数かな 去来
葛も裏ふくかたびらの皺 芭蕉
七月中旬、京での五吟歌仙興行。メンバーは去来、芭蕉、路通、丈草、惟然。「牛部屋に」の巻と同じ頃のもの。ここでも路通は芭蕉の次に来ていて、去来とは当たらないようにしている。
夏の五月蝿い蠅も初秋も何日か過ぎるとおとなしく並んで留まっている。別に蠅が誰というわけではないし、特に寓意はない。
芭蕉の脇は、葛の葉が秋風に裏返るように、帷子にも皺が寄ると付ける。初秋から秋風を連想するが、風と言わずして風を表現している。
芭蕉翁行脚の時、予が草戸を扣き
て、作りなす庭に時雨を吟じ、洗
ひ揚たる冬葱の寒さを見侍る折か
らに
木嵐に手をあてて見む一重壁 規外
四日五日の時雨霜月 芭蕉
元禄四年九月二十八日、芭蕉は長い上方滞在を終え、再び江戸に向べく木曽塚無名庵を出る。そして十月三日前後、美濃垂井の規外亭に滞在する。その時の句。
発句の「木嵐」は「こがらし」と読む。薄い壁に手を当てれば、木枯らしに揺れているのが分かる、そんな粗末な家ですという謙虚な句に、芭蕉は特に寓意を返さずに、四日五日時雨が続きましたね、と単なる気候の挨拶にする。
奥庭もなくて冬木の梢かな 露川
小春に首の動くみのむし 芭蕉
十月には名古屋の露川と対面し、露川は入門する。
土芳の『三冊子』に、
「この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」
とあるように、葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、小春の暖かな日差しに蓑虫も思わず首を出して、冬木の景色を見回しているよ、と応じる。
芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。初対面の挨拶ではこうした寓意のやり取りも生きている。
2019年11月11日月曜日
2019年11月10日日曜日
今日は青梅に行った。Zepp Tokyoのある青海ではなく、猫町の青梅を見に行った。
「にゃにゃまがり」という猫の飾りつけのなされた狭い路地やレトロな昔の映画看板、それを猫にしたパロディ看板などが町のあちこちにあり、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館、昭和幻燈館があった。
住吉神社には猫の夷さんと大黒さんがあった。
昨日書いた神は量子だというのは、あながち冗談ではないかもしれない。
ある主張が真実であると同時に偽りであるというのは、価値観の多様性を認めるうえでは欠かせないことだからだ。
人間の思想である以上、完全なものはないし、人それぞれ異なる資質を以て生まれ、異なる体験をしながら育ち、その中で概念を獲得し思想を形成するのだから、一人一人違ってて当然だし、哲学者の数だけ哲学があるのは厳然たる事実だ。
すべての思想は正しいと同時に間違っているという重ね合わせの状態にある。
日本語は大和言葉と漢語と主に西洋の外来語との重ね合わせの上にあり、それぞれを平仮名、漢字、片仮名で区別して表記する。その漢字も、中国由来のものは漢音、印度の仏教由来のものは呉音(稀に唐音)で更に区別してきた。こうして、複数の文化体系を常に頭の中で重ね合わせながら、それぞれの体系を並列処理しながら、最適解を見出してきた。
料理にしても、日本では和洋中華エスニックという複数の料理体系のなかから、そのつど食べたいものを選択する。
陰陽不測はそれが重ね合わせ状態にあるため、決定不能である所によるのではないかと思う。
我々は日々相矛盾する複数の思想体系の中で生きている。それを認め、重ね合わせ、同時に並列処理しながら、日々最適解を求め、意思決定をしている。我々の脳もまた一種の量子コンピュータなのではないかと思う。
西洋にもアンチノミーという考え方がある。人間の理性は必ず矛盾した二つの主張を可能にするという考え方があり、それが古代ギリシャの民主主義や裁判の基礎となっていた。
ただ、ソクラテスは古代ギリシャの多神教的世界観を否定して一神教に傾き(その罪で死刑になった)、プラトンのイデアリズムからキリスト教の受容により民主主義は否定され、王権神授の独裁国家になっていった。
近代に入って民主主義が復活したのは、「万人の万人に対する戦い」という多元主義を容認したことによる。ただ、西洋の民主主義は異なる複数の思想を並列的に思考するのではなく、異なる単一価値観を信じるもの同士の、暴力的な力学的均衡によってのみ成り立つ危うさを残している。
天皇制は何人たりとも実力で王や最高指導者になることを拒否するもので、すべてにおける最高決定は「公議」つまり臣民による並列処理によって行われる。その決定は陰陽不測であり、真実であるとともに偽りでもある。この曖昧さが対立と分断を防いでいる。分断はまつろわぬ者によって引き起こされている。
日本のこのシステムは科学的にも先鋭的なシステムではないかと思う。
君が代は千代に八千代にさざれ石の
いわおとなりて苔のむすまで
それは陰陽不測、決定できないもの、複数の思考の重ね合わせ状態を「君」として、永遠に存続させることをことほぐものではないかと思う。
まあ、長くなってしまったので、今日は芭蕉脇集のほうは一休み。
「にゃにゃまがり」という猫の飾りつけのなされた狭い路地やレトロな昔の映画看板、それを猫にしたパロディ看板などが町のあちこちにあり、赤塚不二夫会館、昭和レトロ商品博物館、昭和幻燈館があった。
住吉神社には猫の夷さんと大黒さんがあった。
昨日書いた神は量子だというのは、あながち冗談ではないかもしれない。
ある主張が真実であると同時に偽りであるというのは、価値観の多様性を認めるうえでは欠かせないことだからだ。
人間の思想である以上、完全なものはないし、人それぞれ異なる資質を以て生まれ、異なる体験をしながら育ち、その中で概念を獲得し思想を形成するのだから、一人一人違ってて当然だし、哲学者の数だけ哲学があるのは厳然たる事実だ。
すべての思想は正しいと同時に間違っているという重ね合わせの状態にある。
日本語は大和言葉と漢語と主に西洋の外来語との重ね合わせの上にあり、それぞれを平仮名、漢字、片仮名で区別して表記する。その漢字も、中国由来のものは漢音、印度の仏教由来のものは呉音(稀に唐音)で更に区別してきた。こうして、複数の文化体系を常に頭の中で重ね合わせながら、それぞれの体系を並列処理しながら、最適解を見出してきた。
料理にしても、日本では和洋中華エスニックという複数の料理体系のなかから、そのつど食べたいものを選択する。
陰陽不測はそれが重ね合わせ状態にあるため、決定不能である所によるのではないかと思う。
我々は日々相矛盾する複数の思想体系の中で生きている。それを認め、重ね合わせ、同時に並列処理しながら、日々最適解を求め、意思決定をしている。我々の脳もまた一種の量子コンピュータなのではないかと思う。
西洋にもアンチノミーという考え方がある。人間の理性は必ず矛盾した二つの主張を可能にするという考え方があり、それが古代ギリシャの民主主義や裁判の基礎となっていた。
ただ、ソクラテスは古代ギリシャの多神教的世界観を否定して一神教に傾き(その罪で死刑になった)、プラトンのイデアリズムからキリスト教の受容により民主主義は否定され、王権神授の独裁国家になっていった。
近代に入って民主主義が復活したのは、「万人の万人に対する戦い」という多元主義を容認したことによる。ただ、西洋の民主主義は異なる複数の思想を並列的に思考するのではなく、異なる単一価値観を信じるもの同士の、暴力的な力学的均衡によってのみ成り立つ危うさを残している。
天皇制は何人たりとも実力で王や最高指導者になることを拒否するもので、すべてにおける最高決定は「公議」つまり臣民による並列処理によって行われる。その決定は陰陽不測であり、真実であるとともに偽りでもある。この曖昧さが対立と分断を防いでいる。分断はまつろわぬ者によって引き起こされている。
日本のこのシステムは科学的にも先鋭的なシステムではないかと思う。
君が代は千代に八千代にさざれ石の
いわおとなりて苔のむすまで
それは陰陽不測、決定できないもの、複数の思考の重ね合わせ状態を「君」として、永遠に存続させることをことほぐものではないかと思う。
まあ、長くなってしまったので、今日は芭蕉脇集のほうは一休み。
2019年11月9日土曜日
今日は神無月の十三夜で、アーモンドのような月が見える。家の前には狸が来ていた。証城寺ではないが、浮かれ出てきたのか。
神様はみんな出雲に行ってしまって留守だけど、神社は七五三で賑わい、新天皇は大嘗祭の儀式を行う。新暦になってから日本の神様は重ね合わせの状態になってしまっている。十月十三日で出雲にいるのと同時に、十一月九日として各神社にいる。神は量子だったか。
冗談はそれくらいにして、芭蕉脇集の続き。
元禄三年
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
元禄三年刊の『ひさご』の所収の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。
土芳の『三冊子』には、
いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
の形で、「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と同じになるが‥‥。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門々の声 芭蕉
元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
これも土芳の『三冊子』に、「此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と重複するが、市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
元禄三年八月下旬、膳所での興行か。凡兆、芭蕉、野水、去来の四吟歌仙で、元禄四年刊の『猿蓑』に収録される。
灰汁(あく)は染色の際の媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して干した時、雫しずくが灰汁桶にぽとぽと垂れ、その雫の音も止むころには日も暮れ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。
この発句に対し、芭蕉は「あぶらかすりて」、つまり行灯の油も底を尽きたということで、仕方ない、まだ宵の口だがもう寝るか、と付ける。
発句が興行開始の頃の状況を詠んだだけの句で、特に寓意もないし、芭蕉の脇も興行の開始とは関係なく宵寝してしまっている。
景を添えるという連歌の時代の脇の原点に返ったような句で、これ以降こういう脇が多くなる。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
「刷ぬ」は「かひつくろひぬ」と読む。元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙で、これも『猿蓑』に収められることになる。
鳶が時雨に濡れた羽をつくろっているという発句は、当座の興ではなく、それに風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。いずれも寓意は感じられない。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と響きで付けている。
神様はみんな出雲に行ってしまって留守だけど、神社は七五三で賑わい、新天皇は大嘗祭の儀式を行う。新暦になってから日本の神様は重ね合わせの状態になってしまっている。十月十三日で出雲にいるのと同時に、十一月九日として各神社にいる。神は量子だったか。
冗談はそれくらいにして、芭蕉脇集の続き。
元禄三年
いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
うたれて蝶の夢はさめぬる 芭蕉
元禄三年刊の『ひさご』の所収の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。
土芳の『三冊子』には、
いろいろの名もまぎらはし春の草
うたれて蝶の目をさましぬる
の形で、「此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と同じになるが‥‥。
発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
あつしあつしと門々の声 芭蕉
元禄三年六月、京都の凡兆宅での去来を加えた三吟歌仙興行の脇。元禄四年刊の『猿蓑』に収録されることになる。
これも土芳の『三冊子』に、「此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」とある。
以下、十月二十五日の俳話と重複するが、市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす 凡兆
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
元禄三年八月下旬、膳所での興行か。凡兆、芭蕉、野水、去来の四吟歌仙で、元禄四年刊の『猿蓑』に収録される。
灰汁(あく)は染色の際の媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して干した時、雫しずくが灰汁桶にぽとぽと垂れ、その雫の音も止むころには日も暮れ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。
この発句に対し、芭蕉は「あぶらかすりて」、つまり行灯の油も底を尽きたということで、仕方ない、まだ宵の口だがもう寝るか、と付ける。
発句が興行開始の頃の状況を詠んだだけの句で、特に寓意もないし、芭蕉の脇も興行の開始とは関係なく宵寝してしまっている。
景を添えるという連歌の時代の脇の原点に返ったような句で、これ以降こういう脇が多くなる。
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
「刷ぬ」は「かひつくろひぬ」と読む。元禄三年十一月、京都での芭蕉、去来、凡兆、史邦による四吟歌仙で、これも『猿蓑』に収められることになる。
鳶が時雨に濡れた羽をつくろっているという発句は、当座の興ではなく、それに風が一吹きした後木の葉も静かになる景を付ける。いずれも寓意は感じられない。時雨の後の羽繕いに風の後の静まる木の葉と響きで付けている。
2019年11月7日木曜日
日本の現代美術も衰退が著しいせいか、最近ではほとんど炎上商法に成り下がっている。確かに右翼が騒げばマスコミも取り上げ、話題になるには違いない。ただ、結局今の日本の現代美術はその程度のものかということにもなりかねない。程々にしておいたほうが良いと思う。
風刺ネタはあくまで人を嘲笑する勝ち誇った笑いで、あるあるネタのような共感でもって人と人とを繋ぐ笑いとは質を異にする。
あと、あいちトリカエナハーレ、パヨクの猿真似じゃないか。芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。」と言ったが、あれのどこに花があるのかな。
まあ、それはともかく芭蕉脇集、元禄二年の続き。
翁を一夜とどめて
寝る迄の名残也けり秋の蚊帳 小春
あたら月夜の庇さし切 芭蕉
『奥の細道』の旅で七月十六日から二十四日まで金沢の宮竹や喜左衛門方で過ごす。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注によると、喜左衛門は旅宿業で小春はその子だという。
「一夜とどめて」とあるから、七月十七日の吟か。曾良の『旅日記』よると、この日芭蕉は源意庵へ遊び、曾良は病気で留守番だったようだ。このときの病気が八月五日の山中温泉での別れにつながるのか。
発句は前日の夜を思い出しての句であろう。蚊帳を吊った中で芭蕉、曾良、北枝らと遅くまで話し込んで、遅くなってから寝たのだろう。その寝るまでの楽しかったことを思い出して、秋の蚊帳がその名残を留めている。
これに対して芭蕉は月夜なのに庇を閉ざしてしまったのが悔やまれる、とする。事実をそのまま付けたのであろう。
このあと、曾良が第三を詠み、北枝が四句目を詠んでいる。
ばせを、いせの国におもむけるを
舟にて送り、長嶋といふ江によせ
て立わかれし時、荻ふして見送り
遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻にねようか 芭蕉
八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟。
この句は土芳の『三冊子』にも、「此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」とある。
行く先々に萩や荻が付き、苫屋に寝るが付く。萩と荻は字が似ていて紛らわしいし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
草箒かばかり老の家の雪 智月
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
『奥の細道』の旅も伊勢で終わり、芭蕉は一度故郷の伊賀に戻る。このときあの「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句が生まれる。そしてそのあと芭蕉は奈良から京都へ行き、十二月には大津の智月宅を訪ねる。
そこでまず芭蕉の方から、
少将のあまの咄や志賀の雪 芭蕉
と挨拶する。少将の尼は藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)のことで、藤原信実の娘。鎌倉時代の人。
関白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
おのがねにつらき別れはありとだに
思ひもしらで鳥や鳴くらむ
藻壁門院少将(新勅撰集)
の歌が代表作といえよう。この歌を以てして「おのがねの少将」と呼ばれている。芭蕉も智月に「おのがねの少将」のような恋物語を期待したのだろうか。智月は、
少将のあまの咄や志賀の雪
あなたは真砂爰はこがらし 智月
と返す。
真砂というと、
君が代の年の数をば白妙の
浜の真砂と誰かしきけむ
紀貫之(新古今集)
の賀歌のように、砂の数を歳の数に喩え、長寿をことほぐのに用いられる。芭蕉は寛永二十一年(一六四四)生まれで、智月は寛永十年(一六三三)頃の生まれとされている。年齢からすると智月の方が一回り以上上になる。
智月の脇はその年齢差のことをネタにして、あなたはまだこれから長生きするでしょう。でも私は木枯らしで先がない。まあ、少将の尼に喩えてくれるのは嬉しいけど歳が違いすぎますよ、という返しだったのだろう。
もっとも、芭蕉はこの五年後に亡くなるのに対し、智月の方は 享保三年(一七一八年)、八十五歳まで長生きしている。
このあと、智月は、
草箒かばかり老の家の雪 智月
と発句を詠む。草箒しかないような殺風景な雪の積もる家です。という謙虚な句に対し、芭蕉は、
草箒かばかり老の家の雪
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
いえ、その墨染めの衣は火桶を隠し持ってますね。暖かいですね。ここで芭蕉はこの火桶の火に恋の炎を期待していたのかもしれない。まあ、あくまで想像だが。
これは筆者が芭蕉はホモではなく、熟女趣味だったと思う根拠の一つでもある。
風刺ネタはあくまで人を嘲笑する勝ち誇った笑いで、あるあるネタのような共感でもって人と人とを繋ぐ笑いとは質を異にする。
あと、あいちトリカエナハーレ、パヨクの猿真似じゃないか。芭蕉は「像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。」と言ったが、あれのどこに花があるのかな。
まあ、それはともかく芭蕉脇集、元禄二年の続き。
翁を一夜とどめて
寝る迄の名残也けり秋の蚊帳 小春
あたら月夜の庇さし切 芭蕉
『奥の細道』の旅で七月十六日から二十四日まで金沢の宮竹や喜左衛門方で過ごす。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注によると、喜左衛門は旅宿業で小春はその子だという。
「一夜とどめて」とあるから、七月十七日の吟か。曾良の『旅日記』よると、この日芭蕉は源意庵へ遊び、曾良は病気で留守番だったようだ。このときの病気が八月五日の山中温泉での別れにつながるのか。
発句は前日の夜を思い出しての句であろう。蚊帳を吊った中で芭蕉、曾良、北枝らと遅くまで話し込んで、遅くなってから寝たのだろう。その寝るまでの楽しかったことを思い出して、秋の蚊帳がその名残を留めている。
これに対して芭蕉は月夜なのに庇を閉ざしてしまったのが悔やまれる、とする。事実をそのまま付けたのであろう。
このあと、曾良が第三を詠み、北枝が四句目を詠んでいる。
ばせを、いせの国におもむけるを
舟にて送り、長嶋といふ江によせ
て立わかれし時、荻ふして見送り
遠き別哉 木因。同時船中の興に
秋の暮行さきざきの苫屋哉 木因
萩に寝ようか荻にねようか 芭蕉
八月二十一日、芭蕉は途中で迎えにきた路通とともに大垣に着き、九月四日には病気で先に帰った曾良とも合流することになる。
そして九月六日には伊勢へと向う船に乗る。これはその時の船の中での吟。
この句は土芳の『三冊子』にも、「此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」とある。
行く先々に萩や荻が付き、苫屋に寝るが付く。萩と荻は字が似ていて紛らわしいし、苫屋に泊るというところには謡曲『松風』の在原行平の俤も感じられる。
草箒かばかり老の家の雪 智月
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
『奥の細道』の旅も伊勢で終わり、芭蕉は一度故郷の伊賀に戻る。このときあの「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句が生まれる。そしてそのあと芭蕉は奈良から京都へ行き、十二月には大津の智月宅を訪ねる。
そこでまず芭蕉の方から、
少将のあまの咄や志賀の雪 芭蕉
と挨拶する。少将の尼は藻壁門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)のことで、藤原信実の娘。鎌倉時代の人。
関白左大臣家百首歌よみ侍りけるに
おのがねにつらき別れはありとだに
思ひもしらで鳥や鳴くらむ
藻壁門院少将(新勅撰集)
の歌が代表作といえよう。この歌を以てして「おのがねの少将」と呼ばれている。芭蕉も智月に「おのがねの少将」のような恋物語を期待したのだろうか。智月は、
少将のあまの咄や志賀の雪
あなたは真砂爰はこがらし 智月
と返す。
真砂というと、
君が代の年の数をば白妙の
浜の真砂と誰かしきけむ
紀貫之(新古今集)
の賀歌のように、砂の数を歳の数に喩え、長寿をことほぐのに用いられる。芭蕉は寛永二十一年(一六四四)生まれで、智月は寛永十年(一六三三)頃の生まれとされている。年齢からすると智月の方が一回り以上上になる。
智月の脇はその年齢差のことをネタにして、あなたはまだこれから長生きするでしょう。でも私は木枯らしで先がない。まあ、少将の尼に喩えてくれるのは嬉しいけど歳が違いすぎますよ、という返しだったのだろう。
もっとも、芭蕉はこの五年後に亡くなるのに対し、智月の方は 享保三年(一七一八年)、八十五歳まで長生きしている。
このあと、智月は、
草箒かばかり老の家の雪 智月
と発句を詠む。草箒しかないような殺風景な雪の積もる家です。という謙虚な句に対し、芭蕉は、
草箒かばかり老の家の雪
火桶をつつむ墨染のきぬ 芭蕉
いえ、その墨染めの衣は火桶を隠し持ってますね。暖かいですね。ここで芭蕉はこの火桶の火に恋の炎を期待していたのかもしれない。まあ、あくまで想像だが。
これは筆者が芭蕉はホモではなく、熟女趣味だったと思う根拠の一つでもある。
2019年11月6日水曜日
ようやく晴天が続くようになった。それとともに気温も下がってきた。
今日の月は半月よりわずかに膨らんでいる。
それでは芭蕉脇集。
元禄二年
松島行脚の餞別
月花を両の袂の色香哉 露沾
蛙のからに身を入る声 芭蕉
前に『笈の小文』の旅のときにも餞別をくれた露沾だが、『奥の細道』の旅のときにも餞別句を詠んでいる。
『奥の細道』に「むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」とあるから、旅立ちの前の晩の杉風採茶庵での吟かもしれない。
芭蕉庵から採茶庵に移る時に「表八句を庵の柱に懸置」とあるから、このとき集まったのは芭蕉を入れて八人だったか。
「色香」は今日では女の色っぽい様子をいうが、ここでは文字通り色と香りの意味であろう。ただ、「月花を両の袂」とは言っても、松島の月を見るのは一つの目的だし、やがて名月の季節も来るのは分かる。だが花(桜)の方は旅立ちのときにはもう散っていたし、来年の花ということもないだろう。それでも、月花を両方持っているかのような芭蕉さんの旅姿です、と褒めはやす。
これに対して芭蕉の脇だが、実は知らなかったが蛙も脱皮をするという。ただ、その皮は薄くてすぐに食べてしまうらしい。
まあ、月花を袂になんて、そんなカッコいいものではなく、蛙の抜け殻をかぶっているだけです、と答える。蛙は古今集仮名序の、
「はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。」
から歌詠みの象徴ともされ、
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
と俳諧の祖も詠んでいる。その後は俳諧師も歌詠みの一種として蛙に象徴的に表わされるようになった。
延宝四年の句に、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
とあるのも、蛙を俳諧師の象徴として用いている。
古池の句を記念して作られた『蛙合』も芭蕉の門人達がそれぞれ蛙を詠むことで、大勢の蛙(俳諧師)の集まりをアピールするものとなっている。
だから、自分を蛙に喩えることは、謙虚なようでいて俳諧師としての誇りを感じさせる。ただ、「蛙のから」としたところは、後の元禄六年の歳旦、
年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉
に通じるものがある。
この日や田植の日也と、めなれぬ
ことぶきなど有て、まうけせられ
けるに、
旅衣早苗に包食乞ん 曾良
いたかの鞁あやめ折すな 芭蕉
これは『奥の細道』の旅の途中、四月二十四日、須賀川での吟。「包食乞ん」は「つつむめしこわん」と読む。
昔の田植えはお祭で、彭城百川の『田植図』を見ればわかるように、烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そんな日だから、旅人にもご馳走をふるまったりしたのだろう。
曾良の発句は、旅人だから旅に持ってゆけるように飯を包んでくれというもので、芭蕉は乞食僧の鞁(鼓)を打って廻るのはいいが、アヤメを折るなよ、と返す。
「いたか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「 (「板書(いたか)き」の意か) 乞食坊主の一種。供養のために、板の卒塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりして銭をもらって歩くもの。また、堕落した僧侶を卑しめてもいう。」
とある。また、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注には、
「『いたか』は大黒・夷などの神像を祭り、太神楽などをし祝言を述べて歩く一種の乞食芸人。」
とある。
前の越人との両吟がそうだったが、親しい間柄では形式ばった挨拶のやり取りではなく、こうしたちょっと砕けた調子で脇を付けることもある。
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかかるゆふだちの蓑 芭蕉
『奥の細道』の旅で尾花沢の清風のもとを訪ねたときの句。五月十七日から二十七日まで滞在するが、その間の興行した歌仙が二巻残されている。これはその一つ。
発句は麻畑の麻が揺れ動くと、その合い間に小家が見えるというもので、寓意は感じられない。麻は高さが2.5メートルにもなる。人の視点の高さからすれば家くらい隠れてしまう。
これに対し芭蕉も、その小家の情景を軽く付けているのみで、これも寓意は感じられない。
新庄
御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流
はじめてかほる風の薫物 芭蕉
『奥の細道』の旅の途中、六月二日、新庄での七吟歌仙興行の発句と脇。
風流は尾花沢での「おきふしの」の巻ではない方の「すずしさを我やどにしてねまる也 芭蕉」を発句とする歌仙に参加している。
風流の発句は、せっかく来ていただいたのに、部屋はこのとおり狭く、蚊帳も破れてしまっている、と謙虚な挨拶になっている。
これに対して芭蕉は、破れた蚊帳の中に吹いて来る外の風が、風薫る季節と相成って、薫物のようです、と答える。
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 會覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
六月の中旬から下旬、酒田での吟。以前にこの俳話で、曾良の『旅日記』に、
「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」
とある、この時の吟ではないかという推測を述べたことがあった。
会覚の発句は曾良の『旅日記』の、
「十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。」
の時の発句と思われる。虹に蝉鳴く月山の雪を忘れないでくれ、というもの。
これに対し芭蕉は、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。
今日の月は半月よりわずかに膨らんでいる。
それでは芭蕉脇集。
元禄二年
松島行脚の餞別
月花を両の袂の色香哉 露沾
蛙のからに身を入る声 芭蕉
前に『笈の小文』の旅のときにも餞別をくれた露沾だが、『奥の細道』の旅のときにも餞別句を詠んでいる。
『奥の細道』に「むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」とあるから、旅立ちの前の晩の杉風採茶庵での吟かもしれない。
芭蕉庵から採茶庵に移る時に「表八句を庵の柱に懸置」とあるから、このとき集まったのは芭蕉を入れて八人だったか。
「色香」は今日では女の色っぽい様子をいうが、ここでは文字通り色と香りの意味であろう。ただ、「月花を両の袂」とは言っても、松島の月を見るのは一つの目的だし、やがて名月の季節も来るのは分かる。だが花(桜)の方は旅立ちのときにはもう散っていたし、来年の花ということもないだろう。それでも、月花を両方持っているかのような芭蕉さんの旅姿です、と褒めはやす。
これに対して芭蕉の脇だが、実は知らなかったが蛙も脱皮をするという。ただ、その皮は薄くてすぐに食べてしまうらしい。
まあ、月花を袂になんて、そんなカッコいいものではなく、蛙の抜け殻をかぶっているだけです、と答える。蛙は古今集仮名序の、
「はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。」
から歌詠みの象徴ともされ、
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
と俳諧の祖も詠んでいる。その後は俳諧師も歌詠みの一種として蛙に象徴的に表わされるようになった。
延宝四年の句に、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
とあるのも、蛙を俳諧師の象徴として用いている。
古池の句を記念して作られた『蛙合』も芭蕉の門人達がそれぞれ蛙を詠むことで、大勢の蛙(俳諧師)の集まりをアピールするものとなっている。
だから、自分を蛙に喩えることは、謙虚なようでいて俳諧師としての誇りを感じさせる。ただ、「蛙のから」としたところは、後の元禄六年の歳旦、
年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉
に通じるものがある。
この日や田植の日也と、めなれぬ
ことぶきなど有て、まうけせられ
けるに、
旅衣早苗に包食乞ん 曾良
いたかの鞁あやめ折すな 芭蕉
これは『奥の細道』の旅の途中、四月二十四日、須賀川での吟。「包食乞ん」は「つつむめしこわん」と読む。
昔の田植えはお祭で、彭城百川の『田植図』を見ればわかるように、烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では鼓もあれば笛もある。そんな日だから、旅人にもご馳走をふるまったりしたのだろう。
曾良の発句は、旅人だから旅に持ってゆけるように飯を包んでくれというもので、芭蕉は乞食僧の鞁(鼓)を打って廻るのはいいが、アヤメを折るなよ、と返す。
「いたか」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、
「 (「板書(いたか)き」の意か) 乞食坊主の一種。供養のために、板の卒塔婆(そとば)に経文、戒名などを書いて川に流したり、経を読んだりして銭をもらって歩くもの。また、堕落した僧侶を卑しめてもいう。」
とある。また、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)の注には、
「『いたか』は大黒・夷などの神像を祭り、太神楽などをし祝言を述べて歩く一種の乞食芸人。」
とある。
前の越人との両吟がそうだったが、親しい間柄では形式ばった挨拶のやり取りではなく、こうしたちょっと砕けた調子で脇を付けることもある。
おきふしの麻にあらはす小家かな 清風
狗ほえかかるゆふだちの蓑 芭蕉
『奥の細道』の旅で尾花沢の清風のもとを訪ねたときの句。五月十七日から二十七日まで滞在するが、その間の興行した歌仙が二巻残されている。これはその一つ。
発句は麻畑の麻が揺れ動くと、その合い間に小家が見えるというもので、寓意は感じられない。麻は高さが2.5メートルにもなる。人の視点の高さからすれば家くらい隠れてしまう。
これに対し芭蕉も、その小家の情景を軽く付けているのみで、これも寓意は感じられない。
新庄
御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流
はじめてかほる風の薫物 芭蕉
『奥の細道』の旅の途中、六月二日、新庄での七吟歌仙興行の発句と脇。
風流は尾花沢での「おきふしの」の巻ではない方の「すずしさを我やどにしてねまる也 芭蕉」を発句とする歌仙に参加している。
風流の発句は、せっかく来ていただいたのに、部屋はこのとおり狭く、蚊帳も破れてしまっている、と謙虚な挨拶になっている。
これに対して芭蕉は、破れた蚊帳の中に吹いて来る外の風が、風薫る季節と相成って、薫物のようです、と答える。
羽黒より被贈
忘るなよ虹に蝉鳴山の雪 會覚
杉の茂りをかへり三ヶ月 芭蕉
六月の中旬から下旬、酒田での吟。以前にこの俳話で、曾良の『旅日記』に、
「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」
とある、この時の吟ではないかという推測を述べたことがあった。
会覚の発句は曾良の『旅日記』の、
「十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。」
の時の発句と思われる。虹に蝉鳴く月山の雪を忘れないでくれ、というもの。
これに対し芭蕉は、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。
2019年11月5日火曜日
そういえば一昨日相馬中村神社に寄ったら、神使の馬がいなくなっていて、厩舎も荒れ果てていた。何があったのだろうか。
まあ、それはともかく、芭蕉脇集の続き。
貞享五年
かへし
時雨てや花迄残るひの木笠 園女
宿なき蝶をとむる若草 芭蕉
貞享五年二月、芭蕉が『笈の小文』の旅で伊勢滞在中、園女のもとに招かれたときの句。
園女亭
暖簾の奥もの深し北の梅 芭蕉
松散りなして二月の頃 園女
に対する返しとして園女が発句を詠み、芭蕉が脇を付けている。
「時雨てや」はやはり旅立ちの頃の「旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉」の句を踏まえたもので、いくたび時雨にあっても檜笠は朽ちることなく、花の季節でもそのままだ、という意味になる。これに対し芭蕉の脇は、時雨や笠の興には付けずに、時分を宿なき蝶に喩え、園女を若草に喩える。
ところどころ見めぐりて、洛に
暫く旅ねせしほど、みのの国より
たびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ
来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。土芳の『三冊子』には、「此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」とある。
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。
どこまでも武蔵野の月影涼し 寸木
水相にたり三またの夏 芭蕉
六月十七日、岐阜の長良川にも近い三ツ又で名古屋の荷兮、越人なども交え、六吟表六句を巻く。
発句は江戸で成功を収めた芭蕉を武蔵野の月に喩え、どこまでも涼しいと称える。
これに対し芭蕉はこの三ツ又の地が深川に似ている、と答える。
茄子絵
見せばやな茄子をちぎる軒の畑 惟然
その葉をかさねおらむ夕顔 芭蕉
同じく六月、惟然が芭蕉の元を訪れ、入門する。
茄子の絵を見ての吟だったか。即興で農家の身に成り代わって詠んだのだろう。
これに芭蕉は、うらぶれた軒端の風景から『源氏物語』の夕顔の家を思い浮かべたか。茄子の大きな葉を重ねて扇を作り、その上に夕顔を折ってのせてみよう、と返す。
雁がねも静にきけばからびずや 越人
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
芭蕉は岐阜から越人を連れて『更科紀行』の旅に出、そのまま八月下旬に江戸に戻る。そして九月中旬に越人と両吟歌仙を巻く。これはその時の句。
「からびる」には萎れる、古びて落ち着いた感じになる、声がしゃがれるといった意味がある。どれでも当てはまりそうだ。
雁の声も静かに聴けば、萎れることもなく声も澄んで、古びて落ち着いた感じになる(この場合だけ反語になる)。
これに対し芭蕉は、酒を勧められることにも慣れたな、と返す。両吟で、長くともに旅をした間柄だからだろう。無理にお世辞で返すのではなく、自然体で返す。
まあ、それはともかく、芭蕉脇集の続き。
貞享五年
かへし
時雨てや花迄残るひの木笠 園女
宿なき蝶をとむる若草 芭蕉
貞享五年二月、芭蕉が『笈の小文』の旅で伊勢滞在中、園女のもとに招かれたときの句。
園女亭
暖簾の奥もの深し北の梅 芭蕉
松散りなして二月の頃 園女
に対する返しとして園女が発句を詠み、芭蕉が脇を付けている。
「時雨てや」はやはり旅立ちの頃の「旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉」の句を踏まえたもので、いくたび時雨にあっても檜笠は朽ちることなく、花の季節でもそのままだ、という意味になる。これに対し芭蕉の脇は、時雨や笠の興には付けずに、時分を宿なき蝶に喩え、園女を若草に喩える。
ところどころ見めぐりて、洛に
暫く旅ねせしほど、みのの国より
たびたび消息有て、桑門己百のぬ
しみちしるべせむとて、とぶらひ
来侍りて、
しるべして見せばやみのの田植歌 己百
笠あらためむ不破のさみだれ 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、京に行った時の句。己百は岐阜の妙照寺の住職。土芳の『三冊子』には、「此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」とある。
「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
実際に芭蕉はこのあと岐阜へ行き「十八楼ノ記」を書き記している。
どこまでも武蔵野の月影涼し 寸木
水相にたり三またの夏 芭蕉
六月十七日、岐阜の長良川にも近い三ツ又で名古屋の荷兮、越人なども交え、六吟表六句を巻く。
発句は江戸で成功を収めた芭蕉を武蔵野の月に喩え、どこまでも涼しいと称える。
これに対し芭蕉はこの三ツ又の地が深川に似ている、と答える。
茄子絵
見せばやな茄子をちぎる軒の畑 惟然
その葉をかさねおらむ夕顔 芭蕉
同じく六月、惟然が芭蕉の元を訪れ、入門する。
茄子の絵を見ての吟だったか。即興で農家の身に成り代わって詠んだのだろう。
これに芭蕉は、うらぶれた軒端の風景から『源氏物語』の夕顔の家を思い浮かべたか。茄子の大きな葉を重ねて扇を作り、その上に夕顔を折ってのせてみよう、と返す。
雁がねも静にきけばからびずや 越人
酒しゐならふこの比の月 芭蕉
芭蕉は岐阜から越人を連れて『更科紀行』の旅に出、そのまま八月下旬に江戸に戻る。そして九月中旬に越人と両吟歌仙を巻く。これはその時の句。
「からびる」には萎れる、古びて落ち着いた感じになる、声がしゃがれるといった意味がある。どれでも当てはまりそうだ。
雁の声も静かに聴けば、萎れることもなく声も澄んで、古びて落ち着いた感じになる(この場合だけ反語になる)。
これに対し芭蕉は、酒を勧められることにも慣れたな、と返す。両吟で、長くともに旅をした間柄だからだろう。無理にお世辞で返すのではなく、自然体で返す。
2019年11月4日月曜日
昨日は南相馬から飯舘村を通って霊山に行った。今年は紅葉が遅いが、それでも流石にここまで来れば多少は色づいていた。去年は妙義山だったが、今年は随分北まで来た。
飯舘の雪っ娘かぼちゃはほくほくして美味しかった。
それでは芭蕉脇集、貞享四年の続き。
しろがねに蛤をめせ夜の鐘 松江
一羽別るる千どり一群 芭蕉
発句の松江についてはよくわからない。
十吟一巡の興行で、ともに鹿島詣でをした曾良が第三を詠んでいる。
銀をはたいてでも桑名の蛤は食った方が良いということか。もちろんその銀は松江さんからの餞別であろう。
それに対し芭蕉は千鳥の群から一羽だけ別れて旅立つという比喩で返す。
時雨時雨に鎰かり置ん草の庵 挙白
火燵の柴に侘を次人 芭蕉
これも挙白からの餞別句に芭蕉が脇を付けて返したもの。このあと溪石、コ齋、其角、嵐雪、トチらが句を連ね、十句興行にする。
これから時雨の季節になるけど、芭蕉庵の鍵を預り守っていきたい、という発句に、私の代わりに火燵(炬燵)の火に柴をくべて、侘びて過ごしてくれるのでしょうか。と返す。
挙白は後の元禄二年に『奥の細道』の旅に出る芭蕉に、
武隈の松みせもうせ遅桜 挙白
の句を餞別に送っている。挙白は東北の出身の商人で、一度は名取川の橋杭にするために切られてしまった武隈の松が復元されているのを知っていて、あれを見せてあげたい、と詠んでいる。
はせをの翁を知足亭に訪ひ侍りて
めづらしや落葉のころの翁草 如風
衛士の薪を手折冬梅 芭蕉
『笈の小文』の旅に出た芭蕉が、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着し、翌日には七吟歌仙興行が行われ、如風も出席している。その如風の如意寺如風亭での七吟歌仙興行の時の句。
発句は、芭蕉が翁と呼ばれているところから、この落ち葉の季節に翁草とは珍しい、とする。
翁草は通常はキンポウゲ科の多年草のことで、春に花をつけるが、松や菊の別名でもある。長寿を象徴する植物なら翁に喩えられることもあったのだろう。
芭蕉はこの季節はずれの翁草を梅のこととする。風流に縁のなさそうな衛士が梅を折ったので珍しいと思ったら、薪にしただけだった。
翁草なんてものではありません。狂い咲きの梅の花です、と謙虚のようでいて、風流でないものには価値のわからないという寓意で、自分の価値を主張している。
芭蕉翁もと見給ひし野仁を訪らひ、
三川の国にうつります。所ハ伊羅古
崎白波のよする渚ちかく、ころは
古枯の風頭巾を取る。旅のあハれ
を帰るさに聞て
やき飯や伊羅古の雪にくづれけん 寂照
砂寒かりし我足の跡 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅で、伊良胡から鳴海にもどり、十一月十六日に知足亭で越人も交えて表六句が巻かれる。
焼き飯は今日のチャーハンではなく、焼きおにぎりに近い携帯食で、それを持って伊良胡を旅してが、寒さに形も崩れてしまったでしょう、という発句に、冷たい砂の上に足跡を残してきました、と返す。
荷兮子翁を問来て
幾落葉それほど袖も綻びず 荷兮
旅寝の霜を見するあかがり 芭蕉
十一月十八日。名古屋から荷兮・野水が知足亭にやってくる。芭蕉、寂照を交えた四句が残っている。
『野ざらし紀行』の旅で『冬の日』をともに巻いた頃から、幾たびも落ち葉が落ちましたが、袖は綻びていません、要するに俳諧のほうは劣化してません、という発句に芭蕉は、そうですか、こちらは霜の中を旅してあかぎれがひどいのですが、と答える。
同じ月末の五日の日名古や荷兮宅
へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の
落梧といへる者、我宿をまねかん
事を願ひて
凩のさむさかさねよ稲葉山 落梧
よき家続く雪の見どころ はせを
『笈の小文』の旅で十一月二十六日、岐阜の落梧と蕉笠が荷兮方へやってきて、荷兮、野水、越人などを含めた八吟歌仙興行が行われる。
稲葉山は今の岐阜の金華山のことで、ここにあった稲葉山城は齋藤道三や織田信長がいたことでも有名だが、慶長六年(一六〇一)廃城になる。
城は今の岐阜市南部の加納に移転し、加納藩になる。この頃は松平光永の時代だった。
そういうわけで稲葉山は木枯らしが吹くだけの何もない山だった。ただ、岐阜は松平家によってよく治まっていて、芭蕉も「よき家続く雪の見どころ」と岐阜の地を称える。
芭蕉老人京までのぼらんとして
熱田にしばしとどまり侍るを訪
ひて、我名よばれんといひけん
旅人の句をきき、歌仙一折
旅人と我見はやさん笠の雪 如行子
盃寒く諷ひさふらへ はせを
十二月一日、熱田桐葉亭へ戻り、大垣の如行と三吟半歌仙が巻かれる。
芭蕉が旅立つ時の、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
の句を聞いた如行が、芭蕉に「旅人」と見はやさん、と詠む。その笠の雪を見れば、どう見ても旅人でしょう、というわけだ。本当に芭蕉のことを「旅人」と呼んだのかな。
これに対し芭蕉は、謡曲『猩々』の謡のイメージだったのか、実際には寒いけど、
シテ「吹けども吹けども」
地 「更に身には寒むからじ」
シテ「理りやしら菊の」
地 「理りやしら菊の 着せ綿を温めて酒をいざや酌もうよ」
とばかりに謡おうではないか、と返す。
飯舘の雪っ娘かぼちゃはほくほくして美味しかった。
それでは芭蕉脇集、貞享四年の続き。
しろがねに蛤をめせ夜の鐘 松江
一羽別るる千どり一群 芭蕉
発句の松江についてはよくわからない。
十吟一巡の興行で、ともに鹿島詣でをした曾良が第三を詠んでいる。
銀をはたいてでも桑名の蛤は食った方が良いということか。もちろんその銀は松江さんからの餞別であろう。
それに対し芭蕉は千鳥の群から一羽だけ別れて旅立つという比喩で返す。
時雨時雨に鎰かり置ん草の庵 挙白
火燵の柴に侘を次人 芭蕉
これも挙白からの餞別句に芭蕉が脇を付けて返したもの。このあと溪石、コ齋、其角、嵐雪、トチらが句を連ね、十句興行にする。
これから時雨の季節になるけど、芭蕉庵の鍵を預り守っていきたい、という発句に、私の代わりに火燵(炬燵)の火に柴をくべて、侘びて過ごしてくれるのでしょうか。と返す。
挙白は後の元禄二年に『奥の細道』の旅に出る芭蕉に、
武隈の松みせもうせ遅桜 挙白
の句を餞別に送っている。挙白は東北の出身の商人で、一度は名取川の橋杭にするために切られてしまった武隈の松が復元されているのを知っていて、あれを見せてあげたい、と詠んでいる。
はせをの翁を知足亭に訪ひ侍りて
めづらしや落葉のころの翁草 如風
衛士の薪を手折冬梅 芭蕉
『笈の小文』の旅に出た芭蕉が、十一月四日には尾張鳴海の知足亭に到着し、翌日には七吟歌仙興行が行われ、如風も出席している。その如風の如意寺如風亭での七吟歌仙興行の時の句。
発句は、芭蕉が翁と呼ばれているところから、この落ち葉の季節に翁草とは珍しい、とする。
翁草は通常はキンポウゲ科の多年草のことで、春に花をつけるが、松や菊の別名でもある。長寿を象徴する植物なら翁に喩えられることもあったのだろう。
芭蕉はこの季節はずれの翁草を梅のこととする。風流に縁のなさそうな衛士が梅を折ったので珍しいと思ったら、薪にしただけだった。
翁草なんてものではありません。狂い咲きの梅の花です、と謙虚のようでいて、風流でないものには価値のわからないという寓意で、自分の価値を主張している。
芭蕉翁もと見給ひし野仁を訪らひ、
三川の国にうつります。所ハ伊羅古
崎白波のよする渚ちかく、ころは
古枯の風頭巾を取る。旅のあハれ
を帰るさに聞て
やき飯や伊羅古の雪にくづれけん 寂照
砂寒かりし我足の跡 芭蕉
芭蕉が『笈の小文』の旅で、伊良胡から鳴海にもどり、十一月十六日に知足亭で越人も交えて表六句が巻かれる。
焼き飯は今日のチャーハンではなく、焼きおにぎりに近い携帯食で、それを持って伊良胡を旅してが、寒さに形も崩れてしまったでしょう、という発句に、冷たい砂の上に足跡を残してきました、と返す。
荷兮子翁を問来て
幾落葉それほど袖も綻びず 荷兮
旅寝の霜を見するあかがり 芭蕉
十一月十八日。名古屋から荷兮・野水が知足亭にやってくる。芭蕉、寂照を交えた四句が残っている。
『野ざらし紀行』の旅で『冬の日』をともに巻いた頃から、幾たびも落ち葉が落ちましたが、袖は綻びていません、要するに俳諧のほうは劣化してません、という発句に芭蕉は、そうですか、こちらは霜の中を旅してあかぎれがひどいのですが、と答える。
同じ月末の五日の日名古や荷兮宅
へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の
落梧といへる者、我宿をまねかん
事を願ひて
凩のさむさかさねよ稲葉山 落梧
よき家続く雪の見どころ はせを
『笈の小文』の旅で十一月二十六日、岐阜の落梧と蕉笠が荷兮方へやってきて、荷兮、野水、越人などを含めた八吟歌仙興行が行われる。
稲葉山は今の岐阜の金華山のことで、ここにあった稲葉山城は齋藤道三や織田信長がいたことでも有名だが、慶長六年(一六〇一)廃城になる。
城は今の岐阜市南部の加納に移転し、加納藩になる。この頃は松平光永の時代だった。
そういうわけで稲葉山は木枯らしが吹くだけの何もない山だった。ただ、岐阜は松平家によってよく治まっていて、芭蕉も「よき家続く雪の見どころ」と岐阜の地を称える。
芭蕉老人京までのぼらんとして
熱田にしばしとどまり侍るを訪
ひて、我名よばれんといひけん
旅人の句をきき、歌仙一折
旅人と我見はやさん笠の雪 如行子
盃寒く諷ひさふらへ はせを
十二月一日、熱田桐葉亭へ戻り、大垣の如行と三吟半歌仙が巻かれる。
芭蕉が旅立つ時の、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
の句を聞いた如行が、芭蕉に「旅人」と見はやさん、と詠む。その笠の雪を見れば、どう見ても旅人でしょう、というわけだ。本当に芭蕉のことを「旅人」と呼んだのかな。
これに対し芭蕉は、謡曲『猩々』の謡のイメージだったのか、実際には寒いけど、
シテ「吹けども吹けども」
地 「更に身には寒むからじ」
シテ「理りやしら菊の」
地 「理りやしら菊の 着せ綿を温めて酒をいざや酌もうよ」
とばかりに謡おうではないか、と返す。
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