2019年3月10日日曜日

 今日は南足柄へ春めき桜を見に行った。
 前日のラジオで二分から四分咲きと言っていたから、昨日今日の暖かさで五分咲きくらい放っているかと思っていた。
 最初に大雄山線の富士フイルム前駅で降りて、狩川沿いのの幸せ道(北岸)、春木径(南岸)の桜を見たときには、木によっては二分、よく咲いている木は八分咲きで、全体としては五分咲きだった。ただ、ここは昨日のニュースでは先初めと言っていた所だった。
 空には雲が多く、時折薄日がさす天気だったが、気温は高く、富士山の白い姿も見えた。
 このあと二分から四分と言われていた一の堰ハラネへ行ったら満開だった。

 世の中は三日見ぬまのさくら哉   蓼太

とはよく言ったものだ。
 あまり知られていないのか、人も少なく露店の屋台もなく、静かだった。良い香りがした。春めき桜は南足柄市の古屋富雄さんの品種登録した地元産の桜だという。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「我友木導といふもの、かたのごとくの作者也。終に師に対面せずして、急度師の血脈の所を見届、師の状通ごとニ、木導ハ作者なりといふ褒美を得たるもの也。
 しかれ共逸物也。十句ニ七八ハ雑句也。一ニハ天地を動かす句也。是逸物のしるし也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108)

 木導は『風俗文選』の作者列伝に、

 「木導者。江州亀城之武士也。直江氏。自号阿山人蕉門之英才也。師翁称奇異逸物。」

とある。「江州亀城」は近江国彦根城のことで、許六の身内のようなものだ。
 元禄六年五月四日付許六宛書簡に、

 「木道麦脇付申候。第三可然事無御座候間、貴様静に御案候而御書付可被成候。」

とある。これは、

 春風や麦の中行水の音      木導

の発句に芭蕉が、

   春風や麦の中行水の音
 かげろふいさむ花の糸口     芭蕉

と付けたので、第三を許六が付けてくれというものだ。
 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の補注に木導編『水の音』の木導自身による序が引用されている。そこには、

 「此一すじを兼て求をかばやと風流を種となして、はせを庵の松の扉をたたき、翁の流を五老井と共に汲つくす事三十年、かれこれの便をつたひ、蕉門の俳友ところどころに数をつくせり。其あらましを五老井雨夜物かたりにおよびぬれば、翁しばらく目をふさぎ、奥歯をかみしめ、皺の手をはたと打、謀略のたくましきを深かんじ玉ふと也。かの折から、予が麦の中行水の音をも聞たまひて翁曰、いにしへ伊勢の守武が、小松生ひなでしこ咲るいわほ哉、我が古池やかはず飛込水の音、今木導が麦の中行水の音、此三句はいづれも甲乙なき万代不易、第一景曲玄妙の三句也。誠に脇をなしあたへんと許子にながれに麦をかかせて、かげろふいさむ花の糸口と筆をとり給ひしを初となして、いひ捨し句どもとりあつめ阿山の鎮守に奉納せり」

とある。
 許六の第三がどうなったかはわからない。

 小松生ひなでしこ咲るいわほ哉  守武
 古池やかはず飛込水の音     芭蕉
 春風や麦の中行水の音      木導

 この三句を「万代不易、第一景曲玄妙」と芭蕉が言ったというが、真ん中の古池の句は、同じ「水の音」が入るというのと芭蕉自身の謙遜から引き合いに出しただけで、芭蕉としては守武の句にも匹敵すると言いたかったのだろう。
 「翁の流を五老井と共に汲つくす事三十年」は明らかに誇張だろう。元禄六年(一六九三年)の三十年前といったら寛文三年(一六六三年)で、その頃からというと芭蕉の句が『佐夜中山集』に初入集した頃からになってしまう。しかも許六『俳諧問答』の「終に師に対面せずして」と矛盾する。この序文のエピソード自体が怪しい。
 許六が芭蕉に近づこうと苦労してた頃から木導も同じに思ってたのかもしれない。しかしついに芭蕉に会うことかなわず、五老井(許六)が代わりに芭蕉に会った時に木導の句の話もし、後に芭蕉がそれに脇を付けて手紙で許六に伝えたあと、許六は結局第三が出来ぬまま、あたかも芭蕉がその場で脇を付けたかのように木導に話したというのが一番考えられることだ。
 そのとき芭蕉が木導の発句を守武の句にも匹敵する「万代不易、第一景曲玄妙」の句と言ったぐらいはありそうだ。
 この時芭蕉は「作者也」と言ったのかもしれない。ただ許六は作者でなく「逸物」だという。その理由を、「十句ニ七八ハ雑句也。一ニハ天地を動かす句也。」とする。血脈を受け継いだなら十中十句天地を動かすはずだというわけだ。その天地を動かす句が、

 春風や麦の中行水の音      木導

だったのか。許六は木道を正秀と同列に扱う。

 「正秀逸物たるゆへに、猪のともし・鑓持のしぐれなど、血脈の句いひ出せり。
 時々其姿あらハれるといへ共、血脈を慥ニ継ざるしるしに、毎句翁の手筋なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.108)

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀
 猪に吹かへさるるともしかな    同

の二句は師の血脈だが、それ以外は血脈を継いでないという。

2019年3月9日土曜日

 今朝は遅霜が降りて寒かったが、昼は一転して暖かくなった。夕暮れの空には三日月が浮かび、今日は旧暦二月の三日。
 そういえば、仕事でたまたま新大久保のあたりを通ったが、相変わらず原宿・巣鴨にも劣らぬ賑やかさで、チーズハットク(チーズ・ホットドッグ)の店の前はどこでも身動きが取れないほどだ。
 以前、チーズハットクを食べずに写真だけ撮って捨てる人がいるなんてニュースがあったが、嘘とわかって安心した。まあ、こんなけ人がいるんだから、中には一人二人そういう人がいたのかもしれないが。
 北や南の政府が何をたくらんでいるかは知らないが、庶民はそんなの関係ない。韓流アイドルも相変わらず大人気だし、美味いものに国境はない。やっぱり平和が一番。鈴呂屋は平和に賛成します。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。
 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。
 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。
 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)

 正秀が『ひさご』『猿蓑』から抜け出せなかったのは確かだろう。いとど自分の作風が確立されると、なかなかそれを変えることは難しい。それは今日の様々なジャンルの芸術を見ても同じだ。
 どんな天才と言えどもある程度の年になると新しいものを受け入れることができなくなる例として有名なのは、アインシュタインが量子力学を受け入れなかったことと、ピカソが抽象絵画を受け入れなかったことだ。
 其角や嵐雪も、荷兮や越人も、自分の過去の芭蕉とともに一時代を作ったその輝かしい成功体験から抜けることができなかった。去来・正秀もそうだったろうし、許六もたまたま芭蕉の最晩年の弟子だから変わる必要はなかっただけで、仮に芭蕉が長生きして惟然や千山とともに新風を作ったなら、許六も脱落していただろう。正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加しているが、許六の名はない。
 許六は結局の所、若い頃に影響を受けた談林が基本になっている。談林のリアルな生活感のある俳諧が元になっていて、蕉風確立期の古典回帰の影響をあまり受けなかった。
 芭蕉が猿蓑調から軽みへと再び古典の趣向からリアルな生活感へと戻ってきた頃に、ちょうど許六のいくつかの句が芭蕉にとってわが意を得たりだった。
 そこで芭蕉が血脈だの底を抜くだの言って褒めたのが結局許六の到達点になり、許六もまたそこから動いてなかったのではないかと思う。だから、結局十団子の句が許六の代表作になってしまった。
 正秀は芭蕉の晩年の風にはついていかなかったけど、『猿蓑』に入集した代表作があった。

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀
 猪に吹かへさるるともしかな    同

 許六もこれらの句を評価しないわけにはいかない。そこで持ち出したのが「逸物」という言葉だった。

 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。
 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。
 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎の註に、

 「兼載雑談」に「慈鎮西行などは歌よみ、其の外の人はうた作りなりと定家の被書たる物にあり。」とあるが内容が違ってをり、特に寂蓮に就いての所見がない。

とある。
 和歌についての様々な伝承のなかには、伝わってゆくうちにも変わっていったものもあっただろう。許六の記憶違いなのか、それともそのように伝えていた本があったのかは定かでない。
 ネットで見た伊達立晶の『藤原定家の「歌つくり」と「歌詠み」について : 創造と表現との相違』によれば、頓阿の『井蛙抄』第六には、定家が慈円に、

 「御詠又は亡父などこをはうるはしき歌よみの歌にては候へ。定家名とは知恵の力をもてつくる歌作なり。」

と言ったという。「亡父」は俊成卿で西行ではない。
 「歌詠み」は心に思うことが自然と歌になる人であり、「歌作り」はあくまで計算で歌を作り上げる人という意味だろう。ならば「逸物」は何かというと、ウィキペディアに、

 後鳥羽院は、後鳥羽院御口伝において、「寂連は、なをざりならず歌詠みし物なり」、「折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」と様々な才能を絶賛している。

とあるように、その中間の、自然に口をついて歌になるわけでもなく、かといって計算でこしらえるのでもなく、自然の情を繊細にして注意深く歌へとまとめ上げてゆくタイプといっていいのか。
 許六から見れば、正秀も自然に句を詠むのでもなく、かといって時々其角が見せるような、このネタでよくここまで作るというような句(たとえば、切られたる夢はまことか蚤の跡 其角)でもなく、師の評価を気にしていわば忖度した句を作っているというように見えたのだろう。実際の所はよくわからない。
 「当歳旦三ツ物の如き句出る也」というのは、『元禄七年二月二十五日付森川許六宛書簡』の、

 「膳所正秀が三つ物三組こそ、跡先見ずに乗放たれ。世の評詞にかかはらぬ志あらはれておかしく候。」

のことか。ちなみに許六の歳旦五つ物については、

 「彦根五つ物、いきほひにのつとり、世上の人をふみつぶすべき勇体、あつぱれ風雅の武士の手業なるべし。」

と言っている。

2019年3月7日木曜日

 国語の試験なんかで「対義語」を書けなんてのがあるが、実際対義語というものに明白な真実なんてものはない。
 そもそも言葉というのは、元々個別の事象に名前を与えて、その用例の積み重ねで意味領域が形成されるものだ。個々の意味領域は個体発生的で、対義語というのは習慣的に対にしているうちに発生する。
 たとえば「ガチ」の反対は何かというと、「ゆるキャラ」に対して「ガチきゃら」と言ったり、「ゆるキャン」に対して「ガチキャン」だなんて言っているうちに、なんとなく「ガチ」の反対は「ゆる」なのかな、ということになって行く。
 「オタク」の反対は何かというと、多分「リア充」であろう。それはこの二つを対にして語る頻度が多いからだ。
 よくある暇つぶしの議論に、「愛」の反対は「憎しみ」なのか「無関心」なのかというのがあるが、これも別に答があるわけではない。
 「あつい」の反対は何かというと、「寒い」「冷たい」「ぬるい」などいくつもの答が出てくる。
 「甘い」の反対は何かというと、酒やカレーでは「甘口・辛口」というから「辛い」が対義語になる。批評の場合でもこの「甘口・辛口」が比喩として拡大されて用いられている。
 一方、野球で「甘い球」の反対は「厳しい球」になる。親の躾でも「甘い」の反対は「厳しい」になる。
 青春の思い出か何かだと「甘い」の反対は「苦い」になる。
 こういう対義語は、言い習わされているうちに自然に発生するもので、最初から対義語だったわけではない。対義語は後から作られるもので、本来概念に対義語はない。
 そういうわけで「法の支配」の対義語なんてあるわけない。「人の支配」は対義語ではない。法は人の作るもので、人の支配する所に何ら掟がないなんてことはないのだから、「法」と「人」は対義語ではない。
 ならば「暴力の支配」が対義語なのかというとそうでもない。法を守らせるには警察などの暴力装置が必要だから、法のある所に暴力がないなんてことはない。
 強いて言うなら「法の支配」の反対は法がない状態、つまり「アナーキー」だろう。
 「人の支配」の対義語はそのうち「AIの支配」になったりするのではないかと思う。昔読んだラノベに「ヒューマニズム」と「メカニズム」とが対立する人間とロボットの共存する社会というのがあった。
 ならば「不易」の反対は「流行」なのか。『俳諧問答』を見てゆくことにしよう。

 「『精進ハあいに落ちられて』など云句ならバ、是むかしの句にかはる

事なし。あたらしミといふハ是なり。
 明日・明後日流行尽る事なく、沢山にとめり。」(『俳諧問答』横澤三

郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
 祖父祖母の精進ハ間に落ちられて

 許六はこの違いが昔の句と新味の句を分けると言うが、あくまで言葉の新しさにすぎないように思う。それも今となってはどちらも大昔の句なのでその差はよくわからない。
 それに較べると、芭蕉の「大せつな日が」の句は情がこもっている。ラッド(Radwimps)の歌にも「胸に優しき母の声、背中に強き父の教え」とあるが、そんなものを思い起こし喧嘩はやめなければと改心するのは、単なる精進日あるあるで笑いを取ろうというのとは違う。
 許六の不易流行論は、繰り返しになるが、不易は一方で人間誰しも自然に備わるもので、それは「かくれたる所なき」つまり自明なものとして議論はされていない。
 その一方でそれは血脈として師匠から継承するものとされている。
 この血脈の考え方は近代でも俳統だとか俳暦だとかいう形で残っていて、誰に俳句を学んだか、どの結社に所属しているかがこの世界では決定的な意味を持っている。形を変えた家元制といっていい。
 去来の「基」と「本意本情」はまだわかりやすい。「基」は形式だし、

「本意本情」はかつて多くの人を感動させ、多くの人が守り残してきたものには、それなりの理由があるからだ。
 人間誰しも持つ自然な情としての不易は、それ自体はどんな理論でも捉えることのできない、いわゆる「俳諧の神」であり、それは作品となり多くの人を感動させたことで証明される。古典はその意味で実証済みだから、古典から不易の情を学ぶのは間違っていない。
 許六の血脈論はこうした実証性を欠いている。ただ血脈を相続したと称する人の主観でしかない。

 「前論ニ云ク、正秀が詞ニ、師遷化の後、流行頼ミなし。不易の句なら

でハ作るまじといひけると書セり。此事いぶかし。
 翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや。
 不易・流行ハ俳諧の姿也。俳諧をやめて余事に遊ババ格別の沙汰也。
 俳諧つぶやく中に、不易・流行二ツながらなくて叶ハざるもの也。叶ハざるとて、常に不易・流行を荷ひはこぶ物ニハ非ズ。
 血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106)

 正秀が今後は流行は追わずに不易の句に専念するというのは、今までどおりの句を作ってゆくということで、別に時代遅れでもいいというだけのことのように思える。別に荷兮のように連歌師になるというのではないだろう。
 芭蕉の没後、新風を牽引できる人がいなくなったのは確かで、それは只ネタ的に目新しければいいというのではなく、それをただ目新しいだけに終らせない、人間の真情を表現し続けられなくてはならないからだ。
 精進日あるあるで目新しい言葉を使ったとしても、精進日の親を思う気持ちを説教臭くならずに素直に表現できる才能がなければ、ただその場限りの目新しさで終る。 
 「翁滅後成共、流行頼なきと申ハ何ぞや」と許六はいうが、それは去来や其角や正秀らが共通して持っていた問題意識ではなかったかと思う。
 許六がこれを否定する理由は、「血脈相続の人の句ハ、口より出るとひとしく不易・流行の姿出来て、千里をはしる物也。」
 つまり自分は「流行頼なき」の埒外だと自負したいのだろう。ただ、その許六の句が当時どれほど流行してたというのだろうか。

 「惣別俳諧と云物、不易・流行の二ツならでハ、外ニ何といふ事もなし。此二ツに極る。
 不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。此二ツの姿を離れて、句と云物ハ曾てなし。不易・流行二ツに極ると云ハ、各や我々の上の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.106~107)

 不易は一つの現象であり、実体を伴う。流行も一つの現象であり、実体を伴う。それぞれの実体は独立しているから、不易でもなければ流行もしていない句というのも存在する。近代俳句のほとんどはこういう句だ。
 その一方で不易も流行も共に兼ね備えた句もある。今日に残る名句といわれるのはそれだ。
 「不易にあらざれバ流行也。流行の姿なけれバ不易也。」だとか、不易・流行はそういう相対的なものではない。現実を無視したいわゆる観念論の域を出ない。
 不易流行の両方から見放された句というのはいくらでもある。不易流行二つに極るのはそれこそ俳聖の領域であろう。神と言ってもいい。
 おしなべて概念というのは個体発生的なもので、多くの人が何か共通のことを同じ言葉で言い表すことで、その平均的なイメージが生じる。それは個々に生じるもので、最初から体系をなすわけではない。
 ただ、多くの人が二つの概念を対比して言い表すならば、そこに対義語が生じる。そうした対概念をあとから論理的に体系化したものが、いわゆる哲学だとか形而上学だとかいうもので、論理は後、個々の概念が先にある。不易でなければ流行で、流行でなければ不易だ何て主張はそういう後から形而上学で、実態に反している。

2019年3月5日火曜日

 もともと言語(ラング)というのは存在しない。無数の発話(パロール)の積み重ねが共通の記憶を形作ったとき、それがあたかも個々の発話を超えた言語(ラング)が存在するかのような幻想を与える。
 だからどこの国でも言葉はその発話の範囲で独自に発展し、方言やスラングが形成されるし、むしろその方言やスラングや業界言葉の複雑に共存する状態こそが言語の本来の姿だった。
 近代化以前の社会では世界中がそのような状態だったと思う。
 その中で地域や職業や階級を越えた共通語はというと、芸能の言葉だった。
 芸能は旅芸人によって地域を越えて広がり、その言葉をいろいろな地域の人が覚え真似する。そこから共通の言語が生まれる。
 中世の共通語とされた雅語は八代集の和歌の言葉だし、中世の末期から江戸時代にかけては謡曲の言葉も共通語となった。明治の初めでも田舎から出てきた人が会話する時に謡曲の言葉を使ったと言われる。
 貞門の俳諧は雅語を基調としていたし、談林の俳諧は謡曲の言葉が多用された。そこでひとたび俳諧が全国規模で流行すると、今度は俳諧の言葉が共通語として通用するようになってくる。「軽み」は本来そうした共通言語の革命だったのではないかと思う。
 近代に入ると国家が国語を定め、学校教育を通じてそれを普及させるようになる。ただ、実際にはその標準語はほとんど文語化している。
 実際に庶民が話す言葉は、明治の頃には落語や講談の言葉だっただろうし、戦後になってもテレビやラジオで芸人の語る日本語が共通語となっている。さらにはJ-popの詞や映画や漫画やアニメの言葉も共通語の一部となり、最近ではネットの言葉も影響を与えるようになっている。
 それに対し、文科省の定める標準語は教科書に書いてある文語にすぎない。実際に標準語で会話をする人は皆無だ。
 芭蕉はこうした言語の性質をある程度自覚していたのではないかと思う。ただ、門人はなかなかそれについていけなかったか、許六の「軽み」の理解も表面を撫でた感じがする。

 「又精進などいふ事を句作りニせば、むかしハ、
 月に二日は親の精進日
 只精進日ハかたつまりけり
などせし。これあたらしく俳諧といふ事なし。
 ふるひから次第に上る精進日
といふこそ、あたらしけれ。又あたらしミといふハ、
 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて
トいふこそ、あたらしミと申侍れ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.105~106)

 「精進日」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「祖先の忌日など、精進をすべき一定の日。斎日。」

とある。
 「月に二日は親の精進日」はいわゆる月命日で、weblio辞書の「実用日本語表現辞典」に、

 「ある人が亡くなった日付の毎月の呼び名。「命日」とはある人が亡くなったその日の事であり、年に1回であるが、「月命日」は命日を除き1年に11回ある。」

とある。
 「只精進日ハかたつまりけり」の「かたつまり」は肩が凝るということか。
 いずれもそのまんまを述べただけで、

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

と共通している。
 これに対し、

 ふるひから次第に上る精進日

 「ふるひ」は「経る日」で「ふるとし」が去年を意味するように「昨日」のことか。前日になってようやく、普段は忘れていて、前日になって明日は命日だと意識する。あるあるだ。
 こうしたあるあるは炭俵の体といってもいいもかもしれない。

 祖父祖母の精進ハ間にまびかれて

親が亡くなると祖父や祖母の精進日は忘れ去られがちになる。これもあるあるネタといっていいだろう。
 残念なのは許六が、

   喧嘩のさたもむざとせられぬ
 大せつな日が二日有暮の鐘     芭蕉

の句を知らなかったことだ。元禄七年九月の『猿蓑に』の巻のニ十三句目だが、この一巻は『続猿蓑』所収であるため、許六がこれを知るのは一年後のことだ。
 「精進」や「精進日」という言葉を直接出さずに「大切な日」で匂わせる匂い付けの句だ。

2019年3月4日月曜日

 今日も一日雨が降った。
 雨が降るから草木も育ち、乾いた空気も潤うというのは確かに理屈だが、外で働く身にとっては、やはり嫌なものだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「かるきといふハ、発句も付句も求めずして直に見るごときをいふ也。
 言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)

 芭蕉が軽みに至る過程では、出典に頼った趣向からの脱却が重要だったが、それによってより直接的な表現が可能になったのも確かだ。
 それはたとえば延宝四年の、

   森の下風木の葉六ぱう
 真葛原ふまれてはふて逃にけり    信章

と、元禄五年の、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

の違いと言ってもいいだろう。
 「六法者」というチンピラ集団があわてて逃げてゆく様子を、延宝の頃は「森の下風木の葉」「真葛原ふまれて」と古典のパロディーの言葉で表わしたが、元禄五年の流行の単羽織で粋がってる連中が逃げてゆくのに、もはやこういう古典の引用は必要としない。ごく自然に「奉行の鑓に誰もかくるる」と、それでいて絵が浮かぶような表現が可能になっている。
 これは江戸上方などの大都市での共通語の形成と関わるもので、延宝の頃は確かに古典や謡曲の言葉を引いてくる必要があったのだろう。古典から独立して庶民の言葉が独自の意味空間を作り出したという所で、芭蕉の軽みも可能になったのではないかと思う。それは俳書が多くの人に読まれて行くうちに、俳諧の言葉が共通語になって行ったということではないかと思う。
 出典なしにもっと日常的な言葉で、的確の多くの人に絵が浮かぶような表現が可能になったということが「軽み」であり、単に簡単な言葉を使っているだとか、趣向が軽いということをいうのではない。

 病雁の夜寒に落ちて旅寝哉      芭蕉

の句の「病雁」も古典からの借用ではなく、飛来する雁から独自なイメージを作り出した点で、趣向としては重いけど「軽み」の句となる。

 「仏壇の障子につきのさしかかり
  行水の背中をてらす夏の月
  鷹場の上を雁渡るなり
 などいへる事の類、是レかるきといふ物也。
 玄梅が集に、四畳半の巻といふ俳諧あり。是後猿の趣と見えて、あまみをぬきたる俳諧也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫

p.105)

 「仏壇の」の句は元禄七年六月二十一日大津木節庵での興行、

 秋ちかき心の寄や四畳半       芭蕉

を発句とする歌仙の十一句目で、前句を加えると、

   うぢうぢ蚤のせせるひとりね
 仏壇の障子に月のさしかかり     惟然

となる。玄梅編の『鳥の道』(元禄十年)に収録されている。芭蕉、木節、惟然、支考の四吟で、確かに続猿蓑の頃の風だ。
 この巻は以前にこの俳話の中で読んだので、そのとき書いたことを繰り返しておこう。

 「仏壇は元禄の頃から今のような豪華なものが作られるようになったという。ただ、こうした仏殿に障子はないので、仏壇の置かれている仏間の障子ではないかと思う。
 大きな屋敷であれば仏間は家の奥にあるが、蚤に刺されながら一人寝するような小さな家では、仏間の障子にまで月の光が差し込んでくる。
 当時の仏壇や位牌の庶民への普及を詠んだ釈教の句といえよう。それ以前は持仏を厨子に入れて安置していた。」

 「行水の」の句は不明。これまでの研究者が見つけられなかったのだから、今筆者がつけ刃で探しても見つかるものではなかろう。現存してない巻のものか。月明かりの裸の背中は艶な感じのする句だ。
 「鷹場の上を」の句は、李由・許六撰の『韻塞(ゐんふたぎ)』の中の、

 雌を見かへる鶏のさむさ哉      木導

を発句とする木導、朱㣙、許六の三吟の六句目にある。前句を付けて表記すると、

   暮切て灯とぼすまでの薄月よ
 鷹場の上を雁わたる也        許六

となる。「薄月」は薄雲にぼんやりと見える月のことで、春は朧月、秋は薄月となる。
 日が暮れて灯りを灯す頃のぼんやりした薄月夜には、鷹狩りをする場所でも鷹狩りは終り、空には悠然と雁が飛ぶ。
 この句は月に雁という古い付け合いによる物付けで、景色の描写では新味はあるものの、果して「軽み」の代表とするにふさわしいかどうかは微妙だ。
 月に雁は『古今集』に、

   題しらず
 白雲にはねうちかはし飛ぶかりの
     かずさへ見ゆる秋の夜の月
               よみ人しらず

の歌がある。

2019年3月3日日曜日

 今日は一日雨で、早いけどそろそろ菜種梅雨の季節に入るのか。
 それでは『俳諧問答』にもどるとしよう。
 「句の案じ方」の所を飛ばして「不易流行」にふれたところから始めよう。

 「一、不易流行をいはば、不易ハかくれたる所なき故ニ不易也。流行の姿ハ、月々年々にかはる。発句においてハ、少紛るる味あり。故ニ付句ニして爰ニ記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)

 まず「不易」についての議論は「かくれたる所なき」、つまり自明ということにして、基本的には流行についての議論に入る。

 「一、前句有て、さざゐの壺いりといふ事よきところならバ、むかし作り出し侍る時ハ、やうやうと、
 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼
など作れり。中ごろ句を尋ねこしらへたつ時、
 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 にが焼のさざゐを横に喰付て
な作れり。当時江戸表五句付点取の俳諧ハ、今に此場所にすハれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103)

 「さざゐの壺いり」は今で言う「さざえの壺焼き」だが、当時は「壺炒り」と言っていたようだ。
 『去来抄』「同門評」にある、

 行ずして見五湖いりがきの音をきく   素堂

の句の「いりがき」も牡蠣を鍋の上で焼いたもので、がらがらと大きな音を立てる。
 コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「[動ラ五(四)]火にかけて、水気がなくなるまで煮つめる。また、鍋などに入れて火であぶる。「豆を―・る」
 [補説]「煎」は火で熱し焦がす、「炒」は鍋などで熱し焦がす、油でいためる、「熬」は焦がす、煮つめる意とするが、明確には使い分けにくい。
 [可能]いれる」

とある。
 さざえの壺焼きを「壺炒り」と言っていたのは、この頃は鍋で焼いていたからかもしれない。今でも家庭ではフライパンで焼くことはあるが、アウトドアや店では網の上に乗せて焼くことが多い。
 網の上だとさざえの殻の突起がちょうどよくさざえ本体を安定させてくれるが、鍋やフライパンだとなかなか安定しない。それが、

 つぼいりのさざゐハちょくにすハり兼

だと思う。さざえの壺炒りあるあるだ。
 もう一句の、

 にがやきのさざゐにふたのひつ付て

 だが、「壺炒り」は「にがやき」とも言ったのか、これはよくわからない。おそらく苦味の強い内臓部分を取らずに丸ごと焼くからだろう。先に殻から中身を取り出し、内臓を取ってから焼けば苦くはないが、酒飲みとしてはその苦味が良いというところもある。
 殻ごとそのまま焼くと、蓋がくっついてなかなか取れない。バーベキューでさざえを焼いたりすると、けっこう中身を取り出すのに苦労する。これもさざえの壺炒りあるあるだ。

 にが焼のさざゐを横に喰付て

 これもさざえの壺炒りあるあるで、さざえの身を殻から引っ張り出した時に先が殻にくっついてなかなか完全に抜けない時に、口の方からお迎えに行ってしまう、その仕草のことであろう。
 「江戸表五句付点取」というのは、許六が其角のもとを尋ねた時の点取り俳諧のことだろう。おそらく、一巻全部だとなかなか大変だからというので、入門向けに表六句だけ、つまり発句をお題として与え、それに脇、第三、四句目、五句目、六句目を付けて表六句を仕上げる俳諧ではないかと思う。
 
 「此拵へたる事をにくミ給ひて、炭俵・別座敷ニ場をふミ破て、
 さざゐを振てひたと吸ハるる
とおどり出られたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.103~104)

 さざえがうまく座らないだとか、蓋が引っ付いて取れないだとか、口の方からお迎えに行くだとか、確かにあるあるネタとして面白いが、これくらいは誰でも最初に思いつきそうなことで、同じネタを何度も繰り返すわけにも行かない。
 そこで『炭俵』『別座敷』あたりの風になると、特に珍しくもない単に身を取り出して口に運ぶ仕草を「さざゐを振てひたと吸ハるる」と巧に描写して見るようになる。
 これは許六の理解していた炭俵調の特徴のようだが、たとえば「梅が香に」の巻の、

   娘を堅う人にあはせぬ
 奈良がよひおなじつらなる細基手   野坡

のように、単純に行くと「そろいもそろい細基手」とかなりそうなところに、「おなじつらなる」でふっと絵が浮かぶようにする工夫のことをいうのかもしれない。

   終宵尼の持病を押へける
 こんにゃくばかりのこる名月  芭蕉

の句も。看病している間にご馳走がなくなるというネタを「こんにゃくばかりのこる」というマイナー・イメージを使って一工夫している。
 同じあるあるネタでも、蕉風は点取り俳諧の一歩上を行くというのは、こういうところだろう。今のサラリーマン川柳に欠けているのもこういうところかもしれない。

 「是予が生たる国也。其後師上洛し、伊賀にこもりて後猿とかや撰し給ふときく。さざゐのうまミをぬきて、遺経の俳諧を残せりときけ共、板に出ざれバしらず。予ハ独り流行して、
 火鉢の焼火に並ぶ壺煎
といふ処に遊ぶ。雉子かまぼこを焼たる跡ハ、かならず一献を待。
 にがやきのさざゐに、青ぐしをさして並べたるを、直に見るがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.104)

 元禄五年から六年に許六が江戸で芭蕉に会い、指導を受けた後、許六は彦根に戻る。
 翌元禄七年、芭蕉も五月に江戸を離れ伊賀に戻る。そのあと滋賀、京を廻り、大阪で最期を迎える。この頃『続猿蓑』の編纂が始まるが完成を見ず、支考が跡を継ぎ、元禄十一年に刊行されるが、この『俳諧問答』が書かれた頃はまだ刊行されてなかった。
 この新風を許六は「さざゐのうまミをぬきて」と、さざえの美味しさを直接食べる仕草であらわすのではなく、と解釈したのだろう。

 火鉢の焼火に並ぶ壺煎

 「焼火」は「をさ」と読むらしい。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」の「をさ(筬)」だと、

 「機織(はたお)りの道具の一つ。細く薄い竹片を櫛(くし)の歯のように長方形の枠に並べ入れたもの。縦糸をその目に通し、横糸を織り込むごとに動かして織り目を密に整える。」

だが、火鉢の上に置く網もそう呼ばれていたのか。
 近代の火鉢は陶器の丸いものが多いが、かつては外側の木で出来た角火鉢や長火鉢があった。その上に五徳を乗せて薬缶や鍋をかけたりしたが、物を焼くときの鉄灸で四角くて横棒がなければ筬に似てなくもない。
 雉子やかまぼこを焼いたあとには、さざえの壺焼きも焼いたというが、それは許六さんのような裕福な家のことかも知れない。

2019年3月1日金曜日

 「此梅に」の巻が終わったところで、今日はちょっと元号の話でも。
 まあ、来月の一日から新元号になると言うので、テレビでは何かと「平成最後の」なんて枕詞がつくが、激動の昭和に較べると平成は地味で盛り上がりに欠ける。
 芭蕉の時代というと寛文、延宝、天和、貞享、元禄、この五つだ。これを西暦に直せと言われてもいつになっても覚えられなくて、結局グーグル先生に頼ることになる。
 以下、ウィキペディアを見ながら書くが、寛文元年は西暦一六六一年になる。後西天皇の御世だが、在位は寛文三年まで。その後は霊元天皇の御世になる。
 当時は天皇の在位期間と元号とはそれほど関係なかった。霊験天皇の在位は貞享四年までだが、そのときに改元はない。
 芭蕉は寛永二十一年の生まれだが、俳諧史に姿を現すのは寛文四年の松江重頼撰『佐夜中山集』になる。

 姥桜咲くや老後の思ひ出      宗房
 月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿  同

 この二年前の寛文二年にも、

   廿九日立春ナレバ
 春や来し年や行きけん小晦日    宗房

の句があるが、発表されたので一番早いのは『佐夜中山集』になる。
 「春や来し」の句は前書きに「廿九日立春」とあるところから寛文二年と分かる。
 延宝元年は西暦一六七三年になる。延宝三年には宗因の興行に参加し、この時から宗房ではなく桃青を名乗るようになる。翌四年には『江戸両吟集』を出す。
 この年の九月に大坂広岡宗信編の『千宜理記』が刊行され、先の「春や来し」の句が入集する。(『芭蕉年譜大成』今栄蔵、1994、角川書店より)
 天和元年は西暦一六八一年になる。前年の冬に深川に隠棲し、この年の春、李下から芭蕉一株を贈られ芭蕉庵が誕生する。
 貞享元年は西暦一六八四年になる。貞享四年には霊元天皇が退位し、東山天皇が即位する。
 貞享元年といえば芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出た年で、元禄二年の『奥の細道』までが紀行文の時代になる。いわゆる蕉風を確立してゆくのもこの頃だ。
 元禄元年は西暦一六八八年になる。翌元禄二年春に『奥の細道』の旅に出る。元禄七年に死去。
 この頃の元号は短期間でころころ変わったので、十干十二支が併用されていた。貞享元年は甲子で『野ざらし紀行』は『甲子吟行』とも呼ばれる。十干十二支は六十年で一周するが、当時の人の寿命からするとそれほど不便はなかったのだろう。また十干十二支による年の表記は韓国・中国でも共通なので、国際表記でもあった。
 日本で西暦が採用されたのは明治五年で、明治五年十二月三日が明治六年一月一日になった。ウィキペディアによると、

 「改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる。」

とある。
 村山故郷の『明治俳壇史』(一九七九、角川書店)によると、新年が冬のさ中に来たことで、

 花やかに年は来にけり松の雪    連梅
 寒菊のきよき匂ひもことし哉    等栽
 年玉に添へて出しけり寒見舞    山月

といった句が詠まれたという。
 近代俳句ではやがて歳旦の句を春夏秋冬から切り離して、独立して扱うようになった。
 明治五年には日本の伝説の初代天皇である神武天皇の即位を元年とする神武天皇即位紀元が作られた。ただ昭和初期から敗戦の年までの間を除けば一般にはほとんど使用されることがなかった。
 昭和十五年(一九四十年)は紀元二千六百年ということで盛り上がったという。ただこの頃は日中戦争が泥沼化し、予定されていた東京オリンピックが中止になった。代替地はヘルシンキだったが、ここも前年の第二次世界大戦の勃発によって中止になった。
 この紀元二千六百年に登場したあの有名な戦闘機はその年の下二桁を取り「零式」とされた。いわゆるゼロ戦だ。このゼロ戦に関しては例外的に敵性語である「ゼロ」が用いられた。
 あちこちの狛犬を見て歩いていると、時折紀元二千六百年銘の狛犬に出会う。
 戦後になると紀元は用いられなくなり、君が代・日の丸・天皇制の廃止を求める声と平行して、元号に対しても廃止を主張する人たちもいた。
 二つの暦がある事で、コンピュータのプログラムを組む際にもそれだけ手間がかかる。
 韓国独自の元号は併合によって終り、戦後の韓国・北朝鮮ともに元号はないままになっている。
 中国では明の時代から皇帝の名前が元号になり、辛亥革命によって終る。
 よって今日元号を持つのは日本だけになっている。
 元号を持つ意味は何だろうかと思うに、それは複数の暦を日常的に使い分けることで、時間が一つではないということを知るのに役に立つのではないかと思う。世界には西暦や元号以外に様々な暦が存在する。
 日本語の文字は平仮名、片仮名、漢字の三種類を使い分けることで、古来の日本文化(平仮名、漢字の訓読み)と中国から来た文化(漢字の音読み)、西洋やその他の国から来た文化(片仮名)を区別して表記している。このことで日常的に三つの文化の別を常に意識することができる。
 世界は一つではなく常に多元的で、多様な文化の体系の中で生きていることを自覚するには、三種の文字と同様、二種の暦も有用なのではないかと思う。
 十干十二支は廃れたけど十二支だけなら今でもその年の干支として話題になるから、三つの暦と言ってもいいかもしれない。この多元性を内包した文化こそが日本の文化だ。