2018年1月24日水曜日

 月曜日は朝から雪がちらつき昼過ぎには本降りになった。夕方になると立ち往生した車によって至る所渋滞で動かなくなった。

 渋滞の果てを隠して雪が降る   こやん

 この日は会社に泊った。
 翌日、朝の国道246では渋滞の車がエンジンを止めライトも消して死んだようになっていた。昼になっても至る所渋滞していた。融けた雪が再び固まって路上に無数の突起を作っていて、こうなると車はすべらないようにゆっくり進むしかない。

 雪融けて車体を揺する氷かな   こやん

 この日も結局帰りが遅くなり、昨日の寝不足もあって早く寝た。
 今日は晴れたが寒かった。

 さて、「日の春を」の巻の続き。

 二十七句目。

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ
 罌子咲て情に見ゆる宿なれや   枳風

 『初懐紙評注』には、

 「はげたる眉といへば老長がる人のおとろへて、賤の屋杯にひそかに住る体也。罌子は哀なるものにて、上ツ方の庭には稀也。爰に取出して句を飾侍る。是等の句にて植物草花のあしらひ、所々に分別有べきなり。」

とある。
 「罌子(けし)」は一日花で儚いが、朝顔や槿と違い秋の淋しさを伴わない。また、田舎に詠むことが多い。
 前句の眉のハゲを書いた眉のハゲではなく、年取って白髪になり抜けていった眉として、芥子畑のある片田舎に隠居する老人に取り成している。

 二十八句目。

   罌子咲て情に見ゆる宿なれや
 はわけの風よ矢箆切に入   コ斎

 『初懐紙評注』には、

 「矢箆切といふ言葉先新し。前句民家にして武士の若者共、與風珍敷物かげなど見付たる体也。大形は物語などの体をやつしたる句也。或は中将なる人の鷹すへて小野に入、うき舟を見付たるなどのためし成ん。されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」

 「矢箆切(やのきり)」は矢の棒の部分である矢箆(やの)を切ることをいう。矢箆(やの)は矢柄(やがら)、矢箆竹(やのちく)ともいう。
 矢箆切のために山に入ってゆくと風が木の葉を分けるように吹いて、そこからケシの花の咲く宿が一瞬目に入る。
 芭蕉は『源氏物語』の「手習」の俤としている。「されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」というのは、まだこの頃は「本説」に対しての「俤」という言葉を見つけてなかったからだろう。

 二十九句目。

   はわけの風よ矢箆切に入
 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角

 『初懐紙評注』には、

 「藪かげの有様ありありと見え侍る。しかも句作風情をぬきて、只ありのままに云捨たる句続き心を付べし。」

とある。
 下手に掛けた罠だから、葉分けの風が吹くと丸見えになってしまう。これだけでネタとして面白いので、余計な風情で飾ったりせずそのまま詠んでいる。このあたりの笑いの壺は其角はよく心得ている。

 三十句目。

   かかれとて下手のかけたる狐わな
 あられ月夜のくもる傘    文鱗

 『初懐紙評注』には、

 「冬の夜の寒さ深き体云のべ侍る。傘に霰ふる音いと興あり。然も月さへざへと見ゆる尤面白し。狐わなといふに、細に付侍るはわろし。」

 ここでは狐罠を単なる冬の景色の一場面として、あられ月夜の景を付ける。
 ここでいうい霰は氷霰で5ミリを越える大きなものは雹という。積乱雲が発生した時に降るので、夕立の空の片側が晴れていたりするように、霰雲も空全体を覆わずに月が照ってたりする。
 氷霰だから唐傘に当たるとバラバラと音がする。これを「くもる傘」と言い表している。
 月の光が射しているから下手な狐罠がはっきりと見える。その意味では「狐罠」と「あられ月夜」は付いている。隠れてない罠と隠れてない月という「隠れてない」つながりという意味では後の「響き付け」に近いが、この場合は原因結果の関係もあるので心付けといったほうがいいだろう。

2018年1月21日日曜日

 今日は一日ゆっくりと休んだ。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 十九句目。

   命を甲斐の筏ともみよ
 法の土我剃リ髪を埋ミ置ん    杉風

 『初懐紙評注』には、

 「筏のあやうく物冷じきを見て、身の無常を観じたる也。甲斐と云は、古人仏者の古跡等多く、自然に無常も思ひよりたれば也。剃髪埋み置作為、新敷哀をこめ侍る。」

とある。
 前句の川の流れの無常に出家僧を付ける。それだけでは展開に乏しいが、剃った髪を埋めるというところに芭蕉は新味を見ている。

 二十句目。

   法の土我剃リ髪を埋ミ置ん
 はづかしの記をとづる草の戸 芳重

 『初懐紙評注』には、

 「別意なし。草庵隠者の体也。さもあるべき風流なり。」とある。
 剃った髪を埋めて草庵で生活する隠遁者のあるある(さもあるべき)といっていいだろう。まあ、鴨長明か兼好法師を気取ってちょっと文章を書いてみたりするが、なんか恥ずかしくなって人が来るとあわててしまったり、ありそうなことだ。

 二十一句目。

   はづかしの記をとづる草の戸
 さく日より車かぞゆる花の陰   李下

 作者を杉風とする本もある。
 『初懐紙評注』には、

 「前句、隠者の体を断たる也。尤官禄を辞して、かくれ住人のいかめしき花見車を日々にかぞへて居る体也。只句毎に句作のやわらかにめづらしきに目を留むべし。」

とある。かなり褒めているので後の人が杉風の方がふさわしいとして変えてしまったか。
 車を使うのは平安時代の貴族で、当時の官道は道幅も広く簡易舗装がされていた。官を辞して田舎に籠れるも、花の季節となると都から花見の車がやって来る。今日は何台来たかなんてことも「はづかしの記」には記されているのだろうか。

 二十二句目。

   さく日より車かぞゆる花の陰
 橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

 『初懐紙評注』には、

 「春の景気也。季の遣ひ様、かろくやすらか成所を見るべし。花の閉目杯は、易々と軽く付るもの也。」

とある。花の定座の後は、それを引き立たせるためにも、軽く景色を付けて流すのがいい。
 花の定座は各懐紙の後ろから二番目で、懐紙を山折にして綴じた時には、定座の後の句が綴じ目に来る。
 陽炎というと今では夏の炎天下のめらめらを思い浮かべがちだが、かつてはおそらく野焼きの煙で、炎が燃え上がらずにくすぶった上に生じる陽炎を本意としていたのではないかと思われる。だから小雨に陽炎もありだったのだと思う。ここで初の懐紙が終わる。

 二表、二十三句目。

   橋は小雨をもゆるかげろふ
 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃

 『初懐紙評注』には、

 「是又春の気色也。付やうさせる事なし。野辺田畑のあたり、残雪にやぶれたる案山子立たる姿哀也。景気を見付たる也。秋のもの冬こめて春迄残たるに、薄雪のかかりたる体、尤感情なるべし。」

とある。
 これも軽く景色であしらった句で、春のまだ残る雪も珍しければ秋の案山子がまだ残っているのはさらに珍しい、とした。

 二十四句目。

   残る雪のこる案山子のめづらしく
 しづかに酔て蝶をとる歌   挙白

 『初懐紙評注』には、

 「句作の工なるを興じて出せる句也。蝶をとるとる歌て酔に興じたる体、誠に面白し。」

とある。
 「蝶をとるとる」という歌がこの頃はあったのだろうか。よくわからない。酔っ払って歌うのだから子供が蝶を採るのとは違うだろう。

 二十五句目。

   しづかに酔て蝶をとる歌
 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり

 『初懐紙評注』には、

 「此句、附所少シ骨を折たる句也。前句に蝶を現在にしたる句にあらず。蝶をとるとる歌といふを、諷物にして付たる也。殿守は禁中の下官の者也。蝶取歌と云ふ風流より、禁裏に思ひなして、夜すがら夜明し興ありて、殿守等があけて、猶ねぶたげに見ゆる体也。」

とある。「殿守」はweblio辞書の「三省堂大辞林」の「とのもりづかさ」の項に、

 「(「主殿署」と書く)律令制で、春宮とうぐう坊に置かれた役所。東宮の湯浴み・灯火・掃除などのことをつかさどった。とのもりつかさ。みこのみやのとのもりつかさ。しゅでんしょ。」

とある。皇太子のお世話をする雑用係だろうか。
 蝶を見て「蝶をとるとる」と歌ったのではなく、あくまで宮廷での風流の余興で、夜を徹した遊んだ朝、殿守は眠くてしょうがないといったところか。
 宮廷ネタの多さは、この頃の蕉風の特徴なのだろう。蕪村も天和からこの頃の蕉風を真似ていたのか。

 二十六句目。

   殿守がねぶたがりつるあさぼらけ
 はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉

 『初懐紙評注』には、

 「朝ぼらけといふより、きぬぎぬ常の事なり。はげたる眉といふは寝過して、しどけなき体也。伊勢物語に夙に殿守づかさの見るになどいへるも、此句の余情ならん。」

とある。
 「朝ぼらけ」といえば後朝ということで、激しい夜を過ごした後はきっと書いた眉などハゲているだろうなと付ける。こういう目の付け所はさすが芭蕉さんだ。
 『伊勢物語』六十五段に、「つとめてとのもづかさの見るに、沓はとりて、奥に投げ入れてのぼりぬ。」とある。在原業平が大御息所の従妹に入れあげて、宮中に帰るときに靴を奥に投げ入れて外出してなかったように見せかけているのを殿守司に見られてしまい、そのうちこの事が評判になって帝の耳に入り流罪となる。
 『伊勢物語』のこの場面を知らなくても意味は通るから、本説ではなく俤と言ってもいいだろう。このころはまだ俤付けという言葉はなく、余情と言っている。

2018年1月19日金曜日

 トランプ大統領就任から一年とテレビで言っていた。ネットで見たCNNのニュースでは「トランプ米大統領の就任から間もなく1年。世界から見た米国の指導者への支持率が過去最低水準に落ち込んでいることが19日までに分かった。」とあったが、そのあとに「米ギャラップが134の国と地域を対象に行った世論調査で明らかになった。」とある。なんだ、アメリカでの支持率ではないのか。さすがアメリカの朝日新聞と言われるだけのことはある。
 トランプ大統領爆誕は言いに付け悪いに付け、古い時代の終わりと新しい時代の始まりを象徴する出来事だと思う。
 安倍首相も盛んに戦後レジームの終わりということを言ってきたが、トランプ大統領爆誕も戦後の米ソの二極支配から冷戦崩壊後のアメリカ一極支配、それに対抗する国連主義、こうした「一つの世界」をめぐる覇権争いの終わりを意味する。アメリカは世界の覇者たることを放棄し、普通の国になることを選んだ。
 一方の極が失われると、それに対抗してきた国連主義のリベラルも行き場を失い迷走する。世界はゆっくりと覇権の時代から多元主義の時代へと進んでゆく。世界は単なる「分断」で終らず、果てしなく細分化してゆくだろう。ただ、それは人間の個々の多様性を考えるなら、最も自然なことだ。
 西洋的な理性の独裁が終る時、日本の古い文化も見直されるに違いない。そんな希望を胸に抱きながら、それでは「日の春を」の巻の続き。

 十四句目。

   有明の梨子打ゑぼし着たりける
 うき世の露を宴の見おさめ  筆

 筆は主筆(あるいは執筆)のことで、興行の際の審判兼記録係だが、慣例として一巻に一句詠むことが多い。挙句の場合が多いが、ここでは連衆が一巡した所で詠んでいる。
 『初懐紙評注』には、

 「前句を禁中にして付たる也。ゑぼしを着るといふにて、却て世を捨てるといふ心を儲たり。観相なり。」

とある。
 前句の梨子打ゑぼしを宮中の公式行事の際の烏帽子ではなく、退出する際の普段着の烏帽子としたか。
 江戸時代ではみんなちょん髷頭を晒しているが、中世まではちょん髷頭をさらすのは裸になるよりも恥とした。職人歌合の博徒のイラストには素っ裸のすってんてんになった博徒の頭に烏帽子だけが描かれている。
 禁裏を退出して出家するにも、髪を剃るまでは烏帽子をかぶっている。「うき世の露を宴の見おさめ」と出家をほのめかす言葉に「梨子打ゑぼし着たりける」とすることで、烏帽子を着るという行為が却って出家の心となる。

 十五句目。

   うき世の露を宴の見おさめ
 にくまれし宿の木槿の散たびに  文鱗

 『初懐紙評注』には、

 「宴は只酒もりといふ心なれば、世のあぢきなきより、恋の句をおもひ儲たり。木槿のはかなくしほるるごとく、我が身のおもひしほるといふより、にくまれしと五文字置なり。恋の句作尤感情あり。」

とある。出家の情から恋に転じる。
 女の所を訪ねてみたけども速攻ふられてしまい、ちょうど槿の花が一日にして散るように、我が恋も一夜にして散った。一夜の浮かれた心も露のように儚く消え、この宿も見納めとなる。

 十六句目。

   にくまれし宿の木槿の散たびに
 後住む女きぬたうちうち   其角

 『初懐紙評注』には、

 「後住女は後添の妻といはん為也。にくまれしといふにて後添えの物と和せざる味を籠めたり。砧打々と重たるにて、千万の物思ひするやうに聞え侍る。愁思ある心にて、前句をのせたる也。翫味浅からず。」

とある。
 「後住む女」は後妻のことで、夫に嫌われて毎日毎日槿の花が咲いては散ってゆくように、砧を打って儚い期待を胸に秘めながら夫の帰りを待つ。
 まあ、其角の句も芭蕉の評も、ちょっと男の女はかくあるべしという期待が入っているかなという感じはするが。

 十七句目。

   後住む女きぬたうちうち
 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し   コ斎

 『初懐紙評注』には、

 「砧は里水辺浜浦等に多くよみ侍る。尤姥捨更科吉野など山類にも読侍れば、砧を山類にてあしらひたる也。乳を呑猿と云にて、女といふ字をあしらひたる也。幽かなる意味、しかもよく通じたり。」

とある。
 砧の句の恋の情から逃げるには、その舞台となる場所を付けるというのが常套手段なのだろう。ここでは山類を付ける。
 砧打つ女に「乳をのむ猿」をあしらうことで、この女にも子供がいることをほのめかす。
 猿の声は本来中国の長江以南の地にかつて広く生息していたテナガザルのロングコールのことで、哀愁を帯びたその声を聞くと断腸の思いになるという。ただ、ここにいる連衆の人たちは漢籍を通じて知識として知っているだけで、本物は聞いたことがなかったにちがいない。
 所詮は頭の中だけの猿の声だから、その猿が「乳をのむ猿」だという空想を容易に膨らますことができる。ただ、こうした漢籍に依存した知識の中だけの趣向は、やがて芭蕉が「軽み」の体に向うと敬遠され、もっとリアルな日常の趣向を重視するようになる。
 元禄五年、其角が、

 声枯れて猿の歯白し峯の月   其角

の句を詠んだ時には、芭蕉は空想の猿ではなく、同じ情をもっと日乗卑近なもので言い換えようと試みる。それが、

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉

だった。

 十八句目。

   山ふかみ乳をのむ猿の声悲し
 命を甲斐の筏ともみよ    枳風

 『初懐紙評注』には、

 「猿の声悲しきより、山川のはげしく冷敷体形容したる付やう。尤山類をあしらひたる也。」

 中国の六朝時代の無名詩に、

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 巴東の山峡の巫峡は長く、
 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。

という詩がある。今では三峡ダムという巨大なダムのある巴東山峡だが、それを日本に移せば甲斐の国の筏ということか。
 『江湖集鈔(こうこしゅうしょう)』には、「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」とあり、猿の声に悟りを開いた広聞和尚のことを思い起こし、猿の声の悲しさに人の命を甲斐の筏のように頼りなく儚いものだと思い知れ、ということか。

2018年1月18日木曜日

 今日は天気予報では晴れて暖かくなると言ってたが、朝から霧が立ちこめ、昼過ぎてもどんより空は曇っていて、日差しがない分暖かさもそんなに感じられなかった。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 十句目。

   朝まだき三嶋を拝む道なれば
 念仏にくるふ僧いづくより  朱絃

 朱絃についてはよくわからない。『蛙合』では、

 僧いづく入相のかはづ亦淋し   朱絃

の句を詠んでいる。
 『初懐紙評注』には、

 「此句、僅に興をあらはしたる迄也。神社には仏者を忌む物也。参詣の僧も神前には狂僧也。三嶋は町中に有社なれば、道通りの僧もよるべきか。」

とある。神社に似つかわしくない僧を登場させ、狂僧としている。
 舞台も三嶋に転じている。東海道は三嶋大社の前を通る。

 十一句目。

   念仏にくるふ僧いづくより
 あさましく連歌の興をさます覧  蚊足

 蚊足は京の談林系で江戸に移住し蕉門になったという。
 『初懐紙評注』には、

 「連歌の興をさます、付やう珍し。度々我人の上にもある事にて、一入珍重に侍る。」

とある。一心不乱に念仏を唱える声が聞こえてきて、連歌が一時中断されたりするのは、「度々我人の上にもある事にて」とあるように俳諧興行でもしばしば起こることで、俳諧興行あるあると言ってもいいのだろう。
 連歌も俳諧もお寺で興行することが多い。

 十二句目。

   あさましく連歌の興をさます覧
 敵よせ来るむら松の声    ちり

 ちりは千里とも書き、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅に同行している。そこでは、

 「何某ちりと云いけるは、このたびみちのたすけとなりて、万いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、朋友信有哉(ほうゆうしんある)かなこの人。

 深川や芭蕉を富士に預ゆく    ちり」

と紹介している。
 旅の途中、大和国竹内のちりの実家にも泊り、

 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく 芭蕉

の句も詠んでいる。
 句の方は『初懐紙評注』には、

 「聞えたる通別意なし。連歌に軍場を思ひ寄せたるなり。」

とある。連歌は和歌同様「力を入れずして天地を動かす」道で、基本は平和主義だ。敵の軍勢が攻めてくる音が聞こえれば、それこそ連歌どころではない。
 ただ、戦国時代には紹巴のような大名にもてはやされた有名連歌師がいたし、戦国大名の中にも連歌を好むものはいくらもいた。明智光秀の備前・備中への出陣の際の戦勝祈願の天正十年愛宕百韻は特に有名で、

 ときは今天が下しる五月哉  光秀

を発句とし、紹巴が、

   水上まさる庭の夏山
 花落つる池の流れをせきとめて       紹巴

という第三を詠んでいる。

 十三句目。

   敵よせ来るむら松の声
 有明の梨子打ゑぼし着たりける   芭蕉

 さてようやく芭蕉さんの登場になる。敵が来るなんてあまり風雅でない前句にどう対処したか、自身の解説(初懐紙評注)を見てみよう。

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。
 ネットで梨打烏帽子を調べると、「中世歩兵研究所 戦のフォークロア」というサイトがあり、「萎烏帽子」というページにこうあった。

 「烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。
 烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。」

 これを読めば「軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる」の意味がわかる。
 「あしらう」というと今では「適当にあしらう」なんて慣用句があるが、和食では食材の組み合わせで彩を添えることをいい、連歌では付き物によって付けることをいう。
 特に本説などによる深い意味を持たせず、ここでは軽くあしらわれている。「軽い」というのは出典の持つ深い意味を引きずらずに、出典を知らなくても意味が通るように付けることをいう。
 芭蕉の「軽み」の風はこれよりまだ数年先のことだが、それ以前の蕉風確立期でも、付け句に関しては展開を楽にするために軽いあしらいを推奨していた。「一句の姿、道具、眼を付て見るべし」とは、これが付け句の手本だと言っているようなものだ。

2018年1月17日水曜日

 今日は久しぶりに本降りの雨だった。
 ICANのフィン事務局長は核について議論することが大事だと言っていた。
 核兵器はないにこした事はないが、ただ核兵器の禁止は地雷はクラスター爆弾の禁止とは明らかに違う。特に威力という点で、生化学兵器をもはるかに凌ぐ。
 地雷をいくら保有しても世界征服は無理だが、核の力があればひょっとしたら可能なのではないのかという誘惑は、どこの国の独裁者にもあるのではないかと思う。
 今年のキム・ジョンウンの新年の辞でも、「チュチェ革命偉業の最後の勝利をなしとげるまで闘争と前進を止めるつもりはない」と言っている。その行き着くところは結局永久革命だろう。北朝鮮一国に留めることなく、チュチェ思想が世界を支配する時代を作ろうとしている。
 そしてこの人は世界征服の最大のライバルであるアメリカと同胞である南朝鮮以外の国のことは何一つ語っていない。世界を支配するのはアメリカか北朝鮮か、と頭の中にはそれしかないのだろう。
 こういう独裁者は、たとえアメリカ・ロシア・中国・インドが一斉に核を放棄したとしても核開発はやめないだろう。そしてそれらの国の核抑止力があるにもかかわらず未だに北朝鮮の核開発は止められないのだから、それがなくなったらどうなるのかは推して知るべしだ。
 別にあの国に限ったことではない。世界征服の野心を持つ者が核開発を始めたとき、それを止める手段はあるのだろうか。それがないなら今すぐに手放しに核兵器禁止条約を批准するのはかえって危険ではないかと思う。
 むしろ愚案ずるに、核兵器禁止条約の前に独裁政治禁止条約を作るべきではないかと思う。
 じゃあ、それでは気分を変えて「日の春を」の巻の続き。

 七句目。

   炭竃こねて冬のこしらへ
 里々の麦ほのかなるむら緑    仙化

 仙化はちょうどこの頃芭蕉の古池の句を句合わせの形で発表する『蛙合』の編纂をしてたのではないかと思う。その第一番では、

   左
 古池や蛙飛こむ水のおと     芭蕉
   右
 いたいけに蝦つくばふ浮葉哉   仙化
 
 此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におくの品、をのをのあらそふ事なかるべし。

と編者である仙化自身の句を芭蕉の古池の句と並べている。
 さて七句目の方だが、『初懐紙評注』には、

 「付やう別条なし。炭竃の句を初冬の末霜月頃抔の体に請て、冬畑の有様能言述侍る。その場也。」

とある。前句の炭竃に神無月の末から霜月にかけての景色を付けている。特に変わった趣向はないが、「麦ほのかなるむら緑」は冬の畑の様子をよく言い表している、というのが芭蕉の評価のようだ。

 八句目。

   里々の麦ほのかなるむら緑
 我のる駒に雨おほひせよ   李下

 李下といえば天和元年の春、当時まだ桃青と名乗っていた芭蕉が深川に隠棲するというので、その新たな住居の庭に芭蕉を植えたことで知られている。ここから深川の新たな住居は「芭蕉庵」と呼ばれ、桃青もまた「芭蕉庵桃青」と名乗るようになった。ここに今日一般に知られている「芭蕉さん」の呼び名が誕生することになった。
 さてこの句は『初懐紙評注』には、

 「是等奇意也。何を付たるともなく、何を詠めたるともなし。里々の麦と言より旅体を言出し、むら緑などうるはしきより雨を催し侍る景色、弁口筆頭に不掛。」

と評されている。
 付き物に寄せて付けるのではなく、里々の景色に旅体、むら緑にそれを際立たせる雨を付け、馬に雨覆いをせよとしている。
 百韻なので九句目から初裏に入る。

 九句目。

   我のる駒に雨おほひせよ
 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白

 挙白は『奥の細道』の旅立ちの際、芭蕉に餞別として、

 武隈の松みせ申せ遅桜      挙白

の句を贈っている。芭蕉は実際に武隈の松の所に辿り着いた時、

 桜より松は二木を三月越し     芭蕉

の句を詠む。
 さて、九句目の方は、『初懐紙評注』には、

 「是さしたる事なくて、作者の心に深く思ひこめたる成べし。尤旅体也。箱根前にせまりて雨を侘たる心。深切に侍る。」

とある。
 小田原を朝未明に出て、箱根八里を越えて三島に至る道なれば、雨は困ったものだ。箱根を越えたことのある人なら痛切に感じる所だろう。

2018年1月16日火曜日

 今日は暖かかった。山は霞んで春のようだった。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 第三。

   砌に高き去年の桐の実
 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風

 枳風(きふう)は江戸の人で、これより後のことになるが、元禄五年、『奥の細道』の旅の後しばらく近江など関西で過ごした芭蕉が再び江戸に来た時、杉風と枳風が出資して第三次芭蕉庵を建てたという。
 『初懐紙評注』には、

 「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」

とある。「長高く」は今の言葉ではうまく表現しにくいが、力強くと格調高くを合わせた感じか。「居丈高」という言葉に「たけたか」は生き残っているが、もとは背が高いことからきている。それが高い所から物を言うという意味になった。
 紹巴の『連歌教訓』には、

 「第三は、脇の句に能付候よりも長高きを本とせり、句柄賤しきは第三の本意なるべからず、」(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.264)

とある。
 発句が新年の句だったのに対し、柳は仲春から晩春の景になる。「未景不対也」というのは、秋から残っている桐の実に春の柳を対比させる「相対付け」とするには、まだ「見にゆく」段階で柳そのものを出していないので成り立たない。
 雪村は室町後期から戦国時代にかけての絵師で、雪舟をリスペクトしていたが、雪舟の亡くなった頃に生まれているため、直接的なつながりはない。尾形光琳に影響を与えたが、尾形光琳が活躍するのはもう少し後のこと。
 雪村が自ら舟を漕いで柳を見に行くというあたりに風狂が感じられる。「砌(みぎり)」は発句に対しては「その時まさに」という意味で用いられていたが、ここでは「水際」の意味になり、そこから「棹さして」を導き出している。

 四句目。

   雪村が柳見にゆく棹さして
 酒の幌に入あひの月     コ斎

 コ斎はよくわからないが、其角の弟子のようだ。この頃の興行にはよく登場する。
 『初懐紙評注』には、

 「四句目なれば軽し。其道の様体、酒屋といつもの能出し侍る。幌は暖簾など言ん為也。尤夕の景色有べし。」

とある。
 四句目は軽く遣り句するのを良しとする。これは発句から第三までを引き立たせるためと、前半で句を滞らせないためと、いろいろ理由がある。
 前句の風狂の体から酒を導き出し、酒屋の暖簾を「酒の幌(とばり)」と言い表す。雪村が酒の酔いに任せて夕暮れの月に舟を出して柳を見に行ったとする。

 五句目。

   酒の幌に入あひの月
 秋の山手束の弓の鳥売ん     芳重

 月が出たところで季節は秋になる。芳重がどういう人かはよくわからない。
 『初懐紙評注』には、

 「狩の鳥を得て市に持出て売体さも有べし酒屋に便りたる珍重の付様也。手束の弓は短き弓也。」

とある。
 「手束(たつか)の弓」はコトバンクのデジタル大辞泉の解説によれば、

 手に握り持つ弓。たつかの弓。
 「―手に取り持ちて朝狩(あさがり)に君は立たしぬ棚倉(たなくら)の野に」〈万・四二五七〉

とある。軍(いくさ)に用いる馬上で射るための長い弓ではなく、手に持って携帯でき、物陰に隠れて獲物を狙えるような短い弓と思われる。
 猟師が射た鳥を酒屋に酒の肴にと売りに来る。

 六句目。

   秋の山手束の弓の鳥売ん
 炭竃こねて冬のこしらへ   杉風

 杉風は言わずと知れた人で、知らない人はぐぐってみよう。
 『初懐紙評注』には、

 「前句ともに山家の体に見なして付侍る。猟師は鳥を狩、山賤は炭竃を拵て冬を待体、別条なき句といへども炭竃の句作、終に人のせぬ所を見付たる新敷句也。」

とある。
 山奥では猟師は鳥を売りに行き、山賤は木炭を作って冬に備えるとなる。「炭竃」を出すあたりに、当時の芭蕉は新味を感じていた。

2018年1月15日月曜日

 昨日は大磯の高麗山、浅間山、湘南平を歩いた。
 湘南平は標高181メートルの低山だが、付近に高い山がないせいで360度の大パノラマが楽しめる。西に富士、箱根、足柄、丹沢、南に伊豆、初島、大島、利島、東に房総半島、三浦半島、江ノ島、横浜のランドマークタワー、北には東京の高層ビル郡とスカイツリーが望める。
 湘南平では早咲きの梅も咲いていた。
 さて、今年もそろそろまた俳諧を読んでいこうと思う。
 新年ということで貞享三年の其角の歳旦吟、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

を発句とした芭蕉も含めた十八人の連衆による百韻、これに挑戦してみたい。
 この百韻の前半五十句目までは芭蕉自身による『初懐紙評注』という評語が残っている。いわゆる蕉風確立期、古池の句が発表された頃の評風を知るうえで貴重な資料だ。
 その発句だが、『初懐紙評注』には、

 「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」

とある。
 「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。
 日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。

 脇。

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗

 文鱗は堺の人で芭蕉に釈迦像を贈ったという。貞享元年に、

   文鱗生、出山の御像を送りけるを安置して
 南無ほとけ草の台も涼しけれ  芭蕉

の句を詠んでいる。
 『初懐紙評注』には、

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

とある。
 松永貞徳の脇体四道はよくわからない。ネットで調べると四道ではないが「俳諧」というサイトに「白砂人集」が紹介されていて、そこには「脇に五つの仕様あり。一には相対付、二つには打越付、三つには違ひ付、四つには心付、五つには比留り。」とあった。
 実はこれと同じものが戦国時代の連歌師紹巴の『連歌教訓』にある。

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也、
  年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
   雪こそ花とかすむはるの日
  梅の薗に草木をなせる匂ひかな
   庭白妙のゆきのはる風
  ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
   木の下草のはなをまつころ
 か様に打添て脇をする事本意成べし、脇の手本成べし、」
 (『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.263~264)

 「白砂人集」は肝心な「打添」を「打越」と誤っているし、打添以外は滅多に用いられない。
 打添は発句の趣向の寄り添うような付け方で、「年ひらけ」に「春の日」、「梅はつぼめる」に「雪こそ花」と付ける。二番目の例も「梅の薗」に「庭白妙」、「なせる匂ひ」に「春風」と打ち添える。三番目の例も「ちらじ夢」に「はなをまつころ」と打ち添える。
 貞門時代の芭蕉も参加した寛文五年の貞徳翁十三回忌追善俳諧の脇は、

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひと音おばなき跡     季吟

で、これも「かるれどかれぬ紫苑(師恩)」に「音をばなき(亡き)跡」というふうに打ち添えている。
 延宝四年の芭蕉の発句に対する信章の脇も、

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作        信章

というふうに、「牛も初音」に「ましてや‥」と打ち添える。
 発句が次第に明白な挨拶の意味を失ってくると、脇も打ち添えようがなくなって景気で付けるようになる。
 延宝六年の芭蕉発句に付けた千春の脇は、景気付けの走りといえよう。

   わすれ草煎菜につまん年の暮れ
 笊籬味噌こし岸伝ふ雪       千春

 「わすれ草」に年忘れを掛けた芭蕉の発句に何ら打ち添えるのでもなく、「煎り菜摘み」に「雪」を景気で出してくる。これは、

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
                  光孝天皇

の歌を踏まえている。
 さて、文鱗の脇に戻ってみると、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗

 初春の句に初春の情景として去年からなっている桐の実を付けているのがわかる。「桐の木」と言わずに「桐の実」というところで桐の実だけが残って葉の落ちた木を、子規流に言えばマイナーイメージで描いている。
 残った桐の実に新しい年の光が差して輝く様を「高き」という言葉を添えることで際立たせる。
 こういう脇の付け方を、「新敷俳諧の本意かかる所に侍る」と芭蕉は考えていた。
 この景気で受ける脇の付け方は、すぐの他門にも広まったのだろう。和及(貞門系)の元禄二年刊の『俳諧番匠童』にもこうある。

 「一 脇 古流は連歌のごとく、体さまざま習有れども、今は大概発句景気なれば、又景気にてあしらひてよし。」(『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、岩波書店p.501)