2018年1月13日土曜日

 『風俗文選』の文章も行分けすれば何となく近代的に見えるし、さらにそれを連にすれば大分印象も変わってくる。
 試しに支考の「猫祭文」を近代的に表記してみた。

  猫を祭る文
              各務支考
 李四が草庵に
 ひとつの猫ありて
 これをいつくしみ思うこと
 人の子をそだつるに殊ならず

 ことし長月二十日ばかり
 隣家の井にまとひ入れてみまかりぬ
 その墓を庵のほとりに作りて
 釈自圓とぞ改名しける

 彼を祭ること
 人を祭るに殊ならねば
 このたび爪牙の罪をまぬがれて
 変成男子の人果にいたらむとなり

 その文に曰く

  秋の蝉の露に忘れては
  秋の花の霜に凍るも

  鳥部山の四時に噪ぎ
  馬嵬が原の一夜に衰ふ

   きのふは錦茵に千金の娘たりしも
   けふは墨染めの一重の尼となれり

  されば
   柏木の衛門の夢
   虚堂和尚の詩

 恋にまよふ
 欄干に水ながれて
 梅花の朧なる夜

 貧にはぬすむ
 障子に雨そそひて
 燈火の幽かなる時

  鼠は捕らえるべしとつくりて
  褒美は杜工部

  蛙は無用といましめて
  異見は白蔵司

 昔は女三の宮の中
 牡丹簾にかがやきて
 花まさにはやく

 今は李四が庵の辺
 天蓼垣にあれて
 実すでにおそし

  前世は誰が膝枕にちぎりてか
  さらに傾城の身仕舞

  後は世はかならず音楽にあそばむ
  ともに菩薩の物数奇

 玉の林の鳥も啼らむ
 蓮の葉の花も降らし

  涅槃の鐘の声冴えて
  囲炉裏の眠りたちまちにおどろき

  菩提の月の影晴れて
  卒塔婆の心なににか疑はむ

   如是畜生
   南無阿弥

 ついでに作者の示されてない『風俗文選』「書類」のフクロウの出てくる「院艶書」も近代的に表記してみた。

   院の艶書
             作者不詳
 やまとの国に梟といふ鳥あり
 鷽姫をこひて
 文かきやる

 ことにそもじはまこともじ
 いくたびも文かよはして
 まことの文字の返し見るまで

2018年1月12日金曜日

 昨日の「雑ノ説」の中に嵐蘭のことが出てきていたが、おなじ『風俗文選』の誄類のところに芭蕉の「嵐蘭ノ誄」というのがあった。
 誄は音読みだと「るい」で本家の『文選』にも誄類はある。この場合は「るいるい」と読むのだろう。訓読みだと「しのびごと」になる。
 その中で、

 「今年仲の秋中の三日。由井金沢の波の枕に月をそふとて。鎌倉に杖を曳。其かへるさより。心地なやましうして。終に息絶ぬ。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.117)

という一節がある。
 『風俗文選』で気になるのは、短いセンテンスで「。」を打って区切っているところで、ネットで見た酒田市立光丘文庫所蔵の風俗文選を見ても、確かに丸が打たれている。
 これを行分けして書くと近代詩のようになって面白い。こんなふうになる。

 今年仲の秋中の三日
 由井金沢の波の枕に月をそふとて
 鎌倉に杖を曳
 其かへるさより
 心地なやましうして
 終に息絶ぬ

 「由井金沢」は由比ガ浜、金沢八景のことか。
 芭蕉の誄は短く簡潔な文章だが、去来、許六の誄となると、もう少し詩に近づく。

 あるは杖を横たへ
 落柿舎を叩て飛込だままか都の子規とも驚かされ
 予も彼山に這のぼりて
 脚下琵琶湖ノ水
 指頭花洛山と
 眺望を共にし侍りしを
 人は山を下らざるの誓ひあり
 予は世にただよふの役ありて
 久しく逢坂の関越る道もしらず
    (去来「丈草ヵ誄」)

 病ありて
 起臥のさびしさをしらずとかや
 猶思ふ人のなきにしもあらで
 此事かの事仕果してむ
 今宵は森の下露わけそぼちて小萩がもとに袂をしぼらんと
 玉だれのひまもとむるに
 あらぬあさはりのみ出来がちにて
 初夜過る雪駄の音も程なく静まり
 夜かれのみぞおほかる
    (許六「去来ヵ誄」)

 誄ではなく歌類の所の支考「落柿舎先生ノ挽歌」も、行を分けて書けばこんな感じになる。

 ことしはいかなる年なれば
 かくあぢきなき人をのみ見るらん
 去年の神無月は
 浪化の君にわかれて
 霜の光に名をしたひ
 粟津の丈草は
 此きさらぎの願ひにみちて
 花の陰に帰り給ひぬ
    (支考「落柿舎先生ノ挽歌」)

 さらに後半に歌が記されている。

 家は聖護院の森にかくれて
 名は落柿舎の梢に残りて
   世ははたいかならん

 寒き梟の声に驚き
 空しき秋の色を恨む
   我はたかくならん

 窓のあらしに燈をまもり
 軒のしづくに影をしたふ
  おしむべし アア かなしむべし アア
    (支考「落柿舎先生ノ挽歌」)

 こうした追悼文は、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に先行する作品として注目してもいいのではないかと思う。試しに「北寿老仙をいたむ」を『風俗文選』風に表記するとこうなる。

   北寿老仙ヲ悼
 君明日に去ぬ夕の心千々に。何ぞはるかなる。君をおもふて岡野辺に行つ遊。岡野辺何ぞ悲しき。蒲公の黄に薺の白う咲たる。見る人ぞなき。雉子のあるかたひなきに鳴を聞ば。友ありき河を隔て住にき。‥‥以下略‥‥

 蕪村の新しさは表記法の新しさだったのかもしれない。

2018年1月11日木曜日

 脳の回路は各自の人生における様々な偶然の積み重ねによって形成されるもので、何びとたりとも自分の脳の回路を自由意志によって設計することはできない。
 いかなる思想であってもそれを人に強要することができないのは、脳の回路はいかなる強制によっても変えることができないからだ。ただ恐怖で縛り付ける、いわゆる「洗脳」があるだけだ。
 脳の回路はその人の個性であり、人は全て多様性の一つとしての自分を生きるほかない。それがために降りかかる運命も、結局全て受け入れなくてはならない。
 許六編の『風俗文選』の不知作者による「雑ノ説」はそうした運命をよく捉えている。

 「人物禽獣は。其人物禽獣の粉骨なる所に倒れ。山川草木は。其山川草木のすぐれたる所にたふる。物皆おのがたのしみの纔(わずか)なる所に。たふれ果るも哀なる事なるべし。瞿曇は無為に倒れ。仲尼は仁義にたふる。荘老は寓言にたふれ。神仙は霊異に倒る。伯夷叔齊は賢にたふれ。楠正成は忠に倒る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 瞿曇(ぐどん)はGautama、つまりゴーダマ・シッダールタ(瞿曇悉達)のこと。仲尼は孔子のこと。伯夷・叔斉は殷代末期の孤竹国の王子で最後は餓死した。

 「火はあつきにたふれ。水はひややかなるにたふる。砂糖はあまきにたふれ。野老はにがきにたふる。長はながきにたふれ。短はみぢかきに倒る。されば瘡を愁ふるほとは痒をかく所にたのしみ。貧を苦しむものは。盗賊の難なき事をたのしふ。是皆和漢人情の趣く事は。さらさらかはる事あるべからず。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 野老(ところ)はオニドコロのことで、自然薯に似ているが、どこにでも生えている草で、根は苦くて普通は食べられないが、かつてはあく抜きをして食用にしていたという。イモの部分に髭のような根が生えていることから、老人のようなので、野老と書く。

     菩提山
 此山のかなしさ告げよ野老掘    芭蕉

の句が『笈の小文』のなかにある。
 瘡の喩えは「幸福とは苦痛がなくなることである」「ならば水虫を掻いている時は幸福なのか」と言う有名な詭弁を思い出させる。正確には水虫を掻いている時は苦痛を掻くという別の刺激で紛らわしているだけで苦痛がなくなるわけではない。水虫が完治したなら幸福なのではないかと思う。
 貧乏人が盗られるものがないことを楽しむというのも、まあ負け惜しみというか、やはり盗られるほどの財産を持ってみたいものだ。
 まあ、こういう話は洋の東西問わず必ずあるものだ。

 「昔より風雅に倒るる人おほき中に。西行は歌に倒れ。宗祇は連歌にたふる。先師ばせを翁は、はいかいにたふれて。生涯を終る。其門葉あまたの中に。たふるる所同じからず。武の杉風は耳のとほきにたふれて。微細の論を聞かざれば。二十余年半は流行し。半は流行せず。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 死ぬ間際まで俳諧のことが頭から離れなかった芭蕉翁のことは、去年たどってきた。『笈の小文』で

 「ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

と言う芭蕉は、まさに俳諧依存症だ。
 杉風は余り人の意見に耳を貸さなかったのか、芭蕉存命中は『炭俵』の軽みにも着いて行き、流行の先端にいたが、芭蕉の死後はかたくなに芭蕉存命時代の風体を変えなかったのだろう。それでも享保十七年(一七三二年)八十六歳まで生きた。

 「洛の去来は。風雅の正直にたふれて。春風桃李花の開くる日をしらず。其角は作にたふれ。支考は理にたふる。涼菟はふるみのしたるきに倒れ。露川は俳諧の数にたふる。史邦木導は風雅のつよみに倒れ。千那李由は風月の情の過たるに倒る。嵐蘭は鎌倉の月にたふれ。丈草は松本の閉関にたふる。杜国は横にたふれ。惟然は高みにたふる。尚白は忘梅の趣向に倒れ。許六は文章の文に倒る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76~77)

 去来の句は生真面目で型どおりに納めようとする傾向があり、全体に花に乏しかったし、其角はひねりすぎてしばしば企画倒れ。支考は芭蕉存命中は天才的な機知を示したが、やがて俳論書を書くことにのめりこんでいった。
 涼菟は伊勢の神職で都会的な新しさを求めることもなく、田舎の水にどっぷりとつかっていった。露川は諸国を行脚し『西国曲』『北国曲』を編纂した。どちらもボリュームのある書で確かに数は多い。
 嵐蘭は江戸の人で元禄六年、鎌倉に月を見に行ってその帰りに病に倒れた。初七日に芭蕉は、

 見しやその七日は墓の三日の月   芭蕉

の句を捧げている。
 丈草は近江松本の義仲寺無名庵に棲み芭蕉もしばしば滞在するが、芭蕉の葬儀がここで行われ、埋葬されたため、丈草は残りの生涯をここで芭蕉の墓を守ることに費やすこととなった。
 杜国は『冬の日』に参加し、『笈の小文』の旅にも同行したが、元禄三年に若くして死んだ。
 尚白は『忘梅』の編纂の際のトラブルで芭蕉に破門された。許六はこの『風俗文選』を編纂している。あるいはこの文章は許六のものか。

 「されば芭蕉流に倒るるものもあれば。ばせを流をたふす人もあるなり。鶯は時鳥に倒れ。桜は紅葉にたふる。人は人にたふるるもあれば。我は我に倒るるものなり。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.77)

 さて、ここでこの「雑ノ説」も絞めになるが、弟子たちの中には芭蕉に倒れるものもあれば芭蕉を倒すものもありと、芭蕉亡き後のごたごたを嘆き、鶯は時鳥に、桜は紅葉にと時の流れを感じ、人は人に倒れ、我も我に倒れると結ぶ。
 人は皆それぞれ多種多様な生き方をしてはそれぞれの持って生まれた性質によって倒れてゆく。我もまた同じ。結局多様性の一つとしての自分を生きる以外に道はなく、自分の道に倒れるならそれもまたやむを得ずというところか。

2018年1月10日水曜日

 人は生まれながらにして顔かたちが違ったり、背の高い低いがあったり太りやすい太りにくいがあったり、禿げやすい禿げにくいだとか大食いだとか少食だとかいろいろな違いがある。違うのは別に肌の色や目の色や髪の色に限ったことではない。人間は生まれながらにして一人一人みんな違う。日本人だからと言ってみんな直毛黒髪というわけでもない。
 生まれながらに多様な人間は、育つ環境や文化の違いでまた更に多様になる。
 精神の多様性というのは脳の発達過程が環境と資質との複合によってみんな異なるところから生じる。同じものを見ても感じ方はみんな違う。それは人はただ物を見るのではなく、それを様々な記憶と照らし合わせて、その意味を読み取るからだ。記憶は一人一人みんな違う。何を連想するかは人によって違う。連想された記憶を結びつけてそこからどういう思考を導き出すかもみんな違う。だから同じ物を見ても、みんな違った考え方をする。
 さらに、個々の人間の特有な体験から、ある種の物には脳内快楽物質を刺激する特有の回路が形成される。花に異様に興味を持つ人がいたり、山を見ることに異様な快楽を覚える人がいたり、人間の思考回路は決して一様ではない。何に興味を持つか、何に心地よさを感じるのか、何に癒しを感じるのか、みんなそれぞれ違う。
 一枚の絵を見ても、まず色の見え方で先天的に異なる場合がある。赤青黄の三色の色覚にしても、たとえ色覚異常でないにせよ、若干の強度のばらつきは考えられる。それに加えて視力や乱視の問題もある。そして、見えた色彩に関しても、幼少期からの環境や習慣によって、ある種の色には敏感である種の色には鈍感になるといったことも生じる。こうして色彩感覚は文字通り十人十色ということになる。
 さらにそこに描かれた絵の内容にしても、その人の持つ記憶と結びつけられたとき、思い起こすものはみんな違う。その記憶を関連付けて絵を解釈する段になっても、思考回路は人それぞれみんな違うし、それに対して感じられる快不快も異なる。
 ということで、万人が等しく感動する絵なんてものは存在しない。どんな名画でも見る人によっては興味を引かないということは別におかしなことではない。
 音楽でも同じで、聴覚そのものも先天的にばらつきがあるだろうし、環境や文化によってある種の音に敏感になったり鈍感になったりもする。そこから連想される思考も人それぞれだし、それを快と感じるか不快と感じるかも人それぞれだ。つまり万人が等しく感動する音楽なんてものは存在しない。
 文学ということになればさらに明らかだ。同じ日本語と言っても日本全国均一ではないし、地域や階級や職種、それに一部の趣味の人が好んで使う言葉があったり、特定の仲間内だけに通じる言葉や家族の中だけで通じる言葉もあったりする。さらに一部の外国人の片言の日本語も、日本人の言語感覚に影響を与えたりする。翻訳調の言い回しや、いろいろな国の言葉の癖が移ったりもする。
 もちろん一つの単語から想起されるものは各自の過去の体験や知識に基づくもので、ネイティブであれば特にだが、辞書を見て言葉の意味を理解しているのではない。
 そういうわけで万人が等しく感動する文学も存在しない。
 芸術の価値というのはカントの言うようにそれについて議論することは可能だが、ただ現実的には各自の感性の多様性の壁に阻まれて、おそらく永久に結論が出ることはないだろう。ただ言えるのは、多くの人が記憶に残そうとしたものは残るというだけのことだ。
 芸術は人間のあくなき創作意欲がある限り日々ほぼ無数に生み出されては、人間の記憶の限界からその多くは作られたすぐそばから忘れ去られてゆく。その中で残るというのは、それだけ多くの人の記憶に取り付いて離れなかったからに他ならない。
 まあ、近代では政府主導でカリキュラムを作りほぼ強制的に覚えさせることで時の権力の都合のいい作品を残そうとするが、ただ一つの体制もそう長くは続かないから、体制が変わるたびにただ覚えさせられただけのものは消えてゆく。こうした忘却の荒波をかいくぐったものだけが古典と呼ばれる。
 芸術作品への人々の熱狂と陶酔は、少なからず脳内快楽物質の作用と結びついて独自の脳回路を形成するところからくるもので、必ずしも自由意志によるものではない。少なくとも脳の回路を人が自由意志に基づいて任意に設計するなんてことはできるはずがないからだ。だから時の権力により特定の芸術を奪うことは一時的には可能だが、結局は長続きしない。
 江戸時代でも享保、寛政、天保の改革を代表とするように、何度も巷で流行する芸術に禁制が敷かれてきた。明治維新のときも政府の西洋化政策から多くの伝統芸術が禁止され、弾圧された。もちろん軍国主義の時代も様々なものが禁止された。他所の国の話だが、社会主義革命によってそれまでの芸術が禁止されたり弾圧されたりする例はたくさんある。イスラム原理主義やキリスト教原理主義によるそれももちろんある。だが、芸術の禁止は人間の感性を変えることはできなかった。ただみんな我慢していただけだ。
 人間の多様な脳回路は自由意志によって選択されたものではないから、自由意志によって変えさせることはできない。
 脳回路の多様性は個性でありキャラクターである。LGBTもあくまでキャラであって病気ではない。それを病気とみなすとすれば、それは社会的な排除のシステムに他ならない。プロ棋士とネトゲ廃人を分けるものも、そうした排除のシステムに他ならない。
 明治の文学者たちが連歌や俳諧を文学とみなさず「愚なるもの」とすら言ったのも、排除の論理であり芸術の論理ではない。だから連歌も俳諧も消えることなく今日にその多くの作品が保存されている。それに再び新しい価値を与えられるかどうかはこれからの人間の仕事だ。
 脳回路が選択し、快だと感じる芸術はもとより多様であり、人間の飽くなき創作欲と記憶の限界から芸術作品は常に流行を繰り返す。ならば不易とは何か。芸術には普遍的な価値は存在しないのか。美の普遍は存在しないのか。おそらく作品としては存在しない。ただどこかで国や時代が変わっても同じ人間として共鳴できるものはある。その共通の感覚が不易に他ならない。

2018年1月8日月曜日

 昨日は目黒不動へ犬狛犬を見に行った。普通の狛犬は獅子の形をしているが、犬の形をしている狛犬は珍しい。ただ、狼狛犬との境界は曖昧で、狼狛犬だと言われれば狼狛犬だった。
 WHOはゲーム依存症を国際疾病分類に加えるというが、薬物の依存症と違い、本来の脳内快楽物質による依存症は少なからず誰しもあるものだ。仕事中毒なんていわれるのもそうだし、プロ棋士はみんな将棋依存症だし、登山家は登山依存症だし、サッカー選手はサッカー依存症だし、芭蕉は間違いなく俳諧依存症だ。そういう自分も学者にはなれなかったが一種の学問依存症と言っていいだろう。
 人生のある時に何かのきっかけである行為をしたときに脳内快楽物質が分泌され快楽報酬を受け取ると、脳内にそれを反復するような回路を形成する。分泌されるのは人工的な薬物ではなくあくまで天然の脳内快楽物質だ。
 アルコールやニコチンや他の薬物による依存症は、ある行為で脳内快楽物質を出すように回路が形成されるのではなく、人工的な快楽物質を脳内に注入するものだから、まったく質的に異なる。そして、その人工的な快楽物質を入手し、摂取するように脳内回路が形成される。
 そうではなく、天然の脳内快楽物質である限り、その分泌は器質的な障害ではない。ただ、その快楽物質回路は、本来は生存競争に勝ち抜くために機能するべきものだが、実際にはそれがために敗北をもたらしてしまうこともある。
 人間の場合、そうした勝者と敗者との境目が物理的なものではなく社会的であるため、結局快楽報酬をもたらす行動が社会的に承認されているものかどうかで明暗を分けることになる。競馬やパチンコに快楽を感じればギャンブル依存だが、投資に快楽を感じれば投資家になる。
 同じように、ネトゲに快楽を感じればゲーム依存症と呼ばれてしまうが、同じゲームでも囲碁や将棋なら棋士になれる。それは囲碁将棋にはスポンサーが着いて報酬が得られるという、それだけの違いにすぎない。
 社会的な報酬がなく、むしろそれをすることで反社会的の烙印を押されてしまう行為に関しては病気とみなされ、報酬のあるものはむしろ奨励される。純粋に生理学的に見ればその両者に境界はない。病気は社会によって定義される。
 ネトゲだってスポンサーが着いて報酬がもらえ、ゲームでの活躍を多くの人が賞賛し、国民栄誉賞がもらえるような状況が生じるなら、もはや誰もそれを病気とは言わないだろう。
 医学のまなざしが社会的なものであることは、ミシェル・フーコーが指摘してきたことだが、もちろん器質的な障害による精神病もあるから、そこは区別しなくてはならない。
 LGBTという言葉が一種の流行語のようになっているが、これは別に病気ではないし医学の問題ではない。それを受け入れるかどうかは社会の問題であり、あくまで文化の問題だ。そのなかで一部の者だけが性同一性障害と呼ばれるのは、治療することによって社会が受け入れることが可能だということで、逆にいえばLGBTから排除されているといってもいい。
 鬱はセロトニンの欠乏などの器質障害によるものだが、それでもかつては「発心」とみなされ、社会はそれをポジティブに受け入れてきた。何をするのも空しく感じられ、生きる気力の失せた状態になると、「この世の無常を悟った」と言われ、部屋に引きこもるようになると「世俗の交わりを断った」と言われ、拒食症になると「ついに穀を絶った、ありがたやありがたや」になる。そして補陀落渡海や即身仏などの合法的な自殺用を用意してくれる。
 病気は単に身体の変化の問題だけでなく、それを受け入れる社会の問題でもある。
 芭蕉は一所不住を誓い生涯を旅してすごしたが、百年後に歌枕の旅に出たある女性は「ものぐるい」とみなされたという。
 LGBTに関して言えば、キリスト教などの聖書の文化が同性愛を長いこと犯罪とみなしてきた歴史に負うところが大きい。そうした歴史を持たない日本では、芭蕉があたかもホモであるかのような発言をしてもスキャンダルになる事はなかった。まあ、実際にはホモではなかったと思うが。
 ある行動に対して快楽物質が分泌される回路を持つことは、その人間の最も本質的な個性を形成するもので、安易に医学の名の下に排除したり治療を強要するようなことがあってはならない。それがなければこの世の中にはただ均質な労働者がいるだけで、スターもヒーローも天才もいない退屈な世界にしかならない。均質な労働者なんてのはそのうちロボットに取って代わられるだけだから、これからはむしろあらゆる依存症を社会に役立てることの方が大切だ。かつてネトゲ廃人だった人でも、ネット株に転向して成功した人がいるという。

2018年1月5日金曜日

 今日は寒い一日だったが、雪にならなくて良かった。
 「馬に寝て残夢月遠し」の句で芭蕉が菊川に泊って未明に出発したとなると、やはり『野ざらし紀行』の伊勢までの日程が気になる。
 出発が八月の中頃で伊勢で「三十日月なし」の句を詠んでいるとすると、大体二週間くらいの旅だったことになる。
 旧街道ウォーキング「人力」というサイトに載っている各宿場間の距離を参考に、大体一日四十キロ前後進む(歩いたにしても馬に乗ったとしてもスピードは変わらないものとして)なら日本橋から大井川の手前の島田までは六日間。菊川から四日市までは五日間、四日市から伊勢までは二日と思われる。これで十三日。それに大井川で足止めされた日数が加わる。
 『野ざらし紀行』には、

 「大井川越る日は終日雨降ければ、

 秋の日の雨江戸に指おらん大井川  ちり」

とある。そして小夜の中山の所には「廿日余の月かすかに見えて」とある。
 「終日雨降ければ」が大井川をわたる予定の日に一日雨が降り、やむなく島田に一泊し、翌日の夕方にようやく川を渡って菊川に着いたとなれば、無駄にしたのは一日ということになる。つまり江戸を発って八日目に小夜の中山を越えたことになる。もっとも
 伊勢の三十日から逆算するなら、二十九日に四日市を出て翌日伊勢に着いてその夜真っ直ぐに参宮したとするなら、菊川を出たのは二十四日ということになる。それだと江戸を出たのは十七日となる。
 十七日に旅立って戸塚に泊り、十八日に小田原泊、十九日に沼津泊、二十日に興津泊、二十一日に藤枝泊、翌二十二日に大井川を渡る予定が島田一泊になり、翌二十三日の夕方にようやく川止めが解除され菊川泊。これで計算が合う。
 芭蕉の小夜の中山の句はもう一句ある。

 忘れずば小夜の中山にて涼め   芭蕉

 これは『野ざらし紀行』に旅立つ二ヶ月前の六月、松葉屋風瀑が江戸から伊勢に帰郷する際の餞別句で、八月三十日には伊勢で再会することになる。

 命なりわづかな笠の下涼み    芭蕉

という延宝四年に芭蕉が詠んだ句を踏まえたもので、小夜の中山を通る時にこの句を忘れてなかったら笠の下に涼んで下さい、という意味だろう。

2018年1月4日木曜日

 今年も正月休みは今日で終わり。
 一日は家でゆっくり休み、二日は午後になってから武州柿生琴平神社は混んでるだろうなと思って、歩いてゆける近くの伊勢社に初詣に行った。無人の神社で人はポツリポツリだった。
 三日は「街道を行く、東海道編」の続きで島田から掛川まで歩いた。
 金谷から旧東海道石畳の方へ行くと、鶏頭塚というのがあって、

 曙も夕ぐれもなし鶏頭華    巴静

の句が記されていた。巴静は美濃出身で支考の弟子で、このあたりに蕉風を広めた人のようだ。鶏頭は朝も昼も夜も赤いので曙も夕暮れもないということか。
 小夜(さや)の中山はたくさんの歌碑があった。

 雲のかかるさやの中山越えぬとは
    都に告げよ有明の月
               阿仏尼
 旅ごろも夕霜さむきささの葉の
    さやの中山あらし吹くなり
               藤原家良
 年たけてまた越ゆべしとおもひきや
    命なりけりさやの中山
               西行法師
 甲斐が嶺ははや雪しろし神無月
    しぐれてこゆる小夜の中山
               蓮生法師
 東路のさやの中山なかなかに
    なにしか人を思ひそめけむ
               紀友則
 ふるさとに聞きしあらしの声もにず
    忘れぬ人をさやの中山
               藤原家隆
 東路のさやの中山さやかにも
    見えぬ雲井に世をや尽くさん
               壬生忠岑
 甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく
    横ほり臥せるさやの中山
               詠み人知らず

 阿仏尼の歌は、上方からきて事任(ことのまま)八幡宮の紅葉を見てから莢の中山に登り、「をちこちの峯つづき、こと山に似ず」とその眺望を『十六夜日記』に記している。歌は莢の中山を越えたあと菊川宿に泊った時のもので、他にも、

 こえくらすふもとの里のゆふやみに
    まつかぜおくるさやの中山
 渡らむとおもひやかけしあづま路に
    ありとばかりはきく川の水

の二首を記している。
 蓮生法師と詠み人知らずの歌は「甲斐が嶺」を詠んでいる。ぐぐると甲斐が嶺は北岳(白根山)のこととあるが、蓮生法師の歌は広く南アルプス連峰の高山を指すものと理解すべきであろう。実際小夜の中山はいわゆる峠道ではなく稜線上を歩く道で眺めが良い。北の方も大井川渓谷が南北に長く通っているため、その合い間から聖岳のあたりの真っ白な山々が見える。これを「甲斐が嶺」と呼んだのだろう。
 読み人知らずの歌は、「さやにも見しが」を「見じ」と同様にはっきりとは見えないがという意味に解されているが、「はっきり見えた」という意味に取ってもいいのかもしれない。その場合は、真っ白い峰々がこうして見えているのにたくさんの山が手前に横たわって心(けけれ)無い、という意味になる。
 小夜の中山というと、芭蕉の句も二句ある。

 命なりわづかな笠の下涼み   芭蕉
 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 同

 「命なり」の句碑は「涼み松」の所にある。この句は夏の炎天下の道で笠の下だけがわずかに涼しいという意味の句だと思っていたが、後の人が勝手にこの松の下で涼んだということにして、名所にしてしまったのだろう。
 「馬に寝て」の句は早朝というか未明の句だが、だとすると菊川の間(あい)の宿に泊ったと思われる。菊川は阿物尼も泊った古くからの宿場だが、東海道五十三次には入らず間宿として扱われていた。ウィキペディアによると、

 「間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にある菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 」

とある。大井川が川留めになっていて夕方になってやっと渡れたとすれば、菊川宿に泊ったとしても何の不思議はない。小夜の中山は山の上の方まで茶畑になっていたが、芭蕉の時代からそうだったかどうかはよくわからない。「茶のけぶり」というのは、焙炉で乾燥させるときの煙であろう。それは下から昇ってきた煙かもしれない。
 小夜の中山は東には富士山を望み、北には南アルプスが垣間見え、西には浜松豊橋の平野や海までが見渡せる。道幅の広い古代東海道がこの小夜の中山の稜線に作られた時から、眺望は良かったのだろう。それが、単に東西の境界線というだけでない東海道随一の名所として古代から近世に至るまで和歌や俳諧に詠まれてきた理由なのかもしれない、とそう思った。