2017年12月9日土曜日

 昨夜は雨が降ったが、富士山では雪だったようだ。今朝見たら真っ白な富士山に戻っていた。
 最近仕事が変わったせいで待機時間がなくなり、なかなかキンドルが読めなかった。久しぶりに電源を入れようとすると、これがうんともすんとも言わない。家に帰って充電したが、やはりスイッチが入らない。ネットで調べて、長押しすると再起動するというからやってみたが、電池の中にびっくりマークが入った画面が表示されただけだった。
 またいろいろ調べ、USBケーブルを黒い純正のものに替え、しばらく放置したら、確かに直った。やはりネットの情報は頼りになる。
 それでは、「冬木だち」の巻の続き。二表に入る。

 十九句目。

   頭痛をしのぶ遅き日の影
 鄙人の妻(め)にとられ行旅の春 几董

 王侯貴族や戦国大名などは政略的に他所の国に嫁に出されたりする。『漢書』匈奴伝下の王明君が有名で、この句もその俤だという。確かにそりゃ頭痛の痛い話だ。痛みで眉を顰めているとみんな真似しそうだが、それは王明君ではなく西施で、痛んでたのは頭ではなく胸の方だ。
 几董さんのひょうきんな一面が出て、調子が出てきたようだ。

 二十句目。

   鄙人の妻にとられ行旅の春
 水に残りし酒屋一けん      蕪村

 ネットにあった『明治以前日本水害史年表』(高木勇夫)によると、安永四年には「鴨川水溢(四月)、宇治川洪水(五月)、鴨川洪水(六月)」とある。また『泰平年表』によると、安永二年にも「淀・伏見洪水」とある。酒どころの伏見もしばしば洪水に見舞われたようだ。
 この句はどこの酒屋かわからないが、水害で一時的に資金繰りが苦しくなると、田舎の豪商に娘を嫁にやる代わりに資金援助をなんてこともいかにもありそうなことだ。蕪村も調子が出てきたか。

 二十一句目。

   水に残りし酒屋一けん
 荒神の棚に夜明の鶏啼て     几董

 洪水をのがれた酒屋を三宝荒神の御利益とする。三宝荒神は牛頭天王の眷属とされていて、家庭では竃神として台所に祀られている。

 二十二句目。

   荒神の棚に夜明の鶏啼て
 歳暮の飛脚物とらせやる     蕪村

 飛脚は手紙や贈り物だけでなく現金も運んだ。歳暮の飛脚というのは、当時は年末決算だったため、その支払いのお金を運んだりもしていたのだろう。
 年も暮れ、正月の初日が昇る前にようやく支払いのお金が届いたか。こんな遅くまで走り回っていた飛脚に褒美を取らせる。

2017年12月8日金曜日

 今年はやはり暖かいのか、富士山の雪が大分解けていて雪は中腹くらいまであるものの、黒い地肌が覗いて段だら模様になっている。
 さすがに紅葉は色あせ始めて冬木立になりはじめている。
 そういうわけで「冬木だち」の巻の続き。

 十五句目。

   出船つれなや追風吹秋
 月落て気比の山もと露暗き    蕪村

 気比は敦賀の気比松原(けひのまつばら)のある所で、気比神宮もある。気比の浜は白砂青松で知られている。芭蕉も『奥の細道』の旅で、気比神宮に参拝している。

 「けいの明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷(しけ)るがごとし。」(奥の細道)

 そしてここで、

 月清し遊行のもてる砂の上    芭蕉

の句を詠む。
 月があれば夜露が月にきらきらと輝き、気比の浜の白砂とあいまって幻想的な風景になるが、残念ながらまだ満月に遠い月はすぐに沈んでしまい露も闇に閉ざされる。「船出」と「月の入り」のイメージを重ねている。「出船追風」の無情に「つきの沈んだ闇」を付けるのは、響き付けと言ってもいいかもしれない。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「順徳院・日野資朝をはじめ佐渡への流人は多くここから送られた」とある。「出船」と「気比」が付け合いだとすれば、古典的な「物付け」ということになる。

 十六句目。

   月落て気比の山もと露暗き
 鹿の来て臥す我草の戸に     几董

 「山もと」に草庵は相変わらずベタな展開だ。鹿といえば、

 わが庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふなり
                喜撰法師

か。

 十七句目。

   鹿の来て臥す我草の戸に
 文机(ふづくゑ)の花打払ふ維摩経 蕪村

 侘び人を僧ということにして釈教に展開するが、花の散る草庵は吉野の西行法師の俤か。

 十八句目。

   文机の花打払ふ維摩経
 頭痛をしのぶ遅き日の影     几董

 まあ、維摩経なんて読むと頭は痛くなるわな。なかなかひょうきんな展開で、こういう句があるとほっとする。いやいや修行させられている坊主の姿が浮かんでくる。筆を鼻の下に挟んでたりして。

2017年12月7日木曜日

 左翼のことで最近「パヨク」と言う言葉がよく用いられるが、これを「パーな左翼」のことだと誤解している人がいる。確かにそういうニュアンスで使われたりもするが、語源的には正しくない。
 「パヨク」は正確には2015年に起きたぱよぱよちーん事件から来たもので、この事件についてはぐぐれば詳しい説明が出てくるから省くとして、つまりは久保田直己氏のメールに使われた謎の言葉「ぱよぱよちーん」がネット上での流行語となり、やがて「ぱよぱよちーん」と「左翼」とが結び付けられて「パヨク」という言葉ができた。それ以前には「ブサヨ」という言葉があったが、今では死語になっている。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の日記の方にも書いたが、国家主義も社会主義も既に時代遅れなもので、これからは急進的資本主義と多元主義が軸になって世界は動いてゆくのではないかと思う。
 AIとロボットの発達によって、次第に労働者そのものが不要なものとなり、やがては皆が資本家になり労働から解放される素晴らしい時代が来るのではないかと期待している。
 いずれにせよかつての社会主義者が思い描いたような牧歌的な世界とはまた違った、日々ベーシックインカムで遊んで暮らしながら、AIでは思いつかないような面白い発想を競い、それを即ロボットで生産販売し世界に広め一攫千金を目指す、そんな起業家の時代が来るのではないかと思う。

 それはともかくとして「冬木だち」の巻の続き。
 十一句目。

   弭たしむのとの浦人
 女狐の深き恨みを見返りて     蕪村

 「女狐」というと今や世界的に知られるようになったアイドルグループ、ベビーメタルに「メギツネ」(作詞:MK-METAL・NORiMETAL)という曲があるが、そこではキツネとメギツネは区別されている。
 古代より乙女の純粋な夢は様々な現実の中で汚され犯され、恨みの歴史を重ねてきた。メギツネはそんな幾千年の歴史を背負って、涙も見せずに今に息づいている。
 能登の浦人もそんなメギツネの恨みのこもった目にはっと我に帰り、これまでの殺生の罪深さと人生の悲しさに何かを感じ入ったことだろう。中世連歌の、

   罪もむくいもさもあらばあれ
 月残る狩場の雪の朝ぼらけ     救済

や、蕉門の、

 あけぼのや白魚白きこと一寸    芭蕉

に通じるものがあるが、この句は単なる殺生の罪だけでなく、恋の罪も含ませていることで秀逸と言えよう。
 句は、「弭たしむのとの浦人を女狐の深き恨みを見返りて」と後ろ付けになっていて、「て」止めの後ろ付けは古くから容認されている。これを倒置として見れば、「女狐の深き恨みを見返りて、弭たしむのとの浦人(を)」となる。

 十二句目。

   女狐の深き恨みを見返りて
 寝がほにかかる鬢のふくだみ    几董

 「ふくだみ」は「ふくらみ」から派生した言葉だが、毛のそばだったふくらみを意味する。
 前句の「見返りて」を過去をふり返るという意味に取り成したか。いつも恨めしそうな目で見ているメギツネ(に喩えられる女性)も眠れば無邪気な顔になり、鬢のふくだみが顔にかかっているのもアホ毛のようでそそるものがある。
 「鬢」は耳の上あたりの毛をいい、島田髷ではこの鬢の毛を丸く膨らます。男の月代では鬢付け油でカチッと固める。

 十三句目。

   寝がほにかかる鬢のふくだみ
 いとをしと代りてうたをよみぬらん 蕪村

 「いとをし」は「いとほし」であろう。元は「厭(いと)う」から来た言葉で、見るに堪えないという意味が転じて可哀相なという意味になった。ただ、今日の「やばい」がそうであるように、あるいはかつての「いみじ」が忌むべきから凄く良いという意味に転じたように、否定的な言葉の肯定的な言葉への転用はしばしば起こる。「すごい」もそうだった。
 「かはゆし」も気の毒から今のような可愛いに変化しているように、「いとほし」も今の愛しいの意味に変わっていった。
 この句ではまだ変わる前の「可哀相」の意味で、鬢の解けた娘の寝顔を見て、そこからさんざん泣き明かした跡を読み取り、それを不憫に思った誰かが替って歌を詠んで男の元に届けたのだろうか、と付ける。うまくいけばいいが、かえってこじらせて小さな親切大きなお世話なんてことにもなりかねない。
 恋の句は蕉門の場合、第三者的な醒めた視点から、時に茶化されたりしているが、恋の情をこういう風にストレートに詠む風は、蕉風ではなく大阪談林から受け継いだものだろう。

 十四句目。

   いとをしと代りてうたをよみぬらん
 出船つれなや追風(おひて)吹秋 几董

 「いとをし」を恋の情から別離の情へと転じる。「追風(おひて)吹秋」は「秋の追風吹く」の倒置でこの「秋」は放り込みではない。「秋の追風吹く出船はつれなや」という意味になる。連歌のような句だ。

2017年12月6日水曜日

 社会主義は現実には不可能な何処にもない国、不在郷(ユートピア)を求める。そういう意味では浮世離れした蕪村の俳諧は社会主義者には受けがいいのかもしれない。
 桃源郷の甘い夢は疲れた心にノスタルジックな癒しと安らぎを与えてくれるが、それはこの世のものではない。死後の世界の安らぎであろう。

 さて、「冬木だち」の巻は初裏に入る。
 七句目。

   春なつかしく畳帋とり出て
 二の尼の近き霞にかくれ住     蕪村

 「畳帋」は鼻紙としても用いられる。となると、「二の尼」が出てきたところで蕪村なら当然『冬の日』の「狂句こがらし」の巻の十八句目は知っていただろう。

   二の尼の近衛の花のさかりきく
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ    芭蕉

 元は宮廷に仕える女性だったのだろう。何らかの事情で出家して八重葎の茂る荒れ果てたお寺で生活することになり、折から春で宮廷では近衛の花が盛りだとの噂を耳にする。自分自身を蝶に喩え、桜ではなく葎に留まる我が身を嘆き涙ぐむのだが、そこは俳諧で涙ぐむことを「鼻かむ」と表現する。
 高雅な趣向も卑俗な言葉で落とすのが芭蕉の俳諧だ。内容が高雅なままだから卑俗な言葉が却って雅語と同格に高められる。これを「俗語を正す」という。逆に卑俗な内容だと、どんな高雅な言葉を用いても、むしろ雅語を貶めることになる。
 蕪村は「鼻かむ」という言葉は使わない。「畳帋とり出て」で「鼻をかむ」=涙ぐむの連想を引き出そうとするのだが、芭蕉の句を知ってないと見落とす所だ。

 八句目。

   二の尼の近き霞にかくれ住
 七ツ限りの門敲く音        几董

 「七ツ」は申の刻で、日没より少し前、日の傾く頃を言う。電気のなかった時代は大体昼の仕事を終える頃で、ここで終わらないとそれこそ「日が暮れちゃう」。
 お寺のほうも七つで閉門となる。だが、そんな時間に門を叩く音がする。誰だろうかよくわからない。

 九句目。

   七ツ限りの門敲く音
 雨のひまに救の粮やおくり来ぬ   蕪村

 係助詞の「や」が入るので、「救いの粮のおくり来ぬや」の倒置となる。
 雨が止んだのでその合い間に急いで城門から兵糧を運び込む。ただ、「や」と疑っているので兵糧が運び込まれたのだろうか、というニュアンスとなる。
 断定せずに軽く疑う表現というのは連句では珍重される。そのほうが次の句が付けやすいからだ。疑問は反語に、反語は疑問に取り成すことができる。

 十句目。

   雨のひまに救の粮やおくり来ぬ
 弭(つのゆみ)たしむのとの浦人  几董

 「弭」は「ゆはず」とも読む。ゆはずは弓の筈で、筈は弓の両端の弦をかけるところを言う。そこが角でできているものを「つのゆみ」という。
 武士というと今では刀のイメージがあるが、古代の源平合戦の頃の武士は馬に乗り弓矢で戦うのが普通だった。
 お約束で前句の「や」を反語に取り成し、来たのは兵糧ではなく弓矢で狩をする能登の浦人だった。

2017年12月5日火曜日

 そういうわけで、「冬木だち」の巻を読んでいこうと思う。今回も「牡丹散て」の巻のときと同様、小学館の『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』を参考にする。
 「冬木だち」の巻、第三。

   此句老杜が寒き腸
 五里に一舎かしこき使者を労て   蕪村

 上五を「五里に一舎」と字余りにするあたりは天和期の蕉門を意識したのか。ただ芭蕉の「櫓の声波を打つて」「芭蕉野分して」「夜着は重し」のような力強いフレーズでないのは残念だ。
 内容は明和天明期に流行した漢文趣味か、五里行く毎に宿を設けて使者を労い、漢詩を詠んでは「此句は老杜が寒き腸です」と言って捧げる。
 蕪村は「右二句共に尋常の句法にてはなく」と書いているらしいが、これは俳諧の常の体ではないという意味もあったのだろう。『去来抄』に「基(もとゐ)より出ると不出(いでざる)風」という議論があったが、確かに次韻や虚栗の体は基(もとゐ)となる和歌の体ではなく「不出(いでざる)風」には違いない。

 四句目。

   五里に一舎かしこき使者を労て
 茶にうとからぬあさら井の水    几董

 使者への労いはここでは漢詩ではなく茶の湯になる。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「あさら井」は「浅ら井」で浅い井戸。
 詩を茶に変えただけで展開に乏しい。

 五句目

   茶にうとからぬあさら井の水
 すみれ啄(はむ)雀の親に物くれん 几董

 前句の茶に疎からぬ人の位で付けたのだろう。
 「すみれ啄(はむ)」は実際にはスミレの葉についた虫を啄ばんでいるのだろう。虫を取って子雀に運ぶ雀の親に餌をやっているのだろうか。いかにも慈悲深い人という感じだが、蕉門が描き出した庶民のリアルな世界には程遠い。
 蕪村より更に後の時代になると、

 雀の子そこのけそこのけお馬が通る 一茶

の句があるが、この句は身分社会を風刺したような十分リアリティーがある。蕪村の俳諧は庶民の鬱屈したエネルギーをあえて嫌って、絵空事の理想の世界に遊ぶのを特徴としている。芭蕉が「帰俗」なのに対して蕪村が「離俗」だと言われるのはそういうところだ。

 六句目。

   すみれ啄雀の親に物くれん
 春なつかしく畳帋(たたう)とり出て 蕪村

 つまりこういう調子になる。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、畳帋はたとう紙のことで懐紙とも言うらしいが、別に花粉症で花を鴨意図して紙を取り出したのではない。前句の心やさしい人は和歌をたしなむ佳人だという単純な展開。

2017年12月4日月曜日

 今日の明け方、仕事に向う時に西の空に大きな丸い月が見えた。あれがスーパームーンというやつか。日本語にすると「超月」になるのかな。聞いたことのない言葉だが。「ちょーつきじゃん」と言うと何か違う感じがする。日本語って面白い。
 旧暦十月、神無月で冬だから寒月になる。凍月(いてづき)というほどには寒くない。凍月はいてつくからいてづきなのか。英語だとフリーズムーン、尾崎かな。
 冬の月というと真っ先に思い浮かぶのは蕉門ではなく、

 冬木だち月骨髄に入夜哉    几董

だったりして、和語で平たく言えば「骨身に凍みる」ということなのだが、それを漢文風に気負って「月骨髄に入」という所が、明和天明の頃の中国かぶれの粋だったのだろう。とはいえ冬木立を我骨身に見立てて、冬木立の枝の突き刺さる月を「月骨髄に」というあたりはさすがに上手い。
 惟然撰の『二葉集』の超軽みの句に、

 爰(ここ)へ出る筈かよ月の冬木立 淡齋

の句がある。葉が茂ってるときは月が見えるような場所ではなかったのだが、という意味か。
 安永五年刊の『続明烏』のこの句は、安永九年の『桃李(ももすもも)』で歌仙の形を取って収められている。
 以前、「牡丹散て」の巻を読んだ時にも触れたが、この歌仙は興行によるものではなく手紙のやり取りによって作られたもので、即興性のない、熟考による歌仙だった。だから、その場の乗りで笑いを誘うものではなく、むしろ近代的な意味でのコラボレート作品を作ったようなもので、現代連句に近い。
 蕪村の脇は、

   冬木だち月骨髄に入夜哉
 此句老杜が寒き腸(はらわた) 蕪村

だが、ちょっと待った、これって、『俳諧次韻』の、

    鷺の足雉脛長く継添へて
 這_句(このく)以荘-子(そうじをもって)可見矣(みつべし) 其角

に似てないか。「寒き腸」も、

 櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙  芭蕉

ではないか。「断腸の思い」というのを腸を断つとせずに腸が氷るとしたところに新味があったのだが、それを「寒き腸」にしてもかえって「氷る」よりも弱い言い回しになるだけだ。
 蕪村さんは何だか後世に残る歌仙を作ろうと気負いすぎて、企画倒れになってしまったのではないか。其角の句のパクリだけに。

2017年12月1日金曜日

 今年は五月閏ということで芭蕉の最期の年元禄七年を見てきた。ほんの少しだけど、芭蕉の死を見取ったような気がする。
 支考の『前後日記』に、「飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと」とあるのを読んで、点滴のなかった時代はそうだったんだなと思った。今だったら食べなくても点滴で生きながらえることができる。昔は食べ物が喉を通らなくなった時点で、もう終わりだったんだ。
 芭蕉の死を考るあまりに自分の死を意識すると、なんか厭世的になってくる。生まれてから死ぬまで続く、のがれられない生存競争。この世界の片隅に何とか自分ひとり生きてゆける隙間を見つける、たったそれだけのことで人は疲れ果てて、それで戦う意欲を失ったときは死ぬしかないんだろうな。
 人と人とはお互い張り合って、その「張り」が人間存在の空間性だなんて和辻哲郎は言ってたな。お互い生きようとして、頑張って、その緊張関係が人間の世界を形作っている。個と個もそうだし、民族と民族もそうだし、国家と国家もそうだ。適度の張りがあって、世界はうまく動いてゆく。
 社会主義は一つの哲学が支配することで秩序ある世界を作ろうとするが、結局「一つの哲学」なんてものは存在せず、人間の数だけ哲学ができてしまう。それを一つにするのはただ強力な権力。独裁国家だった。独裁国家で生存競争が終わることはない。ただ独裁者の座をめぐって最も過酷な競争が生じるだけだった。飢餓と粛清、それが社会主義の結末だった。
 世界を一つにしようというインターナショナリズムも、結局は特定の民族が他の民族を支配し、強力な権力で争いを封じてただけだった。それがほころんだ時どうなるかは旧ユーゴスラビアがどうなったかを見ればいい。
 生存競争が避けられないなら、それとうまく付き合って、その軋轢を和らげて行くしかない。怒りを笑いに転じてゆくのが俳諧の知恵であり、日本人の知恵だった。独裁国家は例外なく笑いを奪う。笑うことも戦いだ。
 芭蕉のその後は、支考の『前後日記』には、

 「此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曽塚の旧草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉焼香の外に、余哀の者も三百人も侍るべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 其角の『芭蕉翁終焉記』には、

 「物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・寿貞が子治朗兵衛・予ともに十人、笘もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、‥‥」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)

とある。
 『源氏物語』の時代でも京都から舟であっという間に須磨まで移動したが、上方の海運は古代から受け継がれていたようだ。芭蕉の遺体も一晩で伏見に着き、翌日には大津の義仲寺に辿り着いた。そこで葬儀が行われ、三百人もの人が集まったという。やはり芭蕉は当時の大スターだった。笑いは世界を救う力がある。みんなそれを知っている。
 ということで〆にして、次回からは気分を変えたいものだ。