2017年11月11日土曜日

 注文していた『花屋日記』(小宮豊隆校訂、一九三五、岩波文庫)が届いた。先日、やぶちゃんの電子テキストより引用した『笈日記』の中の芭蕉終焉記に相当する「前後日記」がこの本を基にしているというので、早速検索して取り寄せた。この鈴呂屋俳話もたくさんのネット上の見も知らぬ人たちの協力の上に成り立っていて、とにかくみんなに感謝します。ウィキペディアにもそろそろお金払った方がいいかな。
 この本はいわゆる偽書で、「此道や」の巻の興行が九月二十一日になってたりする。
 この本の一番の見所は十月十一日、芭蕉の死の前日、門人たちが集まって夜伽(よとぎ)の句を詠ませた場面だろう。
 『去来抄』「先師評」に、「さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此一句のミ丈草出来たりとの給ふ。」とあるその場面だ。「出来たり」というのは、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

の句だった。
 この時の、

 しかられて次の間へ出る寒さ哉   支考

の句だけが異質で、「おい支考、一体何やらかしたんだ」って感じだったが、『花屋日記』では上手く辻褄を合わせて一つのストーリーを作っている。まあ、所詮は見てきたような嘘なのだが。
 そういうわけで、一人では何も出来ない筆者が、会ったことのないたくさんの人たちの協力を得ながら、今日も「此道や」の巻の続きを行きたいと思います。

 四句目

   月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て
 小き家を出て水汲む        游刀

 游刀は膳所の能役者だという。月白む頃に家を出て水を汲みに行く。小さき家は貧しい家の人なのか、それとも隠遁者かと想像を掻き立てる。

 五句目

   小き家を出て水汲む
 天気相羽織を入て荷拵らへ     之道

 前句の人物を商人と見ての位付けだろう。天気の具合を案じながら、羽織を一枚入れて荷支度する。

 六句目

   天気相羽織を入て荷拵らへ
 酒で痛のとまる腹癖        車庸

 車庸は大阪の商人で、元禄五年に『己が光』を編纂している。
 前句の商人を酒飲みと見ての展開。
 YAHOO!知恵袋に「胃が痛い時にお酒を飲むと治ることがあるのですがなぜでしょうか?」というのがあったので、実際こういう人はいるようだ。
 また、zakzakの記事で、「不思議なもので、酒を飲むと痛みも消えるので」というのが実は胆のう炎だったというのもあった。
 酒で痛みが止まるのは単に酔いに紛れているだけで、深刻な病である可能性もあるので注意しよう。

 初裏
 七句目

   酒で痛のとまる腹癖
 片づかぬ節句の座敷立かはり    酒堂

 酒で腹痛を紛らわしているのは、節句の座敷に入れ替わり立ち代り客がやって来るせいで、いろいろ気を使って胃は痛くなる。痛くなった胃を次の客との酒で紛らわす。これじゃ体に良い分けない。

 八句目

   片づかぬ節句の座敷立かはり
 塀の覆にあかき梅ちる       畦止

 畦止も大阪の人。芭蕉も滞在している。
 前句の節句を正月として座敷の塀に散る紅梅を添える。

 九句目

   塀の覆にあかき梅ちる
 線香も春の寒さの伽になる     惟然

 「梅散る」を人が亡くなった暗示としての展開だろう。一人仏前に向えば線香の煙に仏様の方から「元気出せよ」と慰められたような気分になる。

 十句目

   線香も春の寒さの伽になる
 恵比酒の餅の残る二月(きさらぎ) 亀柳

 亀柳についてはよくわからないが、大阪の人のようだ。
 恵比寿の餅というのは正月の十日恵比寿の餅のことか。二月になれば黴だらけだろうな。昔は黴の生えた餅でも平気で食ってた。
 これで一応全員一句づつ詠んだことになる。

2017年11月10日金曜日

 昨日の続き。
 さて、その元禄七年九月二十六日の興行だが、江戸の泥足が『其便』の編纂をやっている頃、たまたま大阪に来ていることを知って尋ねていって実現した半歌仙興行だった。
 『其便』には次のような前書きがある。

 「此集を鏤(ちりばめ)んとする比、芭蕉の翁は難波に抖擻(とそう)し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半歌仙を貪り、畦止亭の七種の恋を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」

 「抖擻」は「ふるえている」ということ。病気で苦しんでいるという意味か。
 「七種の恋」は芭蕉、泥足、支考、惟然、酒堂、之道、畦止の七人がそれぞれ漢語の題で故意を詠むという趣向で行われたもので、芭蕉は、

   月下送児
 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

とあえて男色を詠んでいる。やはり噂通りそういう趣味の人なのか、それとも女色を詠むことに照れがあってホモネタに逃げているのか、定かではない。
 この時芭蕉の体調はかなり悪化していたと思われる。晴々亭の興行が半歌仙で終わったのも、体力的な問題があったと思われる。翌二十七日には園女亭で歌仙興行が行われるが、これが芭蕉の最後の俳諧興行となる。
 泥足は、芭蕉の、

   所思
 此道や行人なしに秋の暮      芭蕉

の発句に脇を付ける。

   此道や行人なしに秋の暮
 岨(そば)の畠の木にかかる蔦   泥足

 ここは余り発句の情を深く受け止めてしまうと重くなり、興行の始まりから暗い気分になりそうなので、あえて情を突き放して付けたのだろう。
 行く人のない道に山奥の情景を付け、そこに暮秋の蔦の紅葉を添えている。四つ手付けの句だ。
 次に支考が第三を付ける。

   岨の畠の木にかかる蔦
 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て  支考

 畠から蕎麦のこぼれ種が花をつけて、それを月が照らし出している美しい情景を付け、そこに鳥が寝てと付け加える。この頃の支考は本当に天才だ。
 「岨の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞にもなっていないし、取り成しにもしていない。ただ何となく繋がっているあたりがやはり一種の「匂い」なのか。
 「牛流す」の巻の六句目

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち    支考

の「つと」→「つつみ」、「下がる」→「おりて」の縁にも似ている。

2017年11月9日木曜日

 昨日雪が降ったのか、今日の富士山は雪をかぶっていた。前は南は少なく北は多く、斜めに雪が積もっていたが、今日の雪は平行で絵に描いたような富士山だった。
 今日は旧暦九月の二十一日で、確実に冬に近づいている。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)には『芭蕉最後の連句、解説』という、「柳小折」「牛流す」「猿蓑に」「白菊の」の四つの歌仙を収めたPDFをアップしたのでよろしく。古典文学関係の連歌の下の方にあります。
 さて、『芭蕉書簡集』(萩原恭男注、一九七六、岩波文庫)の元禄七年九月二十三日付の意専(猿雖)・土芳宛の書簡に、この句が最初に登場する。

   秋暮
 この道を行人なしに秋の暮    芭蕉

 二日後の曲翠(曲水)宛書簡にも、この句は登場する。

 「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に
   秋の夜を打崩したる咄かな
   此道を行人なしに秋の暮
 人声や此道かへる共、句作申候。」

と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。
 この別案についてはその後各務支考の『笈日記』(やぶちゃんの電子テキストより引用)に、

 「廿六日は淸水の茶店に連吟して、泥足が集の俳語あり。連衆十二人。
  人聲や此道かへる秋のくれ
  此道や行人なしに龝の暮
 此二句の間いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半とて、是に、所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。爰にしるさず。」

というように記されている。

 人声やこの道かへる秋のくれ
 この道や行人なしに秋の暮

の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。
 これは支考が後から書いたもので、興行の時にはすでに「此道や」の形になっていたが、多分どっちが良いか尋ねられた時にはまだ「此道を」の形だったのではないかと思う。
 芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。
 半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際には連衆は十人だった。もしかしたら主筆を含め、句を詠まなかった二人がいたのかもしれないが、確証はない。
 さて、この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句になる。
 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
 その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
 それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 人声やこの道かへる秋のくれ   芭蕉

 私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
 それに対し、

 この道や行人なしに秋の暮    芭蕉

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
 支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。

2017年11月7日火曜日

 立冬だけど俳諧のほうではまだ九月十九日で秋。秋ももう終わりに近い。
 昔の人は季重なりにこだわらなかった。そのため、狼も秋に詠むこともある。昨日はついつい見落としていたが、

    すさまじき女の智恵もはかなくて
 何おもひ草狼のなく   野水

の句は「おもひ草」が秋なので秋の句となる。
 秋の狼は露川撰の『北國曲』にも、

 狼の足跡さびし曼珠沙花    露竹

の句がある。
 秋の梟の句も、以前紹介した許六撰『正風彦根体』の、

 梟の世を昼にして月見かな   希志

もあるが、他にも『杜撰集』に、

 ふくろうの鳴音に落る熟柿哉  百花

の句がある。
 『一幅半』にも、

 梟を布袋のやうにわたり鳥   乙由

の句がある。梟を渡り鳥と間違えたのだろうか。秋に渡ってくる渡り鳥たちを七福神に喩えれば、布袋さんはフクロウというところか。
 『鵲尾冠』の、

   此鳥昼は諸鳥に笑はれ不出
 木兎や見ぬ葛城の神の顔    梅振

の句も秋の所にある。
 葛城の神といえば芭蕉の『笈の小文』にも、

   葛城山
 猶みたし花に明行神の顔    芭蕉

の句がある。
 葛城の神、一言主神はいわゆる異形だったのだろう。「顔が醜いから」というのは役の行者に使役されるのがいやだったから、仕事をサボる言い訳で使ってたのだろう。
 ただ、宮廷では夜にしかお目にかかれない女を「葛城の神」と呼んでたりしたから、中世の謡曲になるといつの間にか葛城の神は女神になってしまったようだ。芭蕉が「猶みたし」というのは本当は美人なんじゃないかと思ったからだろう。美人だけど歳とってちょっとやつれた感じが多分芭蕉の壺だと思う。

2017年11月6日月曜日

 昨日は三峰に行った。天気も良く紅葉も見頃だった。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/ )の「牛流す」の巻を若干書き直した。芭蕉晩年の俳諧を集めたPDFも準備中。『炭俵』の四歌仙、水無瀬三吟、湯山三吟、文和千句第一百韻のPDFが公開中。

 三峰といえば狼だが、狼は冬の季語になっている。

 狼の声そろふなり雪のくれ    丈草

のように、昔は狼の遠吠えが普通に聞こえたりしたのだろう。
 『韻塞』には、

 狼の道をつけたる落ばかな     程己
 狼のかりま高なり冬の月      奚魚

の句もある。「かりま高なり」はよくわからない。
 『猿蓑』には、「灰汁桶の」の巻ニ十四句目に、

   すさまじき女の智慧もはかなくて
 何おもひ草狼のなく       野水

の句もある。前句の「すさまじき」は女の物思いと狼の遠吠えの両方に掛かる。
 いずれにせよ、狼の声は冷え寂びた哀れで悲しげな響きとして聞かれていたのだろう。

2017年11月3日金曜日

 一昨日が十三夜だったから昨日は十四夜で今日は十五夜。別に十三夜に劣るわけではない。満月は明日らしい。
 昼は世田谷の方を散歩した。世田谷線の猫の電車を見た。経堂は農大の収穫祭で盛り上がっていた。後藤醸造の経堂エールを飲んだ。行列の出来るたい焼き屋の隣にある。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の方には「猿蓑に」の巻をアップした。「牛流す」の巻の六句目がないのに気づき、それも加えた。

 今日はまた連歌の付け筋に戻ってみようとおもう。
 今の連句では句が付かなくても誰も問題にしないし、むしろ付いてはいけないと思っている節もあるから、付け筋なんて誰も興味はないのかもしれない。
 しかも、今は興行ではなく、ネットでやる場合でも一日一句くらいのペースでやっているから、句をその場ですばやく即興で付けるということをしない。
 かつては興行の場で、特に古い時代は百韻が普通だったから、みんなが考え込んでしまって先に進まなくなる事を嫌った。だから、付け筋をいくつか覚え、さして内容の意味の深さにはこだわらず機械的に句を付けて切り抜けることも大事だった。いわゆる「遣り句」ができて一人前という世界だ。芭蕉も三十六句遣り句でもいいと言っている。
 梵灯の『長短抄』の「救済、周阿一句付」と呼ばれる、前句付け的な遊びに、

   春夏秋に風ぞかわれる
 雪のときさていかならむ峯の松   侍公
 花の後青葉なりしが紅葉して    周阿

 の句がある。「侍公」は救済(きゅうせい)の別名。

 「春夏秋」に対して冬の雪のときを持ってきて、意味の上できちんと通じるようにするのは違え付けになる。
 これに対し、「春」に「花」、「夏」に「青葉」、「秋」に「紅葉」を付けるのは四つ手付けになる。こういう付け筋を理解していると、難しい前句をふられても、すぐに付けることができる。
 『去来抄』にある芭蕉の、

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて   はせを

は秋の蓮の実から花の定座に持ってゆくつけ方で、秋に春をつけるため、基本的には「違え付け」か「相対付け」になる。
 対句的な「相対付け」ではなく、「違え付け」にする場合、上句下句合わせて意味が通るようにするには時間の経過を句に盛り込まなくてはいけない。この場合は「かたぶきて」が春から秋までの時間の経過を表す。

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ      はせを

の句も同様だ。この場合は時間ではなく「出つ入つ」が空間の移動を表すため、樫の木の森と咲く花を共存させることができる。
 救済の「雪のときさていかならむ峯の松」の句も、春夏秋に対して「さていかならむ」とすることで、これからの時間の経過を表している。
 一條兼良の『筆のすさび』では、この、

   春夏秋に風ぞかわれる
 雪のときさていかならむ峯の松   侍公

の句が、

   春夏すぎて秋にこそなれ
 雪の比またいかならん峯の松    救済法師

になって、別の付け句を試みている。多分、当時は紙が高価だったため、口承で伝えられた句を記すことが多く、こういう異同が生じたのであろう。
 兼良の付け句は、

   春夏すぎて秋にこそなれ
 実をむすぶなしのかた枝の花の跡
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに
 都出て幾関こえつ白河や

の三句だ。
 「実をむすぶ」の句は「春夏すぎて」に「花の跡」、「秋にこそなれ」に「なし」と四つ手に付いているから、周阿の句に近い。
 「毛をかふる」もまた鷹の換羽を「秋にこそなれ」に付けている。
 「都出て」は、

 都をば霞とともに立ちしかど
     秋風ぞ吹く白河の関
               能因法師

を本歌とした付けになる。
 他の付け筋はないだろうか、ここでもう少し考えてみよう。
 たとえば「咎めてには」で付けられないだろうか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 なべて世はうつろふものと心せよ

 「春夏秋」の時間に対し空間に違えて付けられないか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 もろこしもやまとも人はそれぞれに

 周阿の「花の後青葉なりしが紅葉して」を「花」「青葉」「紅葉」をそれと言わずに匂いで付けられないか。

   春夏秋に風ぞかわれる
 酒を酌み涼みし木々も空見へて

 別に句としての優劣というのではなく、本来連歌というのはいろいろな展開の可能性を試すゲームだったのではないかと思う。

2017年11月1日水曜日

 今日は十三夜で月がよく見える。ようやく天候が安定してきた。公孫樹は黄色くなっている所と緑のままの所が極端だったりする。
 今回は日本人の霊性について考えてみようと思うが、別にそんなに難しいものではない。基本的には多神教のまま近代化したため、神話や神の名は忘れてしまったが多神教の多元性原理だけは残っているという状態だ。
 多元性原理というのは簡単に言えば唯一絶対の物はないということだ。その点では一神教原理と真逆にある。
 唯一絶対の物はないということは、人間はもとより皆不完全だし、人間の理性や思考も完全なものではないから、どんな思想も絶対的なものではない。多神教の場合神様もまた完全ではない。だからどんな宗教も完全ではない。
 完全なものがないから、崇拝の対象としての絶対者は存在しない。日本人が自分の宗教のことを聞かれ、多くの人が「無宗教」と答えるのは、キリスト教のような絶対的な神を信じていないという意味で言っているだけで、神社へ行けば柏手を打ち、お寺へ行けば合掌する。
 絶対的なものがないから、一つの考え方の押し付けは日本では嫌われる。みんなそれぞれある一面では正しくて一面では間違っていることを認め合いながら、お互いに譲り合い妥協しあう。それが日本人のやり方だ。パヨクが嫌われるのも、彼らは一方的に自分の主張を押し通そうとする所があるからだ。
 とにかく自分が不完全であることを認め、謙虚さと慎みがこの国では求められる。
 同じ多神教でもインドではヒンディーの神々や神話が生きているのに対し、日本の多神教がなぜ神話や神の名を失ってしまったかというと、それは古代にまで遡ることができる。
 元来日本列島には縄文人が住んでいたが、中国の長江の下流域、いわゆる江南地方から海流に乗って様々な人間が断続的にやってきた。中国の漢書に登場する江南の倭人も日本人の祖先の一つと思われる。
 万葉の時代には秦人(はたひと)、漢人(あやひと)、呉人(くれひと)、越人(こしひと)、隼人(はやひと)など様々な人が登場する。それに加えて百済や高句麗の難民(いわゆる帰化人と呼ばれる人たち)が多数流入し、多民族の混然とした状態になっていた。
 記紀神話は当時の人たちに伝わるそれぞれの神話を統合した統一神話の試みだったと思われる。ただ、神道はこの神話を教義とすることもなく、その後も八幡神社や高麗神社、白山神社などの渡来系の神社が加わって、神話は結局統一されることなく、神道は結局教義や戒律のない宗教として多様なまま相対化されていった。
 一定の教義や戒律を持たないことで、日本の多神教文化は閉じた体系の宗教ではなく、常に新たな神々へと開かれた多神教という形を取るようになった。神道は仏教と習合したし、儒教も取り入れた。そんな開かれた多神教文化が近代化の際、キリスト教を取り込むことにも何の抵抗もなかった。ただ、多神教の一部として取り込まれただけで、日本は韓国や中国と比べてもキリスト教徒の数は少ない。キリスト教にとって最も難攻不落な土地だった。
 クリスマスやハローウィンは大騒ぎしてくれるけど、決してキリスト教を信じてはいない。多分イースターもだんだん日本に浸透してくるだろう。ただクリスチャンにはならない。日本の多神教的風土の中に取り込まれるだけだ。
 他所の国の人は日本は不思議な国だと思うかもしれない。ただ、ここには絶対的なものは何もないんだということを理解すれば、多少はわかりやすくなるだろう。
 絶対的なものを求めない日本人は、永遠の命も求めない。イワナガヒメではなくコノハナサクヤヒメを選んだ日本人は、限りある短い命を生きることを選んだ。『竹取物語』も本来はそういう物語だった。