2017年1月20日金曜日

 今日は雪の予報もあったが、ほとんど降ることもなかった。
 それでは「空豆の花」の巻の続き。初裏に入る。

七句目
   どたりと塀のころぶあきかぜ
 きりぎりす薪の下より鳴出して  利牛
 (きりぎりす薪の下より鳴出してどたりと塀のころぶあきかぜ)

 前句を古くなって横倒になった塀とし、人住ぬ荒れ果てた家に放置された薪の下ではキリギリス(今でいうコオロギ)が鳴き出して、しみじみ秋を感じさせる。

季題は「きりぎりす」で秋。虫類。鳴く虫は通常夜分で、打越に月があるため輪廻になるが、難かしい展開のところなので流したのだろう。コオロギは別に昼に鳴いていてもいい。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「虫ハ夜分にして差合を繰べからずとハ、鳴くことの夜分に限らざれバならし。爰に後句の働を賛せざらんや。」とある。

八句目
   きりぎりす薪の下より鳴出して
 晩の仕事の工夫するなり     岱水
 (きりぎりす薪の下より鳴出して晩の仕事の工夫するなり)

 夕暮れてコオロギの鳴きだす頃、薪を割ったりくべたりしながら、夜の仕事のことを考えている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「仕事ハ薪に用あり。」とある。薪に仕事が付くといっても良いだろう。薪という体に仕事という用を付ける物付けになる。

無季。「晩」は夜分。

九句目
   晩の仕事の工夫するなり
 妹をよい処からもらはるる    孤屋
 (妹をよい処からもらはるる晩の仕事の工夫するなり)

 妹が良家に嫁に行くことが決まったが、それには相応の婚資もいれば衣装もいる。嬉しいけど頭の痛いことでもある。

無季。「妹を‥‥もらはるる」は恋。「妹」は人倫。

十句目
   妹をよい処からもらはるる
 僧都のもとへまづ文をやる    芭蕉
 (妹をよい処からもらはるる僧都のもとへまづ文をやる)

 これは恵心僧都(えしんそうず)の面影。恵心僧都は天台宗の僧、源信(九四二~一○一七)のことで、横川の僧都とも呼ばれ、『源氏物語』「手習い」に登場する横川の僧都のモデルと言いわれている。光源氏の子薫(かおる)と孫の匂宮(においのみや)との三角関係から身投みなげした浮船(うきふね)の介護をし、かくまっていた横川の僧都こそ、恋の相談にふさわしい相手。妹の良縁も真っ先に知らせなくては、ということになる。
  晩年の芭蕉は「軽み」の体を確立して、出典にこだわらない軽い付けを好んだが、源氏物語ネタは昔からの連歌・俳諧の花であり、嫌うことはなかった。このことは『去来抄』にも、『猿蓑』の撰の時、物語の句が少ないと言って

 粽(ちまき)結ふかた手にはさむ額髪(ひたひがみ) 芭蕉

の発句を新たに書き加えたエピソードからもうかがわれる。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「ココニ僧都ト出セルは、活法ト可言。但、余情ハ恵心僧都ノ妹ノ面影ナルベシ。」とある。
 出展を知らないと意味が通りにくいような付けは「本説」で、「面影(俤)」という場合は、出典を知らなくても一応の意味が通るが、知っているとより味わい深いものになるような、出典に必ずしも依存しない付け方を言う。

無季。「僧都」は人倫(僧都は案山子を意味する場合があり、その場合は非人倫となる)。釈教。「文をやる」は恋。

十一句目
   僧都のもとへまづ文をやる
 風細う夜明がらすの啼きわたり   岱水
 (風細う夜明がらすの啼きわたり僧都のもとへまづ文をやる)

 出典のある句が困るのは、「僧都」を出した時点でイメージが『源氏物語』の横川の僧都に限定され、展開が重くなることだ。そのため、「軽み」の風では好まれなくなった。
 出典には別の出典でというのが一応の定石。ここは中世歌壇を代表する頓阿法師(とんなほうし)が小倉で秘会を催すことを兼好法師に知らせるために、深夜に使いを出して、明け方に横川の兼好法師のもとに到着したという古事による。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「前句夫々ヘモヤレド、遠キ兼好僧都の許へ先文をやる体ト見立、夜深の様を付たり。風細う夜明烏の鳴渡トハ、兼好のござる横川へハ、小倉の頓阿の許より余程あれバと、夜深に支度させれど、此使臆病にて猶予のうち、漸明けれバいざと出ゆく様也。」とある。
 もちろん、出典と関係なく、単に景色を付けて流した「遣り句」と見てもいい。そこはあくまで面影。

無季。「夜明」は夜分。「からす」は鳥類。

十二句目
   風細う夜明がらすの啼きわたり
 家のながれたあとを見に行    利牛
 (風細う夜明がらすの啼きわたり家のながれたあとを見に行)

 風も細くなって嵐も去り、夜も明け、ようやく家の流された跡を見に行く。洪水の中を必死に逃げた昨日のことが思い出される。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「雨も漸く晴たるふぜいと見たらん。明侍かねてどやどや出るあんばい自然いふべからず。」とある。
 「雪の松」の巻に、

   粟をかられてひろき畠地
 熊谷の堤きれたる秋の水     岱水

の句がある。元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、このころはまだそのときの記憶が鮮明だったのだろう。

無季。「家」は居所。「ながれた」は水辺。

2017年1月19日木曜日

 パーマ大佐という芸人のことは、正直今朝のニュースを見るまでまったく知らなかった。「森の熊さん」の歌詞が少し紹介されていた。
 まず、これは替え歌ではない。替え歌というのは元歌のメロディーに違う歌詞をつけるもので、これは元歌の一番、二番、三番、四番、五番のそれぞれの間にオリジナルの歌を挿入したもので、むしろヒップホップのサンプリングの手法に近い。
 「森の熊さん」という童謡は、昔からなぜ熊さんが「お逃げなさい」と言ったのか謎とされてきた。襲う気がないなら逃げるように指示する必要もないし、襲う気だったらわざわざ逃げろとは言わない。謎があるからそこに創作意欲が刺激され、色々なパロディーを生んできた。
 想像力を掻き立て新たな創作を刺激するという意味では、この童謡の歌詞は良く出来ているし、それが長くこの歌が親しまれてきた理由なのかもしれない。
 パーマ大佐の「森の熊さん」もこの謎から触発された創作の一つで、「森の熊さん」の歌詞に一つの合理性を与えようとしている。「そこにやってきた警察」から二番の「お逃げなさい」へのつなぎ方は連歌の手法にも近い。まあ、だからこの風流日記で取り上げるわけだが、

 お嬢さんお逃げなさいと熊さんが

という句に付け句をすると考えればいい。

   お嬢さんお逃げなさいと熊さんが
 そこにやって来たのは警察

これで十分付け句になる。こんな感じで、

   後ろからところが熊さんついてくる
 力尽きてもまた蘇えり

   お嬢さんちょっと待ってよ落し物
 伝えたいことあって追いつく

   ありがとうお礼に熊さん歌いましょう
 おっとここはさすがにネタバレになるので‥‥

 連歌も俳諧も、基本的に前句に人格はない。どのように取り成すのも自由というのが基本になっている。表記する時も前句の作者名は記さないのが普通だ。このブログでも一貫してそうしている。
 発句に限っては脇を付けるときは必ず和すようにという習慣になっているから、和すつもりがない場合は発句で返す。

 草の戸に我は蓼くふほたる哉  其角

に対し、

 朝顔に我は飯食ふ男哉    芭蕉

と返したのがそれだ。
 連句の復活の難しさは、特に老いた文学者には著作権厨が多いということもあるのかもしれない。下手に取り成すと「作品の人格権の侵害だ」なんて怒り出されたのでは恐くて付け句なんてできない。
 様々な創作を刺激する文学というのは、それだけ傑作の証しであり、駄作はパロディーにすらならない。そして、そうやって想像力が刺激され、様々な新たな創作を生み出す中で、良いものが残り、つまらないものは忘れ去られることで、文学や芸術は進歩していくのだということは忘れないで欲しい。

2017年1月18日水曜日

 今日もあちこちで梅の花を見た。早咲きの梅は紅梅が多い。
 以前「ゆきゆき亭」にアップしていた「空豆の花」の巻の書き直しを始めた。まず表六句。

発句
   ふか川にまかりて
 空豆の花さきにけり麦の縁(へり)  孤屋(こをく)

 元禄七年(一六九四)初夏、深川芭蕉庵での興行の発句。このすぐあと五月十一日には芭蕉は西へと最後の旅に出る。
 初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。
 ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
 この句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「まかりハ、あなへゆくに用る詞。まうでハ、此方へ来る事に用る詞。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「都へハ参といひ、鄙へハまかるといふ。」とある。

季題は言葉はなくても内容からいえば「麦秋」で夏。「豆の花」という春の季題があるが、ここでは麦秋の風景であるため、句全体として夏の句となる。「空豆」「麦」はともに草類。
 連歌や蕉門の俳諧は実質季語で、句全体の内容から季節を判断する。これに対して近代俳句は「季語」が使われていればほぼ自動的に一定の季節に分類される形式季語で、そのため季重なりがあったときにも、実質的な季節で判断せずに自動的に判断するため混乱が生じる。そのため近代俳句では季重なりに対して厳しくなる傾向にある。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「蚕豆(そらまめ)は夏季、其花は春季のもの、麦は夏季のものなれども、冬の播種より長く畠に在り。されば此句空豆の花とあるに、季の春、夏おぼつかなしと難ずる者あり。されど蚕豆の花、夏猶ほ咲くあれば、麦の縁とあるにかけて、夏季の句なることに論無し。」とある。近代俳句の立場から「季の春、夏おぼつかなし」という人も多かったのだろう。
 芭蕉の時代より一世紀くらい後だが、

 そら豆やただ一色に麦のはら  白雄

という句がある。


   空豆の花さきにけり麦の縁
 昼の水鶏(くひな)のはしる溝川   芭蕉
 (空豆の花さきにけり麦の縁昼の水鶏のはしる溝川)

 クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、珍しいお客が芭蕉庵に尋ねてきてくれたことの寓意としている。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「発句ニ珍シカル体有ヨリ、昼ノ水鶏ト珍ラシク言テ其姿ヲ附タリ。」とある。

季題は「水鶏」で夏。水辺、鳥類。「溝川」も水辺。

第三
   昼の水鶏のはしる溝川
 上張(うはばり)を通さぬほどの雨降て  岱水(たいすい)
 (上張を通さぬほどの雨降て昼の水鶏のはしる溝川)

 水鶏が昼に出てきたのを、雨で行く人も稀だからだとする。そんな雨の中、上張を羽織って行く人は旅人か。
 『梅林茶談』(櫻井梅室著、天保十二年刊)には「卯月の空あたたなるに、小雨ふりかかりたる野路を過る旅人のさまなるべし。」とある。上に羽織るものを一般に上張りというなら、旅人の着る半合羽も含まれるのか。

無季。「上張」は衣装。「雨」は降物。

四句目
    上張を通さぬほどの雨降て
 そっとのぞけば酒の最中     利牛(りぎう)
 (上張を通さぬほどの雨降てそっとのぞけば酒の最中)

 前句の「上張を通さぬほど」はここでは雨の状態を表す単なる比喩になる。外は雨が降ってるので仕事も休み、家の中で密かに酒を飲んでいる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「静なる日をたのしミ居たらん。そっとの語余情あり。」とある。

無季。

五句目
   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月そっとのぞけば酒の最中)

 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。何だ、みんな酒を飲んでいたか。七夕の頃の宴の句。
 土芳の『三冊子(さんぞうし)』(元禄十五年成立)には、「前句のそつとといふ所に見込て、宵からねる体してのしのび酒、覗出だしたる上戸のおかしき情を付けたる句也。」とある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「打よりて遊びうかれてあるくなど、七夕頃の夜ルの賑ひとも広く見なして趣向し給ひけん。」とある。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「寝処(ねどころ)」は居所。「誰」は人倫。

六句目
   寝処に誰もねて居ぬ宵の月
 どたりと塀のころぶあきかぜ   孤屋
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月どたりと塀のころぶあきかぜ)

 前句を若い衆のみんな遊びにいってて誰もいないとし、塀が倒れて起こさなくてはいけないのにという、主人のぼやきとした。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「折あしく事ある体、附合の死活を考ふべし。」とある。
 秋風で塀が倒れたのではなく、古くなってた塀が倒れて秋風が吹き込んできたと見たほうがいいと思う。月が出てみんな浮かれ歩いて留守なのに野分の風は無理がある。
 今日だと漫画アニメなどの温泉回のお約束の場面も浮かぶが、昔の風呂は混浴が普通だったのでそれはない。ただ、酔って暴れまわったり相撲を取ったりして塀が倒れたというのはあるかもしれない。

季題は「秋風」は秋。「塀」は居所。

2017年1月17日火曜日

 寒い日が続くけど、早咲きの梅はもう咲いている。まだ旧正月が来てないから、寒梅ということになる。
 冬の梅というと、

   寒梅
 梅一輪一輪ほどの暖かさ   嵐雪

の句がかつては有名だった。百里編の『東遠農久(とおのく)』の句で、歌仙の発句で、脇は、

   梅一輪一輪ほどの暖かさ
 海鼠腸覗く後明りに     百里

だったという。(『蕉門名家句選(上)』堀切実編注、一九八九、岩波文庫)
 海鼠腸(このわた)はナマコの腸で作った塩辛だとウィキペディアに書いてあった。海鼠(ナマコ)と同様、冬の季題になる。
 嵐雪というと、

   東山晩望
 蒲団着て寝たる姿や東山   嵐雪

の句もかつては有名だった。小学校の頃父に連れられて京都へ行ったときに聞いた句で、特に俳句に興味のあるわけでもない親父が知っていたのだから、昔は誰もが知ってる句だったのだろう。
 今のような四角い掛け蒲団が普及したのは江戸時代の後期で、嵐雪の時代の蒲団というのは綿を入れた夜着のことで「着る」ものだった。冬の季題になる。南北に細長い東山は蒲団着て横たわっている人の姿に見えたのだろう。芳山編『枕屏風』の句。
 今は旧暦では年の暮。

   五十ばかりの古猫の鼠もとらずなりて、
   常にいろりに鼻さしくべて冬籠りたり、
   なまじい南泉の刀をのがれたるを、身の
   幸にして今年も暮ぬ
 いづれもの猫なで声に年の暮  嵐雪

 浪化・万子・支考編『そこの花』の句。
 「南泉の刀」は禅の書『無門関』の「南泉斬猫」から来ている。こういう出典のある言葉をひけらかすのは其角・嵐雪の風で、芭蕉の晩年の軽みに反発し、疎遠になって行ったという。
 自分自身を猫に例えている嵐雪は猫好きのように見えるが、実は嵐雪の妻が猫好きで、嵐雪がそれが面白くなくて猫をどこかに隠したら、妻が、

 猫の妻いかなる君の奪ひ行く

と詠んで、隣の女が事情を告げ、夫婦仲が険悪になったという前歴がある。竹内玄玄一著の『俳家奇人談』に記されている。きっとそのあとで結局猫好きになったのだろう。
 其角のミミズク、嵐雪のネコ、似たもの同士なのか。

2017年1月15日日曜日

 さてついに「雪の松」の巻の最後の三句となった。今回も「ゑびす講」の巻、「むめがかに」の巻同様、鈴呂屋書庫蕉門俳諧集にアップしたのでよろしく。

三十四句目
   約束にかがみて居れバ蚊に食れ
 七つのかねに駕籠呼に来る  杉風
 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ七つのかねに駕籠呼に来る)

 七つは寅の刻で夜もまだ明けぬ頃、夏なら午前三時過ぎくらいか。「お江戸日本橋七つ発ち」というくらいだから、昔の旅人はこれくらいの時間に宿を出たのだろう。七つの鐘のなる頃に呼びに来たのだが、仕度に時間がかかっているのかなかなか出てこない。待っているうちに蚊に刺されてしまったということで、前句の恋から駕籠かきあるあるに転じる。
 次は花の定座。杉風さんのことだから駕籠に乗って花見にという展開も考慮してか。
 わかりやすい句で問題はない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)の「呼ニヤルマデココニ待テト、駕籠ノモノヲ待セオクニ、蚊ニクハレナドシテ困リタルヲ、今ハハヤ七ツト云ニ呼ニ来シ也。」がわかりやすい。

無季。

三十五句目
   七つのかねに駕籠呼に来る
 花の雨あらそふ内に降出して   桃隣
 (花の雨あらそふ内に降出して七つのかねに駕籠呼に来る)

 七つの鐘は朝だとまだ夜も明ける前で花見に行くには早すぎる。ここは春でも申の刻、午後四時頃の鐘に取り成す。となると、花見の帰りの駕籠ということになる。昔は不定時法なので季節によって今の定時法の時刻より早くなったり遅くなったりした。
 花見で酒が入れば酔って喧嘩になることもあったのだろう。あるいは雨が降りそうなので帰る帰らないで言い合っていたか。つかみ合いわめき散らしているうちに雨が降りだして喧嘩は水入り。さあ帰ろうということでもう日が暮れかかったころに駕籠を呼びにやる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろ附なり。○花見の迎駕に附なして後の七ツに転ぜり。」とある。「うしろ附」という言葉は江戸後期になって作られた言葉ではないかと思う。
 本来短句に長句を付ける場合は後ろ付けになり、「て」止めのとき以外は前づけにするほうが特殊だったのだが、蕉門も軽みの頃には「後ろ付け」は附けにくいというので長句を付けるときにも前付けが多くなったのだろう。
 そして、幕末ともなると、もはや上句下句合わせて和歌にするという意識が薄れて、「二句一章」などという言葉が生じてきたのだろう。現代連句は完全に一句独立の連想ゲームになっているが、その根は既に芭蕉の軽みの時代に始まっていたのかもしれない。。

季題は「花」で春。植物。木類。「雨」は降物。

挙句
   花の雨あらそふ内に降出して
 男まじりに蓬そろゆる    岱水
 (花の雨あらそふ内に降出して男まじりに蓬そろゆる)

 よもぎ餅は貞享五年(一六八八)刊の『日本歳時記』(貝原好古著、貝原損軒删補)にも記されているという。もちろんヨモギは普通に食用にもなっていたし、薬用としても用いられた。蓬摘みは当時の女の仕事だったようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「[本朝食鑑]艾餅(よもぎもち)は嫩(わか)き艾苗を采(と)り、茎をさり、煮熟して、蒸糯(むしもちごめ)に合せ搗て餅に作り、三月三日必この餅を用ひて賀祝とす。」とある。「蓬そろゆる」というのはこの茎を取り除く工程を言うのか、花見に来て、雨が降りそうだから帰るかどうか言い争っているうちに雨がふり出し、雨宿りした所で女たちのヨモギの葉をそろえる作業を手伝っていったのだろう。
 無骨な男たちが慣れない細かな作業をしては女たちに怒られたり、それでいて互いにちょっと下心があったり、ほのぼのした和やかな雰囲気でこの一巻は目出度く終了する。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、「蓬そろふるハ女ノ役ナレド、雨モフリ出タレバ、男モ交リテ手伝スルサマ也。」とある。

季題は「蓬」で春。植物。草類。「男」は人倫。

 子珊の『別座敷』の序に芭蕉の言葉として「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり。」とある。この歌仙も古典の風雅だとか出典とかと関係なく、日常誰もが感じているようなあるあるネタを中心に展開されている。季節の句もほんの息抜き程度で、無季の句が半分以上を占める。句の付け方も、短句に対して長句が付くときに、「て」止め以外でも前付けになる傾向が見られる。
 芭蕉はトレンドに逆らうような人ではない。自分は古くなったと感じていても、門人たちが新しい俳諧を作ってくれることを疑っていない。そういう芭蕉の態度がこの歌仙になったのだと思う。まさに「浅き砂川」を水に漬かることなく渡っていくように、三十六句軽やかに駆け抜けていった感がある。
 ただ、俳諧がより誰でも出来る簡単なものになって行くと、必ずそれを面白く思わないものも出てくる。人間にはやはり人より秀でたい、目立ちたいという欲求がある。人の知らない難解な言葉を知り、難解な書物を出展にし、一部のマニアックな人だけにわかればいいという人たちもいる。其角の江戸座俳諧はそうした層を巧みに取り込んでいったのだろう。俳諧一巻を一般から募り、それに加点して本にする、いわゆる点取り俳諧への道を開いたのがこの流れだった。
 難解な句は一度聞いても意味が通らないが、書物なら何回でも読み返して考えることが出来る。最後まで人と人とが面と向き合って談笑する興行俳諧にこだわった芭蕉の俳諧は、出版文化の拡大とともに苦しいものとなっていったのは確かだ。
 興行が廃れ書物俳諧になってゆくと、広く投句を募り、それを本にすれば、投句者層がそのまま読者になってくれる。より投句者を増やすには一巻を募集するよりも、発句なり付け句なり一句だけで投句できたほうがいい。こうして江戸中期には川柳点が流行することになる。俳諧も発句中心になり、連句は廃れて行く。
 明治になり正岡子規が行った俳句革新も、基本的にはこの流れに沿ったものだった。子規の俳諧連句は数えるほどしか作られてない。発句のみを公募し本に載せることで、投句者が同時に読者となり本の購買者となる点取り俳諧の経営手法を継承している。
 こうした書物俳諧も、いまやネットに押されて過去の物になりつつある。ネット上では別に撰者に選ばれなくてもいくらでも呟くことができる。投句料も要らなければ本を買う必要もない。そして五七五という形式も必要ない。投稿はテキストでも画像でも動画でも何でも良いわけだ。
 ただ、形式は廃れても結局その精神は不易ではないかと思う。人はいつの世でも平和で身分の別なく談笑できる場を求めている。それは信じていい。

2017年1月14日土曜日

 今日はほんの短い間だったが白いものがちらちらと舞った。記録には残らない程度の降雪だった。鉛色の雲が覆ったかと思ったら晴れ間があったり、「北国日和定めなき」という北国の空もこんなだろうかと思った。
 それでは、「雪の松」の巻の続き。二裏に入る。

三十一句目
   酒をとまれば祖母の気に入
 すすけぬる御前の箔のはげかかり 子珊
 (すすけぬる御前の箔のはげかかり酒をとまれば祖母の気に入)

 御前は『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に「一向宗の持仏也。」とある。ここで言う一向宗は戦国時代の一向一揆の一向宗ではなく、今の浄土真宗のことで、江戸幕府が本末制度に基づいて仏教のさまざまな宗派を系統立てた時に浄土真宗系の様々な宗派をそう呼ぶようになったようだ。
 持仏は個人的に持ち運ぶことの出来る小さな仏像のことで、浄土真宗では金の仏像が推奨されている。
 この句は「祖母の気に入すすけぬる御前の箔のはげかかり、酒をとまれば」と読むのが良いように思える。祖母は一向宗を信仰し金箔の念持仏を持っていたが、家督を継いだ孫が酒に溺れ家計は破綻し、仏像も手入れが行き届かず金箔がはがれてもそのままになっていた。酒をやめれば。そういう句ではないかと思う。
 複雑な倒置は連歌ではしばしば見られるが、江戸時代の言語感覚では次第に理解が困難になっていったのではないかと思う。
 古註では考えすぎの多い『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「酒止たら金が溜うとばばの喜ベバ、イヤ私が禁酒も廿年遅かった、此仏段と同じ事で」というのが近かったしヒントになった。これは仏壇の煤抜きに来た男が禁酒をして祖母に気に入られ、という解釈だが、煤抜きなんてことはどこにも書いてないから曲斎さんの例の類稀な想像力によるものだろう。

無季。「御前」は釈教。「仏の食」から三句隔てている。

三十二句目
   すすけぬる御前の箔のはげかかり
 次の小部屋でつにむせる声  利牛
 (すすけぬる御前の箔のはげかかり次の小部屋でつにむせる声)

 「つにむせる」は『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)に「唾(ツ)に嚏(ムセル)ナリ。」とある。唾にむせること。
 ここでいう御前は屋敷に設置された大型のものを言うのであろう。寺の本尊ではなく自宅で祀られるものは御前になる。
 その横の部屋では控えのものが談笑し、笑うついでにむせて咳き込んでしまったのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「武家のもやうに転ず。傍輩どものおかしさをこらえ居る体、世情を尽せり。」とある。「傍輩」は同僚ということ。

無季。「小部屋」は居所。

三十三句目
   次の小部屋でつにむせる声
 約束にかがみて居れバ蚊に食れ  曾良
 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ次の小部屋でつにむせる声)

 この巻は恋の句が少なかったので、本来二の裏はあっさりと終わらせるところをあえてここで恋を出したのだろう。
 約束をして部屋で身をかがめて待っていると蚊に食われてしまい、隣ではようやく男が来たのか唾にむせる声がする。
 普通に男女が会えばドラマチックなのだが、一方は蚊に食われ、一方は唾にむせてと散文的なところが俳諧というべきか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「夜分と見来る自然いふも更なり。」とある。これだけではよくわからないが、次の句の所には「前句ハ恋なるを」とあり、夜分と見て、自ずと男女の合う場面を出したのは言うまでもない、というところか。

季題は「蚊」で夏。虫類。「約束」は恋。

2017年1月13日金曜日

 「雪の松」の巻の二十八句目

   又けさも仏の食で埒を明
 損ばかりして賢こがほ也   杉風

のところで「相場師も賢く立ち回っているつもりでもちょっとした読み違いで地獄を見ることもある。」と書いていたら、ちょうどあの有名な投資家のジョージ・ソロス氏がトランプ氏の大統領当選後の株価を読み誤って、結果10億ドルもの損失を出したというニュースが飛び込んできた。
 もっとも270億ドルの資産を運用するソロスさんのことだから10億ドルくらいたいしたことはないだろうけど。1080万円の資産を運用していて40万損しただけと思えば、それくらいのことはよくあることで、痛くも痒くもないと言ってもいいのではないか。
 今日もほぼ満月。「冬の月」の句は二十九句目。

二十五句目
   わざわざわせて薬代の礼
 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃
 (雪舟でなくバと自慢こきちらしわざわざわせて薬代の礼)

 お歳暮を持っっていったところ、自分の持っている書画骨董をひとしきり自慢され、延々と薀蓄を聞かされるのは迷惑な話だ。「自慢こきちらし」と「わせて」の主語は異なる。このころの俳諧には主語が異なっていても明示しないことは良くある。
 「こく」というのは「嘘こく」だとか「調子こく」だとか非難の意味が込められている。今でもこういう時は「ったく自慢こきやがって」というところだろう。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「前句態々わせて薬代に下されし物に、疑ハないト云詞ト見立」広言を付けたり。」とあるが、真蹟の雪舟だったら薬代にしては高価すぎるのではないかと思う。

無季。

二十六句目
   雪舟でなくバと自慢こきちらし
 となりへ行て火をとりて来る 子珊
 (雪舟でなくバと自慢こきちらしとなりへ行て火をとりて来る)

 前句が骨董好きの裕福な家のイメージだったのに対し、ここでは貧相な骨董商に転じる。キセルの火が消えたからといって隣に借りに行くというのは、少なくとも立派な屋敷ではなく町中の風景だ。
 今でもたまに見るような、狭い店に所狭しと怪しげな物が並べられ、売れてる様子もなく埃をかぶって、骨董屋なのかゴミ屋なのかわからないような店を想像するといいのだろう。いかにも偏屈そうな親父がキセルをふかして、これなんか雪舟以外の何物でもないだろうとでかい口を叩いているけど、客のほうもどうせ嘘に決まっているとばかりに二束三文に値切っている、そんな世界だろう。
 子珊はこれで四句目。花の定座も勤めたし、今日はなかなか冴えている。翌元禄七年の五月には、最後の旅に出る芭蕉のための餞別句会が子珊亭で催され、

 紫陽草(あぢさゐ)や藪を小庭の別座敷  芭蕉

の句に対し、

   紫陽草や藪を小庭の別座敷
 よき雨間(あまあひ)に作る茶俵  子珊

の脇を付けている。このときのことを元に子珊は『別座敷』を編纂する。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前底無用なるより、二句一章に作りて奪へり。隣ハ古道具の見世つづきとミるべし。」とある。

無季。

二十七句目
   となりへ行て火をとりて来る
 又けさも仏の食で埒を明     利牛
 (又けさも仏の食で埒を明となりへ行て火をとりて来る)

 前句の貧乏くさい様子から、托鉢して生活する修行僧のこととする。朝に托鉢してご飯を恵んでもらい、一日一食で過ごし、それ以外に炊事をしてはいけないのが本来なのだが、空腹に耐え切れなかったのか隣に火を貰いに行く。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「裏借家のひとり坊主などミゆ。体用の変なり。」とある。

無季。「仏の食」は釈教。「精進日」から四句隔てている。

二十八句目
   又けさも仏の食で埒を明
 損ばかりして賢こがほ也   杉風
 (又けさも仏の食で埒を明損ばかりして賢こがほ也)

 前句を修行僧ではなく、乞食に身を落とした相場師とする。
 江戸時代だから株や債権はないが、金・銀・銭は独立して変動相場で動いているから、そこでFXのように利ざやを得ることはできただろう。幕末には海外の金銀の交換レートが違うことから外国人に金を銀に交換してもらって儲けた人がいたともいう。
 また、江戸時代には先物取引が行われていたので、コモディティへの投資でも儲けることはできた。
 ただ、策士策に溺れるというか、賢く立ち回っているつもりでもちょっとした読み違いで地獄を見ることもある。
 次は月の定座だが、月呼び出しというには程遠いが、「賢こ顔」が何となく月を連想させるか。あれは「かこち顔」だったか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「相場師のしもつれともいハん。」とある。「しもつれ(仕縺れ)」は辞書だと「めちゃくちゃになる、どうにもならなくなる」とあり近松門左衛門の天神記の「これほど身代しもつれて、田地に離れ」を用例として挙げている。「すってんてんになる」というのが一番しっくり来る感じがするが。

無季。

二十九句目
   損ばかりして賢こがほ也
 大坂の人にすれたる冬の月    利合
 (大坂の人にすれたる冬の月損ばかりして賢こがほ也)

 前句を大阪商人のこととする。天下の台所と言われた大阪は全国から様々な物資が入ってきて豊かに見えるが、その分競争も激しくなかなか商売の道は厳しい。
 冬の澄み切った空の寒々とした月もそんな大阪商人からすれば「すれた」冷たさに見えるのだろうか。凍りつくような空気の中で月もまた一人「賢こがほ」している。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「物ニスルドキ人ヲ冬ノ月ニ寄テ、前句ヲツナギタルナリ。」とある。

季題は「冬の月」で冬。夜分。天象。「大坂」は名所。「人」は人倫。

三十句目
   大坂の人にすれたる冬の月
 酒をとまれば祖母の気に入  野坡
 (大坂の人にすれたる冬の月酒をとまれば祖母の気に入)

 前句の「大坂の人」を女のことに取り成したか。それに対して男はすっかり都会ですれてしまった冬の月のような冷たい顔をしている。クールでニヒルなのはいいが、相手の親の受けはすこぶる悪い。そこで酒をやめて一心に働けばその女の祖母にも気に入ってもらえるだろうかというところだ。だがあくまで「とまれば」という仮定の話。なかなか酒はやめられないもの。
 『古集』系は「欠落ものの聟に入たるなどいふ思惑に附けなせり」とする。

無季。「祖母」は人倫。