今日は東に満月。西の空にはVenus and Mars are alright tonightってウィングスの中学の頃に聞いた曲を思い出す。
「雪の松」の巻にも「大坂の人にすれたる冬の月」の句があるが、今日はまだそこまで行かない。
とりあえず二表に入る。
十九句目
川からすぐに小鮎いらする
朝曇はれて気味よき雉子の声 杉風
(朝曇はれて気味よき雉子の声川からすぐに小鮎いらする)
前句を朝の景色として雉の声を添える。小鮎は簗漁で朝回収してきたのだろうか。この一巻全体に景物の句が少ないので、もっぱら杉風は景物担当なのか。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とある。
季題は「雉子」で春。鳥類。
二十句目
朝曇はれて気味よき雉子の声
背戸へ廻れば山へ行みち 岱水
(朝曇はれて気味よき雉子の声背戸へ廻れば山へ行みち)
「背戸」は裏口。これもほとんど説明の必要はない。水辺から山類への転換というべきか。そろそろ大きな展開が欲しい。
無季。「背戸」は居所。「山」は山類。
二十一句目
背戸へ廻れば山へ行みち
物思ひただ鬱々と親がかり 孤屋
(物思ひただ鬱々と親がかり背戸へ廻れば山へ行みち)
待ってましたというかやっと出てきたというか、ようやく恋になる。
前句の裏口から山への道を恋の通い路とし、そこから出て会いに行きたいのだけど、踏ん切りがつかずにただ悶々としている。それはまだ「親がかり」つまり親に養ってもらってる身で、自信がないのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「ままならぬ恋路に心すすまぬ風情ならん。何となく立出たる体に附なせり。」とある。
無季。「物思ひ」は恋。
二十二句目
物思ひただ鬱々と親がかり
取集めてハおほき精進日 曾良
(物思ひただ鬱々と親がかり取集めてハおほき精進日)
「精進日(しょうじび)」は忌日などで肉や魚を絶って精進すべき日。前句の恋の物思いと合わせると、夫との死別かと想像が働く。死別して実家に戻って親がかりなら辻褄は合う。
精進日が多いのは鬱による拒食症によるものか。昔は鬱状態になり物事すべたが空しく思えるようになると「発心」とみなされ、人との接触を拒んで引き籠ると世俗の交わりを断ったと言われ、拒食症になると穀断ちとみなされた。その行き着くところは自殺だが、それを即身仏や補陀落渡海という形で神聖な儀式として行われることもあった。食物が喉を通らないだけでも、世間からは精進とみなされた。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「食事のすすまぬ趣ならん。夫妻などにおくれたる底の余意あるか。」とある。
『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句後家に成て親元へかかり、兄弟の気がねに物思ふ体ト見立」其場の咄を付たり。」と、死別の悲しみではなく兄弟への気遣いのためとし、精進日を親族に押し付けられたものと解釈する。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には、「取集め 前句ヲ夫ニ死レテ親里ニカヘリ、夫ノ家ノ忌日トヲ併テハ、忌日多クナリタルヨシナリ。」とあるが、「取集めてハ」は「とにかくいろいろ」という程度の意味で、親族のいろいろの事情によりそれぞれの精進日が多くてというのは考えすぎだろう。
喪失の悲しみを「精進日が多い」という形で笑いに転化して表すのが俳諧で、喪失の悲しみよりも親族の圧力がというのは、実際にありそうなことだけど下世話な感じがする。
無季。「精進日」は釈教。
ニ十三句目
取集めてハおほき精進日
餅米を搗て俵へはかりこみ 桃隣
(餅米を搗て俵へはかりこみ取集めてハおほき精進日)
前句の「取集めて」が何を取り集めているかはっきりしなかったのを、「餅米を搗て俵へはかりこみ取り集めてハおほき」とする。
餅米を搗くというのは精米することをいう。昔は米を杵で搗いて精米した。餅搗きではない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「斎非時のもふけなるべし。」となる。斎非時(ときひじ)は禅家で僧と共にする食事のことで『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「年回の」という補則が付く。年回は年忌に同じ。
無季。
二十四句目
餅米を搗て俵へはかりこみ
わざわざわせて薬代の礼 依々
(餅米を搗て俵へはかりこみわざわざわせて薬代の礼)
前句の精米した餅米を薬代(やくだい)の礼に取り成す。
「わせて」は「御座(おわ)して」と同じ。韓国語ではない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暮年の光景と見て趣向したらん。」とある。いわゆるお歳暮か。ただ、季語は入っていない。
無季。
2017年1月12日木曜日
2017年1月11日水曜日
ようやく冬らしく寒くなってきた。今年は水仙が咲くのが早いから早く暖かくなるのかな。月はもうすぐ満月、ということは旧暦で師走の十日過ぎということか。
では「雪の松」の巻の続き。
十五句目
めつたに風のはやる盆過
宵々の月をかこちて旅大工 依々
(宵々の月をかこちて旅大工めつたに風のはやる盆過)
お盆というと今でも帰省ラッシュだが、江戸時代でも薮入りとお盆は奉公人が故郷に帰る日だった。ところが江戸時代にもブラックな職場はあって、なかなか帰省が許されなかったりする。旅の大工もそうだったのだろう。盆の過ぎる頃にはやけに風邪だといって休む大工が多い。何で風邪を引いたのかと聞いたら、ついつい月が綺麗で夜更かしして、と。そんなところだろうか。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「盆過ノ淋敷ナル折ト言、流行病ノ節ニ、故郷ノ忍バシキ趣ヲ附タリ。」とある。
季題は「月」で秋。夜分。天象。「旅大工」は人倫。
十六句目
宵々の月をかこちて旅大工
背中へのぼる児をかハゆがる 桃隣
(宵々の月をかこちて旅大工背中へのぼる児をかハゆがる)
昔は街頭も町の灯りもなくて、夜は暗い闇に閉ざされていた。それだけに月の出る日は貴重で、宴会をやったり遊び歩いたり祭りだったりと月の明るさを利用した。大人だけでなく子供も浮かれて月の出る日には大はしゃぎだったのだろう。
旅の大工も地元の人たちと一緒になって月夜を過ごせば、その土地の子供になつかれたりもする。となると大工さんの方も国に残してきた自分の子供を思い出してはついつい可愛がる。
「かハゆ」は可哀相という意味と可愛いという両義があり、芭蕉の時代にも、
盲より唖のかハゆき月見哉かな 去来
の用例がある。可哀相というのが守ってあげたいという意味に転化して、小さい弱いものへの愛情を表す言葉になったのだろう。いまや「かわいい」は世界の言葉になりつつある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「郷にも稚子のあるなるべし」とのみあるが、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「前句宵々の月を侘て、故郷シノブ旅大工ト見立恩愛の情を述べた。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「背中へのぼりて狂ひ遊ぶを愛すると也。」、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「吾児と同じ年頃なる他人の児の無邪気に戯るるを愛する也。」とある。
幕末・明治の註釈だと、「かハゆ」はみな可愛いの意味に解しているが、ひょっとしたら元禄の頃には「背中に登ってくる子供が可哀相」と読んで、親のない子供か何かを想像して涙したのかもしれない。次は花の定座。
無季。「児」は人倫。人倫が二句続く。
十七句目
背中へのぼる児をかハゆがる
茶むしろのきハづく上に花ちりて 子珊
(茶むしろのきハづく上に花ちりて背中へのぼる児をかハゆがる)
「きハづく」は汚れが目立つという意味。
今の煎茶は元文三年(1738)に永谷宗円が摘んだ葉を蒸して揉みながら乾燥させる方法を発明し、急須にお湯を入れて飲むようになったという。それ以前のお茶についてはっきりしたことはわかないが、抹茶が主流だったという。
抹茶の場合収穫前に茶園を筵で覆い、光を当てないようにするから、ここでいう茶むしろもその覆いのことだと思われる。時期的にも茶の収穫の一ヶ月くらい前なら、桜の季節と重なる。
桜の季節になると茶畑は完全に筵で覆われて、その上に花びらが散ってたりしたのだろう。外の土埃や枯葉や鳥の糞なんかで汚れた筵も花びらが積もればそれなりに美しくなる。茶農家の人も子供を背中に乗せながら、「おう、よしよし、今年も立派な抹茶が出来るずら」なんていう、そんな情景が浮かんでくる。
古註はみな芭蕉の時代に煎茶がなかったということを知らずに書いている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「茶を揉む女子どもに転ず。」と言うが、当時茶は揉まなかったし、茶揉みは収穫の後なので季節も合わない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)も「茶ムシロハ、其筵ノ上ニテ製スル也。」とあるがこれも同じ誤解。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は多分季節が合わないことで、これらの幕末の註のおかしさに気づいていたのだろう。「きはつくは際やかに目立つなり。茶むしろ猶新しきなるべし。前句をまことの母と児とにして、田家の庭前の春の景色を如実に描きたり。」とある。まだ茶揉みの作業に入る前だから、清潔で新しい筵のことと考え、「きハづく」の意味を強引に変えてしまっている。
季題は「花」で春。植物。木類。
十八句目
茶むしろのきハづく上に花ちりて
川からすぐに小鮎いらする 石菊
「いらする」は「炒る」に使役の「らす」の付いたものだろう。鮎というと今日では櫛に刺して塩焼きにするが、昔は鍋に油を敷かずに、そのまま焦げ付かないように鍋を降りながら火を通したのだろう。芭蕉の好物に「炒り牡蠣」というのがあったが、殻のついた牡蠣をガラガラと炒るから、その音が外にまで聞こえたという。
田舎の茶畑なら鮎の取れる川もすぐ近くにある。取れたてをすぐに食うならどんな料理法でも美味いに違いない。
花に鮎の子と季節の物を付けた句で、親子の人情でほろっとさせたあと、花でさらに盛り上がった後だから、このような軽い遣り句でも十分すぎるだろう。
古註は「いらする」の解釈でかなりもめている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は「煮る」の意味だとし、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「い」と「わ」の書き間違いで「割らする」だとする。『標註七部集』(惺庵西馬・潜窓幹雄編、元治元年春序)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「入らする」だという。
季題は「小鮎」で春。水辺。「川」も水辺。
では「雪の松」の巻の続き。
十五句目
めつたに風のはやる盆過
宵々の月をかこちて旅大工 依々
(宵々の月をかこちて旅大工めつたに風のはやる盆過)
お盆というと今でも帰省ラッシュだが、江戸時代でも薮入りとお盆は奉公人が故郷に帰る日だった。ところが江戸時代にもブラックな職場はあって、なかなか帰省が許されなかったりする。旅の大工もそうだったのだろう。盆の過ぎる頃にはやけに風邪だといって休む大工が多い。何で風邪を引いたのかと聞いたら、ついつい月が綺麗で夜更かしして、と。そんなところだろうか。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「盆過ノ淋敷ナル折ト言、流行病ノ節ニ、故郷ノ忍バシキ趣ヲ附タリ。」とある。
季題は「月」で秋。夜分。天象。「旅大工」は人倫。
十六句目
宵々の月をかこちて旅大工
背中へのぼる児をかハゆがる 桃隣
(宵々の月をかこちて旅大工背中へのぼる児をかハゆがる)
昔は街頭も町の灯りもなくて、夜は暗い闇に閉ざされていた。それだけに月の出る日は貴重で、宴会をやったり遊び歩いたり祭りだったりと月の明るさを利用した。大人だけでなく子供も浮かれて月の出る日には大はしゃぎだったのだろう。
旅の大工も地元の人たちと一緒になって月夜を過ごせば、その土地の子供になつかれたりもする。となると大工さんの方も国に残してきた自分の子供を思い出してはついつい可愛がる。
「かハゆ」は可哀相という意味と可愛いという両義があり、芭蕉の時代にも、
盲より唖のかハゆき月見哉かな 去来
の用例がある。可哀相というのが守ってあげたいという意味に転化して、小さい弱いものへの愛情を表す言葉になったのだろう。いまや「かわいい」は世界の言葉になりつつある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「郷にも稚子のあるなるべし」とのみあるが、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「前句宵々の月を侘て、故郷シノブ旅大工ト見立恩愛の情を述べた。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「背中へのぼりて狂ひ遊ぶを愛すると也。」、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「吾児と同じ年頃なる他人の児の無邪気に戯るるを愛する也。」とある。
幕末・明治の註釈だと、「かハゆ」はみな可愛いの意味に解しているが、ひょっとしたら元禄の頃には「背中に登ってくる子供が可哀相」と読んで、親のない子供か何かを想像して涙したのかもしれない。次は花の定座。
無季。「児」は人倫。人倫が二句続く。
十七句目
背中へのぼる児をかハゆがる
茶むしろのきハづく上に花ちりて 子珊
(茶むしろのきハづく上に花ちりて背中へのぼる児をかハゆがる)
「きハづく」は汚れが目立つという意味。
今の煎茶は元文三年(1738)に永谷宗円が摘んだ葉を蒸して揉みながら乾燥させる方法を発明し、急須にお湯を入れて飲むようになったという。それ以前のお茶についてはっきりしたことはわかないが、抹茶が主流だったという。
抹茶の場合収穫前に茶園を筵で覆い、光を当てないようにするから、ここでいう茶むしろもその覆いのことだと思われる。時期的にも茶の収穫の一ヶ月くらい前なら、桜の季節と重なる。
桜の季節になると茶畑は完全に筵で覆われて、その上に花びらが散ってたりしたのだろう。外の土埃や枯葉や鳥の糞なんかで汚れた筵も花びらが積もればそれなりに美しくなる。茶農家の人も子供を背中に乗せながら、「おう、よしよし、今年も立派な抹茶が出来るずら」なんていう、そんな情景が浮かんでくる。
古註はみな芭蕉の時代に煎茶がなかったということを知らずに書いている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「茶を揉む女子どもに転ず。」と言うが、当時茶は揉まなかったし、茶揉みは収穫の後なので季節も合わない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)も「茶ムシロハ、其筵ノ上ニテ製スル也。」とあるがこれも同じ誤解。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は多分季節が合わないことで、これらの幕末の註のおかしさに気づいていたのだろう。「きはつくは際やかに目立つなり。茶むしろ猶新しきなるべし。前句をまことの母と児とにして、田家の庭前の春の景色を如実に描きたり。」とある。まだ茶揉みの作業に入る前だから、清潔で新しい筵のことと考え、「きハづく」の意味を強引に変えてしまっている。
季題は「花」で春。植物。木類。
十八句目
茶むしろのきハづく上に花ちりて
川からすぐに小鮎いらする 石菊
「いらする」は「炒る」に使役の「らす」の付いたものだろう。鮎というと今日では櫛に刺して塩焼きにするが、昔は鍋に油を敷かずに、そのまま焦げ付かないように鍋を降りながら火を通したのだろう。芭蕉の好物に「炒り牡蠣」というのがあったが、殻のついた牡蠣をガラガラと炒るから、その音が外にまで聞こえたという。
田舎の茶畑なら鮎の取れる川もすぐ近くにある。取れたてをすぐに食うならどんな料理法でも美味いに違いない。
花に鮎の子と季節の物を付けた句で、親子の人情でほろっとさせたあと、花でさらに盛り上がった後だから、このような軽い遣り句でも十分すぎるだろう。
古註は「いらする」の解釈でかなりもめている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は「煮る」の意味だとし、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「い」と「わ」の書き間違いで「割らする」だとする。『標註七部集』(惺庵西馬・潜窓幹雄編、元治元年春序)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「入らする」だという。
季題は「小鮎」で春。水辺。「川」も水辺。
2017年1月10日火曜日
今日ネットで注文した『芭蕉連句古注集 猿蓑篇』(雲英末雄、1987、汲古書院)が届いた。これで前に読んだ「市中は」の巻や「灰汁桶の」の巻藻読み返すことができる。
それはこのあととして、まずは「雪の松」の巻の続き。
十一句目
馬の荷物のさはる干もの
竹の皮雪踏に替へる夏の来て 石菊
(竹の皮雪踏に替へる夏の来て馬の荷物のさはる干もの)
竹の皮は軽いから、運ぶ時にはかなりうず高く積んで、道にはみ出した洗濯物に接触したりしていたのだろう。竹の皮が盛んに運ばれてくるのは夏が来て雪駄(雪踏)の季節になったからだ。雪駄は竹で編んだ草履の底に皮を張ったもので、水に強く夏に用いられる。
これもそう難しくないあるあるネタだったようで、古註の解釈にそんなに差がない。『古集』系には「かさ高なるもやうあるより、竹の皮荷と見ていへり。句作の優美をおもハざらんや。」とある。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「凡愚ふつつかの句なり。二三畳より以下三句、興趣さらに無し。」とある。こういう単純なあるあるネタがお気に召さないのは、古典の教養のあるところを見せたい文人にはありがちなこと。
季題は「夏の来て」で夏。「雪駄」は衣装。特に夏の季語にはなっていない。
十二句目
竹の皮雪踏に替へる夏の来て
稲に子のさす雨のばらばら 杉風
(竹の皮雪踏に替へる夏の来て稲に子のさす雨のばらばら)
「さす」は育つという意味。夏といっても旧暦四月の初夏のことで、田植えのすんだ稲の苗をはぐくむ雨がばらばら降ってくるというもの。
あるあるネタが続いたことで、ここらでちょっと一休みというか目先を変えたい空気を見事に読んでいる。このあたりが杉風のキャリアの長さというか、ベテランの味でもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)も「うつりえもいハれず」と言っている。
無季。「稲の子」を夏としてもよそそうなものだが、季語としては定まってない。植物。草類。「粟」から五句隔てている。「雨」は降物。
十三句目
稲に子のさす雨のばらばら
手前者の一人もみえぬ浦の秋 野坡
(手前者の一人もみえぬ浦の秋稲に子のさす雨のばらばら)
手前者(てまえしゃ)は辞書を引くと、『類船集』の「─と言ふは富める人なり」を例として「家計の豊かな人、資産家」としている。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)も「手前者 富人也。」としている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「手前者ハ分限者也。」としている。「分限者(ぶげんしゃ)」も金持ち、財産家と言う意味。にわか成金ではなく、代々の資産を受け継いで資産を管理している者のことをいう。
「浦」というから漁村なのだろうけど、漁業だけでは食って行けず、細々と稲も育て半農半漁の生活を送っている、そんな風情だろうか。
季節を秋に転じる。
季題は「秋」で秋。「浦」は水辺。「熊谷の堤」から五句隔てている。
十四句目
手前者の一人もみえぬ浦の秋
めつたに風のはやる盆過 利合
(手前者の一人もみえぬ浦の秋めつたに風のはやる盆過)
「めった」は今の標準語では否定の言葉を取るが、昔は必ずしもそうではなかったようだ。むしろ今で言う「めっちゃ」に近いか。「めたくた」だとか「めったくた」という言葉もあるし、「滅茶苦茶」も本来は「滅多くた」だったのだろう。
「風」は「風邪」のことで、貧しい漁村だから栄養状態が良くなくて、盆も過ぎるとちょっとしたことで風邪がめっちゃ流行る、ということなのだろう。
『古集』系には「侘しき浦里に自然の場あり。」とある。「自然」はこの場合、今でいうような自然がたくさんあるということではなく、人力で左右できない不慮のこと、万一のこと、という意味。
秋が二句続いたのでそろそろ月が欲しい頃だ。
季題は「盆過」で秋。
それはこのあととして、まずは「雪の松」の巻の続き。
十一句目
馬の荷物のさはる干もの
竹の皮雪踏に替へる夏の来て 石菊
(竹の皮雪踏に替へる夏の来て馬の荷物のさはる干もの)
竹の皮は軽いから、運ぶ時にはかなりうず高く積んで、道にはみ出した洗濯物に接触したりしていたのだろう。竹の皮が盛んに運ばれてくるのは夏が来て雪駄(雪踏)の季節になったからだ。雪駄は竹で編んだ草履の底に皮を張ったもので、水に強く夏に用いられる。
これもそう難しくないあるあるネタだったようで、古註の解釈にそんなに差がない。『古集』系には「かさ高なるもやうあるより、竹の皮荷と見ていへり。句作の優美をおもハざらんや。」とある。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「凡愚ふつつかの句なり。二三畳より以下三句、興趣さらに無し。」とある。こういう単純なあるあるネタがお気に召さないのは、古典の教養のあるところを見せたい文人にはありがちなこと。
季題は「夏の来て」で夏。「雪駄」は衣装。特に夏の季語にはなっていない。
十二句目
竹の皮雪踏に替へる夏の来て
稲に子のさす雨のばらばら 杉風
(竹の皮雪踏に替へる夏の来て稲に子のさす雨のばらばら)
「さす」は育つという意味。夏といっても旧暦四月の初夏のことで、田植えのすんだ稲の苗をはぐくむ雨がばらばら降ってくるというもの。
あるあるネタが続いたことで、ここらでちょっと一休みというか目先を変えたい空気を見事に読んでいる。このあたりが杉風のキャリアの長さというか、ベテランの味でもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)も「うつりえもいハれず」と言っている。
無季。「稲の子」を夏としてもよそそうなものだが、季語としては定まってない。植物。草類。「粟」から五句隔てている。「雨」は降物。
十三句目
稲に子のさす雨のばらばら
手前者の一人もみえぬ浦の秋 野坡
(手前者の一人もみえぬ浦の秋稲に子のさす雨のばらばら)
手前者(てまえしゃ)は辞書を引くと、『類船集』の「─と言ふは富める人なり」を例として「家計の豊かな人、資産家」としている。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)も「手前者 富人也。」としている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「手前者ハ分限者也。」としている。「分限者(ぶげんしゃ)」も金持ち、財産家と言う意味。にわか成金ではなく、代々の資産を受け継いで資産を管理している者のことをいう。
「浦」というから漁村なのだろうけど、漁業だけでは食って行けず、細々と稲も育て半農半漁の生活を送っている、そんな風情だろうか。
季節を秋に転じる。
季題は「秋」で秋。「浦」は水辺。「熊谷の堤」から五句隔てている。
十四句目
手前者の一人もみえぬ浦の秋
めつたに風のはやる盆過 利合
(手前者の一人もみえぬ浦の秋めつたに風のはやる盆過)
「めった」は今の標準語では否定の言葉を取るが、昔は必ずしもそうではなかったようだ。むしろ今で言う「めっちゃ」に近いか。「めたくた」だとか「めったくた」という言葉もあるし、「滅茶苦茶」も本来は「滅多くた」だったのだろう。
「風」は「風邪」のことで、貧しい漁村だから栄養状態が良くなくて、盆も過ぎるとちょっとしたことで風邪がめっちゃ流行る、ということなのだろう。
『古集』系には「侘しき浦里に自然の場あり。」とある。「自然」はこの場合、今でいうような自然がたくさんあるということではなく、人力で左右できない不慮のこと、万一のこと、という意味。
秋が二句続いたのでそろそろ月が欲しい頃だ。
季題は「盆過」で秋。
2017年1月9日月曜日
「雪の松」の巻の続き。
七句目
粟をかられてひろき畠地
熊谷の堤きれたる秋の水 岱水
(熊谷の堤きれたる秋の水粟をかられてひろき畠地)
「粟をかられて」を収穫ではなく、堤防が切れて大水が押し寄せ粟の畑を流していってしまった、という意味に取り成す。
元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、そのときの記憶がまだ鮮明だったのだろう。荒川は文字通りの荒ぶる川で、有史以来度々大きな水害を引き起こしてきた。
荒川は昔は熊谷付近から元荒川の方へ流れ、越谷の方へ流れ、吉川で太日川に合流していたが、幕府は寛永六年(一六二九)に荒川の付け替えを行い、入間川から隅田川の方へ流すようにしたが、その後も度々水害は起こった。
同じ『炭俵』の「空豆の花」の巻の十二句目にも、
風細う夜明がらすの啼わたり
家のながれたあとを見に行 利牛
の句がある。(前句は岱水の句。)
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「淼漫(ビャウマン)たる景象ミゆ。」とあるが、そんな悠長な句ではないだろう。むしろ災害の記憶を残すための句といっていいのではないかと思う。
季題は「秋の水」で秋。水辺。「堤」も水辺。芭蕉の第三から三句隔てている。
八句目
熊谷の堤きれたる秋の水
箱こしらえて鰹節売る 野坡
(熊谷の堤きれたる秋の水箱こしらえて鰹節売る)
被災した人たちに昔は災害援助なんてなかったから、被災した後の生活は自分で何とかしなくてはならない。とりあえず背負い箱をこしらえて鰹節売りで生計を立てる。
江戸時代初期の鰹節は紀州の名産で「熊野節」と呼ばれ、上方を中心に広がっていったという。元禄の頃になると紀州甚太郎がカビ付けを行うようになり、これによって江戸までの輸送に耐えられる鰹節(改良土佐節)が出来た、と「にんべん」のHPにあった。そういう意味では「鰹節売り」というのはこの時代のベンチャービジネスだったのかもしれない。
「空豆の花」の巻の十三句目も、
家のながれたあとを見に行
鯲汁わかい者ものよりよくなりて 芭蕉
と、洪水の後の地面に落ちていたドジョウを拾ってきて食う様が描かれている。災害の後の昔の人の苦労と知恵が偲ばれる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「水難からの俄商人を趣向せり。前句を虚体に転ず。」とある。『古集』系はほぼ同じ。「虚体」というのは、前句を過去のことにして今は、という意味か。
無季。
九句目
箱こしらえて鰹節売る
二三畳寝所もらふ門の脇 子珊
(二三畳寝所もらふ門の脇箱こしらえて鰹節売る)
前句が背負い箱に鰹節を入れて持ち運び、天秤下げて振り売りをする行商人の姿だったのに対し、ここでは二三畳のささやかながらも店舗を構える鰹節売りになる。とはいえ、やや展開に乏しい。
まあ、出勝ちのときはあまり悩まずに、とにかく句が付いたらさくさく進めるものなのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前底ハふり売とも見るべきに、こなたハ箱もふたつ三ツならべて、草履や鼻紙も提置る風情ならん。百にたらずのかかり人などいハんか。」とある。『古集』系はほぼ同じ。
無季。「寝所」は居所。
十句目
二三畳寝所もらふ門の脇
馬の荷物のさはる干もの 沾圃
(二三畳寝所もらふ門の脇馬の荷物のさはる干もの)
この「干もの」は「ひもの」ではなく洗濯物の「ほしもの」の方。
二三畳の寝所はここでは店ではなく単なる生活の場で、狭いながらも洗濯物を干すところに生活感がにじみ出る。門の脇だから、荷物を背負った馬が出入りするたびに洗濯物に引っかかって落ちたり汚れたりする。あるあるネタか。
『古集』系には「出入りする馬に洗濯ものなるべし」とある。それほど難しい句ではない。
無季。「馬」は獣類。
七句目
粟をかられてひろき畠地
熊谷の堤きれたる秋の水 岱水
(熊谷の堤きれたる秋の水粟をかられてひろき畠地)
「粟をかられて」を収穫ではなく、堤防が切れて大水が押し寄せ粟の畑を流していってしまった、という意味に取り成す。
元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、そのときの記憶がまだ鮮明だったのだろう。荒川は文字通りの荒ぶる川で、有史以来度々大きな水害を引き起こしてきた。
荒川は昔は熊谷付近から元荒川の方へ流れ、越谷の方へ流れ、吉川で太日川に合流していたが、幕府は寛永六年(一六二九)に荒川の付け替えを行い、入間川から隅田川の方へ流すようにしたが、その後も度々水害は起こった。
同じ『炭俵』の「空豆の花」の巻の十二句目にも、
風細う夜明がらすの啼わたり
家のながれたあとを見に行 利牛
の句がある。(前句は岱水の句。)
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「淼漫(ビャウマン)たる景象ミゆ。」とあるが、そんな悠長な句ではないだろう。むしろ災害の記憶を残すための句といっていいのではないかと思う。
季題は「秋の水」で秋。水辺。「堤」も水辺。芭蕉の第三から三句隔てている。
八句目
熊谷の堤きれたる秋の水
箱こしらえて鰹節売る 野坡
(熊谷の堤きれたる秋の水箱こしらえて鰹節売る)
被災した人たちに昔は災害援助なんてなかったから、被災した後の生活は自分で何とかしなくてはならない。とりあえず背負い箱をこしらえて鰹節売りで生計を立てる。
江戸時代初期の鰹節は紀州の名産で「熊野節」と呼ばれ、上方を中心に広がっていったという。元禄の頃になると紀州甚太郎がカビ付けを行うようになり、これによって江戸までの輸送に耐えられる鰹節(改良土佐節)が出来た、と「にんべん」のHPにあった。そういう意味では「鰹節売り」というのはこの時代のベンチャービジネスだったのかもしれない。
「空豆の花」の巻の十三句目も、
家のながれたあとを見に行
鯲汁わかい者ものよりよくなりて 芭蕉
と、洪水の後の地面に落ちていたドジョウを拾ってきて食う様が描かれている。災害の後の昔の人の苦労と知恵が偲ばれる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「水難からの俄商人を趣向せり。前句を虚体に転ず。」とある。『古集』系はほぼ同じ。「虚体」というのは、前句を過去のことにして今は、という意味か。
無季。
九句目
箱こしらえて鰹節売る
二三畳寝所もらふ門の脇 子珊
(二三畳寝所もらふ門の脇箱こしらえて鰹節売る)
前句が背負い箱に鰹節を入れて持ち運び、天秤下げて振り売りをする行商人の姿だったのに対し、ここでは二三畳のささやかながらも店舗を構える鰹節売りになる。とはいえ、やや展開に乏しい。
まあ、出勝ちのときはあまり悩まずに、とにかく句が付いたらさくさく進めるものなのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前底ハふり売とも見るべきに、こなたハ箱もふたつ三ツならべて、草履や鼻紙も提置る風情ならん。百にたらずのかかり人などいハんか。」とある。『古集』系はほぼ同じ。
無季。「寝所」は居所。
十句目
二三畳寝所もらふ門の脇
馬の荷物のさはる干もの 沾圃
(二三畳寝所もらふ門の脇馬の荷物のさはる干もの)
この「干もの」は「ひもの」ではなく洗濯物の「ほしもの」の方。
二三畳の寝所はここでは店ではなく単なる生活の場で、狭いながらも洗濯物を干すところに生活感がにじみ出る。門の脇だから、荷物を背負った馬が出入りするたびに洗濯物に引っかかって落ちたり汚れたりする。あるあるネタか。
『古集』系には「出入りする馬に洗濯ものなるべし」とある。それほど難しい句ではない。
無季。「馬」は獣類。
2017年1月8日日曜日
今年もまずは古註を頼りに俳諧を読むことで、俳諧の展開や癖に慣れるようにしようと思う。
そういうわけで、今は竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)に頼り、
雪の松おれ口みれば尚寒し 杉風
を発句とする「雪の松」の巻を読んでみようと思う。
今日は寒くて午後からは雨で一日籠っていたからかなり進んだ。ただ、あまり長くなるので、今日の所は面六句までにしておこう。
まずは発句から。
雪の松おれ口みれば尚寒し 杉風
元禄六年(一六九四)十一月上旬、江戸での興行で、芭蕉は第三のみの参加となっている。芭蕉を含め十三人もの連衆を集めてのなかなか賑やかな興行だ。芭蕉もここでは控えめに、司会進行役に徹したのだろう。
岱水が脇を詠んでいる所から、場所は岱水亭である可能性がある。芭蕉庵の近くに住んでいたと言われているが、どういう人なのか詳細はわかっていない。
発句を詠んでいる杉風は日本橋小田原町で魚問屋を営み、その屋号から鯉屋杉風と呼ばれている。江戸に出てきたばかりの芭蕉も小田原町に住み、日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやっていたという。
日本橋小田原町は現在の日本橋室町で、日本橋三越のある辺りになる。日本橋魚市場発祥の地の碑もあり、このあたりは魚市場として賑わっていた。
杉風は芭蕉が江戸に出てきた時からの古い門人であり、同時にスポンサー的な存在でもあった。小田原町の下宿も杉風が世話したとも言われているし、深川芭蕉庵も杉風の別邸の近くにあり、杉風が使用していた生け簀があの句に詠まれた「古池」だったともいう。
其角や嵐雪が次第に芭蕉と離れてゆく中、杉風は芭蕉の「軽み」の風を受け入れ、『炭俵』の主要なメンバーのひとりとなる。ここではスペシャルゲストとして招かれ、発句を詠むことになる。野坡、孤屋、岱水、利牛など『炭俵』でおなじみのメンバーだけでなく、『奥の細道』に同行した曾良や、伊賀出身で芭蕉の甥とも伝えられている桃隣なども参加している。
杉風の発句は当日雪が降っていてそのまんまの景色を詠んだか、雪の日にありがちな景色を思い浮かべたものか。雪も寒いが雪の重みで折れた松の切り口はわが身が切り裂かれたようでぞっとする。「まあ、とにかく今日は寒いっすねー」という季候の挨拶でもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「詩歌をからず名聞を飾らず、此句に此人の生質もゆかしき心地ぞせらるれ。但、寒の字にすさまじきその光景ミゆ。」とあり、『古集』系の『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じ。
これといった出展もなく、あるあるネタで詠む所は芭蕉の「軽み」の基本的な詠み方。「名聞を飾らず」は其角と比べてということか。杉風は魚問屋で金持ちだから、別にたくさん弟子を取って稼がなくては、という事情がないというのもあったと思うが。
その意味では、芭蕉の「軽み」は遊俳にはいいが、師匠としての価値を常に高くアピールしなくてはならない業俳にとってはきつかったかも。
季題は「雪」で冬。降物。「寒し」も冬。蕉門では季重なりは何ら問題ではない。「松」は植物で木類。
脇
雪の松おれ口みれば尚寒し
日の出るまへの赤き冬空 孤屋
(雪の松おれ口みれば尚寒し日の出るまへの赤き冬空)
なお寒いといえばやはり明け方の寒さは身にしみる。別に日の出の頃に興行を始めたというのではなく、「寒いね」という挨拶には「寒いね」と答える暖かさが大事ということだろう。
「赤き冬空」というからには、雪が上がって晴れた朝なのだろう。挨拶なので寒さの中にもこれから暖かくなるといいねという気持ちが込められている。
『七部婆心録』(曲斎、万延元年)に「雪はれの朝やけを見て、アア冬の朝晴ハしけの印、けふも亦大雪かと寒恐のこはがる様也。」というのは、一巻の途中の句ならともかく、脇句の挨拶の役割から逸脱している。考えすぎではないか。
季題は「冬空」で冬。「日」は天象。空に既に赤みが差しているので「夜分」は免れると思われる。まだ昇ってはいないとはいえ、ここで天象が出たことで月の定座が苦しくなるが、さてどうなるか。
第三
日の出るまへの赤き冬空
下(ゲ)肴を一舟浜に打明て 芭蕉
(下肴を一舟浜に打明て日の出るまへの赤き冬空)
下魚は値段の安い大衆魚のことで鰯か何かだろう。明け方に帰ってきた船が取ってきた魚を全部浜に広げて天日干しするのはなんとも豪快だ。赤い朝焼けの空は嵐の前触れなんかではない。これから晴れる印だから魚を干す。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海づらのけしきと見、日和のもやうと定て、魚干す体をいへりけるや。」とある。
今回の興行では芭蕉はこの一句だけ。さながら漁の収穫を十二人の門弟に見立て、後は任せたぞって所か。
無季。「下肴」「舟」「浜」など皆水辺。
四句目
下肴を一舟浜に打明て
あいだとぎるる大名の供 子珊
(下肴を一舟浜に打明てあいだとぎるる大名の供)
一舟分の大量の魚が干してあれば、通る人は何かと気になるもの。安く分けてもらえないかとばかりに立ち寄ってゆく。もちろん下賤な魚など大名の興味を引くものではないが、そのお供の下っ端の武士にしてみればついつい皆立ち止まって、列が途切れてしまう。
芭蕉を除いても十二人の連衆がいるし、順番にというわけでもなく、ここは出勝ちで付けてゆくところだ。それこそ笑点の大切りのような乗りで、すぐに出来て一番面白かった句がこれだったのだろう。順番で付けてゆく両吟・三吟・四吟などとは違った展開が楽しめそうだ。
無季。「大名の供」は人倫。
五句目
あいだとぎるる大名の供
身にあたる風もふハふハ薄月夜 桃隣
(身にあたる風もふハふハ薄月夜あいだとぎるる大名の供)
さてここは月の定座だが、大名行列が夜ということはないので、遅れて暗くなって宿に着いたことにする。
「遅くなった」というのをそのまんま言うのではなく、「身にあたる風もふハふハ」と急いで駆け込む様子を言うことで匂わす、いわゆる匂い付けになる。遅れてたお供の連中が、宿を見て慌てて駆け込む様が目に浮かぶ。
『古集系』には「羽織のすがたを形容せり。いそぐさまなるべし。」とある。走っているので羽織が風にひらひらする。
季題は「薄月夜」で秋。天象。夜分。雲でかすんだ月も、春は「朧月」で秋「薄月」になる。「身」は人倫。
六句目
身にあたる風もふハふハ薄月夜
粟をかられてひろき畠地 利牛
(身にあたる風もふハふハ薄月夜粟をかられてひろき畠地)
「身に当たる風」を風を切って走る姿ではなく、吹いてきた風が遮るものなく身に吹き付けてくることと取り成す。粟を刈り取った跡の広い畠では風を遮るものがない。わかりやすい句だ。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「カラリトシタル所ヲ可見。」とある。『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「病上りの身にあたる風をいたむ体」というのは考えすぎ。曲斎さんの註釈はこういうのが多い。何か人が思いつかないことを言ってやろうという所があるのだろう。
季題は「粟を刈る」で秋。植物。草類。
そういうわけで、今は竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)に頼り、
雪の松おれ口みれば尚寒し 杉風
を発句とする「雪の松」の巻を読んでみようと思う。
今日は寒くて午後からは雨で一日籠っていたからかなり進んだ。ただ、あまり長くなるので、今日の所は面六句までにしておこう。
まずは発句から。
雪の松おれ口みれば尚寒し 杉風
元禄六年(一六九四)十一月上旬、江戸での興行で、芭蕉は第三のみの参加となっている。芭蕉を含め十三人もの連衆を集めてのなかなか賑やかな興行だ。芭蕉もここでは控えめに、司会進行役に徹したのだろう。
岱水が脇を詠んでいる所から、場所は岱水亭である可能性がある。芭蕉庵の近くに住んでいたと言われているが、どういう人なのか詳細はわかっていない。
発句を詠んでいる杉風は日本橋小田原町で魚問屋を営み、その屋号から鯉屋杉風と呼ばれている。江戸に出てきたばかりの芭蕉も小田原町に住み、日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやっていたという。
日本橋小田原町は現在の日本橋室町で、日本橋三越のある辺りになる。日本橋魚市場発祥の地の碑もあり、このあたりは魚市場として賑わっていた。
杉風は芭蕉が江戸に出てきた時からの古い門人であり、同時にスポンサー的な存在でもあった。小田原町の下宿も杉風が世話したとも言われているし、深川芭蕉庵も杉風の別邸の近くにあり、杉風が使用していた生け簀があの句に詠まれた「古池」だったともいう。
其角や嵐雪が次第に芭蕉と離れてゆく中、杉風は芭蕉の「軽み」の風を受け入れ、『炭俵』の主要なメンバーのひとりとなる。ここではスペシャルゲストとして招かれ、発句を詠むことになる。野坡、孤屋、岱水、利牛など『炭俵』でおなじみのメンバーだけでなく、『奥の細道』に同行した曾良や、伊賀出身で芭蕉の甥とも伝えられている桃隣なども参加している。
杉風の発句は当日雪が降っていてそのまんまの景色を詠んだか、雪の日にありがちな景色を思い浮かべたものか。雪も寒いが雪の重みで折れた松の切り口はわが身が切り裂かれたようでぞっとする。「まあ、とにかく今日は寒いっすねー」という季候の挨拶でもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「詩歌をからず名聞を飾らず、此句に此人の生質もゆかしき心地ぞせらるれ。但、寒の字にすさまじきその光景ミゆ。」とあり、『古集』系の『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じ。
これといった出展もなく、あるあるネタで詠む所は芭蕉の「軽み」の基本的な詠み方。「名聞を飾らず」は其角と比べてということか。杉風は魚問屋で金持ちだから、別にたくさん弟子を取って稼がなくては、という事情がないというのもあったと思うが。
その意味では、芭蕉の「軽み」は遊俳にはいいが、師匠としての価値を常に高くアピールしなくてはならない業俳にとってはきつかったかも。
季題は「雪」で冬。降物。「寒し」も冬。蕉門では季重なりは何ら問題ではない。「松」は植物で木類。
脇
雪の松おれ口みれば尚寒し
日の出るまへの赤き冬空 孤屋
(雪の松おれ口みれば尚寒し日の出るまへの赤き冬空)
なお寒いといえばやはり明け方の寒さは身にしみる。別に日の出の頃に興行を始めたというのではなく、「寒いね」という挨拶には「寒いね」と答える暖かさが大事ということだろう。
「赤き冬空」というからには、雪が上がって晴れた朝なのだろう。挨拶なので寒さの中にもこれから暖かくなるといいねという気持ちが込められている。
『七部婆心録』(曲斎、万延元年)に「雪はれの朝やけを見て、アア冬の朝晴ハしけの印、けふも亦大雪かと寒恐のこはがる様也。」というのは、一巻の途中の句ならともかく、脇句の挨拶の役割から逸脱している。考えすぎではないか。
季題は「冬空」で冬。「日」は天象。空に既に赤みが差しているので「夜分」は免れると思われる。まだ昇ってはいないとはいえ、ここで天象が出たことで月の定座が苦しくなるが、さてどうなるか。
第三
日の出るまへの赤き冬空
下(ゲ)肴を一舟浜に打明て 芭蕉
(下肴を一舟浜に打明て日の出るまへの赤き冬空)
下魚は値段の安い大衆魚のことで鰯か何かだろう。明け方に帰ってきた船が取ってきた魚を全部浜に広げて天日干しするのはなんとも豪快だ。赤い朝焼けの空は嵐の前触れなんかではない。これから晴れる印だから魚を干す。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海づらのけしきと見、日和のもやうと定て、魚干す体をいへりけるや。」とある。
今回の興行では芭蕉はこの一句だけ。さながら漁の収穫を十二人の門弟に見立て、後は任せたぞって所か。
無季。「下肴」「舟」「浜」など皆水辺。
四句目
下肴を一舟浜に打明て
あいだとぎるる大名の供 子珊
(下肴を一舟浜に打明てあいだとぎるる大名の供)
一舟分の大量の魚が干してあれば、通る人は何かと気になるもの。安く分けてもらえないかとばかりに立ち寄ってゆく。もちろん下賤な魚など大名の興味を引くものではないが、そのお供の下っ端の武士にしてみればついつい皆立ち止まって、列が途切れてしまう。
芭蕉を除いても十二人の連衆がいるし、順番にというわけでもなく、ここは出勝ちで付けてゆくところだ。それこそ笑点の大切りのような乗りで、すぐに出来て一番面白かった句がこれだったのだろう。順番で付けてゆく両吟・三吟・四吟などとは違った展開が楽しめそうだ。
無季。「大名の供」は人倫。
五句目
あいだとぎるる大名の供
身にあたる風もふハふハ薄月夜 桃隣
(身にあたる風もふハふハ薄月夜あいだとぎるる大名の供)
さてここは月の定座だが、大名行列が夜ということはないので、遅れて暗くなって宿に着いたことにする。
「遅くなった」というのをそのまんま言うのではなく、「身にあたる風もふハふハ」と急いで駆け込む様子を言うことで匂わす、いわゆる匂い付けになる。遅れてたお供の連中が、宿を見て慌てて駆け込む様が目に浮かぶ。
『古集系』には「羽織のすがたを形容せり。いそぐさまなるべし。」とある。走っているので羽織が風にひらひらする。
季題は「薄月夜」で秋。天象。夜分。雲でかすんだ月も、春は「朧月」で秋「薄月」になる。「身」は人倫。
六句目
身にあたる風もふハふハ薄月夜
粟をかられてひろき畠地 利牛
(身にあたる風もふハふハ薄月夜粟をかられてひろき畠地)
「身に当たる風」を風を切って走る姿ではなく、吹いてきた風が遮るものなく身に吹き付けてくることと取り成す。粟を刈り取った跡の広い畠では風を遮るものがない。わかりやすい句だ。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「カラリトシタル所ヲ可見。」とある。『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「病上りの身にあたる風をいたむ体」というのは考えすぎ。曲斎さんの註釈はこういうのが多い。何か人が思いつかないことを言ってやろうという所があるのだろう。
季題は「粟を刈る」で秋。植物。草類。
2017年1月6日金曜日
『戦国を往く連歌師宗長』(鶴崎裕雄、2000、角川叢書)をぱらぱらとめくっていたら、丸子宿の説明板にあった「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」という宗長の言葉の出展が『宇津山記』だというのがわかった。
このあと、
「市あり。北にやや入りて泉谷といふ。安元先祖(斎藤加賀守安元)よりの宿所。奥深き禅室観勝院。滝あり。門前に流れ、たためる巌なめらかにして、松杉さい入りより、心澄むべっく見ゆ。左の岨に観音の霊像、行基菩薩の御作とか言ひ伝へぬ。此の上にも滝の音して堂の前にみなぎり落つ。大きなる嶽横たはりて、谷のふところ広く、鳥の声かすかに、猿梢に叫ぶ。暁閑居の寝覚め耐えがたし。予、早う二十歳ばかりの程よりここに心を占めしにや。」
と続く。
ここに柴屋軒を結んだのは永正三年(1506)、宗長59歳の時のことだという。今は吐月峰柴屋寺になっている。
禅室観勝院は歓昌院のことで、吐月峰柴屋寺よりも川上にある。千手観音を御本尊としている。
観音堂は柴屋寺の先左にあるらしい。ただ、行基菩薩の作ではなく運慶の作らしい。どっちにしてもビッグネームには違いないが。
『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の「宗長手記」大永六年(1528)の二月九日の所に、
「宇津の山泉谷、年比しめをき行かよふ柴屋、石をたて、水をまかせ、梅をうへなど、普請のつゐで、かたはらに又杉あり、松あり、竹の中に石をたたみ、垣にして、松の木三尺ばかり、一方けづりて、
柴屋のこけのしき道つくるなり
けふをわが世の吉日にして」
とある。
ただ、旅をすることが多い宗長さんのことだから、しばらく留守にして戻ってみると荒れ果てて修繕したり、大変だったようだ。大永七年のところにこうある。
「柴屋一とせ七月十四日朝の野分に、客殿吹こぼたれつとききし。其比越前にありて、帰下ても久あらしはてつるを、おとどしの冬、又もとの三分一ばかりの茅屋を取たてて、ことしの七月九日に帰住て、めぐりの垣、こもすだれとりのけて、庭のながれ、浅茅の中に、埋石なども門外の川よけに、過半取いだし、のこる石ここかしこにちらし捨をきしを、又とりならべて水をすまし、心をなぐさめ侍る。」
さらには、
「宇津山柴屋庭、もとの水石所々ほりおこしなどして、過半畑になして、まびきなの種まかするとて、
まびき菜はさざれ石まの山畑の
かたしや老の後まきの種」
とある。
このあと、
「市あり。北にやや入りて泉谷といふ。安元先祖(斎藤加賀守安元)よりの宿所。奥深き禅室観勝院。滝あり。門前に流れ、たためる巌なめらかにして、松杉さい入りより、心澄むべっく見ゆ。左の岨に観音の霊像、行基菩薩の御作とか言ひ伝へぬ。此の上にも滝の音して堂の前にみなぎり落つ。大きなる嶽横たはりて、谷のふところ広く、鳥の声かすかに、猿梢に叫ぶ。暁閑居の寝覚め耐えがたし。予、早う二十歳ばかりの程よりここに心を占めしにや。」
と続く。
ここに柴屋軒を結んだのは永正三年(1506)、宗長59歳の時のことだという。今は吐月峰柴屋寺になっている。
禅室観勝院は歓昌院のことで、吐月峰柴屋寺よりも川上にある。千手観音を御本尊としている。
観音堂は柴屋寺の先左にあるらしい。ただ、行基菩薩の作ではなく運慶の作らしい。どっちにしてもビッグネームには違いないが。
『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の「宗長手記」大永六年(1528)の二月九日の所に、
「宇津の山泉谷、年比しめをき行かよふ柴屋、石をたて、水をまかせ、梅をうへなど、普請のつゐで、かたはらに又杉あり、松あり、竹の中に石をたたみ、垣にして、松の木三尺ばかり、一方けづりて、
柴屋のこけのしき道つくるなり
けふをわが世の吉日にして」
とある。
ただ、旅をすることが多い宗長さんのことだから、しばらく留守にして戻ってみると荒れ果てて修繕したり、大変だったようだ。大永七年のところにこうある。
「柴屋一とせ七月十四日朝の野分に、客殿吹こぼたれつとききし。其比越前にありて、帰下ても久あらしはてつるを、おとどしの冬、又もとの三分一ばかりの茅屋を取たてて、ことしの七月九日に帰住て、めぐりの垣、こもすだれとりのけて、庭のながれ、浅茅の中に、埋石なども門外の川よけに、過半取いだし、のこる石ここかしこにちらし捨をきしを、又とりならべて水をすまし、心をなぐさめ侍る。」
さらには、
「宇津山柴屋庭、もとの水石所々ほりおこしなどして、過半畑になして、まびきなの種まかするとて、
まびき菜はさざれ石まの山畑の
かたしや老の後まきの種」
とある。
2017年1月5日木曜日
三が日もあっという間に過ぎ去り、今日から仕事。いつもの日常に戻る。
一日は家でゆっくり休み、二日にはいつもの年同様、武州柿生琴平神社へ初詣に行った。
三日は「街道を行く、東海道編」の続きで静岡から島田まで歩いた。
安倍川の川会所跡には由井正雪墓址碑があって、延宝6年(1678)の芭蕉と杉風との両吟、
よしなき 千万
夢なれや 夢なれや 杉風
を思い出した。
伏字で何のことかわからないが、本来は、
よしなき謀反笑止千万
夢なれや由比正雪夢なれや 杉風
だったという。これに芭蕉は、
夢なれや由比正雪夢なれや
さてさて荒(あれ)し軒の宿札 芭蕉
と付けている。
由井正雪は慶安4年(1651)に当時の減封・改易によって生じた牢人たちを集めて江戸城を焼き討ちし、自らは京都で決起して天皇を拉致して担ぎ上げて政権を奪取する予定だったが、計画は事前に発覚し、正雪は駿府宿(静岡)で捕り方に囲まれ自決したという。芭蕉の句はその時の情景を想像してのものか。
丸子宿というと、慶長元年創業で元禄4年に芭蕉が詠んだ、
餞乙州東武行
梅若菜丸子の宿のとろろ汁 芭蕉
の句が思い出される。
この句は丸子宿で詠んだものではなく、前書きにあるように、近江の国の大津で乙州(おとくに)が江戸に向かう際に餞(はなむけ)の句として詠んだものだ。これから東海道を登るなら、丸子の宿のとろろ汁がおすすめだよ、というような意味か。これに対し乙州は、
梅若菜丸子の宿のとろろ汁
笠新しき春の曙 乙州
と答える。
丸子というと忘れてはならない、と言いながら実は忘れていたのだが、水無瀬三吟、湯山三吟に参加した柴屋軒宗長の柴屋軒があった所だ。現在は吐月峰柴屋寺になっているらしい。このとき思い出していれば行ってみたのだが、忘れてた。
宇津ノ谷は昔は宇津の山とも言われ、かつては伝路があり、山越えの細い道は『伊勢物語』にも描かれ、そこから「蔦の細道」と呼ばれるようになった。
十団子はここの古くからの名物で、『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の大永4年(1526)の6月16日のところに、
「府中、境(おり)ふし夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十(とを)だんごといふ、一杓子に十づつ、かならずめらうなどにすくはせ興じて、夜に入て着府。」
とある。宗長の時代ですら既に「むかしより」だった。
十団子というと、芭蕉の弟子の許六の、
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
の句がある。秋風の吹く頃になると収穫直前で米が不足し米価が上がる所から
十団子も小粒になるという、東海道を何度も行き来した人にはわかるあるある
ネタだったのだろう。
江戸時代の道は古代・中世の蔦の細道ではなく、若干北側のルートを通る。
島田には塚本如舟邸跡があった。「むめがかに」の巻の十六句目のところで芭蕉が元禄七年の最後の旅の途中、島田で曾良と杉風に宛てて二通の手紙を書いたその場所だと思われる。
なかなか楽しい旅で、詳しくはmixiの方に書いている。みんなの日記で公開している。
一日は家でゆっくり休み、二日にはいつもの年同様、武州柿生琴平神社へ初詣に行った。
三日は「街道を行く、東海道編」の続きで静岡から島田まで歩いた。
安倍川の川会所跡には由井正雪墓址碑があって、延宝6年(1678)の芭蕉と杉風との両吟、
よしなき 千万
夢なれや 夢なれや 杉風
を思い出した。
伏字で何のことかわからないが、本来は、
よしなき謀反笑止千万
夢なれや由比正雪夢なれや 杉風
だったという。これに芭蕉は、
夢なれや由比正雪夢なれや
さてさて荒(あれ)し軒の宿札 芭蕉
と付けている。
由井正雪は慶安4年(1651)に当時の減封・改易によって生じた牢人たちを集めて江戸城を焼き討ちし、自らは京都で決起して天皇を拉致して担ぎ上げて政権を奪取する予定だったが、計画は事前に発覚し、正雪は駿府宿(静岡)で捕り方に囲まれ自決したという。芭蕉の句はその時の情景を想像してのものか。
丸子宿というと、慶長元年創業で元禄4年に芭蕉が詠んだ、
餞乙州東武行
梅若菜丸子の宿のとろろ汁 芭蕉
の句が思い出される。
この句は丸子宿で詠んだものではなく、前書きにあるように、近江の国の大津で乙州(おとくに)が江戸に向かう際に餞(はなむけ)の句として詠んだものだ。これから東海道を登るなら、丸子の宿のとろろ汁がおすすめだよ、というような意味か。これに対し乙州は、
梅若菜丸子の宿のとろろ汁
笠新しき春の曙 乙州
と答える。
丸子というと忘れてはならない、と言いながら実は忘れていたのだが、水無瀬三吟、湯山三吟に参加した柴屋軒宗長の柴屋軒があった所だ。現在は吐月峰柴屋寺になっているらしい。このとき思い出していれば行ってみたのだが、忘れてた。
宇津ノ谷は昔は宇津の山とも言われ、かつては伝路があり、山越えの細い道は『伊勢物語』にも描かれ、そこから「蔦の細道」と呼ばれるようになった。
十団子はここの古くからの名物で、『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の大永4年(1526)の6月16日のところに、
「府中、境(おり)ふし夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十(とを)だんごといふ、一杓子に十づつ、かならずめらうなどにすくはせ興じて、夜に入て着府。」
とある。宗長の時代ですら既に「むかしより」だった。
十団子というと、芭蕉の弟子の許六の、
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
の句がある。秋風の吹く頃になると収穫直前で米が不足し米価が上がる所から
十団子も小粒になるという、東海道を何度も行き来した人にはわかるあるある
ネタだったのだろう。
江戸時代の道は古代・中世の蔦の細道ではなく、若干北側のルートを通る。
島田には塚本如舟邸跡があった。「むめがかに」の巻の十六句目のところで芭蕉が元禄七年の最後の旅の途中、島田で曾良と杉風に宛てて二通の手紙を書いたその場所だと思われる。
なかなか楽しい旅で、詳しくはmixiの方に書いている。みんなの日記で公開している。
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