2021年2月6日土曜日

  そういえば昨日は近所の河津桜が何輪か咲いていた、春は近い。

 それでは「わすれ草」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   木具屋の扇沖の春風
 住吉の汐干に見えぬ小刀砥    桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 我が袖は汐干に見えぬ沖の石の
     人こそしらねかはく間もなし
               二条院讃岐(千載集)

の歌が引用されている。
 汐干に見えぬ石を砥石のこととして、木具屋を導き出す序詞とする。
 二十句目。

   住吉の汐干に見えぬ小刀砥
 箔の姫松縫ものをとく      千春

 姫松は小松のこと。『伊勢物語』の一一七段に、

 われ見ても久しくなりぬ住吉の
     きしの姫松いくよ経ぬらむ

の歌がある。
 前句の「小刀」を箔付けに用いる小刀とし、それで縫物をほどこうとして海に落としてしまった。
 「小刀砥」は「小刀と」になり、「箔の姫松」はおそらくその小刀の名前だろう。
 二十一句目。

   箔の姫松縫ものをとく
 ししばばに襁褓も袖も絞りつつ  信徳

 「しし」は尿、「ばば」は糞。「襁褓(むつき)」はおむつのこと。
 箔の姫松を女の名前として、縫物を解いていると抱いていた赤ちゃんがお漏らしして、おむつも袖も絞ることになる。
 二十二句目。

   ししばばに襁褓も袖も絞りつつ
 枕ならべし腰ぬけの君      桃青

 襁褓(むつき)には褌の意味もある。同衾していた御殿様が賊が押し入ったのかお化けが出たのか、とにかくびびって失禁脱糞し、褌と袖を絞る。
 二十三句目。

   枕ならべし腰ぬけの君
 踏はづす天の浮はし中絶て    千春

 春の夜の夢の浮橋とだえして
     峰にわかるる横雲の空
               藤原定家(新古今集)

を踏まえたもので、雲が切れたため雲の浮橋から落ちてしまい、夢とわかってもすっかり腰が抜けてしまった人よ、と女の方があきれている。
 二十四句目。

   踏はづす天の浮はし中絶て
 脛の白きに銭をうしなふ     信徳

 久米の仙人のよく知られた話だが、洗濯女はじつはあばずれで気を失っている間に銭を取られる。
 久米の仙人については、コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「古代に伝承された仙人。《今昔物語集》巻十一によれば,昔,大和の国吉野に竜門寺という寺があり,安曇(あずみ)と久米の2人が仙術を修行していた。久米が飛行の術をえて空を飛び渡るとき,吉野川の岸で若い女が洗濯をしており,その白い〈はぎ〉を目にしたため彼は通力を失って落ちてしまう。久米はこの女を妻にし俗人として暮らしていたが,新都造営の人夫となり働くうち元仙人ということが伝わり,仙力で材木を空から運ぶよう命じられる。」

とある。
 二十五句目。

   脛の白きに銭をうしなふ
 滑川ひねり艾に火をとぼし    桃青

 前句をお灸でお金を支払ったとする。
 滑川(なめりがわ)は鎌倉の朝比奈を水源として鎌倉市街の東を通り由比ガ浜と材木座海岸の間にそそぐ川だが、ここで滑る川という意味で滑って転んで足をひねって艾(もぐさ)に火をつけて、となる。
 二十六句目。

   滑川ひねり艾に火をとぼし
 鶴が岡より羽箒の風       千春

 鎌倉なので鶴ケ岡八幡宮。鶴の縁で羽。その羽箒で艾の灰を払ったり、風で煽って火加減を調整したりする。
 二十七句目。

   鶴が岡より羽箒の風
 いはうきはう利久といつし法師有て 信徳

 「いはうきはう」は已往既往で昔々ということ。「いつし」は「言ひし」が促音化したものか。鶴が丘は縁があるのかどうかわからないが、鶴の羽で作った羽箒は茶道で用いる。
 二十八句目。

   いはうきはう利久といつし法師有て
 朝比奈の三郎よし秀の月     桃青

 朝比奈三郎義秀はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「[生]安元2(1176)?
  [没]建保1(1213)?
 鎌倉時代初期の武士。和田義盛の3男,三郎と称した。鎌倉幕府御家人中で抜群の武勇をもって知られた。正治2 (1200) 年将軍源頼家が海辺遊覧の際,水練の技を披露せよと命じられ,水中深くもぐってさめを手取りにして人々を感嘆させたという。建保1 (13) 年5月父義盛が鎌倉で北条義時と戦ったとき (→和田合戦 ) ,和田方の勇士として奮戦し,将軍の居所の正面から攻め込み,多数の武士を倒した。敵兵は義秀の進路をつとめて避けたと伝えられる。和田方が敗北するに及び,義秀は海路安房国へ向って逃走したが,その直後に戦死したらしい。なお『源平盛衰記』は,和田義盛が先に木曾義仲の妾であった巴 (→巴御前 ) をめとって義秀が生れたと伝えているが,『吾妻鏡』に義秀は建保1年に 38歳とあることから,この説は成立しない。」

とある。利休とは時代が合わないが、前句を狂言の口調としての付けであろう。
 二十九句目。

   朝比奈の三郎よし秀の月
 虫の声つづり置たる判尽し    千春

 判尽しは花押集のことだと『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある。
 「つづる」には書き記すという意味と綴じ合わすという意味があり、虫が糸で葉や米などを集めて繭を作ったりすることも「つづる」と言う。
 月と虫の音が付け合いで、朝比奈三郎義秀に花押の判尽くしを付ける。
 三十句目。

   虫の声つづり置たる判尽し
 いさご長じて石摺の露      信徳

 「いさご長じて」は謡曲『氷室』に、

 「さもいさぎよき、水底の砂(いさご)。長じてはまた、巌の陰より」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.5177-5180). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。この言葉のもとになっているのは、

 わが君は千代に八千代にさざれ石の
     巌となりて苔のむすまで
             よみ人しらず(古今集)

で、上五を「君が代は」に変えれば今の日本の国歌になる。ここでは石を導き出すための序詞として用いられている。
 「石摺(いしずり)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「石碑の面や木,石に刻した文字の上に紙を当てて墨をつけ,刻まれた文字を写し取ったもの。いわゆる拓本摺 (→拓本 ) のこと。中国では古くから能書家の筆跡を手本や鑑賞のため,この方法で写し取ることが盛んであった。石摺を集めたものを法帖といい,五代の『昇元帖』,宋代の『淳化閣帖』などが早い作品として著名。」

とある。
 判尽くしは石刷りで作られている。「虫の声」に「露」が付け合い。
 「此梅に」の巻の七十句目の所でも述べたが、月→虫の声→露という古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに朝比奈の三郎よし秀→判尽し→石摺というネタをつないでゆく。

2021年2月5日金曜日

 ミャンマーのことでみんな気づいてはいると思うけど、バイデンさんが就任した直後だということと、クーデターの理由が選挙に不正があったからと、明らかにトランプさんに重なるようなことを言っていることで、かなりあからさまな挑発なのではないかということだ。やれるもんならやってみろ、俺には中国がついているんだと言いたいのか。とにかくバイデンさんを舐めているといってもいい。
 まあ、頭の良いバイデンさんなら、あくまで常識的な正攻法でしか来ないと見ているのだろう。新月の夜にドローンが飛んでくることを心配する必要はない。

 それでは「わすれ草」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   紙燭けしては鶉啼く也
 ああ誰じや下女が枕の初尾花   桃青

 「初尾花」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 秋になって初めて穂の出た薄(すすき)。《季・秋》
  ※万葉(8C後)二〇・四三〇八「波都乎婆奈(ハツヲバナ)花に見むとし天の河隔りにけらし年の緒長く」

とある。

 さ牡鹿の入野の薄初尾花
     いつしか妹が手枕にせむ
              柿本人麻呂(新古今集)

の歌にも詠まれている。通う男をさ牡鹿、相手を初尾花に喩えた、要するに夜這いの歌。俳諧だと下女に見つかり「ああ誰じゃ」と問い詰められたので、男は紙燭を消して鶉の鳴き真似をする。
 八句目。

   ああ誰じや下女が枕の初尾花
 百にぎらせてたはぶれの秋    千春

 目当ての女に仕えている下女に百文握らせて手引きしてもらい、初尾花をいただく。
 九句目。

   百にぎらせてたはぶれの秋
 仇し世をかるたの釈迦の説れしは 信徳

 「かるたの釈迦」はうんすんかるたのソータ(十の札:トランプのジャックに相当する)で、コトバンクの「ソータ」の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (sota) ウンスンカルタの札の一つ。本来はトランプのジャックに当たる札。天正年間(一五七三‐九二)日本に渡来したとき女性の姿に変わり一〇番目の札になった。のち、僧侶とまちがえられ、頭を剃った坊主姿の札となった。坊主とか釈迦とか呼ばれ一〇番目の札であるところから釈迦十(しゃかじゅう)ともいう。
  ※俳諧・鷹筑波(1638)一「あざやかな月にそふたを刈田哉〈一次〉」

とある。
 「仇し世」は無常の世でかるたの釈迦が説くには、百文払ってうんすんかるたで遊びなさい、とのこと。
 十句目。

   仇し世をかるたの釈迦の説れしは
 あるひはでつち十六羅漢     桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によると、十六と双六の重六とを掛けているという。重六はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 二個の賽(さい)に共に六の目が出ること。ちょうろく。
  ※金刀比羅本平治(1220頃か)上「双六のさいのめに〈略〉二が二つおりたるを重二といふ、重五(でっく)重(ヂウ)六といふも謂たり」

とある。今日でいう六ゾロのことのようだ。
 釈迦がカルタならその弟子の十六羅漢は双六のサイコロの重六で、双六で賭け事をする十六になる丁稚、ということになる。
 十一句目。

   あるひはでつち十六羅漢
 又男が姿かたちはかはらねど   千春

 「又男」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「大阪の物真似の名人。『物種集』序に『川原もの又男がつけ髪松千代が柿頭巾もかづき物ぞかし』。」

とある。ネット上にある石井公成『物真似芸の系譜─仏教芸能との関係を中心にして─(上)』に、

 「そうした一人であって元禄歌舞伎で活躍した又男三郎兵衛は、仁王や十六羅漢や観音の三十三身を演じることで有名だった。」

とあるが、同じ人か。当時歌舞伎役者は非人の身分だから「川原もの」とも呼ばれていただろう。
 十六羅漢の物真似をレパートリーにしてたようだが、丁稚の真似はどうだったか。
 十二句目。

   又男が姿かたちはかはらねど
 古い羽折に老ぞしらるる     信徳

 「羽折」は羽織のこと。物真似師の演ずるキャラは昔も今も変わらないが、長年やっているので羽織が古くなっている。
 十三句目。

   古い羽折に老ぞしらるる
 つくづくと記念のややを寝させ置 桃青

 「やや」は赤ん坊のこと。亡き夫の形見の子どもを寝かしつけてはいるが、古びた羽織に老いが知られる。
 十四句目。

   つくづくと記念のややを寝させ置
 結びもとめぬざんぎりの露    千春

 「ざんぎり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 ちょんまげを切り落として、刈り込んだ髪形。明治初期に流行し、文明開化の象徴とされた。散切り頭。斬髪(ざんぱつ)。
  2 髪を切り乱して結ばずにそのままにしておくこと。また、その髪形。散らし髪。」

とある。この場合はもちろん2で、女手一つで子を育てる忙しさに髪を結う余裕もない。
 十五句目。

   結びもとめぬざんぎりの露
 鎖がまもれて出たる三日の月   信徳

 前句の「ざんぎり」を斬・切りと鎖鎌で斬りつけることとしたか。結び留めてない鎖鎌が吹っ飛んできて、それが三日月のように光る。
 十六句目。

   鎖がまもれて出たる三日の月
 雲井に落る鳫の細首       桃青

 鎖鎌が斬ったのは鳫の首だった。
 十七句目。

   雲井に落る鳫の細首
 料理人御前を立て花の浪      千春

 前句の雲井を御所のこととして、料理人が花見の宴のために呼ばれる。鳫がその場で捌かれる。
 雲井と浪は、

 わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの
     雲ゐにまがふ沖つ白波
           藤原忠通(詞花集)

の縁。
 十八句目。

   料理人御前を立て花の浪
 木具屋の扇沖の春風       信徳

 「木具(きぐ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 檜の白木で作った器物。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)上「きれいなる物の品々〈略〉木具(キグ) かはらけ」
  ② 特に足付きの折敷。足打折敷(あしうちおしき)。木具膳。
  ※親元日記‐寛正六年(1465)三月四日「御一献両所其木具土器御箸已下散二金銀一被レ書レ絵之御例云々」
  ※随筆・貞丈雑記(1784頃)七「木具(きぐ)と云はすべて檜の木の白木にて作りたる也〈略〉然るに今は足付の事斗を木具と云」

とある。
 前句の「御前」を木具膳として、木具屋の扇を花の浪の向こうの那須与一の的に見立てる。

2021年2月4日木曜日

  今日は春一番が吹いた。そんな暖かいと感じなかったけど、一応南西の風が強く吹いたので、春一番と認定されたようだ。
 インドの農業新法はあまり詳しいことはわからないが、事情が何か日本のかつての食糧管理法の撤廃に似ている気がする。日本のかつては米は国が買い上げるもので勝手に流通させてはいけなかった。途中一分自主流通米が求められるようになって、子供の頃は確かに両方売っていたが、自主流通米は高いという印象があった。学生の頃、鹿児島で自炊するようになったときは標準価格米を買っていた。
 食糧管理法は一九九五年に廃止され、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律に変わった。さまざまなブランド米が競争する時代が来たが、米の値段が高騰することもなかったし、農業の衰退が特別早まることもなかったし、そんなに何かが変わったという気はしない。
 今の日本の農業も旧態依然の流通制度があまり変わらず、スマート農業がなかなか浸透しない。むしろ流通の分野ではインドの方がはるかに進んでいるように思える。ただ、零細農家が多いというのは日本と共通していると思う。改革は否定しない。上手く妥協しながら進めてほしいと思う。
 生産・流通・消費がネットとAIによって統括される時代は必ず来ると思うし、効率の良い生産・流通・消費システムを実現することがCO2を減らすことにつながると思う。

 さて、旧暦の師走はまだ続くので冬の俳諧をもう一巻。
 「あら何共なや」の巻の翌年延宝六年冬。京の信徳ともう一人京から来た千春との三吟歌仙になる。
 発句は、

 わすれ草煎菜に摘まん年の暮   桃青

で、もう暮れも押し迫った「年忘れ」の頃の興行であろう。
 忘れ草は萱草(かんぞう)のことだと言われている一方で「しのぶ草」の別名とも言われている。これだとシダの一種になる。
 『伊勢物語』百段に、

 忘れ草おふる野辺とは見るらめど
     こはしのぶなりのちも頼まむ

の歌がある。
 『菟玖波集』の、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻      救済

の句も、心敬の『筆のすさび』に、

   草の名も所によりてかはるなり
 軒のしのぶは人のわすれか

という別解がある。
 俳諧では後の『奥の細道』の旅の小松で興行された「しほらしき」の巻の二十九句目に、

   恋によせたる虫くらべ見む
 わすれ草しのぶのみだれうへまぜに 觀生

の句がある。これだとわすれ草とシノブを植え混ぜにするから別種と認識されている。
 萱草の方は食べられる。ウィキペディアには、

 「若葉は、おひたしにして、酢味噌で食べる。花の蕾は食用され、乾燥させて保存食(乾物)とする。中華料理では、主に「金針花」(チンチェンファ jīnzhēnhua)、「黄花菜」(ホワンホアツァイ huánghuācài)と称する花のつぼみの乾燥品を用い、水で戻して、スープの具にすることが多い。」

とある。
 煎菜(いりな)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 ゆでて二、三寸くらいに切った菜を酒、しょうゆ、塩などで味をつけて煎りつけた料理。
  ※俳諧・俳諧一葉集(1827)「わすれ草煎菜につまん年の暮〈芭蕉〉 笊籬(いかき)味噌こし岸伝ふ雪〈千春〉」

とある。
 年忘れに忘れ草を食べようという発句だが、「摘まん」だからまだ入手してないようだし、洒落で言っただけで本当に食べたわけではないのだろう。
 脇。

   わすれ草煎菜に摘まん年の暮
 笊籬味噌こし岸伝ふ雪      千春

 「笊籬(いかき)」はコトバンクの「世界大百科事典内の笊籬の言及」に、

 「…水が漏れるところから,むだの多いことのたとえに〈ざるに水〉,へたな碁を〈ざる碁〉などという。10世紀の《和名抄》は笊籬(そうり)の字をあてて〈むぎすくい〉と読み,麦索(むぎなわ)を煮る籠としているが,15世紀の《下学集》は笊籬を〈いかき〉と読み,味噌漉(みそこし)としている。いまでも京阪では〈いかき〉,東京では〈ざる〉と呼ぶが,語源については〈いかき〉は〈湯かけ〉から,〈ざる〉は〈そうり〉から転じたなどとされる。…」

とある。味噌濾しのこと。煎った萱草の芽を味噌あえにして食べようというので、雪の降る岸に摘みに行く。
 第三。

   笊籬味噌こし岸伝ふ雪
 浜風の碁盤に余る音冴て     信徳

 あげはま(囲碁で取った相手の石)が碁盤の外でじゃらじゃら音を立てるが、それにも勝る浜風の音がして、岸にはまるで味噌漉しで篩ったような粉雪が降る。
 四句目。

   浜風の碁盤に余る音冴て
 磯なれ衣おもくかけつつ     桃青

 昔は賭け碁も多かった。なれた衣を賭けての勝負だが、負ければまっぱ?
 「磯なれ」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「潮風のために、木の枝や幹が地面にはうように生えていること。また、その木。
 「をちこちに花咲きぬれば鷺のゐる―の松に見ぞ紛へける」〈散木集・一〉」

とある。馴衣(なれごろも)を導く枕になる。
 五句目。

   磯なれ衣おもくかけつつ
 鼠とりこれにも月の入たるや   千春

 前句を潮風でよれよれになった衣として、舞台を海から部屋のなかへ移動させる。
 鼠捕りには升落としという罠をかけるものと殺鼠剤との両方がある。升落としは升に仕え棒して中の餌を食べると升が落ちるというもので、同じように籠を使って鳥をとらえる罠は古くからあったと思われるから、その応用になる。
 衣類は鼠に食われやすいので、罠なのか薬なのかはよくわからないがその傍に置いておくが、月の光がさして罠が目立ってしまうと困る。うづらなく
 六句目。

   鼠とりこれにも月の入たるや
 紙燭けしては鶉啼く也      信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、礼記「田鼠化して鶉トナル」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「(古代中国の俗信によることば) モグラがウズラになる。七十二候の一つで、陰暦三月の第二候をいう。《季・春》
  ※文明本節用集(室町中)「鶉 ウヅラ 田鼠化為レ鶉 田鼠蛙也」 〔礼記‐月令〕」

とある。ウィキペディアの「七十二候」によれば宣明暦「清明」の次候になる。渋川春海が「本朝七十二候」を定めたのは貞享の改暦(一六八四年)の時なので、この頃にはまだない。「本朝七十二候」だと「雁が北へ渡って行く」になる。
 鼠捕りに月の光が射してきたので紙燭を消すと、鼠が「化(け)して」鶉になったのか鶉が鳴いている。「けして」が掛詞になる。

2021年2月3日水曜日

  今日は立春。
 ところでミャンマーだが、報道だといつも北部に住む少数民族のことが忘れられているという感じがする。ロヒンギャばかりが取り上げられるが、問題はそれだけではない。ミャンマーが多様な民族が上手く棲み分けできるような国になってほしいし、独立を望むならそれを支援してほしい。虐殺に手を染めた婆さんを救出するより、もっと長い目であの国の行く末を見守ってくれ。
 ワ族は名前からして日本人の遠い親戚である可能性もある。あの辺の他の民族もかつての江南系の文化を残していて、同じ長江文明の末裔として日本が手を差し伸べてもいいのではないか。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。挙句まで。

 名残裏。
 九十三句目。

   すは請人か芦の穂の声
 物の賭振舞にする天津雁      信徳

 芦に雁は「刈」と掛けることで縁語になる。
 振舞(ふるまい)はサイコロを振るに掛けていて、サイコロの目に恩恵を施す天津神となるところを前句の芦との縁で天津雁とする。恩恵を施してくれるのは天津神ならぬ天津雁が請人で、さっさと稼いで借金返せということなのか。天津雁は、天津「借り」でもある。
 九十四句目。

   物の賭振舞にする天津雁
 木鑵子の尻山の端の雲       桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「『百物語』(万治二年刊)にある笑話。『やける』と言うと負けになる賭で、伽羅木の鑵子を炉にかけるという話をして」

とある。木でできた薬缶は火にかければ焼ける。山の端の雲の朝焼け夕焼けで焼ける。夕焼け空と天津雁は縁になる。
 この『百物語』についてはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「仮名草子(咄本(はなしぼん))。二巻二冊。編者未詳。1659年(万治2)刊。「百物語をすればかならずこはき物あらはれ出る」と聞いて百物語をしてみたが、太平の御代(みよ)に恐いものなどは現れぬと大笑いした、という序のもとに、100の笑話を集録した作品。宗鑑や一休、策彦(さくげん)、紹巴(じょうは)、宗祇(そうぎ)、貞徳などの著名人を登場させて読者の興をひく話、狂歌や付句(つけく)のおかしみをねらった話、落ちのおもしろさをねらった話などが雑纂(ざっさん)的に並列されているが、中世末から近世初頭の時代風潮を反映した話も少なくない。『きのふはけふの物語』や『醒睡笑(せいすいしょう)』ほどの影響力はもたないにしても、それらとともに、近世を通じて流行する笑話本の先駆けをなしたものとして注目される作品の一つである。[谷脇理史]
『武藤禎夫・岡雅彦編『噺本大系1』(1975・東京堂出版)』」

とある。
 本来の百物語は怪談だが、この『百物語』だけは違うようだ。
 九十五句目。

   木鑵子の尻山の端の雲
 人形の鍬の下より行嵐       信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「祇園祭の郭巨山」とある。郭巨山(かっきょやま)は「京都 祇園祭 郭巨山公式ホームページ」に詳しく書かれている。後漢の郭巨は捨て子をしようとして鍬で穴を掘ったら黄金の釜が出てきたという。
 人形の持ち物だから本物の金の釜ではなく木で作られたまがい物。「山の端の雲」の縁で「行嵐」とする。
 九十六句目。

   人形の鍬の下より行嵐
 畠にかはる芝居さびしき      信徳

 仮説の芝居小屋は去って行って元の畠に戻る。人形劇は嵐のように去っていった。
 九十七句目。

   畠にかはる芝居さびしき
 この翁茶屋をする事七度迄     桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『白髭』の、

 「翁答へて申すやう、われ人寿、六十歳の初めより、この山の主として、この湖の七度まで、蘆原になりしをも、正に見たりし翁なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.9255-9259). Yamatouta e books. Kindle 版.より)

の一節を引いている。
 本地垂迹に基づいた近江白髭神社の起源をテーマにした能で、蘆原中つ国に住む翁を描いた部分になる。仏法に帰依し白髭の神となる。
 句の方は翁を芝居が来るたびに芝居茶屋を七度やって、今は畠になったとする。
 九十八句目。

   この翁茶屋をする事七度迄
 住吉諸白砂ごしの海        信章

 諸白(もろはく)はウィキペディアに、

 「日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。」

とある。住吉に寄せる白波を酒の諸白にして、高砂の翁が茶屋をする。
 九十九句目。

   住吉諸白砂ごしの海
 淡路潟かよひに花の香をとめて   信徳

 淡路島は住吉からすると大阪湾の向かい側にある。謡曲『淡路』にも、

 「われ宿願の仔細あるにより、住吉玉津島に参詣仕りて候。又よきついでにて候へ ば、これより淡路の国に渡り、神代の古跡をも一見せばやと存じ候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.3958-3964). Yamatouta e books. Kindle 版.より)

とある。
 挙句。

    淡路潟かよひに花の香をとめて
 神代このかたお出入の春      主筆

 前句の「かよひ」を通い帳のこととして、金銭の出入り盛んな春とする。神代より栄えるこの国を言祝いで一巻は目出度く終了する。

2021年2月2日火曜日

  今日は節分でいつもより一日早い。旧暦だと明日は年内立春になる。春だけど俳諧ではまだ冬が続く。
 今年は鬼は外ではなく「鬼は斬る、禰󠄀豆子ちゃんは内」になるのかな。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   匂ひをかくる願主しら藤
 鈴の音一貫二百春くれて      桃青

 願掛の儀式を行ってもらったが、神主さんが鈴を一振りするたびに一貫二百文の金が出て行く。
 八十句目。

   鈴の音一貫二百春くれて
 かた荷はさいふめてはかぐ山    信章

 「さいふめる」は「細布+めく」だろう。細布のようなもの。バールのようなものは古語だと「バールめくもの」になるのだろうか。
 細布はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 奈良・平安時代、細い糸で織った布。原料は麻、紵など。上質の布。一般の調布よりも幅が狭く、一端の長さが長く軽い。
  ※続日本紀‐和銅七年(714)二月庚寅「去レ京遙遠、貢調極重。請代二細布一、頗省二負担一。其長六丈」
  ② 綿織物の一種。経(たていと)緯(よこいと)とも二〇番ないし二四番ぐらいの細い単糸を、細かく平織にしたもの。」

とある。
 天秤の片方には鈴、片方には細布で春の暮に香具山の方へと運ぶ。
 「春くれて」「かぐ山」の縁は、

 春過ぎて夏来にけらし白妙の
     衣ほすてふ天の香具山
           持統天皇(新古今集)

による。
 八十一句目。

   かた荷はさいふめてはかぐ山
 雲助のたな引空に来にけらし    信徳

 雲助はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 江戸時代、住所不定の道中人足。宿駅で交通労働に専従する人足を確保するために、無宿の無頼漢を抱えておき、必要に応じて助郷(すけごう)役の代わりに使用したもの。くも。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「雲助のたな引空に来にけらし〈信徳〉 幽灵(ゆうれい)と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉」
  ② 下品な者や、相手をおどして暴利をむさぼる者などをののしっていう。
  ※甘い土(1953)〈高見順〉「気の弱そうなこの男が、一時は『雲助』とまで言われた流しの運転手を、よくやれたものだ」

とある。近代ではタクシーやトラックの運転手への蔑称としても「雲助」という言葉が用いられていた。
 細布を運ぶのは雲助で、雲と名がつくだけあってたなびく空から香具山に降りてくると、これはシュールネタ。

 ほのぼのと春こそ空に来にけらし
     天の香具山霞たなびく
            後鳥羽上皇(新古今集)

をふまえる。
 八十二句目。

   雲助のたな引空に来にけらし
 幽霊と成て娑婆の小盗       桃青

 空中に漂っているということで前句の雲助を幽霊とした。ただ、雲助はこの頃からいかにも小盗みをしそうなならず者というイメージだったようだ。
 八十三句目。

   幽霊と成て娑婆の小盗
 無縁寺の橋の上より落さるる    信章

 「無縁寺」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[1] 弔う縁者がなかったり、身元の知れなかったりする死者を葬る寺。無縁仏を回向(えこう)するための寺。むえんでら。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「幽霊と成て娑婆の小盗〈芭蕉〉 無縁寺の橋の上より落さるる〈信章〉」
  [2] 東京都墨田区両国にある浄土宗の寺、回向院の寺号。山号は諸宗山。明暦三年(一六五七)の大火で焼死した十万八千余の無縁仏をこの地に埋葬し、その菩提を弔うために建立。開基は遵誉。開山は自心。以後、江戸の無縁仏はすべてこの寺に葬られた。」

とある。回向院が両国橋の所にあったので「橋の上より落さるる」としたのであろう。
 八十四句目。

   無縁寺の橋の上より落さるる
 都合その勢万日まいり       信徳

 「都合その勢」と軍記物のように思わせて、一万の兵ではなく万日参りの賑わいだった。
 千日参りだと、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 祈願のため千日の間、毎日、神社・仏閣に参詣すること。千日。千日詣。
  ※多聞院日記‐永祿九年(1566)正月二三日「愚身千日参・七月精進・七夜待以下の行をするを」
  ② 特に、江戸時代、一日参詣すると千日分の功徳に値するとされた特定の日。また、その日に参詣すること。江戸の浅草寺では陰暦七月一〇日、京都の愛宕神社では陰暦六月二四日。千日詣。四万六千日。〔日次紀事(1685)〕」

とあるが、万日参りはないところを見ると信徳さんが少々盛ったか。
 八十五句目。

   都合その勢万日まいり
 祖父祖母早うつたてや者共とて   桃青

 「うつたつ」は「うっ発つ」で出発のことで、爺さん婆さんが「はよ行ってこいや」っという感じか。「ものども」というところで何か合戦に行くみたいなイメージになり、前句につながる。
 八十六句目。

   祖父祖母早うつたってや者共とて
 鼓をいだき草鞋しめはく      信章

 前句の「うつたてや」を鼓を「打ったてや」と両方の意味にする。「うっ発てや」の意味もあるので草鞋を履く。
 八十七句目。

   鼓をいだき草鞋しめはく
 米袋口をむすんで肩にかけ     信徳

 昔の人は60キロの米俵を誰もが担いでいたという。ネット上に五俵300キロを担いでいる写真があるが、あれはやらせで、いくらなんでも無理だ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『百万』の、「親子のちぎり麻衣、肩に結んで裾にさげ、裾を結びて肩にかくる、筵ぎれ」を引用している。これは嵯峨の大念仏に向かう場面。
 八十八句目。

   米袋口をむすんで肩にかけ
 木賃の夕部風の三郎        桃青

 木賃宿はウィキペディアに、

 「本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。」

とある。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「木銭宿ともいう。宿泊代金が薪水の費用のみであった頃の旅宿の呼称。慶長 19 (1614) 年の令には,「旅人駅家に投じてその柴薪を用うれば,木賃鐚銭三文を出し…」というのがある。野宿から旅籠 (はたご) に移る過渡期の宿泊所で,鎌倉時代に生れた。近世以降はきわめて宿泊料の安い宿泊所をいうようになった。」

とある。
 米持ち込みだが、旅ともなるとさすがに米俵ではなく、何日分かの米を入れる米袋があったのだろう。
 風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。
 ウィキペディアの「風神」の所には、

 「第3義には、江戸時代の日本にいた乞食の一種で、風邪が流行った時に風邪の疫病神を追い払うと称して門口に立ち、面をかぶり鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして金品をねだる者、すなわち「風神払/風の神払い(かぜのかみはらい)」を指す。」

とあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 「③ こじきの一種。江戸時代、風邪がはやった時、風の神を追い払うといって、仮面をかぶり、太鼓を打って、金品をもらい歩いた者。風の神払い。」

とある。木賃宿に泊まるのはこの風神か。
 八十九句目。

   木賃の夕部風の三郎
 韋達天もしばしやすらふ早飛脚   信章

 前句の風神風の三郎を早飛脚とする。足の早い韋駄天もその速さにしばし立ち止まってしまうほど早い。
 九十句目。

   韋達天もしばしやすらふ早飛脚
 出せや出せと責る川舟       信徳

 いくら足の早い飛脚も川止めにあってはどうしようもない。早く舟を出せと急かす。
 九十一句目。

   出せや出せと責る川舟
 走り込追手㒵なる波の月      桃青

 舟を出せと何をそんなに急いでいるのか。波に映る月が追手に見えるのか。月が沈むまでに渡りたいということか。
 九十二句目。

   走り込追手㒵なる波の月
 すは請人か芦の穂の声       信章

 請人は連帯保証人のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「鎌倉,室町時代の荘園において,地頭,荘官らが一定額の年貢納入を荘園領主に対して請負う場合 (→請所 ) ,請負う側のものを請人といった。また,中世,近世における保証人を請人と称した。中世における請人は,債務者の逃亡,死亡の場合に弁償の義務を負い,債務者の債務不履行の場合にも,請人に弁償させるためには保証文書にその旨を記載する必要があった。近世における請人は,人請,地請,店請,金請などの場合が主であったが,金請の場合中世とは異なり,債務者の債務不履行の場合当然に弁償の義務を負い,債務者の死失 (死亡) の際に請人に弁償させるためには債務証書にその旨を記載する必要があった。しかし,宝永1 (1704) 年以降,死失文言の有無にかかわらず,債務者死失のときも請人が弁償すべきものとされた。」

とある。近代でも「連帯保証人」という名前で民法に規定されてきた。基本的に無限責任だったため、他人の拵えた借金で破産・一家心中など悲惨なことになっていた。去年2020年にようやく補償すべき債務の限度額を契約書に明記しなければならなくなった。
 ある意味近代のような法治国家の方が過酷だったかもしれない。江戸時代であれば請人が借金をした張本人を自力救済で締め上げることもできただろう。
 請人につかまったらどうなるか分かったもんではない。芦の穂の向こうから物音が聞こえてくると請人が追ってきたのかとびくっとする。実際は波の音だった。

2021年2月1日月曜日

  東京のコロナの新規感染者数が500人どころか400人を切った。まあ、月曜はいつも少ないから今日は500人を切ると予想したのだが。
 死者の方は今がピークだろう。今週中には6000人越えるだろうな。
 それと鈴呂屋書庫の方に「花咲て」の巻「蜻蛉の」の巻をアップしたのでよろしく。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 三裏。
 六十五句目。

   森の朝影狐ではないか
 二柱弥右衛門と見えて立かくれ   信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『野宮(ののみや)』の、

 「夕暮の秋の風。森の木の間の夕月夜。影かすかなる木の下の。黒木の。鳥居の二柱に立ちかくれて失せにけり跡たちかくれ失せにけり。」

を引用している。伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮に『源氏物語』の六条御息所の霊の現れる物語だ。
 句の方は言葉だけ用いて朝の神社に弥右衛門が現れたのを狐ではないかとする。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には大蔵弥右衛門のこととする。狂言の大蔵流はウィキペディアに、

 「大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。
 猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。
 江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。」

とある。
 六十六句目。

   二柱弥右衛門と見えて立かくれ
 三笠の山をひつかぶりつつ     信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『春日龍神』の、

 「月に立つ影も鳥居の二柱御社の誓いも気色かな
 御社の誓いもさぞな四所の。神の代よりの末うけて。澄める水屋の御影まで塵に交わる神心。三笠の森の松風も。枝を鳴らさぬ気色かな枝を鳴らさぬ気色かな」

を引いている。三笠山は春日神社だから鳥居はあってもおかしくはない。
 春日神社には拝殿がなく、三笠山自体が御神体だという。鳥居をくぐる弥右衛門の上に三笠山が見えれば、あたかも三笠山を被ったかのように見えるが、句自体は巨大な山を頭に被るというシュールな印象を与える。
 六十七句目。

   三笠の山をひつかぶりつつ
 萬代の古着かはうとよばふなる   桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、『和漢朗詠集』の、

 萬代と三笠の山ぞよばふなる
     あめがしたこそたのしかるらむ

の歌を引用している。当時新品の着物はオーダーメイドで高価だったため、庶民は古着屋を利用するのが普通だったっという。
 六十八句目。

   萬代の古着かはうとよばふなる
 質のながれの天の羽衣       信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『呉服(くれは)』とある。応神天皇の時代に摂津住吉で御衣を織ったという呉織(くれはとり)漢織(あやはとり)を尋ねてゆく話で、そこで「君が代は天の羽衣まれにきて。撫づとも盡きぬ巌ならなん。」とある。「拾遺集」よみ人しらずの和歌。
 神代にも近い時代ということで「萬代の古着」を「天の羽衣」とする。
 六十九句目。

   質のながれの天の羽衣
 田子の浦浪打よせて負博奕     信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『富士山』を引く。謡曲『羽衣』でもいい。
 三保の松原の有名な羽衣伝説で、天の羽衣を拾った漁師が田子の裏で博奕に負けて、それが後に質に流れたとする。
 謡曲でも白竜という漁師は家の宝にしようと持ち帰ろうとする。天女の羽衣だといわれても、今度は国の宝にと持ち帰ろうとする。それがなければ天に帰れないといわれても、かえって増長して隠して持ち帰る。
 七十句目。

   田子の浦浪打よせて負博奕
 不首尾でかへる蜑の釣舟      桃青

 博奕に負けて海人は帰って行く。『校本芭蕉全集 第三巻』の注が引用する、

 さして行く方は湊の浪高み
     うらみて帰る蜑の釣舟
           よみ人しらず(新古今集)

は證歌になる。
 七十一句目。

   不首尾でかへる蜑の釣舟
 前は海入日をあらふうしろ疵    信章

 「入日をあらふ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 なごの海のかすみのまよりながむれば
     入日をあらふ沖つ白波
           藤原実定(新古今集)

を引く。ここでは入日(の頃)にうしろ疵を洗う、になる。
 「うしろ疵」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 身の後部に受けた傷。特に、逃げるときに後ろから切られた逃げ傷。これを恥とした武士の倫理感を受け継いで、一般に卑怯(ひきょう)な、不名誉なものとされた。⇔向こう傷。
  ※浄瑠璃・曾我扇八景(1711頃)十番斬「手おひぶりはあっぱれ見事、見ごとなれ共うしろきづ、にげきづなりとぞ」

とある。仇を討とうとして返り討ちにあったのだろう。沈む夕日が哀愁を誘う。
 七十二句目。

   前は海入日をあらふうしろ疵
 松が根まくら石の綿とる      信徳

 石綿はここではアスベストではなく「ほこりたけ(埃茸)」の異名だという。ウィキペディアに、

 「漢方では「馬勃(ばぼつ)」の名で呼ばれ、完熟して内部組織が粉状となったものを採取し、付着している土砂や落ち葉などを除去し、よく乾燥したものを用いる。咽頭炎、扁桃腺炎、鼻血、消化管の出血、咳などに薬効があるとされ、また抗癌作用もあるといわれる[6]。西洋でも、民間薬として止血に用いられたという。
 ホコリタケ(および、いくつかの類似種)は、江戸時代の日本でも薬用として用いられたが、生薬名としては漢名の「馬勃」がそのまま当てられており、薬用としての用途も中国から伝えられたものではないかと推察される。ただし、日本国内の多くの地方で、中国から伝来した知識としてではなく独自の経験則に基づいて、止血用などに用いられていたのも確かであろうと考えられている。」

とある。松の根を枕にして休み、怪我したからホコリタケで血を止める。
 謡曲『葛城』に、「袖の朝霜起臥の、岩根の枕松が根の」とある。
 七十三句目。

   松が根まくら石の綿とる
 つづれとや仙女の夜なべ散紅葉   桃青

 「つづる」は縫い合わせること。
 前句を「松が根枕」という枕の種類として、綿の代わりに石が入っていて、仙女が夜なべして落葉を縫い合わせて作る。
 七十四句目。

   つづれとや仙女の夜なべ散紅葉
 瓦灯の煙に俤の月         信章

 「瓦灯(かとう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「がとう」とも)
  ① 灯火をともす陶製の道具。方形で上がせまく下が広がっている。〔文明本節用集(室町中)〕
  ※俳諧・毛吹草(1638)五「川岸の洞は蛍の瓦燈(クハトウ)哉〈重頼〉」
  ② 「かとうぐち(火灯口)①」の略。
  ※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)四「見附の鏡戸くゎとう赤壁残らず毀(こぼ)ち、込入たる体にて」
  ③ 「かとうびたい(火灯額)」の略。
  ※浮世草子・好色一代女(1686)四「額際を火塔(クハタウ)に取て置墨こく、きどく頭巾より目斗あらはし」
  ④ 「かとうまど(火灯窓)」の略。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)延宝五之冬「つづれとや仙女の夜なべ散紅葉〈芭蕉〉 瓦灯(クハトウ)の煙に俤の月〈信章〉」

とある。
 ④だとするのは『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「漢の武帝が反魂香を焚いて」とあり、、ウィキペディアに、

 「もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという。」

とある。白居易の『李夫人詩』には

 又令方土合霊薬 玉釜煎錬金爐焚
 九華帳深夜悄悄 反魂香反夫人魂
 夫人之魂在何許 香煙引到焚香処

とあるから、この故事を付けたというのだろう。
 ただ、これだと前句との関連がよくわからない。①の意味だと紅葉散る季節に仙女が夜なべして繕い物をし、瓦灯が煙に霞んで月のように見える、となる。
 七十五句目。

   瓦灯の煙に俤の月
 我恋を鼠のひきしあしたの秋    信徳

 「あしたの秋」は秋の朝。後朝(きぬぎぬ)だけど鼠も逃げてゆく貧しさで、瓦灯の煙に去っていった人の俤の月を見る。
 七十六句目。

   我恋を鼠のひきしあしたの秋
 涙じみたるつぎ切の露       桃青

 「つぎ切(ぎれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「つぎきれ」とも) 着物などのつぎに使う小ぎれ。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※浄瑠璃・心中天の網島(1720)中「有りたけこたけ引出しても、つぎぎれ一尺あらばこそ」

 つぎ切で涙の露をぬぐう。
 七十七句目。

   涙じみたるつぎ切の露
 衣装絵の姿うごかす花の風     信章

 「衣装絵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「押絵のこと」とある。エキサイト辞書には、

 「押絵. 布細工の一種で,人物や花鳥の形を厚紙でつくり,裂(きれ)を押しつけて張り,その間に綿を入れて高低を ... そのほか手箱のふたや壁かけ,絵馬などにも用いられ,江戸時代には家庭婦人の手芸の一つとしておこなわれた。 ... 諸(もろもろ)の織物をもて,ゑを切抜(きりぬき),これをつくる〉とあり,衣装人形とか衣装絵とも呼ばれていたが,江戸時代中期には押絵と呼ばれるようになった。」

とある。
 衣装絵を縫うときの情景。風が花を散らし、それに何か悲しいことを重ね合わせたかつぎ切で涙をぬぐう。
 七十八句目。

   衣装絵の姿うごかす花の風
 匂ひをかくる願主しら藤      信徳

 前句の衣装絵を願掛けの絵馬とする。願主は「しら藤」、源氏名だろうか。

2021年1月31日日曜日

  今日も一日快晴。月がよく見える。
 コロナもこの調子だと月曜日の東京は500人切りそうだ。政府が無策でも感染が収まる、本当に不思議な国だ。感染者の監視システムはおろか、罰則もなければ義務すらない。
 思うにアンチというのは最初の流行に乗り遅れた人の中で、とりわけプライドの高い人というのは後追いするのを恥と思って、へっ俺はそんなもん興味ねえんだと強がってしまうところから生まれるんではないかと思う。
 去年の今頃既にネットでは中国が大変なことになっていると騒いでいたが、それに乗り遅れたプライドの高い人たちというのが、コロナなんてただの風邪だだとかコロナはフィクションだって言ってるんじゃないかな。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 三表。
 五十一句目。

   余波の鳫も一くだり行
 上下の越の白山薄霞       信徳

 雁が「こしのしらやま」を越えて行く。今は加賀白山(かがはくさん)と呼ばれている。

 君がゆく越の白山知らねども
     雪のまにまにあとはたづねむ
              藤原兼輔(古今集)

の歌に詠まれている。
 謡曲『白髭』に、「天つ雁、帰る越路の山までも」とある。
 「上下(かみしも)」は裃のことだが、ここでは「裃の腰」と掛けて枕詞のように用いられている。

 五十二句目。

   上下の越の白山薄霞
 百万石の梅にほふなり      桃青

 白山は加賀国にあるので加賀百万石の梅が匂う。
 五十三句目。

   百万石の梅にほふなり
 昔棹今の帝の御時に       信章

 「棹」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「ここでは検地のこと。『昔棹』は文禄の検地のことか」とある。いわゆる太閤検地。
 ちなみに延宝五年の時の帝は霊元天皇で寛文三年即位、貞享四年に退位した。
 五十四句目。

   昔棹今の帝の御時に
 守随極めの哥の撰集       信徳

 ウィキペディアによれば霊元天皇は、

 「霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。」

とある。
 守随(しゅずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、幕府の許しにより、東三三か国における秤のこと一切をつかさどる特権をもった、江戸秤座(はかりざ)守随彦太郎家。または、守随家によって製作、検定された秤。転じて、一般に秤をいう。なお西三三か国は、神善四郎家が、京秤座としてつかさどった。
  ※御触書寛保集成‐三四・承応二年(1653)閏六月「一 守随、善四郎二人之秤目無二相違一被二仰付一候上ハ、六拾六箇国ニて用レ之、遣可レ申事」

とある。前句の「棹」と縁がある。ただ、霊元天皇が守随を極めたとは思えない。
 五十五句目。

   守随極めの哥の撰集
 掛乞も小町がかたへと急候    桃青

 前句の「守随」を商人の持つ天秤として、「哥の撰集」だから小野小町の所へ年末決算の掛売りの代金を取りに行く。これも時代を無視したシュールギャグ。
 五十六句目。

   掛乞も小町がかたへと急候
 これなる朽木の横にねさうな   信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもある通り、謡曲『卒塔婆小町』に、

 「余りに苦しう候に。これなる朽木に腰をかけ休まばやと思い候」

とある。掛乞いの取り立て先は小野小町のことだから「これなる朽木」の横だろう。
 五十七句目。

   これなる朽木の横にねさうな
 小夜嵐扉落ては堂の月      信徳

 堂に泊まろうと思ってたら嵐で扉が壊れていたので朽木の横に寝る。
 五十八句目。

   小夜嵐扉落ては堂の月
 ふる入道は失にけり露      桃青

 昔ここにいた老いた入道はいなくなっていた。涙の露(TдT)。
 五十九句目。

   ふる入道は失にけり露
 海尊やちかい比まで山の秋    信章

 前句の「ふる入道」を常陸坊海尊とする。
 常陸坊海尊はウィキペディアに、

 「源義経の家来となった後、武蔵坊弁慶らとともに義経一行と都落ちに同行し、義経の最後の場所である奥州平泉の藤原泰衡の軍勢と戦った衣川の戦いでは、源義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていた為に生き延びたと言われている。」

とある。
 また、

 「江戸時代初期に残夢という老人が源平合戦を語っていたのを人々が海尊だと信じていた、と『本朝神社考』に林羅山が書いている。」

とあるので、「ちかい比まで」生存説があったようだ。
 六十句目。

   海尊やちかい比まで山の秋
 さる柴人がことの葉の色     信徳

 山の秋だから葉の色は赤。つまり赤嘘(あかうそ)。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「あか」は全くの意の接頭語) 全くのうそ。まっかなうそ。
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「赤うそといはん木葉(このは)の時雨哉〈由氏〉」

とある。海尊は遠い昔に死んでいる。
 六十一句目。

   さる柴人がことの葉の色
 縄帯のそのさまいやしとかかれたり 桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『志賀』の、

 「さりながら、かの黒主が歌の如く、その様いやしき山賤の薪を追ひて花の蔭に休む姿はげにも又‥‥数多き言の葉の心の花の色香までも」

を引用している。これは古今集仮名序の、

 「おほとものくろぬしは、そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」

による。
 前句の柴人を大友黒主とする。
 六十二句目。

   縄帯のそのさまいやしとかかれたり
 これぞ雨夜のかち合羽なる     信章

 「かち合羽」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「合羽の両袖があって裾の短いものをいう。歩行者用。」とある。「雨夜」はここでは品定めではなく、

 弥陀頼む人は雨夜の月なれや
     雲晴れねども西へこそゆけ
             西行法師(玉葉集)

という謡曲『百万』に引用されている歌で、前句の卑しい様を巡礼者としたのではないかと思う。
 六十三句目。

   これぞ雨夜のかち合羽なる
 飛乗の馬からふとや子規      信徳

 通りすがりの馬に乗せてもらったがホトトギスの声がしたので、よく聞こうとして馬を降りてしまった。これぞ徒歩合羽。

   みちゆく人きのもとにゐてほととぎすの
   なきてゆくをおよびさしていふことあるべし
 たまほこの道もゆかれずほととぎす
     なきわたるなるこゑをききつつ
               紀貫之(古今集)
の歌のも通じる。
 雨のホトトギスは、

 五月雨に物思ひをれば郭公
     夜ふかく鳴きていづちゆくらむ
               紀友則(古今集)

の歌がある。
 六十四句目。

   飛乗の馬からふとや子規
 森の朝影狐ではないか       桃青

 「狐を馬に乗せたよう」という諺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「ぐらぐらと動いて落ち着きのないこと。また、あいまいでつかみどころのないこと。言うことに信用がおけないこと。きつねうま。
  ※俳諧・毛吹草(1638)二「きつねむまにのせたるごとし」

とある。
 ホトトギスの一声は、

 ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
     ただ有明の月ぞ残れる
              後徳大寺左大臣(千載集)

のように明け方に詠まれることも多い。
 馬に何かが飛び乗ってきたと思ったらホトトギスだった。きっと狐が化けたのだろう。