二〇一七年ももう終わり。世界はそんなに悪い方向には行ってないと思う。来年もきっとそんなに悪くないことを願う。
そして、なんとか「詩あきんど」の巻も終わった。
では、
三十三句目。
みちのくの夷しらぬ石臼
武士(もののふ)の鎧の丸寝まくらかす 芭蕉
「石臼」を捨てて、「みちのくの夷」に古代のいくさを付ける。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注では坂上田村麻呂の蝦夷征伐の場面とするが、蝦夷が枕を貸してくれるのだから衣川の戦いあたりを考えてもいいのではないかと思う。
ここでいう蝦夷はアイヌではなく、みちのく地方の先住民族。縄文系の民族と思われる。
三十四句目。
武士の鎧の丸寝まくらかす
八声の駒の雪を告つつ 其角
「八声の駒」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「明けがたにたびたび鳴く鶏を『八声の鳥』というに基づく造語」だという。
八声の鳥は『夫木和歌抄』に、
新玉の千年の春の初とて
八声の鳥も千代祝ふなり
藤原家隆
の用例がある。
鎧を着たままう仮眠を取っていると、馬がいなないて雪が降りだしたのを告げる。
三十五句目。
八声の駒の雪を告つつ
詩あきんど花を貪ル酒債哉 其角
前句の雪を花の散る様としたか。春に転じる。
発句の「年」を「花」に変えただけの句で、主題を反復する。輪廻を嫌う連歌・俳諧の中では、こうしたリフレインは珍しい。
挙句。
詩あきんど花を貪ル酒債哉
春-湖日暮て駕興吟(きょうにぎんをのする) 芭蕉
前句が発句のリフレインなので、同じように脇を少し変えて応じる。
春の湖に日は暮れて、その興を吟に乗せる。花見で借金をこしらえても気にせず、風流(俳諧)の道に明け暮れる。この『虚栗』が売れれば借金が返せるといったところか。
古典趣味の絵空事が多いという点では、蕪村の『ももすもも』の体はこのころの蕉風に倣う所が大きかったのかもしれない。ただ、芭蕉のほうはこのあとよりリアルな俳諧へと向ってゆくことになる。
では良いお年を。
2017年12月31日日曜日
2017年12月30日土曜日
今日は大山街道を鷺沼から青葉台まで歩いた。いい運動になった。
それでは「詩あきんど」の巻の続き。
二十九句目。
うづみ火消て指の灯
下司后朝をねたみ月を閉 其角
「下司」は本来は中世の荘園や公領で実務を行う下級職人のことだという。上司(うえつかさ)に対しての下司(したづかさ)だった。それが下種、下衆と書く(げす)へと派生したのか、それとも別のものだったのが混同されたのかはよくわからない。
ゲスといえばゲスの極み乙女というバンドのボーカル、川谷絵音のベッキーとの不倫報道で、「ゲス不倫」という言葉がしばらく流行した。
身分の低い女性を后(きさき)に迎えたせいか、朝のきぬきぬの時に、さすがに鶏をキツネに食わすぞとは言わないまでも、戸を閉ざして月を見せないようにして男を引きとめようとする。月明かりがあるとまだ暗いうちに帰ってしまうからだ。火鉢の埋み火も消えて爪の垢を燃やす。
貞門の松江重頼選の『毛吹草』の諺の部に「爪に火をともす」というのがあるという。今日でもケチの極みを意味する慣用句として用いられている。本当に爪の垢で火が灯るのかどうかはよくわからない。昔は手をあまり洗わなかったから、あちこち掻き毟ったりすると体の油分が爪に溜まったりしたのかもしれない。
三十句目。
下司后朝をねたみ月を閉
西瓜を綾に包ムあやにく 其角
西瓜はアフリカの乾燥地帯が原産で、室町時代には日本に入ってきたという。中国語のシークワが日本語のスイカとなったという。日本では昔から庶民の食べ物で、上流の人は食べなかった。
子供の頃読んだ漫画でも主人公の庶民の少年がお金持ちの坊ちゃんを家に呼んでスイカをふるまうが、坊ちゃんは家じゃメロンを食べるとスイカを馬鹿にする場面があった。
スイカの入れ物というと、昔から紐を編んだスイカ網が用いられている。ここではそんな身分の低い人の食い物であるスイカがあるのを隠すために、入子菱模様の綾布で覆っていたのだろう。模様はスイカ網を髣髴させる。
スイカがばれないように月を閉じ、綾布をかける。そんなにスイカって恥ずかしかったのか。ものが綾布だけに「あやにく(あや、憎しの略)」。
形容詞の活用語尾を略して語幹だけで「こわっ」「はやっ」「ちかっ」という言い方は平安時代からあった。源氏物語では光源氏が「あなかま!」という場面がある。「あな、かしまし」の略だが、「かしまっ」が更に略されて「かまっ」になってしまったのだろう。
二裏、三十一句目。
西瓜を綾に包ムあやにく
哀いかに宮城野のぼた吹凋(ふきしほ)るらん 芭蕉
本歌は、
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
秋風立ちぬ宮城野の原
西行法師(新古今集)
宮城野は萩の名所で、
宮城野のもとあらの小萩露を重み
風を待つごと君をこそ待て
よみ人しらず(古今集)
白露は置きにけらしな宮城野の
もとあらの小萩末たわむまで
祝部允仲(新古今和歌集)
の歌がある。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると「ぼた」は萩の俚称だという。それだと、「お萩」のことを「ぼたもち」と言うのも、一般的には「牡丹餅」と表記されているが、この俚称に起源があったのかもしれない。
西行法師のように颯爽と宮城野の萩の歌を詠んで見せたが、つい萩のことを「ぼた」と言ってしまい、身分がばれるというネタだろう。それをスイカを綾で隠すようなものだ、あやにく」とつなげる。
三十二句目。
哀いかに宮城野のぼた吹凋(しほ)るらん
みちのくの夷(えぞ)しらぬ石臼 其角
「夷(えぞ)」が第三の「夷(えびす)」と被っているのは気になる。やや遠輪廻気味の句だ。
石臼は製粉作業に用いる回転式の臼のことで、東北の方ではあまりなじみがなかったのだろう。仙台名物で伊達政宗が発明したという伝承のある「ずんだ餅」も太刀で豆を刻んだという。
石臼のおかげで日本では古くから団子が作られていたが、石臼の普及してないみちのくでは昔ながらのぼた餅やずんだ餅が主流だったということか。
それでは「詩あきんど」の巻の続き。
二十九句目。
うづみ火消て指の灯
下司后朝をねたみ月を閉 其角
「下司」は本来は中世の荘園や公領で実務を行う下級職人のことだという。上司(うえつかさ)に対しての下司(したづかさ)だった。それが下種、下衆と書く(げす)へと派生したのか、それとも別のものだったのが混同されたのかはよくわからない。
ゲスといえばゲスの極み乙女というバンドのボーカル、川谷絵音のベッキーとの不倫報道で、「ゲス不倫」という言葉がしばらく流行した。
身分の低い女性を后(きさき)に迎えたせいか、朝のきぬきぬの時に、さすがに鶏をキツネに食わすぞとは言わないまでも、戸を閉ざして月を見せないようにして男を引きとめようとする。月明かりがあるとまだ暗いうちに帰ってしまうからだ。火鉢の埋み火も消えて爪の垢を燃やす。
貞門の松江重頼選の『毛吹草』の諺の部に「爪に火をともす」というのがあるという。今日でもケチの極みを意味する慣用句として用いられている。本当に爪の垢で火が灯るのかどうかはよくわからない。昔は手をあまり洗わなかったから、あちこち掻き毟ったりすると体の油分が爪に溜まったりしたのかもしれない。
三十句目。
下司后朝をねたみ月を閉
西瓜を綾に包ムあやにく 其角
西瓜はアフリカの乾燥地帯が原産で、室町時代には日本に入ってきたという。中国語のシークワが日本語のスイカとなったという。日本では昔から庶民の食べ物で、上流の人は食べなかった。
子供の頃読んだ漫画でも主人公の庶民の少年がお金持ちの坊ちゃんを家に呼んでスイカをふるまうが、坊ちゃんは家じゃメロンを食べるとスイカを馬鹿にする場面があった。
スイカの入れ物というと、昔から紐を編んだスイカ網が用いられている。ここではそんな身分の低い人の食い物であるスイカがあるのを隠すために、入子菱模様の綾布で覆っていたのだろう。模様はスイカ網を髣髴させる。
スイカがばれないように月を閉じ、綾布をかける。そんなにスイカって恥ずかしかったのか。ものが綾布だけに「あやにく(あや、憎しの略)」。
形容詞の活用語尾を略して語幹だけで「こわっ」「はやっ」「ちかっ」という言い方は平安時代からあった。源氏物語では光源氏が「あなかま!」という場面がある。「あな、かしまし」の略だが、「かしまっ」が更に略されて「かまっ」になってしまったのだろう。
二裏、三十一句目。
西瓜を綾に包ムあやにく
哀いかに宮城野のぼた吹凋(ふきしほ)るらん 芭蕉
本歌は、
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
秋風立ちぬ宮城野の原
西行法師(新古今集)
宮城野は萩の名所で、
宮城野のもとあらの小萩露を重み
風を待つごと君をこそ待て
よみ人しらず(古今集)
白露は置きにけらしな宮城野の
もとあらの小萩末たわむまで
祝部允仲(新古今和歌集)
の歌がある。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると「ぼた」は萩の俚称だという。それだと、「お萩」のことを「ぼたもち」と言うのも、一般的には「牡丹餅」と表記されているが、この俚称に起源があったのかもしれない。
西行法師のように颯爽と宮城野の萩の歌を詠んで見せたが、つい萩のことを「ぼた」と言ってしまい、身分がばれるというネタだろう。それをスイカを綾で隠すようなものだ、あやにく」とつなげる。
三十二句目。
哀いかに宮城野のぼた吹凋(しほ)るらん
みちのくの夷(えぞ)しらぬ石臼 其角
「夷(えぞ)」が第三の「夷(えびす)」と被っているのは気になる。やや遠輪廻気味の句だ。
石臼は製粉作業に用いる回転式の臼のことで、東北の方ではあまりなじみがなかったのだろう。仙台名物で伊達政宗が発明したという伝承のある「ずんだ餅」も太刀で豆を刻んだという。
石臼のおかげで日本では古くから団子が作られていたが、石臼の普及してないみちのくでは昔ながらのぼた餅やずんだ餅が主流だったということか。
2017年12月28日木曜日
「詩あきんど」の巻の続き。
二十三句目。
黒鯛くろしおとく女が乳
枯藻髪栄螺の角を巻折らん 其角
「枯藻髪(かれもがみ)」というのは造語か。要するに脱色した髪の毛のこと。
前句の黒鯛を乳首の色ではなく本物の黒鯛とし、「おとく女が乳」を海女さんのことと取り成す。始終海に潜っている彼女は塩と紫外線で髪の毛が痛み、脱色して茶髪になる。
サーファーの髪が脱色するのも同じ理由だし、髪を染められないJCやJKは、昔はビールで髪を洗うといいなんていわれたこともあったが、塩で髪を洗うという方法は今でも行われているようだ。ただ、髪を傷めるだけでお勧めはできない。
塩水で塗れてべたべたした髪の毛は栄螺(さざえ)の角に巻きついて折ってしまうのではないか、とややおどろおどろしく描く。
二十四句目。
枯藻髪栄螺の角を巻折らん
魔-神を使トス荒海の崎 芭蕉
ひところのギャルメイクが「山姥」と言われたが、発想は昔からあまり変わらない。茶髪の海女さんから海の妖怪のようなものを想像し、魔神をも使役する。今でいえば召喚魔法か。
二十五句目。
魔-神を使トス荒海の崎
鉄(くろがね)の弓取猛き世に出よ 其角
これは百合若大臣ネタか。ウィキペディアによれば、
「百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」
だという。
魔人を召喚する恐ろしい魔導師を倒すには、勇者様が必要だ。武器は弓。それも攻撃力の高い鉄弓のスキルを持つ勇者様がそれにふさわしい。
二十六句目。
鉄の弓取猛き世に出よ
虎懐に妊るあかつき 芭蕉
摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。
百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。
二十七句目。
虎懐に妊るあかつき
山寒く四-睡の床をふくあらし 其角
伝統絵画の画題に「四睡図」というのがある。豊干禅師、寒山、拾得、虎が一緒に寝ている様子を描くもので、悟ったもの、死を恐れぬものには虎が近くにいても恐がることないため共存できるというもの。
「山寒く」は「寒山」の名を隠しているし、前句の「虎懐に妊る」は夢ではなく本当に虎が懐で眠っているという意味に取り成される。
二十八句目。
山寒く四-睡の床をふくあらし
うづみ火消て指の灯(ともしび) 芭蕉
「指の灯」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。
芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。
ウィキペディアによれば、
「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。
翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」
と、実際に「指の灯」を実践している。
寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、
「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」
芭蕉も当然この了翁の事は知っていただろう。びーちくろいくのシモネタもあればこういう偉い坊さんの話も交える。この何でもありの感じが、まだ談林の延長にあった天和期の蕉風だったのだろう。
『野ざらし紀行』の伊勢のところで「僧に似て塵有」と自嘲して言うのも、同時代のこういうお坊さんにはとても及ばないという気持ちがあったのではないかと思う。
二十三句目。
黒鯛くろしおとく女が乳
枯藻髪栄螺の角を巻折らん 其角
「枯藻髪(かれもがみ)」というのは造語か。要するに脱色した髪の毛のこと。
前句の黒鯛を乳首の色ではなく本物の黒鯛とし、「おとく女が乳」を海女さんのことと取り成す。始終海に潜っている彼女は塩と紫外線で髪の毛が痛み、脱色して茶髪になる。
サーファーの髪が脱色するのも同じ理由だし、髪を染められないJCやJKは、昔はビールで髪を洗うといいなんていわれたこともあったが、塩で髪を洗うという方法は今でも行われているようだ。ただ、髪を傷めるだけでお勧めはできない。
塩水で塗れてべたべたした髪の毛は栄螺(さざえ)の角に巻きついて折ってしまうのではないか、とややおどろおどろしく描く。
二十四句目。
枯藻髪栄螺の角を巻折らん
魔-神を使トス荒海の崎 芭蕉
ひところのギャルメイクが「山姥」と言われたが、発想は昔からあまり変わらない。茶髪の海女さんから海の妖怪のようなものを想像し、魔神をも使役する。今でいえば召喚魔法か。
二十五句目。
魔-神を使トス荒海の崎
鉄(くろがね)の弓取猛き世に出よ 其角
これは百合若大臣ネタか。ウィキペディアによれば、
「百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」
だという。
魔人を召喚する恐ろしい魔導師を倒すには、勇者様が必要だ。武器は弓。それも攻撃力の高い鉄弓のスキルを持つ勇者様がそれにふさわしい。
二十六句目。
鉄の弓取猛き世に出よ
虎懐に妊るあかつき 芭蕉
摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。
百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。
二十七句目。
虎懐に妊るあかつき
山寒く四-睡の床をふくあらし 其角
伝統絵画の画題に「四睡図」というのがある。豊干禅師、寒山、拾得、虎が一緒に寝ている様子を描くもので、悟ったもの、死を恐れぬものには虎が近くにいても恐がることないため共存できるというもの。
「山寒く」は「寒山」の名を隠しているし、前句の「虎懐に妊る」は夢ではなく本当に虎が懐で眠っているという意味に取り成される。
二十八句目。
山寒く四-睡の床をふくあらし
うづみ火消て指の灯(ともしび) 芭蕉
「指の灯」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。
芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。
ウィキペディアによれば、
「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。
翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」
と、実際に「指の灯」を実践している。
寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、
「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」
芭蕉も当然この了翁の事は知っていただろう。びーちくろいくのシモネタもあればこういう偉い坊さんの話も交える。この何でもありの感じが、まだ談林の延長にあった天和期の蕉風だったのだろう。
『野ざらし紀行』の伊勢のところで「僧に似て塵有」と自嘲して言うのも、同時代のこういうお坊さんにはとても及ばないという気持ちがあったのではないかと思う。
2017年12月27日水曜日
霜月も十日となり、空には半月が浮かんでいる。
では「詩あきんど」の巻の続き。今年中には終わらないかもしれない。
二表、十九句目。
鰥々として寝ぬ夜ねぬ月
婿入の近づくままに初砧 其角
月に砧は付き物で、出典は李白の「子夜呉歌」であろう。
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
ここでは出征兵士の帰還を待つのではなく、お婿さんがやって来る不安と気体で眠れない夜の話となる。男が婿入りするというのは、織物の盛んな地域の話だろうか。
二十句目。
婿入の近づくままに初砧
たたかひやんで葛うらみなし 芭蕉
前句の砧にオリジナルの李白の「子夜呉歌」を思い浮かべて、出征した婚約者が帰ってくる場面とする。
葛の葉は秋風にふかれて葉がめくれ上がって葉の裏側を見せることから、「恨み」とかけて用いられる。ここは「戦い止んで恨みなし」でもいいところだが、秋の季語を入れなくてはいけないので、「恨み」に掛けて強引に「葛」を放り込んだ感じがする。
二十一句目。
たたかひやんで葛うらみなし
嘲リニ黄-金ハ鋳小紫 其角
「あざけりに、おうごんはこむらさきをいる」と読む。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、宋の鄭獬の嘲范蠡(はんれいをあざける)という詩が出典だという。まだ訳してない。
嘲范蠡 鄭獬
千重越甲夜成圍 宴罷君王醉不知
若論破吳功第一 黄金只合鑄西施
范蠡は春秋時代、越王勾践に仕え、呉の夫差を打ち破り会稽の恥をそそいだという。そのときの伝説の一つがウィキペディアに載っている。
「范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。」
「嘲范蠡」はこれを揶揄するものだ。越王は范蠡の黄金の像を作ったが、本当に作るべきだったのは西施の像だろう、というもの。
これに対し小紫はコトバンクのデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によれば、
「?-? 江戸時代前期の遊女。
江戸吉原(よしわら)三浦屋の抱え。延宝7年(1679)愛人の平井権八(ごんぱち)が辻斬りなどの罪で死罪となったあとをおい,墓前で自害した。この話は幡随院(ばんずいいん)長兵衛と関連づけられ,「驪山(めぐろ)比翼塚」などの浄瑠璃(じょうるり),歌舞伎の素材となった。」
とある。三年前のまだ記憶に新しい事件を題材にした時事ネタといえよう。
平井権八は遊女小紫に入れ込んで、貢ぐお金欲しさに辻斬りをやった。そのことで、黄金の力で小紫を射止めると洒落て、結局平井権八は死罪になり、小紫が自害したことで戦いは終わり、そのことを嘲る、とする。
二十二句目。
嘲リニ黄-金ハ鋳小紫
黒鯛くろしおとく女(め)が乳 芭蕉
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。
ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒鯛は「ちぬ」ともいう。
黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。
では「詩あきんど」の巻の続き。今年中には終わらないかもしれない。
二表、十九句目。
鰥々として寝ぬ夜ねぬ月
婿入の近づくままに初砧 其角
月に砧は付き物で、出典は李白の「子夜呉歌」であろう。
子夜呉歌 李白
長安一片月 萬戸擣衣声
秋風吹不尽 総是玉関情
何日平胡虜 良人罷遠征
長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。
ここでは出征兵士の帰還を待つのではなく、お婿さんがやって来る不安と気体で眠れない夜の話となる。男が婿入りするというのは、織物の盛んな地域の話だろうか。
二十句目。
婿入の近づくままに初砧
たたかひやんで葛うらみなし 芭蕉
前句の砧にオリジナルの李白の「子夜呉歌」を思い浮かべて、出征した婚約者が帰ってくる場面とする。
葛の葉は秋風にふかれて葉がめくれ上がって葉の裏側を見せることから、「恨み」とかけて用いられる。ここは「戦い止んで恨みなし」でもいいところだが、秋の季語を入れなくてはいけないので、「恨み」に掛けて強引に「葛」を放り込んだ感じがする。
二十一句目。
たたかひやんで葛うらみなし
嘲リニ黄-金ハ鋳小紫 其角
「あざけりに、おうごんはこむらさきをいる」と読む。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、宋の鄭獬の嘲范蠡(はんれいをあざける)という詩が出典だという。まだ訳してない。
嘲范蠡 鄭獬
千重越甲夜成圍 宴罷君王醉不知
若論破吳功第一 黄金只合鑄西施
范蠡は春秋時代、越王勾践に仕え、呉の夫差を打ち破り会稽の恥をそそいだという。そのときの伝説の一つがウィキペディアに載っている。
「范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。」
「嘲范蠡」はこれを揶揄するものだ。越王は范蠡の黄金の像を作ったが、本当に作るべきだったのは西施の像だろう、というもの。
これに対し小紫はコトバンクのデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によれば、
「?-? 江戸時代前期の遊女。
江戸吉原(よしわら)三浦屋の抱え。延宝7年(1679)愛人の平井権八(ごんぱち)が辻斬りなどの罪で死罪となったあとをおい,墓前で自害した。この話は幡随院(ばんずいいん)長兵衛と関連づけられ,「驪山(めぐろ)比翼塚」などの浄瑠璃(じょうるり),歌舞伎の素材となった。」
とある。三年前のまだ記憶に新しい事件を題材にした時事ネタといえよう。
平井権八は遊女小紫に入れ込んで、貢ぐお金欲しさに辻斬りをやった。そのことで、黄金の力で小紫を射止めると洒落て、結局平井権八は死罪になり、小紫が自害したことで戦いは終わり、そのことを嘲る、とする。
二十二句目。
嘲リニ黄-金ハ鋳小紫
黒鯛くろしおとく女(め)が乳 芭蕉
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。
ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒鯛は「ちぬ」ともいう。
黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。
2017年12月26日火曜日
今年も残りわずか。この時期になると思い出すのがジョージ・ハリスンのDing Dong, Ding Dongという曲。多分これを聞いたときは中学生だったか。簡単な英語なのですぐに覚えられた。
時代遅れなものや捏造されたものは早いこと追い出して、新しいものと真実を迎え入れよう。ネトウヨもパヨクもさようならーーー。容赦なく前へ進もう。一日一日が本の新しいページをめくるようなわくわくするものでありますように。
さて、「詩あきんど」の巻の続き。
十四句目。
ほととぎす怨の霊と啼かへり
うき世に泥(なづ)む寒食の痩 其角
「寒食」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によれば、
「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」
だそうだ。冬至から百五日というと、新暦だと四月の初め頃で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも旧暦三月のところにある。春の季語。
時期的にはまだホトトギスには早いが、多分本当は寒食で痩せたのではなく、元々貧しくて痩せているだけで、それが寒食の季節になると「寒食で痩せたんだ」と言い訳できて浮世に泥むという意味だろう。
十五句目。
うき世に泥む寒食の痩
沓は花貧重し笠はさん俵 芭蕉
春に転じたところで花を出すのは必然。前句の寒食の痩せを寒食のせいでなく貧しさのせいとして、その姿を付ける。
「沓は花」は靴を履いているわけではなく、裸足に散った桜の花びらがくっついているさまが沓みたいに見えるということ。笠は米俵の両端の蓋の部分で「桟俵(さんだわら)」という。ウィキペディアの「俵」のところには、
「俵は円柱状の側面に当たる菰(こも)と、桟俵(さんだわら)をそれぞれ藁で編み、最後にこれらをつなぎ合わせて作る。
桟俵とは米俵の底と蓋になる円い部分。別名さんだらぼうし、さんだらぼっち。炭俵では無い場合が多い。」
とある。
十六句目。
沓は花貧重し笠はさん俵
芭蕉あるじの蝶丁(たたく)見よ 其角
これも楽屋落ち。「芭蕉あるじ」は言わずと知れた芭蕉庵の主だが、この歌仙興行の直後にその芭蕉庵は焼失する。蝶を叩いたりしたからバチがあたったか。
「蝶」と「丁」は同音で、蝶番(ちょうつがい)を丁番と書いたりもする。同語反復で「蝶丁」を出したところで、あえて遊びで「丁」を「たたく」と訓じてみたのだろう。「丁々発止」という言葉から「たたく」という訓を導き出したか。
十七句目。
芭蕉あるじの蝶丁見よ
腐レたる俳諧犬もくらはずや 芭蕉
前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成したか。そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。相手は貞門か大阪談林か。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。
十八句目。
腐レたる俳諧犬もくらはずや
鰥々(ほちほち)として寝ぬ夜ねぬ月 其角
「鰥(かん)」は男やもめのことだが、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、『書言字考節用集』に「鰥々(ほちほち)、不寝之義」とあるらしい。「ほつほつ」だと忙しいという意味と今日の「ぼちぼち」という意味がある。
犬も食わないような腐れた俳諧でも、やってる人たちはそれなりに楽しんでいて、ほつほつと夜を徹して俳諧に興じる。それを思うと、「くらはずや」の「や」はこの場合反語で、犬も食わないような腐った俳諧だろうか、そんなことはない、と読んだ方がいいだろう。
時代遅れなものや捏造されたものは早いこと追い出して、新しいものと真実を迎え入れよう。ネトウヨもパヨクもさようならーーー。容赦なく前へ進もう。一日一日が本の新しいページをめくるようなわくわくするものでありますように。
さて、「詩あきんど」の巻の続き。
十四句目。
ほととぎす怨の霊と啼かへり
うき世に泥(なづ)む寒食の痩 其角
「寒食」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によれば、
「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」
だそうだ。冬至から百五日というと、新暦だと四月の初め頃で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも旧暦三月のところにある。春の季語。
時期的にはまだホトトギスには早いが、多分本当は寒食で痩せたのではなく、元々貧しくて痩せているだけで、それが寒食の季節になると「寒食で痩せたんだ」と言い訳できて浮世に泥むという意味だろう。
十五句目。
うき世に泥む寒食の痩
沓は花貧重し笠はさん俵 芭蕉
春に転じたところで花を出すのは必然。前句の寒食の痩せを寒食のせいでなく貧しさのせいとして、その姿を付ける。
「沓は花」は靴を履いているわけではなく、裸足に散った桜の花びらがくっついているさまが沓みたいに見えるということ。笠は米俵の両端の蓋の部分で「桟俵(さんだわら)」という。ウィキペディアの「俵」のところには、
「俵は円柱状の側面に当たる菰(こも)と、桟俵(さんだわら)をそれぞれ藁で編み、最後にこれらをつなぎ合わせて作る。
桟俵とは米俵の底と蓋になる円い部分。別名さんだらぼうし、さんだらぼっち。炭俵では無い場合が多い。」
とある。
十六句目。
沓は花貧重し笠はさん俵
芭蕉あるじの蝶丁(たたく)見よ 其角
これも楽屋落ち。「芭蕉あるじ」は言わずと知れた芭蕉庵の主だが、この歌仙興行の直後にその芭蕉庵は焼失する。蝶を叩いたりしたからバチがあたったか。
「蝶」と「丁」は同音で、蝶番(ちょうつがい)を丁番と書いたりもする。同語反復で「蝶丁」を出したところで、あえて遊びで「丁」を「たたく」と訓じてみたのだろう。「丁々発止」という言葉から「たたく」という訓を導き出したか。
十七句目。
芭蕉あるじの蝶丁見よ
腐レたる俳諧犬もくらはずや 芭蕉
前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成したか。そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。相手は貞門か大阪談林か。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。
十八句目。
腐レたる俳諧犬もくらはずや
鰥々(ほちほち)として寝ぬ夜ねぬ月 其角
「鰥(かん)」は男やもめのことだが、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、『書言字考節用集』に「鰥々(ほちほち)、不寝之義」とあるらしい。「ほつほつ」だと忙しいという意味と今日の「ぼちぼち」という意味がある。
犬も食わないような腐れた俳諧でも、やってる人たちはそれなりに楽しんでいて、ほつほつと夜を徹して俳諧に興じる。それを思うと、「くらはずや」の「や」はこの場合反語で、犬も食わないような腐った俳諧だろうか、そんなことはない、と読んだ方がいいだろう。
2017年12月25日月曜日
今年のクリスマスは連休で、二十三日には二子玉川に買い物に出たが、たまたまGOING UNDER GROUNDの無料のライブがあった。開始前には公開リハもあった。得した気分だ。
二十四日は家から王禅寺を経て柿生までの散歩コースを歩いた。柿生の菓子工房 la plaquemineでケーキを買って帰った。
そういうわけでなかなか「詩あきんど」の巻が進まないが、とりあえず一句進む。
十三句目。
鼾名にたつと云題を責けり
ほととぎす怨の霊と啼かへり 芭蕉
ウィキペディアにホトトギスの伝説が載っている。それによると、
「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」
だそうだ。ホトトギスが杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥と表記される理由はこれでよくわかる。
ところで、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には別の伝説が記されている。
「ほととぎすに『郭公』の字を当てるのは、戦いに敗れて死んだ郭の国の王の怨霊がほととぎすになったという、中国伝説に基づく。よって一名怨鳥ともいう。」
ただ、ホトトギスを郭公と表記するのは、カッコウと混同されたからだとも言う。
「啼かへり」というのは繰り返し啼くことで、古来和歌ではホトトギスは一声を聞くために夜を徹するものとされていて、その一声が貴重だということから「鳴かぬなら‥‥ほととぎす」なんて言われるようにもなっている。
渡り鳥なので渡ってきた最初の一声を聞くのが重要だったのだろう。渡ってきてしまうと後は始終鳴いていて別にありがたいものではない。
ホトトギスは怨鳥とも言うから我こそは「怨みの霊」だとしきりに鳴いては、「鼾名にたつ」という題で歌を詠むように責め立てる。何だかよくわからない付けだが、こういうシュールさも天和調の一つの特徴なのだろう。
『俳諧次韻』の「鷺の足」の巻五十五句目に、
しばらく風の松におかしき
夢に来て鼾を語る郭公 其角
の句があり、これはホトトギスの声が待てずに鼾をかいて寝てしまうと、夢の中に郭公が出てきて、「あれまあ、こんなに鼾かいて寝ちゃって」などと言ったのだろう。外で鳴いている郭公の声が夢の中でアレンジされてそんな言葉になったのか。この句を思い出しての楽屋落ちだったのかもしれない。其角に「鼾の句を詠め」とホトトギスが繰り返し啼いたのかもしれない。
二十四日は家から王禅寺を経て柿生までの散歩コースを歩いた。柿生の菓子工房 la plaquemineでケーキを買って帰った。
そういうわけでなかなか「詩あきんど」の巻が進まないが、とりあえず一句進む。
十三句目。
鼾名にたつと云題を責けり
ほととぎす怨の霊と啼かへり 芭蕉
ウィキペディアにホトトギスの伝説が載っている。それによると、
「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」
だそうだ。ホトトギスが杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥と表記される理由はこれでよくわかる。
ところで、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には別の伝説が記されている。
「ほととぎすに『郭公』の字を当てるのは、戦いに敗れて死んだ郭の国の王の怨霊がほととぎすになったという、中国伝説に基づく。よって一名怨鳥ともいう。」
ただ、ホトトギスを郭公と表記するのは、カッコウと混同されたからだとも言う。
「啼かへり」というのは繰り返し啼くことで、古来和歌ではホトトギスは一声を聞くために夜を徹するものとされていて、その一声が貴重だということから「鳴かぬなら‥‥ほととぎす」なんて言われるようにもなっている。
渡り鳥なので渡ってきた最初の一声を聞くのが重要だったのだろう。渡ってきてしまうと後は始終鳴いていて別にありがたいものではない。
ホトトギスは怨鳥とも言うから我こそは「怨みの霊」だとしきりに鳴いては、「鼾名にたつ」という題で歌を詠むように責め立てる。何だかよくわからない付けだが、こういうシュールさも天和調の一つの特徴なのだろう。
『俳諧次韻』の「鷺の足」の巻五十五句目に、
しばらく風の松におかしき
夢に来て鼾を語る郭公 其角
の句があり、これはホトトギスの声が待てずに鼾をかいて寝てしまうと、夢の中に郭公が出てきて、「あれまあ、こんなに鼾かいて寝ちゃって」などと言ったのだろう。外で鳴いている郭公の声が夢の中でアレンジされてそんな言葉になったのか。この句を思い出しての楽屋落ちだったのかもしれない。其角に「鼾の句を詠め」とホトトギスが繰り返し啼いたのかもしれない。
2017年12月21日木曜日
昨日今日と夕暮れの空に三日月が見えた。正確には昨日のが十一月三日の三日月、今日のは四日の月。
暮れも押し迫ってクリスマスも近いが、世間では今年はクリスマス感がないとの声もあるようだ。ハローウィンで盛り上がりすぎたせいか、ハローウィン疲れがあるのかもしれない。
それはともかく「詩あきんど」の巻の続き。
八句目。
恥しらぬ僧を笑ふか草薄
しぐれ山崎傘(からかさ)を舞 其角
京都の山崎にはかつて遊女がいたという。前句の破戒僧を遊郭通いの僧として、当時医者や僧侶の間で用いられていた唐傘を登場させる。
唐傘の舞というと助六が思い浮かぶが、これはもう少し後の十七世紀に入ってからになる。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注や『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)は若衆歌舞伎の『業平躍歌』を引用している。
「面白の山崎通ひや、行くも山崎戻るも山崎、心のとまるも山崎、山崎の上臈と寝た夜は、数珠袈裟袋は上臈に取らるる、衣は亭主に取らるる、傘は茶屋に忘るる、扇子は路地に落いた」
ここには唐傘を舞うという発想はない。若衆歌舞伎にそのような舞いがあったのかどうかはよくわからない。ある意味で其角は四十年後の助六を先取りしていたのかもしれない。というか助六の誕生に其角の句の影響があった可能性もある。
若衆歌舞伎というのは出雲の阿国の歌舞伎踊りに起源があり、風紀を乱すという理由で寛永六年(一六二九年)に女歌舞伎が禁止されたため若衆になったという。やがて若衆だけでなく大人の男が演じる野郎歌舞伎が生じ、今に通じる江戸の歌舞伎が確立されていった。
九句目。
しぐれ山崎傘を舞
笹竹のどてらを藍に染なして 芭蕉
ウィキペディアには、「丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒用の日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。」とある。そして、「丹前の原型は吉原の有名な遊女だった勝山の衣裳にあるという。」とある。さらに、「勝山ゆかりの丹前風呂では湯女たちが勝山にあやかってよく似た衣服を身につけていたが、そこに通い詰めた旗本奴たちがそれによく似たものを着て風流を競ったので、『丹前』が巡り廻って衣服の一種の名となったという。」とある。
遊女勝山は一六五〇年代に人気を博した吉原の遊女で、この歌仙の巻かれる三十年くらい前のことになる。
さらにウィキペディアには「侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者が多門庄左衛門であり、彼は当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことから、絶大な人気を得た。」とある。多門庄左衛門(初代)が寛文以降の人であることから、この句は多門庄左衛門のイメージで詠まれたと言っても良いのではないかと思う。
十句目。
笹竹のどてらを藍に染なして
狩場の雲に若殿を恋(こふ) 其角
これはホモネタ。どてらを着た奴(やっこ)さんが狩場に行く若殿に見果てぬ恋をする。
十一句目。
狩場の雲に若殿を恋
一の姫里の庄家に養はれ 芭蕉
雲に思いをはせるかなわぬ恋を、ここではノーマルに姫君の句とする。本来は立派な姫君でありながら故あって庄屋に養われているというのが、かなわぬ恋の理由とされる。
十二句目。
一の姫里の庄家に養はれ
鼾名にたつと云題を責けり 其角
芭蕉が『万菊丸鼾の図』を描くのはこれより大分後だが、鼾というのはそれ以前にも題になることはあったのだろう。庄屋の家での何の会のお題だかわからないが、姫君にはふさわしくない題をわざと面白がって押し付けたりしたのだろう。『源氏物語』「手習」の大尼君のもとに身を隠した浮舟の本説が隠されているのかもしれない。
暮れも押し迫ってクリスマスも近いが、世間では今年はクリスマス感がないとの声もあるようだ。ハローウィンで盛り上がりすぎたせいか、ハローウィン疲れがあるのかもしれない。
それはともかく「詩あきんど」の巻の続き。
八句目。
恥しらぬ僧を笑ふか草薄
しぐれ山崎傘(からかさ)を舞 其角
京都の山崎にはかつて遊女がいたという。前句の破戒僧を遊郭通いの僧として、当時医者や僧侶の間で用いられていた唐傘を登場させる。
唐傘の舞というと助六が思い浮かぶが、これはもう少し後の十七世紀に入ってからになる。
『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注や『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)は若衆歌舞伎の『業平躍歌』を引用している。
「面白の山崎通ひや、行くも山崎戻るも山崎、心のとまるも山崎、山崎の上臈と寝た夜は、数珠袈裟袋は上臈に取らるる、衣は亭主に取らるる、傘は茶屋に忘るる、扇子は路地に落いた」
ここには唐傘を舞うという発想はない。若衆歌舞伎にそのような舞いがあったのかどうかはよくわからない。ある意味で其角は四十年後の助六を先取りしていたのかもしれない。というか助六の誕生に其角の句の影響があった可能性もある。
若衆歌舞伎というのは出雲の阿国の歌舞伎踊りに起源があり、風紀を乱すという理由で寛永六年(一六二九年)に女歌舞伎が禁止されたため若衆になったという。やがて若衆だけでなく大人の男が演じる野郎歌舞伎が生じ、今に通じる江戸の歌舞伎が確立されていった。
九句目。
しぐれ山崎傘を舞
笹竹のどてらを藍に染なして 芭蕉
ウィキペディアには、「丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒用の日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。」とある。そして、「丹前の原型は吉原の有名な遊女だった勝山の衣裳にあるという。」とある。さらに、「勝山ゆかりの丹前風呂では湯女たちが勝山にあやかってよく似た衣服を身につけていたが、そこに通い詰めた旗本奴たちがそれによく似たものを着て風流を競ったので、『丹前』が巡り廻って衣服の一種の名となったという。」とある。
遊女勝山は一六五〇年代に人気を博した吉原の遊女で、この歌仙の巻かれる三十年くらい前のことになる。
さらにウィキペディアには「侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者が多門庄左衛門であり、彼は当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことから、絶大な人気を得た。」とある。多門庄左衛門(初代)が寛文以降の人であることから、この句は多門庄左衛門のイメージで詠まれたと言っても良いのではないかと思う。
十句目。
笹竹のどてらを藍に染なして
狩場の雲に若殿を恋(こふ) 其角
これはホモネタ。どてらを着た奴(やっこ)さんが狩場に行く若殿に見果てぬ恋をする。
十一句目。
狩場の雲に若殿を恋
一の姫里の庄家に養はれ 芭蕉
雲に思いをはせるかなわぬ恋を、ここではノーマルに姫君の句とする。本来は立派な姫君でありながら故あって庄屋に養われているというのが、かなわぬ恋の理由とされる。
十二句目。
一の姫里の庄家に養はれ
鼾名にたつと云題を責けり 其角
芭蕉が『万菊丸鼾の図』を描くのはこれより大分後だが、鼾というのはそれ以前にも題になることはあったのだろう。庄屋の家での何の会のお題だかわからないが、姫君にはふさわしくない題をわざと面白がって押し付けたりしたのだろう。『源氏物語』「手習」の大尼君のもとに身を隠した浮舟の本説が隠されているのかもしれない。
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