十一月も今日で終わり明日からは新暦の師走。今年一年も短かった。たいしたこともしない間にもう終わりか。こんなふうに一生って終わっちゃうんだろうな。
と、気を取り直して、せめて「ゑびす講」の巻くらいは今年中に終わらせよう。
二十七句目。
又沙汰なしにむすめ産
どたくたと大晦日も四つのかね 孤屋
「どたくた」は「どさくさ」に同じ。「さ」と「た」の交替は、サ行をしばしばthに近い音で発音することから起こるものであろう。「真っ青」が「まっつぁお」なったりするのもその一例。相撲でよく使われる「どすこい」も「どつこい」との交替が成り立つ。「どつこい」は一方で促音化して「どっこい」になる。
大晦日(おおつごもり)はかつては決算日で、借金取りもこの日に回収しなきゃと走り回っていた。今で言えば年度末の3月31日と大晦日がいっぺんに来たような忙しさだったのだろう。
大晦日定めなき世の定めかな 西鶴
は談林の俳諧師でもあった井原西鶴の発句。
大晦日の四つというのはこの場合夜四つ(午後11時ちょい前)か。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「夜いそがしき折ふしに」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も「四ツは亥の刻なり。」としている。これに対し『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「昼からの騒ぎに」と朝四つ(午前10時過ぎ)としている。
どっちにしても大晦日は忙しいことに変わりない。その忙しいさなかに出産となれば、それこそ「どたくた」している。
わかりやすい句で、『俳諧古集之弁』系では「句作おかし」とだけある。
季題は「大晦日」で冬。
二十八句目。
どたくたと大晦日も四つのかね
無筆のこのむ状の跡さき 利牛
「無筆」は読み書きのできない人、「このむ」は注文をつけることをいう。日本は中世から識字率が高く、読み書きできない人は庶民といえどもそう多くはなかったし、連歌や俳諧が日本の識字率の向上につながった面もある。
当時は年賀状はあるにはあったが、年明けていばらくしてから書くことが多く、年内に出さなくてはいけないわけではなかった。大晦日のどたばたしている時にわざわざ書かせる書状というと、借金の催促とか延期願いだとかだろうか。それにしては遅すぎる。
『俳諧古集之弁』系では「前へ無用なる晦日へ附たり。」とある。前句の大晦日の体に打越の「むすめ産」の用が付いているから、ここで大晦日の用を付けると「用付け」になって、展開に乏しく輪廻気味になる。そのため「無用」、つまり大晦日の出来事としてそれほど必然性のないことを附ける必要があった。
字の書けない人が手紙の代筆を頼むのは、別に大晦日でなくても良いことで、「むすめ産」のように「こんな時に」というネタにもなっていない。
代筆を頼む人はお年寄りであったりしたのだろう。繰言が多くてどうにも要領を得ないのは、遺言を代筆する公証人の心境のようなものだろう。その呑気さと世間の大晦日の忙しさを対比したと見た方がいいのかもしれない。
無季。
2016年11月30日水曜日
2016年11月29日火曜日
二十五句目。
塩出す鴨の苞ほどくなり
算用に浮世を立る京ずまひ 芭蕉
なかなか良いテンポで進んでいるので、この調子を維持したい所だ。ただそこは芭蕉さん、やっぱり少しひねってくる。それだけにわかりにくい。
まず今までかなりの信頼性のあった江戸後期の『俳諧古集之弁』系の注釈を見てみよう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「塩鳥に出てたまかなるそこの風俗をいへるや。」とある。「たまか」は堅実とか実直とかいう意味でつつましい、倹約という意味もある。まあ、悪く言えばケチということか。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「塩鳥より出たり」としかない。これではよくわからない。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「塩鳥ヨリ洛ノ生モノ不自由ノ地ヲ宣エリ。」とある。京都は海から遠いから鮮魚も入りにくいし、農産物や野生動物の肉に関しても生ものより乾物の方が主流だったということか。
幕末系の注釈は、こうした注釈を踏襲している。
『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)は「前句ハゐなかよりの到来もの也。まことにめづらしと引ほどきたるハ、算用に浮世を立るからき京の住居なるべし。よくはまりたる附合也。」とある。京都は商業都市で生ものに乏しいから、田舎から送られてきた塩鴨をありがたがるし、それが京都の人の合理精神でもあるといったところか。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「算用に浮世を立つるは、農もせず漁もせず樵牧もせで、商利のこまかきを積み、小利口に世を渡るを云ふなり。」も大体似たようなことだろう。
京都というと今でも鰊蕎麦が名物だし、身欠き鰊のような乾物は京都の人の気質にもあっているのだろう。乾物はもどすのに手間はかかるものの、安くて長期に渡ってストックしておけるので、京都の商人気質に合っていたのだろう。多分芭蕉の時代に塩鴨から京都を連想するのは無理のない自然なもので、京都人の気質を象徴するものだったのだろう。
無季。
二十六句目。
算用に浮世を立る京ずまひ
又沙汰なしにむすめ産(よろこぶ) 野坡
『俳諧古集之弁』系の註では、前句の算用に浮世を立てる京住まいの人を「算術の師」と取り成しているという。ただ、算術師と多産がどう結びつくのかよくわからない。京都の算術師というと、芭蕉と同時代の渋川春海(二世安井算哲)が思い浮かぶが、子どもは一人しかいなかった。父親の一世安井算哲も京の算術師だったが、こちらもなかなか子どもに恵まれず安井算知を養子としている。
算術師というと関孝和が有名だが、こちらは江戸に住んでいた。関孝和が継子算を数学的に解明したからか、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「御内義迄継子算が上手と咄す様也。」とある。面白いけど後付けだろう。
『俳諧古集之弁』に、「さハ四方髪の兀あがりて先生顔ならんに、若やかなるものもてるなるべし。せつろしき所帯にあまた産せる按排余情あり。」とあるから、自由気ままに生きる流浪の算術師に、ナンパなイメージがあったのかもしれない。
「産」と書いて「よろこぶ」と読むことに関しては、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「京都の方言に女の産するをよろこびと云。」とある。
無季。「むすめ」は人倫。
塩出す鴨の苞ほどくなり
算用に浮世を立る京ずまひ 芭蕉
なかなか良いテンポで進んでいるので、この調子を維持したい所だ。ただそこは芭蕉さん、やっぱり少しひねってくる。それだけにわかりにくい。
まず今までかなりの信頼性のあった江戸後期の『俳諧古集之弁』系の注釈を見てみよう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「塩鳥に出てたまかなるそこの風俗をいへるや。」とある。「たまか」は堅実とか実直とかいう意味でつつましい、倹約という意味もある。まあ、悪く言えばケチということか。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「塩鳥より出たり」としかない。これではよくわからない。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「塩鳥ヨリ洛ノ生モノ不自由ノ地ヲ宣エリ。」とある。京都は海から遠いから鮮魚も入りにくいし、農産物や野生動物の肉に関しても生ものより乾物の方が主流だったということか。
幕末系の注釈は、こうした注釈を踏襲している。
『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)は「前句ハゐなかよりの到来もの也。まことにめづらしと引ほどきたるハ、算用に浮世を立るからき京の住居なるべし。よくはまりたる附合也。」とある。京都は商業都市で生ものに乏しいから、田舎から送られてきた塩鴨をありがたがるし、それが京都の人の合理精神でもあるといったところか。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「算用に浮世を立つるは、農もせず漁もせず樵牧もせで、商利のこまかきを積み、小利口に世を渡るを云ふなり。」も大体似たようなことだろう。
京都というと今でも鰊蕎麦が名物だし、身欠き鰊のような乾物は京都の人の気質にもあっているのだろう。乾物はもどすのに手間はかかるものの、安くて長期に渡ってストックしておけるので、京都の商人気質に合っていたのだろう。多分芭蕉の時代に塩鴨から京都を連想するのは無理のない自然なもので、京都人の気質を象徴するものだったのだろう。
無季。
二十六句目。
算用に浮世を立る京ずまひ
又沙汰なしにむすめ産(よろこぶ) 野坡
『俳諧古集之弁』系の註では、前句の算用に浮世を立てる京住まいの人を「算術の師」と取り成しているという。ただ、算術師と多産がどう結びつくのかよくわからない。京都の算術師というと、芭蕉と同時代の渋川春海(二世安井算哲)が思い浮かぶが、子どもは一人しかいなかった。父親の一世安井算哲も京の算術師だったが、こちらもなかなか子どもに恵まれず安井算知を養子としている。
算術師というと関孝和が有名だが、こちらは江戸に住んでいた。関孝和が継子算を数学的に解明したからか、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「御内義迄継子算が上手と咄す様也。」とある。面白いけど後付けだろう。
『俳諧古集之弁』に、「さハ四方髪の兀あがりて先生顔ならんに、若やかなるものもてるなるべし。せつろしき所帯にあまた産せる按排余情あり。」とあるから、自由気ままに生きる流浪の算術師に、ナンパなイメージがあったのかもしれない。
「産」と書いて「よろこぶ」と読むことに関しては、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「京都の方言に女の産するをよろこびと云。」とある。
無季。「むすめ」は人倫。
2016年11月27日日曜日
今日も午後から雨。寒い一日だった。
二十句目。
新畠の糞もおちつく雪の上
吹とられたう笠とりに行 利牛
雪解けの頃に吹く強い春風を付ける。東風(こち)とも呼ばれている。ただ、「東風」という言葉を使わずに東風を表現するところが匂い付けになる。
抱込で松山廣き有明に
あふ人ひとごとの魚くさきなり 芭蕉
と同じで、「松山」に「漁師」を付ければ普通の言葉付けだが、漁師と言わずしてそれを匂わせることで、文字通り魚の匂いを付けている。
「東風」を表に出さないことには、無季の句となり、次の句の展開がしやすくなるというメリットもある。
句意は明瞭で、前句を背景として、風に吹き飛んだ傘を拾いに行く人を付けている。畑の真ん中で春風に笠を吹き飛ばすのは「あるある」ネタ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の系統は「東風の時候」とだけ記している。
無季。「笠」は衣装。
二十一句目。
吹とられたう笠とりに行
川越の帯しの水をあぶながり 野坡
昔の街道は幕府が橋を作らせなかったため、川の水につかりながら徒歩で渡ったのは学校でも習ったことで今更だが、そうして渡る途中に風で笠が吹き飛んで腰まで水につかりながらおそるおそるそれを取りに行くというのは、当時の「あるある」だったのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)系は「二句一体にして与奪の意なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「帯しハ腰のあたりといふ義也。」と付け加えている。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)はこれを大井川の川越制度に結び付けているが、川越制度は元禄九年からなので、この俳諧が巻かれた時にはまだなかった。
『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「驚き恐るべき程にもなき纔(わずか)腰切りの水を、かしましくいふ余情あり。」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「川越人足ともあるものの帯ほどの水を危がるべきや。」とあるが、この両者は明治三年に川越制度が廃止された後の世代なので、川越の実態を知らない。みんなが渡ってたり、普段渡り慣れている所ならともかく、川下に流されていった笠を拾うために道を外れるとなると、急に深みにはまることがあるので危ない。今でも川で遊ぶ人は注意しなくてはならない。
無季。「川越」は水辺。旅体。「此島」から三句隔てている。
二十二句目。
川越の帯しの水をあぶながり
平地の寺のうすき藪垣 芭蕉
平地は今では平らな土地という意味だが、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「平地は水辺の体」とあるから、かつては川や干潟を干拓した土地を意味していたのであろう。そのあたりは腰ほどまでの水の流れる用水路が縦横無尽に走り、それを避けながら寺の藪垣を頼りに進むと良かったのだろう。お寺は大概盛り土をしたりしてやや高い所に建てる。「うすき」というところに心細さを感じる。
これは旅体ではなく、平地に住む人の日常の風景に転じている。
『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)や『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)はお寺が水に流されるのではないかと心配しているが、意外に他は沈んでも寺は残るものだ。お寺の開祖となるようなお坊さんは馬鹿ではない。
無季。「寺」は釈教。「平地」が式目上の水辺になるのかどうかはよくわからない。
二十三句目。
平地の寺のうすき藪垣
干物を日向の方へいざらせて 利牛
干物といってもお寺だから魚やイカではなく、柿だとか大根だとかだろう。「いざる」というのは「どかす」「移動させる」という意味。元は膝で歩くことを言ったが、そこからゆっくり移動するという意味に拡大されたようだ。名詞形はやばいので割愛。
平地の寺で干物を日向に干すのは日常の光景で冬が来たなと感じさせる。日が低くなると薮垣の影になるので、垣から遠ざけたのだろう。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其場ニシテ明ナリ。」としている。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「いざらせて」の「いざる」を接頭語「い」+「去る」で「ゐざる」とは別だとしている。「い」と「ゐ」は江戸時代には既に混同されていて、発音に違いは無かったと思われる。「ゐざる」も「居(ゐ)」+「去る」から来たと言われている。
無季。「干し菜」は冬の季題だが、干し蕪や干し大根は春の季題で、「干し物」だけでは季題にならない。十三句目の「干葉」も「干し菜」にしなかったのは「淡気の雪」から二句しか離れてなかったからだろう。
ニ十四句目。
干物を日向の方へいざらせて
塩出す鴨の苞(つと)ほどくなり 孤屋
「塩出す」は保存のために塩漬けにした食品(塩蔵)を塩抜きして戻すことを言う。江戸時代には鴨肉も塩蔵にしていたのだろう。塩漬け肉はかつて世界中にあり、ヨーロッパにも鴨の塩漬けや生ハムがあり、中国にも咸鴨腿というのがある。
せっかく手に入った鴨肉なので塩出しして食べようと思うと、狭い長屋では置き場所がない。干してある干物をちょっとどける。
こうしたあるあるネタでさくさく進んでいくあたりが、「軽み」の風の真骨頂なのだろう。こういうネタだと古註の意見もほとんど分かれない。
無季。「鴨」はここでは食品なので鳥類にはならない。
二十句目。
新畠の糞もおちつく雪の上
吹とられたう笠とりに行 利牛
雪解けの頃に吹く強い春風を付ける。東風(こち)とも呼ばれている。ただ、「東風」という言葉を使わずに東風を表現するところが匂い付けになる。
抱込で松山廣き有明に
あふ人ひとごとの魚くさきなり 芭蕉
と同じで、「松山」に「漁師」を付ければ普通の言葉付けだが、漁師と言わずしてそれを匂わせることで、文字通り魚の匂いを付けている。
「東風」を表に出さないことには、無季の句となり、次の句の展開がしやすくなるというメリットもある。
句意は明瞭で、前句を背景として、風に吹き飛んだ傘を拾いに行く人を付けている。畑の真ん中で春風に笠を吹き飛ばすのは「あるある」ネタ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の系統は「東風の時候」とだけ記している。
無季。「笠」は衣装。
二十一句目。
吹とられたう笠とりに行
川越の帯しの水をあぶながり 野坡
昔の街道は幕府が橋を作らせなかったため、川の水につかりながら徒歩で渡ったのは学校でも習ったことで今更だが、そうして渡る途中に風で笠が吹き飛んで腰まで水につかりながらおそるおそるそれを取りに行くというのは、当時の「あるある」だったのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)系は「二句一体にして与奪の意なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「帯しハ腰のあたりといふ義也。」と付け加えている。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)はこれを大井川の川越制度に結び付けているが、川越制度は元禄九年からなので、この俳諧が巻かれた時にはまだなかった。
『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「驚き恐るべき程にもなき纔(わずか)腰切りの水を、かしましくいふ余情あり。」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「川越人足ともあるものの帯ほどの水を危がるべきや。」とあるが、この両者は明治三年に川越制度が廃止された後の世代なので、川越の実態を知らない。みんなが渡ってたり、普段渡り慣れている所ならともかく、川下に流されていった笠を拾うために道を外れるとなると、急に深みにはまることがあるので危ない。今でも川で遊ぶ人は注意しなくてはならない。
無季。「川越」は水辺。旅体。「此島」から三句隔てている。
二十二句目。
川越の帯しの水をあぶながり
平地の寺のうすき藪垣 芭蕉
平地は今では平らな土地という意味だが、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「平地は水辺の体」とあるから、かつては川や干潟を干拓した土地を意味していたのであろう。そのあたりは腰ほどまでの水の流れる用水路が縦横無尽に走り、それを避けながら寺の藪垣を頼りに進むと良かったのだろう。お寺は大概盛り土をしたりしてやや高い所に建てる。「うすき」というところに心細さを感じる。
これは旅体ではなく、平地に住む人の日常の風景に転じている。
『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)や『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)はお寺が水に流されるのではないかと心配しているが、意外に他は沈んでも寺は残るものだ。お寺の開祖となるようなお坊さんは馬鹿ではない。
無季。「寺」は釈教。「平地」が式目上の水辺になるのかどうかはよくわからない。
二十三句目。
平地の寺のうすき藪垣
干物を日向の方へいざらせて 利牛
干物といってもお寺だから魚やイカではなく、柿だとか大根だとかだろう。「いざる」というのは「どかす」「移動させる」という意味。元は膝で歩くことを言ったが、そこからゆっくり移動するという意味に拡大されたようだ。名詞形はやばいので割愛。
平地の寺で干物を日向に干すのは日常の光景で冬が来たなと感じさせる。日が低くなると薮垣の影になるので、垣から遠ざけたのだろう。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其場ニシテ明ナリ。」としている。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「いざらせて」の「いざる」を接頭語「い」+「去る」で「ゐざる」とは別だとしている。「い」と「ゐ」は江戸時代には既に混同されていて、発音に違いは無かったと思われる。「ゐざる」も「居(ゐ)」+「去る」から来たと言われている。
無季。「干し菜」は冬の季題だが、干し蕪や干し大根は春の季題で、「干し物」だけでは季題にならない。十三句目の「干葉」も「干し菜」にしなかったのは「淡気の雪」から二句しか離れてなかったからだろう。
ニ十四句目。
干物を日向の方へいざらせて
塩出す鴨の苞(つと)ほどくなり 孤屋
「塩出す」は保存のために塩漬けにした食品(塩蔵)を塩抜きして戻すことを言う。江戸時代には鴨肉も塩蔵にしていたのだろう。塩漬け肉はかつて世界中にあり、ヨーロッパにも鴨の塩漬けや生ハムがあり、中国にも咸鴨腿というのがある。
せっかく手に入った鴨肉なので塩出しして食べようと思うと、狭い長屋では置き場所がない。干してある干物をちょっとどける。
こうしたあるあるネタでさくさく進んでいくあたりが、「軽み」の風の真骨頂なのだろう。こういうネタだと古註の意見もほとんど分かれない。
無季。「鴨」はここでは食品なので鳥類にはならない。
2016年11月26日土曜日
さて、初の懐紙が終わり、二の懐紙の表に入る。
十九句目
砂に暖のうつる青草
新畠の糞もおちつく雪の上 孤屋
「新畠の雪の上の糞もおちつく」の倒置か。「上」は「かくなる上」のように「あと」という意味がある。「雪ノ解けた後糞もおちつく」という意味に取った方がいいのだろう。
川原や中洲など川沿いの石や砂でできた土地を開墾して切り開いた畑に雪が積もり、それが解ける頃に肥料をやると土壌が改良され、折から春の青草が生えてくる。大きな川の河口付近は幾筋もの流れに分かれ、その間に無数の砂州が形成される。江戸時代にはこうした土地の開墾が進んでいた。
肥料を先にやってから雪が積もると、雪の水分で酸欠を起し、肥料の発酵が不十分になって有機酸が発生し、肥料あたりを起こすらしい。肥料は雪の上(後)というのはそういう長年の経験から来た知恵であろう。
この句に関しては古註の意見はかなり割れている。新畑が川原を開拓した所だということはほぼ一致している。「雪の上」の解釈が割れている。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「新畠の 雪ノ上ニ芥土ヲオクトキハ、雪モハヤクキユトゾ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「雪の上は雪の後といふがごとし。」とある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には、「雪の上ニ置し厩肥のしっかりとしたりとなり。」とあるが、この「雪の上ニ」も雪の後にという意味だろう。
これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「配置し厩こえの上に雪降」とある。肥が先で雪が後になっている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「配り置たる糞壌の雪きへて、おちつきしならん。」とあるが、この文章だと肥と雪どっちが先かよくわからない。「雪きへて配り置たる糞壌の」の倒置なら雪の後の肥になる。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には、「新畠はしんはた、糞はこえと訓むべし。」とある。それ以前の古註には読み方が指示されてないので、当初の読み方はよくわからない。新畠は多分「しんはた」で良いのだと思う。「新田」に対しての「新畠」であろう。「糞」は「くそ」なのか「こえ」なのかはよくわからない。ただ、『去来抄』にある「でっちが荷ふ水こぼしけり 凡兆」の句の初案の「糞こぼしけり」の読みが「こえこぼしけり」だったとしたら、ここも「こえ」であろう。
なお、『去来抄』のこの場所には「凡兆曰、尿糞の事申すべきか。先師曰、嫌ふべからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改あらたム。」とある。まあ、「糞」や「尿」はシモネタなので、一座一句と考えた方が良い。
まあ、だけど芭蕉さんも、
蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと 芭蕉
鶯の餅に糞する縁の先 同
という発句を詠んでいる。『荘子』にも「道はし尿にあり」とある。
季題は「雪の上」が意味としては雪解けなので春になる。
十九句目
砂に暖のうつる青草
新畠の糞もおちつく雪の上 孤屋
「新畠の雪の上の糞もおちつく」の倒置か。「上」は「かくなる上」のように「あと」という意味がある。「雪ノ解けた後糞もおちつく」という意味に取った方がいいのだろう。
川原や中洲など川沿いの石や砂でできた土地を開墾して切り開いた畑に雪が積もり、それが解ける頃に肥料をやると土壌が改良され、折から春の青草が生えてくる。大きな川の河口付近は幾筋もの流れに分かれ、その間に無数の砂州が形成される。江戸時代にはこうした土地の開墾が進んでいた。
肥料を先にやってから雪が積もると、雪の水分で酸欠を起し、肥料の発酵が不十分になって有機酸が発生し、肥料あたりを起こすらしい。肥料は雪の上(後)というのはそういう長年の経験から来た知恵であろう。
この句に関しては古註の意見はかなり割れている。新畑が川原を開拓した所だということはほぼ一致している。「雪の上」の解釈が割れている。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「新畠の 雪ノ上ニ芥土ヲオクトキハ、雪モハヤクキユトゾ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「雪の上は雪の後といふがごとし。」とある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には、「雪の上ニ置し厩肥のしっかりとしたりとなり。」とあるが、この「雪の上ニ」も雪の後にという意味だろう。
これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「配置し厩こえの上に雪降」とある。肥が先で雪が後になっている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「配り置たる糞壌の雪きへて、おちつきしならん。」とあるが、この文章だと肥と雪どっちが先かよくわからない。「雪きへて配り置たる糞壌の」の倒置なら雪の後の肥になる。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には、「新畠はしんはた、糞はこえと訓むべし。」とある。それ以前の古註には読み方が指示されてないので、当初の読み方はよくわからない。新畠は多分「しんはた」で良いのだと思う。「新田」に対しての「新畠」であろう。「糞」は「くそ」なのか「こえ」なのかはよくわからない。ただ、『去来抄』にある「でっちが荷ふ水こぼしけり 凡兆」の句の初案の「糞こぼしけり」の読みが「こえこぼしけり」だったとしたら、ここも「こえ」であろう。
なお、『去来抄』のこの場所には「凡兆曰、尿糞の事申すべきか。先師曰、嫌ふべからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改あらたム。」とある。まあ、「糞」や「尿」はシモネタなので、一座一句と考えた方が良い。
まあ、だけど芭蕉さんも、
蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと 芭蕉
鶯の餅に糞する縁の先 同
という発句を詠んでいる。『荘子』にも「道はし尿にあり」とある。
季題は「雪の上」が意味としては雪解けなので春になる。
2016年11月24日木曜日
今日は寒かった。54年ぶりの降雪とか言っていた。1歳の時にそんなことがあったのか、もちろん記憶はない。淡気(け)の雪というのはこういうのを言うのか、確かに雑談する気にもなれない。
十五句目。
馬に出ぬ日は内で恋する
絈(かせ)買の七つさがりを音づれて 利牛
絈(かせ)買についての解説は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にまかせよう。
「絈は『かせ』と訓ます俗字にして、糸未だ染めざるものなれば、糸に従ひ白に従へるなるべし。かせは本は糸を絡ふの具にして、両端撞木をなし、恰も工字の縦長なるが如き形したるものなり。紡錘もて抽きたる糸のたまりて円錐形になりたるを玉といふ。玉を其緒より『かせぎ』即ち略して『かせ』といふものに絡ひ、二十線を一トひびろといひ、五十ひびろを一トかせといふ。一トかせづつにしたるを絈糸といふ。ここに絈といへるは即ち其『かせ糸』なり。絈或は纑のかた通用す。絈糸を家々に就きて買集めて織屋の手に渡すものを絈買とは云ふなり。」
それが七つ下がりの刻、つまり夕暮れも近い頃になってやってくる。ネットで見ると「午後4時を過ぎたころ」とあったりするが、当時は不定時法なので春分秋分の頃なら四時過ぎだが、夏はもっと遅く冬は早い。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「二句がらみの附ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも「打向ハせて二句がらミに附なしけん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「打向ハセテ二句ガラミニハシタリ。」とある。この三つは大体一致することが多い。これまでからすると幕末のものよりは信頼度が高いが、「二句がらみ」はどうかと思う。
熟女のうわの空から、馬士と宿屋の女の恋と二句続いたので、ここは恋離れと見て良いのではないかと思う。夫が馬に出ぬ日は一日ラブラブで過ごしていたが、夕暮れになってお邪魔虫でも良いのではないかと思う。
無季。「絈買」はこの場合人物を指すので人倫。
十六句目。
さて、次の十七句目は花の上座で、初裏の月もまだ出ていない。ここで花を呼び出さなくてはいけない。ここはさらっと行きたい所だ。
絈買の七つさがりを音づれて
塀に門ある五十石取 孤屋
ネットで「五十石取り」を検索すると「たそがれ清兵衛」が出てくる。「教えて!goo」の回答によると、武士でも下っ端の方で年収125万円なんていう算定もある。今で言えば相対的貧困家庭か。女房が内職して糸を紡いでいるのだろう。絈買が出来上がった絈を買いに来る。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、には「用体の変なり。」とあり、『弁解』のみ「付意句意明也。」と付け加えている。「音づれて」に「恋する」と用で付いていたのを、訪れる場所である五十石取りの家という「体」を付ける。当時は句意明瞭すぎて解説の必要なしと判断されたか。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「絈買といふより転じ来て、小身侍の家の老婦、又女兄弟などの手業に絈を製りて売なし、日用のたすけとするさまを余情に見せたり。」とある。異論はない。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「塀に門あるは門に塀あるにあらず、簡略なり。」「塀は勿論板塀の古びたるにて、筋塀錬塀などの立派なるにはあらず」とある。「門に塀ある」は立派な門に塀がついているというニュアンスで、「塀に門ある」は粗末な塀に小さな門が付いているというイメージか。
五十石取りの家があるというだけの単純な句なので、次の句ではどうにでも展開できる。花呼び出しの見本のような句だ。ここまでお膳立てされるとかえって次の芭蕉さんにはプレッシャーかもしれない。
無季。「門」は居所。「五十石取」は人倫。次の句で人倫は出せない。
十七句目。
塀に門ある五十石取
此島の餓鬼も手を摺月と花 芭蕉
さあ、お約束で花ばかりか月も出してきました。
五十石取りとはいえ小さな島ではいっぱしの島奉行で、最も偉くて最も金持ちということもあるが、月花の風流の心を知るということが何より慕われる理由だという、風流の道の宣伝とも取れる。
隠岐に流罪となった後鳥羽院の、
我こそは新島守(もり)よ隠岐の海の
荒き波風心して吹け
後鳥羽院
あたりの俤を意識したか。
それにしても島人のことを「餓鬼」だなんて、いくら人倫を出せないからといって、「土人」同様今だったら先住民族差別だって騒ぎになりそうだ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句の語勢に情を起し、文に武もある島奉行と見て、いと怪しげなる夷等も心腹したる以為をいへりかん。句作の按配感味すべし。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じだが、「文に武も」のところが「仁徳」になっている。「月と花」とあるのだから『笈の小文』の、
「風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」
にひれ伏したと考えた方が良いと思う。
なお、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、今だとやはり問題になりそうな文章だ。
「此句は餓鬼といひ、島といへるに、宜しからぬ海中の荒れたる島の、痩せさらぼひて衣服だに能くも身を被はぬやうなる浅ましき土民をあらはし、しかも其の餓鬼のやうなる者も月花にあくがれ、それを見たしとは念ずるといふことを、餓鬼も手をする月と花とは作れるなり。‥‥略‥‥およそは伊豆の大島、薩摩の種子島あたりを想へるなれど、想像より成れる句にて、もとより確と定めてのことにはあらず。」
まあ、こういう認識だった時代もあったってことか。
季題は「月」と「花」だが、月は一年中あるのでこの場合は花を優先して春の句となる。「花」は植物。「月」は天象。「島」は水辺。「餓鬼」は人倫にならない。
十八句目。
此島の餓鬼も手を摺月と花
砂に暖(ぬくみ)のうつる青草 野坡
打越の島奉行のことを忘れて前句を見れば、単に花咲く月夜をに手を摺る島の先住民族ということになる。あるいは今日で言う「餓鬼」つまり子どものことか。
季節は春で「砂に青草のぬくみのうつる」を倒置にしてこの句となる。砂浜にも春の草が生えてきて暖かそうに見える、ということか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「踊躍したのしむ姿と見て、花下のけしきをいへるや。」とあり「餓鬼の語を転用して、かつぎの蜑の子どもらの花間に戯れ遊べると見ても変化おかしからん」とある。、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「悦び楽む姿と見て」としていて、後は大体同じ。
季題は「青草」で春。植物、草類。
十五句目。
馬に出ぬ日は内で恋する
絈(かせ)買の七つさがりを音づれて 利牛
絈(かせ)買についての解説は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にまかせよう。
「絈は『かせ』と訓ます俗字にして、糸未だ染めざるものなれば、糸に従ひ白に従へるなるべし。かせは本は糸を絡ふの具にして、両端撞木をなし、恰も工字の縦長なるが如き形したるものなり。紡錘もて抽きたる糸のたまりて円錐形になりたるを玉といふ。玉を其緒より『かせぎ』即ち略して『かせ』といふものに絡ひ、二十線を一トひびろといひ、五十ひびろを一トかせといふ。一トかせづつにしたるを絈糸といふ。ここに絈といへるは即ち其『かせ糸』なり。絈或は纑のかた通用す。絈糸を家々に就きて買集めて織屋の手に渡すものを絈買とは云ふなり。」
それが七つ下がりの刻、つまり夕暮れも近い頃になってやってくる。ネットで見ると「午後4時を過ぎたころ」とあったりするが、当時は不定時法なので春分秋分の頃なら四時過ぎだが、夏はもっと遅く冬は早い。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「二句がらみの附ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも「打向ハせて二句がらミに附なしけん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「打向ハセテ二句ガラミニハシタリ。」とある。この三つは大体一致することが多い。これまでからすると幕末のものよりは信頼度が高いが、「二句がらみ」はどうかと思う。
熟女のうわの空から、馬士と宿屋の女の恋と二句続いたので、ここは恋離れと見て良いのではないかと思う。夫が馬に出ぬ日は一日ラブラブで過ごしていたが、夕暮れになってお邪魔虫でも良いのではないかと思う。
無季。「絈買」はこの場合人物を指すので人倫。
十六句目。
さて、次の十七句目は花の上座で、初裏の月もまだ出ていない。ここで花を呼び出さなくてはいけない。ここはさらっと行きたい所だ。
絈買の七つさがりを音づれて
塀に門ある五十石取 孤屋
ネットで「五十石取り」を検索すると「たそがれ清兵衛」が出てくる。「教えて!goo」の回答によると、武士でも下っ端の方で年収125万円なんていう算定もある。今で言えば相対的貧困家庭か。女房が内職して糸を紡いでいるのだろう。絈買が出来上がった絈を買いに来る。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、には「用体の変なり。」とあり、『弁解』のみ「付意句意明也。」と付け加えている。「音づれて」に「恋する」と用で付いていたのを、訪れる場所である五十石取りの家という「体」を付ける。当時は句意明瞭すぎて解説の必要なしと判断されたか。
『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「絈買といふより転じ来て、小身侍の家の老婦、又女兄弟などの手業に絈を製りて売なし、日用のたすけとするさまを余情に見せたり。」とある。異論はない。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「塀に門あるは門に塀あるにあらず、簡略なり。」「塀は勿論板塀の古びたるにて、筋塀錬塀などの立派なるにはあらず」とある。「門に塀ある」は立派な門に塀がついているというニュアンスで、「塀に門ある」は粗末な塀に小さな門が付いているというイメージか。
五十石取りの家があるというだけの単純な句なので、次の句ではどうにでも展開できる。花呼び出しの見本のような句だ。ここまでお膳立てされるとかえって次の芭蕉さんにはプレッシャーかもしれない。
無季。「門」は居所。「五十石取」は人倫。次の句で人倫は出せない。
十七句目。
塀に門ある五十石取
此島の餓鬼も手を摺月と花 芭蕉
さあ、お約束で花ばかりか月も出してきました。
五十石取りとはいえ小さな島ではいっぱしの島奉行で、最も偉くて最も金持ちということもあるが、月花の風流の心を知るということが何より慕われる理由だという、風流の道の宣伝とも取れる。
隠岐に流罪となった後鳥羽院の、
我こそは新島守(もり)よ隠岐の海の
荒き波風心して吹け
後鳥羽院
あたりの俤を意識したか。
それにしても島人のことを「餓鬼」だなんて、いくら人倫を出せないからといって、「土人」同様今だったら先住民族差別だって騒ぎになりそうだ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句の語勢に情を起し、文に武もある島奉行と見て、いと怪しげなる夷等も心腹したる以為をいへりかん。句作の按配感味すべし。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じだが、「文に武も」のところが「仁徳」になっている。「月と花」とあるのだから『笈の小文』の、
「風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」
にひれ伏したと考えた方が良いと思う。
なお、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、今だとやはり問題になりそうな文章だ。
「此句は餓鬼といひ、島といへるに、宜しからぬ海中の荒れたる島の、痩せさらぼひて衣服だに能くも身を被はぬやうなる浅ましき土民をあらはし、しかも其の餓鬼のやうなる者も月花にあくがれ、それを見たしとは念ずるといふことを、餓鬼も手をする月と花とは作れるなり。‥‥略‥‥およそは伊豆の大島、薩摩の種子島あたりを想へるなれど、想像より成れる句にて、もとより確と定めてのことにはあらず。」
まあ、こういう認識だった時代もあったってことか。
季題は「月」と「花」だが、月は一年中あるのでこの場合は花を優先して春の句となる。「花」は植物。「月」は天象。「島」は水辺。「餓鬼」は人倫にならない。
十八句目。
此島の餓鬼も手を摺月と花
砂に暖(ぬくみ)のうつる青草 野坡
打越の島奉行のことを忘れて前句を見れば、単に花咲く月夜をに手を摺る島の先住民族ということになる。あるいは今日で言う「餓鬼」つまり子どものことか。
季節は春で「砂に青草のぬくみのうつる」を倒置にしてこの句となる。砂浜にも春の草が生えてきて暖かそうに見える、ということか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「踊躍したのしむ姿と見て、花下のけしきをいへるや。」とあり「餓鬼の語を転用して、かつぎの蜑の子どもらの花間に戯れ遊べると見ても変化おかしからん」とある。、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「悦び楽む姿と見て」としていて、後は大体同じ。
季題は「青草」で春。植物、草類。
2016年11月23日水曜日
今日は寒い一日で、久しぶりにゆっくり休んだので、「ゑびす講」の巻の方も一気に進んだ。
十句目
ひだるきハ殊軍の大事也
淡気(け)の雪に雑談もせぬ 野坡
前句の軍仕立てを引きずってはいけない。前句を単なる「腹が減っては軍はできぬ」という慣用句として、冬の寒い中では人もついつい無口になるという情景を付けたと解した方がいい。1977年のヒット曲「津軽海峡冬景色」(作詞:阿久悠)の「北へ帰る人の群れは誰も無口で」みたいなものか。気温が下がると体温を維持するためにそれだけ多くのカロリーを消費するから、どうしても腹が減る。腹が減っては軍はできぬとばかりに人は無口になる。と、そういうわけでこれを軍仕立ての句の続きと見た注釈は残念。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「雪は趣向にして句作に用を結べり。尤、爰に此季を出せる変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも、「淡気の雪ハミぞれならん。是を趣向にして其用を結べり。尤、爰に此季を出せるハ変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。後半はコピペ。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「冬を附タルハ変化の大事ナリ。工夫スベキコトナリ。」とある。
『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)には「其人を見定たる附也。雑談もせぬハひだるきさま成べし。消へ安き淡雪に空腹をとり合ハせたる句作りなり。」とある。
『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「冬の泡しき雪也。」とある。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「淡気の 雪ふり出し、たれだれも寒くおぼえて、雑談もせぬうちに時刻うつりて空腹になる。」とある。
こうした解釈の方が当を得ている。
季題は「雪」で冬。降物。六句目の「露霜」から三句隔てている。
十一句目。
淡気の雪に雑談もせぬ
明しらむ籠挑灯を吹消して 孤屋
「籠挑灯」が何なのかは芭蕉の時代にはおそらく自明だったのだろう。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「句意分明ナリ。」とだけある。
しかし、幕末ともなると、既にわかりにくくなっていたか。ネットで調べても駕籠かきが使う小田原提灯のようなものを駕籠提灯と言ってたり、竹で編んだものに紙を張った看板用の提灯を駕籠提灯と言ってたりする。ただ、幕末明治の註でも概ね駕籠屋の使う小田原提灯系のものということで一致している。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のみ、籠に紙を張った元和の頃(江戸時代初期)の提灯としている。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「籠ハ書損ならん。箱の字成るべし。」とあるが、箱提灯も円筒形の小田原提灯系のもの。
ここではおそらく駕籠かきの使う円筒形の折りたたみ式の提灯、小田原提灯系のものとし、雑談をせぬ者の位を駕籠かきに取り成しての句だと見て良いと思う。こういう物は場所によって呼び方がいろいろあるので混乱するのだろう。
当時の旅は一日の距離を稼ぐために未明に出発することも多く、しばらく行って夜が白む頃提灯を黙々と吹き消して仕事を続ける。ついつい「いやー寒いっすねー」「マジ痺れるわー」なんて言いたくなるが、そこはお客さんの前、我慢するのがプロだ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「用体の差別といひ句体の虚実に変あり。」とある。打越の「ひだるきハ‥‥」があくまで比喩だったのに対し、提灯を打ち消すとえう実景を付ける。「用体の差別」というのは、「ひだるきハ」の例として、いわば前句が体となり、その用(用例)として「淡気の雪に雑談」が引き合いに出されたのに対し、それを体として付けているという意味か。
上句下句を合せた時「明しらむ籠挑灯を吹消して淡気の雪に雑談もせぬ」となるが、これは「淡気の雪に雑談もせず、明しらむ籠挑灯を吹消して」の倒置。
無季。夏冬は一応三句まではつづけられるが、一句で捨てる場合が多い。
十二句目。
明しらむ籠挑灯を吹消して
肩-癖(けんぺき)にはる湯屋の膏薬 利牛
肩癖は肩凝りのこと。湯屋の膏薬については、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)に「湯屋、床屋等にて昔は薬を売りしこと間々あり。明治初年、猶ほ湯屋にて按摩膏、角力膏の類を売り居りしなり。」とある。ネットでも大体同じような記事がある。
これも句意は明瞭で、特に駕籠かきに限らず携帯用の提灯を持ち歩く職業の人が、明け白む頃に湯屋で買った膏薬を張って肩こりに鞭打ち、さあ今日も頑張るぞといった所だろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「前底無用なるより奪て二句一章に作れり。」とある。「前底無用」は前句を必ずしも駕籠かきが旅の途中でという風景を引きずらなくても良い、むしろそれを一度忘れよということではないかと思う。「二句一章」は特に付け筋によらず一首の和歌のように構成したということで良いと思う。
これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句てノ余韻明しらむ迄駕児の物堪し体ト見立、建場に休む間の用を付たり。」とし、「奪て二句一章に作れりト云ハ並物也。」と遅日庵杜哉をディスってる。曲斎はあくまで前句の人物を駕籠かきだとし、その用を付けたのであって、「無用」ではないと主張する。だが、これだと展開が甘くなる。
無季。
十三句目。
肩-癖にはる湯屋の膏薬
上をきの干葉刻もうハの空 野坡
「干し葉刻む」で肩に膏薬を張った人物を女性にし、片肌脱いだ熟女の色気に転じている。「うわの空」は肩こりがつらいとも取れるが、誰かのことを思って上の空になっているとも取れる。もちろん恋への展開を予想しての恋呼び出しであろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「肉太なる女の肌ぬぎたる姿ミるがごとし。変化ハ更に自他明か也。」とある。遅日庵杜哉さんは熟女好き。
これに対し、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「賤の女の四十もこえたるが、肩より胸のあたりまで、きたなく張りちらしたるさまと思ひよせたり。其痛みに堪えかねし余情をうはの空とあしらひたる也。」と言う。幻窓湖中はひょっとして蕪村派(ロリ)?
無季。
十四句目。
上をきの干葉刻もうハの空
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
恋呼び出しとあっては、それに答えないのは野暮というもの。肩凝りは前句の話で、ここではそれを忘れ、棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている多分若い女性に取り成されている。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。
位付けの見本の一つとして、『去来抄』はこの句を引いている。
「上置の干菜刻もうはの空
馬に出ぬ日はうちで恋する
此前句は人の妻にもあらず、武家町屋の下女にもあらず、宿や問(とひ)や等の下女也なり。」
ここでは干葉が干菜になっているが意味は同じだろう。
『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には『去来抄』に関して、「宿屋問屋の下女ト云ハ、食品をしらぬ故也。」と言っているが、幕末と元禄では宿屋の食事事情もかなり違っていることだろう。
また同書は各務支考の『続五論』を引いてこう記している。「賤しき馬士の恋といへども、上置の干菜に手をとどむといへバ、針をとどめて語るといへる宮女の有様にも、心ハなどか劣らむ。如此ハ恋の本情を見て、恋の風雅を付たりト賛じたり。」とある。この言葉は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)でも引用されている。
これは賤しき馬士が干し菜を手にとどむということなのか。そうではないだろう。宮女の有様に例えられるのだから、宿屋の娘が干し菜を手にとどむと見るべきだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、傍輩なる男の脚ふミそらして、挑み居る風情ならん。」とある。また、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、「暁台曰く、傍輩なる男の風情と見るべしと。下品なる男女の挑みあひたるさま見えていとをかし。」とある。「挑む」は古語辞典だと「恋の誘いかけ」とあり、宮女の「語る」と同様、それ以上の想像はしないほうが良いのか。源氏物語でも時折「語る」という言葉が出てくる。
無季。「恋」は恋。「馬」はここでは姿として登場しないので獣類といえるのかどうかは微妙。
十句目
ひだるきハ殊軍の大事也
淡気(け)の雪に雑談もせぬ 野坡
前句の軍仕立てを引きずってはいけない。前句を単なる「腹が減っては軍はできぬ」という慣用句として、冬の寒い中では人もついつい無口になるという情景を付けたと解した方がいい。1977年のヒット曲「津軽海峡冬景色」(作詞:阿久悠)の「北へ帰る人の群れは誰も無口で」みたいなものか。気温が下がると体温を維持するためにそれだけ多くのカロリーを消費するから、どうしても腹が減る。腹が減っては軍はできぬとばかりに人は無口になる。と、そういうわけでこれを軍仕立ての句の続きと見た注釈は残念。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「雪は趣向にして句作に用を結べり。尤、爰に此季を出せる変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも、「淡気の雪ハミぞれならん。是を趣向にして其用を結べり。尤、爰に此季を出せるハ変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。後半はコピペ。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「冬を附タルハ変化の大事ナリ。工夫スベキコトナリ。」とある。
『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)には「其人を見定たる附也。雑談もせぬハひだるきさま成べし。消へ安き淡雪に空腹をとり合ハせたる句作りなり。」とある。
『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「冬の泡しき雪也。」とある。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「淡気の 雪ふり出し、たれだれも寒くおぼえて、雑談もせぬうちに時刻うつりて空腹になる。」とある。
こうした解釈の方が当を得ている。
季題は「雪」で冬。降物。六句目の「露霜」から三句隔てている。
十一句目。
淡気の雪に雑談もせぬ
明しらむ籠挑灯を吹消して 孤屋
「籠挑灯」が何なのかは芭蕉の時代にはおそらく自明だったのだろう。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「句意分明ナリ。」とだけある。
しかし、幕末ともなると、既にわかりにくくなっていたか。ネットで調べても駕籠かきが使う小田原提灯のようなものを駕籠提灯と言ってたり、竹で編んだものに紙を張った看板用の提灯を駕籠提灯と言ってたりする。ただ、幕末明治の註でも概ね駕籠屋の使う小田原提灯系のものということで一致している。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のみ、籠に紙を張った元和の頃(江戸時代初期)の提灯としている。
『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「籠ハ書損ならん。箱の字成るべし。」とあるが、箱提灯も円筒形の小田原提灯系のもの。
ここではおそらく駕籠かきの使う円筒形の折りたたみ式の提灯、小田原提灯系のものとし、雑談をせぬ者の位を駕籠かきに取り成しての句だと見て良いと思う。こういう物は場所によって呼び方がいろいろあるので混乱するのだろう。
当時の旅は一日の距離を稼ぐために未明に出発することも多く、しばらく行って夜が白む頃提灯を黙々と吹き消して仕事を続ける。ついつい「いやー寒いっすねー」「マジ痺れるわー」なんて言いたくなるが、そこはお客さんの前、我慢するのがプロだ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「用体の差別といひ句体の虚実に変あり。」とある。打越の「ひだるきハ‥‥」があくまで比喩だったのに対し、提灯を打ち消すとえう実景を付ける。「用体の差別」というのは、「ひだるきハ」の例として、いわば前句が体となり、その用(用例)として「淡気の雪に雑談」が引き合いに出されたのに対し、それを体として付けているという意味か。
上句下句を合せた時「明しらむ籠挑灯を吹消して淡気の雪に雑談もせぬ」となるが、これは「淡気の雪に雑談もせず、明しらむ籠挑灯を吹消して」の倒置。
無季。夏冬は一応三句まではつづけられるが、一句で捨てる場合が多い。
十二句目。
明しらむ籠挑灯を吹消して
肩-癖(けんぺき)にはる湯屋の膏薬 利牛
肩癖は肩凝りのこと。湯屋の膏薬については、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)に「湯屋、床屋等にて昔は薬を売りしこと間々あり。明治初年、猶ほ湯屋にて按摩膏、角力膏の類を売り居りしなり。」とある。ネットでも大体同じような記事がある。
これも句意は明瞭で、特に駕籠かきに限らず携帯用の提灯を持ち歩く職業の人が、明け白む頃に湯屋で買った膏薬を張って肩こりに鞭打ち、さあ今日も頑張るぞといった所だろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「前底無用なるより奪て二句一章に作れり。」とある。「前底無用」は前句を必ずしも駕籠かきが旅の途中でという風景を引きずらなくても良い、むしろそれを一度忘れよということではないかと思う。「二句一章」は特に付け筋によらず一首の和歌のように構成したということで良いと思う。
これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句てノ余韻明しらむ迄駕児の物堪し体ト見立、建場に休む間の用を付たり。」とし、「奪て二句一章に作れりト云ハ並物也。」と遅日庵杜哉をディスってる。曲斎はあくまで前句の人物を駕籠かきだとし、その用を付けたのであって、「無用」ではないと主張する。だが、これだと展開が甘くなる。
無季。
十三句目。
肩-癖にはる湯屋の膏薬
上をきの干葉刻もうハの空 野坡
「干し葉刻む」で肩に膏薬を張った人物を女性にし、片肌脱いだ熟女の色気に転じている。「うわの空」は肩こりがつらいとも取れるが、誰かのことを思って上の空になっているとも取れる。もちろん恋への展開を予想しての恋呼び出しであろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「肉太なる女の肌ぬぎたる姿ミるがごとし。変化ハ更に自他明か也。」とある。遅日庵杜哉さんは熟女好き。
これに対し、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「賤の女の四十もこえたるが、肩より胸のあたりまで、きたなく張りちらしたるさまと思ひよせたり。其痛みに堪えかねし余情をうはの空とあしらひたる也。」と言う。幻窓湖中はひょっとして蕪村派(ロリ)?
無季。
十四句目。
上をきの干葉刻もうハの空
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
恋呼び出しとあっては、それに答えないのは野暮というもの。肩凝りは前句の話で、ここではそれを忘れ、棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている多分若い女性に取り成されている。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。
位付けの見本の一つとして、『去来抄』はこの句を引いている。
「上置の干菜刻もうはの空
馬に出ぬ日はうちで恋する
此前句は人の妻にもあらず、武家町屋の下女にもあらず、宿や問(とひ)や等の下女也なり。」
ここでは干葉が干菜になっているが意味は同じだろう。
『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には『去来抄』に関して、「宿屋問屋の下女ト云ハ、食品をしらぬ故也。」と言っているが、幕末と元禄では宿屋の食事事情もかなり違っていることだろう。
また同書は各務支考の『続五論』を引いてこう記している。「賤しき馬士の恋といへども、上置の干菜に手をとどむといへバ、針をとどめて語るといへる宮女の有様にも、心ハなどか劣らむ。如此ハ恋の本情を見て、恋の風雅を付たりト賛じたり。」とある。この言葉は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)でも引用されている。
これは賤しき馬士が干し菜を手にとどむということなのか。そうではないだろう。宮女の有様に例えられるのだから、宿屋の娘が干し菜を手にとどむと見るべきだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、傍輩なる男の脚ふミそらして、挑み居る風情ならん。」とある。また、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、「暁台曰く、傍輩なる男の風情と見るべしと。下品なる男女の挑みあひたるさま見えていとをかし。」とある。「挑む」は古語辞典だと「恋の誘いかけ」とあり、宮女の「語る」と同様、それ以上の想像はしないほうが良いのか。源氏物語でも時折「語る」という言葉が出てくる。
無季。「恋」は恋。「馬」はここでは姿として登場しないので獣類といえるのかどうかは微妙。
2016年11月22日火曜日
さて、初の懐紙も裏に入り、次が七句目。
割木の安き国の露霜
網の者近づき舟に声かけて 利牛
これはわかりにくい。古註にヒントを得ながら読み解くとしよう。
まず、露霜を捨てて「割木の安き」を割木舟(薪舟)のこととみなして「近づき舟」とし、海に網を張っている漁師がそれに声をかける。
露霜を捨てているのは、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)が「此句露霜ト云ヲ付もらしけり。」と指摘している通りで、上句下句合せて読んだとき露霜は特に意味を持っていない。
「割木の安き」から割木舟を導き出していることは、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「即割木ぶねなり。」とし、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)なども同様の指摘をしている。割木舟は瀬戸内海など松の多い地方で薪を積んで売り歩く船のこと。
「近づき舟」が近づいてくる舟のことで、網の物の方から舟に近づくのではないことは、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「近づき舟とつづけて読むべし。」とあり、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)にも「沖の通船の近づき船」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「向より走来る舟」とある。
ただ、何のために漁師が声をかけたかとなると、是もほぼ皆共通して網があるから入らぬように声をかけているという点で一致している。
ただ、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)のみ、「割木を積し舟人と漁師は、平生心易き近付にと、海原迄と声をかけ船よばひして、語り合うさま也。」としている。
この句は概ねの解釈に従い、割木の安い国から来た割木舟が近づいてきたので、地元の漁師が網に触らぬように声をかける、としておこう。「露霜」というのは「ちょっとした事件」くらいの意味にとっておくのが良いのかもしれない。
なお、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「天地を一壺にちぢむるの術ありといハん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「大山を罌粟(けし)の一粒にちぢむる術ありといはん」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「大ナル者ヲ小サナル物ヲチヂムル変化也。」とある。同じことを言っていると思われる。スケールの大きな句という意味か。
無季。秋が三句続いた後無季に転ずる。「網の者」は人倫、水辺。「舟」も水辺。
八句目。
網の者近づき舟に声かけて
星さへ見えず二十八日 孤屋
これはわかりやすい。近づき舟が何であれ、星も見えない二十八日の夜だから網の者がこっちに網があるよ、と声をかけている。場面を夜に転じている。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は『土佐日記』の正月二十八日の条を踏まえているのではないかと指摘している。本説というほどのものではなく「俤(おもかげ)」といったところか。
無季。「星」は天象(光物)。四句目の「月」から三句隔てている。
九句目。
星さへ見えず二十八日
ひだるきハ殊軍(ことにいくさ)の大事也 芭蕉
「ひだるき」は空腹のこと。腹が減っては戦はできぬというのは確かに大事なことだ。
「也」留めは和歌の体ということで、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「二句一意」とある。
『俳諧古集之弁』、『俳諧七部集弁解』、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「曽我兄弟の御狩場へ出たつもよう」とある。また、本願寺合戦だという説もある。元ネタをちょっとだけ変えて用いる本説と違い、俤はあくまで何となくそんな雰囲気がする程度のもの。前句の船旅から夜討ちへの転換なので、読者がそれぞれいろいろな夜討ちの場面を思い浮かべるのは、計算済みであろう。
俳諧は平和主義を本意とするもので、基本的には武勇を賛美したりするものではない。この句も、みんな腹が減っているのに星さえも見えない夜に出陣とは、もののふとは気の毒なものだという情で読んだ方が良いだろう。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)の「暗のまぎれニ、夜討の大将より軍令する腰兵糧の用意ならん。」はその辺がわかってない。明治の軍国主義の解釈か。
無季。
割木の安き国の露霜
網の者近づき舟に声かけて 利牛
これはわかりにくい。古註にヒントを得ながら読み解くとしよう。
まず、露霜を捨てて「割木の安き」を割木舟(薪舟)のこととみなして「近づき舟」とし、海に網を張っている漁師がそれに声をかける。
露霜を捨てているのは、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)が「此句露霜ト云ヲ付もらしけり。」と指摘している通りで、上句下句合せて読んだとき露霜は特に意味を持っていない。
「割木の安き」から割木舟を導き出していることは、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「即割木ぶねなり。」とし、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)なども同様の指摘をしている。割木舟は瀬戸内海など松の多い地方で薪を積んで売り歩く船のこと。
「近づき舟」が近づいてくる舟のことで、網の物の方から舟に近づくのではないことは、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「近づき舟とつづけて読むべし。」とあり、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)にも「沖の通船の近づき船」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「向より走来る舟」とある。
ただ、何のために漁師が声をかけたかとなると、是もほぼ皆共通して網があるから入らぬように声をかけているという点で一致している。
ただ、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)のみ、「割木を積し舟人と漁師は、平生心易き近付にと、海原迄と声をかけ船よばひして、語り合うさま也。」としている。
この句は概ねの解釈に従い、割木の安い国から来た割木舟が近づいてきたので、地元の漁師が網に触らぬように声をかける、としておこう。「露霜」というのは「ちょっとした事件」くらいの意味にとっておくのが良いのかもしれない。
なお、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「天地を一壺にちぢむるの術ありといハん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「大山を罌粟(けし)の一粒にちぢむる術ありといはん」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「大ナル者ヲ小サナル物ヲチヂムル変化也。」とある。同じことを言っていると思われる。スケールの大きな句という意味か。
無季。秋が三句続いた後無季に転ずる。「網の者」は人倫、水辺。「舟」も水辺。
八句目。
網の者近づき舟に声かけて
星さへ見えず二十八日 孤屋
これはわかりやすい。近づき舟が何であれ、星も見えない二十八日の夜だから網の者がこっちに網があるよ、と声をかけている。場面を夜に転じている。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は『土佐日記』の正月二十八日の条を踏まえているのではないかと指摘している。本説というほどのものではなく「俤(おもかげ)」といったところか。
無季。「星」は天象(光物)。四句目の「月」から三句隔てている。
九句目。
星さへ見えず二十八日
ひだるきハ殊軍(ことにいくさ)の大事也 芭蕉
「ひだるき」は空腹のこと。腹が減っては戦はできぬというのは確かに大事なことだ。
「也」留めは和歌の体ということで、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「二句一意」とある。
『俳諧古集之弁』、『俳諧七部集弁解』、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「曽我兄弟の御狩場へ出たつもよう」とある。また、本願寺合戦だという説もある。元ネタをちょっとだけ変えて用いる本説と違い、俤はあくまで何となくそんな雰囲気がする程度のもの。前句の船旅から夜討ちへの転換なので、読者がそれぞれいろいろな夜討ちの場面を思い浮かべるのは、計算済みであろう。
俳諧は平和主義を本意とするもので、基本的には武勇を賛美したりするものではない。この句も、みんな腹が減っているのに星さえも見えない夜に出陣とは、もののふとは気の毒なものだという情で読んだ方が良いだろう。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)の「暗のまぎれニ、夜討の大将より軍令する腰兵糧の用意ならん。」はその辺がわかってない。明治の軍国主義の解釈か。
無季。
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