我慢できずに夜遊びしたり旅行したりすれば、それだけ感染リスクが高まり、コロナで死ぬ確率も高くなる。じっとしていた人は死ぬ確率は低くなる。ほんのわずかな確率の差でも、最終的には遊び歩いた人の遺伝子は淘汰され、我慢強い人の遺伝子が残る。これがダーウィニズムだ。
コロナが駆逐されることなく、コロナと共存する時代が長く続くとするなら、人類は引きこもることを苦としない我慢強い人間へと進化する。社会も同様、対面型のサービス業は全体的に衰退し、ネット上のサービスや地道な農業や製造業が生き残る。それを支えるAIやロボット産業は躍進することになる。
今は斜陽のサービス業の延命に金を注ぎ込むよりは、工場を日本に戻すことを考えたほうがいい。テレワークで都市と田舎の格差がなくなれば、地方の活性化にもつながる。
Go toよりもBack toを。スーパーシティーよりもスーパーカントリーを。
観光旅行の時代が終われば、いろいろな地域を渡り歩けるのは一部の特殊な人間となるかもしれない。旅行者は昔の「マレビト」に戻るのではないか。
和辻哲郎は世界が一つになるために日本人の「外へ向かう衝動の欠如」の克服を説いたが、今の世界は逆に流れている。世界はますます多様化し、統一よりも分割の時代に入っている。今必要なのは「内へ向かう衝動」ではないのか。諸民族がうまいこと棲み分けることで人種差別もなくなり、新世界が生まれる。
異民族をこき使うのはもうやめよう。自分たちで働こう。諸民族がそれぞれ自分たちの世界を手にすることで、きっと世界は平和になる。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
七十三句目。
水菜に鯨まじる惣汁
花の内引越て居る樫原 利牛
「花の内」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、
「読み方:ハナノウチ(hananouchi)
東北地方での小正月から月末までの間の呼称
季節 新年
分類 時候」
とある。昔は東北地方に限らず用いられていたか。四つの花の一つは似せ物の花になる。
「惣汁」もそうだが、近代俳句では新暦正月が冬に来てしまったため、春夏秋冬とは別に「新年」を部立てしている。俳諧では歳旦や新年の句は当然ながら春になる。
「樫原(かたぎはら)」は京都の地名で、ウィキペディアには、
「樫原(かたぎはら)とは、京都市西京区の一部をいう。
樫原は南北に通じる物集女街道、東西にのびる山陰街道の結節点にあたる。物集女街道は北摂から京都市域に入る幹線道路であり、嵐山に通じる。四条街道と通じ、梅津や桂、嵐山の木材湾港と通じる古くからの商業路である。山陰街道は大枝山方面から丹波地方にのびる幹線道路である。樫原はこのような交通の要衝であることから、古くから街道町として栄えた。丹波方面の計略を命じられた戦国時代の明智光秀による整備の歴史も語られており、幕末には志士を匿う豪商も多く存在した。ちなみに近郊の川島には、志士を経済的に支えた土豪・革嶋氏の拠点がある。」
とある。阪急の桂駅が近い。
惣汁が京の習慣だったから、正月は町中で過ごし、小正月過ぎてから樫原に引っ越す。
七十四句目。
花の内引越て居る樫原
尻軽にする返事聞よく 孤屋
「尻軽」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動)
① 尻の軽いこと。起居の活発なこと。身軽なこと。また、そのさま。
※浮世草子・好色一代女(1686)一「身拵へ取いそぎ、駕籠待兼(まちかね)尻(シリ)がるに乗移りて」
② 振舞いのかるがるしいこと。かるはずみ。
③ 多情なこと。特に、女の、浮気なこと。
※仮名草子・御伽物語(1678)二「そふからはかしづくべきなり。世のしりがるなるをんなにきかせてしがな」
とある。今では③以外の意味ではほとんど用いられないが、かつては今で言う「フットワークが軽い」に近い良い意味もあったようだ。
樫原は交通の要所なだけに、仕事上、こういうところにさっと引っ越してくれるのは使う方としては嬉しいものだ。
七十五句目。
尻軽にする返事聞よく
おちかかるうそうそ時の雨の音 野坡
「うそうそ時」は明け方や夕暮れの薄暗いころで逢魔が刻とも言う。雨の黄昏に返事する者は人外さんかもしれない。
七十六句目。
おちかかるうそうそ時の雨の音
入舟つづく月の六月 利牛
旧暦の六月だと梅雨も明けている。熱いカンカン照りの日が続くが夕立も多い。夕立の後には月も出る。
この頃は灘から運ばれてくる酒も最後の売り切りになり、駆け込み需要で船が増えたのだろう。あとは新酒を待つことになる。
七十七句目。
入舟つづく月の六月
拭立てお上の敷居ひからする 孤屋
「お上(うえ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「1 主人の妻や目上の人の妻を敬っていう語。
「いかなれば―にはかくあぢきなき御顔のみにて候ふぞやと」〈仮・是楽物語下〉
2
㋐土間・庭に対して、畳の敷いてある部屋。座敷。
「毎年お庭で舞ひまして、お前は―に結構な蒲団敷いて」〈浄・大経師〉
㋑主婦の居間。茶の間。おいえ。
「―には亭主夫婦、あがり口に料理人」〈浄・曽根崎〉」
とある。この場合は2であろう。
入舟が多いということで商売繁盛なのか、店の座敷の敷居もきれいに磨いてある。「ひからする」は前句の月にも掛かる。
七十八句目。
拭立てお上の敷居ひからする
尚云つのる詞からかひ 野坡
「からかひ」は古語では「争い」意味があるので、ここは口喧嘩のことであろう。「お上」を2のイの意味に取るなら夫婦喧嘩か。
2020年7月15日水曜日
2020年7月14日火曜日
旅といっても時代によっていろいろなものがある。
和歌や連歌の羇旅は配流などによるものか、天皇の御幸で、西行の旅は勧進だったと言われている。
中世の連歌師になると、全国に散らばる連歌の愛好者のために興行をして回る、今でいうとコンサートツアーに近い旅の形態が生まれた。談林の祖の宗因まではそのような旅もあった。
芭蕉の旅の場合は興行もおこなうが経済的な理由というよりは、むしろ歌枕や物語の舞台などを訪ねる、今でいう聖地巡礼に近いものとなった。
江戸時代の庶民の旅は信仰に結びついたもので、お伊勢参りや富士講、三峯講といったものだった。
近代になり鉄道が整備されると初詣が流行し、また欧米の影響から風光明媚な地を巡る物見遊山の旅も増えてきた。
戦後になると大量生産大量消費時代を反映し、団体でも個人でも盛んに観光旅行をするようになった。
今回のコロナの蔓延は、こうした流れを変えるような新しい旅の形態を生むのだろうか。まだコロナ後の世界は見えてこない。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
六十九句目。
入来る人に味噌豆を出す
すぢかひに木綿袷の龍田川 野坡
「袷」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「裏をつけて仕立てたきもののこと。表と裏との布地の間に空気層をつくって保温効果を高めた。着用時期は単 (ひとえ) と綿入れの中間期。昭和初頭以来一般に綿入れを着用しなくなったが,江戸時代はきものには着る時節の定めがあり,袷は4月1日のころもがえから5月5日の端午の節供前日まで,それ以後は単となり,9月1日から9日の重陽の節供前日まで再び袷を着た。」
とある。合服に近いかもしれないが期間は合服より短い。夏の季語になる。
龍田川はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「[1]
[一] 奈良県北西部、生駒山地の東側を南流し、斑鳩(いかるが)町で大和川に合流する川。上流を生駒川、中流を平群(へぐり)川ともいう。紅葉の名所。
※古今(905‐914)秋下・二八三「龍田河紅葉乱れてながるめりわたらば錦中やたえなむ〈よみ人しらず〉」
[二] 奈良県北西部、大和川の龍田川との合流点から下流、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)との境にかけての古称。歌枕。
[2]
① ((一)(一)挙例の「古今‐秋下」の歌から) 模様の名。流水に紅葉(もみじ)の葉を散らしたもの。
※浮世草子・好色一代男(1682)一「西の方の中程、ちいさき釣隔子(つりがうし)、唐紙の竜田川(タツタカハ)も、紅葉ちりぢりにやぶれて」
② (「古今‐秋下」の「ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは〈在原業平〉」から) 紅い血が川のように流れること。
※雑俳・あづまからげ(1755)「咎あれば畳の上も龍田川」
とあり、この場合は[2]①であろう。 龍田川模様の木綿袷は初夏に着るものというよりは重陽の前に着る秋の袷のようだが、季語の扱いとしてはどうなのだろうか。前句の味噌豆も秋に採れる。実質秋だが、形式的には夏ということか。
七十句目。
すぢかひに木綿袷の龍田川
御茶屋のみゆる宿の取つき 利牛
「宿の取つき」は宿場の始まるあたりということか。前句の「すぢかひに」は「御茶屋」に掛かる。
「御茶屋」は宿場の本陣のこと。大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所あるいは休息所。
七十一句目。
御茶屋のみゆる宿の取つき
ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ 孤屋
「どんどほこらす」は中村注に爆竹を盛んに燃やすこととある。「ほやほや」は炎や湯気の立ち上るさまを言い、それが雲のようにちぎれてゆく。
爆竹はウィキペディアに、
「日本でも古くから小正月や節分の催事として「爆竹」と呼ばれるものがあったようで、鎌倉時代の1251年(建長3年)1月16日、後嵯峨上皇が爆竹を見たという記事がみえている(『辨内侍日記』)。ただしこれは青竹を燃やし音を立てるもので、火薬を用いたものではない。この催事は現在でもドンド焼きや左義長と呼ばれて各地に伝承されている。」
この場合もどんど焼きの風景であろう。春になる。
七十二句目。
ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ
水菜に鯨まじる惣汁 野坡
「惣汁(そうじる)」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、
「昔、京の町々にあった、町屋または町会所と呼ぶ会所で町人の常会が毎月一回開かれたこと
季節 新年」
とある。そこでは京野菜の水菜に混じって鯨も並んでいる。
煤掃之礼用於鯨之脯 其角
(すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ)
という『次韻』の句があるように、これは去年の年末の干し鯨が混ざっているという意味だろう。
和歌や連歌の羇旅は配流などによるものか、天皇の御幸で、西行の旅は勧進だったと言われている。
中世の連歌師になると、全国に散らばる連歌の愛好者のために興行をして回る、今でいうとコンサートツアーに近い旅の形態が生まれた。談林の祖の宗因まではそのような旅もあった。
芭蕉の旅の場合は興行もおこなうが経済的な理由というよりは、むしろ歌枕や物語の舞台などを訪ねる、今でいう聖地巡礼に近いものとなった。
江戸時代の庶民の旅は信仰に結びついたもので、お伊勢参りや富士講、三峯講といったものだった。
近代になり鉄道が整備されると初詣が流行し、また欧米の影響から風光明媚な地を巡る物見遊山の旅も増えてきた。
戦後になると大量生産大量消費時代を反映し、団体でも個人でも盛んに観光旅行をするようになった。
今回のコロナの蔓延は、こうした流れを変えるような新しい旅の形態を生むのだろうか。まだコロナ後の世界は見えてこない。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
六十九句目。
入来る人に味噌豆を出す
すぢかひに木綿袷の龍田川 野坡
「袷」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「裏をつけて仕立てたきもののこと。表と裏との布地の間に空気層をつくって保温効果を高めた。着用時期は単 (ひとえ) と綿入れの中間期。昭和初頭以来一般に綿入れを着用しなくなったが,江戸時代はきものには着る時節の定めがあり,袷は4月1日のころもがえから5月5日の端午の節供前日まで,それ以後は単となり,9月1日から9日の重陽の節供前日まで再び袷を着た。」
とある。合服に近いかもしれないが期間は合服より短い。夏の季語になる。
龍田川はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「[1]
[一] 奈良県北西部、生駒山地の東側を南流し、斑鳩(いかるが)町で大和川に合流する川。上流を生駒川、中流を平群(へぐり)川ともいう。紅葉の名所。
※古今(905‐914)秋下・二八三「龍田河紅葉乱れてながるめりわたらば錦中やたえなむ〈よみ人しらず〉」
[二] 奈良県北西部、大和川の龍田川との合流点から下流、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)との境にかけての古称。歌枕。
[2]
① ((一)(一)挙例の「古今‐秋下」の歌から) 模様の名。流水に紅葉(もみじ)の葉を散らしたもの。
※浮世草子・好色一代男(1682)一「西の方の中程、ちいさき釣隔子(つりがうし)、唐紙の竜田川(タツタカハ)も、紅葉ちりぢりにやぶれて」
② (「古今‐秋下」の「ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは〈在原業平〉」から) 紅い血が川のように流れること。
※雑俳・あづまからげ(1755)「咎あれば畳の上も龍田川」
とあり、この場合は[2]①であろう。 龍田川模様の木綿袷は初夏に着るものというよりは重陽の前に着る秋の袷のようだが、季語の扱いとしてはどうなのだろうか。前句の味噌豆も秋に採れる。実質秋だが、形式的には夏ということか。
七十句目。
すぢかひに木綿袷の龍田川
御茶屋のみゆる宿の取つき 利牛
「宿の取つき」は宿場の始まるあたりということか。前句の「すぢかひに」は「御茶屋」に掛かる。
「御茶屋」は宿場の本陣のこと。大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所あるいは休息所。
七十一句目。
御茶屋のみゆる宿の取つき
ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ 孤屋
「どんどほこらす」は中村注に爆竹を盛んに燃やすこととある。「ほやほや」は炎や湯気の立ち上るさまを言い、それが雲のようにちぎれてゆく。
爆竹はウィキペディアに、
「日本でも古くから小正月や節分の催事として「爆竹」と呼ばれるものがあったようで、鎌倉時代の1251年(建長3年)1月16日、後嵯峨上皇が爆竹を見たという記事がみえている(『辨内侍日記』)。ただしこれは青竹を燃やし音を立てるもので、火薬を用いたものではない。この催事は現在でもドンド焼きや左義長と呼ばれて各地に伝承されている。」
この場合もどんど焼きの風景であろう。春になる。
七十二句目。
ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ
水菜に鯨まじる惣汁 野坡
「惣汁(そうじる)」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、
「昔、京の町々にあった、町屋または町会所と呼ぶ会所で町人の常会が毎月一回開かれたこと
季節 新年」
とある。そこでは京野菜の水菜に混じって鯨も並んでいる。
煤掃之礼用於鯨之脯 其角
(すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ)
という『次韻』の句があるように、これは去年の年末の干し鯨が混ざっているという意味だろう。
2020年7月13日月曜日
蝉が鳴いたり雷が鳴ったりすると梅雨も明けるという。あともう少しというところか。
それでは「早苗舟」に巻の続き。
三裏。
六十五句目。
なめすすきとる裏の塀あはひ
めを縫て無理に鳴する鵙の声 孤屋
「めを縫て」というのは囮百舌(おとりもず)のことでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 他のモズを寄せるために、眼瞼(まぶた)を縫って盲目にして鳴かせるモズ。《季・秋》
※日次紀事(1685)八月「此月山林間囮鵙(をとりもず)縦レ日居二於架頭一傍設二黏竽一而執二鵙鳥一、是謂レ落レ鵙」
とある。「鵙落とし」という鵙猟に用いるもので、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、
「[紀事]山林の間、囮に鵙の目を縫ひ、架頭に居(すゑ)、傍に黐竿を設て鵙鳥を執る。是を鵙を落(おとす)と云。」
とある。秋の季語。
えのき茸を採るあたりで鵙の罠も仕掛けてある。
六十六句目。
めを縫て無理に鳴する鵙の声
又だのみして美濃だよりきく 野坡
前句の鵙落としを比喩としたか。かなり無理難題を吹っかけて美濃の情報を手に入れたか。
六十七句目。
又だのみして美濃だよりきく
かかさずに中の巳の日をまつる也 利牛
三月上巳は巳の日の祓だが、ここでは上巳でも正月の初巳でもなく、毎月来る二番目の巳の日のことであろう。巳の日は弁天様の縁日で金運に恵まれるから、初巳上巳だけでなく、巳の日は中でも下でも全部祀りたいのであろう。前句を「また頼みして、巳の頼り聞く」と取りなす。年がら年中弁天様に願い事をして、弁天様のご利益を乞う。
六十八句目。
かかさずに中の巳の日をまつる也
入来る人に味噌豆を出す 孤屋
味噌豆は大豆に異名。大豆は今は秋の季語だが曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはない。乾燥大豆が一年中あったからか。
大豆は縁起ものなので、毎月中旬の巳の日には気前よくふるまう。
それでは「早苗舟」に巻の続き。
三裏。
六十五句目。
なめすすきとる裏の塀あはひ
めを縫て無理に鳴する鵙の声 孤屋
「めを縫て」というのは囮百舌(おとりもず)のことでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 他のモズを寄せるために、眼瞼(まぶた)を縫って盲目にして鳴かせるモズ。《季・秋》
※日次紀事(1685)八月「此月山林間囮鵙(をとりもず)縦レ日居二於架頭一傍設二黏竽一而執二鵙鳥一、是謂レ落レ鵙」
とある。「鵙落とし」という鵙猟に用いるもので、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、
「[紀事]山林の間、囮に鵙の目を縫ひ、架頭に居(すゑ)、傍に黐竿を設て鵙鳥を執る。是を鵙を落(おとす)と云。」
とある。秋の季語。
えのき茸を採るあたりで鵙の罠も仕掛けてある。
六十六句目。
めを縫て無理に鳴する鵙の声
又だのみして美濃だよりきく 野坡
前句の鵙落としを比喩としたか。かなり無理難題を吹っかけて美濃の情報を手に入れたか。
六十七句目。
又だのみして美濃だよりきく
かかさずに中の巳の日をまつる也 利牛
三月上巳は巳の日の祓だが、ここでは上巳でも正月の初巳でもなく、毎月来る二番目の巳の日のことであろう。巳の日は弁天様の縁日で金運に恵まれるから、初巳上巳だけでなく、巳の日は中でも下でも全部祀りたいのであろう。前句を「また頼みして、巳の頼り聞く」と取りなす。年がら年中弁天様に願い事をして、弁天様のご利益を乞う。
六十八句目。
かかさずに中の巳の日をまつる也
入来る人に味噌豆を出す 孤屋
味噌豆は大豆に異名。大豆は今は秋の季語だが曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはない。乾燥大豆が一年中あったからか。
大豆は縁起ものなので、毎月中旬の巳の日には気前よくふるまう。
2020年7月12日日曜日
昭和十七年版の和辻哲郎の『倫理学 中巻』の「第六節 文化共同体」の所にはかなり長めのアメリカの黒人に関する記述がある。(戦後版では占領軍に配慮して、大幅に書き改められている。)
「以上の如く見れば人格を民族の一員として規定することは決して突飛ではないのである。が我々は更にこのことを否定的な面から実証することも出来る。即ち人が人格として取り扱われない場合を捕えることによって人格の何であるかを知るのである。かかる場合の代表的なるものは、本路人との区別を重視する立場に立って云えば、人を牛馬と同じく道具として取扱う場合、即ち奴隷制度であろう。ところで我々から見れば、奴隷制度は征服された異民族をおのが民族の一員として取扱わないという態度にほかならぬのである。古代に於いてそうであったばかりではない。近い頃までアメリカ大陸には人類の歴史始まって以来の最も巨大な奴隷制度があったが、アフリカから強制的に連れてこられたニグロは、アフリカのおのが民族の中にあってはそれぞれ立派に人格として取扱われていたにも拘らず、アングロサクソン民族の中では牛馬と同じき道具として取扱われた。そうして人権の平等を宣言して新しい国家を作る際にも、この奴隷の取り扱いが人権平等の主張と真正面から衝突し、従って人権平等の宣言が真赤な嘘になるということには誰も気づかなかった。それは必ずしも十八世紀末のアメリカ人が恐ろしく鉄面皮であったとか頭が粗雑であったとかと言うことを示しているのではない。彼らにとっては人類とはおのが民族のことに過ぎなかったのである。だから人権平等を高唱しつつ奴隷を鞭っていても、何らの矛盾を感ぜられなかったのである。この事実は、アメリカの独立宣言において平等の権利を持つとせられている人格が、実は当時のアングロサクソン民族の一員のみ意味していたということを究めて露骨にしめしていると云ってよいであろう。
この指摘に対してアメリカ人は南北戦争による奴隷制度の廃棄をあげて弁解するでもあろうが、しかし奴隷制度の廃棄を何か非常に重大な人類愛的行為であったかのごとくに宣伝していること自体が我々にとっては非常に奇妙な現象である。我々から見れば奴隷制度のない状態が正常な人間存在なのであるから、この制度の廃棄は単に正常な状態に復帰したというに過ぎない。重大な事件と目されるべきはむしろアフリカのニグロを劫掠して奴隷にしたというその行為である。この行為があったからこそ奴隷解放という如きことも可能となった。しかもこの奴隷解放だけでは未だ最初の悪虐な行為は償われていない。ニグロはアフリカに於いてその特殊な、しかし極めて好く整った人倫組織を形成していた。ニグロの劫掠はこの人倫組織を破壊し、その人倫性を蹂躙することであった。従ってその償いはニグロをアメリカの市民として差別待遇するというようなことでは果たされないのである。ニグロを人格として取扱うことはニグロ民族を一つの個性として尊重することでなくてはならない。即ち各々の民族をしてその所を得しめるという立場に立つことなくしては人格の尊重はあり得ないのである。」
アメリカの黒人は奴隷解放の後で市民権を持ってはいても、黒人文化の独立性を認めず、アングロサクソン文化の支配下におかれ、それに従わぬ者として差別されてきた。黒人は白人文化に同化して初めて人間とみなされるような状態が続いていた。
アメリカの黒人問題の解決には、もちろん黒人だけでなくネイティブアメリカンでもアジア系でもヒスパニックでも、それぞれの文化の尊重なしにはあり得ない。黒人を白く塗って解決するものではない。黒に関する言葉や表現を規制してあたかも黒人が存在しなかったかのようにするのではなく、むしろ黒を最大限にかっこ好くすることのほうが大事だ。
黒人問題の背後にあるのは古代ギリシャ以来の、嫌な仕事は奴隷に押し付けて俺達は遊んで暮らすんだ、という発想ではないかと思う。
奴隷は解放されると、次にくるのは失業だ。彼らは職に就くために不利な条件を飲み、後からやってくる様々な移民たちとの競争に晒され、それ同士で争わなくてはならなくなった。
この異民族をこき使って自分達は楽をするという発想を捨てなくては、何も解決しないのではないかと思う。
和辻哲郎はきっと日本がこの戦争に負けたらそうなるという危機感でこの文章を書いたのだろう。戦後にはとにかくアメリカ文化を取り入れろと説くが、それが日本人が奴隷化を免れる唯一の道だと考えたからだと思う。白人に同化しろ、それが白人の奴隷にならないための道だった。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
五十五句目。
鍋の鑄かけを念入てみる
麦畑の替地に渡る傍尒杭 利牛
「替地」はウィキペディアに、
「江戸時代には、個人の田畑や町村の境界変更のために替地が行われたほか、当事者双方の合意によって宅地や田畑を交換する相対替が年季売・本物返・質流れと並ぶ田畑永代売買禁止令の脱法行為として行われていた。
また、江戸時代には所領・知行地の交換のことも替地と称した。例えば、境界問題や租税徴収との関係で旗本が江戸幕府の許可を得て知行地を交換したり、幕府や大名が必要上から土地を召し上げた場合の代替地提供のことを指した。だが、もっとも大規模なものは、大名の国替であった。」
とある。
「傍尒杭(ぼうじくい)」は「牓示・牓爾・榜示(ほうじ)」のことで、コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「〔「ぼうじ」とも〕
①杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。また、その杭や札。
②馬場の仕切り。
③庭の築垣ついがき。」
とある。
この場合は借金で麦畑を取られてしまった人だろう。古い鍋を修復しながら細々と生活している。
五十六句目。
麦畑の替地に渡る傍尒杭
売手もしらず頼政の筆 孤屋
借金取りの側に立ち、借金の形で交換した麦畑に金に困って売った頼政の筆を響きで付ける。この場合は筆そのものではなく、筆で書いたもののことか。
「売手もしらず」はまさか頼政の筆とは売る側も知らなかったという意味だろう。二束三文で買い取った筆が思わぬお宝でびっくりという所か。
頼政は歌人で、
今宵誰すず吹く風を身にしめて
吉野の嶽の月を見るらむ
従三位頼政(新古今集)
の歌は以前「篠吹く」の例として紹介した。延宝六年の「実や月」の巻の十五句目、
精進あげの三位入道
かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
の句が、
埋木の花咲くこともなかりしに
身のなる果はあはれなりけり
源頼政
の歌による取り成しだということも以前に書いた。
一応コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、
「平安末期の武将。仲政(なかまさ)の子。弓術に長じ,歌人としても著名。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方に参じ,平治の乱では平清盛にくみし,従三位(じゅさんみ)に叙せられて源三位(げんざんみ)と呼ばれた。1180年以仁(もちひと)王を奉じて挙兵,平氏と宇治に戦って敗死した。家集に《源三位頼政家集》がある。紫宸殿(ししんでん)上の鵺(ぬえ)を射取ったという伝説は,能などに脚色されている。」
とある。鵺退治の伝説を詠んだ句には「守武独吟俳諧百韻」の、
すきとほる遠山鳥のしだりをに
はきたる矢にも鵺やいぬらん
の句がある。
五十七句目。
売手もしらず頼政の筆
物毎も子持になればだだくさに 野坡
「だだくさ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「〔近世語〕
雑然として整理のゆきとどかないさま。ぞんざい。 「 -なやうでもただはころばない/柳多留 14」
とある。只の質草と掛けて用いられていると思われる。子供が出来てこれまでの骨董道楽も止め、不要なものを処分したら、そのなかに頼政の筆もあった。
五十八句目。
物毎も子持になればだだくさに
又御局の古着いただく 利牛
御局(おつぼね)というと春日局(かすがのつぼね)のような奥女中を連想するが、大河ドラマの『春日局』の頃、職場の年季の入った女性の事を比喩で「お局様」と呼んだりしていた。ここでもこうした比喩もしれない。
職場の先輩が恩を着せようとしてやたらに古着をくれたりする。まさにお仕着せだ。
五十九句目。
又御局の古着いただく
妓王寺のうへに上れば二尊院 孤屋
妓王寺は祇王寺のこと。二尊院とともに嵯峨野にある。
祇王寺は清盛の邸を追われた白拍子、祇王と祇女(19歳)とその母の刀自が尼となった所で、その後も尼寺だった。二尊院の先輩尼から古着をもらったりしてたか。
六十句目。
妓王寺のうへに上れば二尊院
けふはけんかく寂しかりけり 野坡
祇王寺はこの頃は寂れていたようだ。江戸中期には再興されるが、明治には廃寺となる。二尊院とは天地懸隔だったのだろう。
六十一句目。
けふはけんかく寂しかりけり
薄雪のこまかに初手を降出し 利牛
「けんかく」とあえて平仮名にしてあるのは「剣客」への取り成しのためか。修行のために表に出れば、雪に先手を取られてしまう。
六十二句目。
薄雪のこまかに初手を降出し
一つくなりに鱈の雲腸 孤屋
「一つくなり」は中村注に「ひとかたまり」とある。鱈の白子に雪が積もると、どれが雪でどれが白子やら。
六十三句目。
一つくなりに鱈の雲腸
銭ざしに菰引ちぎる朝の月 野坡
銭を束ねて留める紐がなくてマコモを引きちぎって代用する。緩く束ねられた銭は白子に見えなくもないか。
六十四句目。
銭ざしに菰引ちぎる朝の月
なめすすきとる裏の塀あはひ 利牛
「なめすすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「なめずすき」とも) きのこ「えのきたけ(榎茸)」の異名。
※梁塵秘抄(1179頃)二「聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子遣りて、松茸平茸なめすすき」
とある。
えのき茸は今のはひょろひょろと細長いが、これはモヤシのように日に当てずに栽培するからで、本来は茶色くて立派な笠をひろげる。
裏の塀の方でえのき茸が取れたので売って小銭稼ぎしたのか、菰を引きちぎって銭を束ねる。
「以上の如く見れば人格を民族の一員として規定することは決して突飛ではないのである。が我々は更にこのことを否定的な面から実証することも出来る。即ち人が人格として取り扱われない場合を捕えることによって人格の何であるかを知るのである。かかる場合の代表的なるものは、本路人との区別を重視する立場に立って云えば、人を牛馬と同じく道具として取扱う場合、即ち奴隷制度であろう。ところで我々から見れば、奴隷制度は征服された異民族をおのが民族の一員として取扱わないという態度にほかならぬのである。古代に於いてそうであったばかりではない。近い頃までアメリカ大陸には人類の歴史始まって以来の最も巨大な奴隷制度があったが、アフリカから強制的に連れてこられたニグロは、アフリカのおのが民族の中にあってはそれぞれ立派に人格として取扱われていたにも拘らず、アングロサクソン民族の中では牛馬と同じき道具として取扱われた。そうして人権の平等を宣言して新しい国家を作る際にも、この奴隷の取り扱いが人権平等の主張と真正面から衝突し、従って人権平等の宣言が真赤な嘘になるということには誰も気づかなかった。それは必ずしも十八世紀末のアメリカ人が恐ろしく鉄面皮であったとか頭が粗雑であったとかと言うことを示しているのではない。彼らにとっては人類とはおのが民族のことに過ぎなかったのである。だから人権平等を高唱しつつ奴隷を鞭っていても、何らの矛盾を感ぜられなかったのである。この事実は、アメリカの独立宣言において平等の権利を持つとせられている人格が、実は当時のアングロサクソン民族の一員のみ意味していたということを究めて露骨にしめしていると云ってよいであろう。
この指摘に対してアメリカ人は南北戦争による奴隷制度の廃棄をあげて弁解するでもあろうが、しかし奴隷制度の廃棄を何か非常に重大な人類愛的行為であったかのごとくに宣伝していること自体が我々にとっては非常に奇妙な現象である。我々から見れば奴隷制度のない状態が正常な人間存在なのであるから、この制度の廃棄は単に正常な状態に復帰したというに過ぎない。重大な事件と目されるべきはむしろアフリカのニグロを劫掠して奴隷にしたというその行為である。この行為があったからこそ奴隷解放という如きことも可能となった。しかもこの奴隷解放だけでは未だ最初の悪虐な行為は償われていない。ニグロはアフリカに於いてその特殊な、しかし極めて好く整った人倫組織を形成していた。ニグロの劫掠はこの人倫組織を破壊し、その人倫性を蹂躙することであった。従ってその償いはニグロをアメリカの市民として差別待遇するというようなことでは果たされないのである。ニグロを人格として取扱うことはニグロ民族を一つの個性として尊重することでなくてはならない。即ち各々の民族をしてその所を得しめるという立場に立つことなくしては人格の尊重はあり得ないのである。」
アメリカの黒人は奴隷解放の後で市民権を持ってはいても、黒人文化の独立性を認めず、アングロサクソン文化の支配下におかれ、それに従わぬ者として差別されてきた。黒人は白人文化に同化して初めて人間とみなされるような状態が続いていた。
アメリカの黒人問題の解決には、もちろん黒人だけでなくネイティブアメリカンでもアジア系でもヒスパニックでも、それぞれの文化の尊重なしにはあり得ない。黒人を白く塗って解決するものではない。黒に関する言葉や表現を規制してあたかも黒人が存在しなかったかのようにするのではなく、むしろ黒を最大限にかっこ好くすることのほうが大事だ。
黒人問題の背後にあるのは古代ギリシャ以来の、嫌な仕事は奴隷に押し付けて俺達は遊んで暮らすんだ、という発想ではないかと思う。
奴隷は解放されると、次にくるのは失業だ。彼らは職に就くために不利な条件を飲み、後からやってくる様々な移民たちとの競争に晒され、それ同士で争わなくてはならなくなった。
この異民族をこき使って自分達は楽をするという発想を捨てなくては、何も解決しないのではないかと思う。
和辻哲郎はきっと日本がこの戦争に負けたらそうなるという危機感でこの文章を書いたのだろう。戦後にはとにかくアメリカ文化を取り入れろと説くが、それが日本人が奴隷化を免れる唯一の道だと考えたからだと思う。白人に同化しろ、それが白人の奴隷にならないための道だった。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
五十五句目。
鍋の鑄かけを念入てみる
麦畑の替地に渡る傍尒杭 利牛
「替地」はウィキペディアに、
「江戸時代には、個人の田畑や町村の境界変更のために替地が行われたほか、当事者双方の合意によって宅地や田畑を交換する相対替が年季売・本物返・質流れと並ぶ田畑永代売買禁止令の脱法行為として行われていた。
また、江戸時代には所領・知行地の交換のことも替地と称した。例えば、境界問題や租税徴収との関係で旗本が江戸幕府の許可を得て知行地を交換したり、幕府や大名が必要上から土地を召し上げた場合の代替地提供のことを指した。だが、もっとも大規模なものは、大名の国替であった。」
とある。
「傍尒杭(ぼうじくい)」は「牓示・牓爾・榜示(ほうじ)」のことで、コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「〔「ぼうじ」とも〕
①杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。また、その杭や札。
②馬場の仕切り。
③庭の築垣ついがき。」
とある。
この場合は借金で麦畑を取られてしまった人だろう。古い鍋を修復しながら細々と生活している。
五十六句目。
麦畑の替地に渡る傍尒杭
売手もしらず頼政の筆 孤屋
借金取りの側に立ち、借金の形で交換した麦畑に金に困って売った頼政の筆を響きで付ける。この場合は筆そのものではなく、筆で書いたもののことか。
「売手もしらず」はまさか頼政の筆とは売る側も知らなかったという意味だろう。二束三文で買い取った筆が思わぬお宝でびっくりという所か。
頼政は歌人で、
今宵誰すず吹く風を身にしめて
吉野の嶽の月を見るらむ
従三位頼政(新古今集)
の歌は以前「篠吹く」の例として紹介した。延宝六年の「実や月」の巻の十五句目、
精進あげの三位入道
かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
の句が、
埋木の花咲くこともなかりしに
身のなる果はあはれなりけり
源頼政
の歌による取り成しだということも以前に書いた。
一応コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、
「平安末期の武将。仲政(なかまさ)の子。弓術に長じ,歌人としても著名。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方に参じ,平治の乱では平清盛にくみし,従三位(じゅさんみ)に叙せられて源三位(げんざんみ)と呼ばれた。1180年以仁(もちひと)王を奉じて挙兵,平氏と宇治に戦って敗死した。家集に《源三位頼政家集》がある。紫宸殿(ししんでん)上の鵺(ぬえ)を射取ったという伝説は,能などに脚色されている。」
とある。鵺退治の伝説を詠んだ句には「守武独吟俳諧百韻」の、
すきとほる遠山鳥のしだりをに
はきたる矢にも鵺やいぬらん
の句がある。
五十七句目。
売手もしらず頼政の筆
物毎も子持になればだだくさに 野坡
「だだくさ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「〔近世語〕
雑然として整理のゆきとどかないさま。ぞんざい。 「 -なやうでもただはころばない/柳多留 14」
とある。只の質草と掛けて用いられていると思われる。子供が出来てこれまでの骨董道楽も止め、不要なものを処分したら、そのなかに頼政の筆もあった。
五十八句目。
物毎も子持になればだだくさに
又御局の古着いただく 利牛
御局(おつぼね)というと春日局(かすがのつぼね)のような奥女中を連想するが、大河ドラマの『春日局』の頃、職場の年季の入った女性の事を比喩で「お局様」と呼んだりしていた。ここでもこうした比喩もしれない。
職場の先輩が恩を着せようとしてやたらに古着をくれたりする。まさにお仕着せだ。
五十九句目。
又御局の古着いただく
妓王寺のうへに上れば二尊院 孤屋
妓王寺は祇王寺のこと。二尊院とともに嵯峨野にある。
祇王寺は清盛の邸を追われた白拍子、祇王と祇女(19歳)とその母の刀自が尼となった所で、その後も尼寺だった。二尊院の先輩尼から古着をもらったりしてたか。
六十句目。
妓王寺のうへに上れば二尊院
けふはけんかく寂しかりけり 野坡
祇王寺はこの頃は寂れていたようだ。江戸中期には再興されるが、明治には廃寺となる。二尊院とは天地懸隔だったのだろう。
六十一句目。
けふはけんかく寂しかりけり
薄雪のこまかに初手を降出し 利牛
「けんかく」とあえて平仮名にしてあるのは「剣客」への取り成しのためか。修行のために表に出れば、雪に先手を取られてしまう。
六十二句目。
薄雪のこまかに初手を降出し
一つくなりに鱈の雲腸 孤屋
「一つくなり」は中村注に「ひとかたまり」とある。鱈の白子に雪が積もると、どれが雪でどれが白子やら。
六十三句目。
一つくなりに鱈の雲腸
銭ざしに菰引ちぎる朝の月 野坡
銭を束ねて留める紐がなくてマコモを引きちぎって代用する。緩く束ねられた銭は白子に見えなくもないか。
六十四句目。
銭ざしに菰引ちぎる朝の月
なめすすきとる裏の塀あはひ 利牛
「なめすすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (「なめずすき」とも) きのこ「えのきたけ(榎茸)」の異名。
※梁塵秘抄(1179頃)二「聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子遣りて、松茸平茸なめすすき」
とある。
えのき茸は今のはひょろひょろと細長いが、これはモヤシのように日に当てずに栽培するからで、本来は茶色くて立派な笠をひろげる。
裏の塀の方でえのき茸が取れたので売って小銭稼ぎしたのか、菰を引きちぎって銭を束ねる。
2020年7月11日土曜日
今日は時折日も差したが時折小雨が降った。まだ梅雨は明けない。
最近K値という言葉を聞くから、一応調べてみた。
K値は累計感染者に対する新規感染者の割合だという。
新規感染者に関しては七日移動平均線を用いている。(株価の場合は五日移動平均線と二十五日移動平均線とが併用される。)
感染者の増加や減少の傾向を見るには、普通に考えれば七日であれ五日であれ、普通に移動平均線を見ればある程度のことはわかる。いわゆる上昇トレンドにあるか下降トレンドにあるかはわかる。
ただ、それを過去の感染者累計で割る意味は一体なんだろうか。
累計である限り、分母は日に日に増え続ける。それに対する新規感染者の割合は、分母が増え続けるほど少なくなる。つまり毎日同じ数の新規感染者が出ていても、K値は下降トレンドを示すことになる。
つまり、新たな感染者が同数か微増くらいでもこのグラフではピークアウトしたことになり、一度ピークアウトすると上昇トレンド認定のハードルが恐ろしく高くなる。
ここまでいえばK値というのが何なのかは明瞭だ。それは現在の感染者の増加傾向や減少傾向を見ているのでなく、たとえ増加していたとしても、過去の膨大な数の感染者に較べればたいしたことがないことを言っているにすぎない。
これはつまり、時間が経てば経つほど、累計感染者が増えれば増えるほど、新たな感染者数の脅威は下方修正される、そういう魔法の数値だ。
多分これを考えた人は、単なる思い付きで言っただけなのだと思う。それが感染症対策をしないですませる格好の口実を与えててしまったのではないか。
騙されているのか確信犯なのかはよくわからないが、国や自治体がこの魔法にかかってしまっているなら、救いようがない。エスナ!
それでは「早苗舟」の巻の続き。
三表。
五十一句目。
弦打颪海雲とる桶
機嫌能かいこは庭に起かかり 野坡
孵化した蚕の幼虫(毛蚕:けご)は二三日すると動かなくなり脱皮する。これを眠という。四回目の眠のことを庭休みという。この脱皮が終ることを庭起きという。このあと蚕は盛んに桑の葉を食べ大きくなる。
前句を時候としての付け。
五十二句目。
機嫌能かいこは庭に起かかり
小昼のころの空静也 利牛
小昼(こひる)はコトバンクの「デジタル大辞泉」の解説に、
「《「こびる」とも》
1 正午に近いころの時刻。
2 昼食と夕食の間、または朝食と昼食の間にとる軽い食事。」
とある。
芭蕉の時代は『伊達衣』に、
二時の食喰間も惜き花見哉 杜覚
の句があるように、一日二食の所が多かった。『猿蓑』の、
水無月や朝めしくはぬ夕すゞみ 嵐蘭
の句も、朝飯は食ってないが昼飯は食ったというわけではあるまい。厚くて食欲がなく、朝から何も食ってないという意味。
その意味ではここでの「小昼」は2の意味とも考えられる。ちょうど小腹がすくころだ。
五十三句目。
小昼のころの空静也
縁端に腫たる足をなげ出して 孤屋
足が腫れて仕事にならないから縁端(えんはな)に足を投げ出して、手持ち無沙汰な感じだ。
五十四句目。
縁端に腫たる足をなげ出して
鍋の鑄かけを念入てみる 野坡
「鑄(い)かけ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「鋳掛けは鋳物技術の一手法で,なべ,釜など銅・鉄製器物の破損を同質の金属,またははんだの一種である白鑞(しろめ)を溶かして継ぎ掛けることであり,その職人を鋳掛屋または鋳掛師といった。基本的には鋳物師(いもじ)から分化した専門職人である。その専業化は,白鑞の利用がひろまってきた17世紀になってからのことである。鋳掛師は居職であるが,鋳掛屋は出職である。二つの箱に道具をいれて7尺5寸の長いてんびん棒をかついで町中を歩いた。」
とある。
修理中に火傷でもしたか、鋳掛屋は腫れた足でやってきて鍋を直すと、その具合を念入りに見ている。
最近K値という言葉を聞くから、一応調べてみた。
K値は累計感染者に対する新規感染者の割合だという。
新規感染者に関しては七日移動平均線を用いている。(株価の場合は五日移動平均線と二十五日移動平均線とが併用される。)
感染者の増加や減少の傾向を見るには、普通に考えれば七日であれ五日であれ、普通に移動平均線を見ればある程度のことはわかる。いわゆる上昇トレンドにあるか下降トレンドにあるかはわかる。
ただ、それを過去の感染者累計で割る意味は一体なんだろうか。
累計である限り、分母は日に日に増え続ける。それに対する新規感染者の割合は、分母が増え続けるほど少なくなる。つまり毎日同じ数の新規感染者が出ていても、K値は下降トレンドを示すことになる。
つまり、新たな感染者が同数か微増くらいでもこのグラフではピークアウトしたことになり、一度ピークアウトすると上昇トレンド認定のハードルが恐ろしく高くなる。
ここまでいえばK値というのが何なのかは明瞭だ。それは現在の感染者の増加傾向や減少傾向を見ているのでなく、たとえ増加していたとしても、過去の膨大な数の感染者に較べればたいしたことがないことを言っているにすぎない。
これはつまり、時間が経てば経つほど、累計感染者が増えれば増えるほど、新たな感染者数の脅威は下方修正される、そういう魔法の数値だ。
多分これを考えた人は、単なる思い付きで言っただけなのだと思う。それが感染症対策をしないですませる格好の口実を与えててしまったのではないか。
騙されているのか確信犯なのかはよくわからないが、国や自治体がこの魔法にかかってしまっているなら、救いようがない。エスナ!
それでは「早苗舟」の巻の続き。
三表。
五十一句目。
弦打颪海雲とる桶
機嫌能かいこは庭に起かかり 野坡
孵化した蚕の幼虫(毛蚕:けご)は二三日すると動かなくなり脱皮する。これを眠という。四回目の眠のことを庭休みという。この脱皮が終ることを庭起きという。このあと蚕は盛んに桑の葉を食べ大きくなる。
前句を時候としての付け。
五十二句目。
機嫌能かいこは庭に起かかり
小昼のころの空静也 利牛
小昼(こひる)はコトバンクの「デジタル大辞泉」の解説に、
「《「こびる」とも》
1 正午に近いころの時刻。
2 昼食と夕食の間、または朝食と昼食の間にとる軽い食事。」
とある。
芭蕉の時代は『伊達衣』に、
二時の食喰間も惜き花見哉 杜覚
の句があるように、一日二食の所が多かった。『猿蓑』の、
水無月や朝めしくはぬ夕すゞみ 嵐蘭
の句も、朝飯は食ってないが昼飯は食ったというわけではあるまい。厚くて食欲がなく、朝から何も食ってないという意味。
その意味ではここでの「小昼」は2の意味とも考えられる。ちょうど小腹がすくころだ。
五十三句目。
小昼のころの空静也
縁端に腫たる足をなげ出して 孤屋
足が腫れて仕事にならないから縁端(えんはな)に足を投げ出して、手持ち無沙汰な感じだ。
五十四句目。
縁端に腫たる足をなげ出して
鍋の鑄かけを念入てみる 野坡
「鑄(い)かけ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「鋳掛けは鋳物技術の一手法で,なべ,釜など銅・鉄製器物の破損を同質の金属,またははんだの一種である白鑞(しろめ)を溶かして継ぎ掛けることであり,その職人を鋳掛屋または鋳掛師といった。基本的には鋳物師(いもじ)から分化した専門職人である。その専業化は,白鑞の利用がひろまってきた17世紀になってからのことである。鋳掛師は居職であるが,鋳掛屋は出職である。二つの箱に道具をいれて7尺5寸の長いてんびん棒をかついで町中を歩いた。」
とある。
修理中に火傷でもしたか、鋳掛屋は腫れた足でやってきて鍋を直すと、その具合を念入りに見ている。
2020年7月10日金曜日
新宿シアターモリエールの舞台からクラスターが発生した。ようやくの再開ということで感染防止の十分な対策はしていたのだろう。ただ、舞台もライブハウス同様、閉鎖的な空間だからエアロゾルは場内に漂い、熱演する俳優や興奮した客は呼吸数も増加するためエアロゾルを吸い込みやすく、なかなか難しいものだ。
別に誰も芸能関係者を目の敵にして自粛を要請してきたわけではない。ただ、室内での舞台芸術がクラスターを生みやすいのはどうしようもない。これからも舞台芸術は試練に立たされるのだろうな。見に行く方も覚悟がいる。
ショーパブも似ている。天文館の「NEWおだまLee男爵」も梨泰院のショーも、きっと行けば楽しいんだろうな。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
四十七句目。
むく起にして参る観音
燃しさる薪を尻手に指くべて 野坡
「燃しさる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘自ラ四〙 薪の、かまどの外にはみ出した部分にまで、炎が燃え移る。炭や薪以外のものに火が移る。また、もえさしになる。燃え残る。燃えすさる。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「大釜の下より大束の葭もへしさりしに」
とある。
「薪を尻手に」は「串に鯨をあぶる」と同じで今日だと「に」は「で」になる。はみ出した薪に背を向けた状態で後ろに指を伸ばし、薪の位置を戻す。
観音堂にお籠りする時、お参りするところの後ろで寒さを防ぐために焚き火をし、その周りで休息したりしたのだろう。背中が熱いと思ったら、焚き火がはみ出していたので、後手でそっと戻す。
四十八句目。
燃しさる薪を尻手に指くべて
十四五両のふりまはしする 孤屋
「ふりまわし」はやり繰りする事。十四五両は今だと百万円くらいの価値はあるので、そこそこまとまった金だが、商売で動く金としてはそれほどではないかもしれない。商家の囲炉裏端とする。
四十九句目。
十四五両のふりまはしする
月花にかきあげ城の跡ばかり 利牛
月花の眺めの良い場所なのに、昔の土をかき上げただけの城跡の土塁があるばかり。十四五両あれば小さな草庵のひとつでも建てられるか。
五十句目。
月花にかきあげ城の跡ばかり
弦打颪海雲とる桶 孤屋
弦打(つるうち)は魔物を祓うために弓の弦をぶんぶん鳴らすことをいい、弦打颪(つるうちおろし)は風に蔓が音を立てるような山から吹き降ろす風ということか。
城跡だから、落ち武者の亡霊でも出てきそうだ。それを祓うかのような風の音がする。
海雲(もずく)は春の季語になる。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「是をとらんとするに滑りて得がたし。鮑空貝を用てこれをとる。阿州鳴戸、泉州岸和田、及び対州の産、肥太く佳とす。薑醋(しょうがず)に和してこれを食ふ」とある。
別に誰も芸能関係者を目の敵にして自粛を要請してきたわけではない。ただ、室内での舞台芸術がクラスターを生みやすいのはどうしようもない。これからも舞台芸術は試練に立たされるのだろうな。見に行く方も覚悟がいる。
ショーパブも似ている。天文館の「NEWおだまLee男爵」も梨泰院のショーも、きっと行けば楽しいんだろうな。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
四十七句目。
むく起にして参る観音
燃しさる薪を尻手に指くべて 野坡
「燃しさる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘自ラ四〙 薪の、かまどの外にはみ出した部分にまで、炎が燃え移る。炭や薪以外のものに火が移る。また、もえさしになる。燃え残る。燃えすさる。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「大釜の下より大束の葭もへしさりしに」
とある。
「薪を尻手に」は「串に鯨をあぶる」と同じで今日だと「に」は「で」になる。はみ出した薪に背を向けた状態で後ろに指を伸ばし、薪の位置を戻す。
観音堂にお籠りする時、お参りするところの後ろで寒さを防ぐために焚き火をし、その周りで休息したりしたのだろう。背中が熱いと思ったら、焚き火がはみ出していたので、後手でそっと戻す。
四十八句目。
燃しさる薪を尻手に指くべて
十四五両のふりまはしする 孤屋
「ふりまわし」はやり繰りする事。十四五両は今だと百万円くらいの価値はあるので、そこそこまとまった金だが、商売で動く金としてはそれほどではないかもしれない。商家の囲炉裏端とする。
四十九句目。
十四五両のふりまはしする
月花にかきあげ城の跡ばかり 利牛
月花の眺めの良い場所なのに、昔の土をかき上げただけの城跡の土塁があるばかり。十四五両あれば小さな草庵のひとつでも建てられるか。
五十句目。
月花にかきあげ城の跡ばかり
弦打颪海雲とる桶 孤屋
弦打(つるうち)は魔物を祓うために弓の弦をぶんぶん鳴らすことをいい、弦打颪(つるうちおろし)は風に蔓が音を立てるような山から吹き降ろす風ということか。
城跡だから、落ち武者の亡霊でも出てきそうだ。それを祓うかのような風の音がする。
海雲(もずく)は春の季語になる。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「是をとらんとするに滑りて得がたし。鮑空貝を用てこれをとる。阿州鳴戸、泉州岸和田、及び対州の産、肥太く佳とす。薑醋(しょうがず)に和してこれを食ふ」とある。
2020年7月9日木曜日
ちょっと今日は俳諧のほうは一休み。新しいパソコンが届いた。
今日の東京の新たな感染者は224人、全国では340人を超える。
昨日は75人で減ったなと思ったが、まあ何の対策も取ってないんだから減るはずはない。
政府は相変わらず何もしないし、明日には予定通りイベントの開催制限を緩和される。とうとう日本がブラジルになる日が来たか。
さすがにここまで来てコロナがただの風邪だと思っている人はごく少数だろうし、ほとんどの人はどうしていいかかなり戸惑うだろうな。
自粛したいが会社に行かなくてはならないというジレンマの中で、生き残るためには究極の選択に迫られる。
三月の感染者が急増した時よりも状況は悪い。みんな、地を這ってでも生き延びよう。
今日の東京の新たな感染者は224人、全国では340人を超える。
昨日は75人で減ったなと思ったが、まあ何の対策も取ってないんだから減るはずはない。
政府は相変わらず何もしないし、明日には予定通りイベントの開催制限を緩和される。とうとう日本がブラジルになる日が来たか。
さすがにここまで来てコロナがただの風邪だと思っている人はごく少数だろうし、ほとんどの人はどうしていいかかなり戸惑うだろうな。
自粛したいが会社に行かなくてはならないというジレンマの中で、生き残るためには究極の選択に迫られる。
三月の感染者が急増した時よりも状況は悪い。みんな、地を這ってでも生き延びよう。
登録:
投稿 (Atom)