一昨日から昨日にかけての雪はたいしたことなくてすんだ。
今日は節分で、一応豆まきをして恵方巻を食べた。世間では恵方巻の大暴落が伝えられている。確かにあれは最近になって大阪の海苔業界とセブンイレブンの陰謀で作られた行事だが、それを言えば初詣は電鉄会社の陰謀だし、ハローウィンのお菓子配りもアメリカの製菓会社の陰謀だし、行事なんてのは最初はたいした意味のなかったものが、後付でいろいろと理由が付けられてできてくようなところはある。
トカラ列島の宝島に油が流れ着いているという。一ヶ月近くも前の(一月六日の)タンカー事故が今になって何だかとんでもないことになっているような。
それでは「日の春を」の巻の続き。
五十九句目。
親と碁をうつ昼のつれづれ
餅作る奈良の広葉を打合セ 枳風
「奈良」とあるが「楢」であろう。「楢の広葉」は古歌に用例がある。
朝戸あけて見るぞさびしき片岡の
楢のひろ葉にふれる白雪
源経信(千載集)
ただ、ここでは餅に巻く楢の葉のことで、柏餅を楢柏で代用することもあったようだ。「木花-World」というサイトには、「奈良県内にはカシワは少なく、ナラガシワで柏餅を作るそうです。」とある。
カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、子孫繁栄を表わすといわれていて、前句の「親と碁をうつ」という親子仲睦ましい雰囲気を受けている。
柏餅はもとは葉を食器代わりに用いていた時代に、強飯や餅を木の葉の上に乗せたところからきたと思われる。Mengryというサイトによれば、
「江戸時代に俳人として有名だった齋藤徳元がまとめた書物「拝諧初学抄」において、1641年のものには5月の季語として「柏餅」が記載されていませんでした。
ところが、1661年から1673年にかけて成立した「酒餅論(しゅべいろん)」では、5月の季語として柏餅が紹介されていたからです。
そのため、柏餅が端午の節句の食物として定着したのは、1641年以降だと考えられます。」
だそうで、これだと芭蕉の時代には既に端午の節句の桜餅が定着していたことになる。あるいは「柏餅」という季語を避けるために「楢の葉」としたのかもしれない。
齋藤徳元については2017年11月21日の日記でもちょこっと触れている。貞門の俳人で、あの斎藤道三の曾孫で、織田信長、織田秀信に仕え、徳川の世になって江戸の市井の人となり和歌の教師をやっていた。
六十句目。
餅作る奈良の広葉を打合セ
贅に買るる秋の心は 芭蕉
「贅(にへ)」は古語辞典によれば「古く、新穀を神などに供え、感謝の意をあらわした行事」とあり、「新穀(にひ)」と同根だという。それが拡張されて朝廷への捧げものや贈り物にもなっていった。
前句の「餅作る」を端午の節句の柏餅ではなく神に供える新穀とし、「奈良」を楢ではなく文字通りに奈良の都とする。「広葉を打合セ」を捨てて、奈良で餅を作り新穀として献上するために買われてゆくのを「秋の心」だなあ、と結ぶ。
六十一句目。
贅に買るる秋の心は
鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ 朱絃
秋の心といえば鹿の声。わかりやすい。
六十二句目。
鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ
にくき男の鼾すむ月 不卜
鹿の妻問う声の切なさをアンタにも聞いてもらいたいものだ。鼾かいて寝やがって、と恋に転じる。「月」は放り込み。
2018年2月3日土曜日
2018年1月31日水曜日
2018年1月30日火曜日
昨日の五十句目、「金山がほら」がまちがって「金山がはら」になっていたので訂正した。
さてここから先は『初懐紙評注』の助けなしでおぼつかないが、とにかく行ってみよう。
三表、五十一句目。
さかもりいさむ金山がほら
此国の武仙を名ある絵にかかせ 其角
武仙は歌仙からの発想だろう。三十六歌仙屏風は戦国時代からしばしば製作されているし、三十六歌仙絵巻は鎌倉時代まで遡れる。
盗賊の頭領の金山八郎左衛門なら、三十六歌仙ならぬ三十六人の武将を描いた三十六武仙なんかを描かせて飾りそうだなということで、この句になったのだろう。天和的な発想の名残を感じさせる。
五十二句目。
此国の武仙を名ある絵にかかせ
京に汲する醒井の水 コ斎
「醒井(さめがい)の水」は洛中三銘水の一つ。同じ名前の水が滋賀県米原市にもあり醒井宿という中山道の宿場になっている。こちらの方は日本武尊の伝説がある。
おそらく武仙から日本武尊を連想し、武仙の絵を飾りながら京の醒井の水でお茶でも立てようというのだろう。醒井の水は千利休にも好まれたし、戦国武将も多くこの水を好んだ。
五十三句目
京に汲する醒井の水
玉川やをのをの六ツの所みて 芭蕉
井手の玉川は宇治の南にあり、平成の名水百選にも選ばれている。
かはづ鳴く井手の山吹散りにけり
花の盛りにあはましものを
よみ人知らず(古今集)
の歌にも詠まれている。
ただ、玉川は京都(山城)だけでなく、近江の野路の玉川、摂津の三嶋の多摩川、武蔵の調布の玉川、陸奥の野田の玉川、紀伊の高野の玉川と合わせて「六玉川」と呼ばれていた。
六つの玉川の水をそれぞれ見て歩いたが、やはり京の醒井の水が一番ということか。
五十四句目。
玉川やをのをの六ツの所みて
江湖江湖に年よりにけり 仙花
江湖は長江と洞庭湖に限らず広く五胡四海の広い世界を表していたという。風光明媚な川や湖の景色を訪ね歩き、六つの玉川も見て、旅をしているうちに年取ってしまった。水辺が続く。
五十五句目。
江湖江湖に年よりにけり
卯花の皆精にもよめるかな 芳重
『校本芭蕉全集第三巻』によれば「精」は「しらげ」と読む。精白米、つまり銀シャリのこと。
この本の注釈には、
卯の花のみな白髪とも見ゆるかな
賤が垣根は年よりにけり
という無名抄の歌を引用している。卯の花に白髪というと元禄二年の『奥の細道』で芭蕉に同行した曾良が、
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良
と詠んでいる。
卯の花を白髪に喩えるのは、わりとありきたりなことだったのだろう。ここでは白髪ならぬ精げに喩える。言い間違いの面白さを狙ったか。
五十六句目。
卯花の皆精にもよめるかな
竹うごかせば雀かたよる 揚水
これは諺のような句だ。文和千句第一百韻の「植ゑずはきかじ荻の上風 長綱」を思わせる。
竹を動かせば雀が動いてない竹の方に集まるように、卯の花が銀シャリに似ていると誰かが言えば、みんな「そうだそうだ」となる、ということか。雀は米に集まる。
さてここから先は『初懐紙評注』の助けなしでおぼつかないが、とにかく行ってみよう。
三表、五十一句目。
さかもりいさむ金山がほら
此国の武仙を名ある絵にかかせ 其角
武仙は歌仙からの発想だろう。三十六歌仙屏風は戦国時代からしばしば製作されているし、三十六歌仙絵巻は鎌倉時代まで遡れる。
盗賊の頭領の金山八郎左衛門なら、三十六歌仙ならぬ三十六人の武将を描いた三十六武仙なんかを描かせて飾りそうだなということで、この句になったのだろう。天和的な発想の名残を感じさせる。
五十二句目。
此国の武仙を名ある絵にかかせ
京に汲する醒井の水 コ斎
「醒井(さめがい)の水」は洛中三銘水の一つ。同じ名前の水が滋賀県米原市にもあり醒井宿という中山道の宿場になっている。こちらの方は日本武尊の伝説がある。
おそらく武仙から日本武尊を連想し、武仙の絵を飾りながら京の醒井の水でお茶でも立てようというのだろう。醒井の水は千利休にも好まれたし、戦国武将も多くこの水を好んだ。
五十三句目
京に汲する醒井の水
玉川やをのをの六ツの所みて 芭蕉
井手の玉川は宇治の南にあり、平成の名水百選にも選ばれている。
かはづ鳴く井手の山吹散りにけり
花の盛りにあはましものを
よみ人知らず(古今集)
の歌にも詠まれている。
ただ、玉川は京都(山城)だけでなく、近江の野路の玉川、摂津の三嶋の多摩川、武蔵の調布の玉川、陸奥の野田の玉川、紀伊の高野の玉川と合わせて「六玉川」と呼ばれていた。
六つの玉川の水をそれぞれ見て歩いたが、やはり京の醒井の水が一番ということか。
五十四句目。
玉川やをのをの六ツの所みて
江湖江湖に年よりにけり 仙花
江湖は長江と洞庭湖に限らず広く五胡四海の広い世界を表していたという。風光明媚な川や湖の景色を訪ね歩き、六つの玉川も見て、旅をしているうちに年取ってしまった。水辺が続く。
五十五句目。
江湖江湖に年よりにけり
卯花の皆精にもよめるかな 芳重
『校本芭蕉全集第三巻』によれば「精」は「しらげ」と読む。精白米、つまり銀シャリのこと。
この本の注釈には、
卯の花のみな白髪とも見ゆるかな
賤が垣根は年よりにけり
という無名抄の歌を引用している。卯の花に白髪というと元禄二年の『奥の細道』で芭蕉に同行した曾良が、
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良
と詠んでいる。
卯の花を白髪に喩えるのは、わりとありきたりなことだったのだろう。ここでは白髪ならぬ精げに喩える。言い間違いの面白さを狙ったか。
五十六句目。
卯花の皆精にもよめるかな
竹うごかせば雀かたよる 揚水
これは諺のような句だ。文和千句第一百韻の「植ゑずはきかじ荻の上風 長綱」を思わせる。
竹を動かせば雀が動いてない竹の方に集まるように、卯の花が銀シャリに似ていると誰かが言えば、みんな「そうだそうだ」となる、ということか。雀は米に集まる。
2018年1月29日月曜日
月もだいぶ丸くなってきた。31日に満月となり、月食があるらしい。その四日後は立春。旧暦だとまだ師走だが。
そういうわけで、今年は年内立春、「年の内に春はきにけり」になる。立春から正月まではふる年と今年とが共存し、過去と現在とが出会うその期間が今年は二週間近くある。
かなり前に見たセサミストリートで、過去と現在が出会う場所、それは博物館というのがあったが、古今集もきっとそういう意図で編纂されたのだろう。
さて、それでは「日の春を」の巻の続き。ここでも過去と現在とが出会う。
四十七句目。
糺の飴屋秋さむきなり
電の木の間を花のこころせば 挙白
『初懐紙評注』には、
「秋といふ字を不捨に付侍る。巧者の(秋以下十五文字一本によりて補ふ)働言語にのべがたし。糺あたりの道すがら森の木の間勿論也。木の間に稲妻尤面白し、真に秋の夜の花ともいふべし。」
とある。
「評注」の「秋以下十五文字一本によりて補ふ」というのは、「秋働言語にのべがたし」と十五文字抜けていたのを、別の本によって補ったということか。
秋という字を捨てずというのは、大方こういう場面では「糺の飴屋」から展開するということだろうか。この句は確かに飴屋の方を捨てて、秋を生かして付けている。
電(いなづま:稲妻)は以前『ももすもも』の「冬木だち」の巻を読んだとき、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を引用した。ここでふたたび。
「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」
このとき「実際には見たことがない」と書いたが、子供の頃の記憶で、夜の空の地平線近くが薄っすらと光っては消え光っては消えて、何だろうと思ったことはある。それが稲妻なのか人工的なライトが雲に反射しているだけなのかはよくわからない。
おそらく今の夜空が明るすぎることが原因なのだろう。町の灯りのない、天の川が見えるくらいの山奥とかだったら稲妻も常なのかもしれない。
加茂の糺の森は、昔は夜ともなると真っ暗闇で、その木の間から稲妻の光が漏れると、そこだけはっと明るくなり、花が咲いたように見えたのだろう。
四十八句目。
電の木の間を花のこころせば
つれなきひじり野に笈をとく 枳風
『初懐紙評注』には、
「此句の付やう一句又秀逸也。物すごき闇の夜、稲妻ぴかぴかとする時節、聖、野に伏侘る体、ちか頃新し。俳諧の眼是等にとどまり侍らん。」
とある。
「ひじり(聖)」は諸国を遊行する一所不住の僧で、「笈」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱。」だという。聖は笈を背負い、しばしば野宿をした。
あたりは真っ暗闇で稲妻がピカピカ光っていれば、普通の人なら恐怖を感じる所だが、そこは意に介さない(つれない)僧のこと、木の間の稲妻もこれぞ花とばかりに背負ってた笈を下ろし、そこで野宿する。
稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭蕉
の句はこれより後の元禄三年の句。あるいはこの枳風の句が頭にあったのかもしれない。
芭蕉の紀行文に『笈の小文』とあるが、これは芭蕉自身が付けたタイトルではなく、芭蕉の死後に近江の弟子の乙州(おとくに)がつけたものとされている。
芭蕉も旅するときは僧形だったし、遊行する「ひじり」になぞらえてこういうタイトルをつけたのだろう。「俳聖」というのもそういう点では二重の意味があったのだろう。同時代の本因坊道策を「棋聖」と呼ぶように、芭蕉の俳句があまりに神だから(一昨年の流行語で言うなら「神ってる」から)「聖」の名を冠しているのと、遊行する聖(ひじり)のようだからというのと、両方の意味で「俳聖」だったのだろう。
日本は多神教の国で、もとより全知全能の神なんて概念はない。「神」というのは易経の「陰陽不測、是を神という」の神で、要するに説明のつかないことは「神」なのである。
四十九句目。
つれなきひじり野に笈をとく
人あまた年とる物をかつぎ行 揚水
『初懐紙評注』には、
「此句又秀逸也。聖の宿かりかねたる夜を大晦日の夜におもひつけたる也。先珍重。聖は野に侘伏たるに、世にある人は年取物かつぎはこぶ体、近頃骨折也。前句の心を替る所、猶々玩味すべし。」
とある。
前句の聖の野宿を大晦日のこととする。芭蕉にも『野ざらし紀行』の旅の句に、
年暮れぬ笠きて草鞋はきながら 芭蕉
というのがある。実際は故郷の伊賀で年を越したようだが。故郷に帰っても心は旅の中だ、という意味か。
昔は数え年だったので、正月が来ると一歳年を取る。今みたいに誕生日で年を取るのではなかった。大晦日は決算日でもあり、商人は忙しく駆け回る。それを「年を取るものを」と「物をかつぐ」とを掛けて「年とる物をかつぎ行」と表現する。聖はかついだ物を降ろし、世俗の人は年を背負い込む。
まあ、だからといって聖が年取らないわけではないが、ただ年を取るのも忘れていつでも気持ちを若く保つというのは大事なことだ。「忘年会」というのも本来は年を取るのを忘れるためにみんなで楽しもうというものだった。それを一部の人だが、「過去を忘却するなんてけしくりからん」とか言って「望年会」なんて言ったりしている。日本語をちゃんと勉強しよう。そうしないと老けちゃうよ。それが望みならいいけど。
五十句目。
人あまた年とる物をかつぎ行
さかもりいさむ金山がほら 朱絃
『初懐紙評注』には、
「金山は我朝の大盗也。前句よく請たり。註に不及、附やう明也。」
とある。
「金山」は御伽草子の「あきみち」に出てくる金山八郎左衛門のこと。とはいえ、このあだ討ち物語とは関係なく、単に大泥棒として掻っ攫った物をアジトに運び込んでは酒盛りする情景を付ける。
このあと、この評注について短い説明がある。
「当時の俳道意味心得がたし、願は句解したまはらんやと侍りければ、即興に加筆し給じ。終日の席、はせを翁の持病心よからず五十韻にして筆をたち給ふ。」
これでいくと、この評注は芭蕉の晩年の病の中で書かれたもののようだ。確かに十年近くたってしまうと、貞享のころの俳諧は既にわかりにくくなっていたのだろう。支考が古池の句をよく理解できてなかったように。
ただ、この詞書が本当かどうかはわからない。晩年の軽みの頃の用語が使われてない点では、実際は貞享三年春からそう遠くない時期に書かれたのではないかと思う。ただ、草稿としてしまってあったものを晩年に弟子の誰かに託したのかもしれない。
いずれにせよ残念ながらあとの五十句は注釈がない。自力で読まなくてはならない。
そういうわけで、今年は年内立春、「年の内に春はきにけり」になる。立春から正月まではふる年と今年とが共存し、過去と現在とが出会うその期間が今年は二週間近くある。
かなり前に見たセサミストリートで、過去と現在が出会う場所、それは博物館というのがあったが、古今集もきっとそういう意図で編纂されたのだろう。
さて、それでは「日の春を」の巻の続き。ここでも過去と現在とが出会う。
四十七句目。
糺の飴屋秋さむきなり
電の木の間を花のこころせば 挙白
『初懐紙評注』には、
「秋といふ字を不捨に付侍る。巧者の(秋以下十五文字一本によりて補ふ)働言語にのべがたし。糺あたりの道すがら森の木の間勿論也。木の間に稲妻尤面白し、真に秋の夜の花ともいふべし。」
とある。
「評注」の「秋以下十五文字一本によりて補ふ」というのは、「秋働言語にのべがたし」と十五文字抜けていたのを、別の本によって補ったということか。
秋という字を捨てずというのは、大方こういう場面では「糺の飴屋」から展開するということだろうか。この句は確かに飴屋の方を捨てて、秋を生かして付けている。
電(いなづま:稲妻)は以前『ももすもも』の「冬木だち」の巻を読んだとき、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を引用した。ここでふたたび。
「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」
このとき「実際には見たことがない」と書いたが、子供の頃の記憶で、夜の空の地平線近くが薄っすらと光っては消え光っては消えて、何だろうと思ったことはある。それが稲妻なのか人工的なライトが雲に反射しているだけなのかはよくわからない。
おそらく今の夜空が明るすぎることが原因なのだろう。町の灯りのない、天の川が見えるくらいの山奥とかだったら稲妻も常なのかもしれない。
加茂の糺の森は、昔は夜ともなると真っ暗闇で、その木の間から稲妻の光が漏れると、そこだけはっと明るくなり、花が咲いたように見えたのだろう。
四十八句目。
電の木の間を花のこころせば
つれなきひじり野に笈をとく 枳風
『初懐紙評注』には、
「此句の付やう一句又秀逸也。物すごき闇の夜、稲妻ぴかぴかとする時節、聖、野に伏侘る体、ちか頃新し。俳諧の眼是等にとどまり侍らん。」
とある。
「ひじり(聖)」は諸国を遊行する一所不住の僧で、「笈」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱。」だという。聖は笈を背負い、しばしば野宿をした。
あたりは真っ暗闇で稲妻がピカピカ光っていれば、普通の人なら恐怖を感じる所だが、そこは意に介さない(つれない)僧のこと、木の間の稲妻もこれぞ花とばかりに背負ってた笈を下ろし、そこで野宿する。
稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭蕉
の句はこれより後の元禄三年の句。あるいはこの枳風の句が頭にあったのかもしれない。
芭蕉の紀行文に『笈の小文』とあるが、これは芭蕉自身が付けたタイトルではなく、芭蕉の死後に近江の弟子の乙州(おとくに)がつけたものとされている。
芭蕉も旅するときは僧形だったし、遊行する「ひじり」になぞらえてこういうタイトルをつけたのだろう。「俳聖」というのもそういう点では二重の意味があったのだろう。同時代の本因坊道策を「棋聖」と呼ぶように、芭蕉の俳句があまりに神だから(一昨年の流行語で言うなら「神ってる」から)「聖」の名を冠しているのと、遊行する聖(ひじり)のようだからというのと、両方の意味で「俳聖」だったのだろう。
日本は多神教の国で、もとより全知全能の神なんて概念はない。「神」というのは易経の「陰陽不測、是を神という」の神で、要するに説明のつかないことは「神」なのである。
四十九句目。
つれなきひじり野に笈をとく
人あまた年とる物をかつぎ行 揚水
『初懐紙評注』には、
「此句又秀逸也。聖の宿かりかねたる夜を大晦日の夜におもひつけたる也。先珍重。聖は野に侘伏たるに、世にある人は年取物かつぎはこぶ体、近頃骨折也。前句の心を替る所、猶々玩味すべし。」
とある。
前句の聖の野宿を大晦日のこととする。芭蕉にも『野ざらし紀行』の旅の句に、
年暮れぬ笠きて草鞋はきながら 芭蕉
というのがある。実際は故郷の伊賀で年を越したようだが。故郷に帰っても心は旅の中だ、という意味か。
昔は数え年だったので、正月が来ると一歳年を取る。今みたいに誕生日で年を取るのではなかった。大晦日は決算日でもあり、商人は忙しく駆け回る。それを「年を取るものを」と「物をかつぐ」とを掛けて「年とる物をかつぎ行」と表現する。聖はかついだ物を降ろし、世俗の人は年を背負い込む。
まあ、だからといって聖が年取らないわけではないが、ただ年を取るのも忘れていつでも気持ちを若く保つというのは大事なことだ。「忘年会」というのも本来は年を取るのを忘れるためにみんなで楽しもうというものだった。それを一部の人だが、「過去を忘却するなんてけしくりからん」とか言って「望年会」なんて言ったりしている。日本語をちゃんと勉強しよう。そうしないと老けちゃうよ。それが望みならいいけど。
五十句目。
人あまた年とる物をかつぎ行
さかもりいさむ金山がほら 朱絃
『初懐紙評注』には、
「金山は我朝の大盗也。前句よく請たり。註に不及、附やう明也。」
とある。
「金山」は御伽草子の「あきみち」に出てくる金山八郎左衛門のこと。とはいえ、このあだ討ち物語とは関係なく、単に大泥棒として掻っ攫った物をアジトに運び込んでは酒盛りする情景を付ける。
このあと、この評注について短い説明がある。
「当時の俳道意味心得がたし、願は句解したまはらんやと侍りければ、即興に加筆し給じ。終日の席、はせを翁の持病心よからず五十韻にして筆をたち給ふ。」
これでいくと、この評注は芭蕉の晩年の病の中で書かれたもののようだ。確かに十年近くたってしまうと、貞享のころの俳諧は既にわかりにくくなっていたのだろう。支考が古池の句をよく理解できてなかったように。
ただ、この詞書が本当かどうかはわからない。晩年の軽みの頃の用語が使われてない点では、実際は貞享三年春からそう遠くない時期に書かれたのではないかと思う。ただ、草稿としてしまってあったものを晩年に弟子の誰かに託したのかもしれない。
いずれにせよ残念ながらあとの五十句は注釈がない。自力で読まなくてはならない。
2018年1月28日日曜日
今日も一日曇っていて寒かった。家でお休み。
それでは「日の春を」の巻の続き。
三十九句目。
弥勒の堂におもひうちふし
待かひの鐘は墜たる草の上 芭蕉
『初懐紙評注』には、
「弥勒の堂といふ時は、観音堂釈迦堂など云様に、参詣繁昌にも聞えず。物淋しき体を心に懸て、鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔に見えたる体、見る心地せらる。五文字にて一句の味を付たり。注釈に及ばず。よくよく味ひ聞べし。」
とある。
確かに観音堂や釈迦堂はよく聞くが、弥勒堂はあまり見ないような気がする。ためしにググってみたが、「弥勒堂」だと仏壇屋が出てきてしまう。「弥勒堂 古寺」だと室生寺や慈尊院の弥勒堂がようやく出てくる。どちらもかなり地味な建物だ。
弥勒信仰はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「弥勒菩薩を本尊とする信仰。死後、弥勒の住む兜率天とそつてんへ往生しようとする上生思想と、仏滅後五六億七千万年ののち、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想の二種の信仰から成る。インドに始まり、日本には推古朝に伝来し、奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が、戦国末期の東国では下生思想が特に栄えた。」
とある。
芭蕉の時代は弥勒信仰の流行期から外れていたので、戦国末期の流行期に建てられた弥勒堂がそのまま放置され、野に埋もれている情景がしばしば見られたのだろう。「鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔(わずか)に見えたる体」は当時のあるあるだったか。「龍頭」は釣鐘の上部にある吊るための縄をかける部分をいう。
「待かひ」は弥勒の再来を待つということか。その思いも今では落ちた釣鐘のように打ち臥している。
四十句目。
待かひの鐘は墜たる草の上
友よぶ蟾の物うきの声 仙花
『初懐紙評注』には、
「友呼蟾 ちか頃珍重に侍る。草むらの体、物すごき有様、前句に云残したる所を能請たり。うき声といふにて、待便りなき恋をあひしらひたり。」
とある。前句の「待かひ」に「友呼ぶ蟾(ひき)」が付く。前句の言い残した景色を追加した体。
ヒキガエルというと、『蛙合』に、
うき時は蟇(ひき)の遠音も雨夜哉 曾良
の句がある。ヒキガエルの声は物憂く聞こえる。
四十一句目。
友よぶ蟾の物うきの声
雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり コ斎
『初懐紙評注』には、
「蟾の声といふより田舎の体を云のべたる也。雨と付る事珍しからずといへども、ひなぐもり珍し。しかも秋に云言葉にあらず。古き歌によみ侍る。惣じて句々、折々古歌古詩等の言葉、所々にありといへども、しゐて名句にすがりたるにもあらず侍れば、さのみことごとしく不記。」
とある。
曾良の句にもあったように、蛙に雨は付き物で、蟾に雨も別に珍しくはない。
「ひなぐもり」は岩波古語辞典には、枕詞で「日の曇る薄日の意から同音の地名「碓氷」にかかる。」とある。例として挙げられているのは、
ひなぐもり碓日の坂を越えしだに
妹が恋しく忘らえぬかも
防人(巻二十、四四〇七)
たしかに滅多に用いられない言葉で、古歌にあるといってもそんなに有名な歌ではないし、本歌とも思えない。
雨というほどひどく憂鬱ではないが薄曇で鬱陶しいということか。蟾の鳴く田舎の景色に天候を添えている。
四十二句目。
雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり
門は魚ほす磯ぎはの寺 挙白
『初懐紙評注』には、
「鄙の体あらは也。濱寺などの門前に、魚干網など打かけたる体多し。曇と云に干スと附たる、都て、作者の器量おもひよるべし。」
とある。濱寺は山寺に対しての言葉か。漁村にあるお寺の門前で干物が干してある事は珍しくないということで、これはあるあるネタといっていいだろう。
せっかく干しているのに雨とはいわないまでも薄曇りなのは残念。
四十三句目。
門は魚ほす磯ぎはの寺
理不尽に物くふ武者等六七騎 芳重
『初懐紙評注』には、
「此句秀逸也。海辺軍乱たる体也。民屋寺中へ押込て狼藉したる有様、乱国のさま誠にかく有べし。世の中おだやかに、安楽の心ばへ、難有思ひ合せて句を見るべし。」
とある。
芭蕉はこうした武士の横暴や武家社会の堅苦しさなどの風刺を好む所がある。その意味では芭蕉好みの句といえよう。
国が乱れれば軍のモラルも下がり、民間人に対する略奪などが横行する。やはり平和がいい。
四十四句目。
理不尽に物くふ武者等六七騎
あら野の牧の御召撰ミに 其角
『初懐紙評注』には、
「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」
とある。
これは略奪から一転して道草の句に。荒野の牧場にお殿様の乗る馬を選びにきたものの、そんな簡単なことではない。むちゃ振りというか、理不尽な命令にすねた武者等が道草食う。
江戸中期になると「三句の渡り」なんてことが言われるが、本来連歌も俳諧も三句に渡ってはいけないもので、「三句のはなれ」が正しい。「句の替り様」こそ連句の醍醐味といっていい。
四十五句目。
あら野の牧の御召撰ミに
鵙の一声夕日を月にあらためて 文鱗
『初懐紙評注』には、
「段々附やう、文句きびしく続きたる故に、よく云ひなし侍る。かやうの所巧者の心可附義也。夕日さびしき鵙の一声と長嘯のよめるに、西行の柴の戸に入日の影を改めて、とよめる月をとり合せて一句を仕立たる也。長嘯のうたを、本歌に用ゆるにはあらず侍れども、俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」
とある。
長嘯は戦国武将の木下勝俊で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。
鉢叩あかつき方の一こゑは
冬の夜さへもなくほととぎす
長嘯子
の歌から、芭蕉は、
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き 芭蕉
の句を元禄二年に詠んでいる。「夕日さびしき鵙の一声」は『芭蕉の人情句: 付句の世界』(宮脇真彦、二〇一四、角川選書)によれば、
野辺見れば尾花が末にうち靡く
夕日も薄し鵙の一声
長嘯子
だという。
「西行の柴の戸に入日の影を改めて」も同書によれば、
射し来つる窓の入日を改めて
光を変ふる夕月夜かな
西行法師
だそうだ。
「鵙の一声夕日を月にあらためて」の句は確かにこの二つの歌を合わせた句だ。「鵙の一声」に「夕日も薄し」と「入日を改めて」「夕月夜」を合わせれば、この句になる。
紺屋に馬を探しに来て日も暮れるというだけの句だが、二つの和歌を引いてきてここまで作るというのは巧者としか言いようがない。
貞門談林では俗語を一語入れなくてはならないのだが、蕉門ではそうした制約を撤廃したから和歌の言葉だけで構成してもかまわない。「俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」と、使える言葉は何でも使えということだ。
四十六句目。
鵙の一声夕日を月にあらためて
糺の飴屋秋さむきなり 李下
『初懐紙評注』には、
「洛外の景気、尤やり句也。月夕日に其地を思ひはかりて見ゆ。」
とある。
前句が時候なので、それにふさわしい場所として京都の賀茂川と高野川の合流点付近に思いをはせる。下鴨神社があるので飴屋もあったのだろう。夕暮れともなれば店じまいか。
それでは「日の春を」の巻の続き。
三十九句目。
弥勒の堂におもひうちふし
待かひの鐘は墜たる草の上 芭蕉
『初懐紙評注』には、
「弥勒の堂といふ時は、観音堂釈迦堂など云様に、参詣繁昌にも聞えず。物淋しき体を心に懸て、鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔に見えたる体、見る心地せらる。五文字にて一句の味を付たり。注釈に及ばず。よくよく味ひ聞べし。」
とある。
確かに観音堂や釈迦堂はよく聞くが、弥勒堂はあまり見ないような気がする。ためしにググってみたが、「弥勒堂」だと仏壇屋が出てきてしまう。「弥勒堂 古寺」だと室生寺や慈尊院の弥勒堂がようやく出てくる。どちらもかなり地味な建物だ。
弥勒信仰はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「弥勒菩薩を本尊とする信仰。死後、弥勒の住む兜率天とそつてんへ往生しようとする上生思想と、仏滅後五六億七千万年ののち、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想の二種の信仰から成る。インドに始まり、日本には推古朝に伝来し、奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が、戦国末期の東国では下生思想が特に栄えた。」
とある。
芭蕉の時代は弥勒信仰の流行期から外れていたので、戦国末期の流行期に建てられた弥勒堂がそのまま放置され、野に埋もれている情景がしばしば見られたのだろう。「鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔(わずか)に見えたる体」は当時のあるあるだったか。「龍頭」は釣鐘の上部にある吊るための縄をかける部分をいう。
「待かひ」は弥勒の再来を待つということか。その思いも今では落ちた釣鐘のように打ち臥している。
四十句目。
待かひの鐘は墜たる草の上
友よぶ蟾の物うきの声 仙花
『初懐紙評注』には、
「友呼蟾 ちか頃珍重に侍る。草むらの体、物すごき有様、前句に云残したる所を能請たり。うき声といふにて、待便りなき恋をあひしらひたり。」
とある。前句の「待かひ」に「友呼ぶ蟾(ひき)」が付く。前句の言い残した景色を追加した体。
ヒキガエルというと、『蛙合』に、
うき時は蟇(ひき)の遠音も雨夜哉 曾良
の句がある。ヒキガエルの声は物憂く聞こえる。
四十一句目。
友よぶ蟾の物うきの声
雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり コ斎
『初懐紙評注』には、
「蟾の声といふより田舎の体を云のべたる也。雨と付る事珍しからずといへども、ひなぐもり珍し。しかも秋に云言葉にあらず。古き歌によみ侍る。惣じて句々、折々古歌古詩等の言葉、所々にありといへども、しゐて名句にすがりたるにもあらず侍れば、さのみことごとしく不記。」
とある。
曾良の句にもあったように、蛙に雨は付き物で、蟾に雨も別に珍しくはない。
「ひなぐもり」は岩波古語辞典には、枕詞で「日の曇る薄日の意から同音の地名「碓氷」にかかる。」とある。例として挙げられているのは、
ひなぐもり碓日の坂を越えしだに
妹が恋しく忘らえぬかも
防人(巻二十、四四〇七)
たしかに滅多に用いられない言葉で、古歌にあるといってもそんなに有名な歌ではないし、本歌とも思えない。
雨というほどひどく憂鬱ではないが薄曇で鬱陶しいということか。蟾の鳴く田舎の景色に天候を添えている。
四十二句目。
雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり
門は魚ほす磯ぎはの寺 挙白
『初懐紙評注』には、
「鄙の体あらは也。濱寺などの門前に、魚干網など打かけたる体多し。曇と云に干スと附たる、都て、作者の器量おもひよるべし。」
とある。濱寺は山寺に対しての言葉か。漁村にあるお寺の門前で干物が干してある事は珍しくないということで、これはあるあるネタといっていいだろう。
せっかく干しているのに雨とはいわないまでも薄曇りなのは残念。
四十三句目。
門は魚ほす磯ぎはの寺
理不尽に物くふ武者等六七騎 芳重
『初懐紙評注』には、
「此句秀逸也。海辺軍乱たる体也。民屋寺中へ押込て狼藉したる有様、乱国のさま誠にかく有べし。世の中おだやかに、安楽の心ばへ、難有思ひ合せて句を見るべし。」
とある。
芭蕉はこうした武士の横暴や武家社会の堅苦しさなどの風刺を好む所がある。その意味では芭蕉好みの句といえよう。
国が乱れれば軍のモラルも下がり、民間人に対する略奪などが横行する。やはり平和がいい。
四十四句目。
理不尽に物くふ武者等六七騎
あら野の牧の御召撰ミに 其角
『初懐紙評注』には、
「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」
とある。
これは略奪から一転して道草の句に。荒野の牧場にお殿様の乗る馬を選びにきたものの、そんな簡単なことではない。むちゃ振りというか、理不尽な命令にすねた武者等が道草食う。
江戸中期になると「三句の渡り」なんてことが言われるが、本来連歌も俳諧も三句に渡ってはいけないもので、「三句のはなれ」が正しい。「句の替り様」こそ連句の醍醐味といっていい。
四十五句目。
あら野の牧の御召撰ミに
鵙の一声夕日を月にあらためて 文鱗
『初懐紙評注』には、
「段々附やう、文句きびしく続きたる故に、よく云ひなし侍る。かやうの所巧者の心可附義也。夕日さびしき鵙の一声と長嘯のよめるに、西行の柴の戸に入日の影を改めて、とよめる月をとり合せて一句を仕立たる也。長嘯のうたを、本歌に用ゆるにはあらず侍れども、俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」
とある。
長嘯は戦国武将の木下勝俊で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。
鉢叩あかつき方の一こゑは
冬の夜さへもなくほととぎす
長嘯子
の歌から、芭蕉は、
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き 芭蕉
の句を元禄二年に詠んでいる。「夕日さびしき鵙の一声」は『芭蕉の人情句: 付句の世界』(宮脇真彦、二〇一四、角川選書)によれば、
野辺見れば尾花が末にうち靡く
夕日も薄し鵙の一声
長嘯子
だという。
「西行の柴の戸に入日の影を改めて」も同書によれば、
射し来つる窓の入日を改めて
光を変ふる夕月夜かな
西行法師
だそうだ。
「鵙の一声夕日を月にあらためて」の句は確かにこの二つの歌を合わせた句だ。「鵙の一声」に「夕日も薄し」と「入日を改めて」「夕月夜」を合わせれば、この句になる。
紺屋に馬を探しに来て日も暮れるというだけの句だが、二つの和歌を引いてきてここまで作るというのは巧者としか言いようがない。
貞門談林では俗語を一語入れなくてはならないのだが、蕉門ではそうした制約を撤廃したから和歌の言葉だけで構成してもかまわない。「俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」と、使える言葉は何でも使えということだ。
四十六句目。
鵙の一声夕日を月にあらためて
糺の飴屋秋さむきなり 李下
『初懐紙評注』には、
「洛外の景気、尤やり句也。月夕日に其地を思ひはかりて見ゆ。」
とある。
前句が時候なので、それにふさわしい場所として京都の賀茂川と高野川の合流点付近に思いをはせる。下鴨神社があるので飴屋もあったのだろう。夕暮れともなれば店じまいか。
2018年1月27日土曜日
「日の春を」の巻の続き。
三十五句目。
近江の田植美濃に恥らん
とく起て聞勝にせん時鳥 芳重
『初懐紙評注』には、
「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」
とある。
田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。
三十六句目。
とく起て聞勝にせん時鳥
船に茶の湯の浦あはれ也 其角
『初懐紙評注』には、
「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。船中にて茶の湯などしたる風流奇特也。思ひがけぬ所にて茶の湯出す。茶道の好士也。思ひよらぬ物を前句に思ひ寄たる、又俳諧の逸士也。」
とある。
船中で茶の湯というのは揺れてやりにくそうだが、あえてそれを楽しむというのはなかなかお目にかかれないような飛び切りの数奇物ということか。船中で酒ならありきたり。
時鳥を聞くために早起きする奇特さと、船中での茶の湯の奇特さ、奇特つながりといい、そこに浮かび上がる数奇物の像といい、後の匂い付けに繋がるものを感じさせる。
「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。」という言葉は、『去来抄』にいう、
面梶よ明石のとまり時鳥 野水
の句が芭蕉の「野を横に」に似ているということで、『猿蓑』に入集させるべきかどうか去来が芭蕉に相談した時、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったことを思い起こさせる。
二裏、三十七句目。
船に茶の湯の浦あはれ也
つくしまで人の娘をめしつれて 李下
『初懐紙評注』には、
「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」
とある。
「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。
「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。
三十八句目。
つくしまで人の娘をめしつれて
弥勒の堂におもひうちふし 枳風
『初懐紙評注』には、
「此句、尤やり句にて侍れども、辺土の哀をよく云捨たり。句々段々其理つまりたる時を見て、一句宜しく付捨らる逸句不労。」
中世の連歌では恋は三句から五句続けるのが普通だったが、蕉門では一句で捨てていいことになっていた。ここでも釈教に展開して恋を捨てる。
誘拐された娘はその身を嘆き、出家して仏道に入る。「おもひうちふし」に「辺土の哀」が感じられる。
三十五句目。
近江の田植美濃に恥らん
とく起て聞勝にせん時鳥 芳重
『初懐紙評注』には、
「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」
とある。
田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。
三十六句目。
とく起て聞勝にせん時鳥
船に茶の湯の浦あはれ也 其角
『初懐紙評注』には、
「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。船中にて茶の湯などしたる風流奇特也。思ひがけぬ所にて茶の湯出す。茶道の好士也。思ひよらぬ物を前句に思ひ寄たる、又俳諧の逸士也。」
とある。
船中で茶の湯というのは揺れてやりにくそうだが、あえてそれを楽しむというのはなかなかお目にかかれないような飛び切りの数奇物ということか。船中で酒ならありきたり。
時鳥を聞くために早起きする奇特さと、船中での茶の湯の奇特さ、奇特つながりといい、そこに浮かび上がる数奇物の像といい、後の匂い付けに繋がるものを感じさせる。
「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。」という言葉は、『去来抄』にいう、
面梶よ明石のとまり時鳥 野水
の句が芭蕉の「野を横に」に似ているということで、『猿蓑』に入集させるべきかどうか去来が芭蕉に相談した時、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったことを思い起こさせる。
二裏、三十七句目。
船に茶の湯の浦あはれ也
つくしまで人の娘をめしつれて 李下
『初懐紙評注』には、
「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」
とある。
「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。
「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。
三十八句目。
つくしまで人の娘をめしつれて
弥勒の堂におもひうちふし 枳風
『初懐紙評注』には、
「此句、尤やり句にて侍れども、辺土の哀をよく云捨たり。句々段々其理つまりたる時を見て、一句宜しく付捨らる逸句不労。」
中世の連歌では恋は三句から五句続けるのが普通だったが、蕉門では一句で捨てていいことになっていた。ここでも釈教に展開して恋を捨てる。
誘拐された娘はその身を嘆き、出家して仏道に入る。「おもひうちふし」に「辺土の哀」が感じられる。
2018年1月26日金曜日
寒い日が続く。
それでは「日の春を」の巻の続き。
三十一句目。
あられ月夜のくもる傘
石の戸樋鞍馬の坊に音すみて 挙白
『初懐紙評注』には、
「霰は雪霜といふより、少し寒風冷じく聞ゆる物なるによりて、鞍馬と云所を思ひよせたり。昔は名所の出し様、碪に須磨の浦十市の里吉野の里玉川など付て、證歌に便て付る。霰は那須の篠原、雪に不二、月に更科と付侍るを、当時は句の形容によりて名所を思ひよする。尤心得ある事也。」
とある。
「石の戸樋」は軒先などの雨樋ではなく、湧き水を引いてきて修行用の滝にしたり手水にしたりするための石を組んで作られた水路のことだろう。今日でも魔王の滝に石樋が見られる。「音すみて」は水の流れる音の澄んでいるということだろう。
貞門や初期の談林俳諧では、雅語の用法として正しいかどうかを證歌をとって確認する作業があったため、名所を出すときでもその名所にふさわしいかどうかでいちいち證歌を引かなくてはならなかったのだろう。
蕉門では基本的に俗語の俳諧なので、雅語としての用法を確認する必要はない。霰月夜から寒い所というだけの理由で鞍馬を出しても差し支えない。
三十二句目。
石の戸樋鞍馬の坊に音すみて
われ三代の刀うつ鍛冶 李下
『初懐紙評注』には、
「此句詠様奇特也。鞍馬尤人々の云伝て、僧正が谷抔打ものに便る事也。石の戸樋などいふに鍛冶、近頃遠く思ひ寄たる、珍重也。浄き地、清き水をゑらみ、名剣を打べきとおもひしより、一句感情不少。三代といふて猶粉骨鍛冶名人といはん為なり。」
とある。
鞍馬の僧正が谷は牛若丸が剣術の修行をしたという伝説もあり、その剣の師匠が天狗だったというあたりから、のちの鞍馬天狗の物語が生じることとなった。また、鞍馬寺には坂上田村麻呂が奉納したと伝えられている黒漆剣があり、現在は京都国立博物館に保管されている。
実際に鞍馬に刀鍛冶がいたかどうかはわからないが、そこは俳諧だから創作でいい。
前句の「音すみて」を刀を鍛える音とする。
三十三句目。
われ三代の刀うつ鍛冶
永禄は金乏しく松の風 仙花
『初懐紙評注』には、
「永禄は其時代を云はんため也。鍛冶名人多くは貧なるもの也。仍て金乏しといへる也。前句の噂のやうにて、一句しかも明らかに聞え侍る。是等よく心を付翫味すべし。」
とある。
永禄は戦国時代のさなかで、川中島の戦い、桶狭間の戦い、永禄の変などが起きている。刀鍛冶から合戦、永禄の頃という連想で展開している。
「金(こがね)乏しく」は、名人であるが故に良い刀を作ること以外は眼中になく、金銭感覚に乏しいがため、結局は貧乏暮らしをしているということか。「松の風」という景色を添えて逃げ句にする。
三十四句目。
永禄は金乏しく松の風
近江の田植美濃に恥らん 朱絃
『初懐紙評注』には、
「只上代の体の句也。金乏しきといふより昔をいふ句也。昔は物毎簡略にて、金も乏しき事人々云伝へ侍る。美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」
とある。
前句の「永禄」を捨てて、ただ昔のことぐらいの意味とし、「金乏しく」も今みたいに経済が発達してなかった頃」ぐらいの意味とする。昔の田植えはお祭で、笛を吹き鼓を打ち、田植え歌の風流を楽しんだ。
芭蕉の時代よりは後になるが、彭城百川の『田植図』に昔の田植えの様子が伺われる。おそらく元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅で見た「奥の田植え歌」もこんなだっただろう。
芭蕉の時代でも田植えの風流は廃れていなかったのなら、永禄の昔の近江の国の田植えはさぞかし盛大だったに違いない。
「遠き夷とはちがふ成べし」という言葉には、『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。」という思想が込められている。田植えを単なる労働ではなく、村をあげてのお祭とし、風流を楽しむ所に人間らしさがあり、禽獣夷狄とは違うんだという誇りがある。
逆に言えば、今日の我々の近代的労働は禽獣夷狄に堕していると言っていいのかもしれない。禽獣夷狄とは言わないまでも「歯車」や「ロボット」だのに成り下がっているのは確かだろう。
それでは「日の春を」の巻の続き。
三十一句目。
あられ月夜のくもる傘
石の戸樋鞍馬の坊に音すみて 挙白
『初懐紙評注』には、
「霰は雪霜といふより、少し寒風冷じく聞ゆる物なるによりて、鞍馬と云所を思ひよせたり。昔は名所の出し様、碪に須磨の浦十市の里吉野の里玉川など付て、證歌に便て付る。霰は那須の篠原、雪に不二、月に更科と付侍るを、当時は句の形容によりて名所を思ひよする。尤心得ある事也。」
とある。
「石の戸樋」は軒先などの雨樋ではなく、湧き水を引いてきて修行用の滝にしたり手水にしたりするための石を組んで作られた水路のことだろう。今日でも魔王の滝に石樋が見られる。「音すみて」は水の流れる音の澄んでいるということだろう。
貞門や初期の談林俳諧では、雅語の用法として正しいかどうかを證歌をとって確認する作業があったため、名所を出すときでもその名所にふさわしいかどうかでいちいち證歌を引かなくてはならなかったのだろう。
蕉門では基本的に俗語の俳諧なので、雅語としての用法を確認する必要はない。霰月夜から寒い所というだけの理由で鞍馬を出しても差し支えない。
三十二句目。
石の戸樋鞍馬の坊に音すみて
われ三代の刀うつ鍛冶 李下
『初懐紙評注』には、
「此句詠様奇特也。鞍馬尤人々の云伝て、僧正が谷抔打ものに便る事也。石の戸樋などいふに鍛冶、近頃遠く思ひ寄たる、珍重也。浄き地、清き水をゑらみ、名剣を打べきとおもひしより、一句感情不少。三代といふて猶粉骨鍛冶名人といはん為なり。」
とある。
鞍馬の僧正が谷は牛若丸が剣術の修行をしたという伝説もあり、その剣の師匠が天狗だったというあたりから、のちの鞍馬天狗の物語が生じることとなった。また、鞍馬寺には坂上田村麻呂が奉納したと伝えられている黒漆剣があり、現在は京都国立博物館に保管されている。
実際に鞍馬に刀鍛冶がいたかどうかはわからないが、そこは俳諧だから創作でいい。
前句の「音すみて」を刀を鍛える音とする。
三十三句目。
われ三代の刀うつ鍛冶
永禄は金乏しく松の風 仙花
『初懐紙評注』には、
「永禄は其時代を云はんため也。鍛冶名人多くは貧なるもの也。仍て金乏しといへる也。前句の噂のやうにて、一句しかも明らかに聞え侍る。是等よく心を付翫味すべし。」
とある。
永禄は戦国時代のさなかで、川中島の戦い、桶狭間の戦い、永禄の変などが起きている。刀鍛冶から合戦、永禄の頃という連想で展開している。
「金(こがね)乏しく」は、名人であるが故に良い刀を作ること以外は眼中になく、金銭感覚に乏しいがため、結局は貧乏暮らしをしているということか。「松の風」という景色を添えて逃げ句にする。
三十四句目。
永禄は金乏しく松の風
近江の田植美濃に恥らん 朱絃
『初懐紙評注』には、
「只上代の体の句也。金乏しきといふより昔をいふ句也。昔は物毎簡略にて、金も乏しき事人々云伝へ侍る。美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」
とある。
前句の「永禄」を捨てて、ただ昔のことぐらいの意味とし、「金乏しく」も今みたいに経済が発達してなかった頃」ぐらいの意味とする。昔の田植えはお祭で、笛を吹き鼓を打ち、田植え歌の風流を楽しんだ。
芭蕉の時代よりは後になるが、彭城百川の『田植図』に昔の田植えの様子が伺われる。おそらく元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅で見た「奥の田植え歌」もこんなだっただろう。
芭蕉の時代でも田植えの風流は廃れていなかったのなら、永禄の昔の近江の国の田植えはさぞかし盛大だったに違いない。
「遠き夷とはちがふ成べし」という言葉には、『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。」という思想が込められている。田植えを単なる労働ではなく、村をあげてのお祭とし、風流を楽しむ所に人間らしさがあり、禽獣夷狄とは違うんだという誇りがある。
逆に言えば、今日の我々の近代的労働は禽獣夷狄に堕していると言っていいのかもしれない。禽獣夷狄とは言わないまでも「歯車」や「ロボット」だのに成り下がっているのは確かだろう。
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