2025年7月17日木曜日

  それでは切字の続き。

 第四型

 時鳥暁傘を買せけり 其角

の句は構造としては、

 時鳥(主語)は暁に傘を買わせ(述語)けり(切れ字)

で時鳥が擬人化されている。
 季題が五文字の場合は述語を考えて断定すればいいだけだから、初心者でも作りやすい形なのかもしれない。
 もちろん「けり」の強い断定に囚われる必要はなく、末尾の切字は「かな」「けり」「べし」「ぬ」形容詞の「し」などに変えても構わない。
 元が上五の格助詞の省略された形なので、季語が四文字であれば普通にそこに格助詞を補えばいい。
 下五をより強調したい場合には、下五を倒置にして上五に持ってくることもできる。


 第五型

 かきつばた畳へ水はこぼれても 其角

の句は構造としては、

 かきつばた(主語)は畳へ水がこぼれても‥‥(述語・切れ字の省略)

の形になる。変則的な形なので、表面的には切れ字のない形になる。
 この句の場合は「こぼれても」のあとの文章の省略とも取れるが、たとえば「いいもんだ」というのを補った場合、

 杜若は畳へ水はこぼれてもいいもんだ

になるが、これは、

 畳へ水はこぼれても杜若はいいもんだ

の形にして杜若を前に持ってきたというふうに考えることもできる。つまり大廻しの一種と考えて良い。基本的には倒置した上での切字の省略で、切字だけでなくその上の述語まで省略することもありうると考えればいい。

 鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨

の句は「いわしぐも」の「いわし」を「言わじ」に掛けて「告ぐべきことならず」を導き出す体で、

 鰯雲なれば人に告ぐべきことならず

の「なれば」の省略になる。この句の場合は「ず」が終止言で切字の役割を果たしているし、倒置もないので大廻しではない。

 帰花それにもしかん莚切レ 其角

 この場合も、

 帰花なれば、それにも莚切れを敷かん

であり、「敷かん」という撥ねの言葉が切字になっている。倒置はあるが大廻しではない。

 蟇誰かものいへ声かぎり 楸邨

 これも「なれば」の省略。

 ヒキガエルなれば声限り誰か物言え

の倒置で、「いへ」という命令形が終止言になり切字になる。大廻しではない。

2025年7月15日火曜日

  それでは切字の続き。

10,五つの型との関係

 第一型

 名月や畳みのうへに松の影 其角

の句は構造としては、

 明月の夜には畳の上に松の影(主語)が生じる(述語)や(切れ字)

の述語が省略した形となる。
 第一型は、
 1,頭から順番に言い下す文章に、本来末尾に来る治定の「や」だけが倒置になって、上五の下に持ってくる場合。
 2.下五全体を倒置にして上五に持ってくる場合。
 3.上五を「や」で一旦切ってから、下五に別の文章を続ける場合
の三つがある。
 1の場合は「や」を他の格助詞(「は」「に」「を」など)に置き換えても意味が通じる。

 名月や畳みのうへに松の影 其角
(名月は畳のうへに松の影を落とすや)
 
 2は上五を下五に持っていくと意味が通る。

 明行や二十七夜も三日の月 芭蕉
 (二十七夜も三日の月に明行や)

 3は「や」を他の格助詞に置き換えることもできず、かといって倒置で下五を末尾に持って行ってもつながらない。

 菜の花や月は東に日は西に 蕪村
 

 第二型
 
 越後屋に衣さく音や更衣 其角

の句は構造としては、「衣更えで越後屋に衣さく音(の響く)や」の倒置になる。
 「や」に限らず中七が終止言で切れる場合は、ほとんどの場合が下五を頭に持って来れば意味が通じることが多い。
 そのため、この第二型は「や」を「けり」「なり」「たり」「し」などに変えることができる。

 葛の葉の面見せけり今朝の霜 芭蕉
 (今朝の霜に葛の葉の面見せけり)
 撞鐘もひびくやうなり蝉の声 芭蕉
 (蝉の声に撞く鐘もひびくようなり)
 誰やらが形に似たりけさの春 芭蕉
 (今朝の春は誰やらが形に似たり)
 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
 (最上川は五月雨を集めて早し)

 ただ、この倒置は必ずしも上五に来ない場合もある。

 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規

の場合は「柿食えば法隆寺の鐘が鳴るなり」の倒置になる。


 第三型

 かまきりの尋常に死ぬ枯野かな 其角

の句は構造としては、

 枯野でかまきりは(主語)尋常に死ぬ(述語)かな(切れ字)

の倒置された形となる。この場合はゼロ型と言っても良い。
 「かな」は末尾に来ることがほとんどであるため、ゼロ型と変わらないが、主語や述語が省略される場合もある。

 春たちてまだ九日の野山かな  芭蕉

は「野山は春立てまだ九日(なる)かな」で述語が省略されている。

 なにの木の花ともしらずにほひかな 芭蕉

は匂いを放つ主語(おそらく伊勢神宮を指す)が省略されている。

2025年7月14日月曜日

  切字の続き。

 土芳の『三冊子』「くろさうし」には、

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

とある。

6,「たり」「なり」「べし」などの終止言

 基本的には「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。

7.「し」

 これは文語形容詞の語尾の「し」で、過去の「し」は切れ字にはならない。口語形容詞の「い」は連用形が同型でであるため、明確に終止形だとわかる場合以外は切れ字として機能しない。
 これも「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。
 倒置で上五に持ってくることもできるが、その場合は「おもしろし→おもしろや」のように「や」を使うことが多い。
 また倒置で形容詞を上五に持ってきた時に、語尾の「し」を省略する場合があり、この場合は「三体発句」と呼ばれる。

 あなたふと青葉若葉の日の光 芭蕉

の句はよく知られている。
 日本語の形容詞は口語では語尾が省略されることが多い。現代語でも「こわい→こわっ」「はやい→はやっ」「きもい→きもっ」という例は枚挙にいとまがないが、こうした省略は平安時代の『源氏物語』にも見られる。

8,疑問反語の言葉

 終止言ではないが「何」「いつ」「いづこ」などの疑問の言葉は通常の文では末尾にも疑問の「や」を補い、「何を言わんや」「いつ来るや」「いづこより来たらんや」の様に用いるが、この「や」を省略しても完結した文章として成立する。そのため切れ字とされてきた。

 何に此師走の市にゆくからす 芭蕉

は「何(ゆえ)にからすはこの師走の市に行く(や)」の倒置で、疑問の切字の「や」が省略されたものと考えて良い。

 いづくしぐれ傘を手にさげて帰る僧 芭蕉

の場合は「いづく時雨(や)、傘を手にさげて帰る僧」の切字の「や」の省略と考えて良い。

9,大廻し

 中世連歌の時代から切字なくても句が切れる例として「三体発句」と「大廻し」が挙げられてきた。三体発句の方は形容詞語尾で切字になる「し」の省略で説明がつく。
 また、「三体発句」「大廻し」の用語は口伝で伝わっていくうちに途中で変化していることもあり、芭蕉の師匠でもある季吟の『季吟法印俳諧秘』では、

   「第十二 大まはし発句事
 あなたうと春日のみがく玉津嶋 古句
 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣
 右三通の発句、甚深の相伝有事也。其道の堪能ならずしては、仕立やう知とも無益の事也。俳踰の罪のがるるに所なけれ共、とてももの事に愚句一句書付侍し。」(俳諧秘)

とあり、季吟には正確な伝授がなかったと思われる。
 また「或人之説 連俳十三ケ條」に、

  「大廻し之句とて、
 五月は峰の松風谷の水
 右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。
 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん
 右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)

とある。
 この句の場合は「五月は」では字足らずで書き間違えがあったのか。ここが五文字だとして、「五月や」でも意味が通じるから、「やの字をくはへてきひて書也」ということなのであろう。「や」を使うべき所を「は」としても切れるということなのだろうか。
 このあとに「や‥‥らん」の例を挙げているように、

 五月や峰の松風谷の水なるらん

の「なるらん」の省略と思われ、「や」と切るべき所を「は」とした句と思われる。

 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣

の場合は、「犬桜を見るにつけても、そのような小さな花すらさかぬ身は泣くばかり」という句で、「泣くばかり」のあと本来来るべき「なり」の省略と見て良いだろう。
 大廻しは基本的には終止言の省略と見て良いのではないかと思う。また、「大廻し」という名称は倒置の際に終止言が省略されるという意味合いがあったのではないかと思う。
 切字のない句の例としては、誰もが知る、

 目には青葉山時鳥初鰹 素堂

の句がある。これも、青葉、時鳥、初鰹すべてそれぞれ述語が省略されているが。「目に青葉」ではなくあえて字余りでも「目には青葉」とした所に、この「は」に「や」と同等の意味を持たせようとしたのではないかと思う。
 中世連歌でも梵灯の『長短抄』では、

 山はただ岩木のしづく春の雨

は大廻しで、

 あなたうと春日の磨く玉津島

は三体発句になる。
 「山はただ」の句は、「春の雨に山はただ岩木のしづく(なり)」の倒置による終止言の省略なので、おおかた大廻しは「倒置の際の終止言の省略」で合っていると思う。

2025年7月13日日曜日

 4,「かな」という切れ字

 「かな」は治定の切れ字になる。疑問を持ちつつも主観的にそれを肯定する働きを持ち、強い主観的な肯定は詠嘆にもつながる。主観性が強いという意味では「けり」や「たり」とは異なる。
 今日の標準語では「かな」は疑問には用いられるが、語尾を下げて「かなあ」としてもやはり疑問の言葉にしかならない。「かな」を治定に用いる用法は関西方言の「がな」にその名残を留めている。
 下七の末尾に用いられるのがほとんどだが、希に倒置で用いられることもある。

 乞食かな天地を着たる夏衣 其角

は「乞食は天地を夏衣に着たるかな」の倒置で、これが「乞食は天地を着たる夏衣かな」になり、例外的に係助詞のように「乞食かな天地を着たる夏衣」になる。特殊な例と言えよう。上五を「こつじきや」にすると、この「かな」の働きが係助詞的なものだというのがわかる。
 付句では、『大坂独吟集』第五百韻、鶴永独吟百韻「軽口に」の巻に

    大師講けふ九重を過越て
 匂ひけるかな真木のお違

の用例がある。「真木のお違(棚)の匂ひけるかな」の倒置で、この場合は上の言葉ごと倒置になっている。
 「かな」は治定の言葉という点では「や」に似ているので、推敲などの際には「や」と「かな」は変換して考えることができる。

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
 古池に蛙飛び込み水音かな

 木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉
 木の下や汁も鱠も散る桜

もちろん、可能というだけのことで、句を案じている時にうまくまとまらない時にはこういう操作をしてみると良いかもしれない。

5,「けり」

 「けり」は主観性が弱く客観性が強く、単に過去というよりも完了に近く、もはや取り返しのつかないというニュアンスを持っている。
 
 道の辺の木槿は馬に食はれけり 芭蕉

はそのニュアンスを生かし切っている。
 それゆえに使うのが難しく、芭蕉はあまり「けり」の字を好まず、用例も少ない。逆に近代の写生説の時代には多用された。

2025年7月7日月曜日

  おとといの切れ字の話の続き。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

 かなしまむや墨子芹焼を見ても猶 芭蕉

の場合は「墨子芹焼を見ても猶かなしまむや」の倒置であることがすぐわかる。「や」だけでなくその上の文まで倒置にする例は、特に中七に「や」を持ってくる句に多い。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 芭蕉
 (軒の栗は世の人の見付ぬ花や)
 ともかくもならでや雪のかれお花 芭蕉
 (ともかくも雪の枯れ尾花にはならでや)

 こういう倒置は他の切れ字でも頻繁に行われる。


3,「か」という切れ字

 「か」は「かな」に適うという。

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮
 木枯らしに浅間の煙吹き散るか 虚子

は「吹き散るかな」と切るべき所を字数の関係で「か」で止めている。

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音 芭蕉

 この句も山吹が散っていることに疑問を呈するのではなく、滝の音とともに山吹も散っているかのようだと、主観的に治定する「か」で字余りを気にしないなら、

 ほろほろと山吹散るかな滝の音

としても良いところだ。

 草枕犬も時雨るかよるのこゑ 芭蕉

 同じ治定の言葉に「や」もあるから、「時雨るや」でも良さそうな感じがするが、「か」の方が疑問の用法で多用されるために、疑問の強い治定、主観性を強調したい治定の場合は「か」を用いているように思える。
 稀だが、「かや」というのも用いられる。

 一里はみな花守の子孫かや 芭蕉

 これは花守の子孫だという伝承に対して、本当かどうかわからないがこの土地に敬意を評して信じておくべきだ、みたいなニュアンスが感じられる。この場合の「かや」も「かな」よりも疑いの強い治定と見て良いだろう。治定するにしても、まさかそんなことがあるのかみたいな驚きを伴う時には「かな」では弱い。
 「か」はもちろん疑問にも用いられる。

 切られたる夢はまことか蚤のあと 其角

 夢は外界の影響を受けるというのはよく言われる。戦地で弾丸の中を逃げ惑う夢を見て目が覚めたら、大粒の雨がトタン屋根をバラバラ打ち付けていた、なんて話も聞く。
 この句の場合切られた夢を見てはっと目を覚まし、切られた箇所を確認すると、そこに蚤に喰われた跡があって、「本当だったか」というわけだが、勿論ここは「本当だった」と治定するわけではない。夢は夢、幻は幻だ。
 この句の場合も「夢はまことや」としてしまうと、蚤の跡を見つけた時の驚きが伝わってこない。

 「か」は「や」と同様係助詞でも用いられるが、「や」のような助詞だけでの自在な倒置は行われない。上にくる言葉ごと倒置するのが常だ。少なくとも、

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮

の句で、

 木枯らしか二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日か月の吹き散る
 木枯らしに二日の月か吹き散る

という操作はできない。「や」であれば、

 木枯らしや二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日や月の吹き散る
 木枯らしに二日の月や吹き散る

という操作は可能だ。

2025年7月5日土曜日

  昨日の切れ字の続き。

 1,切れ字の種類

 切れ字については昔は口伝で伝えていたため、連歌論書でもあまり詳しい記述はなく、切れ字の種類を列挙した者も少ない。その少ない中に、以下のものがある。

 康応二年(1390年)の梵灯『長短抄』には以下の切れ字が挙げられている。

 「かな けり ぞ か べし や ぬ む(撥ね字)、成敗の字、す よ は けれ」

 延宝六年(1678年)の立圃編『増補はなひ草』には、

 「哉・けり・たり・めり・や・ぞ・し・じ・き・ぬ・:つ・む・か。なぞ・いさ・なに・いづく・いづこ・いづれ・いかで・など・いく・さぞ・こそ・たれ・を・もなし・もがな・はなし・下知(いでよ・何せ・まて・ふけ・みよ・こほれ・ちらせ・かすめ・め。月ニなけ・ふくな)」

などが挙げられている。疑問や命令の言葉が多く付け加えられている。
 切れ字が口伝になっていたのも、一つには文法的な用法の多様性で、一律に説明しにくい所があったからだと思われる。
 命令を示す動詞語尾はいまならeの語尾で説明できるが、当時としては「ふけ・こほれ・ちらせ・かすめ」など列挙する必要があった。これは切れ字が文法的にではなく「字」として説明されていたための煩雑さといえよう。

 基本的に切れ字は、

 終止言 助詞
     助動詞
     形容詞
     形容動詞
     動詞

 命令形 助詞
     助動詞
     動詞

 疑問符

に分けられると思う。
 終止言と命令形は大体それが述語となるが、命令形の場合は述語の省略が頻繁に起きることに注視する必要がある。口語でも、「あの人は今どこに」という場合は「いるの?」あるいは「いった?という述語が省略される。
 一番ややこしいのは終止言と疑問符の両方の役割を持つ「や」「か」で、治定や詠嘆を表す終止言として機能する時でも述語が頻繁に省略される。しかも「や」は切れ字の代表とでもいうくらい使用頻度が高い。

 なお、宗因の『俳諧無言抄』


2,「や」という切れ字

 「や」は「かな」と並んで切れ字の代表格で、「や」「かな」が多用されるのは治定という曖昧な断定が、特に主観的な感想を表すのに適していたからだと思われる。近代写生説の句のように客観的な描写が求められる際には「けり」が多用されるようになったが、芭蕉の時代ではむしろ多様を避けるように言われていた。
 古今集「仮名序」に「やまと歌は人の心を種として」とあるように、本来日本の言の葉の道は物を描写するのではなく心を述べるものだったことを考えれば、「けり」よりも主観的な「や」「かな」が用いられるのはもっともなことだった。
 『万葉集』は写生ではないかという人もいるかもしれないが、それは明治の正岡子規以降の説にすぎない。
 「や」は本来は疑問・反語の言葉だったが、語尾を上げずにむしろ下げて発音すると疑問の意味ではなく、何となく疑問を投げかけながらも肯定する微妙なニュアンスが生じる。これを昔の人は「治定」と言った。
 現代語の「か」という疑問の言葉も、「これでいいのか?」と語尾を上げれば問いかけになるが、「これでいいのかあ」と語尾を下げると、疑問がありつつも自分自身を納得させるようなニュアンスになる。ちなみに、語尾を強く「これでいいのかっ!」というと「いいわけない」という反語になる。語尾のニュアンスで意味は変わる。
 「や」も同じような働きがあった。治定の「や」は今日でも関西方言には残っている。「これでいいんやあ」というと、関東の「これでいいのかあ」と似た様なニュアンスになる。
 切れ字の「や」元は「疑問」か「治定」の意味で用いられていた。「反語」になることは滅多になう。
 芭蕉の時代が一つの境になり、芭蕉の句はほとんどこのどちらかの用法だが、それ以降今日の関西方言の「や」に近い「せや、その通りや」みたいな断定のニュアンスが強くなり、力強い主観的な治定となることが多くなる。これを詠嘆の「や」という。
 名詞に「や」が付く場合は芭蕉の時代は疑問か治定だったが、芭蕉の時代でも形容詞に「や」が付く場合は、たとえば、

 おもしろや理屈はなしに花の雲 越人

のような「や」は詠嘆と言って良い。

 今日では「や」はほとんど語尾にしか用いないが、かつては係助詞として倒置して文中で用いられることも多かった。
 係助詞は倒置によって語尾の助詞を前に持って来て強調する語法で、

 「月やあらぬ」は「月はあらぬや」の倒置
 「何をか言わん」は「何を言わんか」の倒置
 「鹿ぞ鳴くなる」は「鹿の鳴くなるぞ」の倒置
 「人こそ見えね」は「人の見えねばこそ」の倒置

 係助詞の「や」は中世の連歌の時代には「や‥‥らん」の形で付句に多用された。

   船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏(水無瀬三吟)

   まだ残る日のうち霞むかげ
 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長(水無瀬三吟)

   さ夜ふけけりな袖の秋かぜ
 露さむし月も光やかはるらん    宗長(湯山三吟)

   和歌の浦や磯がくれつつまよふ身に
 みちくるしほや人したふらん    肖柏(湯山三吟)

などの多くの用例がある。いずれも「らんや」の倒置になる。
 このような倒置を行うと、「や」の前にくる言葉が強調される。「月や‥‥残るらん」「暮れぬとや‥‥帰るらん」「光やかはるらん」「しほや‥‥したふらん」が一句の軸となる。
 「らんや」となれば、その用法は治定ではなく疑問か反語になる。そのため「や‥‥らん」も基本的には疑問か反語で事情や詠嘆にはならない。

 発句の切れ字として用いられる「や」は、このような係助詞な、強調したい言葉の前に自在に移動できるという利点をもちつつ、意味としては治定で用いられることが多くなる。
 そのため切れ字の「や」は必ずしもそこで断定して文章を終わらせているわけではない。

 芭蕉の句の中には本によって形の違う句が少なくない。それが推敲の過程にあるものであれ、編者の記憶違いによるものであれ、その中には「や」が他の助詞に置き換えられているものがかなりの数にのぼる。
 それはおそらく、こうした置き換えが作品の意味を根本的に変えるものではなかったからであろう。ここに岩波文庫の『芭蕉俳句集』から抜き出してみた。

1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』
 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)
 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』
 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』
 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』
 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』
 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』
 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』
 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』
 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』
 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』
 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』
 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』
 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』
 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)
 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』
 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』
 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』
 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)
 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』
 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 このような「や」は決して「や」でもって終止しているのではないし、切れ字「や」は本来倒置として自由に移動できるものとして認識されてたと言って良い。

 たとえばあの有名な、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

の句にしても、「や」の位置をずらしても意味が大きく変わることはない。ただ句の中のどこが強調されるかが変わるにすぎない。

 古るや池蛙飛び込む水の音
 古池や蛙飛び込む水の音
 古池に蛙や飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

 この六通りは可能になる。
 実際、「や」という切れ字は上五の中、末尾、中七の中、末尾、下五の中、末尾の六か所に自在に置くことができる。

 実にや月間口千金の通り町     芭蕉
 (実に月は間口千金の通り町や)
 木枯やたけにかくれてしづまりぬ  芭蕉
 (木枯はたけにかくれてしづまりぬや)
 琵琶行の夜や三味線の音霰     芭蕉
 (琵琶行の夜は三味線の音霰や)
 京まではまだ半空や雪の雲     芭蕉
 (京まではまだ半空の雪の雲や)
 櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ 芭蕉
 (櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜はなみだや)
 夏の月御油より出て赤坂や     芭蕉
 (夏の月は御油より出て赤坂や)

 「実にや月」は「実に月や」にもできるし、「実に月の間口や」「実に月の間口は千金や」ともできる。ただ、それは可能というだけで、どこを強調するのがベストかという所で、芭蕉は「実にや月」を選んだと言って良い。

 「や」の用法は、このように末尾に持って来てもいい「や」を強調したい場所に自在に移動させて用いることができる。
 初心の内はついつい末尾に「や」を持って来がちになるが、この移動を覚えておくと良い。

 ゼロの型、主語+述語+切れ字の形で句が出来たなら、末尾の切れ字を倒置によって上五や中七に持ってくることもできる。だが、助詞だけの倒置が可能なのは「や」だけだと思っておいてかまわない。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

2025年7月4日金曜日

  久しぶりに何か書こうということで、切れ字の話でも。

 俳句の前身となる連歌や俳諧の発句は、575の短い文章を、先に何かが続くような感じのしない、一句だけで言い切るように響くようにするにはどうすればいいか、古人が様々な工夫をするうちに、この言葉を使うと一句として切りやすいといういくつかのものを見つけ出してきた。
 それが「切れ字」と呼ばれるものとなった。
 たとえば、

 古池に蛙飛び込む水の音

だと、古池に飛び込んだ水の音が一体何なのか、それからどうなったのか、後ろに何か続くような感じが残る。これを、

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

とすると、一句として完結したような印象を受ける。
 これがなぜなのか、様々な切れ字の用例の説明を加えながら、切れ字というのがなぜ「切る」働きをするか、見て行くことにする。

 初めに少し大雑把なことを言うなら、俳句の575が一つの文章として完結するには、

 主語+述語+終止言

の形が望ましい。
 実際には主語の省略や述語の省略、終止言も省略も頻繁に起きるが、基本的にはこの形が一句として完結した印象を与える。
 例として挙げるなら、

 道の辺の木槿(主語)は馬に喰はれ(述語)けり(終止言) 芭蕉
 海暮れて鴨の声(主語)ほのかに白し(述語・終止言)  芭蕉
 春の海(主語)ひねもすのたりのたり(述語)哉(終止言) 蕪村
 鶏頭(主語)の十四五本もありぬ(述語)べし(終止言)  子規

など、これらは主語・述語・終止言が省略されずに一句になっている。
 この場合の終止言「けり」「し(文語形容詞の語尾)」「哉」「べし」はいずれも古来切れ字とされている。そのため、

 主語+述語+切れ字

と言い換えてもいい。これが本来俳句の一番基本的な型であり、二上貴夫先生の俳句の五型を語るうえでも、その基本となる型であるため、私はこれを「ゼロの型」あるいは「第ゼロ型」と呼ぶ。