2025年1月11日土曜日

 
 今日は近所の頭高山に登った。途中、水仙や蝋梅の咲いているのを見た。春も近い。

 それでは『雑談集』の続き。

 「智者仁者の山水に楽も心のうつるところにとどまれる也。是は是はと計り花の芳野山と云ひて、

 先の月みよし野の花やふしの雪   貞室
 いさのぼれ嵯峨の鮎くひに都鳥   仝

 富士角田川此二句をたしなみ琵琶を負ひ枕をかかへて身を風雲につかはれしも実深し。一生かきちらしたる短尺を買ひとりて末期の煙とせしも風雅身とともに終るならんかし。高山麋塒所持のかけものに、

 借銭の淵はうづまぬ氷かな     貞室

 少年にはみすまじき事ども也。
   極月廿七日

 いかなる折ふしにか有りけん。いと興あり。」(雑談集)

 「知者は水を楽しみ仁者は山を楽しむ」は『論語』雍也の言葉だという。「楽」の所には「子の曰」とルビがあり、論語の引用であることが示されている。
 孔子の言葉を引き合いに出して山水を楽しむ心ということを枕としながら、話題は山水の楽を愛した安原貞室へと移って行くことになる。
 貞室というと、

 これはこれはとばかり花の吉野山 貞室

の句が有名で其角はこの後の元禄七年刊『句兄弟』でこの句を冒頭に据え、

 これはこれはとばかりちるも桜哉 其角

の句を番わせている。この判の所に、

 「花満山の景を上五字に云とりて芳野山と決定したる處作者の自然ノ地を得たるにこそ俳諧の須弥山なるべし。よし野と云に対句して、ちるもさくらといへる和句也。是は是はとばかりの云下しを反転せしもの也。」

とある。この句の眼目はその湧き出てくる情を自然のままに「これはこれは」と言い下したところにあると言って良いだろう。当時は誰もが知るような有名な句だった。荷兮編元禄二年刊の『阿羅野』の冒頭を飾る句でもあった。
 ここでは其角はそれに加えて更に、

 先の月みよし野の花やふしの雪   貞室
 いさのぼれ嵯峨の鮎くひに都鳥   仝

の句を紹介する。いずれも富士山、隅田川を詠んだ旅体の句になる。
 花の吉野で見た月を今は富士の雪に見る。
 隅田川の『伊勢物語』で在原業平が「いざこととはん」と詠んだ都鳥(ユリカモメ)を見て都鳥なら都に飛んで行って俺のことを伝えてくれよというのではなく、嵯峨の桂川の鮎を食いに行って、ついでに‥‥とするところに俳諧がある。
 貞室もあちこち旅をしていたようだが、今となっては忘れ去られてしまって、その旅がどのようなものだったのかはよくわからないが、芭蕉が『奥の細道』の旅で山中温泉に来た時、その貞室の消息を聞かされたようだ。

 「あるじとする物は、久米之助とていまだ小童也。かれが父誹諧を好み、洛の貞室若輩のむかし爰に来きたりし比、風雅に辱しめられて、洛に帰りて貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の科を請ずと云ふ。今更むかし語がたりとはなりぬ。」(奥の細道)

と記している。
 ここでも、点料を取らずに俳諧を教えたという無欲な人柄が伺える。
 「一生かきちらしたる短尺を買ひとりて末期の煙とせしも風雅身とともに終るならんかし。」
というのは、自分の短冊がプレミア付きで高く売られているのを見て、自ら買い戻したというのは、今の作家でも自分のサイン本なんかがメルカリやヤフオクで売られるのは面白くない思う、それに近いものだったのだろう。自分の書は自分の作品を本当に愛してくれる人に所有してほしいということで、大切に持っていてくれる人のものは買い上げたりせず、高山麋塒所持の掛け軸はそのまま麋塒が所持していて其角も見せてもらったのだろう。

 「借銭の淵はうづまぬ氷かな     貞室

 少年にはみすまじき事ども也。
   極月廿七日」

迄がそこに記されていたもので、金に無頓着だから、十二月二十七日と暮れも押し迫っているのに、借金を返す当てはない、とこんな無様な姿を若い未来にあるものには見せられないということか。
 無欲ではあるが、傍からすると借金大王の困った人だったのかもしれない。其角も「いかなる折ふしにか有りけん。いと興あり。」というが、面白いけどどうしてそうなったか気になる、といったところか。

2025年1月10日金曜日


 今日は富士花鳥園に行った。13日で休館になるという。
 そのあと白糸の滝を見た。
 帰りはサファリパークの方を通って御殿場に出て、ほぼ富士山を一周した。
 そういうわけで、きょうは『雑談集』の方はお休み。

2025年1月9日木曜日

 それでは『雑談集』の続き。

  「於大津義仲庵
 三井寺の門たたかばやけふの月   翁

 其夜を思ひ合侍るにも名月に対して月をみるおもひ出もなく我々の口質に切字を入れて参会を紛らし侍るも本意なし。

 名月や草のいほりのあたま数    路通
 空舟の河よりあまる月見哉     仙花
 月の船けふいざ出合へ鴈の声    亀翁
 海は雲野中ににくしけふの月    普船
 名月に足のうらみる平沙哉     未陌
 けふの月縁に出たる執筆哉     遠水」

 芭蕉の句は三井寺へ行って月見をしようというもので、月を見る思いから作られている。これに対して、近頃は月見とは関係なく「口質」、つまり月にかこつけて、月見の会をするでもなくその他の景色や日常のことを適当に添えて詠んでいるというのが、ここで言おうとしていることだ。これは安易な取り合わせの弊害とも言えよう。
 路通の草の庵のあたま数は月の下で日本中のたくさんの草庵で月を見ていることだろうという、いわば他人事のような句というのが気になる所だ。「あまた庵の我もまた」とかなら良いのだろうけど。
 仙花の句もこの場合の「あまる」は空船の数を越えて人がやってくるということであろう。船が余っているのではなく人が乗り切れなくて余ってるという意味でないとよくわからない。やはりたくさんの月見を楽しむ人に対して一歩引いた斜に構えた句だ。
 亀翁の句は雁の声と張り合おうということか。どっちかというと雁の句だ。
 普船の句は海は雲がかかってるので、野中で月を待たなくてはならないのが癪に障るということか。
 未陌の句は月見にみんな船で海に乗り出すから、砂に足跡が残っているというのを、「足の裏を見る」「浦を見る」「恨み」に掛けているものの、名月を賛美する句ではなく、恨み言を言っている。
 遠水の句も句会とかでありそうなことで、句会の執筆が月を見に行って、会が中断されたというあるあるではあるし、句会の席だと勢いで受けそうな感じもするが、月の本意を踏み外している。
 芭蕉に一笑に付された、

 夕涼み疝気を起こし帰りけり    去来

の句に近い。
 名月の句は、基本的に月に誘われ、自ら月を見、月を喜び、月に嘆きといった情が基本にある。月見の周りの様子を描写するというのはちょっと違うというわけだ。 

2025年1月8日水曜日

  韓国も日本も去年の後半に急激に中国寄りに動いて、これまでバイデン政権が作って来た日韓台、それにインドを加えた南からの中国包囲網が崩壊寸前になった。
 中国の情報操作による陰謀のようなものは多少はあるだろうけど、基本的には日本の戦後思想が招いてきたことだ。
 戦後思想は簡単に言えば世界は天下統一をめぐる時代で、日本は既に敗退したから、どこが世界を統一するのか、その勝馬に乗ろうというものだ。戦後のしばらくはアメリカ追従が主流で、その一方ではソ連や中京に同調しようとする左翼がいた。特にこの反米的な人たちは、ソ連の崩壊とともに一気に中国へ流れていった。
 中国や韓国の反日感情は一朝一夕に作られたものではなく、戦後長い時間をかけて日本の左翼たちが旧日本軍の残虐さをことさら誇張して語り、歴史の捏造までして広めてきたものだった。
 反日は戦後思想に基づいて日本人が考えだし広めてきたもので、今でも高齢者に戦後思想は根強く支持されている。
 中国やロシアの脅威にしても彼らには日本を守るのではなく、いかに平和的に日本を中国に併合させるかの戦いに他ならない。プーチンと習近平が台頭してきた頃は日本で反安部闘争起し、それをマスメディアはかなり過大に誇張して伝えてきた。特に朝日新聞は2チャンネルやTwitterジャパンの中に根を下ろし、ネットでも反日工作を続けてきた。
 マスクさんが来るまでは、Twitterでは毎日のようにネットデモが行われていて、それに反対するアカウントは凍結されていった。だから、あの頃に右翼は自分たちで独自のSNSを立ち上げることを真剣に考えていた。マスクさんがTwitterを買収するまでは。
 まだ2チャンネルが健全だった頃、中国・韓国・北朝鮮・日本が一つにまとまれば最強だというようなことが言われてたが、左翼はその構想に概ね則って今日でも毎日のように中国や韓国にニュースを流してきたし、ロシアを賛美したりしてきた。
 こうした活動が去年の日本の政変と今の韓国の混乱につながり、中国包囲網はもはや崩壊寸前になり、台湾進攻の準備が整いつつある。
 おそらく水面下で彼らはこう脅してるのだろう。台湾に介入するなら沖縄などの南西諸島を攻撃すると。そして、戦後思想に毒された多くの人達が、戦争を回避するためには中国に従い、台湾を見捨てるべきだとそう考えている。それが高市さんを排除し、今の石破政権を動かしている。
 おそらく中国は台湾を併合したら、次は南西諸島は中国の固有の領土だということで、返還を要求してくるだろう。この時も、拒めば本土を攻撃すると脅せば、平和を愛する日本国民の多くは日本が戦場にならないようにするために沖縄の割譲に同意することだろう。
 そして次は日本本土だ。その時のために戦後思想の申し子達は、日本の平和的併合へと情報操作を続けている。戦争は悪だ。誰も死なないならその方がいい。国を守るために命を懸けるなんて馬鹿げたことだ。そう言い続ける。その一方で日本は相変わらず野蛮な後進国で、貧富の差が激しく、庶民は皆貧困にあえいでいて、中国が支配した方が生活が良くなるかもしれないみたいに説き伏せてくるだろう。
 日本製鉄の問題も、日本が既にいつ中国に寝返るかもしれない危険な国家として認識され始めていることの表れではないかと思う。このままだと次のトランプ政権は日本や韓国を無視して、北朝鮮やロシアとの融和を進め、北からの中国包囲網に切り替えることになるだろう。
 北朝鮮は民族自決意識が高くて中国を警戒している。北朝鮮の核兵器はアメリカの方だけを向いているのではない。またロシアとの軍事的に協力しあう条約を締結したのも、敵はアメリカだけでないはずだ。

 それでは『雑談集』の続き。たとえ日本の国境が守れないとしても、日本の文化は守らなくてはならない。

 「閑見月 更る夜の人をしづめてみる月に
        おもふくまなる松風のこゑ

 名月や畳の上に松の影      角

 難問 花影乗月上欄干 此句に思ひ合する時は畳の上の松影春秋分ならず。夏の夜の涼しき体にもかよふべきか。 答 春の月なるゆゑ花影欄干に上るとはいへり。

 おぼろとは松の黒さに月夜かな  角

 光廣卿はるの月の嵐に霞まぬ心をよませ給ひてかうもよみことはよめとも春月の本意は朧々とかすみたる体がよきなりと仰せられたり。」(雑談集)

 和歌の方は誰の歌かよくわからない。似た歌は、

 秋の夜は人をしづめてつれづれと
     かきなす琴の音にぞなきぬる
             よみ人しらず(後撰集)
 松風も空にひびきて更くる夜の
     梢に高き深山べの月
             永福門院内侍(風雅集)

がある。意味はこの二つを合わせたようなもので、人が寝静まり夜も更けていく中で聴く琴の音ならぬ松風の音が悲しい、というもの。月の夜に男の通うのを待つ女を面影だったのを、仏教の無常感に転じたといった所だろう。
 これを前書きとして、

 名月や畳の上に松の影      其角

の句が提示される。
 この句を聞くと思い出すのが、

 わが宿は四角な影を窓の月    芭蕉

の句だが、芭蕉の句は貞享元年とされているが初出は元禄九年の『芭蕉庵小文庫』、其角の方はこの『雑談集』が初出のようで、どっちが先だったか実際の所はわからない。例によってお互い張り合って作った感がする。質素な何もない部屋の四角い影で「花も紅葉もなかりけり」の寂びの境地の芭蕉、松の影を添えて華やかな幻想を誘う其角、両者の個性がにじみ出ている。
 さらに言えば、其角の句は貞徳の、

   切りたくもあり切りたくもなし
 さやかなる月をかくせる花の枝

を踏まえているとも取れる。月を遮る花の影なら迷う所だが、枝ぶりの良い松の影なら「まいっか」って気分にもなる。
 其角は総じて曖昧な句から想像を膨らますことを求める。

 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角

の句は「あれ」が何なのかあえて謎にしておいて、三井寺の鐘なのかとあれこれ想像させておいて、『猿蓑』の巻頭で、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也   芭蕉
 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角

と並ぶと、蓑笠着た猿の断腸の声を聴けというふうにカチッとはまることになる。

 まんじゅうで人を尋ねよ山桜   其角

の句も、最初の作為はわからないが、この句をみちのくに旅立つ桃隣に餞別として送ったということになると、まんじゅうで尋ねる人が芭蕉さんのことだと、これもカチッとはまってしまう。これが其角一流のテクニックだ。
 だから、この名月やの句もそのあとの問答を通じて、何かにカチッとはめようとしてやってる感じがして、前から温めて置いたこの句を一気に引き立てようとしたのではないかと思う。
 難問は今日の意味での難しい問題ではなく、「難じて問う」であろう。

 「花影乗月上欄干 此句に思ひ合する時は畳の上の松影春秋分ならず。夏の夜の涼しき体にもかよふべきか。」

 花影乗月上欄干は、

   夜直       王安石
 金炉香尽漏声残 剪剪軽風陣陣寒
 春色悩人眠不得 月移花影上欄干

ではないかと言われている。花の影ではなくここでは松の影なので、松影の句が春とも秋ともつかないなんてのは今時のネットのDQNもやらないような言いがかりだし、自作自演の可能性がある。
 名月とある以上秋の句なのは明白だ。その情は、先のあの和歌で示したということだろう。

 「答 春の月なるゆゑ花影欄干に上るとはいへり。」

 王安石の詩なら、はっきりと春の字が書かれているし、それは疑いようもない。
 ただ、この問答をすることで、さりげなく其角のこの句が立派な中国の宮殿の欄干に映る花の影にも比すべきものだというのをアピールできる。実際、この松の影が畳と書いていあるのに、欄干に映る影を見たとする解釈もある。
 作者としてはそんなのどっちでもいいんだろう。中国の宮殿の華やかな欄干を想像しようが、長屋の畳を想像しようが、その人の趣味嗜好にカチッとはまってくれればこの句は其角にとっては成功ということになる。この変幻自在さが其角の句の味わいでもある。
 芭蕉は良いにつけ悪いにつけ、句の意味は芭蕉個人の人生というか生き様に深く結びついている。其角の句にはそれがない。「伊達を好んで細し」というのは、要は粋なかっこいい言葉を生み出すことが大事だったということだ。
 この問答のあとに付け加えた、

 おぼろとは松の黒さに月夜かな 其角

の句は、「花影欄干に上る」の興だとこういう句になるという一つの見本であろう。名月は仲秋限定だが「月夜」なら「おぼろ」と組み合わせることで春の句することができる。季語は「朧月夜」ということになる。季重なりではなく、朧月夜という季語を朧と月夜に分散させと考えた方がいい。
 光廣卿は烏丸光弘で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「烏丸光広」の意味・読み・例文・類語」に、

 「江戸初期の公卿、歌人。権大納言。姓藤原。法名泰翁。細川幽斎の門に入って古今伝授を受け、一糸和尚に参禅。歌道、歌学の復興に努める。主著「耳底記」、家集「黄葉集」など。仮名草子「目覚し草」などの作者ともいわれる。天正七~寛永一五年(一五七九‐一六三八)」

とある。嵐に霞まぬ春の月を詠んだ歌があったのだろう。ただそれは本来霞むべき月が霞まないという所に新たな情を込めただけで、春の月は朧に霞むのを本意とする。
 烏丸光弘ではないが、中世にも既に、

 嵐ふく花は今年も春の夢
     見はてん月にきゆる白雲
              正徹

の歌があり、嵐に花が散り、月の霞も吹き飛ばされれば春も終わって行く。霞まぬ春の月も春の終わりの情なら有りだろう。

2025年1月7日火曜日

 今日は七草の日なので、このAI俳画を。

 では『雑談集』の続き。

 「双六な世のさいたんやあふ目出た

など聞くもうとましき堀句する世には何にたとへんと思ひ定めし死活の境未来記なり。

 歳旦を我も我もといたしけり   春澄
 皆人は蛍を火しやといはれけり  仝

と自暴自棄の見におちて云ふべき句も放散し、人の句も心にいらで朽廃れにけるはいかに。松のはのちり正木のかつらなどたとへ置かれし聖作にそむける俳諧の罪人これらなるべし。
 かくいへば名利の境に落ち侍れどもたたともか名のとどまるにつけても俳諧の信おこたるべからず。」(雑談集)

 歳旦の句は俳諧師たちがこぞって毎年歳旦帖を出すため、それを十年二十年続けるとなるとネタ切れになるのも仕方ない。『三冊子』にも、

 「としの松、年の何、などゝ近年は歳旦に用る事あり。いかゞとたづね侍れば、師のいはく、達人のわざにあらず、論に不及と也。
 去年今年春季也。當年といふ事も季に心をなさば成べしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

というように、ネタに困ってか何でも「年の」を付けて無理やり歳旦にするようなこともあったのだろう。「論に不及」つまり論外だということ。
 双六の句の作者はここには書いてないが、「さいたん」とひらがなで書くときは大抵掛詞というか駄洒落で、「歳旦」と「サイコロ」を掛けているのだろう。サイコロだから「合う目」が出た、「目出度い」というわけだ。
 「堀句」は「発句」をもじって、墓穴を掘ったような句という揶揄を込めての当て字だろうか。
 「死活の境」は囲碁用語で、生きてるのかどうかも怪しい、発句と言えるかどうかの境目という所だろうか。
 「未来記」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「未来記」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 未来の出来事を予言もしくは空想して書いた書物。聖徳太子に仮託されたものが名高く、終末論的な内容のものが多い。
  [初出の実例]「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」(出典:平家物語(13C前)八)
  ② 転じて、予言。
  [初出の実例]「以前の搦手をからめ返し、せばめし者を随ゆべしとの未来記を、遂給ふ者也」(出典:ぎやどぺかどる(1599)上)
  ③ ( [ 二 ]から転じて ) 和歌・連歌などで、表現や趣向をこらしすぎて不自然になったものをいう。
  [初出の実例]「首尾のかけあはぬ事のみ体に成侍べしと、戒め給ふ、未来記と申也」(出典:砌塵抄(1455頃))」

とある。この場合は③の意味。
 春澄の歳旦と蛍の二句も自暴自棄、いわば「やけくそ」というやつで、ネタがない所でそれでもどうしても作らねばと苦し紛れで捻り出した感がある。
 確かに俳諧師はみんな歳旦帖を出すから、「我も我も」ではある。まあ、春澄さんもその一人だが。
 蛍の句の方は「火しや」は火車のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「火車」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 仏語。火の燃えている車。生前、悪事を犯した罪人を乗せて地獄に運ぶという。また、地獄で罪人を乗せて責める火の車。」

とある。
 蛍は身を焦す恋心などにもよく喩えられるが、そういう煩悩の火という意味で「火しや」ということか。自分の心を喩えるならまだしも、いかにも他人事のように言うのが何とも言えない。
 「松のはのちり正木のかつら」は

 をしほやまゆふしも白き松の葉の
     ちりも幾夜の年つもるらむ
             行能(夫木抄)
 松に這ふ正木のかつら散りにけり
     とやまの秋は風すさぶらむ
             西行法師(新古今集)

だろうか。松の葉の散るは塵、つまり煩悩の積ると掛詞になり、それを西行はさらに松に絡みついた正木かづらの煩悩の散る=塵に掛けて、無情の秋風に仏の救いを求める寓意を持たせている。「聖作」は御製の意味もあるが、ここでは神のような作品ということで、今でいう神に近い言い回しということでいいのだろう。
 こうした古人の高度な掛詞の技法を、双六の目の目出たいなどといういかにも俗っぽい、いわゆる駄洒落にしてしまってるのは、いくら俳諧が笑いを追求するものだとは言っても、ちょっと違う。「聖作にそむける俳諧の罪人」というわけだ。
 「ば名利の境に落ち侍れども」というのは俳諧師としてのルーティンを優先させてということなのだろう。とはいえ、結局駄作をばら撒けばその名も落すことになりそうなものだが。「たたともか名のとどまる」はよくわからない。名を留めるということか。
 「俳諧の信」は「俳諧のまこと」であろう。それに反するということだ。これは春澄のことだけでなく、その前の忠知の素行の悪さも含めてのことであろう。

2025年1月6日月曜日

 今年は蛇年ということでAI俳画で貞徳の句。

 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな    松永貞徳

 貞門の時代は俳号ではなく名字と名乗りで記すことが多かった。『佐夜中山集』では、芭蕉は松尾宗房、これから『雑談集』に出て来る忠知も神野忠知と表記されている。

  では『雑談集』の続き。

 「家を売りたるふち瀬にとは盛衰の至誠をよまれたり。負物いたく成りぬれば風雅なりとて主人ゆるさず。されば白炭と聞えし忠知が、

 霜月やあるはなき身の影法師

と辞世して腹切りける。いかにせまりたる浮世にはなりけん哀れなり。かの佐木をさへ忠知が子なりといへば人も憐み見かはしけり。五十年来の俳諧の正風をそえいれるもの獨なり。

 元日や何にたとへん朝ぼらけ    忠知」(雑談集)

 忠知は神野忠知でコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神野忠知」の解説」に、

 「1625-1676 江戸時代前期の俳人。
 寛永2年生まれ。江戸の人。井坂(井上)春清(しゅんせい)の門人。「白炭ややかぬむかしの雪の枝」の句により白炭の忠知とよばれた。延宝4年11月27日自刃(じじん)したという。52歳。通称は長三郎,長右衛門。号は沾木子(せんぼくし)。」

とある。
 竹内玄玄一の『俳家奇人談』(1816年刊)にも、

 「神野忠知は江戸の人、俗称長三郎、承応の頃、井坂春清が俳諧をまなぶ。

 元日や何にたとへん朝ぼらけ
 何心つかぬに土手の菫かな

 また、

 白炭ややかぬ昔の雪の枝

 この秀詠より白炭の忠知と嘆美せらる。其角が雑談集に曰く、白炭を聞えし忠知が、

 霜月やあるはなき身の影法師

と、辞世して腹切りける。いかに浮世とは言ひながら哀れなりと。」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』竹内玄玄一著、雲英末雄校注、1987,岩波文庫p.53)

とある。
 白炭の句で一世を風靡したようだが、その後忘れ去られてしまったか、『俳家奇人談』も其角の情報をなぞってるだけだ。雑談集に「家を売りたる」「負物いたく成りぬれば」とあることから、借金をこさえて家を売り払って、「主人ゆるさず」は勘当されたということか。
 いかに俳諧の才能があっても私生活がだらしなければ身が持たないという戒めなのだろう。
 白炭は風虎主催、任口、季吟、維舟判の延宝五年(一六七七年)『六百番俳諧発句合』も、

 白炭や彼うら島が老のはこ     桃青

の句を詠んでいる。黒く焼いた炭に灰をかけて表面を白したもので、

 白炭ややかぬ昔の雪の枝      忠知

の句も、古くなって使い古され黒ずんだ杖に雪がかかって、まるで白炭みたいだというもの。「やかぬ昔の雪の杖は白炭や」の倒置。松江重頼編寛文4年(1664)刊の『佐夜中山集』にある。
 菫の句は荷兮編元禄二年刊の『阿羅野』に、

   暮春
 何の気もつかぬに土手の菫哉   忠知

とある。貞享二年春の、

 山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

の句に先行する句ということもあって再評価され、ここに掲載されたか。

2025年1月5日日曜日

 一年の始まりということで、今日は縁起の良い富士山の写真から。
 これは今日震生湖まで散歩した時の写真。大分雲が多い。

 それでは久しぶりに『雑談集』の続き。

 「鏡を形見といへる重高の歌にや装束つくろひて鏡の間にむかへるに

 親に似ぬ姿ながらもこてふ哉 寶生 沾蓬」(雑談集)

 重高は不明。鏡と形見を掛けた歌は古来数多くある。

 おもひいでむ形見にもみよます鏡
     かはらぬ影はとどまらずとも
             惟明親王(続後撰集)
 ます鏡うつりしものをとばかりに
     とまらぬ影も形見なりけり
             行能(続拾遺集)
 ありし世の形見も悲します鏡
     うきにはかはる面影もがな
             少将内侍(文保百首)

など。
 句の作者に寶生とあるから宝生流の者であろう。公益社団法人宝生会のホームページによると、八代宝生大夫の重友の所に、

「重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。
 古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。
 熱心な法華経の信者であったとも伝えられています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。
 なお重友の三男の重世(しげよ)は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。」

とあるから、重高も沾蓬も、後に『続猿蓑』を編纂することになる沾圃や、その義理の父の野々口立圃などと近しい間柄だったのだろう。
 句の「こてふ」はおそらく謡曲『胡蝶』のことで、親の形見の鏡の前で蝶の精の舞をしてみたが、親にはとても及ばない、それでも一生懸命頑張っている、と言った所か。
 この内容からすると沾蓬は宝生重友の親族に重高というのがいて、その息子だったのかもしれない。
 宝生重友は貞享2年に亡くなっていて、『雑談集』の頃の其角の記憶にも残っていることだろう。重友には友春と重賢(しげかた)がいて、九代宝生大夫を継いだのは友春の方だった。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宝生友春」の解説」に、

 「1654-1728 江戸時代前期-中期の能役者シテ方。
承応(じょうおう)3年生まれ。宝生重友(しげとも)の子。父の跡をつぎ,宝生流9代となる。将軍徳川綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継・吉宗(よしむね)につかえた。金沢藩主前田綱紀(つなのり)の愛顧をうけて加賀宝生流の基礎をつくった。享保(きょうほう)13年8月8日死去。75歳。通称は九郎,将監。」

とある。
 重賢の方はウィキペディアに、

 「観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年) - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。
 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳でその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳で死去した。」

 ウィキペディアの「観世流」の方には、

 「12.左門重賢
 1658年〜1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。」

とある。引退の年はウィキペディアの観世重賢の所に、

 「ところがそれを見届けるや同年5月19日、重賢は病気を理由に幕府に隠居願を出し、在任4年にして観世大夫の座を織部に譲ってしまう。
 29歳という若さでの隠居は異例であり、その原因がさまざまに推測されている。重賢が当時病を患っていたことは事実らしいが、とはいえ隠居の必要までは感じられない[13]。宝暦10年(1760年)に著された『秦曲正名閟伝』は(養子ゆえの)周囲からの孤立が隠居の要因であると示唆し、また『素謡世々之蹟』は重賢自身の宮仕えを嫌う気ままな性格に原因を求めている。能楽研究者の表章はこれらに加え、上述したような綱吉政権下における能界の混乱に嫌気が差したことが大きな理由だったのではないかと推測している。」

とあるが、前年の父の死が影響している可能性は十分ある。
 この二人とは別に、宝生会のホームページによると、重友には友春と重賢の他に三男の重世(しげよ)がいて、これが沾圃だという。ここで沾蓬と沾圃の名前が似ているのが気になではなかったか。
 一つの推測だが、重高は重友の間違いで、沾蓬は沾圃ではなかったか。高と友は草書だと似てなくもない。(ただし、早稲田大学図書本、京都大学附属図書館所蔵本はともに楷書で「高」と書かれている。間違いだとすれば原稿か版本の清書の段階で間違えたことになる。)
 また、沾蓬が沾圃とは別人ならば、隠居した重賢の可能性もある。いずれにせよ、父のように上手く胡蝶を舞えない所に負い目を感じて詠んだ句に思われる。
 胡蝶は荘子の『胡蝶の夢』を題材にした能で、生まれ変わりの意味がある。父の生まれ変わりにはなれなかったという嘆きをこの句に込めたように感じられてならない。
 沾蓬は『雑談集』に、

 はつ茸のうらより朽る日蔭かな   沾蓬

の句がある他、

 黒塚の誠こもれり雪をんな     其角
   蹴あげ目にたつ白革の足袋   沾蓬

に始まる両吟歌仙を巻いている。
 また、元禄7年春の芭蕉同座の興行で、

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風
   柳もすさる岸の刈株      芭蕉
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

に始まる半歌仙に参加している。
 同じ頃「八九間」の巻では沾圃と同座している。