2022年12月8日木曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「莫嗔野店無肴核薄酒堪沽豆莢肥と周南峯が句を感す
 足あぶる亭主にきけば新酒かな  晋子
 馬夫の手に火を抓みけり秋の霜  尺草
 山つづき日の出の虹や引板の綱  亀翁

   初瀬 三輪 在原寺
 櫨みる公家の子達ぞはつせやま  晋子
 二もとの杉や根ばかり葛の色   キ翁
 はせこもり夜の錦やわかし酒   横几
 此紅葉かき残しけり長谷の絵図  尺草

   大和柿とて主よりもてなす
 泊瀬めに柿のしふさを忍びけり  晋子
 紅葉から初瀬の下モやそばの花  松翁」

  莫嗔野店無肴核薄酒堪沽豆莢肥と周南峯が句を感す
 足あぶる亭主にきけば新酒かな  晋子

 前書きは『聯珠詩格』巻五「用莫嗔字格」の、

   宿禾村      周南峰
 山雨初収涼思微 樹林陰翳逗斜暉
 莫嗔野店無肴核 薄酒堪沽豆莢肥

による。
 返り点と送り仮名がふってあるので、

 山雨初テ収テ涼思微ナリ 樹林陰翳シテ斜暉ヲ逗ス(逗字老)
 嗔莫コト野店肴核無ヲ 薄酒沽ニ堪テ豆莢肥タリ(客途即景之真味)

となる。(早稲田大学図書館による)
 『聯珠詩格』はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「聯珠詩格」の解説に、

 「中国,元の作詩法の書。于済の著。蔡正孫が増補。 20巻。大徳4 (1300) 年成立。初学者のために七言絶句の作り方を実際的に示したもの。中国で失われ,朝鮮,日本に伝わって読まれた。」

とある。
 おそらく奥津宿で一泊した時の句であろう。そこでは薄い酒に豆のような簡単な肴しかなく、寒くて足をあっためていた亭主に聞いてみると、新酒だというのでとりあえずは満足した。周南峯の詩を思い起こせば、これもまた風流。
 
 馬夫の手に火を抓みけり秋の霜  尺草

 次の日の九月十四日の朝はかなり冷えて霜が降りていたのだろう。
 馬に乗って出発するが、その馬夫の手には松明が握られていた。それで少し手を温めさせてもらったのだろう。

 山つづき日の出の虹や引板の綱  亀翁

 奥津は山の中で、これからまた山を越えて行く旅になる。
 引板はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「引板」の解説」に、

 「〘名〙 (「ひきいた(引板)」の変化した語) 田や畑に張りわたして鳥などを追うためのしかけ。細い竹の管を板にぶらさげ、引けば鳴るようにしかけたもの。鳴子(なるこ)。おどろかし。また、流れ落ちる水に板をあてて、音を鳴りひびかせる装置もいう。《季・秋》
  ※源氏(1001‐14頃)夕霧「鹿は〈略〉山田のひたにも驚かず」

とある。
 日の出には明け方の雨が上がったのか虹が出ていて、あちこちに引板の綱が張り巡らされているのが見える。それだけ猪や鹿が多いのだろう。

   初瀬 三輪 在原寺
 櫨みる公家の子達ぞはつせやま  晋子

 櫨はハゼだが、それだと字足らずになる。箱根の所では「もみぢ」かと思ったが「はにし」というハゼの古い呼び方もある。楓と並んで紅葉が美しい。王朝時代の公家の子息が訪ねて来るなら、ここ初瀬山しかないだろう。

 二もとの杉や根ばかり葛の色   キ翁

 長谷寺には二本杉がある。根の所で繋がっている。『源氏物語』玉鬘巻にも、

 二本の杉のたちどを尋ねずは
     古川野辺に君を見ましや

の歌がある。
 その二本の根を更に、絡みつく葛の黄色く色づいた葉が覆っている。

 はせこもり夜の錦やわかし酒   横几

 長谷寺の宿坊に泊まったのだろう。昼は櫨や楓の紅葉を見て、夜は熱燗で顔が紅葉色。

 此紅葉かき残しけり長谷の絵図  尺草

 長谷寺は絵にもよく描かれるが、桜や牡丹は有名だが紅葉はあまり描かれていない。

   大和柿とて主よりもてなす
 泊瀬めに柿のしぶさを忍びけり  晋子

 大和柿は御所柿とも言い、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御所柿・五所柿」の解説」に、

 「〘名〙 カキの一品種。甘柿で果実はやや扁平な球形で、種子はほとんどない。奈良県御所(ごせ)市の原産といわれ、古くから栽植されている。近畿地方や岐阜・山梨県に多い。大和柿。紅柿。
  ※寒川入道筆記(1613頃)愚痴文盲者口状之事「しぶがきなどをきりてつげば、御所柿にもなる」 〔和漢三才図会(1712)〕」

とある。木練(こねり)とも言い、木になっている時から甘い。
 こんなに大和柿が甘いなら、初瀬女ももっと甘い顔をしてくれれが良いのに。
 これより五日後、芭蕉の大阪での九月十九日の興行「秋もはや」の巻十一句目にも、

   住ゐに過る湯どの雪隠
 木の下で直に木練を振まはれ   其柳

の句がある。

 紅葉から初瀬の下モやそばの花  松翁

 翌朝、十五日の朝だろう。初瀬の山を下りると蕎麦畑が広がっている。

2022年12月7日水曜日

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「廿三日伊勢ヨリ長谷路へ出候
   田丸ヨリ檜ノ牧迄重山嶮岨ヲ越ス
   風景時としてうつりかはる尤奇絶の地也
 山畑の芋ほるあとに伏猪かな   晋子
 しぶ柿のいつまで枝の住ゐかな  キ翁
 焼栗や灰ふきたつる山おろし   尺草
 こなし屋に子共等寒し稲むしろ  横几
 かけわたす小屋別なり新たばこ  キ翁
 霧はれて糠やく畑のけぶりかな  岩翁
 川芎の香に流るるや谷の水    晋子
 一ツをばあくらかかするかかし哉 キ翁」

 九月二十三日に、伊勢から長谷へ向かう。
 田丸は今の玉城町で、伊勢から宮川を渡り、西へ行った所にJR参宮線の田丸駅がある。伊勢本街道になる。
 檜ノ牧は榛原檜牧であろう。今の宇陀市になる。
 伊勢本街道は今の国道368号線422号線369号線に受け継がれている道で、飼坂峠を越えて伊勢奥津(奥津宿)へ出て、石割峠を越えて榛原へ抜ける。この間は終始深い山の中を通る。

 山畑の芋ほるあとに伏猪かな   晋子

 山の中では猪の姿を見ることもあっただろう。収穫した後の里芋畑何かにも、我が物顔で猪が寝てたりする。

 しぶ柿のいつまで枝の住ゐかな  キ翁

 渋柿が収穫されないままいつまでも枝に残っている。

 焼栗や灰ふきたつる山おろし   尺草

 宿場の茶屋で焼栗を売っていたが、山から吹き下ろす風がひどくて、近づくと灰まみれになりそうだ。

 こなし屋に子共等寒し稲むしろ  横几

 こなし屋はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「熟部屋」の解説」に、

 「〘名〙 穀物を脱穀、精製したりする作業所。こなし屋。こなし小屋。秋小屋。
  ※開化の入口(1873‐74)〈横河秋濤〉上「茅葺の門長屋、広庭の植ごみ、こなし部屋から牛部屋の景況」

とある。大きな唐臼が何台も並ぶ大規模なものもあるが、粉塵が飛ぶため火気厳禁になっている。粉塵爆発の危険があるからだ。
 そのため子供たちは寒くて稲筵を体に巻いている。

 かけわたす小屋別なり新たばこ  キ翁

 煙草は夏に収穫して乾燥させ、秋に新たばこになる。他の収穫物とは分けて特別な小屋が作られていたか。

 霧はれて糠やく畑のけぶりかな  岩翁

 山の中の霧は晴れても煙が残っていると思ったら、畑で糠を燃やしていた。ここでは籾殻のことか。

 川芎の香に流るるや谷の水    晋子

 川芎(せんきゅう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「川芎」の解説」に、

 「〘名〙 セリ科の多年草。中国原産で、薬用植物として栽培される。高さ三〇~六〇センチメートル。葉は二回三出の羽状複葉で各小葉には鋭い鋸歯(きょし)がある。茎葉は根生葉と同様に有柄で、葉柄の基部は幅広い鞘となってゆるく茎を抱く。秋、茎の先端に複散形花序をつけ、それぞれの枝の先に白い小さな五弁花を球状に密生する。根茎を頭痛、鎮静薬に用いる。中国四川省産の品が優れていたため四川芎藭を略して呼んだもの。漢名、芎藭。おんなかずら。女草。《季・秋》
  ※桂川地蔵記(1416頃)上「薬種〈略〉陳皮、川芎」

とある。秋の季語になる。

 一ツをばあぐらかかするかかし哉 キ翁

 案山子というと一本足で立っているイメージだが、一つだけ胡坐をかいている案山子がある、と思ったら作業をしている人だった。

2022年12月6日火曜日

 ワールドカップはPKまで行って負けてしまった。でも強豪クロアチア相手に互角の勝負ができたのは大きな収穫だった。こうなったらクロアチアに優勝してほしいね。
 PKで決めるのは残酷だから、何か別の方法がないかと思って、フェアプレーポイントで決めたらどうかと思ったが、そうなると審判の命がいくつあっても足りないので没。
 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「廿一日 二見朝熊
 いく秋をへん汐垢離は歯の薬  岩翁
 ひややかに汐こすみちや石と岩 キ翁
 岩のうへに神風寒し花薄    晋子
 汐こりや蜑の身を干す芋畠   横几
 あき風や波を浴たる一拝み   松翁
 蜑の子に游まけたりきりの海  尺草

   御師の家子あないにつく
 浜荻に足ふみこまん酔こころ  岩翁
 もみぢして朝熊の柘と云れけり 晋子
 奥しれぬ坂の便や落葉の色   キ翁
 風切に紅葉つむ也あさまやま  横几

   宮河の上に酒送りせらる
 色かへぬ松に柳のわたしかな  岩翁

   此花を肴にめでてと云れて
 根を石にこれは河原の野菊かな 亀翁
 重箱に花なき時の野菊かな   晋子
 角ト石をひろひのこせし野菊哉 尺草」

 九月二十一日は二見ヶ浦に行って、朝熊山に登った。

 いく秋をへん汐垢離は歯の薬  岩翁

 五十鈴川の垢離とはまた違い、二見ヶ浦では海水で潮垢離をする。
 塩で歯を磨くと虫歯予防になるとされていた。

 ひややかに汐こすみちや石と岩 キ翁

これはほぼ見たまんまと言って良いだろう。

 岩のうへに神風寒し花薄    晋子

 海岸の岩の上の風に靡く薄は、伊勢だから神風に靡く薄になる。海から吹く風は冷たい。

 汐こりや蜑の身を干す芋畠   横几

 潮垢離で塩水を浴びると海士になったような気分で、芋畑で体を乾かす。

 あき風や波を浴たる一拝み   松翁

 秋風といっても其角の句にあるように、晩秋ということもあってかなり冷たい風だったのだろう。波を浴びて体もすっかり冷えて、二見ヶ浦も一拝みして早々に引き上げたのだろう。

 蜑の子に游まけたりきりの海  尺草

 二見ヶ浦は冬の空気の澄み切った時だったら富士山が見えるが、この日は霧で何も見えなかったか。付近では海士の子が遊んでたが、余所の者大人としては寒くて遊ぶどころではなかった。

   御師の家子あないにつく
 浜荻に足ふみこまん酔こころ  岩翁

 二見ヶ浦があまり寒かったのか、一杯やって暖まって朝熊山に向かったのだろう。御師の子供に案内されながら、酔っ払って浜荻の中に迷い込んだりしながら朝熊山に登って行く。
 伊勢の浜荻は難波の葦。

 もみぢして朝熊の柘と云れけり 晋子

 朝熊黄楊(あさまつげ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「朝熊黄楊」の解説」に、

 「〘名〙 (三重県朝熊(あさま)山のものが有名なところから) 植物「つげ(黄楊)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕」

とある。ツゲは若葉の頃は黄色くなるが常緑樹なので紅葉はしない。
 ただよく知らないと、紅葉で黄色くなったのがツゲだと言われてしまいそうだ。

 奥しれぬ坂の便や落葉の色   キ翁

 朝熊山金剛證寺までは稜線の道が延々と続く。九月の中旬ともなると落葉道になる。

 風切に紅葉つむ也あさまやま  横几

 風切(かざきり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「風切」の解説」に、

 「① =かざきりばね(風切羽)
  ※大智度論天安二年点(858)六二「六つの翮(カサキリ)成就しぬるときに、則ち能く遠く飛ぶべし」
  ② 船の上に立てて、風の方向を見る旗。風見(かざみ)。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ③ 桟瓦(さんがわら)葺きの切妻屋根で、螻羽(けらば)に近く、棟から軒まで葺き下ろした丸瓦。風切瓦。風切丸。〔日本建築辞彙(1906)〕」

とある。
 この日はやはり風が強かったか、風で落葉は掃き寄せられてうず高くなっているので風向きがわかる。

   宮河の上に酒送りせらる
 色かへぬ松に柳のわたしかな  岩翁

 宮川は伊勢神宮外宮の西側を流れる川で、この河原でまた酒を飲んだのだろうか。
 伊勢を出る日が二十三日になっているから、二十二日はここで宴会をやったのかもしれない。
 常緑の松の木に対して河原の柳の木は葉が散って川に落ちて、宮川の渡し舟のようだ。

   此花を肴にめでてと云れて
 根を石にこれは河原の野菊かな 亀翁

 これも宮川の河原だろう。野菊の花が咲いていて、これを肴に酒を飲めと言われた。河原の菊だから石の上に生えている。

 重箱に花なき時の野菊かな   晋子

 重陽の節句の重箱には、このころから食用菊が用いられるようになったのだろう。さすがに野菊は食べられない。

 角ト石をひろひのこせし野菊哉 尺草

 野菊は丸い石の上には生えるが角ばった石には生えないということか、よくわからない。

2022年12月5日月曜日

 談林十百韻の第九百韻「革足袋の巻」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それと訂正だが、八十五句目、

   乗物出しあとの追風
 腹切やきのふはけふの峰の雪   在色

としてたのは「峰の雲」の間違いだった。
 雲は魂に通じるもので、古代の中国語では音が似ていた。しばしば雲は死者の霊の喩えとして用いられる。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「津の泊を出
 伊勢道や往来の恩賤が秋    松翁
 世の秋や女の旅も伊勢こころ  キ翁
 いせ路かな秋の日しらぬ気を童 尺草

   雲津川にて
 はなすすき祭主の輿を送りけり 晋子

   外宮 近く拝まれ給へば
 日は晴て古殿はきりの鏡哉   同
 新藁の畚清めたり御白石    岩翁
 わたらへの秋や穂をつむ子等館 尺草
 唇のいろうそ寒し宮からす   亀翁
 能キ時や御供いただくことし米 松翁

   内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す
 身のあきや赤子もまいる神路山 晋子
 また参る露の枝折や杉の札   横几

   廿日 於福井藤兵衛大夫御師家
    御神楽 謹上再拝
 神の秋七十わかしいもと神子  岩翁
 四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁
 秋ふかしみこの足とり鶴のこゑ 尺草
 さかき葉の露にかかるや山廻り 横几
 烏帽子ふる秋の調や小手つづみ 松翁
 太々や小判ならべて菊の花   晋子」

 十七日の朝未明に桑名を発つと、三里ほどで四日市宿に付き、その少し先の日永の追分で伊勢街道に入ることになる。津宿までがほぼ十里で一日の行程になる。それからすると「津の泊を出」は十八日ということになる。
 ここから先は上方方面から来る人達が加わり、伊勢街道は賑わいを増す。津から伊勢神宮までは一日の行程になる。

   津の泊を出
 伊勢道や往来の恩賤が秋    松翁

 伊勢の賑わいに貧しい人たちも恩恵を受けている。

 世の秋や女の旅も伊勢こころ  キ翁

 女性の伊勢参りというと『奥の細道』の市振の遊女も思い起こされるが、当時は珍しくなかったのだろう。元禄九年の支考の『梟日記』の旅でも周防国と長門国との境に近い山中で、

 「次の日此山中を通るに、めの童共の伊勢詣するに逢ふ。首途も此あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき我いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび入て何がしがかたに文つかはす。その奥に此童ア共もに茶漬喰せ給へ、柹本のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、
 姬百合の情は露の一字かな」

と記している。

 いせ路かな秋の日しらぬ気を童 尺草

 これも支考が目撃したような「めの童」であろう。箸が転げてもおかしい年ごろの娘たちの集団はかしましく、この世の春という感じで今が秋とは思えない。

   雲津川にて
 はなすすき祭主の輿を送りけり 晋子

 雲津川は雲出川で、松坂の北を流れている。午前中には越える所だろう。
 伊勢の祭主はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「祭主」の解説」に、

 「伊勢(いせ)の神宮に仕える祀職(ししょく)名の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代(おおみてしろ)として、皇族または皇族であった者のなかから選ばれる。現在の神宮祭主は池田厚子である。この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主に任ぜられたのに始まるという(『倭姫(やまとひめ)命世記』ほか)。初めは伊勢への幣使をいった(「大神宮式」)が、のちに中臣(なかとみ)氏を選んで祭主とし、朝廷と神宮との仲執(なかと)り持ちの役をさせた。後奈良(ごなら)天皇(在位1526~57)以降は、中臣氏のなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、1871年(明治4)の神宮改正後は、皇族祭主の制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主の語は、早く『日本書紀』の「崇神(すじん)紀」7年8月の条にみえ、そこでは祭りの主(かんぬし)(または「つかさ」)と読む。[沼部春友]」

とある。
 この時の祭主は藤波景忠で、ウィキペディアに、

 「正保4年(1647年)、神宮祭主藤波友忠の子として生まれる。万治4年(1661年)2月、15歳で叙爵され、同年3月には祭主となる。順調に昇叙して延宝6年(1678年)には従三位まで昇ったが、天和4年(1684年)2月9日、鷁退して正四位下まで下った。2日後の11日には昇殿を許され、貞享2年(1685年)になって従三位に復し、公卿に列せられた。正徳4年(1714年)に子の徳忠に祭主職を譲った。享保12年(1727年)、81歳で薨去した。」

とある。
 花薄が靡いている姿を敬いひれ伏す姿に見立てて、その中をたまたま祭主の輿が通るのを目にすることができたか。

   外宮 近く拝まれ給へば
 日は晴て古殿はきりの鏡哉   晋子

 伊勢神宮参拝は翌日の九月十九日のことであろう。十八日到着した日に参拝したなら、『野ざらし紀行』のように夜の参拝になって千歳の杉を抱きしめる所だ。ここには「日が晴て」とあるから、着いた翌日の参拝になる。
 朝霧の中に朝日が差し込んで白く輝けば、御神体の鏡のようだ。

 新藁の畚清めたり御白石    岩翁

 畚はここでは字数からして「もつこ」ではなく「ふご」であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「畚」の解説」に、

 「① 農夫などが物を入れて運ぶのに用いる、縄の紐のついたかごの一種。竹や藁で編んだもの。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※広本拾玉集(1346)一「早蕨の折にしなれば賤の女がふこ手にかくる野辺の夕暮」
  ② 魚を入れるかご。びく。
  ※読本・近世説美少年録(1829‐32)一「船なる魚籃(フゴ)を、もて来て」

とある。
 御白石は伊勢神宮の正殿の御敷地に敷き詰められた石で、式年遷宮の時に取り換える。式年遷宮は元禄二年にあり、芭蕉と曾良が訪れている。それから五年たったことになる。
 五年たっても白石は奇麗で、これを運び込んだ新藁の畚までもが清められたことだろう。
 
 わたらへの秋や穂をつむ子等館 尺草

 子等館(こらのたち)は伊勢神宮に仕える巫女さんのいるところで、芭蕉も『笈の小文』の旅で訪れて、

 「神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと神司(かんづかさ)などに尋ね侍れば、只何とはなしおのづから梅一もともなくて、子良(こら)の館(たち)の後に、一もと侍るよしをかたりつたふ。
 御子良子の一もとゆかし梅の花
 神垣やおもひもかけず涅槃像」

と記している。
 これは春の話だが、秋だと自分たちの食べる稲を収穫する姿が見られたのだろう。

 唇のいろうそ寒し宮からす   亀翁

 秋も終わりで唇が乾燥してくると黒ずんでくる。宮からすはweblio辞書の「隠語大辞典」に、

 「1,神社に仕ふる人をいふ。宮雀ともいふ。
  2,神社に仕へて居る神官のことをいふ。宮雀ともいふ。宮には烏や雀が居るから。〔犯罪語〕
  3,神社に仕へて居る神官のことをいふ。宮雀ともいふ。宮には鳥や雀がいるから。
  4,神主のことをいふ。
  5,お宮仕へする神官の事をいふ。
  6,神主。〔一般犯罪〕
  7,神主のこと。」

とある。

 能キ時や御供いただくことし米 松翁

 前に祭主の輿が出て来たが、ちょうど新米の時期なので、御供の者が新米を下賜されたのだろう。

   内宮 浮屠の属にたぐへて心へだちたる五十鈴川より遥かに拝す
 身のあきや赤子もまいる神路山 晋子

 内宮が僧形だと入れないのは芭蕉の『野ざらし紀行』にも、

 「我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。」

とある。其角も僧形で旅をしていたのがわかる。宇治橋を渡ることができなかった。
 「身のあき」は宇津保物語の、

 待つ人の袖かと見れば花すすき
     身のあき風になびくなりけり

か。秋と飽きが掛詞になる。今日の「飽きられた」というだけでなく「厭われた」という意味を含む。
 赤ちゃんでも参拝できるのに、何で僧形というだけでこの身を厭うのか、という意味。

 また参る露の枝折や杉の札   横几

 伊勢神宮の御札は杉でできている。横几は僧形でなかったのか、内宮でお札を貰って、またいつか来れることを祈る。

   廿日 於福井藤兵衛大夫御師家
    御神楽 謹上再拝
 神の秋七十わかしいもと神子  岩翁

 翌九月二十日は御師の福井藤兵衛大夫の家で御神楽を見る。御師はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「御師」の解説」に、

 「御祈祷師(おんきとうし)、御詔刀師(おんのっとし)の略称で、詔刀師や祈師(いのりし)ともいい、師檀関係にある檀那(だんな)の願意を神前に取り次ぎ、その祈願を代表する神職をさす。伊勢(いせ)地方では「おんし」と読む。‥‥略‥‥伊勢の御師のおもな機能は、まず檀家(だんか)・檀那とよばれる施主や願主と師檀関係を結び、諸願成就(じょうじゅ)の祈祷を行うことである。そして年ごとに祈祷の験(しるし)である祓麻(はらえのぬさ)や伊勢土産(みやげ)をもって諸国を巡歴する。土産の品目は熨斗鮑(のしあわび)はじめ伊勢暦、鰹節(かつおぶし)、伊勢白粉(おしろい)など多彩であった。また檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行、両宮参詣(さんけい)や志摩の遊覧などに便宜を図った。概してその活動は内宮(ないくう)側の宇治(うじ)より外宮(げくう)側の山田が隆昌(りゅうしょう)を極め、三日市大夫(みっかいちだゆう)、竜大夫(りゅうだゆう)、福島みさき大夫などは、その規模が大きく代表的なものであった。また山田の御師数では寛文(かんぶん)期(1661~73)に391軒、文政(ぶんせい)期(1818~30)に385軒を数えたという。これら御師の活動が師檀関係の強化や新たな檀家の獲得を目ざすことはもとより、全国的にみて伊勢信仰の普及や教化、あるいは伊勢講の組織に大きな役割を果たしたのである。」

とある。「檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行」とある、これであろう。
 神子はここでは「みこ」と読むが「しんし」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「神子」の解説」に、

 「① 神に仕え、神楽を奏して神意を慰めたり、神意をうかがって神の託宣を告げたりする人。かんなぎ。みこ。
  ※和漢三才図会(1712)七「巫(かんなぎ・みこ)神子、和名、加牟奈岐、俗云美古」

とある。七十になる婆さん神子だったのだろう。

 四手のつゆ油気はなしみこの髪 亀翁

 四手(しで)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四手・垂」の解説」に、

 「① 注連縄(しめなわ)、または玉串(たまぐし)などにつけて垂らす紙。古くは木綿(ゆう)を用いた。」

とある。神楽を舞う婆さん神子の描写になる。

 秋ふかしみこの足とり鶴のこゑ 尺草

 神子の足取りが鶴の歩み(かなりゆったりした歩み)だということで、神子の発する占いも鶴の一声ということになる。
 鶴の歩みは貞享三年正月の、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉  其角

の発句がある。初日の厳かに登る様子を鶴の歩みとしている。

 さかき葉の露にかかるや山廻り 横几

 山廻りというのは、

 「よし足引の山姥が、山めぐりすると作られたり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89714-89716). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 「よし足引の山姥が、よし足引の山姥が・山廻りするぞ・苦しき。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89858-89860). Yamatouta e books. Kindle 版.)榊の葉を持つ姿は山の中を廻り歩く山姥のようだ。

といった謡曲『山姥』のイメージか。

 烏帽子ふる秋の調や小手つづみ 松翁

 手鼓はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手鼓」の解説」に、

 「① 桴(ばち)を用いないで、手で打ち鳴らすつづみ。腰鼓(ようこ)やタンバリンの類も含まれるが、一般には能楽や長唄囃子の小鼓をいう。小つづみ。また、それを打つこと。
  ※源平盛衰記(14C前)三四「あの知康は、九重第一の手鼓(テツヅミ)と一二との上手ときく」 〔音楽字典(1909)〕
  ② 手を打ち鳴らして拍子を取ること。手拍子。
  ※浄瑠璃・猫魔達(1697頃)一「手つづみうって、一せいをあげ」

とある。この場合どっちなのかはわからない。神楽の様子であろう。

 太々や小判ならべて菊の花   晋子

 太々はこの場合は太太神楽(だいだいかぐら)のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太太神楽・大大神楽」の解説に、

 「[1] 〘名〙 伊勢神宮へ一般参詣人が奉納する太神楽のうち、最も大がかりな神楽。江戸時代、御師の邸内で催され、奉仕の楽人は一〇〇人を超えた。明治四年(一八七一)神宮の改革以来、神楽殿の規定により、太神楽は太太神楽・大神楽・小神楽の等級に分けて奉納されている。だいだい。
  ※梅津政景日記‐元和八年(1622)正月二八日「大大神楽御祈念幾久敷相極候由、久保倉所より拙者式へも状有」

とある。
 老婆神子の神楽ではなく太太神楽を見るとなると、小判が何枚も必要になる。太太と小判の橙色とを掛け、季節がら菊の花をあしらう。

2022年12月4日日曜日

 

 今日は浅間山、権現山、弘法山、吾妻山という秦野から鶴巻温泉にかけての定番のハイキングコースを歩いた。
 これは権現山展望台から見た富士山、寄付近の山々、そして秦野市街。

 そういうわけで、疲れたので今日は俳諧の方はお休みします。

2022年12月3日土曜日

 中国の方は気になるけど情報が入って来ない。竹のカーテンというよりも、マス護美の方が勝手にカーテンを閉めてるんじゃないかと疑いたくなるね。
 アップルも中国依存で中国政府の言いなりか。ツイッターを締め出そうとか、iPadはもうこれきりにしようかな。今はガラケーだけどスマホにするときもandroidの方にしよう。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「熱田奉幣
 芭蕉翁甲子の記行には『社大イニ破れ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへくその神と名乗る。よもき、しのふ、心のままに生たるそ、目出たきよりも心とまりて』とかかれたり與廃時あり甲戌の今は造営あらたに俣めでたし
 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子
 鳥のねや熱田にいさむ今朝の月 キ翁
 みやもりか前帯をかし後夜の月 岩翁

   津島牛頭天王
 縁の稲弥五郎どのを守りかな  キ翁

   十六日くはなにて
 此魚はけふの御斎かいせのうみ 横几
 大魚のこしてながるる穂蘆かな 尺草
 身にしむや蛤うりの朝の酒   キ翁」

 浜松から熱田神宮のある宮宿までは二十五里。十四日十五日の二日間で熱田まで熱田まで行ったのならかなりの強行軍になる。ただ、浜松藩の家老の別邸が三方ヶ原にあったのなら、御油までは姫街道を通ったと思われるから、それよりは若干距離が短くなるかもしれない。二十三里くらいか。
 「禰宜の鼾」「今朝の月」「後屋の月」とあるから参拝したのは朝未明で、ここから津島牛頭天王のある今の愛知県津島市の方を経由して桑名に行ったなら、熱田から佐屋街道を使い、佐屋宿から三里の渡しで桑名に出たのだろう。佐屋宿は名鉄尾西線佐屋駅の辺りになる。
 熱田神宮は芭蕉の『野ざらし紀行』に、

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」

とある。其角の引用は、

 「社大イニ破れ、築地はたふれ草むらにかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすへくその神と名乗る。よもき、しのふ、心のままに生たるそ、目出たきよりも心とまりて」

だから、概ね合っている。「石をすへく」は其角全集の方の誤植だろうか。
 『野ざらし紀行』は『甲子吟行画巻』という形で貞享の頃に既に成立していたので、其角も当然ながら読んだことだろう。ただ、一点もので刊本ではないので、閲覧できた人は江戸の門人か江戸に来る機会のあった門人に限られただろう。文章の方は書き写して他の地域に伝わっていたかもしれない。
 このあとすぐに熱田神宮は改修され、三年後の貞享四年冬、ふたたび『笈の小文』の旅で熱田を訪れた芭蕉は、

   そのとしあつ田の御造營ありしを、
 とぎ直す鏡も清し雪の花    芭蕉

の句を詠むことになるが、『笈の小文』は芭蕉の遺稿で、この先芭蕉の死後に知ることとなるだろう。そのあと元禄八年刊支考編の『笈日記』で広く知られることになる。
 『熱田神宮』(篠田康雄著、一九六八、學生社)によると、寛永十五年(一六三八年)から幕府へ造営の陳情がなされていたのだが、貞享二年(一六八五年)正月十六日にようやく「幕府は、熱田神宮の現状を検分するために、奉行二人と大工一人の派遣を決定したことを告げ」、「検分を命ぜられた、梶四郎兵衛、星合七兵衛の両奉行は、同年九月六日に熱田へ到着、十三日まで八日間にわたる調査を終えて江戸に帰」ったという。
 すぐに「大宮司以下の陳情団は、九月十七日熱田を出発して江戸へ向かう。」そしてそのまま江戸で年を越し、翌年正月十三日ついに着工が決定する。そして「早くも七月九日には、すべての建物が竣工。七月二十一日には、新本殿への晴れの遷宮が行われた。」という。
 まるで芭蕉の声が届いたかのような急展開だった。

 更々と禰宜の鼾や杉の月    晋子

 其角も元禄七年にこの新しくなった熱田神宮を目にすることになる。ただ訪れたのは朝未明だったようだ。浜松から二十三里を二日で来た関係で、宮宿への到着も暗くなってからだったのだろう。
 まだ暗い境内を長月の十五夜の月が照らし、禰宜もまだ鼾をかいているのだろうか、杉がさらさらと音を立てる。

 鳥のねや熱田にいさむ今朝の月 キ翁

 「鶏の音や」であろう。ようやく空も白み、鶏の声が勇ましく響き渡る。

 みやもりか前帯をかし後夜の月 岩翁

 後夜は夜半から明け方にかけてをいう。熱田に参拝したのはこの時刻だった。
 夜中の神社にも番人がいて、神職に準じて帯を前で結んでいた
 それから佐屋街道を陸路六里、津島牛頭天王社へ行く。この神社は明治の廃仏毀釈で津島神社になった。

   津島牛頭天王
 縁の稲弥五郎どのを守りかな  キ翁

 境内に弥五郎殿社がある。武内宿祢の子孫の堀田弥五郎正泰が夢のお告げで建てたと言われている。堀田正泰はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「堀田正泰」の解説」に、

 「?-1348 鎌倉-南北朝時代の武将。
  紀行高(きの-ゆきたか)の子。尾張(おわり)(愛知県)の人。父の遺志をついで南朝の後醍醐(ごだいご)天皇につかえる。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年楠木正行(くすのき-まさつら)にしたがって河内(かわち)(大阪府)四条畷(しじょうなわて)で高師直(こうの-もろなお)軍とたたかい,同年1月5日正行とともに戦死した。通称は弥五郎。」

とある。以後津島牛頭天王社は堀田氏によって守られてきた。折から稲が奉納されていたのだろう。
 熱田から六里なら、昼前には津島に着いていたのだろう。佐屋宿から三里の渡しでその日のうちに桑名に到着する。

   十六日くはなにて
 此魚はけふの御斎かいせのうみ 横几

 御斎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「御斎」の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語。「とき(斎)」は「時」で僧家での正午以前の食事の意) 寺または仏事法会(ほうえ)のときの食事。
  ※御湯殿上日記‐文明一一年(1479)九月四日「ひかんの中日にて、御とき御さたあり」
  ※人情本・春色雪の梅(1838‐42頃か)四「ほんの百ケ日だといふ真似方(まねかた)ばかりで〈略〉何卒(どうぞ)お斎(トキ)におつきなすって下さいまし」

とある。この場合は初七日の精進落し御斎か。

 大魚のこしてながるる穂蘆かな 尺草

 地引網であろう。魚と一緒に蘆の穂も網にかかるが、蘆の穂は網の隙間から流れて行き大きな魚だけが残る。

 身にしむや蛤うりの朝の酒   キ翁

 桑間の焼き蛤は名物で、元禄五年九月の「苅かぶや」の巻二十一句目にも、

   池の小隅に芹の水音
 焼付る蛤茶屋の朝の月      史邦

の句があり、朝早くから営業していたようだ。その苦労を思いながら、十七日は朝から酒を飲んで伊勢へと向かう。

2022年12月2日金曜日

 ドイツに勝ったくらいで祝日だなんて言ってたのがいたようだが、日本はもうドイツにでもスペインにでも勝てるレベルになったんだよ。少なくともたまには勝つくらいのレベルには。でも、優勝したら祝日にしてほしいね。
 やっぱ日本が勝つって気分が良いね。このまま勝ち続けたらみんな気分が良くなるから、日本全体が元気になる。だから勝つって大事なんだよ。
 負けた時にぼろ糞にけなすのも、勝ってほしいからなんだよ。わかってね。勝たなきゃいけないという意識を持ってほしいからね。
 俳句も句合というのは勝負だし、結社で何句選ばれるかも勝負といえば勝負だし、それに執着する気持ちもわかるけど、でも勝つことで誰か喜んでくれるのかなって思うと、勝つ意味というのが分からない。まちがっても日本中が歓喜に包まれるなんてことはないからね。

 それでは「隨縁紀行」の続き。

  「雲名川より天竜へ下るに
 やま風や露うちはらふうんな川 岩翁
 水鏡渦巻かたやむら紅葉    横几

   大イニ切所といふまことに山高鳥不巣水清魚不住
 しかのねや耳にもいらぬ七ッ釜 松翁

   二又川椎河脇の御社は尤切所也
 打櫂に鱸はねたり淵の色    晋子
 淵や瀬やつら打波に凄立    キ翁

   かじま 舟にうつくまりて
 わが笠や膝にきせたる露しぐれ 尺草

   十三夜 浜松にて
 内玄関家老の客や十三夜    キ翁
 のちのつき魚屋尋ねん宿はづれ 松翁
 十三夜出馬の鈴やなみの音   岩翁
 後の月味方か原を人目かな   尺草

   いづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子」

 秋葉山の帰りは今の天竜スーパー林道のある方のルートで天竜川の雲名橋の方へ降りたのだろう。浜松に行くにはこっちの方が近道になる。

   雲名川より天竜へ下るに
 やま風や露うちはらふうんな川 岩翁

 山から吹き下ろす風が雲名川の露を打ち払う。「露払い」という言葉があるように、この下りの山道もまた、この山颪の風が露払いをしてくれたのだろう。

 水鏡渦巻かたやむら紅葉    横几

 川の淀んだところは水鏡になって山の紅葉を写すが、やがて岩の間を渦巻き、紅葉の山の映像も乱れて行く。

   大イニ切所といふまことに山高鳥不巣水清魚不住
 しかのねや耳にもいらぬ七ッ釜 松翁

 切所はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「切所・節所・殺所」の解説」に、

 「〘名〙 峠や山道などの要害の地。交通の要所に設けた防御用のとりで。また、難所。
  ※吾妻鏡‐建保元年(1213)五月二日「又於二米町辻大町大路之切処一合戦」
  ※咄本・醒睡笑(1628)一「つづら折りなるつたひ道、人馬の往来たやすからぬ切所(セッショ)あり」

とある。ここでは難所の意味であろう。今は船明ダムの湖になっている辺りは、昔は難所だったのだろう。かつては七ッ釜と呼ばれる洞穴があったか。鹿の声も耳に入らぬ程の難所だったのだろう。山高くして鳥巣まず、水清くして魚住まず。
 山から平野部に出るあたりに今も二俣という地名がある。二俣川が天竜川に合流する。

   二又川椎河脇の御社は尤切所也
 打櫂に鱸はねたり淵の色    晋子

 天竜川は船で下ったのだろう。この辺りでは淵も深くなる。

 淵や瀬やつら打波に凄立    キ翁

 凄立は読み方がわからない。「すさびたち」か。

   かじま 舟にうつくまりて
 わが笠や膝にきせたる露しぐれ 尺草

 二俣の対岸は鹿島という地名になっている。遠州鉄道の西鹿島駅がある。ここで陸に上がって浜松へ向かったのだろう。今も笠井街道という名の道がある。その笠井に掛けて「わが笠や」だったか。
 九月九日の朝、三島で重陽を迎えて其角等御一行は由比まで行き、九月十日に清見潟から宇津の山を越える。そして十一日に小夜の中山を越えて掛川に至り、十二日に秋葉山を詣で、十三日に山を下りて浜松で十三夜を迎える。

   十三夜 浜松にて
 内玄関家老の客や十三夜    キ翁

 十三夜は浜松藩の家老の別邸か何かに呼ばれたのだろうか。内玄関は裏口、勝手口のこと。まあ、俳諧師というのは御用聞きみたいに裏から入るものだったのだろう。
 九月の十三夜は八月十五日の名月に対して「のちの月」と呼ばれる。

 のちのつき魚屋尋ねん宿はづれ 松翁

 別邸だと宿場からは外れた所になる。酒の肴を調達するには不便な所だ。

 十三夜出馬の鈴やなみの音   岩翁

 十三夜のお月見に、馬で浜名湖に行く人もいたのだろう、馬の鈴の音がする。

 後の月味方か原を人目かな   尺草

 浜名湖へ行人は三方ヶ原を通って行く。浜名湖の東になる。

   いづれも古郷をかたるに
 後のつき松やさながら江戸の庭 晋子

 この家老の別邸の松を見ていると、江戸の自分の家を思い出す。其角も親が名医だったから、それなりの家に住んでいたのだろう。