アレクサンドル・ドゥーギンさんの「Political Platonism: The Philosophy of Politics」(英語版)をiOSやgoogleの自動翻訳の力を借りながら読んだので、その印象をちょこっと書いてみることにしよう。
自動翻訳は時々おバカな間違いをするもので、西田哲学の「場所」を「芭蕉」と訳してたりした。そこは気を利かせて、頭の中で修正しなくてはならない。
まず表題の通りこの本は新・プラトニズムを標榜するもので、民主主義を否定して哲人独裁を説いている。
「プラトニズムは、知識、社会、宇宙の構造の根本的な統一に基づいています。 これらの領域はすべて、秩序の三つの側面です。」
とあるようにプラトニズムは体系であって、知識、社会、宇宙は根本的に一つの秩序を持つという信念に裏付けされている。
周知のように人間の知識は極めて不完全なものであり、矛盾に満ちたものだ。我々の文化はそこから出発して、社会も雑然とした渾沌としたものであり、宇宙もまた人知を超えたはかりの知れない「陰陽不測」と考えられてきた。そのなかに繰り返されるパターンを見つけ出し、それを「道」と言い表してきた。
これに対し、西洋の文化はこの秩序を言葉や論理と結びつけて、「ロゴス」として表現する。ロゴスは完全なものであり、キリスト教の流入とともに唯一神と結びつけられてきた。
ロシアの伝統主義はこのプラトン的なロゴスの秩序に従うことを要求する。この伝統はモスクワがローマ、ビザンチウムに続く第三のローマと呼ばれたことを根拠とするもので、ローマの正当な後継者としてのモスクワのユーラシア支配を正当化するものだ。これがウクライナ侵略を正当化するものであることは、容易に理解できよう。
それ以上に問題なのはロゴスの支配、ロゴスへの服従という考え方だ。
「ロゴスへの服従」はハイデッガーの有名なフライブルグ大学就任演説に見られる言葉でもあり、これがハイデッガーのナチス入党とあいまって、国家への服従=ナチスへの服従となったことは、ハイデッガー哲学を知る者の間では周知のことだ。
国家や民族への服従は後に撤回しているが、この「ロゴスへの服従」は撤回していない。これがハイデッガー哲学の闇の深さでもあり、ドゥーギンのプーチン支持にも受け継がれていると考えて間違いないだろう。
ドゥーギンは二十世紀の「哲学の終わり」を思考した一人でもあり、その意味ではポストモダン哲学と呼ばれることもある。
だが、ドゥーギンの場合はあくまで西ヨーロッパ哲学の終わりであり、ユーラシアに新しい哲学を再興しようという野心から、西洋の民主主義を否定してユーラシアにプラトニズムに基づく独裁帝国を作ろうという方向に向かう。
ロシアは紛れもなく西洋文化圏であり、その西洋文化の根底となる哲学の終焉は、本来自らの文化そのものに深い反省を強いるものだったはずだ。
実際、ロシアはインドや中国や日本やトルコなどと違って、西洋以外の文明の基盤を持っていない。そのため西洋哲学の終わりは西洋哲学の始まりの時点への回帰という形を取らざるを得ない。
ここに近代の否定が加われば、その哲学は前近代の中世的な思考に逆戻りしてゆくことになる。
西ヨーロッパの場合はマルクス・ガブリエルなど、一部にヨーロッパ精神の再構築が試みられて、ヘーゲル・マルクス主義の後継を担っているが、大勢は哲学の終わりを科学の勝利と捉え、意識などの古くからの哲学的問題に脳科学のメスが入るようになった。
思うにロシア人には西側の文化への根強い不信感が潜んでいるのではないかと思う。それは冷戦よりももっと古く、ナポレオン戦争にまで遡れるのではないかと思う。何しろ高らかに人権宣言をした国が最初にやったのがロシア侵略だったからだ。人権思想の持つ欺瞞に早くから気付いていたとしてもおかしくない。
人権思想は確かに根本的な矛盾を抱えて誕生した。有限な国土は増え続ける人口のすべてを養うことはできない。そのため前近代社会は基本的に生存権に優先順位を付けざるを得なかった。その掟が乱れれば親子兄弟でも血で血を洗う争いになる。そのため、神や天の名において守られなくてはならなかった。
人権思想はこの優先順位を否定するが、国土の有限と増え続ける人口の問題を何一つ解決したわけではない。そのため人権思想は飢餓か侵略かの二者択一を迫られることになる。西洋社会は地球規模での植民地争奪戦を展開することで、この問題に目をつぶって来た。まあ、日本も明治維新とともにその一角に加わった共犯者だが。
ただ、後続の国が欧米や日本を追いかけて経済成長しようとするとき、過度な人権思想はその足枷になる。もはや国境の変更の許されない国際社会で、侵略戦争で農地を獲得するという一時的な飢餓の解消は許されず、国内の新たな農地の開墾すら森林や野生生物保護が壁になる。
イギリスはかつて二度のエンクロージャーで国土の大半の森林を失ったが、同じことは今のフロンティアには許されていない。その徹底した森林破壊から生まれた自然保護思想が、今のフロンティアを縛り付けている。
またかつて植民地化された多くの国では、民族固有の領土と無関係に宗主国の都合で国境が引かれ、さらにはロヒンギャのように勝手に移動させられた民族もいる。そうなると、かつての植民地は独立後に深刻な民族問題を抱えることになった。人口問題の解決に外への侵略という手段を奪われた以上、内なる少数民族に向けられることになる。当然ながら人権思想はそれを許さない。
こうした新興国やフロンティアの不満を利用しているのが中国とロシアの二つの国連常任理事国だ。中国は西洋の人権思想を逆手にとってうまいこと利用しているが、ロシアにはそうした器用さが足りなかった。それが侵略戦争につながったのだろう。
ドゥーギンは哲学の死とともに西洋近代を否定しようとするが、ロシアはもとより西洋文化圏で、西洋近代を否定した所で中国やインドや日本やトルコのような別の文明の基盤を持っているわけではない。
そういう意味では西洋近代の否定は近代化前の西洋への回帰とならざるを得ない。それがプラトンの哲人独裁であり、東ローマの継承としての正教だった。
哲人独裁は特権的なロゴスの支配であり、そのロゴスの特権は、イデアの光りであることろに基づいている。
以下、ドゥーギンはこの光についてヘラクレイトスに求めることになるが、基本的にはハイデッガーの一九五一年の『ロゴス』に依存している。それはヘラクレイトスの、断片50と呼ばれるものについての解釈で、以下のものをいう。
oὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ τοῦ Λόγου ὰκούσαντας
όμολογεῖν σοφόν ἐστιν Ἓν Πάντα.
ハイデッガーが一般的なドイツ語訳として引用しているスネル訳の、宇都宮芳明訳の日本語では、
おまえたちが、私にではなく、理義ジン〔ロゴス〕に聞いて、
同じ理義〔ロゴス〕で、〈全ては一である〉と言うのが賢いことだ。
(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.6)
となる。
ちなみに、訳編山本光雄の『初期ギリシア哲学者断片集』では、
「私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであるということを認めるのが、智というものだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)
となっている。出典はヒッポリュトス(169頃~235)の『全異教徒駁論』だという。
ドゥーギンの「Political Platonism: The Philosophy of Politics」(英語版)では、この断片は、
Listening not to me but to the logos, all is one.
私ではなく、ロゴスに耳を傾ければ、すべては一つです。(google訳)
となっている。
ハイデッガーはロゴスの動詞形レゲイン(λέγειν)を、ドイツ語のlegen、つまり〈下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen〉に結び付けて考える。ギリシャ語とドイツ語とでは系統がちがうのだが、この二つの語は単なる偶然の音の一致ではなく、ラテン語のレゲレ(legere)を経由して、結びついているものだという。
そのため、「すべては一つ」はロゴスのもとに下に置かれる、支配されるというニュアンスを持つ。それがあの悪名高いフライブルグ大学学長就任演説での「ロゴスへの服従」につながる。それは民族精神としての国家の理想に従うことを意味し、具体的には当時台頭していたナチスへの服従を意味していた。
プラトンの哲人独裁の理想も同じように、ロゴスの支配によってすべてが統一されると考えていいだろう。
ドゥーギンはここで哲学の終わりを西洋近代の形而上学の大伽藍の崩壊をイメージしているのだろう。
ハイデッガーはこうした「すべては一つ」の世界を整然と体系化した知識体系ではなく、一即多のただ存在するものがあるがままにそこに横たわっている状態、と解釈する。これは或る種の神秘体験を想像させる。日本人にはおなじみの梵我一如の悟りの境地だ。
アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著の『脳はいかにして<神>を見るか』(2003、PHP研究所)によれば、瞑想によって深い宗教的境地に達した時、上頭頂葉後部の方向定位連合野の活動が低下し、前頭前野の注意連合野の活動は逆に増大するという。
これによって、自己と外界との区別が曖昧になりながらも、強い集中力で外界に接している状態が生れる。これによって、自他不二の宇宙と一体化したような意識が生れるという。
おそらく、脳科学的には、こうした神秘体験は一つの脳の状態として説明可能なものであろう。
こうした体験の中での世界は、物事があるがままに現れる「花は紅柳は緑」の状態になる。ハイデッガーはこうしたあるがままの状態を古代ギリシャのアレーテイアの概念に結び付け、そこで「覆われてない」という独自の解釈を行う。
「Ἀληθείηとλόγοςは、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.28)
ハイデッガーはここでアレーテイア(Ἀληθείη)をἈ-Λήθειη(隠れ=なさ)と解釈する。Λήθη(レーテー)は隠すことをいい、それに否定の接頭語をつけたのがἈληθείη(アレーテイア)だという。
それは沈黙のロゴス、声なき声であり、そこから真理の本質は形而上学の壮大な体系の中にあるのではなく、むしろ沈黙の何にも拘束されない自由の内に見出す。そこから「真理の本質は自由である」を導き出す。この自由は『存在と時間』で展開された現存在の「開示性」の「開かれている」「障害物のない状態」を引き継いでいる。
この現存在の開示性を『存在と時間』では、ハイデッガーは森の間伐の比喩で説明する。
『存在と時間』第一部第一篇第五章第28節には、こうある。
Die ontish bildlich Rede vom lumen naturale im Menschen meint nichts anderes als die existenzial-ontologishe Struktur dieses Seienden, daß es ist in der Weise, sein Da zu sein. Es ist »erleuchtet«, besagt: an ihm selbst als In-der-Weltsein gelichtet, nicht durch ein anderes Seiendes, sondern so, daß es selbst die Lichtung ist. ("Sein und Zeit"p.133)
「人間の内なる自然の光という存在的で比喩的な言葉は、この存在者がそのありうべき現という仕方で存在しているという実存論的かつ存在論的構造のことにほかならない。それが「明るく」されているということは、この存在者自身が「この世にいる(世界内存在)」という形で木が伐りはらわれ、光が射し込んでいるということをいうのであり、それも他の存在者によってそうなっているのではなく、この存在者自身が森の空き地なのである、ということをいうのである。」
一般的にはgelichtetは「明るくされ」と訳され、その次のLichtungは「明るみ」と訳されている。しかし、ドイツ語の辞書を引いてみればわかるとおり、lichtenは森の余分な木を間引くこと、間伐することを言い、Lichtungは間伐によってできた空き地のことをいう。
それをハイデッガーは自然の光(lumen naturale)によって明るくされている(erleuchtet)というのがどういうことかを説明する文脈にこのlichten、Lichtungという単語を持ってくることで、森の木が伐り払われて光が射し込み、明るくなるという両方の意味をもたせている。
これをドゥーギンはロゴスの光に対して、森の暗がりをロゴスに対するカオスの闇(英語でdark)とする。そして、ギリシャ神話の光りのアポロに闇のディオニソスを対比させる。
この光は既にハイデッガーによって、ヘラクレイトスの以下の断片に結び付けられている。
「ヘラクレイトスは言う(断片六四)、Τά δέ Πάντα οἰακίζει Κεραυνός.≪ところで、(現前するものの)全てを(現前することへと)舵を取るのは、雷光である。≫」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.30)
ロゴスの光りは稲妻であり、それによって闇が一瞬明るくなる。このイメージだと昼の間は輝き続ける太陽のイメージとはずいぶん違ってくる。真理は一瞬閃いてあっという間に消えてゆく。真理のロゴスを留めることの困難の方がより強調されることになる。
アレーテイアは一瞬の閃きであり、その閃きは稲妻によってもたらされる。稲妻が去れば辺りは再び闇に包まれる。
これに対し西洋形而上学の歴史はロゴスの光りを壮大な学問の体系として組織化し、それを権力の根底に置いた。ドゥーギンはここに光でも闇でもないもう一つの属性を付け加えた世界観を設定する。それが英語版だとBlack(黒)だ。暗黒と訳してもいいかもしれない。
光の守護神がアポロンで闇の守護神がディオニソスであるように、この暗黒にも守護神が設定されている。それがキュベレという女神になる。
キュベレはウィキペディアによると、
「ヘレニズム時代のもっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。同時代の注釈家であるカルリマコスは彼らを、女性名詞の Gallai (ガッライ、ギリシア語複数形)で呼んだが、古代ギリシアやローマの他の注釈家たちは、男性名詞の Gallos (ガッロス、ギリシア語単数形)や Galli (ガッリー、ラテン語複数形)で呼んだ。 女神の女性司祭は、人々を乱交的儀式に導き、儀式では荒々しい音楽、ドラムの響き、踊りに飲酒が伴った。女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。一説では、三人のダクテュロスたちが女神の従者であった。女神の信奉者たちは、プリュギア語でクルバンテス、ギリシア語でコリュバンテスと呼ばれ、彼らは、一晩中続く、太鼓の乱打、剣と楯を打ち鳴らす野性的な音楽、踊りに歌に叫び声によって、女神への恍惚として乱交的な崇拝を示した。」
とあり、乱交と去勢のイメージを伴っている。確かに或る意味今の西洋文明を象徴しているかもしれない。レイブパーティーを彷彿させる。
ここにはおそらくロシアがアポロンとディオニソスの男の文化なのに対し、西洋をおかま文化として貶める意図が感じられる。
アポロンを理性として、それにディオニソスを情動(エモ)を対立させるのは、ニーチェの『悲劇の誕生』に由来する。これに対しキュベレは、
Initially I thought that two Logoi, i.e. two types of rationality, would be enough for the basic model of the plurality of structures of consciousness. But the more I studied the dualism of Apollo/Dionysus, the exclusive/inclusive, I came to the conclusion, empirically and phenomenologically, that this pair does not cover all types of rationality and that another absolutely distinct fundamental structure could was detected: the Logos of Cybele, So Dionysus transformed from the black Logos to the dark Logos; his secret color was discovered against the backdrop of Cybele's darkness. That is how I came to the idea of three Logoi, on which Noomachy is based.
当初、私は意識の複数構造の基本モデルとして、2つのロゴイ、つまり 2種類の合理性で十分であると考えていました。しかし、アポロ/ディオニュソスの排他的/包括的二元論を研究すればするほど、経験的にも現象学的にも、このペアはすべてのタイプの合理性をカバーするわけではなく、別の絶対的に異なる基本構造が検出される可能性があるという結論に達しました: ロゴスシベレのディオニュソスは、黒いロゴスから暗いロゴスに変身した。彼の秘密の色は、シベレの闇を背景に発見されました.そこで、Noomachyのベースとなる3つのロゴイを思いつきました。(google訳)
と言う。
ロゴイはロゴスの複数形で、日本語なら「2つのロゴス」で十分。シベレはキュベレのこと。
これはディオニソスは本来暗黒だったが、アポロの光の閃きによって、光に対しての相対的な闇になったと考えていいのではないかと思う。これに対し暗黒のまま残ったロゴスがある、それが西洋近代のロゴスだということになる。おそらくこれはハイデッガーの言う「存在忘却」に結びつけられているのだろう。
ロシアの文化は闇が深く、それによって闇と光の対比が守られているが、西洋は光の根源としての闇を忘れてしまったため、暗黒面に落ちたということになる。確かに西洋哲学には精神と肉欲はあってもその中間の感情に関しては疎い。性欲とそれを制御する理性はあっても恋が存在しない。機械的な欲望と理性との二元論によって成り立っている。それをディオニソス的なものとして開放しようとしたのがニーチェだったとも言える。
余談だが「エモ」という言葉は本来西洋の音楽で情動の解放から生まれた概念だが、日本では伝統的な「もののあわれ」に近い意味で用いられている。「エモい」の意味のよくわからない昭和人は「ディオニソス的」でOKなのではないかと思う。
暗黒はいわば理性を持つ前の暗黒であり動物的なものだが、西洋では動物性は機械論的に説明されてきた。つまり機械論的に解釈された身体とそれを表象し制御する理性というのが西洋哲学の基本的な発想で、これは最近のアンディ・クラークにも受け継がれている。
このこと自体は西洋哲学の欠陥だが、それを安易な情動の開放によって克服しようとしても、おおかた西洋対東洋のありきたりな対立図式に押し込められ、それが侵略思想と結びつきやすい。それは日本も経験したことだし今の中国でも起きている。
そこでドゥーギンはNoomachyという日本語では名状しがたい概念を提起することになる。Noomachyはヌースの戦い(machy)を意味する。
ヌースはウィキペディアには、
「ヌース(ヌウス、希: νους, nous)は、知性、理性、精神、魂などを意味するギリシャ語。
アナクサゴラスは世界はヌースが支配しており、人間はヌースを把握することができると考えた。また、プロティノスは万物は一者から流出したヌースの働きによるとした。ストア派においては、ロゴスとほぼ同義で用いられる。
イマヌエル・カントの哲学においては、この語から派生した「ヌーメノン」(noumenon, 考えられたもの)という語が、「物自体」と同義で用いられる。」
とある。物事の根底に仮定される現象として知覚できないスピリチュアルな概念と思われる。ヨーロッパとロシア(ユーラシア主義)との戦闘もここに根拠を持つと思われる。
おそらくこうしたスピリチュアルな議論をする目的は、光と闇による精神の優越性を説くのと同時に、存在忘却を根拠として西洋近代を暗黒への後退として貶めようというものであろう。その物質文明をあたかも人間から動物への後退であるかのように。
ただ、こうした議論は科学の不当な軽視であり、科学を神秘主義に置き換えようとしているだけのものだ。これによってロシアのユーラシア主義は科学と経済を失うことになる。そして、中国、日本、インド、トルコなどの西洋科学を受け入れた国々からも、最終的には見放されることになるだろう。
残念なことに、それを失ってでも精神を取り戻すのだという所に今回の戦争が正当化されてしまった。
西洋の人権思想には確かに限界がある。それは人口論を欠いているからだ。
地球は有限であり、無限の人口を養うことはできない。
科学の恩恵があり、グローバル経済を受け入れて、より高い生産性を目指すなら、地球の定員をその分だけ増やすことは可能だ。我々は多少の人権を犠牲にしても、高い生産性を獲得できるなら、結果的には限られた大地の恵みを奪い合わずに済むことになる。
人権思想の完全な遂行は、今の欧米や日本にとっても生産性向上の足枷になる。その事象は新興国やフロンティアでも同じだ。むしろ既に十分な豊かさを獲得した欧米や日本以上に大きな足枷になる。
経済成長をさせようにも、もはや過去の欧米や日本のような植民地獲得や新大陸の征服などの侵略行為によって解消することが許されなくなっている。それは先行した国の「やったもん勝ち」だった。新興国やフロンティアにそれを真似できない不満が溜まっているのは理解できる。ロシアがそれに反発するのも同様だ。
ただ、だからと言って西洋近代を根底から否定するやり方では、生産性向上どころか、生産性を前近代レベルにまで引き戻す危険がある。こうして国土の養える定員が減れば、より大規模で残虐なジェノサイドによって人口を調節せざるを得なくなる。だから、ロシアはこの選択をすべきではなかった。
この批判は欧米や日本の資本主義否定論者にも当然当てはまる。自然に帰れなんて幻想は飢餓と粛清しか生まない。
人権思想は人口論を考慮しながらその限界を認めなくてはならない。それと同時に人権の問題は日本人なら人情の問題として戦いを継続することは可能だ。権力による一律な法的解決ではなく、個々の生存の取引の問題として、ドゥーギンの言葉を借りるならナロッドの問題として処理することが可能だ。
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