「チェンソーマン レゼ編」は日本だけでなく海外でも好評だという。建前やポリコレや人権思想だのそんなもの抜きに、本音で生きて戦って平和を守ろうとする人たちは、今の時代どこの国でも求めているものではないかと思う。
今の世界だったらともすると、悪魔と話し合って仲良くできないかだとか悪魔を差別するなだとか言い出すやつもいかねないそ、ビルが壊れれば誰が保証すんだって話にもなる。銃の悪魔に勝てないなら白旗上げて、戦うのを止めれば死ぬ人もいなくなるなんて、そんなこと真面目に言い出すやつはいくらでもいる。
デンジは昭和生まれで貧しかった時代の最後の方の記憶をかろうじて持っている俺としては、今でこそ珍しいが昭和じゃ普通だったなという感じのキャラだ。
戦前は義務教育も尋常小学校までだったし、終戦後の混乱期には親の居ない子供もたくさんいた。親の愛も知らず、ただ搾取されるだけの毎日で、それでも生きていければいいという中で、西洋の映画の朝食シーンには誰もが憧れたものだ。
飯を食いたい。女が欲しい。それをかなえてくれるならやくざの鉄砲玉にでも喜んでなるような人はたくさんいた。奴隷のような絶対服従の組織でも生きていられるだけで幸せだった。それが昭和の時代だった。
多分昭和の日本だけじゃない。世界中どこでも貧しい人達はそうやって生きていると思う。だからデンジの生き方には世界中の人が共感できるんだと思う。
まあ、悪い面もあるけどね。そうやって食うことと女を抱くことにしか興味を持てなかった人たちが、ひとたび豊かになり社会的成功を勝ち取っても、大人になって飯が酒に変るだけで、銀座のクラブや赤坂の料亭で豪遊するのがステータスになって、あの世代のオヤジは簡単に中国のハニトラに引っ掛かる。デンジがレゼに惹かれたみたいに、やばいとわかっていながらはまってってしまうんだろうな。
ハリウッドもヨーロッパ映画も小難しいこと言わずに、こういう本音で生きる人間のドラマを作ってほしい。そうしないと、そのうち日本のアニメに完全に席巻されてしまうよ。今の日本がそうだから。
紀の川いく瀬もあり
三日月の流るゝを
たづか弓矢をつく船やみかの月 其角
翌10月3日、高野山を出て紀ノ川を下り、和歌の浦に向かう。西へ向かうので、夕暮れには行き先に三日月が見えて、その光が川に映し出される。
「たつか弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「手束弓」の解説」に、
「〘名〙 手に握り持つ弓。たつかの弓。
※万葉(8C後)一九・四二五七「手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬたなくらの野に」
※散木奇歌集(1128頃)恋下「つくつくと思ひたむればたつかゆみかへる恨みをつるはへてする」
とある。軍事用の長弓ではなく、狩猟用の座って射れるような小さな弓ではないかと思う。
三日月が弓のようで、その下の光る浪が沢山の矢のように見える。






