2025年9月7日日曜日

  『竹取物語』は純然たるフィクションとは言え、モチーフの一部の中には当時の人の関心ごととかが反映されてたりするのは、ラブ・クラフトの『インスマウスの影』が少なからず侵略の歴史の記憶がアレンジされてるのと似た様なものだろう。
 夢というのは外界の刺激が微妙に反映されるもので、弾丸の雨の降る中を逃げ回る夢を見て目が覚めたら雨が雨戸をバラバラ打ち付ける音がしていたとか、それに似ている。

 斬られたる夢はまことか蚤の跡 其角

のようなものだ。
 だから『竹取物語』は斬られた夢であっても、そこに蚤の跡を見いだすことはできる。
 そもそもかぐや姫の登場は西施のような中国が他国を弱体化させるのに美女を送るという漢籍によって知った事件が反映され、日本の朝廷の貴族たちもたちまちかぐや姫にメロメロになって政治のことも放ったらかして注文の品物の工面に精を出す。あたかも竹取の翁は中国の工作員で、かぐや姫を使って日本の弱体化を図ったかのようだ。
 そのかぐや姫も月へと帰って行く。そしてそのあと届くのが不老不死の仙薬だった。
 中国の高級官僚もまた、怪しげな不老不死の仙薬で却って命を縮める者が多かった。大抵はヒ素が用いられていて、運が良ければ臨死体験をして神仙郷が拝めたに違いない。それが日本に入ってくるというのは一大事だし、実際に奈良時代に入って来ていたと思われる。
 そんな記憶があるから、最後はその仙薬を富士山で燃やすことになる。それは永遠の命なんて欲しくないという日本人のいかにも日本人らしい宣言だった。それはイワナガヒメを捨ててコノハナサクヤヒメを選んだ日本の神話にも繋がる。
 美女に関しても、日本人は絶世の美女にそんなに高い関心を持っていない。美人よりも可愛い女を好むし、その可愛さも人それぞれのヘキに応じて多様化している。少なくとも日本ではミス日本のことがほとんど話題にはならない。その国のミスを知らないというのは世界でも珍しい部類に入ると思う。
 永遠の命と同様、絶世の美女など欲しくないというのもいかにも日本人らしいし、この二つがある限り日本は中国に負けることはないだろう。

 秋天の不二や仙薬要らぬ国

2025年9月6日土曜日

 中国人は古代から不老不死への並々ならぬ情熱を持っていた。
 秦の始皇帝は不老不死の仙薬を求め、その命で徐福に東方海上の三神山を目指し、一説には日本にたどり着いたという。
 唐の時代でも怪しげな仙薬が貴族の間に出回り、ヒ素で却って命を落とすものも多く、運よく臨死体験から生還した者は神仙卿の伝説を広めた。
 今もまたこの夢を追う者が、歴代皇帝のなしえなかった野望を臓器移植に託す。

 不老不死の夢黒塚の秋思哉

2025年7月17日木曜日

  それでは切字の続き。

 第四型

 時鳥暁傘を買せけり 其角

の句は構造としては、

 時鳥(主語)は暁に傘を買わせ(述語)けり(切れ字)

で時鳥が擬人化されている。
 季題が五文字の場合は述語を考えて断定すればいいだけだから、初心者でも作りやすい形なのかもしれない。
 もちろん「けり」の強い断定に囚われる必要はなく、末尾の切字は「かな」「けり」「べし」「ぬ」形容詞の「し」などに変えても構わない。
 元が上五の格助詞の省略された形なので、季語が四文字であれば普通にそこに格助詞を補えばいい。
 下五をより強調したい場合には、下五を倒置にして上五に持ってくることもできる。


 第五型

 かきつばた畳へ水はこぼれても 其角

の句は構造としては、

 かきつばた(主語)は畳へ水がこぼれても‥‥(述語・切れ字の省略)

の形になる。変則的な形なので、表面的には切れ字のない形になる。
 この句の場合は「こぼれても」のあとの文章の省略とも取れるが、たとえば「いいもんだ」というのを補った場合、

 杜若は畳へ水はこぼれてもいいもんだ

になるが、これは、

 畳へ水はこぼれても杜若はいいもんだ

の形にして杜若を前に持ってきたというふうに考えることもできる。つまり大廻しの一種と考えて良い。基本的には倒置した上での切字の省略で、切字だけでなくその上の述語まで省略することもありうると考えればいい。

 鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨

の句は「いわしぐも」の「いわし」を「言わじ」に掛けて「告ぐべきことならず」を導き出す体で、

 鰯雲なれば人に告ぐべきことならず

の「なれば」の省略になる。この句の場合は「ず」が終止言で切字の役割を果たしているし、倒置もないので大廻しではない。

 帰花それにもしかん莚切レ 其角

 この場合も、

 帰花なれば、それにも莚切れを敷かん

であり、「敷かん」という撥ねの言葉が切字になっている。倒置はあるが大廻しではない。

 蟇誰かものいへ声かぎり 楸邨

 これも「なれば」の省略。

 ヒキガエルなれば声限り誰か物言え

の倒置で、「いへ」という命令形が終止言になり切字になる。大廻しではない。

2025年7月15日火曜日

  それでは切字の続き。

10,五つの型との関係

 第一型

 名月や畳みのうへに松の影 其角

の句は構造としては、

 明月の夜には畳の上に松の影(主語)が生じる(述語)や(切れ字)

の述語が省略した形となる。
 第一型は、
 1,頭から順番に言い下す文章に、本来末尾に来る治定の「や」だけが倒置になって、上五の下に持ってくる場合。
 2.下五全体を倒置にして上五に持ってくる場合。
 3.上五を「や」で一旦切ってから、下五に別の文章を続ける場合
の三つがある。
 1の場合は「や」を他の格助詞(「は」「に」「を」など)に置き換えても意味が通じる。

 名月や畳みのうへに松の影 其角
(名月は畳のうへに松の影を落とすや)
 
 2は上五を下五に持っていくと意味が通る。

 明行や二十七夜も三日の月 芭蕉
 (二十七夜も三日の月に明行や)

 3は「や」を他の格助詞に置き換えることもできず、かといって倒置で下五を末尾に持って行ってもつながらない。

 菜の花や月は東に日は西に 蕪村
 

 第二型
 
 越後屋に衣さく音や更衣 其角

の句は構造としては、「衣更えで越後屋に衣さく音(の響く)や」の倒置になる。
 「や」に限らず中七が終止言で切れる場合は、ほとんどの場合が下五を頭に持って来れば意味が通じることが多い。
 そのため、この第二型は「や」を「けり」「なり」「たり」「し」などに変えることができる。

 葛の葉の面見せけり今朝の霜 芭蕉
 (今朝の霜に葛の葉の面見せけり)
 撞鐘もひびくやうなり蝉の声 芭蕉
 (蝉の声に撞く鐘もひびくようなり)
 誰やらが形に似たりけさの春 芭蕉
 (今朝の春は誰やらが形に似たり)
 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
 (最上川は五月雨を集めて早し)

 ただ、この倒置は必ずしも上五に来ない場合もある。

 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 子規

の場合は「柿食えば法隆寺の鐘が鳴るなり」の倒置になる。


 第三型

 かまきりの尋常に死ぬ枯野かな 其角

の句は構造としては、

 枯野でかまきりは(主語)尋常に死ぬ(述語)かな(切れ字)

の倒置された形となる。この場合はゼロ型と言っても良い。
 「かな」は末尾に来ることがほとんどであるため、ゼロ型と変わらないが、主語や述語が省略される場合もある。

 春たちてまだ九日の野山かな  芭蕉

は「野山は春立てまだ九日(なる)かな」で述語が省略されている。

 なにの木の花ともしらずにほひかな 芭蕉

は匂いを放つ主語(おそらく伊勢神宮を指す)が省略されている。

2025年7月14日月曜日

  切字の続き。

 土芳の『三冊子』「くろさうし」には、

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

とある。

6,「たり」「なり」「べし」などの終止言

 基本的には「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。

7.「し」

 これは文語形容詞の語尾の「し」で、過去の「し」は切れ字にはならない。口語形容詞の「い」は連用形が同型でであるため、明確に終止形だとわかる場合以外は切れ字として機能しない。
 これも「かな」「けり」と同じように下五の末尾で用いたり、倒置にして中七の途中や末尾に用いたりする。
 倒置で上五に持ってくることもできるが、その場合は「おもしろし→おもしろや」のように「や」を使うことが多い。
 また倒置で形容詞を上五に持ってきた時に、語尾の「し」を省略する場合があり、この場合は「三体発句」と呼ばれる。

 あなたふと青葉若葉の日の光 芭蕉

の句はよく知られている。
 日本語の形容詞は口語では語尾が省略されることが多い。現代語でも「こわい→こわっ」「はやい→はやっ」「きもい→きもっ」という例は枚挙にいとまがないが、こうした省略は平安時代の『源氏物語』にも見られる。

8,疑問反語の言葉

 終止言ではないが「何」「いつ」「いづこ」などの疑問の言葉は通常の文では末尾にも疑問の「や」を補い、「何を言わんや」「いつ来るや」「いづこより来たらんや」の様に用いるが、この「や」を省略しても完結した文章として成立する。そのため切れ字とされてきた。

 何に此師走の市にゆくからす 芭蕉

は「何(ゆえ)にからすはこの師走の市に行く(や)」の倒置で、疑問の切字の「や」が省略されたものと考えて良い。

 いづくしぐれ傘を手にさげて帰る僧 芭蕉

の場合は「いづく時雨(や)、傘を手にさげて帰る僧」の切字の「や」の省略と考えて良い。

9,大廻し

 中世連歌の時代から切字なくても句が切れる例として「三体発句」と「大廻し」が挙げられてきた。三体発句の方は形容詞語尾で切字になる「し」の省略で説明がつく。
 また、「三体発句」「大廻し」の用語は口伝で伝わっていくうちに途中で変化していることもあり、芭蕉の師匠でもある季吟の『季吟法印俳諧秘』では、

   「第十二 大まはし発句事
 あなたうと春日のみがく玉津嶋 古句
 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣
 右三通の発句、甚深の相伝有事也。其道の堪能ならずしては、仕立やう知とも無益の事也。俳踰の罪のがるるに所なけれ共、とてももの事に愚句一句書付侍し。」(俳諧秘)

とあり、季吟には正確な伝授がなかったと思われる。
 また「或人之説 連俳十三ケ條」に、

  「大廻し之句とて、
 五月は峰の松風谷の水
 右大廻し共、三段共、三明の切字共云也。やの字をくはへてきひて書也。十八てにをはの格也。
 松白し嵐や雪に霞むらん
 音もなし花や名木なかるらん
 右の格也。上五文字にて、し、やと疑ひ、扨はねるにてにをはなり。」(俳諧秘)

とある。
 この句の場合は「五月は」では字足らずで書き間違えがあったのか。ここが五文字だとして、「五月や」でも意味が通じるから、「やの字をくはへてきひて書也」ということなのであろう。「や」を使うべき所を「は」としても切れるということなのだろうか。
 このあとに「や‥‥らん」の例を挙げているように、

 五月や峰の松風谷の水なるらん

の「なるらん」の省略と思われ、「や」と切るべき所を「は」とした句と思われる。

 花さかぬ身はなく計犬ざくら  元隣

の場合は、「犬桜を見るにつけても、そのような小さな花すらさかぬ身は泣くばかり」という句で、「泣くばかり」のあと本来来るべき「なり」の省略と見て良いだろう。
 大廻しは基本的には終止言の省略と見て良いのではないかと思う。また、「大廻し」という名称は倒置の際に終止言が省略されるという意味合いがあったのではないかと思う。
 切字のない句の例としては、誰もが知る、

 目には青葉山時鳥初鰹 素堂

の句がある。これも、青葉、時鳥、初鰹すべてそれぞれ述語が省略されているが。「目に青葉」ではなくあえて字余りでも「目には青葉」とした所に、この「は」に「や」と同等の意味を持たせようとしたのではないかと思う。
 中世連歌でも梵灯の『長短抄』では、

 山はただ岩木のしづく春の雨

は大廻しで、

 あなたうと春日の磨く玉津島

は三体発句になる。
 「山はただ」の句は、「春の雨に山はただ岩木のしづく(なり)」の倒置による終止言の省略なので、おおかた大廻しは「倒置の際の終止言の省略」で合っていると思う。

2025年7月13日日曜日

 4,「かな」という切れ字

 「かな」は治定の切れ字になる。疑問を持ちつつも主観的にそれを肯定する働きを持ち、強い主観的な肯定は詠嘆にもつながる。主観性が強いという意味では「けり」や「たり」とは異なる。
 今日の標準語では「かな」は疑問には用いられるが、語尾を下げて「かなあ」としてもやはり疑問の言葉にしかならない。「かな」を治定に用いる用法は関西方言の「がな」にその名残を留めている。
 下七の末尾に用いられるのがほとんどだが、希に倒置で用いられることもある。

 乞食かな天地を着たる夏衣 其角

は「乞食は天地を夏衣に着たるかな」の倒置で、これが「乞食は天地を着たる夏衣かな」になり、例外的に係助詞のように「乞食かな天地を着たる夏衣」になる。特殊な例と言えよう。上五を「こつじきや」にすると、この「かな」の働きが係助詞的なものだというのがわかる。
 付句では、『大坂独吟集』第五百韻、鶴永独吟百韻「軽口に」の巻に

    大師講けふ九重を過越て
 匂ひけるかな真木のお違

の用例がある。「真木のお違(棚)の匂ひけるかな」の倒置で、この場合は上の言葉ごと倒置になっている。
 「かな」は治定の言葉という点では「や」に似ているので、推敲などの際には「や」と「かな」は変換して考えることができる。

 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
 古池に蛙飛び込み水音かな

 木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉
 木の下や汁も鱠も散る桜

もちろん、可能というだけのことで、句を案じている時にうまくまとまらない時にはこういう操作をしてみると良いかもしれない。

5,「けり」

 「けり」は主観性が弱く客観性が強く、単に過去というよりも完了に近く、もはや取り返しのつかないというニュアンスを持っている。
 
 道の辺の木槿は馬に食はれけり 芭蕉

はそのニュアンスを生かし切っている。
 それゆえに使うのが難しく、芭蕉はあまり「けり」の字を好まず、用例も少ない。逆に近代の写生説の時代には多用された。

2025年7月7日月曜日

  おとといの切れ字の話の続き。

 他の切れ字の場合はその切れ字を受けている上の言葉も倒置にする必要があるし、この操作は「や」でもできる。

 かなしまむや墨子芹焼を見ても猶 芭蕉

の場合は「墨子芹焼を見ても猶かなしまむや」の倒置であることがすぐわかる。「や」だけでなくその上の文まで倒置にする例は、特に中七に「や」を持ってくる句に多い。

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 芭蕉
 (軒の栗は世の人の見付ぬ花や)
 ともかくもならでや雪のかれお花 芭蕉
 (ともかくも雪の枯れ尾花にはならでや)

 こういう倒置は他の切れ字でも頻繁に行われる。


3,「か」という切れ字

 「か」は「かな」に適うという。

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮
 木枯らしに浅間の煙吹き散るか 虚子

は「吹き散るかな」と切るべき所を字数の関係で「か」で止めている。

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音 芭蕉

 この句も山吹が散っていることに疑問を呈するのではなく、滝の音とともに山吹も散っているかのようだと、主観的に治定する「か」で字余りを気にしないなら、

 ほろほろと山吹散るかな滝の音

としても良いところだ。

 草枕犬も時雨るかよるのこゑ 芭蕉

 同じ治定の言葉に「や」もあるから、「時雨るや」でも良さそうな感じがするが、「か」の方が疑問の用法で多用されるために、疑問の強い治定、主観性を強調したい治定の場合は「か」を用いているように思える。
 稀だが、「かや」というのも用いられる。

 一里はみな花守の子孫かや 芭蕉

 これは花守の子孫だという伝承に対して、本当かどうかわからないがこの土地に敬意を評して信じておくべきだ、みたいなニュアンスが感じられる。この場合の「かや」も「かな」よりも疑いの強い治定と見て良いだろう。治定するにしても、まさかそんなことがあるのかみたいな驚きを伴う時には「かな」では弱い。
 「か」はもちろん疑問にも用いられる。

 切られたる夢はまことか蚤のあと 其角

 夢は外界の影響を受けるというのはよく言われる。戦地で弾丸の中を逃げ惑う夢を見て目が覚めたら、大粒の雨がトタン屋根をバラバラ打ち付けていた、なんて話も聞く。
 この句の場合切られた夢を見てはっと目を覚まし、切られた箇所を確認すると、そこに蚤に喰われた跡があって、「本当だったか」というわけだが、勿論ここは「本当だった」と治定するわけではない。夢は夢、幻は幻だ。
 この句の場合も「夢はまことや」としてしまうと、蚤の跡を見つけた時の驚きが伝わってこない。

 「か」は「や」と同様係助詞でも用いられるが、「や」のような助詞だけでの自在な倒置は行われない。上にくる言葉ごと倒置するのが常だ。少なくとも、

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮

の句で、

 木枯らしか二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日か月の吹き散る
 木枯らしに二日の月か吹き散る

という操作はできない。「や」であれば、

 木枯らしや二日の月の吹き散る
 木枯らしに二日や月の吹き散る
 木枯らしに二日の月や吹き散る

という操作は可能だ。