2025年3月2日日曜日

 今日は湯河原の「湯河原春のたより俳句大会」へ行った。
 湯河原の街を散歩した。

 人声の霞は遠く海朝日  人声の怖くはないと花を友

 そのあとHUMANS BEERでビールを飲んだ。

 湯河原やクラフトビアの桃の酒

2025年2月28日金曜日

  今日は句会があった。

 凧天に武者も役者も中間も
 薄ら氷のかけらの如し全世代
 むしられることが前提草萌ゆる

 「句兄弟」の方、岩波文庫の『毛吹草』が届いたので、この前の七番の「禅寺のはなにこころやうき蔵主」の作者名がわかった。

 禅寺の花に心や浮坊主   弘永

とあった。堺市中央図書館/堺史のHPに、

 「夕陽菴弘永
 夕陽菴弘永其姓氏は明かでない。【堺の俳人】堺の人で、後天王寺村に卜居し導と改めた。【松江重賴の門人】俳諧を松江重賴に學び、晚年師風を變じて異體の句を吟じた。或は弘永は重賴の門葉でなく、其知友だともいはれてゐる。【家集】家集に獨吟集がある。歿年世壽は詳でない。案ずるに寬文の末頃の人であらう。(誹家大系圖)」

とある。

2025年2月27日木曜日

 今日は小田原の辻村植物公園の梅を見に行った。行く時には小田原フラワーガーデンの前を通り、そのあと小田原城にも寄った。

 それでは「句兄弟」の続き。

「九番
  兄
達磨忌やあさ日に僧のかげ法師   岩翁
  弟
達磨忌や自剃にさぐる水かがみ

 論俳句如禅日の影と水影差別なし。空房獨了の以て似ぬ影二句一物なし。」(句兄弟)

 岩翁は息子の亀翁ともども其角の門人。『雑談集』の大山詣や、この『句兄弟』所収の元禄七年の大阪行きの「隨縁記行」にも同行している。
 達磨忌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「達磨忌」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 禅宗で、始祖達磨大師の忌日に行なう法会。毎年一〇月五日。少林忌。初祖忌。《 季語・冬 》
  [初出の実例]「二祖と云は、達磨忌と百丈忌とぞ」(出典:百丈清規抄(1462)三)」

とある。今は月遅れで11月5日に行う所もある。禅宗だけに、儀式にそれほどの派手さはなく、禅僧が集まって、朝日にその影が出来て、これが本当の影法師ぐらいしか見どころがなかったのだろう。
 影法師というと、貞享五年の芭蕉の『笈の小文』の旅で、吉田宿から保美の杜国の所へ向かう時に、

 冬の日や馬上に氷る影法師   芭蕉

の句を詠んでいる。「法師」というのは影が黒いから黒い僧衣を着ているみたいだといういみだろうけど、この時の芭蕉も僧形だったと思われるし、達磨忌の影法師も皆僧形で、どっちが影だか、という所が一応の面白さというか、朝日や冬の低い日に、一方では長い影が出来て、一方では日を背にしたシルエットになった黒い実体があって、どっちが影やらという、そこが重要なのかもしれない。
 ところで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「影法師」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① =かげえ(影絵)②③
  ② 光をさえぎったため、地上や障子、壁などにその人の形が黒く映ったもの。かげぼう。かげぼし。かげんぼし。
  [初出の実例]「影法師見苦しければ辻相撲月をうしろになしてねるかな」(出典:七十一番職人歌合(1500頃か)六三番)
  ③ 鏡や水などに映った像。
  [初出の実例]「水鏡を見てあれば、影法師が我があいてになって、いつもかわらずけらけら咲をして戯るるぞ」(出典:四河入海(17C前)二)
  ④ ( 影の人の意 ) 演劇や映画などで、ある人物の替え玉となる人。吹き替え。スタンドイン。
  [初出の実例]「ハテナ、わしゃ、かげぼうしかとおもった」(出典:咄本・出頬題(1773)芝居)
  ⑤ 想像によって目の前に描き出す、人物や物事。
  [初出の実例]「皆此方の影ぼうしを相手にして、けんくゎする様なものぢゃ」(出典:松翁道話(1814‐46)一)」

となっている。今はあまり使われないが③の意味が17世紀にはあったようだ。そこで、其角の句の「自剃にさぐる水かがみ」の水に映る自分の姿も「影法師」と呼ばれてたことがわかる。
 「論俳句如禅日の影と水影差別なし」というのが、どちらも当時は影法師と呼ばれていたという点では、確かに言葉の上では差別はない。「論俳句如禅」は当時は「俳句」という単語がなかったから、禅の如く俳の句を論ずということだろうか。その上で「日の影と水の影」は同じ影法師という言葉で言い表され、空房(他に誰もいない部屋)で獨了(一人悟る)なら、日の影と水の影は同じ物だ、と禅問答めいている。
 確かにどちらも虚像には違いない。ただ、よくよく悟るなら、目に映るものはすべてが虚。日の影も水の影も虚なら、そこにいる僧もまた虚。形あるものはすべてが影法師にすぎないということになる。
 禅においてもそうだし、俳諧でいう虚実論の「虚」もまた我々近代人が考えるような「虚構」のことではなく、神羅万象目に移り耳に聞こえるものみな「虚」に含まれる。そこから喚起される風雅の誠の情だけが「実」ということになる。

2025年2月26日水曜日

 今日は秦野の上大槻の菅原神社の梅を見に行った。
 気温もようやく昼くらいには上がって暖かくなり、もうすぐ河津桜の季節になる。それまではまだまだ梅見の季節が続く。

 それでは「句兄弟」の続き。

「八番
  兄
陰をしき師走の菊のよはひかな   露沾
  弟
秋にさへ師走の菊も麦ばたけ

 中七字珍重すべし、歳の昏の惜まるる詠より分て霜雪の凋むに後るる対をいはば僅かに萌いでし麦の秋後の菊をよそになしけん姿と句とただちに立り。愛菊の情かはらずして光陰を惜むと待とにわかれたる也。」(句兄弟)

 菊は重陽の頃を過ぎると霜に当って枯れるというのを本意とするので、そこで枯れずに残った師走の菊は長生きしたわけだが、それもおそらく年を越すことがなく、つまり露沾の句は新年を迎えて一つ年齢を重ねることもないという意味で言っているのだろう。
 長生きはしても死は免れないという、人の年齢にも重なる。
 其角はこの師走に残った菊と対句になるように、芽の出てきた麦を添える。こういう対句は漢詩的な発想だが、付け句の際の相対付けもこの発想になる。師走の菊というのが一つの趣向として面白いということで、その時芽生えた麦もやがて麦秋を迎える、という時間の半年異なるものを取り合わせるというのだが、かなり無理な感じの取り合わせだ。
 意味としては「師走に芽生えた麦もやがて夏に麦秋にさえなるものを、まして師走の菊はなお哀れなり」だが、それを五七五に収めるのはかなり苦しい。

2025年2月25日火曜日

  今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。梅も大分先揃ってきた。

 それでは「句兄弟」の続き。

「七番
  兄
禅寺のはなにこころやうき蔵主
  弟
客数寄やこころをはなに浮蔵主

 ざれ句にたてし詞ながら古来は下へしたしむ五字を今さら只ありにいひ流したれば、花見る庭の乱舞をよせたり。毛吹時代の老僧など当座取望むならば花やかに耳立たらん句よりは得興の専をとるべきや。」(句兄弟)

 兄句は正保元年(1645年)刊松江重頼編『毛吹草』所収の古い句。
 「浮蔵主(うきざうす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「浮蔵主」の意味・読み・例文・類語」に、

 「〘 名詞 〙 ( 「蔵主」は禅寺の経蔵を管理する僧職 ) ひょうきんな僧侶。心のうわついた道楽坊主。
  [初出の実例]「禅門うき蔵主にてよき伽なり」(出典:咄本・醒睡笑(1628)一)」

とある。
 禅宗はあまり戒律とかに頓着しない傾向があり、座禅の瞑想による判断停止状態(エポケー)の状態で得られる、様々な先入観から解放された自由を尊ぶ所がある。一休禅師など、その典型とも言える。世間から見れば生臭坊主だとか浮蔵主とかいうことにもなる。
 兄句はそういうあたりで、禅寺の浮蔵主は花に浮かれていても、花の心は禅の心にも通じるということなのだろう。
 「花やかに耳立たらん句」の耳立はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「耳立つ」の意味・読み・例文・類語」に、

 「① 耳ざわりに聞こえる。角立って耳にさわる。
  [初出の実例]「ただならずみみたつことも、おのづから出でくるわざなれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)
  ② 聞いて心にとまる。
  [初出の実例]「下のきざみといふきはになれば、ことにみみたたずかし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)」

の意味があるが、この場合は花やかを受けて、「耳障りの良い、一般にわかりやすい」くらいのニュアンスか。面白いけど、面白さがわかりやすすぎてあざといとうことか。
 それに対し「得興の専」、興を得るを専らとする、というというのは、禅の心などと言う大仰なテーマを外すということだろう。単純に数寄者の客の求めに応じて逆らわずに心を花にできる、なかなか場を心得た浮坊主という人柄の良さの方に持っていく。

2025年2月24日月曜日

  昨日、今日と雪のちらつく寒い日が続く。昨日は句会があった。

 薄ら氷や割れて命の封を解く
 凧揚げの空に消えゆく心かな
 春愁やカードゲームの終わりなき

 それでは「句兄弟」の続き。

「六番
  兄
三絃やよし野の山をさつきさめ   曲水
  弟
三味線や寝衣にくるむ五月雨

 さみだれの長閑にくらすとも読けるに、きのふもけふも降こめて同じ空なるもどかしさよ。殊に引習と聞ゆるか。同じしらべのほちほちと軒の玉水にかよひたらば物うからましと思ひよせたる也。
 それを寝巻にといふに品かはりて閨怨の音にかよはせ侍るゆへとへかし。人の五月雨の頃と思ひなして何となく淋しき程をつくづくと思ふ心もこもり侍り。倦むと忍ぶとのたがひ決せリ。」(句兄弟)

 曲水の句の「よし野の山」は其角の解説を見ると、「同じしらべ」とあるように、どうやら三味線の曲名のようだ。おそらく貞享二年刊『大ぬさ』に収録された「吉野山」のことであろう。コトバンクの「改訂新版 世界大百科事典 「大ぬさ」の意味・わかりやすい解説」に、

 「《大怒佐》《大幣》とも表記する。近世の音楽・歌謡書。著者不詳。1685年(貞享2)初刊とされるが,87年刊《糸竹(しちく)大全》に《紙鳶(いかのぼり)》《知音の媒(ちいんのなかだち)》と合収,99年(元禄12)版が流布。4巻。〈引手あまた〉の意から大幣の字をあてて書名としたものだが,本文中にその用字はない。巻一は三味線の奏法などの記事と《吉野山》《すががき》などの譜,巻二は《りんぜつ》《れんぼながし》《当世なげぶし》の譜,巻三は三味線組歌の本手・破手(はで)の詞章と,秘曲の曲名,巻四は新曲22曲の詞章を収める。記譜のあるものは《紙鳶》の一節切(ひとよぎり)の譜と対照され,《れんぼながし》以外は《糸竹初心集》の箏譜と比較できる。これらによって近世初期の三曲合奏の実態を把握しうる。巻三・四の詞章は,地歌詞章のまとまったものとして最古のもの。

 なお,同名の歌学書もあり,これは中川自休著,1834年(天保5)刊。1冊。村田春海(はるみ)門下の秋山光彪(みつたけ)の《桂園一枝評》に対して,《桂園一枝》の作者香川景樹が自門の著者に反駁させたもの。
 執筆者:平野 健次」

とある。youtubeで桃山晴衣さんの三味線と歌を聞くことができる。
 「殊に引習と聞ゆるか」とあるように、三味線の練習で引く人が多かったのだろう。練習だから同じ曲を繰り返し繰り返し引いて、そのぽつぽつ聞こえる音が雨だれのようで、「三味線で吉野之山を五月雨のようにするや」の「や」が倒置になって、「三絃やよし野の山をさつきさめ」となる。春雨を「はるさめ」というように「五月雨」を「さつきさめ」ということもあったようだ。
 其角はそれを「寝衣」に変える。「寝衣」は「しんい」で寝巻(ねまき)と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「寝衣」の意味・読み・例文・類語」に、

 「しん‐い【寝衣】
  〘 名詞 〙 寝るときに着る衣服。ねまき。
  [初出の実例]「これを蒲豊、寝衣の下に押入れ、それをして驚き醒しめたり」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉四)
  [その他の文献]〔論語‐郷党〕」

とある。「しんい」は『論語』「郷党」にも出てくるが、ここでは「ねまき」と呼んだ方がいいのかもしれない。
 「寝衣」「寝巻」は庶民が寝る時に着る「夜着」ではない。「夜着」は「布団」ともいう。昔の布団は着るタイプのものだったが、綿が入っていて分厚い。これに対し「寝衣」「寝巻」は薄手のもので、上臈をイメージさせるものだった。
 芭蕉が『奥の細道』の旅で羽黒山で巻いた「めづらしや」の巻二十二句目に、

   此雪に先あたれとや釜揚て
 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

とあり、元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目には、

   萩を子に薄を妻に家たてて
 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

の句がある。後者は同座した芭蕉が「上臈の旅なるべし」と助言したことで即座に去来が、

   あやの寝巻に匂ふ日の影
 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

の句を付けたことが『去来抄』に記されている。

 三味線や寝衣にくるむ五月雨   其角

 この句はそういうわけで、三味線の主は上臈で、寝衣にくるまりながら夜な夜な五月雨のように三味線を掻き鳴らす情景になる。その音はおそらく来ない夫を待つ怨嗟の調べなのであろう。「閨怨の音にかよはせ」とある。
 閨怨詩は漢詩の一つのジャンルで、中国では出征した兵士の留守を預かる夫人の情を詠んだものが多いが、それに限らず一人寝の女性の恨みをテーマにしたもの一般を指す。
 曲水の兄句は不慣れな芸伎の練習風景にすぎなかったものが、寝衣の言葉一つで閨怨詩の世界へと転じることになる。ただ、それは漢籍などの高い素養を持つものにはわかっても、一般の人には難解な句と受け止められたのではなかったかと思う。

2025年2月21日金曜日

 
 昨日は南足柄市運動公園や池ノ窪梅林を見に行き、今日は秦野西田原の香雲寺の梅を見に行った。梅三昧の日々だ。
 昔一頃ロックをやるものは生活をロックにしろと言ったものだが、俳句もまた生活を俳句にすることが大事だ。日々花を見て歩き、古典に親しみ、古典の血脈を引く非西洋芸術的なラノベ漫画アニメにも親しむ(最後は余計か?)、それが俳句の糧になる。

 それでは「句兄弟」の続き。

「五番
  兄
雨の日や門提て行くかきつばた   信徳
  弟
簾まけ雨にさげくるかきつばた

 杜若雨潤の一体時節のいさぎよく云立たれども、難じていはば雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル流俗の句中にはらまれて、一句の外に作うすし。されば、向上の句に於ては題と定めずして其こころ明らかなるたぐひ多かる中に、杜若景物の一品なれば異花よりも興を取ぬべくや。雨の杜若とおもひ寄たらんは句作のこなしにて手ぎは有べき所也。老功の作者を識りていふにはあらず。
 門さげてゆくと見送りし花の我宿に入来る心に反工して、花の雫もそのままに色をも香そも厭ひけるさまを、すだれまけと下知したるなり。往と来との字二にして力をわかちたると判談せん人本意なかるべし。問答の句なるゆへつのりて枳棘の愚意を申侍る。」(句兄弟)

 「門提て行く」の意味だが、評の所に「門さげてゆくと見送りし」ある所から、門を閉じて出て行くということか。
 杜若雨潤というように、雨に濡れた杜若は特に美しいから、お寺のお坊さんも今日は一日休業とばかりに門を閉めて見に行くということなのだろう。
 「雪中の梅花をかざし闇夜につつじを折ル」とある雪中梅花は画題にもなっているが、「闇夜につつじを折ル」は正徹の歌に、

 いそぐなよ手折るつつじの灯に
     よるの山路はかへりいてなん
                正徹
 夜こえむ人のためにとくらぶ山
     木の下つつし折りもつくさじ
                正徹

とあることから、ツツジは闇夜でも明るいから灯火代わりに折って行くという趣向は定番化してたのかもしれない。
 「流俗」は『拾遺和歌集』の、

  「世の中にことなる事はあらずとも富はたしてむ命長くは
  中将にはべりける時、右大弁源致方朝臣のもとへ
  八重紅梅を折りて遣はすとて
                 
 流俗の色にはあらず梅花   右大将実資

 珍重すべき物とこそ見れ   致方朝臣」

という短連歌にも用いられている。そんじょそこらのというような意味か。杜若雨潤の美しさも、ありきたりな趣向で、信徳の句に強いて難を言うなら、その趣向の凡庸さから逃れるものではない、ということなのだろう。
 「向上の句」つまりそこからさらに一歩進んだ句にするには、杜若雨潤の心を直接言うありきたりさを避けて、あえて言外に隠ように作るのが常道で、杜若とあるだけで雨に潤う景は十分伝わるし、他の花にはない杜若ならではの趣向になる。老練な作者は大体そうする。
 『去来抄』にも、

 「 つたの葉───     尾張の句
 此このほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹ふきかへさるゝと云いふ句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂までいひつくす物にあらずト也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

とある。

 蔦の葉は残らず風のそよぎ哉   荷兮

の句のことと思われるが、蔦というだけで既に風に吹かれる蔦の葉の景色が含まれてるため、あえて言う必要がない、ということだ。
 ただ、これは通俗的に月並み化した趣向に対して言えることで、最近では夏井いつき病が凡庸な俳人の中に蔓延していて、何でもかんでもこの句のこの言葉は必要ない、無駄だなどと難じたりするが、長年俳句をやってる大ベテランなら想像のつくことでも一般の読者にはすぐには思いつかない場合も多い。読者に過大な想像力を期待するべきではないし、そういうベテラン向けの句は大体において一般人には珍紛漢紛なものだ。
 さて、其角の弟句だが、信徳の門を下げて出て行くという趣向をひっくり返して、門を提げてやってきた客人を迎え入れて、ならば簾を上げて杜若をよく見ていってくれ、という句に作り変える。
 「雨に」は杜若に掛かるのではなく客人に掛かるため、直接雨の杜若を表すのではなく、雨の杜若は間接的な想像に変わる。微妙な違いだけど、これが杜若雨潤の凡庸を回避する一つのテクニックだ。そして、門を提げてやって来た兄句に対する返答の句にもなっている。この技を今の俳人の誰が理解するだろうか。