2024年10月2日水曜日

 今日は山中湖を通って、山中湖花の都公園に行った。
 ピンク色の蕎麦の花が咲いてた。別の所には白い蕎麦の花もあり、他にもコスモス、百日草、向日葵が咲いていて、黄花コスモスは終わりかけてた。

 市川沙央さんのいう、敗戦によって生じたGHQになりたい願望は、実際はすぐに日本に異世界転生の流行を生み出すことはなかった。

 なぜなら洋行できるだけの余裕ある人は西洋という異世界に行って、いくらでも劣等民族日本を啓蒙するという形で復讐欲が満たされてたからだ。
 異世界転生が流行するには、逆に日本人が日本人としての誇りを取り戻して、昔のヨーロッパを現実の西洋史とは違う日本的な道に開花するという意味での逆GHQを思いついたからだ。
異世界転生で知識チートを用いても、そこに西洋思想、特に革命思想が持ち込まれることはなかった。
 異世界転生でチート能力や知識チートで無双する世界は、君主制を否定するというよりは、君主制の中で理想の世界を実現するものの方が圧倒的に多い。
日本人がGHQになって西洋を啓蒙しようとした時、基本的に一君万民にに近い考え方になった。魔王の下で全ての種族が平等になるような転スラ的な世界に。
 異世界転生もののルーツというか、タイトルは忘れたが70年代の少年漫画で、いつもいじめられている子が全てが脆くできている世界でヒーローになるというのがあったと思う。
こういう一発逆転的な発想は昔からあったのだろう。

 結局異世界転生ものが叩かれるのは、かつて西洋文化を学んで知識チートで「君、今西洋ではね」と今でいう出羽守で無双できた時代があったのが、日本が豊かになったら逆に日本の常識を異世界に持ち込んで無双するヒーローがもてはやされるようになって、自分たちが叩かれる立場になって、悔しいんだろ。
 「角川文庫発刊に際して」という1949年の角川源義さんの、

「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。」

の言葉は、戦後思想の出発点だったといってもいい。
 だが、一部の人は日本の敗北を日本文化そのものの敗退と捉えて反日になっていった。
 角川さんのこの文章は、

 「あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し」

というここが大事で、俳句もラノベも江戸時代の日本の庶民によって作られた大衆文化の再建であって、闇雲な西洋崇拝や劣等民族論とは真逆なものだった。
 まあ、これが角川文庫が左翼知識人に軽く見られた原因でもあった。

 戦後のアカデミズム全体を覆ってた日本を否定しようという雰囲気と、騎馬民族説の流行もあって、日本にあるものが朝鮮半島でも見つかると、悉く朝鮮半島起源だと声高に主張された時期があった。今の韓国人の何でも自国起源の主張は、多分その影響が大きいのだろう。
 その後日中国交回復があり、中国南部の少数民族文化の研究が進んでくると、そちらにも似たものがあるのがわかってきて、広く長江文明に起源があると考えられるようになった。
 俳句は和歌から派生したものだったが、和歌の起源は長江文明の影響下にあった様々な地域に見られる、歌垣という男女が歌のやり取りで結婚相手を見つける習慣から来ているのだろう。
 平安時代に和歌の上句に下句で答えるやり取りから連歌が生まれ、上句が独立して発句となり、近代に俳句となった。
 今でもそうだが、文化の伝達速度は極めて速くて広範囲に及ぶもので、笙は中国南部から東南アジアにかけて広く見られるのでその辺りが起源と思われるが、これが西へ伝わるとバグパイプになり、それが大型化したのがパイプオルガンになった。
 琵琶も西へ渡るとリュートになり、ギターになった。

2024年9月1日日曜日

 伊勢湾台風に匹敵すると言われながらも、大きな被害もなく台風は熱低に変わり、天気も回復するのだろう。
 これも日本の治水技術の勝利なのだろう。

 上流のダム有り難き野分哉
 脱ダムも声なかりけり大野分

 久しぶりにコロナの時のような家にお籠もりする生活で、三年前みたいにパラリンピックのゴールボールでも見ながら、まあたまには息抜きだ。
 米が店に並ばないんで、パン、素麺、饂飩、パスタ、お好み焼き、それに駅前のネパール人の店で買ったパキスタン米をカレーにしたりリゾットにしたりで、何とか普通に生活している。
 別に昔みたいな米蔵が襲撃されるようなこともなく、日本は平和だ。米がなくても食うものは他にたくさんあるからね。ケーキだってあるし。

 俺がもし日本を弱体化させるのにはどうすればいいかと聞かれたら、たいして力のない左翼を利用するよりも、保守を分裂させることだと答えると思う。
 実こうした工作は去年のLGBT法の頃から行われてるし、それは十分な成果を挙げている。次の一手は外国人への憎悪を煽ることで、これも既に成果を挙げてる。右翼は中国の手の上で踊ってるようなものだ。

 中国が日本本土を侵略する可能性は極めて低いし、本命が台湾なのは明白だ。そのために既に沖縄は人質に取られている。
 沖縄に米軍や自衛隊の基地があることを根拠に、沖縄が戦場になるという恐怖を与え続けている。中国側に付けば沖縄が戦場にならずに平和なままでいられるとなれば、それを選択する人も当然いる。デニーさんはまさにそれだ。
 実際に中国が沖縄を攻撃してしまうと、もはやこの脅しは通用しないから、中国としては周辺の海域を封鎖することで沖縄の基地を無力化できないか探ってるのではないかと思う。
 太平洋側からの沖縄への補給路を断つのは難しいが、佐世保やあるいは韓国の基地からの沖縄への補給なら何とかなるのではないかと、今は九州の南西海上で制海権・制空権を取れるかどうかを探っているのだと思う。
 沖縄が無傷のまま台湾併合が成功すれば、次は沖縄の割譲を迫って来る可能性はある。かつての琉球は中国に朝貢してたから、沖縄が中国固有の領土だという主張は今でも見られるからだ。
 この段階で初めて本土侵略の脅しをかけてくるだろう。つまり、沖縄を切り捨てれば本土は平和のままだという餌で釣れば、日本の世論を二分できるからだ。
 台湾との戦局が悪化した時に中国が沖縄基地攻撃を行う可能性ももちろんある。ただ、この場合沖縄の人達も中国の脅威を現実的なものとして認識することになるから、中国に吸収されても良いことはないというのはわかることになる。
 最悪なのは、そこで日本が本土に戦火が及ぶことを恐れて沖縄を切り捨てる選択することだ。こうした裏切りは千年の禍根を残すことになる。逆に言えば、中国側は沖縄を差し出せば日本が安全であるかのような情報工作を日本のメディアを通じて行って来る可能性が高い。

 沖縄は本来独立国であった。
 中国に朝貢してた頃は平和だった。
 琉球処分は日本の侵略だった。
 琉球人は日本人によって長年差別を受け続けてきて、今でもそれを恨んでいる。
 太平洋戦争の時に沖縄だけが戦場になったのも、日本政府の悪意によるものだったし、日本軍が積極的に虐殺に加担していた。
 琉球人と日本人は本来相容れるものではない。

 こうしたプロパガンダの積み重ねは、左翼の間にはとっくに浸透しているが、保守の間にはほとんど効いてない。さて、保守を分断させるにはどういうプロパガンダが効果的か。多分もうすぐわかると思う。

2024年8月27日火曜日

  ジョン・レノンが「イマジン」という曲をリリースしたのは1971年のことで、既に半世紀以上前のこととなる。

 あの頃は国境のない世界というのはイマジネーションの中の世界のもので、そこに戦争も争いごともない平和な世界を夢見ていた。

 だが半世紀たった今、実際には国境は無くなってないものの、世界中の人権団体が様々な形でその世界を実現しようとしてきた結果、様々な困難な現実も見えてきた。

 そもそも国境がないということは、軍隊が自由にどこの国にでも行けるということになる。実際ロシアはウクライナを侵略したし、返り討ちに合ってひどい目にあってるもののハマスもイスラエルに侵攻した。

 そして、国際世論は決して一致団結して侵略にノーということはなく、それぞれの立場から意見はバラバラに分かれていった。

 国境を自由に越えられるのは軍隊ばかりではない。犯罪者もまた同じだ。移民や難民を装った不法入国者が世界の治安に恐怖を与えている。

 国境がないということは法律もまた国境を越えてくる。イスラム原理主義者は居住する国の法律に従うこともなく、イスラム法に従う。

 明文化された法律だけでなく、様々な国の慣習法も国境を越えて、一つの地域に複数の法律が併存する状態になった。これでは何が犯罪なのか人によって解釈が異なり、事実上の無法状態に陥ってる。

 喩えて言えば、車が右を走ったっていいじゃないか、俺の国ではそうなんだ、ってことで道路が無秩序になるようなもので、別にそのせいというわけではないけど、最近は逆走する車が多い。

 ひとたび無法状態に陥ると、暴力が社会を支配する。

 昔は任侠と呼ばれるような人たちがいて、非力なものはそれに頼って生活していたが、いまは人権団体が任侠の代りになっている。彼らも国の法律を尊重せずに、独自の価値観で暴力的な実力行使を繰り返して、社会に恐怖を与えているが、同時に弱者はそれに頼って生活している。

 パリオリンピックでもジョン・レノンの「イマジン」が流れていたが、国境のない世界の現実はもうかなり具体的にイメージできるようになっている。そこは結局秩序の破壊され、暴力が支配する世界なのは明らかだ。国が暴力を抑えてくれないなら、誰がその暴力を抑えるというのか。


 Imagine there's no countries

 殺人は野放しで取り締まる理由もないし

 死んでも宗教的な救済もない

 Imagine all the people

 混沌の中に生きてることを


 ハリスがアメリカの大統領になることで、この世界は完成に近づいてゆくことだろう。

2024年7月27日土曜日

 パリオリンピックが始まった。
 開会式というと大体は自分の国の歴史や文化を紹介するものだが、おそらく今回ほど自国の歴史文化をリスペクトしない開会式はなかっただろう。
 フランスはローマの時代まで含めて長い歴史があるのに、そういう紹介は全くなく、フランス革命はただ、マリー・アントワネットの首を抱えてただけで、ただ旧体制を破壊する自由だけが礼賛された。破壊した後にあるのは、結局フランスの歴史や文化の消滅なのだろう。
 選手の入場行進もなく、みんな船に乗ってやって来た。特に小さなボートに乗せられた小国の人達は、あたかもボートピープルのようだった。
 世界からやって来る選手団は、あたかも世界からフランスにやって来た移民や難民を象徴するかのようで、そこに闇雲な伝統文化の破壊を象徴するような、最後の晩餐のパロディーではキリスト教の公然と冒涜するし、聖火を運ぶのは殺し屋(アサシン)だったり、ジャンヌダルクがアンデッド騎士になって舞い戻って来るし、フランスはどこへ行こうとしてるのか。
 フランスがあまりに伝統を破壊しすぎてしまったことは、もうずいぶん前にレビ=ストロースも嘆いていた。フランス人の意識はサルトルの時代を未だに越えられないのだろう。
 自由の刑の中から、互いに殺し合う「愛の闘争」の闇から永遠に抜け出せないかのように、作っては壊しを繰り返す。
 日本にはまだ古い時代の構造が残っている。それも同じ破壊の圧力にさらされていて、いつまで持ちこたえられるかわからない。
 ただ、まだ神社が冒涜されたり、奈良の神鹿が蹴られたりすると怒る人達がいる。ヨーロッパにも伝統を守ろうとする人たちはたくさんいるし、アメリカにもいる。
 分断はどこの国でもますます激しいものになり、やがては自由主義諸国のあちことで内戦がおこる事態になるのかもしれない。
 その中で、かつて国家の祭典だったオリンピックが無政府主義の祭典に書き換えられ、一つの象徴的な開会式がパリで行われた。これが吉と出るか凶と出るか、まだ誰にもわからない。

 まあ、そんな暗い話ばかりでもなんだから、この前伊豆の伊東駅前で見た竜舌蘭の花の映像でも挙げておこう。
 数十年に一度花を咲かせるという。今年は暑いせいもあってか、あちこちで咲いているという。

 太陽に呼ばれて咲くや竜舌蘭

2024年7月15日月曜日

  言葉というのは自分の中にあるものを人に伝えるものではない。

 言葉はただ聞いた人の記憶を呼び起こすことができるにすぎない。

 どういう記憶を引き出すかによって、そこに絵を描いたり、物語を作らせたり、感情を引き出したりする。

 そしてそれがその人の本当に大切な記憶を引き出すことができた時、初めて名句は生まれる。

 聞いた人全員にというのは無理な話だ。

 人それぞれ違った人生があって、記憶もそれぞれ違っている。

 誰もが同じ反応を引き出すなんてことはできない。

 ただほんの何人か、あるいは一人だけでもそれを引き出すことができれば、句としては成功だ。

 俳句の修行というのは真っすぐそこに向かうべきで、寄り道すべきではない。

 自分にそれができるかどうか自信はないが、自分に言い聞かせるためにもここに言葉にしておきたい。

2024年6月13日木曜日

 昨日は下田の紫陽花を見に行った。
 紫陽花は見頃になっていて、この頃の紫陽花は本当に種類が増えたなと思った。
 色もそうだし花の形だとかも様々で、去年掛川の加茂荘花鳥園の温室で見たような変わった紫陽花がここでも見られた。

 そういえば昔は漁村に行くとたくさん猫がいたもんだが、下田では終に猫の姿は見なかった。この前西伊豆を車で走った時もそうだった。昭和の頃に大隅半島を夜に車で走った時には、道の脇に夥しい数の猫の目が光ってたが、あれから四十年になるのか。
 伊豆も一頃初島が猫島だということで有名になったが、保護活動の成果があって、そこにいた猫はみんな去勢されて一代で姿を消した。同じようなことが日本中に起きている。外を歩いてる猫は保護活動のもとにことごとく捕獲され去勢され、一代で姿を消していった。
 世界では猫のせいで固有動物が危機に瀕してるところもあるが、それだけ猫の力というのは大きい。
 日本では逆で、少なくとも江戸時代には日本中どこでも普通に猫が外を歩いていて、それこそ夥しい数の野良猫がいて、日本固有の動物の生態系を圧迫していたのだろう。
 今や保護猫活動の成果で外猫の数は激減した。最近起きているシカやイノシシやクマの人里への進出は果たして無関係なのだろうか。気になる。東京の真ん中では当たり前のようにタヌキが歩いてるし、千葉のキョンも凄いことになっているという。
 ツキノワグマはいくら最強でも、赤ちゃんは300g程度で、十分猫の狩猟対象になる。ヒグマでも赤ちゃんは400g程度しかない。実際に猫に襲われてるところを保護されたヒグマもいるという。
 野生動物が人里に出てきて農家を脅かす世界と、野良猫がたくさんいる世界と、どっちが良いのかはわからないが、どっちにしても生態系のバランスというのはそれだけ微妙で難しいということなのだろう。

2024年6月11日火曜日

 源氏物語の方も『鈴呂屋書庫』の方は行幸巻までアップしました。
 カクヨム版の方もよろしく。
 
 「秦野たばこ祭」俳句大会のほうもよろしく。

 秦野市俳句協会の事務局長だけでなく、神奈川県俳句連盟の役員までやることになって、閑な隠居生活も少しばかり忙しくなってきた。
 まあ、どっちもやることは雑用のようなもんだけどね。

 今年は5月24日に芦川のすずらん群生地を見に行った。白樺林の根元の方に鈴蘭が咲いてた。
 エゾハルゼミだろうか、この季節にヒグラシをやや騒がしくしたような蝉が鳴いてた。

 その他にも小田原城や小田原フラワーパーク、二の宮せせらぎ公園の花菖蒲も見に行った。