秦野市俳句協会のホームページが移転してるが、まだ検索にかからないようだが、https://hadanosihaiku.jimdofree.com/なのでよろしく。
今年もあとわずか。相変わらずロシアの侵略を止めることができないまま、中東までが火を噴いて、この流れがさらにあちこちに飛び火しそうで、何とも不安な世の中だ。
せっかくコロナが収まって街もイベントも賑わいを取り戻したのだから、乱世も収まってほしいものだ。
芭蕉に虚実の論はない。
虚実の論は芭蕉の花実の論の支考の解釈によるもので、その成立は享保の頃になることに留意する必要がある。支考も『続五論』(元禄十一年刊)では華実論として展開している。
「詩歌といふは道也。道に華実あるべし。実は道のみちにして人のはなるべからざる道をいふ也。華は道の文章にして神のこころをもやはらげぬべし。」(続五論)
実は道であり、道は朱子学の理に相当するもので、その人間において現れるものは「誠」という。花実の論は他の蕉門にも見られる。
虚実の言葉自体はそれより前の『南無俳諧』(宝永四年刊)にも登場するが、それが全面的に展開されるのは『俳諧十論(享保四年刊)になる。
「実」はこの場合本意本情であり、普遍的な誠を意味する。
近松の虚実皮膜論は近松の死後、元文の頃に登場するもので、この場合の「実」は実事であって関連はない。
実事はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「実事」の意味・読み・例文・類語」に、
〘名〙 (「実」はまこと、まごころの意)
① 歌舞伎で、分別があり、常識をわきまえた誠実な役柄。また、その演技や演出法。
※評判記・役者大鑑(1692)二「おさまれる実(じつ)事、ぶだうもろ共、大かたにしこなしたまへは」
② まじめなこと。真剣なこと。また、真実みがこもっていること。本当のこと。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)江戸「それは太夫さまともおぼえぬむごき御事と、実事(ジツゴト)を申出せば」
とある。誠という点では俳諧の実と共通しているが、元文三年刊『難波土産』の「発端」には、
「昔の浄るりは今の祭文同然にて花も実もなきもの成しを、某出て加賀掾より筑後掾へうつりて作文せしより、文句に心を用る事昔にかはりて一等高く、たとへば公家武家より以下みなそれぞれの格式をわかち、威儀の別よりして詞遣ひ迄、其うつりを專一とす。此ゆへに同じ武家也といへ共、或は大名或は家老その外禄の高下に付て、その程々の格をもつて差別をなす。是もよむ人のそれぞれの情によくうつらん事を肝要とする故也。
浄るりの文句、みな実事を有のまゝにうつす内に、又芸になりて実事になき事あり。近くは女形の口上、おほく実の女の口上には得いはぬ事多し。是等は又芸といふものにて、実の女の口より得いはぬ事を打出していふゆへ、其実情があらはるゝ也。此類を実の女の情に本づきてつゝみたる時は、女の底意なんどがあらはれずして、却て慰にならぬ故也。さるによつて芸といふ所へ気を付ずして見る時は、女に不相応なるけうとき詞など多しとそしるべし。然れ共この類は芸也とみるべし。比外敵役の余りにおく病なる体や、どうけ樣のおかしみを取ル所、実事の外芸に見なすべき所おほし。このゆへに是を見る人其しんしやく有べき事也。」
とあり、女形のセリフが普通の女なら言わないような本音を言うことで、その実を表すとしている。芸というのはいかにも実際にありそうなというだけでなく、その本質(誠)に迫る必要があるという点では俳諧の虚実と共通している。ここからあの有名な、
「ある人の云、今時の人はよくよく理詰の実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、むかし語りにある事に当世請とらぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、兎角その所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子供だましのあじやらけたる事は取らず。
近松答云、この論尤のやうなれ共、芸といふ物の真実のいきかたをしらぬ説也。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。成程今の世実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役のごとく顏に紅脂白粉をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生なりあたまは剝なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。」
という虚実皮膜論に展開する。実事は単に実際の家老の姿に似せるのではなく、今でいうテンプレに近いもので、いわばいかにもという家老キャラを作り上げることで、その本質(実)を表す。それを虚実皮膜と呼んだ。
俳諧の虚実はどのようなものかというと、例えば、
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
の句で言えば、当時どこにでもあったありふれた古池に、春になると不意に蛙の水音がしてドキッとする、その「あるある」の部分が古池の噂で虚になる。
そこに業平の「月やあらぬ」の悲しみを感じさせるのが実になる。
芭蕉の古池は近代俳句の感覚からするとそれが写実だという所だが、実際のところ我々は誰も芭蕉が芭蕉庵の古池で蛙の音を聞いたところを見ているわけではないし、我々が知ってるのはあくまでも芭蕉さんのうわさ話にすぎない。この「噂」という言葉は当時の俳諧の議論で良く用いられる。
いくらもっともらしいことでも基本俳諧は噂であり虚にすぎない。そこに人間の誠の心が込められてるかどうかが大事であり、それを実と呼んでいた。
近代俳句で言えば、
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
のどこにでもありそうな鶏頭の姿が虚になり、「咲きにけり」ではなく、あえて主観的に力強く「ありぬべし」とする所に、死に瀕した病床にあって何でもない鶏頭すら愛しく思えるその心が実になる。
実相観入という近代の言葉もある。仏教では目に見えるものは色相であり虚の世界、真実の世界は仏様の世界、実相ということになる。
虚実のこうした逆転現象は近代以前の哲学には洋の東西を問わず普遍的に見られる。カント哲学の「物自体」も物質そのものではなく、神の領域を言う。現実の目に移る世界は現象(Erscheinung)と呼ばれる。
この前の句会の、
蓋とれば鰤の白眼にぶつかりし 大石繁子
の句も、鰤鍋に煮上がって美味しそうな様が鰤鍋の噂で虚となり、煮立ってなお睨みつけるような鰤の眼に、生命への畏敬と殺生の罪を感じさせるところがこの句の実になる。