2024年7月27日土曜日

 パリオリンピックが始まった。
 開会式というと大体は自分の国の歴史や文化を紹介するものだが、おそらく今回ほど自国の歴史文化をリスペクトしない開会式はなかっただろう。
 フランスはローマの時代まで含めて長い歴史があるのに、そういう紹介は全くなく、フランス革命はただ、マリー・アントワネットの首を抱えてただけで、ただ旧体制を破壊する自由だけが礼賛された。破壊した後にあるのは、結局フランスの歴史や文化の消滅なのだろう。
 選手の入場行進もなく、みんな船に乗ってやって来た。特に小さなボートに乗せられた小国の人達は、あたかもボートピープルのようだった。
 世界からやって来る選手団は、あたかも世界からフランスにやって来た移民や難民を象徴するかのようで、そこに闇雲な伝統文化の破壊を象徴するような、最後の晩餐のパロディーではキリスト教の公然と冒涜するし、聖火を運ぶのは殺し屋(アサシン)だったり、ジャンヌダルクがアンデッド騎士になって舞い戻って来るし、フランスはどこへ行こうとしてるのか。
 フランスがあまりに伝統を破壊しすぎてしまったことは、もうずいぶん前にレビ=ストロースも嘆いていた。フランス人の意識はサルトルの時代を未だに越えられないのだろう。
 自由の刑の中から、互いに殺し合う「愛の闘争」の闇から永遠に抜け出せないかのように、作っては壊しを繰り返す。
 日本にはまだ古い時代の構造が残っている。それも同じ破壊の圧力にさらされていて、いつまで持ちこたえられるかわからない。
 ただ、まだ神社が冒涜されたり、奈良の神鹿が蹴られたりすると怒る人達がいる。ヨーロッパにも伝統を守ろうとする人たちはたくさんいるし、アメリカにもいる。
 分断はどこの国でもますます激しいものになり、やがては自由主義諸国のあちことで内戦がおこる事態になるのかもしれない。
 その中で、かつて国家の祭典だったオリンピックが無政府主義の祭典に書き換えられ、一つの象徴的な開会式がパリで行われた。これが吉と出るか凶と出るか、まだ誰にもわからない。

 まあ、そんな暗い話ばかりでもなんだから、この前伊豆の伊東駅前で見た竜舌蘭の花の映像でも挙げておこう。
 数十年に一度花を咲かせるという。今年は暑いせいもあってか、あちこちで咲いているという。

 太陽に呼ばれて咲くや竜舌蘭

2024年7月15日月曜日

  言葉というのは自分の中にあるものを人に伝えるものではない。

 言葉はただ聞いた人の記憶を呼び起こすことができるにすぎない。

 どういう記憶を引き出すかによって、そこに絵を描いたり、物語を作らせたり、感情を引き出したりする。

 そしてそれがその人の本当に大切な記憶を引き出すことができた時、初めて名句は生まれる。

 聞いた人全員にというのは無理な話だ。

 人それぞれ違った人生があって、記憶もそれぞれ違っている。

 誰もが同じ反応を引き出すなんてことはできない。

 ただほんの何人か、あるいは一人だけでもそれを引き出すことができれば、句としては成功だ。

 俳句の修行というのは真っすぐそこに向かうべきで、寄り道すべきではない。

 自分にそれができるかどうか自信はないが、自分に言い聞かせるためにもここに言葉にしておきたい。