2024年5月16日木曜日

  二上貴夫先生は俳句の五つの型ということを言っているので、それを解説しておこう。

第一型 〇〇〇〇や+七五の型
 この形で句を作ろうとする時には、「や」の所を「に」「は」「が」「で」などの他の格助詞に置き換えて、それに続く文章を考えればいい。

例1 古池に蛙が飛び込む水の音がする
 こういうふに作ってから上五の格助詞を「や」に置き換えて、末尾や途中の助詞を省略すれば第一形になる。
完成例 古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

例2 名月の畳の上には松の影が映る
 同じように「の」を「や」に変えて、「は」と「が映る」を省略する。
完成例 名月や畳の上に松の影 其角

例3 種芋を花の盛りに売り歩く
 この場合はそのまま「を」を「や」に変えるだけでいい。
完成例 種芋や花の盛りに売り歩く 芭蕉

例4 花の雲は理屈なしに面白い
 この場合は「花の雲や理屈はなしに面白き」でも句になるが、倒置で「面白し」を上五に持って来て「面白や」にすることができる。
完成例 面白や理屈はなしに花の雲 越人

例5 夏草は昔のつわものどもの夢の跡のようだ
 「夏草や」にして「昔の」「のようだ」を省略する。
完成例 夏草やつわものどもの夢の跡

歴史
 切れ字の「や」は本来文末に来る疑問・反語の「や」を倒置法で前に持って来て、係助詞として用いた所に起源がある。
 「月はあらぬや」→「月やあらぬ」
 「春は昔の春ならぬや」→「春や昔の春なぬ」
 和歌では末尾を省略して体言止めで用いられることもあった。
 「うち出る浪は春のはつ花ならんや」→「うち出る浪や春のはつ花」
 特にこの「やーらん」の形は中世の連歌で多用された。
 「や」は疑問と反語の両義に取れる言葉で、その両義性から真偽のつかないものを主観的に疑いつつ肯定するという「治定」の意味で、発句にも多用されるようになった。
 もともと係助詞であるため、強調したい言葉の後に「や」を持ってくるのが基本になる。
 「古池に蛙が飛び込む水の音がする」の場合、蛙を強調したい時は、

 古池の蛙や飛び込む水の音

 飛び込むを強調したい時は、

 古池に蛙飛び込むや水の音

 水を強調したい時は、

 古池に蛙飛び込む水や音

 音を強調したい時は、

 古池に蛙飛び込む水の音や

と自在に移動させることができる。
 江戸後期になると、係助詞的な用法から独立して、詠嘆の用法が生じてくる。

 菜の花や月は東に日は西に 蕪村

 この用法の「や」は他の助詞に置き換えられないのでわかる。今日の関西方言の「や」もこの用法と言えよう。


第二型 上五+〇〇〇〇〇〇や+下五の型
 「や」という切れ字を使うと上五が強調されることになるが、これは中七を強調する型になる。
 これはたとえば、「古池や蛙飛び込む水の音」を「古池に蛙飛び込むや水の音」のような形で変換することもできるが、この用例はほとんどない。
 ほとんどは元の文章の上五の部分を末尾に持ってくる倒置形のものになる。
 たとえば「水の音」を強調しようとすると、「古池に蛙飛び込む水の音や」となっておさまりが悪いというので、「蛙飛ぶ水音聞くや古き池」と倒置させて用いる。


例1 衣更えで越後屋に衣さく音がするや
 倒置にして「越後屋に衣さく音がするや、衣更え」として、「がする」を省略する。
完成例 越後屋に衣さく音や衣更え 其角

例2 軒の栗の花は世の人の見付けぬ花や
 倒置にして「軒の栗の花」を末尾に持って行き、「花」が重複するので省略する。
完成例 世の人の見付けぬ花や栗の花 芭蕉

 こうした倒置型の場合は「や」に限らず、「か」「かな」「けり」「なり」「たり」「よ」「し(形容詞の終止形)」「む(ん)」「よ(命令の)」などの終止言となる切れ字は大体使えるので、応用範囲が大きい。

例3 最上川は五月雨を集めて早し
完成例 五月雨を集めて早し最上川 芭蕉

例4 初鰹は鎌倉を生きて出けむ
完成例 鎌倉を生きて出けむ初鰹 芭蕉

例5 柿食えば法隆寺の鐘が鳴るなり
 この場合は途中の「法隆寺」を倒置で上五に持ってくる。
完成例 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 子規


第三型 下五を「かな」で止める型
 これは倒置を含まず、上から下へすらすらと読み下せる場合と、倒置によって強調したいものを末尾に持ってくる場合がある。

例1 木の下では汁も鱠も桜になるのだろうか
 これは前者の例で、「なるのだろうか」は主観的な肯定で、治定の「かな」で止まる。そのほか不要な言葉を省いて行く。
完成例 木の下に汁も鱠も桜かな 芭蕉

 (「かな」は関西方言の「がな」の形で今も名残を留めている。標準語の「かな」は完全に疑問の言葉で、語尾を上げて用いているが、かつては治定の言葉で、語尾を上げずに用いてたと思われる。)

例2 枯野ではカマキリは尋常に死ぬ
 「尋常に死す」は今日だと「普通に死ぬ」に近い。動詞「死ぬ」を連体形にすることで、「枯野」を後ろに持って来て、「かな」で止める。
完成例 かまきりの尋常に死ぬ枯野かな 其角

(ただし、古語の「死ぬ」は本来ナ行変格活用で連体形は「死ぬる」だったが、江戸時代の俗語では今日のように「死ぬ」で連体形になってたと思われる。)

下五に季語が来ない例としては、

例3 蔦植えて竹四五本のあらし哉 芭蕉
例4 しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉 芭蕉

などの例がある。

 「かな」は「か」に通うということで、

 木枯らしに二日の月の吹き散るか 荷兮
 木枯らしに浅間の煙吹き散るか 虚子

の例もある。


第四型 上五に季語を持って来て、末尾を「けり」で止める型。
 この句形は芭蕉の時代には稀で、近代俳句に多い。芭蕉の時代の「けり」は中七に用いて第二型で用いることが多い。「道の辺の槿は馬に食れけり 芭蕉」の句は有名だが、上五に季語を用いず、倒置も省略もなく、第三型で「かな」の代りに「けり」を用いたような句形になっている。

例1 明け方のホトトギスが鳴く頃、吉原では暁傘を買わせて追い出そうとする
 かなり思い切った省略と倒置によって、「ホトトギス」「暁傘を買わせ」だけを残して「けり」で結ぶ。
完成例 時鳥暁傘を買せけり 其角

例2 赤とんぼが飛ぶ筑波の空に雲もなかりけり
 これも思い切った省略による句。
完成例 赤とんぼ筑波に雲もなかりけり 子規


第五型 体言止めの上五に季語を入れる。
 第四型に似ているが、「けり」に拘束されないのが異なる。この形は芭蕉の時代にも見られるが、上五の体言止めは格助詞の省略で説明できるものが多い。

例1 初真桑を四つに割らんや輪に切らんや
 「初真桑を」の「を」を省略して、「や」を倒置で「四つにや」とする。
完成例 初真桑四つにや割らん輪に切らん 芭蕉

例2 カキツバタは畳へ水はこぼれても
 「こぼれても」の後に何が省略してるかは不明だが、これは其角の得意とするパターンで、特に何とは限定せずに、状況に応じて読者の頭の中でピタッと当てはまる場面があることを期待しての句だ。「あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声 其角」の「あれ」が特に何とは言ってないのと同じ。格助詞「は」の省略。
完成例 かきつばた畳へ水はこぼれても 其角


 今日紹介した五つの型は自分もちゃんと使ってる。

第一型
 蝋梅や閉じた月日の溶け始め

第二型
 尺八は浄土の風や実朝忌

第三型
 百円でエコバッグ濡らすレタスかな

第四型
 八重桜散るというより埋もれけり

第五型
 蜃気楼知らぬ工場知らぬ塔


 俳句の添削の弊害と言うのは、例えば芭蕉の古池の句でも、直そうと思えばいろんな形が作れることだ。

 「や」の位置を変えるだけで、
 古池や蛙飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

 「や」を「哉」に変換をすると、

 古池に蛙飛び込む水音(みおと)哉

とできなくもない。
 倒置にすれば、

 水音や蛙飛び込む古き池
 水音は古池に飛ぶ蛙哉
 古池に飛び込む蛙水の音
 古池に水音蛙飛び込みぬ

などいくらでも直せる。
 実際、貞享三年刊西吟撰『庵桜』では、

 古池や蛙飛ンだる水の音 桃青

の形で掲載された。
 どんな句でも直そうと思えばいくらでも直せるんで、ある程度芯のある作者なら、どの形がベストか自分で判断するが、初心の者はそれがわからないから、師匠の言うなりになってしまい、これを句を作る度にやられると、大抵は心を折られてゆく。


 発句には「切れ」が必要だということから「切れ字」というのがあるわけだが、この「切れ」についても混乱した議論が多い。
 簡単に言えば、一句として独立した趣向を立てているかどうかで、文法とは何の関係もない。切れを文法で説明しようとしてる人が昔から多いが、どうやっても無理がある。
 今日上げた「例」はすべて独立した趣向となってることに注意。

 例えば藤原定家の有名な歌の上句、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

 「けり」と言う切れ字が入っているが、これでは発句にはならない。花も紅葉もないというだけで、だから何なんだという句にしかならない。

 明石潟花も紅葉もなかりけり

なら発句になる。
 実際にも、

 西行庵花も桜もなかりけり 子規

の句がある。

逆に、

 古池の蛙び込む水音に

は趣向としては「古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉」と一緒だが、これも発句にはならない。
 最後の「に」の後に何か続く感じがして、一句として独立してないからだ。

 切れ字は本来句の独立性を出すための便利な道具であって、これを使ったから発句になるわけでもなければ、これがないから発句にならないわけでもない。
 中世の連歌書にも切れ字があっても切れない例、切れ字がなくても切れる例が紹介されている。

 切れ字の使い方は文法的に合理的に説明できないため、長いこと連歌師や俳諧師の口伝とされてきた。おそらく明治の旧派までは受け継がれてきたのだろう。
 正岡子規はそれを受け継いでいなかったし、ただ切れ字は終止言とだけ言って、それ以上の議論を禁じたため、近代俳句は切れてなくてもOKということになった。

2024年5月3日金曜日

  Kindle ダイレクト・パブリッシングの方の『源氏物語』は販売を停止してます。

 今カクヨムの方で『女房語り、超訳源氏物語』を掲載してまするが、これは登場人物に勝手に名前を付けて分かり易くしていて、名前を付けてない修正版を『鈴呂屋書庫』の方にアップしてます。