2022年6月5日日曜日

 さて、俳諧も発句も読んできたので、この辺でまた旅でもしようかと思う。
 連歌師や俳諧師の旅ではなく、図書館から借りてきた『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』(一九九一、岩波書店)から、まずは「東路記」で東海道をたどってみようと思う。貝原益軒の著で貞享二年三月に江戸を出発したというから、芭蕉の『野ざらし紀行』の半年後ということになる。ほぼ同時代といっていい。俳諧師の文章ではないので、客観的に書かれている。

   「東海道 江戸より熱田迄の事を略記す
 河崎、河崎の川に、昔大橋有。橋の北を六郷と云。南は河崎也。此川上を入間川と云。戸田の渡有。矢口の渡は、新田義興を殺せし所也。新田大明神有。其上に小手指原あり。又玉川の里、三吉野など云所も入間川のほとり。池上の法花寺、長栄山本門寺と云。大寺なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.5)

 河崎は今の川崎で、当時も東海道の川崎宿があった。芭蕉が元禄七年、西への最後の旅に出る時には、門人がここまで見送ったというが、出典は『浪化集』で、

   人々川さきまで送りて、餞別の
   句を云、其かへり
 麦の穂を便につかむ別かな      芭蕉

とある。
 一方、路通編の『芭蕉翁行状記』には、

 「深川の桃梨散過れば、卯の花雲立わたるききにかんこ鳥の一聲一聲そぞろに、ものなつかしき方もおほしとて、おもひ立旅心しきりにて、五月十一日江府そこそこにいとまごひして、川がやどせし京橋の家に腰かけ、いさとよふる里かへりの道づれせんなと、つねよりむつましくさそひたまへとも、一日二日さはり有とてやみぬ。名残惜げに見えてたちまとひ給。弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく
 麥の穂を便につかむわかれかな    翁」

とあり、桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』には、

 「然ども老たるこのかみを、心もとなくてや思はれけむ、故郷ゆかしく、又戌五月八日、此度は四國にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞んなどと、遠き末をちかひ、首途せられけるを、各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互にうなづきて、聲をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば、
 麦の穂を力につかむ別哉」

とある。
 ともに品川で別れたことになっている。日付も食い違っている。深川から品川まで何のかんのと名残を惜しんでいるうちに三日過ぎたのかもしれない。

 新麦はわざとすすめぬ首途かな    山店
   また相蚊屋の空はるか也     芭蕉

に始まる歌仙興行もこの頃のことであろう。
 「昔大橋有」というのは、ウィキペディアに、

 「六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。」

とあり、貝原益軒がここを通った時にはまだ橋があり、その後「昔」の一字を加えたのであろう。
 そうなると、元禄四年冬に江戸にもどってくるときには橋がなくなっていて、元禄七年の西国へ行く時も橋がなかったことになるから、六郷の川べりで別れた可能性もある。それなら送ってった門人は品川宿までと証言し、関西へ行った芭蕉さんは川崎へ渡る所まで送って行ってもらったと話していたのなら、辻褄があう。
 六郷大橋は芭蕉が『野ざらし紀行』や『笈の小文』の旅に出る時にはまだあった。『笈の小文』の旅からの帰りは『更科紀行』の旅を経て長野善光寺から帰ったので、東海道は通っていない。
 「此川上を入間川と云。戸田の渡有。」は益軒さんの勘違いであろう。実際に川を遡ったわけではないので、聞いた話をそのまま書いたのではないかと思う。
 戸田の渡は中山道で、板橋区と戸田市の間の荒川にあった。
 多摩川と入間川は青梅と飯能の上の方の高水三山の辺りで数キロ程度の距離にまで接近しているから、ごっちゃにする人も多かったのだろう。
 「矢口の渡」は今の国道一号線の多摩川大橋の辺りで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「矢口」の解説」には、

 「東京都大田区南西部、多摩川左岸の地区。第二京浜国道の西側が矢口、東側が東矢口で、東急電鉄東急多摩川線(旧、目蒲(めかま)線)矢口渡(やぐちのわたし)駅は多摩川1丁目にある。かつての古奥州街道が通り、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のおり、矢合わせをしたことが地名の由来といい、横浜市鶴見(つるみ)区には矢向(やこう)の地名がある。南北朝のころ、鎌倉街道が通り、多摩川に矢口の渡しがあった。ここで新田義貞(にったよしさだ)の子義興(よしおき)が謀殺されたとする説があり、その霊を祀(まつ)る新田神社がある。その縁起を題材に平賀源内は福内鬼外(ふくうちきがい)の筆名で淨瑠璃(じょうるり)『神霊矢口渡』を書いている。沿岸は下丸子(しもまるこ)に続く工業地区である。[沢田 清]」

とある。
 鎌倉街道というと上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)があり、神道は関戸、中道は二子で多摩川を渡り、下道は丸子の渡しで渡っていた。南北朝の頃には矢口の方を通るように変わっていたか。丸子の渡しは古代東海道の延喜式の道がここを通っていたが、品川の方に向かうにしてはかなり遠回りになる。
 室町時代の『宗祇終焉記』で太田道灌の江戸城から神奈川区の権現山城へ向かったルートはよくわからないが、この頃はまだ矢口の渡しを渡っていたのかもしれない。慶長五年(一六〇〇年)に徳川家康が六郷大橋を架けてから、東海道が今のルートになったか。
 「新田大明神」は今も新田神社として残っている。
 「其上に小手指原あり。又玉川の里、三吉野など云所も入間川のほとり。」は先ほどの入間川と同様、勘違いと思われる。
 小手指原は今の所沢の近くで、小手指原の戦いがあった古戦場になる。鎌倉街道上道が通っていた。
 玉川の里は六玉川の一つの調布(たづくり)の玉川で、今の調布の辺りになる。これは多摩川で間違いない。三吉野は『宗祇終焉記』では河越城から江戸城へ行く時に通っている。今の川越街道の前身にあたる道であろう。今の三芳町の方になる。鎌倉街道上道の小手指原から北東の方へ行った方にある。
 小手指原と三吉野は入間川の方になるが、玉川の里は多摩川で間違いない。
 「池上の法花寺、長栄山本門寺と云。大寺なり。」は今も池上の本門寺と呼ばれている寺で、「法花寺」というのは法華寺で、ここでは日蓮宗の寺という意味か。山号は長栄山という。

 「新町、昔はかたびら、程が谷などとて宿有しを、慶安二年、此町に一所にうつせり。故に新町と云。是より金沢、鎌倉へ行道、左に在。金沢に能見堂、筆すての松有。昔金岡、此所の景をうつさんとせしに、筆にも及難しとて筆を此野に捨しといへり。金沢に八景有と云。此所に入海あり。遠き故大河なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.5)

 新町は保土ヶ谷宿のことだが、ここから分岐したはるか遠くにある金沢の記述がメインになる。
 『宗祇終焉記』の宗祇らのルートは神奈川区の権現山城が江戸時代の神奈川宿の辺りなので、ここから箱根へ向かうルートは明記されてないが、既に近世東海道の道筋ができていたのではないかと思われる、そうなると、保土ヶ谷宿も室町時代からあった可能性がある。ここにも「昔はかたびら、程が谷などとて宿有しを」とある。
 ウィキペディアには、

 「1648年(慶安元年)までは元町付近に宿場があり、東海道も西北の位置にあったが、新町(下岩間町 - 程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった。新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていない。」

とある。元町は今の狩場インターの方にあり、保土ヶ谷宿上方見附跡より先で、セブン-イレブン保土ヶ谷元町橋店の所で道が直角に近く曲がっているのがその名残であろう。
 新町はそれより手前の帷子川にかかる新町橋から先のエリアになる。
 新町橋は今の相鉄天王町駅の近くにある帷子川にかかる橋で、渡る手前には松原商店街がある。JRの踏切の手前に金沢横町道標があり、ここに金沢道への分岐点があった。
 能見堂跡は今の能見台にある。ウィキペディアには、

 「能見堂跡(のうけんどうあと)は、神奈川県横浜市金沢区能見台森の山の上にある地蔵堂跡。古くから景勝地として親しまれ、明の僧・心越禅師が漢詩に詠んだ、ここからの眺望こそが「金沢八景」の由来といい、現代の町名・能見台の由来にもなった。」

とある。
 また、

 「文明18年(1486年)の『梅花無儘蔵』に「濃見堂」とあって、少なくとも室町時代には存在したと考えられる。
 寛文(1661年-1673年)のころに芝増上寺の地蔵院が当地に移り、擲筆山地蔵院が建てられた。」

とあり、この頃はこの地蔵院があった。「金沢に能見堂、筆すての松有。」はこのことを言っているのだろう。
 「金沢に八景有と云」とあるが、ウィキペディアには、

 「江戸時代に入り、もと後北条氏の家臣であった三浦浄心が『名所和歌物語』(1641年-1644年頃刊)の中で瀟湘八景に倣って金沢の地名を名指したことが金沢八景の最も古い例である。その後も現地比定は流動的であったが、水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧・東皐心越が、光圀の編纂した『新編鎌倉志』に基づき、元禄7年(1694年)に山の上(現在の金沢区能見台森)にある能見堂から見た景色を、故郷の瀟湘八景になぞらえた七言絶句の漢詩に詠んだことで現地比定が方向づけられ、心越禅師の権威と能見堂や金龍院の八景絵図が版を重ねることで普及した。」

とある。心越禅師の八景の詩が金沢八景の始まりとされているが、金沢に八景があるということはそれ以前からも言われていた。
 「此所に入海あり。遠き故大河なり」というのは、金沢八景の辺りが入江になっていて、能見堂から見ると大河のように見える、という意味であろう。

 「坂東第一の好景也と云、民家のほとりに寺有、称名寺と云。昔の文庫の跡有。北条義時五代の孫、金沢越後守顕時、金沢に居住し称名寺の内に文庫を立て和漢の群書をあつむ。巻ごとに「金沢文庫」と云印をおしたり。儒書、日本の記録などには黒印、仏書には朱印を用ゆ。今に其時の書、世間に稀に残れり。新町と戸塚の間に武蔵、相模のさかひあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.5~6)

 金沢八景から金沢文庫の説明になる。称名寺の金沢文庫はウィキペディアには、

 「北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。創建時期については確実なことはわかっていないが、1258年(正嘉2年)実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。のち1267年(文永4年)、鎌倉の極楽寺忍性の推薦により下野薬師寺の僧・審海を開山に招いて真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。
 称名寺と縁の深い金沢文庫(かねさわぶんこ)は、実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。」

とある。
 「北条義時五代の孫」の北条義時は鎌倉北条氏の二代執権で、今の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもお馴染みだ。
 その北条義時の息子の一人の北条実泰が金沢流北条氏の祖となり、金沢実泰の息子が金沢実時、孫が金沢顕時になる。実際は義時の曽孫になる。ただ、ウィキペディアには、

 「始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した2代実時が実質的初代ともされる。」

とある。金沢北条氏の二代目という意味で北条義時の孫としたのだろう。
 実質初代の実時が称名寺を開き、その息子の顕時が実時が収集した書籍を分類整理して金沢文庫になった。
 ただ、このことには今日諸説あるようだ。ウィキペディアには、

 「江戸時代の地誌類の多くは貞顕が金沢文庫を創建したとしている。関靖(県立金沢文庫初代館長)は、前記の湛睿書状などをふまえて鎌倉時代中期(おそらく実時の在世中)の創建とした。関説がおおむね定説化しており、実時が金沢に隠退した建治元年(1275年)頃の創建と言われているが、1302年前後(貞顕の代)とする異論もある。貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時?を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。」

とあるように、金沢文庫は実時、顕時、その息子の貞顕の三代で作られたと考えた方がいいのだろう。
 また、「金沢文庫」の印についても、ウィキペディアには、

 「「金沢文庫本」は金沢実時、貞顕らが収集した典籍で、「金沢文庫」という蔵書印のある書物は古くから有名であった。かつての蔵書はほとんどが散逸しており、一部が各所に所蔵されている。文化財指定されているものも多い。
 文庫印が金沢氏の代に押された確証はなく、いつ、何の目的で押されたかも不明であるが、室町時代に文庫の流出を危惧した称名寺の僧らが押したのではないかとも言われている。室町時代にも金沢氏の旧蔵書は称名寺の蔵書と一応区別して保管されていたと見られる。」

と諸説あるようだ。
 「新町と戸塚の間に武蔵、相模のさかひあり。」とあるのは、保土ヶ谷宿を出て権太坂を登り、品濃坂の下りに入る所の峠に武蔵国と相模国の境界があったことを言う。今は武相国境モニュメントが立っている。

 「戸塚、是より鎌倉に行道あり。二里あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 戸塚宿に関しては鎌倉への分岐点があるというだけの簡単な記述しかない。もっとも、品川宿と神奈川宿に関しては何も記されてないから、それよりはましと言えよう。
 かつては柏尾川に架かる吉田大橋の所に「左かまくら道」の道標があって、広重五十三次「戸塚」にも描かれている。

2022年6月4日土曜日

 独裁国家に経済封鎖が効かないのは、一つには清貧の哲学がある。清貧の哲学はフロンティア国が貧困から抜け出せない一つの原因にもなっている。豊かになるのは悪いことだ、という意識が貧困に満足させ、豊かな人や豊かな国からの略奪を正当化する。
 清貧の哲学は多産多死社会ではうまく機能する。基本的に生産量の限られた社会では、清貧に甘んじることが一人でもその船の定員を増やすことに繋がる。一人前食ってたところを半人前に減らせば、もう一人生きられるという理屈だ。ただ、これが行き過ぎると結局餓死することになる。
 特に家督を継げなかった者は、そのまま家を出て放浪生活になれば、何かうまく職が見つかればいいが、産業の未発達な社会では働き口そのものが少なく、治安を悪化させる危険がある。そのため、日本ではお寺がその受け口になる。そこで質素な生活を教え込まれて、寄付によって生き永らえることになる。
 こうした中から当然、自分たち坊主の質素な生き方が正しく、武家や貴族の贅沢な暮らしは間違っているという清貧の哲学が生まれてくる。
 この考え方は、多産多死の社会の中で、若干の定員を増やす効果はある。ただ、質素な生活も過ぎると、やはり飢餓に繋がって行く。寺社勢力が肥大化すれば、確実にそれは農民の暮らしを圧迫することになる。
 中世から近世への変化は、ほとんど緩慢なペースでしか新しい産業を生み出せなかった寺社勢力に代わる、次から次へと新たな産業を生み出す町人の時代への変化だった。新たな技術による新たな産業は、農業の効率化にもつながり、生産量を増やすということで社会の定員を増やすことができた。
 近代化は清貧の哲学とは逆で、欲望を開放することで、より生産性を高める手段を競って開発し、生産性の向上によって社会の定員を増やして行く。ただ、これもそのままでは生産性の増加分が人口の増加で食いつぶされてしまう。
 ただ、技術革新は医療の進歩をもたらし、乳幼児の死亡率を低下させる。そうなると、人は死亡リスクに備えて多めに子供を作ることをやめて、少産少死の社会へと移行する。
 生産性が向上し続け、同時に人口増加圧から解放されれば、生産性が向上した分だけ豊かな生活の出来る社会が生まれる。今の先進諸国はこの好循環によって比類なき豊かさを手に入れた。
 問題はこの流れに出遅れた国が多産多死時代の清貧の哲学を利用すれば、豊かな国からの略奪を正当化できるということだ。もちろん国内でもこれは革命の理論となる。
 清貧の哲学は豊かになろうとする努力を否定する。豊かさを求めるのは悪だからだ。そして豊かな人間は悪人なのだから、そいつらを懲らしめることは善だという論理になる。この論理があらゆる近代化のための援助を妨害し、近代化された国家の破壊を試み続けることになる。その行き着くところは飢餓と粛清の地獄だ。
 今やネットを通じて世界中の不幸な人の情報があふれかえっていて、自分はこんな何不自由のない豊かな生活をしてていいんだろうかと思うかもしれないが、豊かな生活をしているから援助ができるということを忘れてはならない。飢餓と隣り合わせの生活をしていたら人を援助するどころか、略奪してでも生きなければならなくなる。
 毎日働いて、豊かな日本経済を支えている人たちは、間接的にでもそうした不幸な人のために役に立っている。直接何もしてないからって卑屈になる必要はない。
 芭蕉の句にも、

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

とある。寺領を得て経済的に安定しているからこそ、薬を人に施したりもできる。

 それでは『阿羅野』の仲夏の発句の続き。

 松笠の緑を見たる夏野哉     卜枝

 松笠は松ぼっくりのこと。古い俳諧では「松ふぐり」という別名でネタにされてきた。春の終わりに蕊を立てて、それが夏には青い松ぼっくりになり、秋には茶色くなる。
 夏野にぽつんと生えている松の木は、笠松(笠状に枝を張った松)も連想させる。

 虹の根をかくす野中の樗哉    鈍可

 樗は「あふち」とルビがある。センダン(栴檀)のことで、ウィキペディアに、

 「落葉高木で、樹高は5 - 20メートル (m) ほどで、成長が早い。枝は太い方で、四方に広がって伸び、傘状あるいは、エノキに雰囲気が似た丸い樹形の大木になる。成木の幹は目通り径で約25センチメートル (cm) ほどになる。若い樹皮は暗緑色で楕円形の白っぽい皮目が多くよく目立つが、太い幹は黒褐色で樹皮は縦に裂け、顕著な凹凸ができる。」

とある。夏に淡紫色の花を付ける。
 虹の根元はなかなか見る機会のないもので、木に隠れてしまうことも多い。

 あふち咲く外面の木陰露落ちて
     五月雨晴るる風わたるなり
              藤原忠良(新古今集)
 片岡のあふち波よりふく風に
     かつかつそそぐ夕立の雨
              後鳥羽院(風雅集)

など、虹の出そうなシチュエーションで詠まれることが多い。あふちの花は雨露に日の当たる様に喩えられるからかもしれない。

 藺の花や泥によごるる宵の雨   鈍可

 藺の花は藺草(いぐさ)の花で、針状の花茎を伸ばし、この部分が畳や茣蓙などの利用され、また燈芯草とも呼ばれ、茎の芯を燈芯にする。花はこの茎の途中で短い小さな花を咲かせているように見えるが、正確にはウィキペディアに、

 「花は花茎の途中から横に出ているように見える。これは花が出る部分までが花茎で、そこから先は花序の下から出る苞にあたる。この植物の場合、苞が花茎の延長であるかのように太さも伸びる方向も連続しているので、花序が横を向いているのである。」

とある。
 湿地に生える植物で、水田で栽培される。そのため夕立の激しい雨が降れば泥に汚れる。

 撫子や蒔絵書人をうらむらん   越人

 『芭蕉七部集』の中村注に『枕草子』一一六段の、

 「絵にかきおとりするもの、なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女のかたち」

の引用がある。蒔絵に下手に描かれてしまって恨む、というのも一つの解釈だが、江戸時代はかなり精巧な撫子の蒔絵も多く、ちょっと疑問を感じる。ただ、今のところ他に良い解釈は思いつかない。

 冷じや灯のこる夏のあさ     藤羅

 「すさまじやともしびのこる」と読む。
 夏の朝は早く、灯火を消す間もなく明けて、昼行燈のように灯っている。「冷(すさ)まじ」は寒いという意味から比喩で寒々としている、さらにはつまらないという意味になる。ネタの滑った時に「寒い」というのと似ている。

 夏の夜やたき火に簾見ゆる里   旦藁

 これは、

 かやり火は物思ふ人の心かも
     夏のよすがらしたにもゆらん
              大中臣能宣(拾遺集)

の心か。蚊遣火ではなく単なる焚火だが、そこに同じように恋に身を焦がす俤を見たのだろう。

   庵の留主に
 すびつさへすごきに夏の炭俵   其角

 「すびつ」は炭櫃で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「炭櫃」の解説」に、

 「〘名〙 床を切って作った炉。いろり。また、一説に角火鉢ともいう。炭櫃桶。《季・冬》
  ※宇津保(970‐999頃)蔵開下「御ひをけきよらにておはす。すびつに火などおこしたり」

とある。
 長く留守にしている庵を覗いてみると、冬の炭櫃がそのままになっているだけでなく、炭俵に未使用の炭がたくさん残っている。夏なのに寒々しい。

 夕がほや秋はいろいろの瓢かな  芭蕉

 瓢は「ふくべ」とルビがある。瓢箪の別名。夕顔の花は瓢箪の実になり、干瓢の原料になる。
 夕顔というと『源氏物語』では、

 「花の名はひとめきて、かうあやしきかきねになむさき侍りけると申す。(花の名前は人に似るといいますか、こういう薄汚い垣根に咲いたりするんですよ。)」

とあり、卑賤の花のイメージがあるが、実は瓢箪にも干瓢にもなり、いろいろ実用的に役に立つ。

 ゆふがほのしぼむは人のしらぬ也 野水

 夕顔は夕方に咲くのでいつ萎んだかよくわからない。

 夕貌は蚊の鳴ほどのくらさ哉   偕雪

 夕顔の咲く頃は薄暗くて蚊に刺されやすい頃だ。

 山路来て夕がほみたるのなか哉  市柳

 夕顔は山賤の家にも詠まれる。

 山賤の露のなさけをおくとてや
     かきほに見する夕顔の花
              源通親(正治初度百首)

などの歌がある。山奥の野の中にも夕顔が咲いている。

 名はへちまゆふがほに似て哀也  長虹

 ヘチマの花は黄色く、夕顔とはやや趣も違うが、蔓性で実のなる所は似ている。夕顔は和歌にも詠まれるが、ヘチマは俳諧だ。

2022年6月3日金曜日

 それでは『阿羅野』の仲夏の発句の続き。

 五月雨に柳きはまる汀かな    一龍

 「きはまる」は語源的には際(きわ)まで来るということで、そこから極限に達する、決定するという意味になる。

 君が春蚊屋はもよぎに極りぬ   越人

の句の場合は「蚊帳はもよぎ色と決まっている」くらいの意味になる。
 ここでは、元の意味に近く、五月雨に水位が上がり、岸の柳の根元ぎりぎりまで来ているという意味に、五月雨の風情が極まると両方の意味を持たせているのだろう。
 五月雨の柳は、

 五月雨の六田の淀の川柳
     うれこす波や滝の白糸
              藤原実定(新勅撰集)
 五月雨は川添い柳みかくれて
     底の玉藻となりにけるかな
              源俊頼(散木奇歌集)

などの歌に詠まれている。この二首は五月雨に柳が沈んでしまって、滝になったり玉藻になったりしている。
 川柳、川添い柳はまだ堤防などの整備される前の河川敷に自生する柳であろう。これに対して、江戸時代の柳は堤防を固めるための柳ではなかったかと思われる。そのため、沈むのではなく、「きはまる」に留まるところが新しい。

 この比は小粒になりぬ五月雨   尚白

 何の小粒?と思わせて五月雨で落ちにするパターンか。関東では五月雨はしとしと降るが、西へ行く程大雨になる。中京地区でも五月雨は大粒の雨が普通なのだろう。
 おそらく日常的な挨拶などでも、「この頃は小粒になりましたなあ」って使ってたのかもしれない。五月雨は時として大きな災害を引き起こすから、小粒になると安心する。

 五月雨は傘に音なきを雨間哉   亀洞

 五月雨は唐傘にばらばらと音を立てて降る。その音がしなくなると「雨間」になる。

 満つ汐のからかの島に玉藻刈る
     あま間もみえぬ五月雨の頃
              飛鳥井雅経(続後撰集)
 とけぬらむまかねなりとも五月雨の
     雨間もみえぬ雲の景色に
              源国信(堀河百首)

など、和歌では「雨間もみえぬ」と否定形で用いることが多い。雨間が見えなくても聞こえるという所が新しい。

   岐阜にて
 おもしろうさうしさばくる鵜縄哉 貞室

 「さうし」は三四で長良川の鵜飼いは十二羽の鵜を捌くところから、三×四=十二で「さうしさばく」という。岩波文庫の『芭蕉七部集』の中村注は『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)の「或説にさうしは三四にて鵜をつかふ縄の数をいふ也と云へり」を引用している。
 土芳の『三冊子』にも、

 「師一とせ岐阜鵜飼見の時、鵜尉一人に十二羽宛、舟に篝して其ひかりにこれを遣ふ。十二筋の繩、たて横にもぢれて、さばきむづかしき事を、事やすく是をなす。鵜尉に此事を尋ね侍れば、先もぢれぬよりさばきて、なまもぢれ成るものを又さばく。むづかしくもぢれたるもの、ひとりほどけさばくるといへり。万に此心はあるべし、となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144~145)

とある。縄が絡まらないように注意を払い、絡みそうになったら早めに処理する、先を読んでの素早い対処は何においても基本だという話だ。
 鵜匠の十二本の縄の裁きの妙は、鵜飼見物の最大の見所といえよう。

   おなじ所にて
 おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉 芭蕉

 鵜飼船は面白いが、殺生の罪のことを思うと次第に悲しくなる。
 中世の連歌に、

    罪のむくいもさもあらばあれ
 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ   救済

の句がある。狩りで獲物を必死に追っていた人が、雪の夜明けのこの世のものとも思えぬような美しい気色に、ふと狩られる動物の気持ちがわかったような気がして殺生せっしょうの罪のことを気にかけるといったものだが、この句も系譜にある。
 これ以前にも芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の途中、

 明ぼのや白魚白きこと一寸    芭蕉

の句を詠んでいる。桑名の冬の白魚漁を見ていると、一寸の儚い命が気になるというものだ。
 鵜飼船は和歌にも詠まれている。

 早瀬川みをさかのぼる鵜飼舟
     まづこの世にもいかゞくるしき
              崇徳院(千載集)
 鵜飼舟あはれとぞみるもののふの
     八十氏川の夕闇の空
              慈円(新古今集)

などの歌があり、川を遡る苦しさの歌は他にもある。慈円の歌は「もののふ」「夕闇」でそれとは言わないが、暗示的に殺生の罪を詠んでいるとも取れる。

   おなじく
 鵜のつらに篝こぼれて憐也    荷兮

 篝火の火の粉が鵜の方に落ちる様であろう。鵜舟の哀れを殺生の罪ではなく、鵜が熱そうだという方に持っていく。配列からすると、シリアス破壊の意図があったのかもしれない。
 鵜飼船の篝火は、

 鵜飼舟棹さしつづきのぼるらし
     あまた見えゆくかがり火のかげ
              藤原俊言(玉葉集)

などの歌がある。

   同
 聲あらば鮎も鳴らん鵜飼舟    越人

 鵜飼は鵜の立場に立ってみれば、せっかく捕った魚を吐き出させられて奪われるから、その鳴き声も悲しげだ。ただ、鵜はまだ生きていられるが、結局喰われて死んでしまう鮎の方はもっと悲しくて泣きたいところだろう。
 人は殺生の罪で悲しく、働かされる鮎も悲しく、食われる鮎も悲しい。と言いながら笑って鵜飼を楽しんでるんだけどね。

 先ふねの親もかまはぬ鵜舟哉   淳兒

 「先ふね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「先船」の解説」に、

 「① 同じ方向に航行中の船の先行するもの。
  ※船行要術(1505)「何の国成とも先船・類船あらは其船の跡に付て乗こと第一也」
  ② 「さきてふね(先手船)」の略。
  ※水法(18C前)「大将本陣の船立は、先船二艘」
  ③ 歌舞伎劇場の二階正面桟敷(さじき)の前面へ張り出して作られた席の最前列をいう。まえふね。」

とある。
 実際見た事がないからよくわからないが、整然と隊列を組んで漁を行うのではなく、夢中で鵜を捌いている間にいつの間にか流されたりして隊列の乱れたまま、自由にやっているように見えるのかもしれない。
 まあ、網を引くのだと舟と舟との連携が大事だが、鵜飼は個人技だから「親もかまはぬ」なのだろう。

 曲江に篝の見えぬうぶねかな   梅餌

 曲江というと唐の長安にあった池で杜甫の詩にも詠まれている。ここでは長良川をその曲江に見立てながらも、字義どおりの曲がった川の意味を生かして、曲がり角で向こうの船の篝火が見えなくなる、とする。

 鴨の巣の見えたりあるはかくれたり 路通

 鴨は水辺の草の中に巣を作る。カルガモの引っ越しが話題になったりするように、頻繁に巣を変えるようだ。そこに路通は一所不住の心を見たのかもしれない。

2022年6月2日木曜日

 ウクライナの戦争も長くなってくると、次第にほかのニュースに埋もれて忘れ去られてゆく。それでもロシアを許すなの声を上げて行こう。戦争は御免だ。平和に賛成。侵略国家を許すな。
 輝かしい未来への道はもうすぐそこに見えている。
 市場経済による最も効率の良い生産様式によって、世界中が誰一人餓えることなく豊かになること。
 経済がある程度成長し、高度な医療と健康管理によって乳幼児の死亡率が減れば、自ずと多産多死は解消され、少産少死の時代が来る。
 その少産少死が世界中に広まることで、この地球が人口増加圧から解放されれば、生きるための生存競争も不要なものになる。(良きパートナーをめぐっての生存競争のみが残る。)
 生存競争がなくなれば戦争のない平和な世界が実現できる。豊かで誰も餓える心配のない社会なら、誰も命をかけて他人の土地を奪う必要もなくなる。
 世界中の人が労働者であると同時に資本家になれば、階級闘争も終わらせることができる。
 やがて世界の生産の多くはAIとロボットによって自動化され、生産性が極限にまで高まれば、人は多くの労働から解放され、遊んで暮らせる時代が来る。
 これ以上のシナリオがあるというなら聞かせてほしい。
 みんなが同じ夢を見る必要はない。ただ互いに足を引っ張り合わなければいい。それには、お互いの違いを認め合うことだ。簡単なことだ。

 思うに生存競争そのものが完全になくなるということはない。ただ、敗者が生存できる状態なら、既に多くの先進諸国が達成している。つまりいくら企業間が厳しい競争にさらされていて、企業内でも熾烈な出世争いがあるにしても、負けたからと言って死ぬことはない状態であれば、「生存」を掛けた競争ではない。あくまでより豊かな生活や自分の夢のための生存+α競争にすぎない。
 もちろん多くの先進国でも、稀にその保護から漏れてしまう不幸な人たちがまだいる。それを根絶する努力は必要だ。しかし、競争のない社会なんてのは無理というよりも糞だ。
 経済的な意味で生存競争を終わらせるというのは、基本的には敗者が死なない社会で良いと思う。戦争もなければ、飢餓もない。さらに病気や老齢や失業に何のセーフティーネットもない、いわゆる最低限の生活が保障されない状態から脱却していれば、既に一つの目標を達成している。

 なお、生物学的な意味での生存競争はあくまで子孫を残す戦いであって、どんな大金持ちでも、絶対的な権力を持つ独裁者でも、子供がいなければ生物学的には敗者だ。貧乏人でも子沢山ならビクトリー、それが生物学的な意味での生存競争になる。

 それでは『阿羅野』の仲夏の発句の続き。

   はじめて葎室をとぶらはれける比
 ここらかとのぞくあやめの軒端哉 秋芳

 「あやめの軒端」は端午の節句の飾りで、菖蒲葺のことをいう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「菖蒲葺く」の解説」に、

 「端午の節句の行事として、五月四日の夜、軒にショウブをさす。邪気を払い火災を防ぐという。古く宮中で行なわれたが、後、武家、民間にも伝わった。《季・夏》
  ※山家集(12C後)上「空はれて沼の水嵩(みかさ)を落さずはあやめもふかぬ五月(さつき)なるべし」

とある。例文にもあるように和歌にも詠まれている。
 元禄十一年の支考の『梟日記』にも、

 「五月五日
   備前國
 此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
 松風ときけば浮世の幟かな」

とその華やかな街の様子が記されている。
 街で一斉に菖蒲葺きが行われているのはもとより、人里離れた八重葎に埋もれた隠士の家でも屋根が菖蒲で葺かれていて、それを見ればここに人が住んでいるとわかる。

 蚊のむれて栂の一木の曇けり   小春

 いわゆる蚊柱という現象であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「蚊柱」の解説」に、

 「昆虫類のカ、ユスリカ、ヌカカ、ガガンボなど双翅(そうし)目長角群の昆虫が、上下左右に飛びながら柱状に群集する現象をいう。蚊柱は全体として上下に移動するが、地上にある突起物や周囲と色の違う紋様を中心にその上方でつくられ、木の梢(こずえ)の上、枝先の下でみられることもある。構成は普通、雄だけで、雌がこれに飛び入り雄と交尾することが観察されているので、生殖のための行動といわれているが、雌だけの群飛や1種類だけでない場合もある。蚊柱ができるのは夕暮れ、夜明けが多いが、種類と天候により日中にもできる。双翅類以外でも蚊柱と同じ現象が、カゲロウ、トビケラ、カワゲラ、クビナガカメムシなどでみられる。[中根猛彦]」

とある。

 草深きしづの伏屋の蚊柱に
     いとふ煙を立てぞふるかな
             藤原定家(拾遺愚草)
 夕ま暮杣木もしらぬ蚊柱を
     たつるはあるる夏の古郷
             正徹(草根集)

など、歌にも詠まれている。

 かやり火に寐所せまくなりにけり 杏雨

 蚊柱は和歌では珍しい題材だが、蚊遣火は意外に多くの歌に詠まれている。

 夏なれば宿にふすぶる蚊遣火の
     いつまでわが身したもえをせむ
             よみ人しらず(古今集)
 上にのみおろかに燃ゆる蚊遣火の
     よにもそこには思ひこがれし
             よみ人しらず(後撰集)

などの古歌にも恋の情に掛けて詠まれる。
 蚊遣火は火鉢で焚くので、狭い部屋だと結構場所を取るように感じられる。今の蚊取り線香ができたのは明治に入ってからのこと。

 雨のくれ傘のぐるりに鳴蚊かな  二水

 雨の日に傘の中に蚊が入って来ると、結構嫌なものだ。追払おうとして傘を回す。
 「傘のぐるり」は蛇の目傘のようにも思えるが、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「蛇の目傘」の解説」には、

 「雨天に用いる和傘の一種で、多くは女性のさすものである。この傘は、中央と周囲に紺の土佐紙を張り、その中間に白紙を張り巡らすのが特徴で、傘を開くと、太い輪の蛇の目模様が出るところからこの名が生まれた。元禄(げんろく)年間(1688~1704)に番傘を改良して考案されたものである。徳川8代将軍吉宗(よしむね)の時世に、定紋をつけることが起こり、これが女性や通人の間で流行した。渋(しぶ)蛇の目は中央と周囲を渋と「べんがら」を混ぜて塗り、中間を白く抜いたもの、奴(やっこ)蛇の目は周囲だけを薄黒くしたものである。
 享保(きょうほう)・元文(げんぶん)(1716~41)のころから、柄(え)を細くした軽い傘が好まれ、のちにはこれを細傘といって腰にさして歩いた。幕末以降、欧米文化がもたらされて、和傘よりもじょうぶな金属骨の洋傘が入ってきてからはあまり使われなくなった。現在では歌舞伎(かぶき)や粋(いき)向きの趣好品と化している。[遠藤 武]」

とあり、年代的には微妙だ。

 蚊の痩て鎧のうへにとまりけり  一笑

 さすがに鎧の上から刺すことはできないか。でも鎧の下に入り込まれたら、痒くても掻くことができない。

 藻の花をかづける蜑の鬘かな   胡及

 貞徳の『俳諧御傘』には「藻の花 夏也。 塩海のもにはあらず。」とあるから、本来藻の花と呼んでいたのは、清流に咲くバイカモの花ではなかったかと思う。
 夏になるとバイカモ(梅花藻)は梅のような小さな花をつける。
 ただ、江戸後期の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』には、葉の長さが二三寸で相対する「馬藻」と、細かくて糸か魚の鰓の形をした「水藻」の二種を上げていて、項目には「藻刈・藻舟・藻の花」とあるが、花については説明していない。
 あるいはこの時代には海の藻の豊かに茂る様を「藻の花」と呼ぶようになっていたか。
 それだと、藻が茂る様はまるで海女の髪の毛のようだ、という句になる。

 塩引て藻の花しぼむ暑さかな   兒竹

 この句も同様、はっきりと「塩」の文字があるので、海の藻であろう。塩が引くとゆらゆら揺れていた藻は立つことができずにペタッとなる。それを花のしぼむのに喩える。

 足伸べて姫百合草おらす昼ね哉  此橘

 「姫百合草」までで「ひめゆり」と読む。姫百合は、

 夏の野の茂みに咲ける姫百合の
     知られぬ恋は苦しきものを
              坂上郎女(続後拾遺集)
 百済野のちがやの下の姫百合の
     ねもころ人に知られぬぞ憂き
              藤原仲実(夫木抄)

などの歌に詠まれ、茂みに埋もれた花を本意とする。今のヒメユリと同じものかどうかはわからない。
 草に埋もれているから、草の上で昼寝していると、知らずに折ってしまうことがある。

 竹の子に行燈さげてまはりけり  長虹

 竹の子は曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』には「凡竹筍は淡竹(はちく)を上とし、苦竹(くれたけ)次之。」とある。苦竹はマダケのこと。今のような孟宗竹の太いタケノコが一般に広まったのはもっと後のことのようだ。
 そのせいか、食材としてのタケノコを詠んだ句は少ない。ここでも行燈を下げるのに用いている。
 なお、淡竹やマダケの竹の子は地面に出ているものを収穫するので、孟宗竹のように掘る必要はない。

 笋の時よりしるし弓の竹     去来

 竹弓にはマダケが用いられるようだ。マダケの竹の子は皮が黒くて艶があり、竹の子の頃から見た目が美しいということか。粽に使う竹の皮もマダケを用いる。

 聞おればたたくでもなき水鶏哉  野水

 水鶏の明方の鳴き声が戸を叩く音に似ているので、その鳴き声は、

 叩くとて宿の妻戸をあけたれば
     人もこずゑのくひななりけり
              よみ人しらず(拾遺集)
 里ごとにたたく水鶏のをとすなり
     心のとまる宿やなからん
              藤原顕綱(金葉集)

などの歌に詠まれている。よく聞けば実際に戸を叩いてないのはわかる。

2022年6月1日水曜日

 さて、旧暦の五月に入ったという所で、『阿羅野』の発句の「仲夏」を読んでいこうと思う。

 宵の間は笹にみだるる蛍かな   元輔

 元輔は室町時代の連歌師桜井基佐(さくらいもとすけ)だという。
 宗祇の時代の人で、『新撰菟玖波集』に一句も入集しなかったことから、

 足のうて登りかねたる筑波山
     和歌の道には達者なれども

の狂歌を詠んだことで知られている。
 連歌会(れんがえ)は会場の確保から料理や賞品の準備、そして遠くから連歌師を呼ぶその旅費や宿泊費など、かなり金のかかるイベントだったのは確かだろう。
 また、島津忠夫さんのネット上の「あしなうてのぼりかねたる筑波山─基佐・宗祇確執をめぐって─」によると、この狂歌の初出が『新撰菟玖波集』から百年後の文禄(一五九二年~一五九六年)の頃の『遠近草』だというから、本当に元輔の歌だったかどうかは疑わしい。
 長享元年(一四八七年)の『人鏡論』に、近江守の

 あしなくて登りかねたる位山
     弓矢の道は達者なれども

の歌があるという。
 句の方は特に俳諧的な要素はなく、連歌発句と見ていいだろう。笹に乱れる蛍は、

 小笹原篠に乱れて飛ぶ蛍
     今幾夜とか秋を待つらむ
              土御門院(続拾遺集)

の歌がある。
 「宵の間」も、

 宵の間もはかなく見ゆる夏虫に
     迷ひまされる恋もするかな
              紀友則(古今集)

の用例がある。この二つを合わせて宵の間に乱れ飛ぶ蛍に恋の情を添えている。

 刈草の馬屋に光るほたるかな   一髪

 刈草の蛍は、

 刈りて干す浅香の沼の草の上に
     かつみたるるは蛍なりけり
              二条為氏(続千載集)
 秋風をみつのみまきの真菰草
     刈りにもつけて行く蛍かな
              藤原知家(建保名所百首)

などの歌がある。名所の歌ではなく、どこにでもある馬屋の刈草の蛍とするところに俳諧がある。

 窓くらき障子をのぼる蛍哉    不交

 「蛍の光窓の雪」という近代の唱歌もあるが、いわゆる蛍雪の功ということで、蛍に窓は縁がある。和歌にも、

 草深き窓の蛍はかけきえて
     明くる色ある野辺のしらつゆ
              飛鳥井雅有(玉葉集)
 心あらば窓の蛍も身を照らせ
     あつむる人の数ならずとも
              惟宗光吉(風雅集)

などの歌がある。
 窓に集まる蛍は学問にいそしむ者の窓を連想させるものだが、ここでは暗い障子の一点の蛍の光とする。

 闇きよりくらき人呼蛍かな    風笛

 「闇きよりくらき」は、

   性空上人のもとに、よみてつかはしける
 暗きより暗き道にぞ入りぬべき
     遥に照せ山のはの月
              和泉式部(拾遺集)
 暗きより暗きになほや迷はまし
     衣のうらの玉なかりせば
              権大僧都源信(続後撰集)

などの歌があり、無明の闇の心として釈教歌に詠まれる。
 ここでは蛍船など、蛍見物の船に人が集まるのを見て、無明の闇に彷徨う人がこんなにいるのか、といったところか。
 まあ、実際悟った人なんて滅多にいるもんではない。普通の人は少なからず無明の闇に彷徨うものだ。

 道細く追はれぬ沢の蛍かな    青江

 蛍は和歌には道に光を灯すものとしても詠まれている。

 道の辺の蛍ばかりをしるべにて
     一人ぞいづる夕闇の空
              寂然(新古今集)
 灯し欠つ光を見るはあはれなり
     荒れにし道の蛍なれども
              藤原俊成(夫木抄)

などの歌がある。
 蛍が導いてくれるというのに、沢の蛍の灯す道は細すぎて辿ることができない。

 あめの夜は下ばかり行蛍かな   含呫

 雨の夜の蛍は高く飛ぶこともなく、草の陰にじっとしてたりする。
 雨の蛍は、

 降る雨の篠に露散る草叢に
     いかに燃ゆれば消えぬ蛍火
              貞成親王(沙玉集)

などの歌がある。

 くさかりの袖より出るほたる哉  卜枝

 蛍は草に棲むものなので、草を刈ると袖に蛍が入る。

 水汲て濡たる袖のほたるかな   鷗歩

 蛍は恋の燃える思いで、悲恋に袖を濡らすものだが、別に悲しいのではなく水を汲んだ時に袖が濡れただけ、という落ちになる。

2022年5月31日火曜日

 そういえば昨日から旧暦では五月だった。五月雨の季節。
 かつてはある程度経済成長を遂げた国は民主化の方向に向かうとされていたが、今は至る所で民主化を達成した国がその後の経済の伸び悩みから、独裁帰りする事例が増えている。ロシアもその典型だし、トルコもその後に続こうとしている。大統領権限の強化という形で、徐々に議会を停止してゆくパターンもあれば、ミャンマーのようなクーデターで逆行するケースもある。
 経済が緩やかだが順調に成長していても、先進国のイノベーションの速度について行けなくて、相対的に経済が後退しているかのような錯覚を起こすのだろう。ただその「相対的貧困」に騙されてしまうと、そのうち絶対的貧困にまで後退してゆく危険がある。
 独裁帰りを防ぐには、先進技術を囲い込まずに解放する必要がある。これは企業の側の問題になる。
 一方では知的所有権の壁が技術転移を妨げ、もう一方では国家ぐるみで技術を盗み出そうとしている独裁国家がある。
 あと、フェアトレードを国家ではなく市場の方でルール化する必要があるのではないかと思う。新しい資本主義は国家の目標ではなく、市場主導で世界共通ルールにしてゆく必要がある。
 国ごとにルールが異なると、その国家の政策によって有利不利ができてしまい、政策を誤った国が独裁帰りする危険もある。
 知的所有権の問題は難しいが、根本的なルールの再編が必要なように思える。コロナワクチンでも知的所有権が壁になって、先進国でワクチンが余り、フロンティア諸国で不足する事態になった。
 経済成長は長距離走と一緒で、距離が長くなればなるほどトップとビリとの差が開いて行く。そこで前を走ってる奴を力づくで転ばしてやろうと、その発想が独裁を生み出す。そうなるまえに後ろを走っている選手にローラースケートを履かせることも考えなくてはならない。
 国家ではなく市場がそれを援助してゆく必要がある。将来のお得意さんや良きビジネスパートナーを育てることは、必ず利益になる。

 それでは「月に柄を」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   また献立のみなちがひけり
 灯台の油こぼして押かくし    傘下

 灯台は背の高い足のついた油を入れて火を灯す皿で、そこに燈芯を置いて火をつける。「灯台下暗し」というのは、この灯台の真下が皿の陰になって暗いという意味で、海の灯台のことではないというのは、トリビアとしてよく話題になる。
 まあ、うっかりこの灯台にぶつかったりすれば、当然油がこぼれる。それを掃除してたりしたら時間を取ってしまって、献立を変更することになった、ということか。
 二十六句目。

   灯台の油こぼして押かくし
 臼をおこせばきりぎりす飛    越人

 こぼした灯台の油の後始末に臼を動かせば、コオロギが飛び出してくる。
 二十七句目。

   臼をおこせばきりぎりす飛
 ふく風にゑのころぐさのふらふらと 越人

 エノコログサは猫じゃらしとも言う。猫ではなく、飛び出してきたのはコオロギだった。
 あるいは猫がじゃれついたのでコオロギがびっくりして飛び出したという、「猫」の「抜け」か。
 二十八句目。

   ふく風にゑのころぐさのふらふらと
 半はこはす築やまの秋      傘下

 庭の改修で築山を半分突き崩すと、そこに生えていたエノコログサが転がってふらふら揺れる。
 二十九句目。

   半はこはす築やまの秋
 むつむつと月みる顔の親に似て  傘下

 「むつむつ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「むつむつ」の解説」に、

 「① =むっつり(一)①
  ※俳諧・更科紀行(1688‐89)「六十許の道心の僧、おもしろげもおかしげもあらず、ただむつむつとしたるが」
  ② =むっちり(一)①
  ※俳諧・類船集(1676)恵「少人のむつむつとこえたるにゑくほのあるはあいらし」

とある。①の方の意味になる。
 俳諧の祖の宗鑑の句に、

   切りたくもあり切りたくもなし
 さやかなる月をかくせる花の枝

というのがあったが、これもそのパターンで、築山が邪魔で月がよく見えないからというので半分壊してみたが、今度は庭が面白くない。
 まあ、それだけのネタに終わらせずに、二代揃ってこういう人だったという落ちを付ける。
 三十句目。

   むつむつと月みる顔の親に似て
 人の請にはたつこともなし    傘下

 請は「うけ」とルビがあり、かなり多義な言葉で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「受・請・承」の解説」に、

 「① 相手の動作や働きかけに反応を示すこと。
  (イ) 相手の要求、命令、申し出などを承諾すること。引き受けること。
  ※承応版狭衣物語(1069‐77頃か)一「え否むまじうて、忽ちのうけはせねど〈略〉など契りけるに」
  ※今昔(1120頃か)一六「云はむ事、請(うけ)有て聞け」
  (ロ) 競技、ゲーム、闘技などで、相手の攻撃を防御すること。また、する人。「攻めと受け」「受けにまわる」
  (ハ) 歌舞伎十八番の「暫(しばらく)」で、花道からのせりふを舞台の二重(にじゅう)にいて受けとる公家悪(くげあく)の敵役の通称。
  ※雑俳・柳多留‐二五(1794)「美しいうけで国からしばらくウ」
  (ニ) 能楽、または長唄の囃子(はやし)で、大鼓(おおつづみ)、小鼓、太鼓の打ち方の名称。受頭(うけがしら)、受三地(うけみつじ)、受走(うけばしり)など。
  (ホ) 旅芝居などで、町触れの太鼓が帰ってきたとき、小屋で待ち受けてたたく大太鼓の称。
  (ヘ) 注文をうけること。〔模範新語通語大辞典(1919)〕
  ② 世間の評判。おもわく。受け取られ方。
  (イ) 世間の評判。人望。特に演劇で観客の反響をいうことがある。
  ※浮世草子・当世芝居気質(1777)一「太夫は声にはよらぬ。見物のうけばっかりをあぢいれ」
  (ロ) 相手に与える感じと相手の反応。もてなし。待遇。あしらい。態度。
  ※浄瑠璃・躾方武士鑑(1772)八「浪人じゃと云と、強(きつ)い茶屋の受けが違ふて」
  (ハ) 相手の意向などの理解のしかた。さとりかた。
  ※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)初「土瓶をとって『これか』『アレサどふも請(ウケ)のわりい』『ヲットしゃうちだ』ト、そばにある燗徳利をとり」
  ③ 物を受け取ること。他人から、なにかを手に入れること。受け取り。
  ※碓井小三郎氏所蔵文書‐永仁三年(1295)五月三〇日・松王法師供米請取状「請 一切経御供米事。合玖斗者。右、去年八月分、法印信顕所レ請之状如レ件」
  ④ 物を受けたり支えたりするもの。
  (イ) 物を受け入れる設備。「新聞受け」「郵便受け」
  (ロ) 支えるもの。つっぱり。「棚の受け」
  (ハ) 立花(りっか)で、心(しん)、副などの枝に対して、低く横に出て全体の釣り合いをとる枝。うけえだ。
  ※立花秘伝抄(1688)四「往昔花を指初るに法式有、いはゆる心、正心、副、請、見越、流枝、前置、〈略〉是を七ツ枝と名付」
  ⑤ 相対すること。ある方向に面すること。また、面している部分。多く造語要素のように用いられる。
  (イ) 能の演技の型で、正面、または、ある方向に体を向けている者が、他の方向に向きを変えること。左受(ひだりうけ)、隅受(すみうけ)、脇正受(わきしょううけ)、脇座受(わきざうけ)など。
  (ロ) 建造物などで、ある方向に向いている部分。
  ※浄瑠璃・冥途の飛脚(1711頃)下「にしうけのたけれんじ、ほうぐしゃうじをほそめにあけて」
  ⑥ 代価を償って、一定の拘束をうけていた人や品物を引き取ること。
  ※歌舞伎・時桔梗出世請状(1808)二幕「殊の外質屋は忙がしうござりまする。〈略〉二朱一本の兜を持って来ましたが、これは受けになりますかえ」
  ⑦ 保証すること。特に、貸借関係や身もとの保証をすること。また、保証する人。保証人。うけにん。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑧ 請け負うこと。
  (イ) 中世、地頭、名主などが領主への年貢納入を請け負うこと。地頭請、守護請、地下請、百姓請などがある。
  (ロ) 江戸時代、新田の開墾をするときに、請け負ってその土地を借り受けること。村が借り受けるときは「何々村受」と称し、個人の場合は「何々受」とした。
  (ハ) =うけあい(請合)(一)②
  ※試みの岸(1969‐72)〈小川国夫〉「日当は元通りでいい、〈略〉一円五十銭でもいいな。請(ウ)けで行くんなら、四十三円と」

とある。
 多義の言葉は次の句での取り成しもあるので、一応全部掲げておく。ここでは『芭蕉七部集』の中村注にある通り、⑦の意味であろう。
 まあ、安易に人の保証人なんかになってはいけない。
 請人はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「鎌倉,室町時代の荘園において,地頭,荘官らが一定額の年貢納入を荘園領主に対して請負う場合 (→請所 ) ,請負う側のものを請人といった。また,中世,近世における保証人を請人と称した。中世における請人は,債務者の逃亡,死亡の場合に弁償の義務を負い,債務者の債務不履行の場合にも,請人に弁償させるためには保証文書にその旨を記載する必要があった。近世における請人は,人請,地請,店請,金請などの場合が主であったが,金請の場合中世とは異なり,債務者の債務不履行の場合当然に弁償の義務を負い,債務者の死失 (死亡) の際に請人に弁償させるためには債務証書にその旨を記載する必要があった。しかし,宝永1 (1704) 年以降,死失文言の有無にかかわらず,債務者死失のときも請人が弁償すべきものとされた。」

とある。この時代の請人は死失 (死亡) の際のことについての記載がなければ補償義務はなかった。ってことは、いざとなったら殺せばいいということか。
 また、延宝五年の「あら何共なや」の巻九十二句目に、

   走り込追手㒵なる波の月
 すは請人か芦の穂の声      信章

の句があるように、近代みたいな自力救済の禁止がなかったので、債務者を追っかけて締め上げるくらいのことはできた。
 二裏、三十一句目。

   人の請にはたつこともなし
 にぎはしく瓜や苴やを荷ひ込   傘下

 苴は「あさ」とルビがある。この場合は②の意味で「荷受け」であろう。自分の所の荷物だけをさっさと受け取って運び込む。
 三十二句目。

   にぎはしく瓜や苴やを荷ひ込
 干せる畳のころぶ町中      越人

 荷物を背負った人足が沢山通ると、一人くらいは干した畳にぶつかって倒して行くやつもいる。
 三十三句目。

   干せる畳のころぶ町中
 おろおろと小諸の宿の昼時分   傘下

 小諸宿は中山道の軽井沢の先の追分宿から北国街道に入った先にある。長野へと向かう途中になる。
 小諸と畳の縁はよくわからない。
 三十四句目。

   おろおろと小諸の宿の昼時分
 皆同音に申念仏         越人

 北国街道と言えば善光寺参りの人が多かったのだろう。善光寺には宗派がないので、どの宗派の人も集まってくる。念仏は共通の言葉か。
 三十五句目。

   皆同音に申念仏
 百万もくるひ所よ花の春     傘下

 謡曲『百万』は狂乱物で嵯峨の大念仏が舞台になる。

 「さん候この嵯峨の大念仏は、人の集まりにて候間、面白き事の数多御座候。中にもここに百万と申す女物狂の候が、われ等念仏を申せばもどかしいとあつて出でられ、おもしろう音頭を取り申され候。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.42084-42093). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 旧暦三月に行われるもので、謡曲でも、

 「雲に流るる大堰河、まことに浮世の嵯峨なれや。盛り過ぎ行く山桜・嵐の風松の尾・小倉の里の夕霞、立ちこそ続け小忌の袖、かざしぞ多き花衣、貴賤群集する・この寺の法ぞ尊き。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.42276-42282). Yamatouta e books. Kindle 版. )

と季節の描写が入っている。「盛り過ぎ行く山桜」で花の春となる。
 挙句。

   百万もくるひ所よ花の春
 田楽きれてさくら淋しき     越人

 嵯峨大念仏のような大きな法会には、田楽の店なども並ぶものなのだろう。それも人があまりに多くてどこも売り切れだと、花見もやや寂しい。

2022年5月30日月曜日

 今日は朝の散歩でホトトギスの声を聞いた。去年は生田緑地だったが、今年は何でこんな所にというような普通の住宅地の道だった。
 今日の人権派の行き過ぎは、主に白紙説に基づく過剰な表現の規制、サピア=ウォーフ仮説による言葉狩りという非科学的なものによるもので、LGBTについてもきちんと科学的に扱うなら、今の日本は人口の増加圧がほとんどないと言ってもいいので人権思想は十分機能する。ただし、移民を無制限に受け入れるようなことをして人口増加圧が生じれば、その限りでない。
 あと、肉親、恋人、親友など特別な人を優先するのは差別ではない。これも間違ってはいけない。差別は個別的な優遇ではなく、人種、性別、宗教などのカテゴリーによる優遇をいう。
 日本人は創造説に拘泥されないし、また創造説の権威と戦わなくても良いというメリットがある。欧米よりも科学的な人権思想を作ることが可能だ。

 それでは「月に柄を」の巻の続き。

 十三句目。

   月の夕に釣瓶縄うつ
 喰ふ柿も又くふかきも皆渋し   傘下

 貧乏くじを引く人は、柿もはずれてばかり。ただ、当時は甘柿は少なかったのかもしれない。干柿にして渋を抜いて食う方が多かったのだろう。
 明治の頃に正岡子規は、

 柿の実の渋きもありぬ柿の実の
     甘きもありぬ渋きぞうまき
              正岡子規

の歌を詠んでいる。
 十四句目。

   喰ふ柿も又くふかきも皆渋し
 秋のけしきの畑みる客      越人

 人里離れた所の草庵を尋ねてきた人か。畑をみながら、こんなところで渋柿を食って暮らしているのかと感慨にふける。

   源清雅、九月はかりにさまかへて
   山てらに侍りけるを、人のとひて侍りける
   返ことせよと申し侍りけれは、よみてつかはしける
 おもひやれならはぬ山にすみ染の
     袖につゆおく秋のけしきを
              源通清(千載集)

の心か。
 十五句目。

   秋のけしきの畑みる客
 わがままにいつか此世を背くべき 越人

 いつかは遁世しようと、その予定の場所を内見に行く。
 十六句目。

   わがままにいつか此世を背くべき
 寝ながら書か文字のゆがむ戸   傘下

 前句の「背く」を文字通り背を向けるとして、うつ伏せに寝そべって戸の下の方に文字を書く様とする。
 壁の下の方の「腰張」は、落書きなどよく物を書き付けたりしたのだろう。元禄二年の山中三吟九句目に、

    遊女四五人田舎わたらひ
 落書に恋しき君が名もありて   芭蕉

の句の初案は「こしはりに恋しき君が名もありて」だったという。
 腰張だけでは足りず、戸の下の方にも書き付けたか。  
 十七句目。

   寝ながら書か文字のゆがむ戸
 花の賀にこらへかねたる涙落つ  傘下

 花の賀というと『伊勢物語』第二十九段に、

 「むかし、春宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに、

 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども
     今日の今宵に似る時はなし」

とある。在原業平との恋を引き裂かれた高子の嘆きとされている。
 泣き伏せてこの歌を書いたということか。
 十八句目。

   花の賀にこらへかねたる涙落つ
 着ものの糊のこはき春かぜ    越人

 花の賀に出席するために、糊の利きすぎた着心地の悪い着物を着せられる。涙。
 二裏、十九句目。

   着ものの糊のこはき春かぜ
 うち群て浦の苫屋の塩干見よ   越人

 浦の苫屋というと、すっかりよれよれになった着物の流人や海女の袖を濡らすのが連想される。いつもパリッと糊を利かせた着物を着ているお偉いさんも、時にはそういう気分になってくれ、ということか。
 二十句目。

   うち群て浦の苫屋の塩干見よ
 内へはいりてなをほゆる犬    傘下

 野犬の群れに吠えたてられて、浦の苫屋に避難するが、そとでずっと吠え続けてなかなか立ち去らない。
 生類憐みの令で、当時野犬の増加が問題になっていたか。
 二十一句目。

   内へはいりてなをほゆる犬
 酔ざめの水の飲たき比なれや   傘下

 酔っ払って喉が渇いて、ちょっと水を飲もうと外に出ようとすると犬に吠えられる。
 二十二句目。

   酔ざめの水の飲たき比なれや
 ただしづかなる雨の降出し    越人

 水を飲みに行こうとしたら雨が降り出す。
 二十三句目。

   ただしづかなる雨の降出し
 歌あはせ独鈷鎌首まいらるる   越人

 独鈷鎌首はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「独鈷鎌首」の解説」に、

 「〘名〙 (六百番歌合のとき、僧顕昭が独鈷を手に持ち、僧寂蓮が首を鎌首のようにもたげて論争したのを、左大将藤原良経家の女房たちが「例の独鈷鎌首」とあだ名したというところから) 議論ずきの歌人をいう。
  ※井蛙抄(1362‐64頃)六「殿中の女房、例の独古かまくびと名付られけりと云々」

とある。
 後に蕪村は、

 独鈷鎌首水かけ論の蛙かな    蕪村

の句を詠んでいる。蛙を歌詠みとする発想は、一見貞門の発句かという感じがする。
 越人の句も、静かな雨夜に歌というと何となく蛙を連想させる。あと一歩で蕪村の発句を先取りできたかも。
 二十四句目。

   歌あはせ独鈷鎌首まいらるる
 また献立のみなちがひけり    傘下

 歌で議論しているのかと思ったら、歌会の席の献立の議論だった。
 今でも目玉焼きは醤油かソースかだとか、唐揚げにレモンを絞るかどうかだとか、酢豚にパイナップルは必要かどうかだとか、料理の事となると熱い議論が交わされる。