2022年4月12日火曜日

 今日は福島県富岡町の夜の森桜並木を見に行った。今年は立ち入り制限が解除されて、九日と十日には桜祭りも行われたという。今まではアコーディオンフェンスで入れなかった所だ。
 高速で北へ向かって走ると、季節が逆戻りしていくようで、こっちではすっかり葉桜になっているが、いわき市を過ぎると二週間前の様に桜が満開になる。
 天神岬スポーツ公園、夜の森桜並木、南相馬の小高川沿いのさくら、飯崎のしだれ桜と、桜尽くしの一日だった。
 写真は夜の森の桜並木。綺麗な桜並木だけど、周囲は廃墟と更地なのが痛々しい。



2022年4月11日月曜日

 「兼好も」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。
 それでは『阿羅野』の花三十句の残り。

 はつ花に誰が傘ぞいまいまし   長虹

 初花は元は年の初めに咲く花だったが、最初に咲く桜の意味にも用いられる。桜の初花は『為忠家後度百首』(一一三五年)の、

 山深くたづぬるかひやなからまし
     初花桜にほはざりせは
              藤原為忠(為忠家後度百首)

に一例あり、『宝治百首』(一二四八年頃)の、

   初花
 軒ばなる初花さくらあかなくに
     かねて日数の春もうらめし
              信覚(宝治百首)
   初花
 しら雲のあまたにやらすたつた山
     初花桜いまさきにけり
              藤原為経(宝治百首)

などを含む、一連の「初花」という題で桜を詠んだ作品群の頃には、一般的に定着したか。
 句の方は、初花がせっかっく咲いたのに唐傘が邪魔で見えない、ということか。

 柴舟の花咲にけり宵の雨     卜枝

 柴舟はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「柴舟」の解説」に、

 「〘名〙 (「しばふね」とも)
  ① 柴木を積んだ小舟。たきぎにする雑木の小枝を載せた舟。しばおぶね。
  ※堀河百首(1105‐06頃)雑「もとめつるおまへにかかる柴舟のきたげになれやよるかたもなき〈源俊頼〉」
  ② 江戸時代、松葉、青柴などを、瓦を焼く薪用に運送した小廻しの廻船。大坂には紀州、阿波、土佐、日向などからくるものが多かった。〔和漢船用集(1766)〕」

とある。和歌では、

 くれてゆく春の湊は知らねども
     霞におつる宇治の柴舟
              寂蓮法師(新古今集)

のように「宇治の柴舟」として詠まれる。

 柴舟のかへるみたにの追ひ風に
     波よせまさる岸の卯の花
              藤原俊成(夫木抄)
 あさひ山岸の山吹咲きにけり
     花のしたゆく宇治の柴舟
              飛鳥井雅縁(為尹千首)

など、卯の花や山吹を詠んだ例はある。
 宵の雨に柴舟の上に花が散って、柴舟の花が咲くということか。

 おるときになりて逃けり花の枝  鷗歩

 咲いているのを見て後で折に行こうと思っていたら、誰かが先に折っていたのだろう。考えることはみんな同じ。

 連だつや従弟はおうし花の時   荷兮

 「おうし」は「おほし(多し)」の間違いであろう。花見となると俄に従弟と称する人が集まってくる。

 疱瘡の跡まだ見ゆるはな見哉   傘下

 疱瘡はここでは「はうさう」だが、「いも」ともいう。元禄七年の「水音や」の巻十一句目にも、

   祭のすゑは殿の数鑓
 見るほどの子供にことし疱瘡の跡 芭蕉

の句があり、言水編の『新撰都曲(しんせんみやこぶり)』にも、

 お火焼や疱瘡したる子の数多き  入安

とある。天然痘が流行ると、その辺りの子供が次々と罹るから、疱瘡の跡の子どもはいる所にはたくさんいた。
 花見は目出度いが、子供たちがたくさん集まってくると、否が応でもかつての天然痘の爪痕が目についてしまう。

 あらけなや風車売花のとき    薄芝

 「あらけなし」は荒々しい、乱暴な、という意味。花見の名所に風車売りが来ているが、風が吹いて花よ散れと言っているみたいで乱暴な。
 「風車」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「風車(玩具)」の解説」に、

 「紙、経木(きょうぎ)、セルロイドなどでつくった車輪形のものを柄(え)の先につけ、風力で回転させる玩具(がんぐ)。古くは紙製で、中国から渡来し、平安時代には子供の遊び道具になっていた。室町時代には起きあがり小法師(こぼし)や手毬(てまり)などとともに、子供の玩具として親しまれていたことが、当時の小舞(こまい)の文句の一節などでもうかがわれる。江戸時代に入ると新春の玩具となった。1686年(貞享3)刊の『雍州府志(ようしゅうふし)』(黒川道佑(どうゆう)著)には、「京の祇園(ぎおん)町製がもとで春の初めに多くつくられる。細い竹片で小さな花輪をつくり、青紅色の紙片を花弁のように張り付ける。風が当たると花輪が転舞するので風車という。藁(わら)台に立てて売る」という意味のことを記している。」

とある。

 花にきてうつくしく成心哉    たつ

 花の下に立つと、自分が美しくなったような気分になる。バックに花があると、誰でも美しさが引き立つ。少女漫画の花を背負うようなもの。

 山あひのはなを夕日に見出したり 心苗

 山と山との間の花は目立たないが、夕陽が当たると見えるようになる。

 おもしろや理屈はなしに花の雲  越人

 花の雲は『古今集』仮名序に、

 「春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には、くもかとのみなむおぼえける。」

とあるが、人麻呂の歌に吉野の花の雲を詠んだものがないので、謎とされている。
 花に雲を詠んだものというと、

 桜花咲きにけらしなあしひきの
     山の峡より見ゆる白雲
              紀貫之(古今集)
 山高み雲居に見ゆる桜花
     心のゆきて折らぬ日ぞなき
              凡河内躬恆(古今集)

があり、吉野の花の雲を詠んだものは、

 み吉野のよしのの山の桜花
     白雲とのみ見えまかひつつ
              よみ人しらず(後撰集)

の歌がある。
 紀貫之がどのような意図で吉野の花の雲の典拠を人麿としたのかは定かでないが、まあ、そのような理屈を抜きにしても花の雲は面白い。

 なりあひやはつ花よりの物わすれ 野水

 「なりあひ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「成合」の解説」に、

 「① できていてよく合うこと。完成していること。
  ※叢書本謡曲・浦島(1465頃)「木綿四手(ゆふしで)の神心、龍神も心を一つに成り合ひの、松風も吹きよせよさす汐もよせよと」
  ② (形動) なるがままであること。成り行きに任せること。そのままにしておいて手をつけないこと。また、そのさま。なりわい。
  ※浮世草子・武家義理物語(1688)一「朝にとく起て馬の沓を作りて、けふをなりあひに暮しぬ」

とある。②の方の意味であろう。
 花が咲き始めてから花見のことで頭がいっぱいで、他のこともいろいろあったが忘れてしまっていた。でもまあ何とかなるもの。

 独来て友選びけり花のやま    冬松

 花見で酒が回って来れば警戒心も薄れ気が大きくなって、知らない人が来ても「まあ、飲めや」ってなる。隣のグループと入り乱れたりして、見知らぬ人も皆友達。
 そんな状態だと一人で来ても、あちこちから「来いよ」と言われる。どこで飲むか、いくらでも選べる。

 花鳥とこけら葺ゐる尾上かな   冬文

 「こけら」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「こけら」の解説」に、

 「① 材木をけずる時にできる、木の細片。木を、おのでけずった時の細片。けずりくず。木片。こっぱ。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※古今著聞集(1254)一一「只今ちりたるこけらばかりにて、前に散りつもりたるなし」
  ② 材木を薄くけずりはいだ板。槇(まき)、檜(ひのき)、椹(さわら)などの木材を、薄くけずって、板屋根などにふくもの。こけら板。木端(こば)。
  ※看聞御記‐永享五年(1433)閏七月九日「地蔵殿上葺新造以こけら葺」
  ③ 「こけらずし(鮨)」の略。
  ※俳諧・本朝文選(1706)五・銘類・飯酢銘〈吾仲〉「かの茄子たけの子の鮓といへば、何のこけらにも似かよひて、あま法師のこがれものならんに」
  [語誌](1)削ぎ落とす意味の動詞「こく(扱)」や、肉が削ぎ落ちた状態になる動詞「こく(痩)」と同源か。木の表面を削り落とした木片を指し、魚の表面を削ぎ落とすことで出る「こけら(鱗)」も同語源。
  (2)木片を意味する語は、次第に「こっぱ(木っ端)」に代わられ、「こけら」は屋根の葺板を指すことが多くなっていった。」

とある。「こけら葺き」は②の意味になる。
 尾上は山の頂上や稜線で、それを建物の屋根に見立てて、桜と鳥で葺かれている、とする。

 首出して岡の花見よ鮑とり    荷兮

 海女は海に潜るが、水面に首を出せば海辺の丘の花見ができる。

   酒のみ居たる人の絵に
 月花もなくて酒のむひとり哉   芭蕉

 独で酒を飲む人物だけが描かれた絵への画賛だろうか。
 月だと李白の「月下独酌」という詩があるし、桜だと山奥に庵を構える隠士の姿が浮かぶ。何もなしに独り飲む絵に感じた取ったのは、おそらく過去の人生の中の様々な月花を思い起こしながら飲むという場面ではなかったか。
 都での華やかだった頃は、花宴があり月見の宴もあった。そんなものを思い起こしながら、隠居して一人酒を飲む。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮れ
             藤原定家(新古今集)

の心にも通じる。

   ある人の出家にいたりて
 樫の木のはなにかまはぬすがた哉 芭蕉

 この句は『野ざらし紀行』にも出てくる句で、貞享二年春に京の鳴滝の三井秋風の別墅を尋ねた時の句で、『野ざらし紀行』には、

 「京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家(やまが)をとふ。

    梅林
 梅白し昨日や鶴を盗まれし
 樫の木の花にかまはぬ姿かな」

とある。
 この文脈だと「花」は梅の花ということになるが、この句だけを切り離して花三十句に加えれば桜の花のことになる。
 前書きも「ある人の出家にいたりて」ということで、この句は別の句になったと言ってもいい。
 樫はブナ科の常緑広葉樹で、一年中鬱蒼と茂る葉っぱは黒々とした感じがする。『去来抄』に、

   くろみて高き樫木の森
 咲花に小き門を出つ入つ     芭蕉

の句もある。
 また、『冬の日』の「霜月や」の巻第三に、

   冬の朝日のあはれなりけり
 樫檜山家の体を木の葉降     重五

とあり、樫の木は山家の連想をも誘う。
 永遠の命を持つ仙人のように、四季の変化と無縁で万物の春に生じて秋に止むという生死をも超越したという含みも、常緑樹にはある。
 その意味でも「花にかまわぬ」というのは、咲いては散って行く有為変転を遁れているかのようだ、という含みも持たせることができる。出家する人に贈るのにふさわしい句といえよう。

2022年4月10日日曜日

 ドゥームスクローリングという言葉は初めて聞いたが、日本ではそれほど問題にはなっていないみたいだ。多分いわゆる「意識高い系」の人がなりやすいのではないかと思う。
 世界のあちこちで悲惨な事件が起こっているが、それについて考えなければいけないという強迫観念にかられるのは、多分そうした人たちなのだろう。
 あるいはテレビのニュースを見なくてはならないだとか、新聞はちゃんと読まなくてはいけないだとか、そういう教育を受けて育った人達かな。今どき新聞を隅々まで読む人って、頭悪いんだろうな。あれだけで結構時間食うし、情報が偏るもとになる。
 ネットが発達したとはいえ、情報は絶対的には不足している。ただノイズばかりが過剰で、必要な情報を得るのが難しくなっている。テレビでも両論併記とかで、ロシアの流すデマ情報を毎日報道しているが、あんなものは聞く必要がない。
 ニュースを見るのは権利であって義務ではない。必要のない情報は時間の無駄だし、かえって判断の妨げになる。
 特に感情に訴えかけるような情報は無視していい。ウクライナの虐殺でもそういう事件があったということと、大まかな人数ぐらい抑えておけばいいことで、被害者の気持ちになる必要はない。そんなの真面目に聞いてたら、確かにドゥームスクローリングで鬱病になりかねない。
 nuriéに「命に値札を貼られ生きる。」という曲があったが、特に意識高い系の教師が、若者に過度にこうした情報に接するように求めることは問題だ。こうしたことも若者が自己肯定感を持てなくなる原因になる。
 ニュースは権利であって義務ではない。ニュースを見ることを強要してはならない。
 聞きたくないニュースは、「あーーあーーあーーーーー、何?‥‥聞えねーーー」、これで良い。我々はハッピーな生活をする権利がある。
 左翼はいいよな。どんな悲惨なニュースでも、全部政府が悪い、自民党が悪い、アメリカが悪い、安倍が悪いって無責任に言い放てばそれでいいからな。そういう奴らはドゥームスクローリングには縁がなさそうだ。
 あと、鈴呂屋書庫の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」を書きなおしたのでよろしく。

 それではこの辺で発句の方をまた少し。『阿羅野』の花三十句を見てみよう。まずは十五句。

   花三十句

   よしのにて
 これはこれはとばかり花の芳野山 貞室

 吉野の千本桜の圧倒的な美しさに声を失う体。この句にこれ以上言うこともなかろう。

 我ままをいはする花のあるじ哉  路通

 「花のあるじ」は和歌にも詠まれる言葉だが、中世以降は花の本に隠棲する人のことを指すことが多い。

 この春は桜が下にいへゐして
     花のあるじと人にいはれむ
              藤原範光(正治初度百首)

 とふ人の見捨てて帰る山里に
     花のあるじの名こそ惜しけれ
              藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。吉野隠棲の西行法師の面影も感じられる。
 吉野の山に桜を尋ねてみんなで花を楽しんでいる時に、そこにひっそり暮らしていた花の主の言うわがままはこれだろうか、

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の咎には有りける
              西行法師(山家集)

 薄曇りけだかくはなの林かな   信徳

 「はなの林」も和歌の言葉で、

 咲きにけり雲のたちまふ生駒山
     花の林の春のあけほの
              藤原為家(夫木抄)

など、雲とともに詠まれる。
 ここでは生駒山など花の名所の山に詠むのではなく、ただ市井にあっても空が薄く曇っているのを見ると、気高い花の林が思い浮かぶ、というものであろう。

 はなのやまどことらまへて歌よまむ 晨風

 「とらまへて」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「捉」の解説」に、

 「つらま・える つらまへる【捉】
  〘他ア下一(ハ下一)〙 とりおさえる。つかまえる。とらえる。とらまえる。
  ※咄本・春袋(1777)河太郎の火「かっぱ、火を貰にきたりといへば、〈略〉つらまへんといって、若い者、手組て居る所へ」

とある。
 花の見事さにどこを捉えて歌を詠んでいいものやらというもので、冒頭の「これはこれは」の句を更に俗語で落とした感じがする。

 花にあかぬなげきや我が歌袋   宗房

という『続山井』(湖春編、寛文七年刊)の句も思い起こさせる。

 暮淋し花の後の鬼瓦       友五

 当時の花見は寺社で行われることが多かった。吉野も金峰山寺だし、京だと清水寺、江戸では上野寛永寺か浅草浅草寺か。花見をすると否が応でもお寺の屋根の鬼瓦が目に入る。
 街灯もライトアップもない昔は、日が暮れると闇に包まれ、花も見えなくなるため、花見の人は日が暮れると帰って行った。花咲くお寺の夕暮れは鬼瓦だけが淋しそうにしている。夕日を浴びて、鬼の目にも涙というところか。

 山里に喰ものしゐる花見かな   尚白

 山里は大体食料に乏しいもので、そんなところに集団で押しかけ、何か食わせろって感じだと、やはり花の主に嫌われそうだ。

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

 寺社での花見は庶民のもので、武家はそういう所に出入りするのを慎むべきものだったが、庶民の格好をしてまぎれればいいものを、大小二本の刀を挿して現れれば、何事かとぎょっとする。
 もっともこの時代の庶民も脇指はみんな持っていたと、西鶴の『好色一代女』にも記されている。

 みねの雪すこしは花もまじるべし 野水

 野水は名古屋の人だから、木曾御岳山の雪は毎日見ていたのだろう。吉野は遠いから、御岳山の雪を見て、あれが花だったらなと思う。

 はなのなか下戸引て来るかいな哉 亀洞

 花見というと酒盛りが付き物だが、下戸でもそれに付き合わされる。花見の席にはいやいや連れて来れれる下戸というのが必ずいるもんだ。

 下々の下の客といはれん花の宿  越人

 俳諧の祖の山崎宗鑑が庵の入口に、

 上は来ず中は日がへり下はとまり
     二日とまりは下下の下の客

の狂歌を掲げていたと言われている。これも「花の主」の我儘ということか。
 せっかく花見に来たのだから、下下の下の客と言われようと、心行くまで花見を楽しみたい。

 はなの山常折くぶる枝もなし   一井

 周りが桜ばかりの所に住んでいると、花の季節にはどの枝も花が咲いているので、折ってくべる枝がなくて困るだろうな、というお節介。やはり西行さんをイメージしているのか。

 見あげしがふもとに成ぬ花の滝  俊似

 「花の滝」は松永貞徳の『俳諧御傘』に、

 「花の滝と云は、滝のごとくの落花をも、又、花のちり交て落る滝をも、又、花の中に落る滝をも申詞なり。

 山桜咲初しより久堅の
     雲井にみゆる滝の白糸

 是等は落花の心少もなきに、花のちるを花の滝といふと、一篇に心得たるはあしき也。」

とある。歌は源俊頼で『金葉集』所収。この場合は花の咲く姿を天から落ちて来る滝に喩えたものであろう。
 俊似の句も同じような趣向で、見あげる桜の木を滝に見立てて、見あげている今立っている場所がこの滝の麓だ、とする。名前も俊似だけに、俊頼に似ている。

 兄弟のいろはあげけり花のとき  鼠弾

 「いろはあげけり」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の注に、「いろはを習い終えたの意」とある。
 花の時は子供たちの手習いも早めに切り上げて花見をする。ただ、子供だけに「ゑひもせす」かな。

 ちるはなは酒ぬす人よぬす人よ  舟泉

 花が散る頃には、花見にやってきた客が家にあった酒をみんな飲んでしまう。何も残らないとなるとそれも潔い。まさに桜の散り際。

 冷汁に散てもよしや花の陰    胡及

 冷汁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「冷汁」の解説」に、

 「〘名〙 (「ひやしる」とも) つめたく冷やして野菜などを入れた汁。ひやしじる。また、さめた汁。《季・夏》 〔大上臈御名之事(16C前か)〕
  ※俳諧・続猿蓑(1698)夏「冷汁はひへすましたり杜若〈沾圃〉」

とある。
 花見の席では冷や汁に桜の花びらが落ちることもあるが、それはそれでまた風流なものだ。
 元禄三年の、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の句にも影響を与えたかもしれない。

2022年4月9日土曜日

 今まで鈴呂屋書庫に挙げてきたものも古いものから新しいものまでいろいろなので、そろそろ書き直していこうかな。一分は既に書き直しているけど。
 最初の頃の物は明治以降の正岡子規によって作られた「写生説」に対抗しようという意識が強くて、過度に言葉遊びの部分が強調されてたりもする。
 今となっては芭蕉研究の写生説の論客も年老いて、亡くなった人も多く、最近は芭蕉研究自体が新しい動きというのを聞かず、衰退しているような気がする。
 まあ、筆者も写生説を滅ぼすのが目的ではないし、歴史に絶対はないんだから、「諸説あり」の状態で良いのではないかと思う。いまさらそんな文学の権威というのもなくなってきたし、小説の方だって本屋大賞のような市場の声が優位になってきた時代だ。片意地張らずに行きたいものだ。
 それでは「兼好も」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   ことしのくれは何も貰はぬ
 金仏の細き御足をさするらん    嵐雪

 金仏はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「金仏」の解説」に、

 「① 金属で作った仏像。かなぼとけ。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「金仏の細き御足をさするらん〈嵐雪〉 此かいわいの小鳥皆よる〈利牛〉」
  ※人情本・閑情末摘花(1839‐41)三「たとへ金仏(カナブツ)、石地蔵、木で造った閻魔でも、唯はおかれぬ今霄の景勢(ありさま)」
  ② 比喩的に、心のきわめて冷たい人。感情に動かされない人をいう。
  ※雑俳・蓍萩(1735)「金仏に猶心猿が手をのばす」
  ※上海(1928‐31)〈横光利一〉四「毎日あの女を使ってゐるくせに、まさか金仏(カナブツ)でもないだらう」

とある。「堅物(かたぶつ)」は元は「金仏(かなぶつ)」だったか。
 仏像の足は衣で隠れていることが多いが、足が細いというと空也仏だろうか。だとすると、引退した鉢叩きということか。
 芭蕉にも、

 乾鮭も空也の痩も寒の中      芭蕉(元禄三年)
 長嘯の墓もめぐるか鉢叩き     同(元禄二年)

の句がある。年末の風物だった。
 二十六句目。

   金仏の細き御足をさするらん
 此かいわいの小鳥皆よる      利牛

 釈迦涅槃図か。
 二十七句目。

   此かいわいの小鳥皆よる
 黍の穂は残らず風に吹倒れ     野坡

 黍の穂が倒れれば、小鳥がそれを食べに集まってくる。
 黍の茎は堅いが、その分風に折れやすい。貞享四年の名古屋での「凩の」の巻四句目に、

   鵙の居る里の垣根に餌をさして
 黍の折レ合道ほそき也       越人

の句がある。
 二十八句目。

   黍の穂は残らず風に吹倒れ
 馬場の喧嘩の跡にすむ月      嵐雪

 前句を高田馬場周辺の風景とし、そこでの決闘の後、誰もいない馬場に月がぽっかりと浮かぶ。
 この巻が元禄七年春だとすると、この年の二月十一日に高田馬場の決闘と呼ばれる事件が起きている。ウィキペディアに、

 「元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて2人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、2人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに2人は高田馬場で決闘をすることと決める。」

とある。これからすると偶発的に高田馬場で喧嘩が起きたわけではない。高田馬場はそれ以前から決闘の場所に選ばれることが多かったのではなかったか。
 元禄五年(六年説もある)の芭蕉・其角・嵐雪の三吟「両の手に」の巻の二十四句目に、

   女房よぶ米屋の亭主若やぎて
 高田の喧嘩はやむかしなり     其角

の句がある。
 元禄七年の高田馬場の決闘以前にも、ここでしばしば決闘が行われてたとすれば、元禄五年の其角の句も矛盾なく説明できる。
 二十九句目。

   馬場の喧嘩の跡にすむ月
 弟はとうとう江戸で人になる    利牛

 この場合の「人」はあまり良い意味ではなさそうだ。「他人になる」ということか。喧嘩がもとで勘当されたのだろう。
 三十句目。

   弟はとうとう江戸で人になる
 今に庄やのくちはほどけず     野坡

 「くちはほどけず」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注に、「出入りが許されないの意」とある。
 庄屋はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「庄屋」の解説」に、

 「江戸時代,村政を担当した村役人の一つで,村方三役の長。庄屋の呼称は関西,北陸に多く,関東では名主 (なぬし) というが,肝煎 (きもいり) というところもある。法令伝達,年貢納入決算事務,農民管理など領主支配の末端の行政官であったが,身分は農民で,世襲,一代限り,隔年交代など任期は一定しないが,入会,水利の管理維持,農業技術の指導などの面で村落共同体の指導者的性格ももっていた。」

とあるように農村のもので、前句の「江戸」とは違え付けになる。
 庄屋の息子だったが勘当され、江戸に出てきた。
 二裏、三十一句目。

   今に庄やのくちはほどけず
 売手からうつてみせたるたたき鉦  嵐雪

 たたき鉦はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「叩鉦・敲鉦」の解説」に、

 「〘名〙 仏具の一つ。念仏にあわせてたたきならす鉦。もとは架にかけたり、胸間につってならしたが、後世伏せて台座にのせ、念仏のときに撞木(しゅもく)でたたきならした鉦。形は鉦鼓(しょうこ)に似て、背のひくい丸い鉦。ふせがね。ひらがね。
  ※わらんべ草(1660)五「わに口のかたわれ、則扣(タタキ)鐘にして有」

とある。今でも葬式でお経をあげる時にチーンと鳴らす、あれだ。
 昔は鉦叩きという鉦を鳴らしながら金品を乞う鉢坊主のようなのがいたので、それと間違えられて出禁になったか。
 三十二句目。

   売手からうつてみせたるたたき鉦
 ひらりひらりとゆきのふり出し   野坡

 帷子雪であろう。空也念仏の鉢叩きと同様ということで、鉦叩きに雪を添えたか。
 三十三句目。

   ひらりひらりとゆきのふり出し
 鎌倉の便きかせに走らする     野坡

 謡曲『鉢木』の前半の僧が佐野の源左衛門の所にやってくる場面は雪が効果的に用いられているが、後半の鎌倉から呼び出しを掛ける場面は特に雪の場面ではない。
 『鉢木』をイメージしながらも、その出典を外した軽みの句と見ていいだろう。
 三十四句目。

   鎌倉の便きかせに走らする
 かした處のしれぬ細引       嵐雪

 細引(ほそびき)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「細引」の解説」に、

 「① 「ほそびきなわ(細引縄)」の略。
  ※羅葡日辞書(1595)「Camus〈略〉 モノヲ ククル fosobiqi(ホソビキ)、または、サシナワ」
  ② 魚の刺身などで、身を細長く切ったもの。細作り。
  ※洒落本・やまあらし(1808)一「首陽山の蕨蛭子爰にゐまさばはまやきをくらひ琴高も爰に来らばほそひきをあぢわふべし」

 細く切った刺身は膾にした。生きのいい魚は高価なので、借金してでも鎌倉から細引に使う魚を取り寄せる。
 肴屋であろうか、代金を貸しにして大急ぎで魚を届けさせたが、後で取り立てようとしても姿をくらまされたということか。
 三十五句目。

   かした處のしれぬ細引
 独ある母をすすめて花の陰     利牛

 親孝行で花見に細引をご馳走する。どうやってそのお金を、というのは問わないことにしよう。
 挙句。

   独ある母をすすめて花の陰
 まだかびのこる正月の餅      野坡

 年老いて白髪頭になった母は、正月の鏡餅にカビが生えたようなもので、古くなってもお目出度い。

2022年4月8日金曜日

 今日は八重桜の開花を見た。染井吉野はだいぶ散ったが、まだかなり残っている木もある。山桜はまだ見頃。まだまだ春は終わらない。
 今日撮影した桜。 

 日本共産党の志位委員長も自衛隊による国家防衛を認める判断を下した。ただ「個別的自衛権」と言っているから、米軍との集団的自衛権はまだ排除しているということなのかな。
 綱領との整合性を考えるなら、基本的に民族自決権に基づく国家の防衛は必要なもので、本来なら民主主義革命ののちに革命憲法を制定して、一種の人民解放軍のようなものを組織するというのが筋なのだろう。ただ、それが間に合わないなら、違憲の自衛隊でも使う、という判断なのか。
 米軍はもとより、集団防衛という考え方そのものを否定して、自衛隊だけで国を守るのというのなら、核の共有ではなく、独自の核開発が必要なのではないかと思うが。
 まあ、とにかくあの人たちの論理はわかりにくいが、根本的な方針転換でないのは確かだろう。
 あと、「享徳二年宗砌等何路百韻」を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「兼好も」の巻の続き。

 十三句目。

   五百のかけを二度に取けり
 綱ぬきのいぼの跡ある雪のうへ   嵐雪

 綱ぬきは日本皮革産業連合会の「皮革用語辞典」に、

 「江戸中期以降の関西にのみ普及した革製の巾着沓<きんちゃくくつ>を指す。革の甲側足首周囲に何カ所かの穴を開けてひも(綱縄)を通し、これを絞り締めるようにして履く。貫き緒を通すところから名前がつけられたとの説が有力である。」

とある。また、「広辞苑無料検索」には、

 「牛の皮で作り、底に鉄の釘を打ったくつ。」

とあり、滑り止めのためのスパイクを付けたものもあったのだろう。雪の中を掛け取りに行く。
 十四句目。

   綱ぬきのいぼの跡ある雪のうへ
 人のさわらぬ松黒む也       利牛

 雪が降れば松の葉が白くなって、これを王朝時代の人は松の紅葉と呼んだが、この場合は葉は雪原の白に目立たなくなり、雪の積もらない枝や幹が黒々と見えるという意味か。湯山三吟の発句、

 うす雪に木葉色こき山路哉     肖柏

を思わせる。
 十五句目。

   人のさわらぬ松黒む也
 雑-役の鞍を下せば日がくれて    野坡

 雑役(ざふやく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「雑役」の解説」に、

 「① 雑用。また、雑用をする者。
  ※三代格‐六・大同三年(808)二月五日「停レ給二事力一、支二用雑役一」
  ※源氏(1001‐14頃)行幸「下臈、童べなどの仕うまつりたらぬざうやくをも、たち走りやすく、惑ひ歩きつつ」
  ② 種々の労役。また特に、中世、荘園領主・在地領主が支配下の農民を使役したいろいろな夫役(ぶやく)をもいう。
  ※観智院本三宝絵(984)中「外国より来れる人あれば其の名をたづね注して雑役におほせてかりつかひ」
  ③ こまごまとした仕事。ちょっとした手入れ仕事。
  ※俳諧・父の終焉日記(1801)享和元年五月一一日「畠のざうやくなりとて、人々は皆、鎌提、塊槌もて門を出れば」
  ④ 「ぞうやくうま(雑役馬)」の略。
  ※詞林三知抄(1532‐55頃)上「駒情 こまのみやび ざうやくをこふる也」
  ⑤ ⇒ぞうやく(駅)
  ⑥ ⇒ざつえき(雑役)」

とある。ここでは④の意味か。雑役馬は「精選版 日本国語大辞典「雑役馬」の解説」に、

 「〘名〙 乗用には使わないで、いろいろな雑用に使う牝馬(めすうま)。駄馬。雑役。
  ※仮名草子・智恵鑑(1660)八「ぞうやく馬を五百疋ばかりひきよせをき」

とある。
 前句の松の黒むのを日が暮れたからとする。
 十六句目。

   雑-役の鞍を下せば日がくれて
 飯の中なる芋をほる月       野坡

 貧しい人は米に麦や雑考を焚き込んだりしたが、大根や芋を焚き込むこともあった。その焚き込んだ芋を箸で取り出して、これが雑役の芋名月。
 十七句目。

   飯の中なる芋をほる月
 漸と雨降やみてあきの風      利牛

 「芋をほる月」を単に芋名月のこととして季候を付けて流す。
 「漸」は「やうやう」。雨上がりの秋風に夕食を食べていると、芋名月が昇る。
 十八句目。

   漸と雨降やみてあきの風
 鶏-頭みては又鼾かく        野坡

 雨上がりの涼しさにのんびり庭の鶏頭を眺めていると、眠くなる。
 二表、十九句目。

   鶏-頭みては又鼾かく
 奉公のくるしき顔に墨ぬりて    嵐雪

 居眠りをしていると顔に墨を塗られていじられる。徹夜の奉公が続いたりしたのかな。
 二十句目。

   奉公のくるしき顔に墨ぬりて
 抱揚る子の小便をする       利牛

 前句を奉公の苦しい合間をぬっての子供たちとの遊びとする。
 ゲームで負けて墨を塗られ、抱き上げた小さな子はお漏らしをする。まあ、それもつかの間の安らぎか。
 二十一句目。

   抱揚る子の小便をする
 くはたくはたと河内の荷物送り懸  野坡

 河内の特産品というと綿がまず思い浮かぶ。また、河内というと河内国高安の里で、『伊勢物語』二十三段「筒井筒」という連想もある。
 金持ちの商人の娘より、生まれ育った村の幼馴染を選んだ男は、平和な家庭を築いだのだろう。ビアンカ派。
 二十二句目。

   くはたくはたと河内の荷物送り懸
 心みらるる箸のせんだく      嵐雪

 洗濯はいまは「せんたく」と読むが、昔は「せんだく」と濁って読んでいた。
 弁当の箸をきれいに洗って返すというのは、なかなかの心遣いだ。
 二十三句目。

   心みらるる箸のせんだく
 婿が来て娘の世とはなりにけり   利牛

 婿養子を入れて家督を譲ると、娘の代になる。箸を洗うのは婿養子の仕事だったりして。
 二十四句目。

   婿が来て娘の世とはなりにけり
 ことしのくれは何も貰はぬ     野坡

 娘婿に家督を譲って隠居の身になったら、今まで貰ってたお歳暮がかたっと来なくなった。近代でもよく、定年退職すると年賀状がまったく来なくなったなんてのいうのを聞く。

2022年4月7日木曜日

 哲学はたかだか人間が作り出したものにすぎないから、実際にはそんな難しい問題なんてないんだと思う。
 生きとし生けるものはみな、四十億年の昔から生存競争を繰り返し、そこには平等なんてものは一度もなかった。多分五百万年位前に人へ向けて進化し始めた類人猿の一群が、多人数で掛かればどんな強いものでも倒せることを知ってしまった日から、出る杭は打たれる状態に陥り、それが平等の夢を生み出した。
 基本的には食料であれ恋人であれ、自分よりも上がいるのが気に入らないとなれば、みんなでてっぺんにいるものを引きずり下ろすことができる。欲望と嫉妬。それが「平等であるべき」という理想を生み出した。
 人間の世界の平等というのは、そういった恨みつらみ妬み嫉みなどのどろどろした感情の中で、陰湿な争いを繰り返す中で、いつか美化され、崇高な理念になっていった。
 哲学はこうした中で傷ついた心の痛みの中で生まれる。いつ生まれたというのでもなく、常に生まれ続け、再生産される。だから真理はいつでも心の痛みとそこから逃れたいと思う心の中にある。すべて基本にあるのは恨みだ。
 誰だって幸せになりたい。でもあいつの幸せは許せない。すべての矛盾の根底はそこにある。だから、人生の矛盾に悩んだ時は、この原点に戻って、自分が受けた屈辱とその時の心の痛みを思い出すと良い。その原点に立って、思い出すんだ、自由なんだと。これまで築き上げてきたものがすべてではないんだと。
 どんな深遠な哲学も、行く着く所がどんなに違っていても、始まりは同じだった。あの時の心の痛みから始まった。
 法的平等は可能だから、権利における平等は可能。ただ、幸福は計量化できないどころか、他人がどの程度幸福なのか正確に推定することができない以上、他人との比較は無意味。それゆえ実質的平等は不可能。あとは個別の生存の取引で、ほどほどの所で満足する以外にない。

 さて、連歌も雅語の問題はなかなか奥が深くて面白いが、俗語の俳諧に戻ることにする。
 次に読むのは『炭俵』の嵐雪・利牛・野坡の三吟歌仙で、嵐雪も何とか葛の葉の面を見せて、今回の入集になったのだろう。
 元禄六年一月に芭蕉は嵐雪との両吟「蒟蒻に」の巻で対座しているが、この両吟の三十五句目に珍碩の句がある辺り、芭蕉に駄目出しされて三十四句で終了したのだろう。この一巻はそれより後で、元禄七年の春か。
 発句は、

 兼好も莚織けり花ざかり      嵐雪

で、『徒然草』で有名な兼好法師が花見をするなら、きっと世俗のような派手な花見ではなく、自分一人座れるような筵を自分で織って花見をするのではないか、という句で、兼好の名はあっても特に出典にもたれていない、軽みの句といえよう。
 兼好というと『徒然草』一三七段の、

 「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。」

の言葉も有名なようで、これは花は咲き初めから散り終わるまで、すべて風情があるというもので、別に花見に対してアンチなわけではない。
 寓意を強いて言うなら、兼好法師に倣って、三人だけで静かな花見でもしましょうか、といったところか。
 これより百年後の寛政の頃に出版された『摂津名所図会』の東成郡のところに、

 「吉田の兼好法師は乱をさけて阿閇野の命帰丸が故郷に寄り、莚を織りて業を扶くるは」

とあるから、何らかの形でこれに類する伝説も知られていたのだろう。阿閇野は大阪の阿倍野で、今はハルカスがあるが、昔は名前の通り野原だった。
 脇。

   兼好も莚織けり花ざかり
 あざみや苣に雀鮨もる       利牛

 雀鮨はコトバンクの「デジタル大辞泉「雀鮨」の解説」に、

 「小鯛(こだい)を背開きにして、腹に鮨飯を詰めた鮨。もとは江鮒(えぶな)を用いた。大阪・和歌山の名物。形が雀のようにふくれているのでいう。《季 夏》「蓼たでの葉を此君と申せ—/蕪村」

 舞台が大阪の阿倍野ということで雀鮨を出す。苣(ちさ)はレタスのことで、今で言うとサンチュに近いものか。アザミも若芽は食用になる。
 雀鮨を食器を使わずにアザミやチサの葉に盛るというのが、昔っぽい風流を感じさせる。
 第三。

   あざみや苣に雀鮨もる
 片道は春の小坂のかたまりて    野坡

 坂道を行くと荷物が片寄って、アザミやチサの中に雀鮨が混ざってしまったということか。弁当箱などでよくある現象だ。
 四句目。

   片道は春の小坂のかたまりて
 外をざまくに囲う相撲場      嵐雪

 ざまくはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「ざまく」の解説」に、

 「① 異質なものがはいり込んでいて、それがじゃまであるさま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ② (人が)不注意でだらしないさま。(動作、仕事が)ぞんざいなさま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※俳諧・炭俵(1694)上「片道は春の小坂のかたまりて〈野坡〉 外をざまくに囲ふ相撲場〈嵐雪〉」

とある。
 相撲は秋の季語で秋のものだが、春にも行われることはあったのだろう。坂道を突き固めて外側をざっと覆っただけの相撲場は、何やら怪しげな感じもする。土俵が傾いていたりしたら上の方が有利になる。
 五句目。

   外をざまくに囲う相撲場
 細々と朔日ごろの宵の月      利牛

 朔日ごろの月は厳密に朔日ということではなく、二日か三日の月をいう。満月の日の相撲がメインで、二日三日は前座というか、会場の設営も雑だったのだろう。
 六句目。

   細々と朔日ごろの宵の月
 早稲も晩稲も相生に出る      野坡

 旧暦八月の一日頃は、早稲は既に刈り取られた跡から新芽が生え、晩稲はまだ伸びていない。二つの田んぼが隣り合っていると、どっちがどっちかよくわからない。
 この時間差をうまく利用すると米の二期作ができる。
 初裏、七句目。

   早稲も晩稲も相生に出る
 泥染を長き流れにのばすらん    嵐雪

 泥染(どろぞめ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「泥染」の解説」に、

 「〘名〙 媒染に鉄分のある泥に漬けて染める染色法。染料によって黒褐色、黒色などに発色する。大島紬・黒の八丈縞・五日市の黒八丈などがこの染色法を用いる。
  ※随筆・遠碧軒記(1675)下「今のどろぞめなどと云の色にて、ねずみ色の少しこきやうなものなり」

とある。
 前句を温暖な地として、奄美大島の大島紬としたか。
 八句目。

   泥染を長き流れにのばすらん
 あちこちすれば昼のかねうつ    利牛

 昼の鐘はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「昼鐘」の解説」に、

 「〘名〙 昼間に鳴らす鐘。また、午(ひる)を告げ知らせる鐘や鐘の音。
  ※俳諧・小柑子(1703)下「昼鉦やのどかにわたる栄の中〈一貞〉」

とある。
 高価で粋な泥染めの紬も、吉原から隅田川を下ってあちこち寄り道して帰れば昼になる。
 九句目。

   あちこちすれば昼のかねうつ
 隣から節々嫁を呼に来る      野坡

 嫁が芝居でも見に行ってしまったか。隣の主人が探しに来る。夫は夜遊び、妻は昼遊ぶ。
 十句目。

   隣から節々嫁を呼に来る
 てうてうしくも誉るかいわり    嵐雪

 「かいわり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「貝割・卵割」の解説」に、

 「① (「かい」は卵の意) 卵の殻を割って雛がかえること。また、殻を割って生まれたばかりの意から転じて、なりたて、未熟の意にいう。
  ※洒落本・真女意題(1781)自序「何を申も作者の新米。〈略〉究らぬ処も多かるべし。そこが作りの卵割(カイワリ)と」
  ② =かいわりな(貝割菜)《季・秋》 〔改正増補和英語林集成(1886)〕
  ③ 袖口の形の一つ。袖口を真中で括って上下を卵の殻を二つに割った形に分けたものをいうか。
  ※俳諧・流川集(1693)「爪にかかりて抜る魚の目〈露川〉 かいわりの袖しほらしき辻か花〈素覧〉」
  ④ 帯の結び方の一つ。卵の殻を二つに割った形に結んだものをいうか。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「隣から節節嫁を呼に来る〈野坡〉 てうてうしくも誉(ほむ)るかいわり〈嵐雪〉」
  ⑤ アジ科の海魚。全長三〇センチメートルに達し、体は著しく側扁した卵円形。体色は背部が青緑色で、腹部は銀白色。第二背びれと尻びれに黒褐色の縦走帯がある。本州の金華山、能登半島以南に分布する。食用とし、美味。ひらあじ。」

とある。④の意味になる。
 婚礼衣装か。なかなか準備が整わない。
 十一句目。

   てうてうしくも誉るかいわり
 黒谷のくちは岡崎聖護院      利牛

 京の黒谷は金戒光明寺のある辺りで、京都市街から行くとその手前に聖護院がある。聖護院大根が有名で、前句の「かいわり」をそこのカイワレ大根とする。この時代は周りは畑だった。
 十二句目。

   黒谷のくちは岡崎聖護院
 五百のかけを二度に取けり     野坡

 掛売の金は通常盆と大晦日に取りに来る。岡崎聖護院との関係がよくわからない。岡崎に非田院があったことと関係があるのか。

2022年4月6日水曜日

 今日は寺家ふるさと村を散歩した。染井吉野も山桜もまだ散らずに残っていた。鶯の声に混じって今年もガビチョウが鳴き始めていた。田んぼも打ち返していて、蛙の声も聞こえた。
 そういうわけで、日本の心、山桜(本日撮影)。

 ブチャの虐殺は、まさかこんな早く奪還されると思わなかったのか、隠す暇もなかったみたいだな。これでインドが日和見をやめてこちら側についてくれれば、中国は孤立する。
 どんな議論でもその反対の議論をすることはできる。このことは簡単に言えば、不満や恨みや嫉妬という感情があれば、あいつらを見返してやろうという気持ちがあれば、そいつらの行っていることと真逆の論理を作り出すことができるということだ。
 世にどんなことにでも必ずアンチというのがいるのはそのためだ。
 古代ギリシャ人はこのことに気付いた時から、対立する意見を統合するより大きな論理を作ればいいと考えるようになった。これが世にいう弁証法だ。
 しかし、その大きな理論に、またいとも簡単にアンチが現れる。それを延々と繰り返し、絶対知はいつまでも沈黙している。それがヘーゲルの辿り着いた境地だった。これが近代哲学における最初の「哲学の終わり」だと言われている。
 なぜ弁証法は絶対知に行きつかず、いつまでも沈黙を続けるのか。ハイデッガーが出した結論は「真理の本質は自由」であるからだ。ここで二度目の哲学の終わりが示された。
 第二次大戦の悲惨の虐殺、そしてそれが終わってなお続く冷戦。その中で哲学者たちは猛省した。これまで作り上げてきた巨大なイデオロギーの化け物の解体作業(デコンストラクシオン)が始まった。
 しかし、哲学は終わらない。人の心に不満や恨みや嫉妬がある限り、アンチの議論は絶えず再生産される。ただわかったのは、弁証法はこうした議論を解決できないばかりか、常人には近寄れないような巨大なイデオロギーを作り上げてしまい、対立を深めるだけだったということだ。
 ひとたび猜疑心に憑りつかれると、どのような弁明も「疑惑は却って深まった」となるようなものだ。
 議論は人を欺く。大事なのは「自由」の原点に返ることだ。自分が何をしたいのか、自分が何を守りたいのか、一切の哲学を忘れた時、きっと思い出すことができる。 平和にとって大切なのは硬直した理論ではない。柔軟な心を取り戻すことだ。それは差別のない世界を作るのにも必要なことだ。

 それでは「享徳二年宗砌等何路百韻」の続き、挙句まで。

 名残裏、九十三句目。

   四方の木どもの紅葉する比
 冷じや嵐の風も心あれ      忍誓

 せっかく山は奇麗に色づいたのだから、嵐で散らさないでくれ。
 「心あれ」は、

 われこそは新島守よ隠岐の海の
     荒き波風心して吹け
              後鳥羽院(後鳥羽院遠島百首)

を思わせるが、それ以外にも花や紅葉に関しては「心して吹け」は珍しい言い回しではない。

   大原野の祭に參りて周防内侍に遣しける
 千代までも心して吹けもみぢ葉を
     神もをしほの山颪の風
              藤原伊家(新古今集)

の例もある。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 ちりはつる四方の紅葉の色ながら
     梢にさそふ風ぞ難面き

で、日文研の和歌データベースにはない。
 「四方の紅葉」の用例は、

 惜しめどもよもの紅葉は散りはてて
     戸無瀬ぞ秋のとまりなりける
              春宮大夫公實(金葉集)
 小倉山時雨るる頃の朝な朝な
     きのふは薄きよもの紅葉葉
              藤原定家(続後撰集)

などがある。「四方の紅葉」の風に散るのを歎く趣向の典拠なのだろう。
 九十四句目。

   冷じや嵐の風も心あれ
 来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる   専順

 あの人が訪ねて来ない夜はただでさえ悲しい。嵐の風も心して吹いてくれ。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 出でがての月より人を待ち侘びて
     いかが明かさん長き夜のそら

で、日文研の和歌データベースにはない。月に待ち侘ぶの典拠となる。
 九十五句目。

   来ぬ夜の月に侘びつつぞぬる
 蛬むなしき床に音をそへて    心恵

 蛬は「きりぎりす」。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 月に待つ人のおもひをきりぎりす
     難面残る老が身の露

で、日文研の和歌データベースにはない。月待つ夜のきりぎりすの典拠であろう。
 恋の歌で「月に待つ」は意外になかったのか、

 今こむとたのめし人のいつはりを
     いくありあけの月にまつらむ
              宗尊親王(続拾遺集)

の歌も八代集より後の時代になる。
 九十六句目。

   蛬むなしき床に音をそへて
 夢壁にさへ見えずなりけり    宗砌

 キリギリスの声で眠れないから、夢にさえ逢うことができない、とする。
 壁はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①壁。草・板・土などで作る。
  ②夢。◇「(壁を)塗る」と「寝(ぬ)る」を掛けていう。主に和歌で用いられる。
  ③豆腐。◇女房詞(にようぼうことば)。」

とある。『新潮日本古典集成33 連歌集』の島津注は、

 まどろまぬかべにも人を見つるかな
     まさしからなむ春の夜の夢
              駿河(後撰集)

の歌を引いている。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 我が恋はくらき夜の夢月の入る
     嵐の音をねぬになせこそ

で、日文研の和歌データベースにはないが、よく似た歌に、

 あふことぞくらき夜の夢月の色
     嵐の声はねぬになせども
              正徹(草魂集)

の歌がある。嵐の声に眠れないから夢ですら逢えない、というところから、嵐をキリギリスに変える。
 九十七句目。

   夢壁にさへ見えずなりけり
 契りしもくやしと人の思ふらん  行助

 夢にすら現れなくなったのは、あの人が契りを結んだことを後悔し、もう逢いたくないと思っているからだろうか。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 偽を何なかなかに空だのめ
     契りし中のたゆる夢の世

で、日文研の和歌データベースにはない。契ってた仲の絶えて、夢を見ることのできないという趣向の典拠であろう。
 九十八句目。

   契りしもくやしと人の思ふらん
 忍びつる名を世にはもれてき   忍誓

 前句の「くやし」を忍んでた恋が暴露されてスキャンダルになったことの悔しとする。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 かよひぢをいかなる人やはつるらん
     忍ぶ思ひははれぬ中空

で、日文研の和歌データベースにはない。忍んでいた恋の通ってくる人が来なくなったことの典拠か。
 九十九句目。

   忍びつる名を世にはもれてき
 御幸する桜が本の今日の春    宗砌

 お忍びの心算の御幸だったが、桜の花のもとでは静かにしてられるはずもなく、世間に広く知られることになる。
 あえて「桜が本」を花の本の連歌の寓意として捉えるなら、この本歌連歌は今まで知られなかったような作者の歌やそこに用いられた言葉、趣向などがここで露わになる、といったところか。
 「本歌連歌」の本歌は、 

 百敷や大宮人はいとまあれや
     桜かざしてけふも暮らさん

で、

 百敷の大宮人はいとまあれや
     桜かざしてけふも暮らしつ
              山部赤人(新古今集)

であろう。大宮人の花見の心を本歌とする。
 挙句。

   御幸する桜が本の今日の春
 花に相あふ日こそ稀なり     光長

 光長はこの一句のみで、主筆であろう。挙句を主筆が締めることはよくある。
 最後に御幸の桜が出た所で、こういうお目出度い日は稀なことだ、と一巻は目出度く終わる。
 特に本歌はない。さすがに無名の主筆に過大な要求はしなかったのだろう。
 宗砌、忍誓、行助、専順、心恵という当代きってのメンバーがそろったのは、この連歌の実験的性格からで、通常の連衆では困難だったに違いない。歌学にも通暁し、雅語を自在に使いこなせるメンバーだからこそ、俗歌の言葉や趣向を借りながら、それを雅語に取り込み、雅語の世界をより広く豊かなものにという試みだったのだろう。
 あらためて今日の我々に、雅語とは何だったのかというのを問いかけているように思える。俳諧でも貞門・談林までは證歌というのを必要としていた。それは俳諧がまだ連歌の下に置かれていたからで、雅語の習得ということに重点が置かれていたからだった。
 芭蕉が俳諧を「俗語の連歌」と位置づけ、雅語の習得を不要としたことで、それ以降の我々は雅語を守るための並々ならぬ努力を忘れてしまったところがある。
 中世の連歌のみならず、中世の和歌を語るにも、雅語という問題は避けて通れない。正徹などの室町時代の歌人も、単に雅語を守るだけでなく、それを更に発展させようと、絶えず実験を繰り返してたのではないかと思う。
 今となって、特に明治以降、俗語で和歌を詠むのが当たり前になってしまって、中世文学そのものがほとんど顧みられなくなってしまったが、この本歌連歌は当時の雅語の維持と発展に対する情熱を伝えてくれる貴重なものではないかと思う。
 なお、本歌という言葉は、今日では古典の授業でも習う、新古今集の時代の本歌取りの際の本歌の意味に限定されているが、中世の連歌や近世の俳諧ではもう少し広い意味で用いられていた。