2020年11月30日月曜日

  今日の満月は半影月食だというが、見てもよくわからなかった。所々薄い雲もかかり、月が何となく暗く見えても月食のせいなのか雲のせいなのかよくわからない。
 そういえば今年は富士山に雪が少ない。山梨側でも少ししか白くなっていない。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、歳旦三ツ物の事。予此三ツ物ニおいてハ、よく工夫して、年々引付ニ出し侍れ共、誰一人秀たると云人もなし。
 師の手伝し給ひたる三ツ物を見て、慥ニ決定し、年々花やかに仕出したれ共、見るものなけれバ、其分にて反古とハ成ぬ。口おしし。
 此三ツ物俳諧を、常式の俳諧とおもひ給ハバ、大きニあやまり也。三句にて百韻・千句の代をするなれバ、容易なる句を出して、見らるるものにあらず。故ニ第三、名所など結びたる事も、此格式と見えたり。
 予三ツ物をする事、天晴天下ニ肩を双べきものあるべしともおもハず。誰々がするも同じ事とおもひ給ふ人ハ、三ツ物の仕やう見えぬとしれたり。
 されバ大綴を見るに、三ツ物仕様しりたる人、一人もなし。一人もなしとハいはれまじなど云人もあらん。しかれ共、一句か二句ハたまたまあれ共、全篇血脈をする人ハ希也。
 脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.165~166)

 歳旦三ツ物というと、

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

の句があるように、ほとんどは左義長(どんど焼き)で焼かれてしまったのだろう。毎年たくさんの俳諧師が歳旦三ツ物を大量に刷って配った割には、ほとんど現存しない。
 「師の手伝し給ひたる三ツ物」は李由・許六編『宇陀法師』(元禄十五年刊)にある、次のものであろう。『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)に収録されている。

 梅が香や通り過れば弓の音
   土とる鍬に雲雀囀る
 陽炎に野飼の牛の杭ぬけて    翁

 この中村注によれば『一葉集』『袖珍抄』には発句を毛紈、脇を許六としているという。ネット上の『許六画芭蕉書三つ物』(麻生磯次)によると、発句は許六、脇は洒堂だという。
 発句は梅が香に弓始(ゆみはじめ)で正月の目出度い景色としている。弓始はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

とある。
 脇は正月の風景をそのまま受け継いて初春の季語を入れるのではなく、あえて晩春とも取れるような「雲雀囀る」と展開する。
 「脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」
とあるように、初春の句を三句連ねるのではなく、初春から晩春への季移りが大事なようだ。そのために、脇は第三で晩春に展開しやすいように配慮することが大事なのだろう。
 第三は雲雀囀る農村風景に陽炎と野飼いの牛を付けるが、この取り合わせだけでなく「杭ぬけて」と放牧場の杭が抜けて牛が逃げ出すところに一ネタ入れている。
 三つ物は普通の俳諧の発句・脇・第三とはちがい、第三が同時に挙句になると思った方がいいのだろう。芭蕉は見事に最後に落ちをつけている。
 歳旦発句は目出度く、脇は第三の落ちを引き出すために、晩春への転換の伏線を敷きながら穏やかに流し、第三はここで終わらせるという意思を以て落ちをつける。これが三つ物の仕様と言っていいのだろう。第三を名所で締める場合もあるという。

 「一、当時歳旦の発句、歳旦にてなき句大分あり。師云、歳旦と云ハ、元日明けたる時の事也。多ク歳旦の句にてなしといへり。『正月三日口を閉、題四日』と前書して、
 大津絵の筆のはじめや何仏
と云句出たり。此前書にて、後代歳旦の格式ニセよと云心ありて書ると、慥ニ決定し侍ぬ。
 引付帳の内ニ、七種・子の日、あるいハ元日・二日・三日など云題を出して句あり。是大キ成あやまり也。師説なき故也。子細ハ元日明たる時の事と云にてしれたり。遠国の歳旦など入るるも、はばかるべき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.166~167)

 歳旦は本来は元日明けた時のこと、つまり一月一日の朝のことだが、実際にはかなり幅広く正月の句のことを歳旦と呼んでいる。先の「梅が香や通り過れば弓の音」の句も弓初めの句ならば正月七日の句になる。実際に一月一日の朝だけを歳旦にしたのでは、歳旦帳の発句は初日の出しか詠めなくなってしまう。
 そこで芭蕉さんも元旦の吟でなくても題をつけることで歳旦の各式にせよ、と言ったのだろう。

   正月三日口を閉、題四日
 大津絵の筆のはじめは何仏    芭蕉

の句は元禄四年の句で、仏画を主に書いていた大津絵の絵師は、四日の筆始めに何を書くのだろうか、という句で、前書きを付けることで歳旦と同格にした。
 「引付帳」の引付(ひきつけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「④ 俳諧師などが自分の歳旦帳の末に友人・門人などの句を付録として掲載したこと。また、その句。
  ※俳諧・延宝六年三物揃(1678)「俳諧惣本寺引付 歳旦」

とある。筆始めや弓初めは良いとしても、七種・子の日はさすがに歳旦とはし難く、逆に三が日にわざわざ元日・二日・三日などという題をつける必要もない。これは暗黙の裡に歳旦が元旦に限定されずとも三が日のものと定まっていたからだろう。四日以降のものは題をつけた方がいいということと、七種・子の日は正月三が日とはまた別の行事として認識されていたということだろう。
 今でも「元旦」という言葉に関しては、年賀状で正月の午前中に届かないものについては使用しない方がいいということが言われている。「旦」は朝日を意味するから、歳旦と同様元旦も一月一日の朝を意味する。ただ、年末の早い時期に書いているのに「元旦」と書くのもなんか変な気もするが。

2020年11月29日日曜日

  今日は一日曇りだったが、夜になって晴れた。神無月の十五夜の月が見える。
 コロナの感染が急に広まったのは温度湿度紫外線の低下減少といった季節的なものだというのはわかる。そういう状況でこれまで通りのウイズ・コロナでは対応できないから、生活を変えなければならない。そのような時に今まで通りGo ToトラベルやGo Toイートを続けようとしていることが問題なのであって、Go ToトラベルやGo Toイートが感染拡大の直接の原因だと言っているわけではない。
 だからといってGo ToトラベルやGo Toイートが原因でないから続けていいということではない。
 もちろんGo ToトラベルやGo Toイートは強制ではないから、行かない自由を行使すれば無効化できる。誰も行かなくなれば、やっても意味ないということで自ずと止めることになる。キャンペーンに踊らされている連中にも責任がある。またグルメ番組で旅行や外食を日々煽っているマス護美の罪も大きい。
 野党も「Go Toトラベルが原因だというエビデンスがない」という政府の主張に対して、「Go Toトラベルが原因ではないというエビデンスがない」なんて反論するのは愚の骨頂。そういうのを悪魔の証明という。「最初の原因でなくても、今後拡大させる恐れがあるならやめるべき」というのが正論。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、昔も近年も、前書する事、皆其発句の講尺して、前書と云物にあらず。
 前書して、講尺の上にてきこえる句などハ、よき句にハあらず。前書と云ハ、其句の光を添る事也。
 一年江戸にて、晋子が句兄弟あめる時、予に語りて云ク、越人がけしの句ハ、少いひたらず。慥ニけしニしてハ取がたし。其けしの句を返して、
 ちる時ハ風もたのまずけしの花
とせしと語侍る。
 予云、されバ予ハ此越人がけしの句にて、翁の名人を発明すといへバ、晋子が云、如何。答テ云、此句けしにてハいひたらず。故ニ『僧にわかるる』と云前書して、餞別の句ニなし、さるミのニハ入給ふといへば、晋子うれしがりて、此事書入べしとて、前書の事をかけり。越人がけしハ、慥ニ師の前書にて、一句の光をバましたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161~162)

 越人の句は『猿蓑』に、

   別僧
 ちるときの心やすさよ米嚢花   越人

の形で収録されている。「別僧」は「僧に別るる」と訓じる。

 ちる時ハ風もたのまずけしの花  越人

はその原案と思われる。これだと芥子の花の散る様だけを詠んだ句になってしまう。風もなく散るというと、

 ひさかたの光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
              紀友則(古今集)

の歌が思い浮かぶ。それを芥子に変えただけになってしまう。
 そこで芭蕉は「別僧」の前書きを入れ、句も情景より心情を重視した「心やすさよ」に変えている。

 「路通が月の山の句合にハ、只けしの句ニして前書なし。予此時、路通が未練なる事をしれり。
 師在世の時、此事きかず。先生ハ此集の撰者なれバ、しり給ハむ。実ニ餞別の句にてありや、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162)

 「路通が月の山の句合」は路通撰『俳諧勧進牒 附月山発句合』(元禄三年刊)で、上巻の末尾に「月山発句合」が収録されている。ここには、

 「二番 いばらがき
 鄙びたる香ばし悪むな茨垣    宵花
     けしのはな
 散ときのこころやすさよ芥子の花 越人
 折々は野渡の船曳、あしまの径を過、孤村のしほり酒をも侘得たる風情、寄の作意といふべきか。続に見ゆるけしの花は、紅白の色をもて興とせず、かろくうり散たるをうらやみたり。見いれ有所猶殊勝。」

とある。
 前書きは芭蕉が『猿蓑』だけに与えたもので、このことを路通が悔しがってたようだ。去来先生は『猿蓑』の撰者だったから何か事情を知らないか、というわけだ。
 許六は本来芥子の花の詠んだだけだった越人の句を、芭蕉が餞別の句に作り直したのではないかと疑っているようだ。

 「予が集の時、李由が云、残暑の句なし、入たしといひて、『下帯に残る暑さや』と云事をいへり。下五字なし。予に談合して色々置共、喰合ものなし。予云、此句下五字あり共、一句おもく成てむづかしからむ。只此ままにて入られよといひて、
 下帯のあたりに残る暑さかな
と一句ニのべたり。此句斗にてハいひたらず。是越人がけしの場所ニて、前書入る句也。則、『贈清貧僧』といふ題を付たり。是此格也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.162~163)

 「下帯に残る暑さや」も「鍋ぶた一ッ冬籠」や「足軽町の桃の花」の同様で、これだけで趣向が完結してしまっているため、付け加えるのが難しい。取り合わせは出来ていて、それを囃す適当な言葉もなく、結局「あたりに」を加えてこれで一句にしたが、間延びした感じが残ってしまった。
 「贈清貧僧」という前書きで許六としては機転を利かせたのだろう。まあ、一つの物語を作ったわけだ。芭蕉の先の前書も「作り」だと見てのことだろう。「信濃路を過ぐるに」の例もあるし。

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。
 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。
 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。
 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 これはよくわからない。「こんや」は紺屋のことだろう。「手染の窓と作例の論あり」とあるから、染物屋の紺屋だろう。
 その紺屋の窓が何か特殊なものだったのか、許六の言う「血脈」だから、不易だとか流行だとか理屈を言う以前の、初期衝動的な面白さということなのだろう。
 「鍋ぶた一ッ冬籠」「足軽町の桃の花」にはなくて、「田の草におハれおハれて」「株干すわらの日のよハり」には多少ある物が「血脈」だという。あるいは今の言葉で言う「エモ」に近いのかもしれない。
 まあ、多分「紺屋の窓のしぐれ」や「菜の花に紺屋の窓」は血脈なのだろう。紺屋の窓だから紺色の布がカーテンのようにかかってたりしたのか。取り合わせはそんな重要ではなく「紺屋の窓」が血脈のようだ。関西では紺屋が穢多と結びついていたことは以前どこかで触れた。
 発句道具は発句のネタとして面白い取り合わせで、平句道具はどちらかというと放り込みのような字足らずの時に付け加えるようなものだろう。「紺屋の窓」に「時雨」「菜の花」はその中間のような第三道具ということか。

 「一、ひととせ俳諧せし時、瓜の泥によごれたるハおかしとて、六句めニ
 泥によごるる瓜の網の目
と云句せし。其次のとし、翁の句ニ、
 朝露によごれて涼し瓜の泥
と云句出たり。初て発句の道具たる事を知れり。あたら瓜の泥を平句にして、師ニ先ンをこされたること無念也。是、眼の明ならざる故也。此泥にて、慥ニ場所をしりぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.164~165)

 芭蕉が人の付け句から発句の発想を得た例は、多分幾つもあるのではないかと思う。一番わかりやすいのは『野ざらし紀行』の、

   月見てやときはの里へかかるらん
 よしとも殿ににたる秋風     守武

の句から、

 義朝の心に似たり秋の風     芭蕉

の発句を作った例であろう。
 取られた方は「やられた」と思うのだろう。
 この場合泥に汚れた瓜だけでは発句にはならない。「朝露」に「凉し」があって初めて発句になるのではないかと思う。義朝の句も「心に似たり」があって発句になる。

2020年11月28日土曜日

  月もだいぶ丸くなって満月も近い。
 今日は晴れたが木枯らしが吹いて、だいぶ木の葉も散った。銀杏は黄色で見ごろだ。
 東京のコロナは北海道に続きて多少頭打ちになってきたかな。感染が急速に拡大してもう二週間以上たつから、警戒すればそれなりの結果は出るのだろう。ただ、実効再生産数が1.1では感染者は減らない。夏から秋まで長いこと1.0前後で来たが、1を切らないことには減らない。まだまだこれでは駄目だ。
 死者も一日30人ペースになってきている。このままだと年内に三千人を越えるかもしれない。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、とり合のあやうきと云ハ、猿ミのに
 から鮭も空也の痩も寒ンの内   翁
 角大師井出の蛙の干乾かな    許六
 是、空也の痩のとり合にて作る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.161)

 「あやふし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典に、

 「①あぶない。危険だ。
  出典徒然草 一〇九
  「いとあやふく見えしほどは言ふ事もなくて」
  [訳] (高くて)大変危険に思われた間は何も言わないで。
  ②不安だ。気がかりだ。
  出典徒然草 一八六
  「轡(くつわ)・鞍(くら)の具に、あやふきことやあるとみて」
  [訳] 馬の轡や鞍などの馬具に、気がかりなところがありはしないかと見て。
  ③不確実だ。
  出典平家物語 五・富士川
  「平らかに帰り上らむこともまことにあやふき有り様どもにて」
  [訳] 無事に帰京することも本当に不確実なようすであって。

 どれも古い時代の用例で、多分許六の時代には「いみじ」「やばい」という同様、良い意味に転じて用いられることもあったのではないかと思う。
 「角大師(つのだいし)」は慈恵大師・良源を象った護符で、ウィキペディアには、

 「角大師と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨と皮とに痩せさらばえた夜叉の像を表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2つのタイプがある。『元三大師縁起』などの伝説によると、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は魔除けの護符として毎年正月に売り出され、比叡山の麓の坂本や京都の民家で貼られた。」

とある。空也念仏が冬の句なのに対し、角大師は春の句になる。蹲踞の姿勢で右手を差し出した護符は今でも用いられている。コロナ下でで疫病除けとして一部では盛り上がっているようだが、アマビエほどの人気がないのは可愛くないからだろう。
 なお、芭蕉の句はから鮭と空也を併置しているだけで、空也がから鮭みたいだとは言っていない。許六は「かな」と言い切ってしまっている。その意味では許六の句の方が「危ない」。失敬だと言われれば弁解できないのでは。

2020年11月27日金曜日

  今日は雨になるという予報だったがほとんど降らなかった。
 そういえば武漢で最初にコロナが広まってからもう一年になるのかな。
 コロナも一歳になるのか。まだ一歳。あと何年猛威を振るうのか。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、古事・古実をむすぶ事。猿ミのニ、諏訪の祭りの穂やつくる事にて翁の物語あり。
 予が集の時、李由が云、御玄猪(ゲンヂヨ)の御いわゐに、公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。此事句にせんといひし。
 予が云、是よき古実也。遠境の人々ニしらしめたるがよし。しかれ共、句作り悪敷バ古手に落む。専ラ銀杏の句にして入られべし。
 御玄猪の句ならバ、大きにふるかるべしといへり。古実・古事等ハ、予穂やの時、句作りを発明して置ぬ。
 雪ちるや穂やの薄の刈残し    翁
 御命講や油のやうな酒五升    同
 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由
 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六
 山科や五荷三束に菊の花     同
 皆穂やの格式より作り出る句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.160~161)

 「穂や」の句は『猿蓑』の、

   信濃路を過ぐるに
 雪散るや穂屋の薄の刈残し    芭蕉

の句のことをいう。穂屋は諏訪の御射山社祭のことで、諏訪大社のホームページには、「青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行うので穂屋祭りの名称があります。」とある。旧暦七月二十七日に行われていたが、今では新暦月遅れの八月二十八日に行われている。
 ところで、芭蕉は貞享五年秋の『更科紀行』の旅の時には木曾から更科へ向い、善光寺を経て江戸に帰ったため、諏訪は通っていない。諏訪を通ったとすれば貞享二年夏、『野ざらし紀行』の旅の帰りであろう。いずれにせよ芭蕉は冬の信濃路を通ったとは思えないので、この句は人から聞いた御射山社祭のことを元にした想像によるものと思われる。

 御命講や油のやうな酒五升    芭蕉

の句は元禄五年江戸での句で、御命講は日蓮上人の命日十月十三日に行われる。日蓮消息文「新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」が出典だという。許六が江戸で芭蕉と対面した頃の句だ。「油のような酒」はどういう酒かよくわからない。日蓮の時代なら「南都諸白(なんともろはく)」だったかもしれない。ウィキペディアには、

 「南都諸白(なんともろはく)とは、平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級な日本酒として名声を揺るぎなく保った、奈良(南都)の寺院で諸白でつくられた僧坊酒の総称。
 具体的には菩提山正暦寺が産した「菩提泉(ぼだいせん)」を筆頭として、「山樽(やまだる)」「大和多武峯酒(やまとたふのみねざけ)」などが有名である。
 まだ大規模な酒造器具も開発されておらず、台所用品に毛の生えた程度の器具しかなかったと思われるこの時代に、菩提酛、煮酛など高度な知識の集積にもとづいて、かなりの手間を掛け、精緻に洗練された技術で製造していたと思われる。」

とある。どぶろくが主流の時代に黄色味のかかった透き通った酒を造っていたので、「油のような」と表現したのかもしれない。

 御玄豕も過て銀杏の落葉哉    李由

 「御玄猪(おげんちょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「お」は接頭語)
  ① 陰暦一〇月の亥(い)の日。この日の亥の刻に新穀でついた餠を食べて、その年の収穫を祝った。亥の子。おげんじゅう。
  ※俳諧・類柑子(1707)中「偖、仰せ下さるるやうは、此の餠はきのふ御玄猪なりし、宸宴、供物のあまり也」
  ② 陰暦一〇月の最初の亥の日に食べる亥の子餠。おなり切り。玄猪。つくつく。おげんちょう。
  ※年中定例記(1525頃)「禁裏様御源猪のつつみ紙を一番に伝奏御持参にて、ひろげて被レ参候へば、御頂戴候」
  〘名〙 (「ご」は接頭語) 陰暦一〇月の亥の日の亥の刻に、新穀でついた餠を食べて祝うこと。また、その餠。亥子(いのこ)。亥子餠。ごげんじゅう。ごげんちょう。おげんじゅう。おげんちょ。〔俳諧・年浪草(1783)〕」

とある。
 「亥の子餠」は『源氏物語』葵巻にも登場する。おそらく若紫が女になった時であろう。不機嫌に何日もふさぎ込んでたののご機嫌取りと婚姻のお披露目を兼ねて、惟光に亥の子餠ならぬ「ねの子餅」を作るように指示している。(源氏の君の寝た女で処女喪失と思われる記述のあるのは若紫だけではないかと思う。)
 「公卿百官へ給ふ餅の上包ニ、銀杏の葉に名字を書て、水引にはさみて出る事、古実也。」というのは言われてみないと、今となってはわからない。この句を見ただけでは、単に御玄猪が銀杏の散る頃のものだというぐらいで通り過ぎてしまうところだ。

 春たつや歯朶にとどまる神矢根  許六

 矢の根は矢尻のこと。神矢の根は岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 「『閑窓随筆』に『出羽国吹浦 一作福浦村の辺に甚雨疾雷ののち、神矢の根といふものを降らす。土人のいはく、是れハ神軍ありて、空中よりふらするものなりと。云々』とある。」

 出羽国吹浦は芭蕉も通っている。酒田で、

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  芭蕉

と詠んだあの吹浦で、曾良の『旅日記』の酒田から象潟へ向かうときの記述に、

 「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」

とある。
 「オンライン辞書・事典検索サイト・ジャパンナレッジ」の「日本歴史地名大系ジャーナル」によると、

 「遊佐町近郊では古くから石鏃を神矢石(あるいは神矢根石)=神軍の矢に用いた矢の根石の意=とよび、同遺跡の西南、藤崎ふじさき地区神矢道かみやみちでも、一八世紀後半、庄内砂丘に砂防林を育成中であった佐藤藤蔵が、一升舛で計るほどの石鏃を採集(佐藤家文書など)、一部は現在も鶴岡市の致道博物館などに保管されている。
 近代考古学が確立されるまで、石鏃は天より降りそそぐものと考えられ、矢ノ根石、天狗ノ矢やノ子ね石、また神矢石とよんでいた。」

 つまり、「神矢の根」は縄文・弥生時代などに作られた石鏃(せきぞく)で、雨で土が流されて露呈した物を見た古代人が、神様が戦争をやって、その矢が空から降ってきたと思ったのだという。
 許六の句は立春で、正月飾りに用いる歯朶を取りに行くと神矢の根が見つかって、破魔矢のようでお目出度いということか。

 山科や五荷三束に菊の花     許六

 山科は東海道の京と三条大橋と大津宿の間にあり、交通の要衝だった。「五荷三束に菊の花」は何か出典があったのだろう。よくわからない。

2020年11月26日木曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「又李由ある時、『鍋ぶた一ッ冬籠』と云句に、五字を頼まれたり。是容易に出る五字ニあらず。これ魂魄を入る五文字なれバ、案じ煩て、
 大儀して鍋ぶた一ッ冬ごもり
と云事をすへたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158)

 「鍋ぶた一ッ」はいかにも質素な感じがして、先の、

 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

の句にも通じるものがありそうだ。さすがに鍋本体はなくて木の蓋だけということではないだろう。鍋と蓋のセット一つでということだと思う。幾皿も膳に並べるのではなく、鍋をつつくだけで何日も過ごす生活は、いかにも隠遁者にふさわしい。鍋は火さえ入れておけばいつまででも食えるし、具材を追加してゆくこともでき、汁はだんだん濃くなって味を深めてゆく。
 それに対して許六の付けた上五は、「大儀して」だった。「大儀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 重大な儀式。国家の儀式で、官人すべてが参列するもの。元日朝拝・即位礼および外国使節接見など。⇔小儀。
  ※延喜式(927)四五「大儀 謂三元日即位及受二蕃国使一」
  ※太平記(14C後)二七「当年三月七日に行ふべしと沙汰有しか共、大儀事行はれず」
  ② 表立った儀礼的な催し事。大がかりな法要や演能。
  ※花鏡(1424)序破急之事「序破急の心得、大義の申楽より初めて、酒盛、又はかりそめの音曲の座敷までも、次第次第を心得べし」
  ③ (形動) 重大な事柄。大きな政治的事件や騒乱。大事なこと。また、そのさま。
  ※太平記(14C後)九「御上洛候て後、大儀の御計略を回(めぐ)らさるべし」
  ④ (形動) 経費のかかる事柄。経費を多くかけること。ふんぱつすること。また、そのさま。
  ※虎明本狂言・三本柱(室町末‐近世初)「大儀な御ふしんも大かたすむ」
  ⑤ (形動) やっかいなこと。困惑すること。めんどくさいこと。また、体調が悪くてつらいこと。また、そのさま。
  ※吾妻鏡‐仁治二年(1241)一一月三〇日「武衛斟酌、頗似二大儀一」
  ※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)一五「今朝は化粧をするのも太義(タイギ)だ」
  ⑥ (形動) 他人の骨折りをねぎらい慰労することば。ごくろうさん。御苦労。
  ※大観本謡曲・葵上(1435頃)「唯今の御出で御大儀にて候」

とあり、なかなか多義だ。おそらく④⑤あたりの意味で、いろいろあって鍋蓋一つで冬籠りすることとなった、と原因を付けたのだろう。このあたりはお金持ちの許六さんだから清貧ということが思い浮かばず、「大変なことがあったのだろうな、大儀だったな」という気持ちで乗せてしまったか。

 「又ある時、朱廸が句に、『足軽町の桃の花』と云句ニ五字を頼む。此桃曾て珍敷事なし。人々おもひ寄る所なれバ、たやすき五もじニてハ、新ミなし。発句ニ成がたき故、しバらく案じて、
 実をねらふ足軽町の桃の花
と五文字付て、則韻ふたぎに入たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.158~159)

 朱廸(しゅてき)は許六門で、『風俗文選』には「酒徳ノ頌」が収められている。
 「足軽町(あしがるまち)」はコトバンクの「世界大百科事典内の足軽町の言及」に、

 「領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。また足軽などの居住する町には町名もついたが,重臣層の屋敷地などは町名をつけず,道路に小路名がついているだけの場合がある。」

とある。彦根では城下町を取り囲むように足軽組屋敷が建てられ、足軽長屋ではなく庭付き一戸建てだったという。今では旧彦根藩足軽組屋敷は観光名所にもなっている。
 「足軽町の桃の花」は庭付き一戸建てならそう珍しいものではなかったのだろうけど、それは彦根だけの話で、余所の人からすると珍しかったかもしれない。
 「実をねらふ」というのは子供の桃泥棒のことだろうか。60年代くらいの漫画には必ず柿泥棒が出てきたが、高度成長とともに子供が庭木の果実を狙うようなことはなくなっていった。

 「又奚魚と云者来て、『田の草におハれおハれて』といふ事出たり。下の五字なし、頼むと云。予とりあへず、
 田の草におハれおハれてふじ詣
ト云事を付たり。
 又汶村が句に、『株干すわらの日のよハり』と云句、五もじとのぞむ。是もとりあへず、
 蝉の音や株干ス藁の日のよハり
と付てやりぬ。
 愚案ずるに、奚魚・汶村が句ニハ、おのづから句中に少血脈の筋あり。李由・朱廸が句ニハ、血脈の筋なき故に、容易におかれずして、発句ニ成がたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.159~160)

 奚魚(けいぎょ)は『俳諧問答』の横澤三郎注に、「『篇突』等にその句が見えてゐる」とある。許六門と思われる。「篇突(へんつき)」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「俳諧論書。李由・許六(きよりく)共編著。1698年(元禄11)刊。序によれば,当時の俳諧宗匠の暗愚を憂えて成した書という。問題のある季語を取りあげ,例句を掲げて見解を述べ,また,〈賀〉〈挨拶〉などの格式,〈発句評錬の弁〉のような作法などを28項目にまとめ,追加に編著者の俳文を1編ずつ載せる。書名は,漢字の旁(つくり)に偏をつぎ競う中古の文字遊戯による。去来は《旅寝論》を書いて本書を批判したが,未刊に終わった。」

とある。
 「田の草に」は田んぼの脇に茂る草のことで、田の草の茂る道をということだろう。「おハれおハれて」はそのまま読むと何かに追いかけられるか追い立てられるかで、この情景が一体何なのか落ちをつけろということなのだろう。
 田んぼの道を追い立てられたり追っかけられたり、許六の答えは「富士詣で」だった。江戸時代には富士講が盛んにおこなわれ、富士山に登ったり、その周辺の富士五湖や白糸の滝や忍野八海や洞穴などを廻ったともいう。
 富士登山は水無月のものだし、「575筆まか勢」というサイトには、

 数珠玉や里の下草富士詣     才麿

の句があった。言水編『江戸弁慶』の句らしい。この句を見ても、富士詣は夏草の中を行くイメージがあったのだろう。
 汶村(ぶんそん)も彦根藩士で許六門。
 句の方は「株干すわら」がよくわからない。稲の藁を干すのは収穫後の晩秋だし、蕪は冬のものだし、「日の弱り」に「蝉の声」を付けるのだから、晩夏なのは確かだろう。
 李由・朱廸の句に血脈がなく、奚魚・汶村の句には血脈があるというが、李由・朱廸の句は姿がある程度でき上っていて、それに付け加えるものがないからで、奚魚・汶村の句は姿ができてないから五文字追加してようやく意味を成すためではないかと思う。

2020年11月25日水曜日

  いつまで何事もないふりをしているのだろう。
 世界を見れば既に140万もの人が死んでいるんだし、怖いものは怖いんだよ。そこから目を背けたってどうなるものではない。「正しく恐れる」というのは現実を直視することなんだ、違うかい?
 どんなに怖いものでも、しっかりと前を見据えれば必ず道は開けると思う。眼をそらして、逃げていたら、あるのはどん詰まりだ。
 緊急事態宣言が出てた時には自殺者が減ったのに、解除されてから自殺者が増え続けている。ウイズ・コロナには絶望しかないからだ。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、又云、俳諧ハなきとおもへバなき物也。あれ共、案じあてぬとおもひて案じ侍れバ、成程ある物也。
 たとへバ、歳旦ハ事せまくてなき物とおもふ故に、上句希也。歳暮ハひろき物なれバあるべしとおもふ故に、おりふしよき句出るがごとし。是明なる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)

 これは「俳諧は出来ないと思ったら出来ないもの也」ということだろう。「あれ共」は前の文章を受けて、「しかれども」ということで、考えれば必ずできると思って考えれば、成程出来るもの也、と続く。
 歳旦はお目出度いものでなくてはならないし、正月特有のものは限られているなど、いろいろ制約が多くて難しいと思うから、歳旦で名句はなかなか生まれない。この頃の俳諧師は毎年歳旦帳を出していたけど、そのほとんどは左義長で燃やされて消えてしまったのだろう。
 歳暮の場合、年末は人情色々あるし、題材も豊富だから有名な句も多い。

 年暮ぬ笠きて草鞋はきながら   芭蕉
 人に家をかはせて我は年忘    同
 詩あきんど年を貪ル酒債かな   其角
 いねいねと人にいはれつ年の暮  路通
 大晦日定めなき世の定めかな   西鶴

 「一、五文字のすハらざる句、人持来て五文字を頼むと云事。
 李由が句ニ『比良より北ハ雪げしき』といふ句、久しく五文字なし。予翁に尋侍る時、早速『鱈舟や』と云五文字ハすへ給へり。此句門人たる人しらぬハなし。
 此時師の云、凡兆が句ニ、『雪つむ上の夜の雨』と云に、五文字頼む。情を費して案じ出して、『下京や』と云五字をすへたりと語り給ふ。
 同じ五文字をすへ給ふに、容易に出ると出ざるとハ、いかなる子細成とおもふに、愚退て発明するに、『鱈舟』と云五文字ハ、取合もの也。『下京』といふ五字ニハ、例の翁の血脈を入られたり。二ッの五文字同じ事とおもふ人ハ、五文字置事ハ成まじき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157~158)

 比良山は琵琶湖の西岸にある山で、貞享五年秋の芭蕉越人両吟「雁がねも」の巻の十七句目にも、

   物いそくさき舟路なりけり
 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

の句があった。この場合は前句を、琵琶湖を渡るのに急いでいて瀬田の唐橋まで行かず、近道になる矢橋(やばせ)の渡しを船で渡る人のこととして、そこから北に見える比良山を付けている。
 この場合、比良の北は雪景色で山が真っ白に見えるという下七五ができたものの、上句が決まらないというものだった。
 比良山といえば多くの人が連想するのが琵琶湖だったと思われる。東海道でも中山道でも、江戸と京都を行きかう人は、琵琶湖の向こうにある比良山が嫌でも目に入ってきたのではないかと思う。そうなると「比良より北ハ雪げしき」という下句には琵琶湖の景物を付けないという手はない。ただ「鳰の海比良より北は雪げしき」ではいかにも平凡で、許六なら「是にてもなし」と言うだろう。取り合わせにはなるが、取り囃してはいない。
 芭蕉が「早速」というから、本当に即答したのだろう。

 鱈船や比良より北は雪げしき   李由

 ちなみにこの句は李由・許六・汶邨・徐寅の「四吟」の発句として李由・許六編『韻塞』(元禄九年刊)に収録されている。脇は、

   鱈船や比良より北は雪げしき
 蘆浦納豆寐せ初る比       許六

になっている。
 鱈船は鱈漁をする船ではなく、この場合は蝦夷や東北で獲れた鱈を極寒の中で乾燥させた「棒鱈」を京阪に運ぶ船で、北前船で若狭湾に運び、陸路で琵琶湖の北岸に運び、そこから船で琵琶湖を縦断する、この船を鱈船と呼んでいた。
 棒鱈は許六の同席した元禄五年冬の「けふばかり」の巻の二十一句目に、

    當摩(たへま)の丞を酒に酔はする
 さつぱりと鱈一本に年暮て    嵐蘭

とあるように、年末に何日もかけて戻し、正月に食うものだった。韓国にもファンテというオリンピックのあった平昌の名物があり、それに似ている。
 鱈船を出すことで、比良より北の雪景色は単なる琵琶湖の景色というだけでなく、その遥か向こうの見えない所にある棒鱈の産地である北の極寒の地にも思いを馳せることになる。
 許六はそれに琵琶湖南部の蘆原で冬に向けて納豆を仕込む頃と応じる。『炭俵』の「早苗舟」の巻三十句目、

   切蜣の喰倒したる植たばこ
 くばり納豆を仕込広庭      孤屋

の所でも触れたが、「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」

とある。
 この「棒鱈や」の上五を付けた時、芭蕉は凡兆の「雪つむ上の夜の雨」の下七五に「下京や」の上五を付けた時の話をしたという。この話は『去来抄』「先師評」にもある。

 「下京や雪つむ上のよるの雨   凡兆
  此句 初冠なし。先師をはじめいろいろと 置侍りて、 此冠に 極め給ふ。凡兆あトこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆 汝手柄に此冠を置べし。 若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからずト也。去来曰、 此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、 是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。 此事他門の人 聞侍らバ、腹いたくいくつも冠 置るべし。 其よしとおかるる物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.19)

 「棒鱈や」はすんなり出てきたけど「下京や」は門人とあれこれ論じた果てにやっと定まったもので、この違いは何だったのかと許六は考える。
 結論としては、「棒鱈や」は比良の雪との取合せ・取囃しで容易に思いつくものだったが、「下京や」には「例の翁の血脈を入られたり」と言う。
 血脈は前にも論じたように二重の意味があった。一つはほぼ「風雅の誠」と同じもので、其角が「俳諧の神」と呼んでたものだ。しかし、一方では師から相続されたもの意味でも用いられる。
 「下京や」が取り合わせで出てきたものではないのは確かだろう。ただ、雪が積もってはすぐに雨で融かされてしまうというのは「下京あるある」だったには違いない。強いて言えば「雪つむ上のよるの雨」が何らかの多くの人の共通認識(噂)になるような場面は何か、ということから逆算していったのだろう。
 風雅の誠、俳諧の神は、基本的には多くの人の心の底にある共通のものに至りつくことであろう。共通のものに至ることで、その言葉は人と人とを繋ぎ、心を一つにすることができる。それは李退渓の四端九情説で言えば、九情を通じてその根底にある四端に行き着くことだ。
 この「下京や」の句にそこまで深いものを読み取れるかどうかは微妙だが、強いて言えば目まぐるしく変わる世界を肯定的に捉えるという時点で、不易流行に通じるものを読み取ることは可能だ。
 流れる水が濁らないように、雪が降ったかと思ったら雨ですぎに消えてゆく下京の気候に下京の町の繁栄を重ね合わせて、よく流行するゆえに栄えるという「理」を見出したなら、確かに芭蕉が自信をもって「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったのもうなずける。「雪つむ上のよるの雨」の下七五に芭蕉は最初からそれを読み取っていた可能性は十分ある。

2020年11月24日火曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「一、又、未来の句を案ずるといふハ、五年も七年も先を案ずる事也。未練の者ハ、斗方もなきやうニおもひ侍れ共、眼前ニしれたる事也。
 たとへバ、花と云題にて発句所望せし時、案じて一句出る。又一句のぞむ時、最前案じたる所ハもはやのべがたけれバ、されよりおくを尋て、一句とり出して句とす。又所望する時、ひたものおくを尋る。是、未来の句、眼前にしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.156~157)

 未来の俳諧について考えておく必要というのは、長く俳諧に携わってゆこうとするなら、考えないわけにはいかないだろう。まあ、これは今の芸人にも当てはまるし、ミュージシャンだって五年十年後の音楽がどうなるかは考えざるを得ないだろう。
 世間は常に新しいものを求めている。同じネタはいつまでも使えない。ネタだけでなく同じ手法というのもやがては飽きられる。常に先のことを考えていかなくてはいけないというのは、例えば商品開発などでもそうだろう。トレンドで飯を食っている人間は、常に未来を見ていなくてはならない。
 ただ、それが常にできる人はごくわずかだ。どの業界でも一発屋というのはたくさんいるし、その一発さえ出せなかった人がさらに無数にいる。
 許六さんも次の俳諧には当然関心があったし、去来だって其角だって関心ないわけではなかったはずだ。ただ、惟然のような自分が予期しなかったようなものが出てしまうと、それに乗るというよりはディスる側に回ってしまうものだ。

 「一、又云、俳諧ハ物ずきともいふべし。上手の句ハ物ずきよく、下手の句ハ物ずきあしし。てには・おさへ字等ハ、上手の句も下手の句も、一字もゆるされざれば、物ずきのよきを上手といはむか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.157)

 「物ずき」というのは、今では変わったものをわざわざ好む人のことを言うが、数奇(数寄)はもともとは和歌を好むことだった。ウィキペディアの「数寄者」のところには、

 「古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
 さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。」

とある。和歌や連歌が数寄なら、当然ながら俳諧も数寄の道ということになる。
 一般的には「流行するものを好む」ことが「数寄」だと言っていいのではないかと思う。今の言葉だとファッションが一番近いかもしれない。
 俳諧は一つのファッションであり、上手の句はファッショナブルで下手の句はファッショナブルではない。文法的な面で上手い下手はあっても、それは上手かろうが下手だろうがどのみち守らなければならない規則なのだから、ファッションセンスのある作者が上手といっていい。
 音楽でもプロで何年もやっていれば歌や楽器など嫌でも上手くなる。でも作詞や作曲のセンスはいくら練習してもどうなるものでもない。若いへたくそなバンドでもヒット曲を連発することはあるし、いくら楽器がうまくてもスタジオミュージシャンにしかなれない人もいる。
 文学の方だと、どう頑張っても面白い文章は書けないが、文法や漢字知識や仮名遣いなどが完璧なら、校正に回った方がいい。
 それと同じで、俳諧の上手下手も結局はセンスの問題で、文法に詳しいからって面白い句が作れるわけではない。