2020年11月2日月曜日

  大阪はまたしても阪神タイガースの試合のように最後に逆転負け。
 でもさすがに日本人は潔い。泣くな吉村、大阪の花だ。
 それにひきかえ、アメリカはどうなることか。ネバーギブアップの国だからな。ブッシュとゴアの時に本当にそう思った。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   風にふかれて帰る市人
 なに事も長安は是名利の地    芭蕉

 これは白楽天の『白氏文集』の「長安は古来名利の地、空手金無くんば行路難し」で、前句の風に吹かれて帰る市人を金がなくて何も買えなかったとする。
 ここからは上句芭蕉、下句越人になる。
 八句目。

   なに事も長安は是名利の地
 医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

 今もそうだが医者というのは都市に集中するものだ。昔は資格もなく勝手に開業できたから藪医者も多く、いくら医者が沢山いても、まっとうな医者を探すのに苦労したのかもしれない。
 九句目。

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ
 いそがしと師走の空に立出て   芭蕉

 「立出て」というと、

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば
     いづこも同じ秋の夕暮れ
              良暹法師(後拾遺集)

の歌が思い浮かぶ。いずこも同じ藪医者ばかり。
 十句目。

   いそがしと師走の空に立出て
 ひとり世話やく寺の跡とり    越人

 寺の跡を継いだ人が、まだ何か不慣れで頼りないのだろう。まったく世話が焼ける。
 十一句目。

   ひとり世話やく寺の跡とり
 此里に古き玄番の名をつたへ   芭蕉

 「玄番(げんば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 玄蕃寮のこと。また、玄蕃寮に属する役人。げんばん。
  ※観智院本三宝絵(984)中「治部玄蕃雅楽司等を船にのりくはへて音楽を調てゆき向に」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「此里に古き玄番の名をつたへ〈芭蕉〉 足駄はかせぬ雨のあけぼの〈越人〉」

とある。
 その「玄蕃寮」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「日本古代の令制官司。玄は僧,蕃は海外諸国の意で,《和名抄》は〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉と訓じている。治部省の管轄下にあって,京内の寺院・仏事,諸国の僧尼の掌握,外国使節の接待,鴻臚館(こうろかん)の管理などをつかさどった。中国では玄は道教を意味し,隋・唐では崇玄署という道士(道教を修めた人)を監督する役所が設けられたが,この役所は同時に僧尼に関することも担当した。玄蕃寮の〈玄〉はおそらくこの役所に由来するもので,日本には道士が存在しなかったので,玄で僧侶のみを指すことになったのであろう。」

とある。
 古代に玄番を務めた人の末裔が今も田舎の小さな里を領有しているのであろう。それが今でも寺の跡取りの世話をしているというのが笑える。
 十二句目。

   此里に古き玄番の名をつたへ
 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人

 足駄は高下駄のことで、主に僧侶が履く。雨で土がぬかった時に歩きやすい。
 玄番の末裔は今でも僧侶を大事にし、雨に朝に足駄を履かせて外出させたりはしない。
 十三句目。

   足駄はかせぬ雨のあけぼの
 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

 足駄を履いて去ってゆこうとする男も、女のあまりにか細く艶やかな姿にためらう。
 十四句目。

   きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
 かぜひきたまふ声のうつくし   越人

 「目病み女に風邪引き男」という諺があるが、どちらも色っぽく見えるということ。この諺がいつごろからなのかはわからないが、ひょっとしたら越人の句に起源があるのかもしれない。「蝉時雨」も越人から始まった可能性があり、新しい言葉を作る才能があったのかもしれない。
 目病み女というと、今でも眼帯フェチというのがあって、綾波レイの眼帯に萌える人たちがいるが。
 十五句目。

   かぜひきたまふ声のうつくし
 手もつかず昼の御膳もすべりきぬ 芭蕉

 「すべる」は古語では退出するの意味がある。風邪で食欲がないのは普通だが、前句の「うつくし」で高貴な人の御膳とするところに技がある。
 十六句目。

   手もつかず昼の御膳もすべりきぬ
 物いそくさき舟路なりけり    越人

 前句を船酔いとする。
 十七句目。

   物いそくさき舟路なりけり
 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

 比良山は琵琶湖の西岸にある。それが北に見えるというのは堅田より南だろう。前句の「いそくさき(磯臭き)」を「急ぐ先」に取り成して、月見と花見に急ぐ旅人のこととする。
 琵琶湖を渡るには瀬田の唐橋を渡るか矢橋(やばせ)の渡しを船で渡るかになる。

 もののふの矢橋の船は速かれど
     急がば廻れ瀬田の長橋
              宗長法師

の歌がある。船は川止めが多くあてにならないというので宗長法師の歌になったが、江戸時代でもやはり急ぐ人は矢橋(やばせ)の渡しを選ぶ人が多かったのだろう。
 十八句目。

   月と花比良の高ねを北にして
 雲雀さえづるころの肌ぬぎ    越人

 「肌脱ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「和服の袖(そで)から腕を抜いて上半身の肌をあらわにすること。また、その姿。「―になる」《季 夏》「這(は)ひよれる子に―の乳房あり/虚子」

とある。
 片方だけだと片肌脱ぎで肩脱ぎともいう。この場合は弓を射たりするときで、「片肌脱ぐ」は「加勢する」という意味になる。両方だともろ肌脱ぎで「全力を尽くす」という意味になる。
 この句の場合はそうした寓意ではなく、桜が咲いて雲雀が囀る頃には暖かくなり、働く人は肌脱ぎになるという、気候を添えて流した句と見るべきだろう。

2020年11月1日日曜日

  マクロンの言う表現の自由は、たとえて言えば面と向かっと馬鹿だの禿げだの言って言論の自由だというようなもの。他の国や民族の文化伝統を冒涜して表現の自由は無理がある。
 まあ、言論の自由はあるにはある。というか、自由というのは誰もが自由にふるまえば当然ながら自由と自由が衝突しあって、いわゆる「万人の万人に対する闘争状態」に陥ってしまうものだ。
 馬鹿と言うのも自由、馬鹿と言われて腹を立てるのも自由だ。ただそのまま放置すると当然ながら喧嘩になる。そこで社会契約を結び法律を定めて、ここまでの自由は認めるがこれ以上は駄目というのが近代人権思想の考え方だ。無制限の自由何てものはありえない。
 ただ、国際社会となると、そもそも国際法に規定のないことについては規制がない。だから何を言ってもいいのかとなると、当然ながら自由と自由、権利と権利がぶつかり合って戦争になる。
 御立派な人権思想が中国のウイグルやチベットの惨状を見ているしかできないのは、社会契約がすべての人に結ばれているわけでなく、いまだに国家内部にとどまっているからではないかと思う。
 社会契約は契約者しか拘束できない。これが今の人権思想の限界だと思う。

 西洋理性の欠陥は霊肉二元論により、肉体と精神、欲望と理性というふうに単純に二分することで、その間にある人間のメンタルな部分を完全に取りこぼしている所にある。肉欲は機械的で見境なく、それをコントロールするのが理性だというが、このどちらにも感情は存在しない。
 同様に、「万人の万人に対する闘争状態」にも「社会契約の状態」にも感情が入り込む透間がない。だが、実際人間はそのどちらでもない状態で原始から今の今まで普通に生活している。
 人は生まれた途端、それまで他の多くの人が生活している中に突然割り込んでゆくことになる。彼らが生まれたばかりのものを殺すのは文字通り赤子の手をひねるようなものだ。その中で生きてゆくのに最初から社会契約があるわけではない。まずは泣き叫んで生きるのに必要なものを要求する。親がそれを与えて喜びを感じることで最初の取引が成立する。
 生きるというのは絶えず要求を繰り返し、周囲の人間と取引を繰り返しながら、自分の居場所を確保してゆく。人生は生存の取引の繰り返しだ。それはcontractではなくdealだ。
 生存の取引は基本的に個と個の関係で一般化することはできない。それは例えば商人が価格交渉をするのに、取引先の足もとを見て価格を変えるようなもので、吹っ掛けたり値切ったりを繰り返しながら取引は成立してゆく。
 また生存の取引は一回限りのものではなく、不断に更新されてゆく。その過程でステータスを上げる者もいれば隅に追いやられてゆく者もいる。こうして絶えず流動的に社会というのは成立してゆく。
 もちろんそこには力関係もあり、理不尽な取引も数多くある。ただ、その取引の繰り返しによってある程度の均衡が生じることで、人は「万人の万人に対する闘争状態」を免れている。これが原始から今に至るまで繰り返されている人間社会の真の姿だ。そんな中で進化したのが人間の豊かな感情だった。
 人権思想は本来、人間が原始から行っているその営みを法則化し、いわば暗黙に行われてきた慣行や原始的な法律を体系化する試みだったはずだ。だから現代の法律学では慣行は尊重されているはずだ。
 人権思想はあまり杓子定規にふるまい慣行を軽視していくと、慣行が破壊され、そこに「万人の万人に対する闘争状態」の悪夢を引き起こす危険がある。言論の自由や表現の自由も適度なところで抑制し、世界のさまざまな民族文化伝統に敬意を払わないなら、それはやがて悲惨な戦争を引き起こすことになる。
 基本は文化的多様性を尊重するということだ。まして国家権力の及ばない国際社会においてはなおさらだ。

 さて再び俳諧を読んでいこうと思う。
 貞享五年『更科紀行』の旅を経て江戸に戻った芭蕉は、九月中旬にともに旅をした越人を芭蕉庵(第二次)に招き両吟一巻を巻く。この両吟は翌年に出版される『阿羅野』に収録されることになる。

 木曾の痩もまだなほらぬに後の月 芭蕉

の句を詠んで芭蕉庵で十三夜の月見の会を行った後のことだった。ひと月前の仲秋の名月の時には芭蕉と越人は姨捨山にいて、

 俤や姨ひとりなく月の友     芭蕉
 いざよひもまださらしなの郡哉  同
 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人

という句も詠んでいる。「三よさの月」とあるように、十五夜だけでなく十六夜(いざよい)、十七夜(立ち待ち月)も楽しんだ。
 さてこの九月中旬の両吟の発句。

   深川の夜
 雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人

 芭蕉庵に越人が招かれた形になるので、発句は越人になる。
 この一巻は『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説があり、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注もある。
 深川芭蕉庵は小名木川が隅田川と合流する所にあり、夜ともなれば水鳥の声が結構うるさかったのかもしれない。雁はその名の通り「かり」と鳴くとも「がん」と鳴くとも言われている。犬のキャンと鳴く声にも似ている。
 「からぶ」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「①乾く。ひからびる。
  ②(声が)かすれる。しわがれ声を出す。
  出典今昔物語集 二七・三四
  「林の中にからびたる声の」
  [訳] 林の中にかすれた声の。
  ③枯れて物さびる。枯淡の趣に見える。
  出典無名抄 会歌姿分事
  「秋・冬は細くからび」
  [訳] 秋・冬は細く枯淡の趣に見え。」

とある。
 隅田川がすぐ近くにあるから雁の声はかなりうるさくて、「枯れて物さびる。枯淡の趣に見える」には程遠い状態だったのではなかったかと思う。
 この場合は①②の意味で、いつもは雑音にしか聞こえないうるさい雁の声も、こうして二人で静かに耳を傾けてみると、しわがれた声ではなく、結構澄んだ良い声なんだなとあらためて認識する。そういう意味ではなかったかと思う。
 脇。

   雁がねもしづかに聞ばからびずや
 酒しゐならふこの比の月     芭蕉

 「酒しゐ」は酒を強いること、無理に勧めることだが、十三夜から月見の宴が続くと、お客さんに酒を勧めて飲ませるのに慣れてしまった、とやや照れたように言う。
 普通の酒飲みなら酒しゐは普通のことで、「まあ飲めや、何俺の酒が飲めねえだと、べらんめえ」というところだが、「朝顔に我は飯食う男哉」の芭蕉さんのことだから、ようやく人に酒を勧められるようになった、ということろか。まあ、越人さんは大の酒好きだから、早く酒しゐしてくれと思ってたところだろう。
 第三。

   酒しゐならふこの比の月
 藤ばかま誰窮屈にめでつらん   芭蕉

 両吟の習いとして、第三は脇と同じ人が詠む。四句目、五句目は発句を読んだ人が詠む。
 藤袴は秋の七草の中では地味な方で、俳諧に詠まれることも少ないが、ここでは「袴」と掛けて正装=窮屈の連想で付ける。
 酒を強いることについて、袴を履いて集まるあらたまった月見の会でもないし、窮屈にする必要もないので、と言い訳の句に転じる。
 四句目。

   藤ばかま誰窮屈にめでつらん
 理をはなれたる秋の夕暮     越人

 秋の夕暮れは、

 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ
              西行法師(新古今集)

のように、別に古典の素養とか故事とか知らなくても誰でも言うに言われぬようなあわれな気分になる。「あわれ」は今の言葉だと「エモい」ということか。
 「理をはなれる」というと、

 おもしろや理窟はなしに花の雲  越人

という句も『阿羅野』に選ばれている。
 五句目。

   理をはなれたる秋の夕暮
 瓢箪の大きさ五石ばかり也    越人

 一石は十斗で約百八十リットル、ドラム缶が約二百リットルだから、五石はドラム缶五本分になる。
 五石の瓢箪は『荘子』「逍遥遊編」に登場するもので、恵子が魏の王から瓢箪の種をもらったが五石もの大きさになって、酒を入れても持ち運べない、柄杓にするにも大きすぎると言ったのに対し、荘子はならば船にでもしたらどうだと言う。まあドラム缶五個分だったら小舟にしかならないが。
 前句の秋の夕暮れのエモに老荘の無為自然の心を感じ、五石の瓢箪の登場となる。
 なおこの『荘子』「逍遥遊編」には「越人斷髮文身」の文字もあり、古代の越の国の人の風俗が倭人に似ていたことが記されている。その倭人の国が今では銭湯や温泉で分身お断りとはこれいかに。入れ墨は邪馬台国の頃から日本の文化だったはずなのに。
 秋は五句までなので、瓢箪を秋としても問題はない。ただ打越に藤袴があるので、瓢箪は器物、つまり植物を使った製品であれば非植物としなくてはならない。
 六句目。

   瓢箪の大きさ五石ばかり也
 風にふかれて帰る市人      芭蕉

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『蒙求』の許由の故事とする。『徒然草』十八段にも引用されていて、

 「唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。」

とある。
 まあ、五石の瓢箪を見ても「ああでかい瓢箪があるな」くらいで終わって、わざわざ買おうとは思わない。どうやって持って帰るかも問題だし、船もわざわざ瓢箪で作らなくても普通に小舟はある。
 五石の瓢箪は結局売れず、出品した商人は空しく帰るのみ。

2020年10月29日木曜日

 今日は十三夜。朝から快晴でついさっきまで月が見えていたが、急に曇ってきた。十三夜今日は火星を伴にして。

 さて、楽しかったみちのくの旅も終わり、最後はこの大御所が締めてくれます。芭蕉が江戸に出てきた頃からの弟子にして親友だった素堂さん、それではいってみよう。

 「はせを老人の行脚せしみちのおくの跡を尋ねて、風雲流水の身となりて、さるべき處々にては吟興を動し、他は世上のこゝろごゞろを撰そへて、むつちどりと名付らる。其人や武陽の桃隣子也。予がむかし、かならず鹿嶋・松嶋へといへるごとく、己を忘れずながら年のへぬれば、夕を秋の夕哉といひけむ、松島の夕けしきを見やせまじ、見ずやあらまし。みちのおくはいづくはあれど松島・塩竈の秋にしくはあらじ。花の上こぐ海士の釣舟と詠じけるをきけば、春にもこゝろひかれ侍れど、なをきさかたの月・宮城野の萩、其名ばかりをとゞめをきけむ、實方の薄のみだれなど、いひつゞくれば、秋のみぞ、心おほかるべき、白河の秋風。
   時是元禄丑の年秋八月望に
              ちかきころ
                  素堂
                   かきぬ」

 「みちのおくの跡を尋ねて、風雲流水の身となりて、さるべき處々にては吟興を動し」までは「舞都遲登理」の部分で、「他は世上のこゝろごゞろを撰そへて」他の巻に収められた発句や俳諧のことであろう。「世上のこゝろごゞろ」は素堂の選んだ言葉だが、いわゆる門の垣根を越えて幅広くいろいろなものを選んだ、蕉門から外れた調和や不角の句を選んだことも、「世上のこゝろごゞろ」といえば理解できる。こうして『陸奥衛』全五巻が成立した。
 ここからは素堂の独り言のようになる。素堂もいつか必ず鹿島や松島を見に行くんだとずっと心に思い続けていて、行くなら秋に行きたいと言う。

 松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣

の句に共鳴してのことかもしれない。芭蕉も桃隣も夏の松島だった。秋に行っては見たいけど、帰り道で雪に足止めされることを心配してのことだったか。
 このあと象潟の花の上こぐ海士の釣舟もいいけど、それでも象潟の月、宮城野の萩に心惹かれ、実方の形見の薄になってもいいから秋に行きたいと繰り返し、「白河の秋風」と能因の歌を思い起こして終わる。
 そして日付の所で「秋八月望にちかきころ」と今が秋であることで、秋のみちのくに惹かれる理由というか落ちをつけてこの跋文は終わる。これはこれで何とも俳諧らしい剽軽な終わり方だ。「元禄丑の年」だから桃隣が帰ってきて一年後、元禄十年になる。

2020年10月28日水曜日

 『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)では、談林のブームの去ったあたりから点者や前句付の方に転向していった調和や不角との関係が取りざたされている。あるいは『陸奥衛』全五巻の大作を出版する際のスポンサーで、陸奥の旅も調和の門人から金を集めるためだったのではないかと、勘繰る部分もある。
 その辺の事情はまあとにかくとして、筆者鈴呂屋の印象からすると、この「舞都遲登理」の旅で桃隣は、とにかく芭蕉のように詠みたいというその意気込みがよく伝わってくる。ただ、いくら意気込んでも何か一つ足りないという気分にさせられる。
 思うに、桃隣が芭蕉から受け継いだのは、とにかく何か気の利いたことを言って人を笑わせたい、人を楽しい気分にさせたいという部分ではなかったかと思う。だから桃隣にとって面白くて人を楽しませるものであれば、調和や不角の句を排除する理由はなかったのだと思う。
 芭蕉さんと過ごした日々のように、俳諧を楽しみたい、談笑を楽しみたい、小難しいこと抜きに楽しみたい、それが桃隣だったのではなかったかと思う。
 関西系の去来、支考、許六、越人といったところがそれぞれの理屈にこだわり、議論倒れになってゆく中で、江戸の蕉門は其角にしても嵐雪にしてもそうだが、基本的に理屈が嫌いだったのだと思う。理屈抜きに楽しもうというところで、芭蕉亡き後の全国とも言っていい俳諧師たちが桃隣を中心に一堂に集まった、その集大成が『陸奥衛』だったのではないか。そう思って読んだときに『陸奥衛』の良さがわかるのではないかと思う。
 それでは「舞都遲登理」の続き。あとは伊勢へも行かず帰り道。

 「山形より山路を經て、ゆの原へ出ル。わたる瀬村と關村の間に、飛不動、堂守は茶を煎て往來に施ス。いつの比か飛騨匠、一夜の内に堂建立せんと暫して、良材を集初けるに、半に鷄の聲聞ゆ。夜は明たりと大願むなしく成ぬ。角の柱は崖に連て岩と成ル。今見るに八寸の角を雙べて、幾重竪に立たるがごとし。彼岩の頂は幽に見えて、前は早川也。組立たる岩の高サ八十丈余、横二百丈余、往來の貴賤暫足を留、膽を動ス。是より段々出て桑折に着ク。田村何某の方に休足。」(舞都遲登理)

 山寺を出ると羽州街道を通って桑折(こおり)へ出る帰り道になる。桑折というと飯坂温泉から伊達の大木戸へ行く間だった。
 山寺を出ればまずは山形城下の山形宿、奥羽本線蔵王駅の辺りにあった松原宿、そのすぐ南の黒沢宿、そしてかみのやま温泉のある上山宿から南の山の中に向かい、楢下、そして金山峠を越えれば干蒲、白石川に沿って下れば七ヶ宿町湯原(ゆのはら)に出る。
 関はそこからかなり先になる。渡瀬宿はその次の宿だが、残念ながら渡瀬宿は七ヶ宿ダムができたことによって七ヶ宿湖の底に沈んでしまった。ただ、材木岩はダムのすぐ下に残っている。幅は約100m、高さは約65mで、桃隣の見立てだと幅二百丈余は六百メートル、高さ八十丈余は二百四十メートルだから、かなり差がある。材木岩はダムの上の方まで続いていたのかもしれない。
 材木のように見えるのは柱状節理と呼ばれる玄武岩や安山岩が柱状になったものだからだ。
 飛不動は材木岩の対岸にあり、飛不動跡地の説明書きには、

 「ご由来記によると天正十九年(一五九一年)仙台藩伊達政宗公が羽州置賜郡小松村より、この霊地に不動明王を創建され、武運長久、藩内安全、天下泰平を祈念する。野火の為お堂消失の際本尊不動明王は後方虎岩三十丈余りの高き岩窟に飛んで難を避け無事であることから御霊験を称え飛不動明王と尊崇され大勢の参詣者を得た。
 現在飛不動尊堂は旧七宿街道江志峠(後方これより約一・五キロ)に鎮座し災難よけ、家内安全の祈願者が絶えず訪れている   別当 清光寺」

とある。
 野火は文禄三年(一五九四年)の業火で、今は違う場所にあるのは享保十六年(一七三一年)の大地震により虎岩が崩落の崩落と享保十九年に新しい道ができたため、そこに新たに建立されたという。新しい飛不動の方は今もある。
 「堂守は茶を煎て往來に施ス」というのは唐茶のことであろう。隠元禅師がもたらした明風淹茶法で、『日本茶の歴史』(橋本素子、ニ〇一六、淡交社)には、

 「『唐茶』には、中国から伝えられた茶の意味があるものと見られ、元禄十年(一六九七)に刊行された宮崎安貞の『農業全書』に、その作り方が記されている。そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行うとある。
 このように、隠元の茶については一次史料が残されてはおらず、はっきりとはわからないが、後世の展開状況からさかのぼって考えると、『鍋で炒る』と『揉む』行程を交互に行い製茶した『釜炒り茶』と同様のものではないかと見られる。」(p.143)

とある。
 さて、材木岩を後にすると、街道は白石川を離れ、今の県道46号白石国見線に近いコースで七ヶ宿峠を越えて桑折へ出る。田村何某氏の所に泊まり、この時『陸奥衛』二巻「むつちとり」にある、

 誰植て桑と中能紅畠       桃隣

を発句とする歌仙興行が行われたのだろう。桑と仲良く紅畠というのは、羽州街道で桑折と紅花の産地である山形とが結ばれていることを言うのであろう。
 脇がその田村何某氏であろう。

   誰植て桑と中能紅畠
 蓬菖蒲に葺隠す宿        不碩

 この宿は桑でも紅花でもなく、屋根に生えた蓬と端午の節句で軒に差した菖蒲に隠れてしまっています、と答える。四月にここを通った時に立ち寄ってくれなかったことがちょっと不満だったのかな。
 第三は桃隣とずっとともに旅をしてきたこの人。

   蓬菖蒲に葺隠す宿
 陰の膳旅の行衛をことぶきて   助叟

 「陰の膳」は陰善(かげぜん)のことで、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「旅などに出た家人の無事を祈って,留守のものが仮に供える食膳。長旅,出漁,出稼ぎ,出征などに行われ,椀(わん)のふたに露がつくと無事,つかねば凶としたりする。不在者も家族と同じものを分けて食べることにより一種の同席意識が生じるとみられる。」

とある。場面を転じて、旅に出た家族の帰りを待つ情景とする。

 「仙臺領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上ゲ、不思儀の緣により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法圓寺に安置し奉ル。惣の御奇瑞諸人擧て詣ス。まことに所は邊土ながら、風雅に志ス輩過半あり。げに土地の清浄・人心柔和なるを神も感通ありて、鎭坐し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜み、桑折にとゞめぬ
       天神社造立半
    〇石突に雨は止たり花柘榴」(舞都遲登理)

 この黄金天神についてネット上では情報がほとんどないし、結局桃隣のこの文章が唯一の情報ソースとなっている。朝日山萬歳楽院法圓寺のホームページでも、

 「天神様あるいは、天満天神、天満大自在天神は菅原道真公が神格化して、学問の神様として、広く信仰されております。近江の国の「北の天満宮」、九州「太宰府天満宮」は有名ですが、法圓寺にお祀りしてあります天神様は通称『黄金天神』あるいは『宮嶋天神』としたしまれ、不思議の縁により當法圓寺に祀られ、古くから人々の信仰を集めておりました。この天神様の縁起を紹介するものとして、元禄九年(一六九六)芭蕉の甥の天野桃隣が出しました俳諧集『むつちどり』にも次のように記載されております。」

とあり、「舞都遲登理」の文章が引用されている。引用のあと、

 「とありますように、法圓寺の黄金天神は元禄時代にはすでにお祀りされており、文化の守護神として、あるいは、雷神として、人々の信仰帰依を得ていたようです。
享保四年(一七一九)に出されました俳諧集『田植塚』にもその当時の法圓寺の境内図が描かれてありますが、そこには梅の古木と蓮池と『宮嶋天神宮』が描かれております。
 天神様の本地佛は『十一面観世音菩薩』であります。現在、法圓寺には黄金天神さまの御導きにより、この天神様の本地佛として、総本山長谷寺ゆかりの『十一面観世音菩薩』像一体が法圓寺の位牌堂に勧請しお祀りさせていただいております。」

と続いている。
 まず仙臺領宮嶋がどこなのかもわからない。宮戸島なら松島の方にあるが。

   天神社造立半
 石突に雨は止たり花柘榴     桃隣

 「石突(いしづき)はこの場合、建造物の土台とする石を突き固める作業のことだろう。塩釜神社の社殿造営の所でも「石搗の半也」とあったが、これと同じだろう。柘榴(ざくろ)は夏にオレンジ色の花が咲く。天神社はまだ土台を固める段階で、柘榴の花が咲いている。

 「須ヶ川に二宿、等躬と兩吟一巻滿ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正秀陳饗應。
     〇文月に神慮諌ん硯ばこ」(舞都遲登理)

 等躬は芭蕉の『奥の細道』の旅でも、

 風流の初やおくの田植うた    芭蕉
 隠家やめにたたぬ花を軒の栗   芭蕉

などを発句とする興行に参加している。行きに通った時にも一泊して、桃隣、等躬、助叟の三人で三つ物三つを詠む。
 帰り道での桃隣との両吟一巻は等躬撰の『伊達衣』に収録されている。

   奥刕の名所見廻り文月朔日須賀川
   に出て、乍單齋に舍り、一夜は芭
   蕉の昔を語りけるに、去秋深川の
   舊庵を訪し予が句を吟じ返して、
   燭下に一巻綴りぬ。
 初秋や庵覗けば風の音      桃隣

 句は去年の秋に作ったものだという。ちょうど等躬の家に着いたのも文月朔日で秋の最初の日だった。「庵」は芭蕉庵であるとともに等躬宅でもあり、重なり合う。

   初秋や庵覗けば風の音
 蚊遣仕舞し跡は露草       等躬

 蚊遣火を仕舞った後は草に露が降りている。この場合の「露草」はツユクサではなく、単に露の降りた草ではないかと思う。
 芭蕉がいなくなって火が消えたようなという含みもあるのだろう。
 桃隣が参詣した諏訪宮は今の神炊館神社(おたきやじんじゃ)であろう。神炊館神社のホームページに、

 「奥州須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)は奥の細道の途次、芭蕉が参詣した神社です。
 全国でも唯一の社名は御祭神である建美依米命(初代石背国造)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟に因ります。
 室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が信州諏訪神を合祀したことから、現在に至るまで『お諏訪さま』としても親しまれています。」

とある。曾良の旅日記にも、

 「一 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。」

とあり、この諏訪明神も神炊館神社と思われる。

 文月に神慮諌ん硯ばこ      桃隣

 文月の最初の日で、その「文」の縁で神慮を諫める「硯ばこ」と結ぶ。

 「又こゆべきと、白河にさしかゝり、
    〇しら露の命ぞ關を戻り足」(舞都遲登理)

 しら露の命ぞ關を戻り足     桃隣

 これは西行法師が小夜の中山で詠んだ、

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや
     命なりけり小夜の中山
             西行法師(新古今集)

の「命」の文字を拝借した形だ。
 初秋で露の降りる季節で、白露のような命で関に戻ってきた、とする。

 「遊行柳。芦野一口一丁、右へ行、田の畔に有。不絶清水も流るゝ。
    〇秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰
 同所家中、桃酔興行。
    〇來る雁の力ぞ那須の七構」(舞都遲登理)

 行きは那須湯本から真っすぐ白河に行ったため通らなかった遊行柳は、帰りに立ち寄った。

 秋暑しいづれ芦野ゝ柳陰     桃隣

 この句も、

 道のべに清水流るる柳蔭
     しばしとてこそたちどまりつれ
             西行法師(新古今集)

の歌の「柳蔭」を拝借している。夏ではないが残暑厳しく、芦野の遊行柳の柳陰でしばし涼をとる。

 來る雁の力ぞ那須の七構     桃酔

 「七構(ななかまえ)」の意味がよくわからない。桃隣が来てくれたところで、秋になって雁が飛来したみたいに元気づけられる、というのはわかる。七構は七つの(たくさん)のもてなしということか。
 桃酔は芦野の人で、『陸奥衛』に、

 春雨や寝返りもせぬ膝の猫    桃酔

の句がある。まあ、雨の日のネコはとことん眠いという、そういうタイトルの加藤由子さんの著書もあったが。
 他にも、

 温泉(ゆ)に近く薬掘たき芦野哉 桃酔

と地元を詠んだ句もある。

 「喜連川、庚申に泊合て、
    〇御所近く寐られぬ秋を庚申」(舞都遲登理)

 喜連川(きつれがわ)は奥州街道の宿場で、芦野からだと、鍋掛、大田原、佐久山の次になる。その先は氏家、白沢、宇都宮になる。

 御所近く寐られぬ秋を庚申    桃隣

 喜連川藩は足利家の末裔の喜連川氏が治めている。ウィキペディアによると、

 「頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府からの受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。」

とのこと。「御所近く」の御所は喜連川氏のことで、喜連川氏のお膝元で、寝られぬ夜を過ごしました。なぜなら庚申の日だったから、といったところか。御所号は皇族、大臣、将軍に準じる大変な称号だった。
 庚申待(こうしんまち)についてはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事。この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。《季 新年》」

とある。

 「宇津宮へかゝり、社頭に登て叩首に、額日光宮と書り。二荒を遷敬し奉るけるにや。
    〇笠脱ば天窓撫行一葉哉」(舞都遲登理)

 宇都宮には下野國一之宮、宇都宮二荒山神社がある。日光の二荒山神社との関係は今を以てしてもよくわかっていない。日光の方は「ふたらさん」と読み、宇都宮の方は「ふたあらやま」と読む。起源も祭神も違う神社だという。
 ただ、ウィキペディアによると、「江戸期には日光山大明神と称されたこともあり」とあり、桃隣が訪れたときには日光宮の額がかかっていたのだろう。江戸時代のことだから東照宮にあやかったということは考えられる。
 叩首には「つかづく」とルビがふってあるが、「ぬかづく」の間違いではないか。

 笠脱ば天窓撫行一葉哉      桃隣

 「天窓」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に「あたま」と読んで「かしらの頂」を意味する用法があるようだ。「あたまなでゆく」なら字余りにならないし、意味も分かりやすい。
 笠を脱いで頭を地にすりつけて参拝すると、頭の上に一枚の葉が落ちてくる。何かそれはありがたい徴なのだろう。

 「小山に宿ス。七夕の空を見れば、宵より打曇、紅葉の橋も所定めず、方角を知べきとて、月を見れば影なし。力なく宿を頼、三寸を求め、牽牛・織女に備へ、間なくいたゞきてまどろみぬ。
    〇又起て見るや七日の銀河」(舞都遲登理)

 宇都宮からは日光街道になる。雀宮、石橋、小金井、新田と来てその次が小山宿になる。
 折から七夕だが夕方から雲が出て月もなく三寸(みき)つまり酒を飲んでうとうとしていた。

 又起て見るや七日の銀河     桃隣

 銀河は「あまのがわ」と読む。「又起て見るや」は疑いの「や」で、多分そのまま寝ちゃったのだろう。
 今の七夕は新暦になって梅雨に重なるため雨になることが多いが、旧暦の時代は逆に秋雨の季節が始まって雨になることが多かった。等躬撰の『伊達衣』に、

   名月はいかならん、はかりがたし
 七夕は降と思ふが浮世哉     嵐雪

の句がある。
 ただ、この年元禄九年の七月七日は新暦の八月四日なので、夕立だったか。寒冷期だから今の気候の感覚とは違うかもしれないが。

 「淺草に入て、はや江戸の氣色、こゝろには錦を着て、編綴の袖を翻し、觀音に詣ス。
    〇手を上ゲて群衆分ケたり草の花
 草扉はそこほれ、破れ果て、蜘蛛は八重に網を圍ふ。
    〇盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ
     子
      仲秋中旬」(舞都遲登理)

 さて、ついに江戸に帰ってきました。編綴(へんてつ)の袖は継ぎはぎということか。ぼろは着てても心は錦というところで、浅草観音に詣でる。

 手を上ゲて群衆分ケたり草の花  桃隣

 群衆は「くんじゅ」だろう。陸奥を旅して帰ってくれば、江戸の人の多さに圧倒されたに違いない。旅の前はそれが当たり前だったけど、長い旅のあとだとその人混みも懐かしい。
 家に帰ってくると、長いこと留守にしていたので、あちこち破れて蜘蛛の巣で埋まっている。桃隣の家は日本橋橘町にあったという。今の東日本橋三丁目だという。

 盂蘭盆や蜘と鼠の巢にあぐむ   桃隣

 「あぐむ」は「倦む」と書き、嫌になるということ。
 最後に日付が入るが子年(元禄九年)仲秋になっている。帰ってきて一か月後には書き上げたようだ。

2020年10月27日火曜日

 今日は『天野桃隣と太白堂の系譜並びに南部畔李の俳諧』(松尾真知子著、二〇一五、和泉書院)が届いた。取り合えず桃隣が日本橋橘町に住んでいたことが分かった。著者は一九六一年の生まれだから鈴呂屋とタメ。桃隣の太白堂は今も続いていて十三世がいるという。
 さて、この辺でまた「舞都遲登理」の続き。前回は羽黒山に到着したので、これから月山と湯殿山を経て立石寺に。

 「湯殿山へ登るに、麓は晴天、山は雨、漸月山ニ詣て、雪の嶺牛が首と云岨に一宿。
 早天湯殿院へ詣ス。諸國の参詣、峯溪に滿々て、懸念佛は方四里風に運び、時ならぬ雪吹に人の面見えわかず。黄成息を吐事二万四千二百息。」(舞都遲登理)

 芭蕉や曾良は南谷から月山に登り、山頂付近の角兵衛小屋に泊まり、翌日湯殿へ行って戻って南谷へ戻った。桃隣もまた月山に登ったが、この日は雨で何も見えなかっがのだろう。
 麓は晴れていても山には雲がかかり雨が降ることはよくある。待った割にはいい天気とは言えないが、滞在期限が来てしまったか。
 月山の山頂付近は「雪の嶺」で、そこから湯殿山方面に少し降りると牛首小屋がある。曾良の『旅日記』にも、

 「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。」

とある。ここで一泊した。
 翌日、朝早く湯殿山に向かう。大勢の参拝客が訪れていたが、水無月だというのに季節外れの吹雪で人の顔も分からないほどだったという。今では考えられないことだが江戸時代の寒冷期にはこういうこともあったのだろう。
 「懸念佛」は「掛念仏(かけねんぶつ)」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 =かけねんぶつ(掛念仏)
  ※俳諧・口真似草(1656)一〇「つつしんできくや言葉の申次、談義のあとに又かけ念仏(ネフツ)〈信徳〉」
  〘名〙 念仏講などの講中で、鉦(かね)や木魚をたたき、高声で掛け声して念仏を唱えること。かけねぶつ。
  ※浮世草子・本朝桜陰比事(1689)三「大鉦うち鳴して掛念仏(カケネンブツ)申すを法花のかたより是を嫌ひ」

とある。
 「黄成息を吐事二万四千二百息。」というのは、よくわからないが白い息をはあはあしてたということか。

 「抑御山は靈現あらたにして、神秘の第一也。嶮莫の峯天をつらぬき、雪の花は常盤の枝をささえ、二丈の氷硲峒にしたたり、銀竹は瀧の俤をなす。樹は地に伏て、共に穿つ。草は土中に薶瘞ス。其氣色全臘月のごとし。兩權現の外、靈地の奇瑞、人々の踊躍の歡喜をなし、一度詣ては年々思をかくるが故に、戀の山とは申也。堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。いよいよ敬て、つゝしむべきは此御山成けらし。
    〇大汗の跡猶寒し月の山
    〇山彥や湯殿を拝む人の聲
      曾良登山の比
    〇錢踏て世を忘れけり奥の院」(舞都遲登理)

 「嶮莫」の莫には山偏がついているが、フォントが見つからなかった。「硲峒」の「硲」は谷間のこと。「銀竹」はつららのこと。
 月山の山頂には雪の花が咲き、二丈(約六メートル)の氷が谷の洞窟にあり、つららは瀧のようだという。
 「薶瘞(はいえい)」は埋もれること。木は地に伏すように生え、草は土に埋もれ、その景色は十二月(臘月)のようだという。
 「戀の山」とは言っても性的な意味はない。このような恋の用法は、元禄二年九月の「はやう咲(さけ)」の巻の十三句目。

   書物のうちの虫はらひ捨
 飽果し旅も此頃恋しくて     左柳

にも見られる。
 「堅秘密の御掟、尊き千品語ル事不叶。」は湯殿山のことだろう。『奥の細道』にも、

 「惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。」

とあり、

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな   芭蕉

の句が詠まれている。

 大汗の跡猶寒し月の山      桃隣

 月山に登るには大汗をかくが、動くのをやめると途端に寒くなる。

 山彥や湯殿を拝む人の聲     桃隣

 湯殿山には大勢の人が参拝に来ていて、その声が湯殿山に木魂している。

 錢踏て世を忘れけり奥の院    曾良

 これは『奥の細道』の旅の時の句で、曾良の『俳諧書留』には、

 錢踏て世を忘れけりゆどの道   曾良

になっている。『奥の細道』では、

 湯殿山銭ふむ道の泪なみだかな  曾良

に改められている。

 「登り下り凡十五里也。御山への登り口、都て七口、尊き光を得て、幾かの人民身命を繋ぎ、國豊なり。しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。此所より廿丁東、チトセ山をのづから松一色にして、山の姿圓なり。麓に大日堂・大佛堂、後の麓ニ晩鐘寺、境内に實方中將の墓所有。佛前の位牌を見れば、
 當山開基右中將四位下光孝善等
 あこやの松、此寺の上、ちとせ山の岨に有けるを、いつの比か枯うせて跡のみ也。はつかし川は、ひら清水村の中より流出る。ちとせ山の麓也。
    〇秋ちかく松茸ゆかし千載山
      最上市
    〇野も家も最上成けり紅の花」(舞都遲登理)

 「登り下り凡十五里」は手向町より湯殿山まで十五里ということか。登り口は都(すべ)て七口あるという。
 今の登山コースでも、湯殿山口、羽黒山口、肘折口、岩根沢口、本道寺口、志津口、装束場口の七口になっている。
 「しづと云へかゝりて、山形の城下へ出ル。」とあるように、桃隣は志津口へ下り、山形城下へ出た。
 志津口は牛首から南へ下るコースで、寒河江川に出る。今はダムがあって月山湖になっている。寒河江川に沿って下れば天童に出る。そこを南へ行けば山県の城下に出る。
 千歳山は山形城の南東になる。円錐形のきれいな形の山で、全山が松に覆われているという。南側の麓に平泉寺大日堂がある。大仏堂もかつては存在していたらしく、山形市のホームページによれば、

 「実は、かつて千歳山に大仏がありました。寛文12年(1672年)、山形城主であった奥平昌章公は、千歳山の南側に大仏殿六角堂を建立し、木造の巨大な釈迦如来を納めました。その大仏は約9メートルもあったといわれています。残念ながらその後、火災で消失してしまいました。
 現在の山形市でもその片りんを見ることができます。江戸時代末期に大仏の再建が試みられましたが、頭部のみの制作にとどまりました。作られた頭部は現在、平清水にある平泉寺の大日堂に納められています。」

とのこと。
 晩鐘寺は今の萬松寺(ばんしょうじ)のことであろう。千歳山の北側の麓にある。阿古耶姫と実方中将、十六夜姫の墓が並んでるという。
 あこやの松は『平家物語』にも出てくるし、謡曲『阿古屋松』にもなっている。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「謡曲。脇能物。廃曲。世阿彌作。陸奥の阿古屋の松に案内された藤原実方の夢の中に塩釜の明神が現われ、松の徳をたたえる。」

とある。

 みちのくの阿古屋の松に木隠れて
     出づべき月の出でもやらぬか
              よみ人知らず(夫木集)

の歌にも詠まれている。
 はつかし川は平泉寺の方を流れる小さな川で、今でも平清水という地名が残っている。これも十六夜姫の伝承に属するもので、

 いかにせん写る姿はつくも髪
     わが面影ははずかしの川

という十六夜姫(中将姫)の歌が伝わっている。
 そこで桃隣も一句。

 秋ちかく松茸ゆかし千載山    桃隣

 松がびっしりと生えている千歳山を見て、やっぱり松茸食べたいなと思うのが俳諧だ。

   最上市
 野も家も最上成けり紅の花    桃隣

 芭蕉は尾花沢で紅花を詠んだが、最上市も紅花の産地。最上(もがみ)の名に最上(さいじょう)を掛けて詠む。曾良の『俳諧書留』には、

   立石の道にて
 まゆはきを俤にして紅ノ花    翁

とある。尾花沢から立石寺に行く間に詠んだ句であろう。

 「寶珠山・阿所川院・立石寺 所ノ者は山寺と云 城下ヨリ三里、慈覺大師開基。山ノ頂上ヨリ曲峒の立石、碧落に登テ、雲頭ヲ蹈ム。嶮難百折ノ靈地、仍、立石寺と名付給ふ。
 對面石・文殊堂・藥師堂 毘沙門天傳教大師・金剛鰐口、是は主護義光朝臣寄進也。清和天皇御廟・三王權現 三月廿五日祭禮近郷氏神・常行念佛堂 此本尊彌陀・御手洗 則阿所川・御枕石・眞似大師御手掛石・無手佛。半途ニ十王・奥院 三十番神十羅刹女・獨鈷水・骨堂・寶蔵・胎内潜・十王堂・印ノ松・慈覺堂・經堂・五大堂・白山堂・地蔵堂・不動堂・十八坊・天狗岩・タチヤ川。
    〇閑さや岩にしみ入蟬の聲  芭蕉
    〇山寺や人這かゝる蔦かつら 仙花
    〇山寺や蔦も榎木も皆古風  風仙
    〇山寺や岩に屓ケたる雲の峰 桃隣」(舞都遲登理)

 立石寺は宝珠山阿所川院立石寺という。立石寺は古代日本語の音ではリプシャクジだったのだろう。それがリッシャクジになって今に残っているが、京の方では「ふ(ぷ)」の音が音便化してリウシャクジになったと思われる。山寺という名でもよく知られている。
 碧落は青空のことで、天に向かって聳える切り立った岩にこのお寺は作られている。
 対面石は山寺観光協会のサイトによると、

 「慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられ、狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。」

という。仙山線山寺駅から山寺へ向かってゆくと、立谷川を渡る宝珠橋の向こう側にこの対面石がある。
 「文殊堂」は今はないのか、よくわからない。
 薬師如来は立石寺の御本尊なので、「藥師堂」は根本中堂のことか。木造薬師如来坐像は十二世紀の平安時代のものとされている。
 「毘沙門天傳教大師」は木造毘沙門天立像のことであろう。九世紀、立石寺開基の頃のものとされている。これも根本中堂にある。金剛鰐口も根本中堂にある。鰐口はお祈りするときにカーンとならすあの円盤状の鐘で、最上光直が兄の義光の長寿息災を祈って寄進したという。
「清和天皇御廟」は今はないのか御宝塔だけがある。立石寺の開基は清和天皇の勅願によるものとされている。
 「三王權現」は山王権現のことで、根本中堂の脇にある日枝神社のことであろう。旧暦の三月二十五日に祭礼が行われる近隣の人々の氏神様だった。
 「常行念佛堂」は山門の前にある念仏堂のこと。御本尊はにっこり笑顔の「ころり往生阿弥陀如来」。
 「御手洗 則阿所川」は阿所川という川があって、そこが御手洗だということか、これもよくわからない。
 山門を入って少し行くと姥堂があって、山寺観光協会のサイトによると、

 「ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、そばの岩清水で心身を清め、新しい着物に着かえて極楽の登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納する。」

とあるが、ここが御手洗かもしれない。
 「御枕石」は御休石のことか。慈覚大師が腰を下ろして休んだと言われている。奥院へ登ってゆく道の途中にある。
 「眞似大師御手掛石」はそれよりやや手前にある御手掛石のことか。
 「無手佛」はよくわからないが、宝物館にある右肩以下が失われた阿弥陀如来立像か。
 「十王」は仁王門にある。ここをくぐれば「奥院」になる。もっとも今の仁王門は嘉永元年(一八四八年)に再建されたもので、桃隣の頃のものではない。
 ここまでの凝灰岩の岩肌には、板碑型の供養碑・岩塔婆が数多く刻まれている。姥堂で服を着替えるのは、ここから先があの世だという意味があり、その上にあるこの巨大な岩すべてが死者の霊の弔う墓石ともいえる。
 芭蕉の、

 閑さや岩にしみ入蝉の声     芭蕉

の句もまた、この岩にはかなく死んでいった無数の蝉のような命がしみ込んでいるのを感じたのであろう。宿に荷物を置いて夕暮れ時に訪れ、芭蕉が聞いた蝉は、おそらく悲しげなヒグラシの声だったと思われる。
 「三十番神十羅刹女」は奥院如法堂に安置されている。
 「獨鈷水」は慈覚大師が独鈷で突くと水が湧き出したといわれる湧き水で、奥院如法堂の前にあったという。
 「骨堂」は死者の遺骨の一部を立石寺奥院に納める習慣があり、そのための納骨堂であろう。
 「寶蔵」も昔は奥院にあったのだろう。今は根本中堂の方に立派な宝物殿が建っている。
 「胎内潜」は仁王門からそれほど行かないところにある胎内堂で、岩の迫る道を這って進む胎内潜りができる。
 「十王堂」はよくわからない。仁王門の所にあったという説もある。
 「印ノ松」もよくわからない。松の木だったら既に枯れてしまったか。
 「慈覺堂」もよくわからない。今の開山堂の所にあったか。開山堂は嘉永四年(一八五一年)に再建された。
 「經堂」は開山堂の横の岩の上に建つ小さな納経堂のことか。
 「五大堂」は五大明王を祀る堂で、開山堂の先にある。
 「白山堂」は五大堂のそばにある白山神社のことであろう。
 「地蔵堂」はよくわからない。
 「不動堂」もよくわからない。
 「十八坊」もよくわからない。
 「天狗岩」は五大堂の先にあるという。
 「タチヤ川」は下を流れる立谷川で間違いないだろう。

 閑さや岩にしみ入蟬の聲     芭蕉

これはもういいだろう。

 山寺や人這かゝる蔦かつら    仙花

 山寺の急な石段に人は這うように登り、岩には蔦がからまっている。仙花は仙化のこと。

 山寺や蔦も榎木も皆古風     風仙

 蔦や榎に限らず、ここではすべてが古風に見えるということだろう。

 山寺や岩に屓ケたる雲の峰    桃隣

 「屓ケたる」は「負けたる」で、山寺の切り立つ岩は雲の峰にも勝る。

2020年10月26日月曜日

  「分断」という言葉は基本的に左翼系の人たちの使う言葉で、多分この言葉は「労働者階級を分断する」という意味だったのだろう。労働者と資本家は最初から階級闘争で敵対関係だから、元々ここに分断はない。
 冷戦終結で社会主義への関心が薄れ、労働者と資本家を敵対的に捉える人も少なくなり、また起業や投資による資本への参加が容易になったことで、労働者と資本家との境界もあいまいになった。こうした風潮に対し、あくまで昔ながらのプロレタリアを貫く人との間に、いわゆる「分断」が生じたのではないかと思う。
 マルクスの時代の労働者階級は『資本論』の分析のように、資本の利潤を受けられず、仲間外れ(疎外)にされて、絶対的貧困を強いられていたが、戦後の高度成長を経て労働者の貧困が「相対的貧困」にすぎなくなったあたりで、労働者の間に中流意識が生じ、労働者と資本家との境界意識が薄れた層と、相対的貧困でもあくまで資本主義の矛盾として革命による解決を求める層とに分裂していった。
 今となってはあまり階級を意識せずに国民としての一般的な意識で生活する人の多い中では、あくまで階級闘争に固執する人たちの方が「分断」を煽っているように見える。ただ、左翼の側からすると、資本家が労働者の一部を取り込んで労働者を分断しようとしているというふうに映るのだろう。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   萩とぞ思ふ一株の萩
 何事も盆を仕舞て隙に成     此筋

 お盆が終わって精霊棚やなにかを片付けてしまうとすることもなく、それまで目に留まらなかった萩が咲いているのが目に入る。
 三十二句目。

   何事も盆を仕舞て隙に成
 追手も連に誘う参宮       曾良

 お盆の前は大晦日同様つけや借金を取り立てる。済んでしまえば取り立てに来た人も誘ってお伊勢参りに行く。
 三十三句目。

   追手も連に誘う参宮
 丸腰に捨て中々暮しよき     残香

 宮本注には「武士の身を捨てて、かえって気楽なさま」とある。
 お伊勢参りも格式ばらずに気ままに物見遊山を兼ねた旅ができるのは庶民の特権だった。
 ただ、武士の身分を捨てて困るのは仕事だろう。絵だとか俳諧だとか医者だとか、何か芸がなければ「暮しよき」とはいかなかっただろう。
 三十四句目。

   丸腰に捨て中々暮しよき
 もののわけ知る母の尊さ     木因

 武家身分を捨てても母の援助を受ければ「暮しよき」にはなるか。
 三十五句目。

   もののわけ知る母の尊さ
 花の蔭鎌倉どのの草まくら    如行

 鎌倉殿は鎌倉の将軍のことだが、この場合源実朝のことで、母は北条政子か。政治は母や北条義時に任せ、和歌を好み旅をした。ただその末路は…。
 挙句。

   花の蔭鎌倉どのの草まくら
 梅山吹にのこるつぎ歌      斜嶺

 「つぎ歌」は上句に下句を付けるだけの鎖連歌以前の短連歌のことであろう。
 山吹といえば、

 山吹の花の盛りになりぬれば
     井手のわたりにゆかぬ日ぞなき
               源実朝(金塊集)

の歌がある。

2020年10月25日日曜日

  核兵器禁止条約の批准国が条約が発効する条件に達した。それはそれでいいことだと思うが、問題はこういう運動を推進している人たちが批准しない国を敵視しがちなことだ。
 核戦争なんて誰も望んではいない。自分がやられちまうからね。ただ、核廃絶へのプロセスは一つではない。核兵器禁止条約は一つの方法にすぎない。
 現実に北朝鮮の核開発をやめさせるには、アメリカの核には勝てないということで脅しをかける手段も必要になる。最終的に核をなくすには、あらゆるプロセスの可能性を試す必要があるので、その段階で敵味方に分かれて争ってはならない。
 鈴呂屋は平和に賛成します。そして核のない世界を望みます。
 それでは「はやう咲」の巻の続き。

 二十五句目。

   烏帽子かぶらぬ髪もうすくて
 冬籠物覚ての大雪に       左柳

 髪の薄くなった老人が物心ついて以来初めての大雪だというのだから、五十年に一度、百年に一度の大雪か。江戸時代は寒冷期で、桃隣の「舞都遲登理」によれば元禄九年の東北の栗駒山(1626m)は水無月でも雪があったし、湯殿山に行ったときは吹雪だったという。
 地球は今でも小氷河期に向かって寒冷化していると言われているが、十九世紀からそれをはるかに上回る炭酸ガス濃度の上昇による温暖化が起きて、未曽有の温暖期になっている。
 二十六句目。

   冬籠物覚ての大雪に
 茶の立やうも不案内なる     文鳥

 前句の「物覚て」を物心ついての意味ではなく、茶道を覚えたばかりでという意味に取り成したか。冬籠りで雪となれば、師匠の所に行けず、練習不足になったのだろう。
 二十七句目。

   茶の立やうも不案内なる
 美くしう顔生付物憂さよ     越人

 美少年でちやほやされてきたのか、茶の立て様も厳しく指導してくれる人がいなかったのだろう。肝心な時に恥をかく。
 二十八句目。

   美くしう顔生付物憂さよ
 尼に成べき宵のきぬぎぬ     路通

 女もなまじっか美人に生まれると、悪い男にたかられてしまうものだ。美人だから幸せになれるとは限らない。
 二十九句目。

   尼に成べき宵のきぬぎぬ
 月影に鎧とやらを見透して    芭蕉

 透けて見えるのは亡霊だ。残念ながら主人は戦死しました。明日からは尼です。
 三十句目。

   月影に鎧とやらを見透して
 萩とぞ思ふ一株の萩       荊口

 亡霊の正体見たり一株の萩。ちなみに、

 化物の正体見たり枯尾花     也有

の句はこれより百年後の天明の時代になる。「松木淡々がおのれを高ぶり、人を慢(あなど)ると伝え聞き、初めて対面して」(俳家奇人談)詠んだとされている。淡々を化け物のような人だと思っていたが、会ってみたらしょぼくれた爺さんで枯尾花だったというのが本来の意味。それが後になって「幽霊の」に上五が変わってしまい、今の意味になった。
 ネット上では例によってこういう有名な句を芭蕉に仮託する人がいるようだが、フェイクです。また也有の『鶉衣』にこの句はありません。

 笠もたで幽霊消るしぐれ哉    也有

の句ならあるけど。